機動戦士ガンダムUC バタフライ・エフェクト   作:しゃくなげ

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Old Promise

 ジンネマンとバナージが砂漠へ出発してから、どのくらいだったろう。

 備品の整理や機材の整備、その他もろもろの雑務をこなしていた最中だったのは覚えている。

「あー、もう、あっつい! あー、お風呂入りたい!」

 そういって、ユイがとうとう音を上げた。

 ガランシェール隊の面々は、マリーダとユイを除いて全員が男性だ。全裸とまではいかなくても、それこそ、肌を見せることだって慣れきっている。

 そんな男連中はつなぎの上半分を脱いでしまって肌着姿になっているわけだが、ユイはさすがにそうもいかない。

 メカニックの手伝いもあるから首から下を隠すのは当然なのだけれど、砂漠の暑さには対応しきれない様子だった。

 ときおりファスナーを下ろしているものの、ひとに見られないように気をつかっているものだから、心配なのは熱中症だ。

「飲み水で入浴ってわけにもいかないし、がまんするしかないね。水分補給は忘れるなよ」

「そういうの、今じゃ私の方が詳しいんだよ、もう。いつまでもこども扱いするんだから」

 不満そうな口ぶりでいるけれど、ユイの口角は気持ちあがっている。心配されるのがうれしいのだと、なんとなくだけど、わかる。

「ところで、それ」

「どれ?」

「その髪型。ひさしぶりに見たよ」

 いつもはひっつめに束ねている髪を、今日は後頭部で結っている。長い尾のように揺れる様子が、なつかしくて、愛おしい。

「ああ……こどもっぽいからさ、もうね。この歳になると、抵抗あってさ」

 君には、似合っているのに。

 言葉にはせずに、見つめる。たぶん、きっと、伝わった。耳の先が、少しだけ赤らんでいく。

「ジンロウ、それより、体調は? その、中に熱がこもったりとか、平気?」

 口調は、照れ隠しのように少しだけ早口。質問への回答は、どうだろうと考える。

「今のところ、異変はないよ。この状況で四日間は未経験だから、なにかあったらすぐに伝える」

「そうして。どんなに小さなことでも、絶対に言ってね。……体温調整とか、できないでしょ。汗腺とか、ないものね」

「ああ、便利なようで、不便だ」

「おーい、ふたりとも!」

 呼びつける声に、ふたりで同時に振り返る。

 ユイは慌ててファスナーをのどまで引き上げて、あまりの暑さに形のいい眉をさげる。

「はーい、今行きます!」

「力仕事かい、それなら僕だけでやれるけれど」

 ざくり、と砂を踏みながら、前へ。

 一歩ごとに足が埋まるような感覚は、宇宙では味わうことのない奇妙なものだった。

 

 昼間の暑さとは打って変わって、砂漠の夜はとにかく冷えるらしい。

 船の中で休息するにしても、冷房や暖房の類はなるべく節約したいというのがクルーの総意だ。だから昼間も暑さとの戦いだし、夜は寒さとの戦いになる。

 大昔のように火を焚いて、身体を冷やさないように温める。それは、宇宙空間では味わうことのない初めての経験だ。

「固形燃料ってやつの存在意義が、理解できた気がする」

 見渡す限りの、砂の海。

 薪のような燃料の現地調達などもってのほかで、だからこそ、備品庫に保存されていた立方体の出番がやってくる。

 ゆらゆらと風にあわせて動く赤い火は、夕焼けの陽射しに溶けてしまう。残照が濃紫に染まっていくころには、焚き火の明るさが感じられるようになっていった。

「おっ、ちゃんとつけられたか。失敗しなかったな、感心感心」

「説明書のとおりにやれば、誰でもできるよ」

「そうは言うがね、アレクは昔、失敗してるんだぜ」

「おいやめろ、あれは雨のせいだろ」

 口々に好き勝手を言いながら、見知った顔が焚き火に集う。ひとの過去を聞きながら、一歩ばかりうしろへ退がる。

 僕の身体は幸いなことに、暑さ寒さをものともしない。皆が体調を崩すような温度差にも、うまく適応できるはずだ。

「よく燃えるね、火の勢いも強い」

「酸素が貴重な宇宙じゃ、まず使えない代物さ。俺だって、ひさしぶりに使ったくらいだからな」

 手のひらに収まるほどの立方体は、赤々とした花を咲かせる球根のよう。ひざ丈にも届きそうな炎が目の前で揺らめく光景は、スクリーンに映し出される映像とは違って、とても幻想的に感じる。

「ねえちょっと、食事の準備、誰か手伝ってよ! 私だけじゃ、手が足りない!」

「おっと、このままじゃ怒られそうだ」

「いい、僕が行くよ」

 ユイの呼び声に、ガランシェールへと戻る。冷えた砂を踏むさくさくした感触が、心地いいものに思えてくる。

「ごめん、待たせた。缶切りかな、それとも運搬かな」

 もう、とわかりやすい、芝居がかったようなユイのため息。ペースト状の栄養食は、バナージに出したやつと変わらない、一般的な品物だ。

 僕のあとをつけて覗きにきたらしいフラストは、皿の中身を見てあからさまにいやそうな顔をする。

「まずいんだよな、これ」

「文句言わないの、大人でしょ。ほらふたりとも、つまみ食いしていいから皆のところに持っていってよ」

 わかったわかったと、フラストは慣れた様子でスープ皿を運び始める。僕もそれにならって、皆の元へと食糧を運ぶ。

 さくさくと、砂を踏む。

 ふたりの足音は、当然だけれど、少しずれて二重に聞こえる。

 しばらくの間は、特になにを話すでもなく淡々と。話しかけられたのは、二往復を始めるころだ。

「あいつ、バナージ。ひねくれてるかと思ったらそうでもなくてよ、殴る気も失せちまった」

 ああ、そうか。それは、きっと、とてもいい。

「それがいい。うん、それがいいよ、フラスト」

 少しだけ、考える。フラストが話した意味だとか、バナージの無事だとか。キャプテンと一緒なら、バナージのことは心配しなくてもいいだろうけれど。

「殴ったって納得できないだろ、おまえ。くやしくて、頭にきて、なのにやり場がないだけでさ」

「そうだな、そうかもな。ギルボアは、いいやつだったよ。キャプテンの下で、長いことやってきたからな」

「面倒見がいいのはわかる。もう少し、話せばよかったって思うんだ。袖付きは二年になるけど、それって所属だけだろ。僕とユイが乗り込んで、半年だっけ」

「八ヶ月だな。話すようになったのがもう少しだから、半年ってのも間違いじゃない」

 空を仰ぐ。

 宇宙とは違って、星は頭上にしか見えない。月だって半分も見えなくて、とても小さい。

 地球はあまりにひさしぶりで、初めてみるような心地だった。

「……立ち聞きする気はなかったがよ、聞こえちまってさ。おまえも、面倒見がいいじゃねえか。怨念がどうこうって、あのときの話だろ?」

 満天の星は、思っていたよりも、ずっときれいで。

「……そうだよ、そうだ、あのときの話さ。僕が助けてやれなかった、ばかな友達の話だ」

 どこまでも広がる静かな砂漠が、もしかしたら、口を軽くしたのかもしれない。

「僕がうまくやれなかったから、あいつは呑まれてしまった。ばかで、弱虫で、泣き虫だったのに、あんなになってさ。……怨念ってやつは、怖いなって、今でも思う。だから、呑まれてほしくない。ユイにも、マリーダにも、バナージにも、……おまえにも、キャプテンにも、皆、呑まれてほしくない」

 そうだなと、フラストはつぶやく。

 さくりさくりと、靴底で砂がこすれる。

「ひどい目に遭ったから、やり返して、ひどい目に遭わせてよ。自分のことも、大事なものも、全部わからなくなっちまって。そうやって考えると、確かにおっかねえよな、怨念ってやつはさ」

「ああ、とても、とても怖い。だからさ、なあ、フラスト。おまえも、皆も、呑まれるなよ。バナージだけじゃないんだ、僕はもう、あんなものを見たくない。……見ているのは、やっぱりさ、辛いんだ」

 焚き火では何人かが食事を始めていて、僕らの到着に残ったやつらが手を伸ばす。ひなどりに食事を与える親鳥は、こんな感じなのかもしれない。

 思いもしなかった会話を思い返すと、なんだか、気恥ずかしくなる。

 普段は軽口を叩いて僕をからかうフラストのやつも、なんだか神妙な顔をしている。

 三往復を終わらせて、ようやく全員に皿が行き渡ったらしい。

「お疲れさま、ありがとね」

「君こそ、お疲れさま」

「おう、俺も混ぜろよ、ふたりの世界に入るな入るな」

「ちょっとフラスト、邪魔しないでよ」

 作戦行動中に、変わりはないけれど。

 ユイと一緒に、皆と一緒に。

 ひさしぶりのにぎやかな食事は、なんだかとても、楽しかった。

 

 帰ってきたとさけぶ声は、四日目の明け方に。

 ちょうど空が白み始めて、太陽が登ろうと顔を出し始めたころだ。

 キャプテンもバナージも変わりなく、それを喜んでいる自分に気づいてふしぎな心地になる。

「あの」

 不意に、声をかけられる。

 振り返れば、視線がぶつかる。少し疲れた様子の、けれど元気そうなバナージの顔。

 こういうときに、なにを言おうか。僕の会話の基本は、いつだってユイとのやりとりが参考だ。

「おかえり。無事で、よかったよ」

「ありがとう、ございます。……キャプテンとも、話せました。あれ、あのひとに言われたんですね。やせ我慢」

「ああ、ばれたか。そうだよ、キャプテンの受け売り。ほかにもあるけどさ、やっぱり大人ってすごいなって思うよ。いろんなものを見てきたんだろうなって」

「そう、ですね。哀しいことも、きれいなものも」

 バナージの顔に、さびしげな、切なそうな、苦しそうな色が浮かぶ。

 きっと、知ったのだろう。ガランシェール隊の、誰も彼も。それこそキャプテンだって例外なく、連邦の人間に怨念があるってことを。

 戦争で生まれた怨念が、今もまだ、皆の中にあるってことを。

「それでも、僕は彼らが好きだ。ああ、そうだね、好きなんだ。僕らに親切にしてくれた大人たちを、好きでいたい」

「俺も、そう思います。ガランシェールの皆を、敵だからとか、そういう理由で拒絶したくない。いつか、ひとつになれるって、そう思いたい」

「ああ、そうだね、そうなるといいな。バナージ、おまえの言葉、素直にうれしいよ」

 なにを言うでもなく、バナージは手を差し出してくれる。まずはここから始めましょうと、そんなふうに感じられる笑顔で。

 握り返すときは、細心の注意を払うのがいつものこと。ひとの骨はもろいから、握りつぶしてしまわないように。

 僕の手よりも小さなそれは、けれど、僕の手よりも温かい。生きているんだと感じさせる、温度がある。

 悪意のない握手というものは、悪くない心地で、だからよけいに収まりが悪い。

「苦手な空気だ、これ」

「でも、だからって避けてばかりじゃいられない。……あのとき、話しかけてくれたこと、俺もうれしかったです。それから、さっきの『おかえり』も。遅くなりましたけど、……ただいま、おかげで無事に戻れました」

「ああ、くそ、おまえみたいなやつ、苦手だ」

 バナージが、笑う。

 これは、とても、やり辛くて、困る。

 地平線の太陽がやたらと美しく見えて、意識をうばわれたのが好機だ。握手をほどいて、ポケットの中へ隠すように手を押し込んだ。

「……さっさと寝ろよ、バナージ。仮眠して、体力を回復させておけ。また肉体労働だぞ、倒れるからな」

 結局そうやって、強引にこの空気から逃げ出すしか、僕には思いつかなかった。

 朝の軽作業に逃避先を求めようとしたものの、指示を出すキャプテンはとっくに船室に戻っていて、あろうことかフラストのやつがニヤニヤといやらしい笑みをこちらに向けている。

 まるでチェシャ猫気取りだ、あいつ。

「なにを見てるんだ、まぬけ面して」

 口をついて出た悪態は、まるっきりこどものそれで締まりがない。

 フラストもこっちの内心を見抜いているのか、ちっとも怒る気配がない。

 余裕綽々といった態度には、腹が立って仕方ない。

「いやいや、ようやく友達ができたかって親心さ」

 そんな僕に、フラストはあっちを見ろと指差すのだ。

 バナージのやつはわざわざほかのやつらにもあいさつをして、それからようやく船室へ戻っていく。

 ジオン残党のことを忘れてそっちにばかり意識がいくものだから、いよいよ僕も焼きが回ったというやつだろうか。

 戦争を楽しんでいた僕だったなら、きっと、こんなふうにはならなかったはずだ。

 この変化が、悪いものでないといい。

 今は、素直に、そう思う。

 

 ジオン残党の連中が合流したのは、砂漠の太陽が頭上に昇ったころだ。

 砂に埋まったガランシェールを引きあげる作業は、どうしたってモビルスーツやら重機やらが必要になってしまうから彼らの協力は不可欠だった。

 照りつける陽射しと暑さはやはりどうにもならなくて、ユイの口癖はすっかりと固定されてしまっている。

「あー、もー、おふろ。おふろ入りたい、ねえジンロウ、おふろ入りたい……」

「ユイ、暑さで脳が溶けてるよ。少し休もう、ほら、水分補給。……胸元は、さすがに開けられないか」

 そんなふうにしていると、お人好しはすぐに集まってきて、やいのやいのと騒ぎ立てる。

 なんだどうした大丈夫かと、ユイのことを心配してくれる。

「休ませてやんなよ、働きっぱなしだろう。男連中はそのためにいるんだ、人手不足にゃならないさ」

「そうそう、今やガランシェールの清涼剤だからな、ユイもマリーダも。倒れられたら、俺たちのやる気だってしおれちまう」

 正直に言って、ありがたい言葉だ。

 昔はどうして、こういうふうに気づかわれるのをわずらわしいと感じたのだろう。

 好意に甘えて、ユイの身体を背負う。

 引きあげが終わったら、船室で寝かせてやろう。

 目の前には、まるで博物館のような光景。

 一年戦争時代のモビルスーツが、綱引きのように船体につないだワイヤーを牽引する。ガランシェールが直立するまで、さほど時間はかからなかった。

 ふと、視線が一点に吸いよせられる。

 キャプテンと、バナージ。視線を交わすわけではないけれど、今までよりも空気がやわらかい。

 駆動音にかき消されてしまいそうなのに、ふたりの会話はふしぎとはっきり聞こえた。

「バナージ、礼を言う」

 静かで、おだやかな声。

 予想もしていなかったのだろう、バナージもおどろいている。

 風もなく、からりと晴れ渡った砂漠の下。ふたりのやりとりを、少し離れたところで見つめている。

 立ち聞きってやつが、どんな心境で行われるのか。フラストの好奇心が、少しだけわかった気がする。

「お前がいなかったら、俺も途中でへばっていたかも知れん」

「そんな……俺は足を引っ張っただけで……」

「意地を張りあう相手がいるってだけで違うもんさ」

 キャプテンとバナージの間に、この四日でなにがあったのかはわからない。ただ、ふたりの空気はどことなく、気持ちがいいものに感じる。

 そういうときに茶化して、空気をぶち壊すのは、いつだってあいつの役割で。

「またガランシェール隊に新メンバーですかい? キャプテンの悪いクセだ」

 ただ、今日はなんとなく、僕もそれに加わってみようと思える。

「フラスト、またってなんだ、またって。おまえ、僕たちのことを言いたいんだろ、それ」

 キャプテンは、照れているのか視線をどこかに逃がしている。バナージの表情は、なんとなく、どこか楽しげなものに見えた。

「おいなんだよ、おどろかせるなって。立ち聞きしてたのか?」

「おまえの悪癖がうつったんだよ。それより、ユイが暑さでやられそうだ。もう、作業は終わりそうかい」

「おっと、そいつは一大事だな。よーし! そこでストップ!」

 フラストのかけ声で、骨董品のモビルスーツたちは牽引の手を止める。

 やかましい駆動音が止まると、とたんに耳が痛くなりそうな静寂があたりを支配する。

 砂海の只中に立つガランシェールは、なぜだかいつも以上に頼もしく見えた。

 

「ありがと、だいぶ楽になった」

 船室で寝かせたあと、目覚めたユイはばつの悪そうな顔をして言った。

「熱中症ってやつだろ、無理はするなよ」

 ひたいに乗せていた冷却剤を除けながら、僕はいつものように答える。ほほの汗を拭いてやると、ユイはあからさまに照れて、いやがる。

「そのくらい、自分でできるって」

 けれど、本気ではないとわかっているから、止める気はない。介抱を少し続けると、おとなしくなにも言わなくなった。

「ふたりとも、無事だった?」

「ああ、キャプテンもバナージも、元気そうだった。道中でさ、話をしたみたいだ。最初のころより、やわらかくなってる」

「よかったね。心配してたでしょ、あの子のこと」

「……なんだよ、うれしそうにして」

「べつに。……うそだよ、うれしいの。ジンロウがさ、誰かのことを気にしてるのがさ」

 ああ、まったく、君までそういうことを。

「なに、みんなに言われてるの?」

「読むなよ」

「照れてる」

 うるさい。

 最後は、言葉にしないで伝えようと試す。ユイの笑みは消えないままだ、効果があったかどうかは、読みとれない。

 どうにもできず手づまりでいると、話題を変えてくれたのはユイの方だった。

「それより、移動してるんだね。例のやつ?」

「ああ、オーストラリアのトリントン基地だってさ」

 ラプラス・プログラムの示した座標は、連邦のトリントン基地だという。襲撃作戦には、ジオン残党軍の連中も加わっての制圧戦らしい。

「あまり覚えてないけど、いたよね、ふたり」

「合同作戦だそうだ」

 ずっと昔の軍服を、今でもかっちりと着込んでいた姿が印象に残っている。

 連中は、今でもまだ戦争の中にいるのだろうか。そう思わざるをえない、真っ直ぐすぎる執念を感じる。

 そういうものに意識を引かれそうになるたびに、君は、僕に触れてくれる。

「ねえ、立たせて。今さ、海の上なんでしょ?」

 細い指を、白い手を、壊してしまわないように握る。

 ガラス細工を触るよりも、ずっと緊張する。背中を支えると、ユイはひょいと軽快にベッドから身を起こす。

 ユイはそのまま手を引いて、僕を船室の外へ連れ出そうとする。肩越しに振り返る笑顔は、いつもよりも、ずっとうれしそうだ。

「わかるでしょ、ジンロウ」

 気持ちが伝わる、感覚。やわらかくて、温かくて、なんだかとても、なつかしい。

「ああ、そうか、そうだった」

「そうだよ、今しかないんだから」

 そこで、やっと、ようやく思い至る。

 思い至ったら、いてもたってもいられなくなる。ふたりで、手をつないだまま。船室を飛び出して、通路でも構わずに窓を探した。

「うわあ、すごい、青い! ねえ、青くて、すごくきれい!」

 窓を覗くユイの声が、弾んでいる。

 僕もそのとなりで、どこまでも広がる海の向こうへと視線を向ける。

「本当だ。青くて、濃くて、混ざってる」

 ずっと前の、約束だ。

 僕らの生活では地球があまりに遠すぎて、きっと叶わないだろうからと、忘れてしまっていた約束だ。

 プルテンと、そう彼女を呼んでいたころの、ふたりだけの約束だ。

「水平線だよ、ねえ、水平線だ。本当なんだね、本当に、空と海が混ざってる。ねえ、見てるんだよ、私たち、水平線を見てるんだ!」

 ユイが、泣いている。声が震えて、ほほが濡れて。それでも、心配する気持ちにはならない。

 喜んでいるのが、わかるから。心が揺り動かされて、涙という形で感情があふれ出しているだけだから、だから、心配する必要はない。

 そのかわりに、ユイの身体を抱き締める。背中から、包み込むように。細い指で僕のそでをつかまえて、ほほえんでいるのが見ていないのに感じられる。

 彼女が知りたがった、僕の好きなもの。広くて、なにもなくて、遮られない、静かなところ。戦争と関係のない、行ってみたいと感じるところ。

「やっとだね、やっとだよ、ねえ、私、うれしくて泣いてる。わかってるよね、わかるでしょ」

「ああ、わかる、全部、感じてる。やっと、やっと見られた」

 ずっと昔の、誰にも教えていない、約束。

 それを守れたこの瞬間を、きっと、僕はいつまでも覚えていられるだろう。

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