男は、地下鉄の駅でホームレスの少女に出会う。短く奇妙な共同生活を経て、ある日少女は突然姿を消す。

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艦娘を拾った日

1. 地下鉄の少女

 

 

 終戦の年の冬、駅構内は鉛の冷蔵庫みたいにすっかり冷えきっていた。凍てつくような夜だった。

 ほとんど無人となった改札の内側で、僕は唐突に立ち止まることになった。僕としては一刻も早く家に帰ってそのまま布団にもぐりこみたかったのだけれど、足を止めないわけにはいかなかった。ふと視界の隅に一人の少女を捉えてしまったからだ。

 少女は黒ずんだ地下通路の片隅で、じっと膝を抱えてうずくまっていた。やれやれ、と僕は思った。今朝の少女だ。午前八時、彼女は謙虚なマネキンのようにそこに座っていた。そして少なくとも朝から今に至るまでの間、彼女が一歩でも移動したようには見えなかったし、それどころか指の一本でも動かしたという気配さえなかった。

 今朝彼女を見かけた時には僕は通勤ラッシュの波に飲まれていたし、わざわざそれを抜け出して彼女に話しかけようという気にはならなかった。ホームレスが地下鉄にたむろしているというのは現代日本においてそれほど珍しい情景ではないし、半端に情けをかければ面倒なことになる。よくわかっている。

 

 しかしとにかく、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 とりあえず、僕は少女の目の前に立ってみた。特に何か考えがあったわけではない。彼女は身じろぎひとつせず、艶のない前髪のかげからじっと僕を眺めていた。そう熱心に眺められてしまうとこちらとしては顔が赤くなってしまうが、眺めているのはお互い様だった。彼女は見上げ、僕は見下ろしている。そして彼女が赤くなる気配はない。

 そうこうしている間に、彼女について───指摘しないわけにはいかないくらいには───奇妙な点を、僕はいくつか見つけることができた。まず彼女は一般的なホームレスと異なり、荷物らしい荷物をひとつも抱えていなかった。そして肩から羽織っているダッフルコートはすっかりうらぶれていたけれど、見たところ上等のもので、高価な上着に相応しい品のあるほころびかたをしていた。

 コートの裾からは少し痩せた生脚が覗いていて、それはまるで胃薬のように白く、見るからに寒々しかった。彼女の足元にはどこかで拾ってきたらしい空き缶(よく見ると秋刀魚の味噌煮だった)が置かれてあり、中には十円玉が三枚と五円玉(こんな状況で五円玉を入れるのは流石にちょっとどうかと思う)が一枚入っていた。その額は少なくとも、朝に見た時よりはいくらか増えていた。

 

「うちに帰らないの?」

 

 僕はみずからの声にいささかびくっとした。まさか話しかけるとは自分でも思わなかったのだ。

 

「………………した」少女が何か呻いた。

 

「え?」

 

「切符なくした」

 

 なるほど、と僕は思った。それで彼女は改札の内側にいたわけだ。

 

「駅員に言えば一度くらいは見逃してくれるよ」

 

 少女はしばらく黙っていた。そしてまたぽつりと言った。

 

「いいんだよ、別に」

 

「どうして?」

 

「外出ても行くとこないし」彼女は口だけを動かして言った。

 

 じゃあどうして空き缶を置いているのだろう、と僕は思った。外へ出るつもりがないのなら、切符代を乞う必要もないはずだからだ。

 

「ひどい目に遭わされるぜ、そんな所にいたら」

 

 また沈黙。

 

 口を動かす気力すらないのかもしれない。たっぷり黙ったあとで彼女はようやくぼそりと言った。

 

「それもいいかもね」

 

 この時すでに、僕は彼女に話しかけたことを後悔し始めていた。これはおそらく手に負えない種類のものだ。楽器の弦が一本でも切れれば全部取り替えてしまうしかないのと同じように。そして彼女の弦を張り替える者はもはやいないのだ。そういうものの辿る末路のいくつかを、僕はこれまでの人生で目の当たりにしてきた。望むと望まざるとに関わらず。

 僕は足元の空き缶に百円玉を二枚、音をたてて入れた。そうしないと彼女は入れたことにすら気づかないんじゃないかと思ったからだ。

 

 そして僕は改札を出た。

 

 

 

 

 次の日、僕は休暇をとっていた。

 

 正午にのそのそと布団からはい出した僕は熱いシャワーを浴びてから普段着に着替えて、昨日コンビニで買った玉子のサンドウィッチを半分食べ、布団をきちんと三つ折りに畳んだ。そして歯を磨いた。

 寒いけれど快適な午後だった。空はついさっき洗い流したみたいに気持ちよく晴れわたっていた。

 僕は窓際の籐椅子に座り、読みかけの『フラニーとズーイ』を開いて、ラジオの角をたたいて電源をつけた。適当に周波数を合わせると聞こえてきたのは、世代を問わず往年の名曲を垂れ流すFM番組だった。運がいい。『ライク・ア・ローリング・ストーン』、『アイム・ダウン』、『セイ・セイ・セイ』………全体としてはポール・マッカートニーがよく出てくるセットリストだった。耳にたこができるほど聴いた曲ばかりだ。僕はもっとディランが聴きたかったけれど、家のどこかからラジカセを引っ張り出してきて再生ボタンを押す苦労を考えると、黙って次の『ミッシェル』を聴こうという気になった。『ミッシェル』だって名曲なのだ。

 

 やがて僕はその番組に満足し、できる限り音量をしぼって小説の世界に意識を集中した。まったくの無音状態ではかえって意識が散ってしまう。かといって、DJが愉快に馬鹿笑いしながら次々にメールを読み上げていくのを聞きながら本を読めと言われるとそれはひどく難しい。できない、と言ってしまってもいいかもしれない。すべてのものごとには常に適切な負荷が必要なのだ。

 その点音楽は───特に歌詞をよく覚えているものは───読書のBGMとしてはうってつけだった。それらは僕の意識の表層をなめらかにすべり、心地よい振動を残して過ぎ去ってゆく。他には何も残らない。どんな形においても僕の意識に干渉しないし、少なくとも音楽が流れている中でも、ズーイはあの長い台詞を最後まで一度も噛まずに言いきることができる。

 

 ページをめくりながら色々なことを考えた。仕事のこと、食べかけのサンドウィッチのこと、トランジスタ・ラジオのこと────そして昨夜の地下鉄の少女のことを。

 

 いま彼女はどうしているだろう?と僕はふと思う。

 二百三十五円もあれば切符代には足りたはずだ。駅員だって悪人じゃないし、社会全体から見れば融通の利く部類に入るだろう。治安だってあそこはこの辺りじゃずいぶん良いほうだ。見たところ歩けないというふうではなかったし、何とかして帰ったことだろう────帰った?

 

 ()()()

 

 僕はため息をついた。

 

 DJが何か気の利いたことを言い、ラジオはビートルズの『チケット・トゥ・ライド』を唄いはじめた。耐えかねた僕はラジオを黙らせ、バックパックをひっつかんでマンションを飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

2. 天井にはしみなんてひとつもなかった

 

 

 一番安い切符を買って改札をくぐると、少女はやはりそこにいた。まるで誰かに言いつけられたみたいに、昨日と同じタイルの上にじっと座っていた。

 構内に人の影はやはりまばらだった。僕は彼女に歩み寄り、声をかけた。

 

「お腹は空かない?」

 

 少女はこくりと肯いた。僕は昼に食べなかったぶんのサンドウィッチをバックパックから取り出し、彼女の目の前に差し出した。

 

「………同情?」

 

 彼女は表情を変えずに言った。彼女の言うとおりだ。これが同情でなくて何だと言うのだろう?

 僕がこういった行動をとったのには何かしら特別な理由があった。それが何なのか僕にもわかりかねるけれど、あるはずだし、なくてはならなかった。そうでなければ僕はサンドウィッチを一杯に詰めたスーツケースを引きずって日本中を行脚し、ホームレスたちに配ってまわらなければならない。「サンドウィッチはいかがですか」「同情ならいらないよ」「まあそう言わず」────。

 

 僕は少し考えてから話し始めた。

 

「僕にはこのサンドウィッチを食べることができない。というのはもちろん今お腹がいっぱいだからだ。水や何かで流し込んで食べることもできなくはないけど、こういうのはできるだけ美味しく食べてやらなくちゃならないからね。そこへお腹を空かせて座り込んでる君にたまたま遭遇した。サンドウィッチってのは偉大だな。なにしろ片手さえあればこの世のたいていの食材が食べられるようにできてる。ただ不幸なことに、」僕は腕時計を見た。「こいつはあと三十秒で消費期限を迎える」

 

「……………」

 

 言い訳としては、それは出来のいいものとはとても言えなかった。だいたい僕は嘘をついている。というのも、そのサンドウィッチはあと半日はもつものだったからだ。

 

 彼女は黙ってサンドウィッチを受け取り、パンくずをこぼさないように注意深く食べた。

 

 ふと足元を見た。空き缶の中身はそっくり昨晩のままだった。

 

「水はいらない?」

 

「………………それもあと三十秒?」

 

「こっちはあと半年」

 

 彼女は水も飲んだ。やけに美味しそうな飲み方だった。飲むにつれ、わずかながら彼女が生気みたいなものをとりもどしていくのがわかった。

 

「それで」彼女は言った。「何が目的なのさ?身体くらいしか貸してあげられるものないけど」

 

「これからもそんなふうに生きていくのか?」

 

「いや」と彼女は言った。「………ただ、キミがあたしにここまでしてくれる理由がわからないからさ」

 

「いつまでここにいる?」

 

「…………さあね」

 

 やれやれ、と僕は思った。

 

 そして彼女をそこから引きずり出した。

 

 

 ◆

 

 

 自宅までの道すがら、彼女はずっと僕の二歩後ろを付かず離れずついてきた。

 

 僕がエレベーターに乗ると彼女も乗り込む。その動きはまるで初秋のすきま風のようにあいまいで頼りないものだった。そのまま僕は六階───屋上を計上しなければ最上階ということになる───のボタンを押した。ぶ厚いアルミ製の扉がガス抜きのような音を立てて閉まる。エレベーターはやがて緩慢な速度で上昇を始める。

 

………沈黙。

 

 それはいかんともしがたい種類の沈黙だった。気まずい、と僕は素直に思う。そこにはなかば恥ずかしいような感情も入り交じっている。とはいえ勝手に引っ張りだしてきた手前、僕がこっちの都合で恥ずかしがっているわけにもいかない。しかし沈黙を埋める術を僕はもたない。

 

 二時間後───もちろんこれは冗談だけど、体感としては本当にそれくらいのものだった───僕らはようやく僕の部屋の前へとたどり着いた。

 

「渡辺」と彼女が唐突に言った。

 

「なに?」僕はびっくりして振り向く。

 

 しかしそれはすぐに、特に意味のないつぶやきだとわかった。彼女は僕の家の表札をただ読み上げただけだったのだ。雨が降り始めたのを見て「雨だ」と言うのと同じことだ。

 

「入っていいよ」

 

 僕がドアを開くと、彼女はまるでよその家の猫みたいにおずおずと警戒しながら中に入った。ガチャリとドアを閉めると、少し肩がぴくりと動いたように見えた。

 

 僕は少し考えて、慎重に言葉を選びながら言った。

 

「なんというか、まずシャワーを浴びるといいと思う」

 

 彼女は振り向いた。「…………………におう?」

 

 僕は何も言わなかった。

 

 彼女がシャワーを浴びている間、僕はことわってから彼女の着ていた服を順次洗濯機に放り込んだ。それらは何かの制服のように見えたが、どちらかと言えば普通のデザインとはちょっと言いがたかった。トップスはやけに丈が短いし、色合いもどことなく妙だ。どこかの高校の制服というのでもないようだったが、どれも同じように制服的なくたびれ方をしていた。ダッフルコートはそのまま洗濯するわけにはいかないので、あとでクリーニングに出すことにした。

 それらの作業を終え、リビングのテーブルについてから、そういえば彼女がシャワーから上がったあとで着る服がないということに思い当たった。僕は一通り部屋を歩き回ったが、結局バスローブくらいしかそれらしいものを見つけられなかった。まさか男物のトランクスを貸すわけにはいかない。

 

 シャワールームの引戸が開く音が聞こえた。

 

「すっきりした」

 

「それはよかった」

 

 出てきたところへバスローブを渡そうとしたとき、僕は彼女の左肩に妙な傷痕があることに気づいた。陶器のように白くなめらかな彼女の身体のなかで、それは特異点のような存在感を放っていた。その傷痕はぎざぎざといびつな形をしていて、それほど大きくはない。せいぜい長さ五センチといったところだ。創傷のようだが、縫合の痕跡は見られない。

 視線を感じてか、彼女はこちらをちらりと見て言った。

 

「気になる?」

 

「いや」と僕は慌てて言う。

 

 人の身体をじろじろと見るものではない、と自分を戒める。だいたい、傷痕の一つや二つくらい誰にだってあるものだ。それがいったい僕にどう関係するというのだ?

 彼女はバスローブを何の抵抗もなく身につけた。僕は念のためにエアコンの設定温度を少し上げた。

 

「で、」僕らはソファに腰掛けた。「まず確認したいんだけど、君には行くあてがない」

 

「まあ……そうね」

 

 彼女は髪を濡らしたままうつむいていた。

 

「そこで提案なんだけど」僕は言った。「今日からここに住んでみるつもりはある?」

 

 ふと彼女が顔を上げた。ひどく驚いた様子だった。そして彼女の次の言葉は僕をひどく困惑させた。

 

「それは…………()()()的な意味で?」

 

「は?」

 

 どうやら彼女が大きな思い違いをしているらしいということに、ここでようやく気づいた。つまり彼女は、僕が彼女を性的な目的でここへ連れ込んだと思い込んでいたわけだ。

 

「てっきりこれから犯されるのかと……」

 

「僕ってそういう風に見える?」

 

「そういうわけじゃないんだけどさ」

 

 僕はため息をついた。そしてどうするのかとあらためて訊くと、彼女は怪訝な顔をした。

 

「なんでそこまでしてくれるわけ?」

 

「正直、僕が教えてほしいくらいだ。ホームレスを拾ってうちに住まわせるなんてはっきり言って正気の沙汰じゃない。でも気づいたら君の腕を引っぱり上げてた」

 

 彼女はしばらく黙っていた。何かを真剣に考えているように見えた。艶のある毛先で水滴がふくらんで、秋の午後の雨のようにしとしとと降ってはバスローブに色のないしみをつくった。

 

「………本当に住んでもいいの?」

 

 僕は肯いた。「ただしルールを決めておこう」

 

「ルール」彼女は首を傾げた。

 

「まずひとつ、君は出ていきたくなったらいつでも出ていくことができる。ふたつ、君は毎朝あのラジオの角をぶったたかなくちゃならない。それがこの家での君の仕事ということになる」

 

 僕はテーブルの上のトランジスタ・ラジオを指さした。

 

「それからルールってほどじゃないけど、出かけるときにはきちんと鍵をしめること。出先でなくしさえしなきゃ文句は言わない。もし持って出たまま帰ってくるつもりがなくなったら、融かすなりなんなりして適切に処分すること」

 

「それだけ?」と彼女は言った。

 

「不満?」

 

「いや……っていうかなぜラジオを」

 

「叩くとご機嫌になって喋りだす。昨日まで僕が叩いてた。ちょっとコツがあるから色々試してみるといいと思う」

 

 そう言って僕は立ち上がり、椅子に掛けておいたチェスターコートを取った。

 

「どこ行くの?」

 

「君の服を買ってくる。君が風邪を引かないうちにね。留守番よろしく。テーブルのバナナは食べ放題で、水道水は飲み放題だ」

 

「いい国だよね」

 

「僕もそう思う」

 

 僕は玄関を出た。迷ったけれど、結局鍵をかけた。一応のためだ。

 

 日が落ちてきていた。朱のさした空には、相変わらず雲ひとつ浮かんではいなかった。

 

 

 

 

 ほどなくして、僕は何も考えずに飛び出してきたことを後悔することになった。彼女の服の好みやサイズといったものをまったく聞いていなかったからだ。綿布のジャングルの真ん中で、仕方なくポケットから携帯を取り出した。

 十二回コールが鳴ってからようやく彼女は電話に出た。

 

『えっと………もしもし?こちら北上』

 

「それは君の名前?」

 

『そう、私の名前』

 

───なるほど。

 

「どんな字を書く?」

 

『北上。北上川の北上』

 

「それは苗字?」

 

『苗字っていうか下の名前っていうか………とにかくあたしは北上。これが私の本名』

 

「なるほどね」

 

 僕はほとんど反射的にそう言った。もちろん彼女の言っていることに納得がいったわけではなかった。『北上川の北上』という最低限の情報は、僕をどこへも導いてくれはしなかった。

 たとえば『北』が苗字で『上』が名前なのかもしれない。『上』だなんてなんだか飲み屋のつけみたいになってしまうけれど、ない話ではない。そうであってはならないという理由はない。僕は住民票にそう書かれてあるところを想像してみた。少なくとも、姓名の別なく『北上』と書かれてあるよりはいくらか説得力がある。

 

『それで、何だったの?』

 

「え?」

 

『……?用があったんじゃないの?』

 

 その通りだった。

 北上に言われて思い出した僕は、電話越しに欲しい服やそのサイズを詳細に聞き出し、適当に見つくろってレジに出した。案の定と言うべきか、店員はいかにも妙な顔をした。僕は彼におおむね同情した。まともな男は買い物かごいっぱいのレディース服を一人で、それもこんな土曜日の夜に買いに来たりはしない。

 妙な顔程度のことですむならまだよかったのだが、僕はそれから彼女の下着類まで買いにいかなければならないということを考えると少し絶望しそうになった。金の心配はない。一人暮らしで趣味もなく、ただ平和をちびちびと消費してゆくだけの人間にはたいていそれなりの蓄えがあるものだ。しかしもちろん金では解決できないこともある。例えば男が一人で女性ものの下着を買わなければならないような場合においては────代価として相応のものを失わなければならなかった。

 

 

 ◆

 

 

「おかえり────どしたの、顔色悪いよ?」

 

「いや………大丈夫」

 

 僕は紙袋をどさりと置いてから椅子にコートをかけた。

 テーブルの上のバナナはあとかたもなくなっていた。

 

「お疲れ様」と、最後の一本らしいバナナを頬張りながら彼女はそう言った。

 

 彼女は口の中のものがなくなると、紙袋の中から白のニットセーターと黒のスキニーパンツ、その他諸々を取り出してその場で着替え始めた。それがあまりに急なことだったので、僕はそのあいだじゅうずっと首をもたげ、天井のしみを数えていなければならなかった。だが困ったことに天井にはしみなんてひとつもなかった。

 

 着替え終えた彼女はまったく普通の女の子(少なくともホームレスの経験がない、という意味でだ)に見えた。

 

「どう?」

 

「よく似合ってる」

 

「襲いたくなった?」

 

 僕はその言葉を無視した。

 はっきり言ってよく似合っていた。それはスタイルの問題というよりは、彼女自身の持ち合わせた着こなしのスキルが大きなウエイトを占めているようだった。彼女は一つ一つの動作の中でセーターの袖や裾、さらには髪先に至るまでを隙なく魅力的に制御する術を心得ていた。

 僕が感嘆のため息をつくと同時に、彼女の腹が低く鳴った。彼女は気まずそうに目だけをそらした。

 

「……バナナは美味しかったよ」

 

「それはよかったけどね」

 

 そろそろ夕食を作らなければ、と思った。幸いパントリー(この物件には部屋がひとつ少ないかわりにどういうわけかパントリーが備わっていた。正方形の小さな部屋だ)には大抵の食材が揃っていたし、せっかくなので彼女に何か食べたいものがあるかたずねてみた。彼女は少し考えてから、カレーがいい、と言った。

 

「いいね、カレーにしよう」

 

「いいの?あたしカレーにはうるさいよ」

 

 望むところだ、と僕は思った。僕は腕によりをかけて(つまりいつもと同じように)カレーを大鍋いっぱいに作った。そのあいだ彼女はずっとリビングからそわそわとこちらを覗き込んでいた。別に手伝うことはない、と言うと彼女はうなずいたが、やはり何かしていないことには落ち着かないらしかった。とくに頼みたいことはなかったのだけれど、親を探す子犬みたいにうろうろしている彼女を見ていると何か言いつけないわけにはいかなかった。僕は仕方なくキッチンカウンターから布巾を投げ、テーブルをぴかぴかに磨くように言った。カレーが出来上がった頃には、ひのきでできていたはずの天板は銀めっきを施した鉄板のように文字通りぴかぴかになっていた。

 

「………驚いたな」

 

「あたしも結構驚いてる」

 

 席に着く。

 僕に続いて(彼女は僕が食べ始めるのを律儀に待っていた)、彼女はきちんと手を合わせていただきますを言い、形のよいほっそりとした指先でスプーンを持ち上げた。

 

 一口そっと頬張った。

 

 彼女は一瞬少し驚いたような顔をしたが、それから夢中で食べ始めた。もぐもぐと咀嚼するにつれ頬が小さく上下した。そして唐突にその上をひとすじの涙がつたった。まるで山麓に積もりすぎた雪が何の予兆もなく溶けだすみたいに。あまりに突然だったので、僕はびっくりしてまるで何も言うことができなかった。

 

「……………っ、ごめん、なさい…………」

 

 彼女は絞り出すように言った。でもやはり僕はかけるべき言葉を見つけることができなかった。

 

 

 

 

 

 

3. 黒齣

 

 

 月明かりに黒く光る海の底へむかって、彼女は必死に腕を伸ばす。水面に顔をつけ、少しでも下へゆこうと試みる。だが、彼女はそれらがすべて無駄に終わることを知っている。そのことは世界中の誰よりもよく理解している。腕を再び海面に突き立てる。腕はしっかりとした重みを捉えるが、それはあくまで流動的に過ぎ去り、一通り彼女を妨げたあとで満ち足りたように還ってゆく。

 

 ここではすべてが循環する。植林場の木々がそうするように。

 

 彼女の耳の奥にはまだあの轟音がこびりついている。まるで狡猾な()()のように、それは彼女をとらえて離さない。あたりには硝煙のにおいが残っているが、それは次第に夜の闇に溶けていく。

 

 彼女は震える声で名前を呼ぶ。何度も何度も呼び続け、そしてその末にほんの微かな声を聞く。

 

『ごめんなさい………ね』

 

 水面下の気配は消え去り、そして夜が明ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

4. 血の一滴も見あたらなかった

 

 

 翌朝、大きな音で目が覚めた。僕はその音について、『大きな音』であるという以上の説明を何ひとつ思いつくことができなかった。なにしろたたき起されたようなものだったから、僕はその音の質だとか種類だとかいったみたいなことについて、ほとんど注意を払う余裕もなかったのだ。

 

 半分寝ぼけながらベッドを抜け出してリビングへ行くと、そこではラジオが完膚なきまでに破壊されていた。まるで飴細工ででもできていたみたいに。そこからはある種のすがすがしささえ感じとることができた。

 

「えっと、ごめん、こんなはずじゃなかったんだけど…………」

 

 彼女は本当に申し訳なさそうに言った。

 

「君がやったの?」僕はびっくりしてたずねた。

 

 彼女はばつが悪そうに肯いた。

 外側はプラスチックでできているとはいえ、そう簡単にたたき壊せるようなものではないはずだった。じっさい僕は昨日にいたるまでの間、毎朝のようにその角を小突いてきた。それを少女である北上が、そのどちらかといえば華奢な腕でラジオを粉砕したのだ。この光景を現実の出来事として認識するのは、起きたばかりの僕の頭ではひどく難しいことだった。

 基盤はそのままハイボールに使えそうなくらい見事な割れ方をしていた。彼女がその破片のひとつに手を伸ばすのを僕はあわてて止めた。

 

「触らないで、僕が片付ける」

 

 僕は寝間着のままリビングを出た。ほうきやちりとり、それに新聞紙も必要だった。

 

「ねえ、弁償するよ、これ値段って………」彼女はおそるおそる言った。

 

「弁償なんかいいよ。どうせただ同然で譲り受けたものだから」僕は言った。それに、弁償するだけの金が彼女にあるとは思えなかった。「そんなことより怪我はしてない?」

 

「うん」

 

 たしかに彼女の手はさっき作られたばかりみたいに傷ひとつなく、テーブルの上には血の一滴も見あたらなかった。そこにはいささか不自然ささえ伺えた。

 

 何はともあれ、僕は心の中を少し整理してやる必要があった。

 きっとこのラジオは遅かれ早かれ壊れていたのだ、と僕は考えることにした。なにしろ毎朝叩かなければ呻きもしないラジオなのだ。むしろ今まで壊れなかったのが不思議なくらいだ。そろそろラジオ離れか、と僕は思った。音楽なら携帯で聴けばいいし、ご機嫌なDJよりも愉快なものはこの世に五万とある。パンがなければブリオッシュを食べればいいのと同じように、ラジオに負けず劣らず話す人間を見つければいいだけの話なのだ。

 

 片付けを終えるとすっかり目も覚めてしまったので、僕は仕事の支度でもしようかと思ったのだが、時計を見るとまだ六時ということだった。

 

「ずいぶん早起きなんだな」

 

「うん、まあ、習性というかなんというか……」

 

 まだたっぷり一時間は余裕があったが、僕はベッドに戻る気にはなれなかった。結局僕はその日誰よりも早く会社へ行き、彼女は部屋でみかんの皮をむいて過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

5. 英語の直訳みたいだな

 

 

 それから数日間、僕らはおおむね平和的に過ごした。規則正しい生活と適切な食事によって、北上の肌はいくらか健康的な色あいをとり戻した。口数が増え(彼女はいくぶん気の抜けた話し方をするのだが、それが生来のものなのか、それともまだ元気が戻っていないだけなのかはよくわからなかった)、少しは笑うようになった。そして僕らの間には内容のない会話が頻繁に交わされるようになった。

 僕らはいつもリビングのテーブルに向かい合って座る。東側が彼女、西側が僕の椅子だ。

 

「それにしても、」北上は足をぶらぶらさせて言った。「この家ってあんまりものがないよね」

 

 それは思わぬ指摘だったが、あらためて部屋を見渡すと、その指摘がもっともらしく思えてきた。

 

「汚いよりはいいんじゃないか」

 

「まあそれはそうだけど」

 

 トランジスタ・ラジオを失った僕の部屋は、いよいよその無愛想さをきわめていた。ベッド、窓際の籐椅子、一枚板のデスク………。このリビングにもとりたてて目立つものはないし、つねに新しいものが置かれるのはパントリーくらいのものだった。この部屋は、僕らの生命を維持する最低限の部屋として懸命に機能していた。まるで急ごしらえの核シェルターのように。

 

「『なくたって生きていける』程度のものをどれくらい残しておくかが大事なんだよ、たぶん」と彼女は言った。

 

「ダッフルコートとか?」

 

「いやいや、あれなかったら死んでたって」

 

 僕の部屋。テーブル、椅子、三段のカラーボックス………どれもなくては生きてゆけないほどではないにしても、最低限必要なものだと思う。だがたしかに余白が多いかもしれない。それはつまり、生活的ではあっても文化的ではないかもしれないということだ。僕はもう一度部屋をスキャンでもするように注意深くくまなく眺めた。でも結局、この部屋に何が足りないのか僕にはさっぱりわからなかった。

 

 

 

 

 ある日僕は北上に五千円札を手渡した。

 

「え、何急に…………援交?」

 

 僕はそれを無視して言った。「お小遣いみたいなもの。月々五千円。それで君は君の好きなものを買うことができる」

 

「英語の直訳みたいだな」北上は笑った。「煙草も?」

 

「灰皿も買うならね」

 

 彼女は手にした五千円札を両手でかかげ、じっと眺めていた。今にもくしゃっと丸めて食べてしまうんじゃないかという感じだった。

 

「悪いね、なんか」

 

「別に気にしなくていい」僕は言った。「少なくとも、この家にいる間はね」

 

 最初の月、彼女は結局煙草を買わずに灰皿だけを買ってきた。それは一目に灰皿とはわからなかった。灰皿にしては色づかいや形がいささかスタイリッシュすぎたからだ。それはどちらかといえばむしろインテリアとして感じよく仕上げられていた。彼女はそれをテーブルの真ん中に置いた。

 

 

 ◆

 

 

 彼女が毎月五千円をどのような内訳で使っていたのかはわからない。ただひとつ言えるのは、彼女は必ず月にひとつずつものを買い、それらを家の中のどこかしらに順次配置していったということだけだ。まるでチェスプレイヤーがピースをボード上に注意深く並べていくみたいに。

 

 その⟨ピース⟩は月によってまったくさまざまで、ある意味でまんべんなく、そしてある意味でとりとめがなかった。ある月はランチョンマット(彼女はオリーヴ・グリーンのものを二枚買い、テーブルにきちんと並べて敷いた)、ある月は室内用のスリッパ(僕のぶんもあった)、そしてある月はバナナスタンド(僕はバナナスタンドなんてものの存在をはじめて知ることになった)………といった具合に。おかげで僕の部屋は半年でずいぶんにぎやかになった。繰り返すようだけれど、これが一般的に見てどれくらいにぎやかなのかということはわからない。ただ確かなのは、僕の部屋はサハラ砂漠がそっくりアマゾンの密林に変わってしまうほどの変化をわずか数ヶ月で遂げてしまったということだ。

 

 ある日仕事から帰ると、彼女が夕食を作って待っていた。

 

「ふふん、料理本買ったんだ」と彼女は言った。「ほら、何もしないってのも心苦しいし……」

 

 これくらいしかできることもないからさ、と彼女は苦笑いを浮かべた。たしかにあの日僕はラジオを失ったが、彼女は仕事を失っていたのだ。

 

 彼女の作った肉じゃがは多少大味ではあったけれど、不思議となつかしい温かみがあった。僕らは二人で鍋一杯の肉じゃがを夢中で平らげ、それからジン・トニックを作って飲んだ。幸いトニック・ウォーターだけは冷蔵庫にうんざりするくらい残っていたが、ジンは買いに行くはめになった。

 

 こうして僕は体重を少し増やし、北上はこの家での新たな仕事を見つける。

 

 

 

 

 

 

 

 

6. あるいは見落としているだけかもしれない

 

 

 僕の部屋にものが増えるにつれ、日本列島は段階的に暖かくなっていった。やがて蝉たちは示しあわせたように一斉になきはじめ、太陽は誰に言われるでもなく熱心にアスファルトを焼き焦がしはじめた。昨日までのことなんか知ったものか、とでも言うように。夏というものはいつもある朝突然やってくるのだ。

 そういう日の夜はベランダへ出て煙草を吸うのにうってつけだった。二人で手すりに腕をかけて身を乗り出し、北上が煙草をくわえて少し口を突き出し、僕はそこへライターの火を慎重に寄せる(今日はたまたま僕がライターを持っていた)。慣れたものだった。

 見下ろすと夜の街が広がっていた。過剰な電飾をまとわりつかせた商社ビルのあいだを縫って、光の奔流が勤勉な血液のようにかよっていた。それらはゆっくりと、そしてシステマティックに街を息づかせていた。

 

「キミってさ」

 

 北上は煙草を右手にはさんで言った。

 

「そういえば何の仕事してるの?答えたくなかったら無理にとは言わないんだけどさ」

 

 僕は煙草の先で燃えつきた白いかたまりを灰皿の中にたたき落とした。

 

「気になるの?」

 

「まあ、それなりにね」

 

 そう言って彼女は煙草をくわえなおした。

 僕は言った。

 

「君みたいなホームレスを拾っては身のまわりの世話をして、社会復帰のささやかな手添えをする仕事」

 

 彼女は黙って聞き、僕がみんな言ってしまってからもしばらく煙草をふかしていた。煙草の煙はそこにとどまることなく、まるで砂糖がコーヒーに溶けるみたいにして次々と暗闇の中へ吸いこまれていった。そして彼女はこちらを振り向いた。

 

「……えっ、嘘だよね」

 

「嘘だよ」と僕は言った。北上は僕のふくらはぎを軽く蹴った。

 

 僕はほとんどフィルターばかりになってしまった煙草を灰皿にねじ込み、新しいものに火をつけた。

 

「ただのサラリーマンだよ。毎日書類に埋もれてればそれでことたりる仕事さ。具体的な業務内容なんてないに等しい」

 

「そんな仕事があるの?」

 

「この世の仕事の八割はそういう仕事さ」

 

「ふうん」と彼女は言って街を見おろした。

 

 自然な会話の流れとして、僕は彼女の出で立ちが気になった。どう大きく見積もっても彼女は中高生くらいに見えたし、職と言うべき職はもたなかったかもしれない。学生だとすれば問題の根はなおさら深そうだった。なにしろ地下鉄でホームレスをやっていたのだ。訊いていいものか迷うところだった。

 僕が口を開きあぐねていると、彼女は勝手に話し始めた。

 

「去年の秋くらいかな、急にクビになっちゃってさ」と彼女は言った。

 

 僕はフィルターにかじりついたまま聞いていた。

 

「クビになったというか、雇い主が消えたというか、なくなったというか」

 

「消えた?」と僕はたずねた。

 

「うん、まあ、倒産みたいなもんかな。あー、解体?まあどっちでもいいんだけどね」

 

 僕は取り敢えず納得することにした。

 

「あのときはまあびっくりしたし、流石に困ったなあ…………寮の住み心地はよかったし、一日三食ついてたし、おまけに給料もそれなりによかったしね。で、急に追い出されたあたしは当たり前だけど路頭に迷った。晴れて住所不定、無職のホームレスってわけよ。まったくさ、うれしくて涙が出ちゃうよね。追い出される前にいくらかお小遣いは握らせてもらえたんだけど、それでどこかで平和な隠居生活を、っていうにはちょっと厳しい感じだったのよね。それで、そのお金で適当に一人旅でもしようと思ったわけ。行き当たりばったりのさ。あ、いま『仕事探せよ』って思った?いやまあ、おっしゃるとおりなんだけど、でも履歴書を書くにはあたしの経歴とか身の上ってちょっとこう………複雑すぎたし、普通の勉強もできないから、こんなあたしなんか採ってくれるところなんてないと思ったんだよね。手に職ってわけでもなかったしさ。そんなこんなで最初はとりあえず海を見てまわったのね。どうしてって聞かれたってわかんないよ。()()()()()()()()()()()()()()()()。でも途中で何となくいやになって、今度は山を見てまわることにした。紅葉シーズンにはちょっと遅めだったけど、なかなか綺麗だったよ。あとは繁華街うろついたり、うわさに聞いてたスイーツの店に行ってみたり………とにかく色々試してみたっけ」

 

 僕は黙っていた。

 

「でもしばらくしたら色々試すのにも飽きちゃって、あたしはなぜかまた海に戻ってきてた。それでちょっと思ったんだ────『なんであたしはこんなところにいるんだっけ?』って。いや笑いごとじゃなくて、ちょっと本気でわからなくなったのね。つまり、生きる意味ってやつがさ。それもいきなり。こうしてあたしが陸に二本足で立ってることは、ひょっとしてものすごく犯罪的なことなんじゃないかって思えてきたんだよ。そういうわけであたしは手近な崖をさがして、カバンやらなにやらをいったん横に置いて、ちょっとそこから海に飛び込んでみることにしたわけ。でもまあ、見ての通り死ねなかった。入水自殺?ってのはなんかそれなりに根性がないとダメらしいんだよね。それからまた色々試してみることにしたんだけど────ねえ、大丈夫?ついてこれてる?」

 

 

「なんとか」と僕は言った。煙草の先端から灰の塊がこぼれて夜の闇に飲まれていった。「ねえ、どうしてそんなことを僕に話す?」

 

「んー、キミならいいんじゃないかって思って」

 

 もちろんそれは納得のいく説明とは言いがたかった。

 

「まずは定番の首吊りだけど」と彼女はおかまいなしに続けた。「まあ失敗したよね、拾い物のロープじゃ流石にまずかったみたいで」

 

「その当時の所持金は?」と僕は諦めてたずねた。

 

「もう千円もなかったんじゃない?まあお金があったらちゃんとしたロープを買ってただろうしね」

 

「なるほど」と僕は言った。その声は、僕が意図したよりも随分かわいた響きをもっていた。

 

「思いつく限りでは他には手首を切るってのがあったけど、痛そうだからパスってことにした。しかもほら、刃物も買わなくちゃだし…………拾い物なんか使ったらずたずたになっちゃうもんね」

 

 僕は拾い物の包丁を自殺に使うためにせっせと研いでいる自分を想像してみた。運良く研ぎ師の家の裏を通りかかるということでもなければ、水辺で拾った石や金属片を使って謙虚に励むことになるのだろう。『研ぐ』という行為としては、それはある意味において、かなり純化された行為と言えるかもしれない。言うまでもなく、出来上がりの切れ味が自分の死に際の苦しみ具合を決めることになるからだ。包丁は正しく研がれなければならない。

 彼女はそれからも失敗談を次々と話した。高層ビルから飛び降りようと考えたがロビーで引きとめられたこと。電車の踏切への飛び込みは人の迷惑と公共の福祉にかんがみて却下したこと。

 

「最終的にあたしは富士の樹海を目指すことに落ち着いたわけなんだけど────ほら、名所らしいし────でも行き方とか全然わかんないし、人に訊くのもめんどくさかったから、とりあえず一番高い切符買って適当な電車に乗ったわけ」

 

 そこまでまくし立ててから彼女は煙草をくわえ、すっかり黙ってしまった。彼女はもはや町内の掲示板のように静かだ。しかし僕はその話の続きを知っている。そこで切符をなくし、彼女は改札の内側で座り込むことになったわけだ。

 僕は彼女の言葉のひとつひとつを丁寧に思い返していた。どうして僕にそんなことを話すのだろう?そしてどうして彼女はそこまで死ぬことに執着しなければならなかったのだろう?いくら思い返しても、彼女の言葉の中にその確固たる動機らしきものを見つけることはできなかった。あるいは僕が見落としているだけなのかもしれない。それもわからない。

 ひょっとしたら生まれてきた時と同じように、死ぬ時にも動機などといったものは必要ないのかもしれない。でも、彼女の場合はおそらくきちんとしたきっかけがあって、それが何らかの形で正しく作用し、彼女の意識を自殺へと方向づけているのだ。それはあくまでリニアな───ちょうど飛行機を射出するためのカタパルトのような───ものでありながら、ある特定の段階を決定的に欠いている。

 

「とにかく」と僕は言った。「君は死ぬことに失敗したし、さらに運悪く僕に拾われてしまったわけだ」

 

「どうすればうまくいったかな」と彼女は言った。まるで数学の課題の解き方を仲のいい友達に尋ねるときみたいに。

 

「僕にもさっぱりわからない。成功者の体験談なんかがあればいいんだろうけど」

 

 彼女はくすくす笑い、そして煙草をくわえなおした。僕は続けた。

 

「死ぬのは君の勝手だ。でも、死に方についてあれこれ考える前に、屋上に寝っ転がって星を眺めるくらいのことはすべきだと思うね」

 

 彼女は黙っていた。

 

「それに、生きてる意味について考えるのもナンセンスだ。考えてるうちに人生が終わる」

 

 僕の言葉はしばらく空中を漂ってから、煙草の煙と一緒に暗闇の中へと溶けていった。

 

「それって」彼女はようやく口を開いた。「バッターが打席に立ってから、自分のバッターとしての存在意義について真剣に悩みはじめるみたいなこと?」

 

「たぶん」と僕は言った。

 

 なぜ突然野球の話になるのか、実のところ僕にはわけがわからなかったけれど、その例えはおおむね正しかったし、またかなり的を射ていた(この二つは似ているようでまったく別なことだ)。

 

「気づけば空振り三振、バッターアウトさ」

 

 もちろん誰か代わりのバッターがやってきて、僕の人生の残りのぶんのスイングをやってくれるわけではない。それは途方もなく骨の折れる作業だ。バットはひどく重く、いびつな形をしている。それを振るい続けることで、 僕らはさまざまなかたちにおいて失われてゆく。それはピッチャーにしても同じことかもしれない。

 子供の頃は自分の時間に定価をつけて一日いくらで売れはしないかなどとしきりに考えたものだったけれど、今思えばそれは幼稚な想像にすぎない。他人の人生の肩代わりなんて、たとえいくら金をもらったところで荷の重い話だ。

 

「星を眺めるってのはさ」気づけば彼女は夜空を見上げていた。「麦酒なしじゃ成り立たないと思うわけよ」

 

「そう思う?」

 

「思うよ」

 

 僕は見える限りの星を数えながら言った。

 

「一ダースで足りるかな」

 

「どうだろ」と彼女は言った。

 

 僕らは近所の酒屋でハイネケンを箱買いし、そのまま屋上へのぼって仰向けに寝転がった。多くの星は街の灯に光を吸い取られてしまっていたけれど、それでも大三角形だけは、黒画用紙にビーズでも貼り付けたみたいにしっかりと光を街の上に投げかけ続けていた。

 

「星には助けられてばっかりだな」と彼女は言った。

 

 僕はうなずいた。

 

「ねえ、こんな言葉がある」と僕は言った。「希望を持たずに生きることは死ぬことに等しい」

 

「誰の言葉?」

 

「ドストエフスキー」

 

 彼女は首を左右に振った。

 僕が二本飲む間に彼女は半ダースを胃袋へと流し込み、やがてそのまま眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

7. 白齣

 

 

「大井っち?」と少女は言う。「どうしたのさ?」

 

「いいえ、何でもないのよ、北上さん」

 

 そう言って、再びその視線を手元の皿へと戻す。

 

「ちょっと考えごとをしていただけだから」

 

「………やっぱり手伝う?」

 

「いえ、北上さんはそこにいて」

 

 彼女は間髪を入れず、いつものようにむきになってそう言う。まるで過保護な母親みたいだ、と少女は思う。そしてそれは少女の見るいつも通りの彼女の姿だ。少女は小さくため息をついて、聞き分けよくテーブルについたまま皿の洗われていく音にぼんやりと耳を傾ける。

 

「ねえ北上さん、今度お出かけでもしましょうか」

 

「また唐突だねえ」と少女は言う。「いつ?」

 

「いつでも構いませんよ。明日───はいけないから、明後日でも───」やや間をおいて彼女は言う。「はたまたこの戦争が終わってからでも」

 

 少女はしばらく次の言葉を頭の隅に保留しながら、目の前に横たわるオリーブ色の綿のランチョンマットを眺めた。ほどよく使い込まれ、正しいくたびれ方をしている。それは全ての不手際を認め観念して開き直った回遊魚のようにも見えた。ずいぶん長いこと泳いできたけどさ、と少女は思う。捕まっちまったもんはしょうがないよな。

 そして指先でテーブルの裏についた傷の位置を確かめる。それはやはりいつも通りそこにある。それは具体的なざらつきをもったテクスチャであり、同時にどこまでも抽象化されたスティグマのようでもある。

 

「じゃあ明後日かなあ」少女はつぶやくように言う。「終戦を待ってたらあたし達、その時まで生きてるかわかんないし」

 

「縁起でもないですよ」彼女はくすりと笑う。

 

「それで、急に誘ってきたってことはどっか行きたい場所でもあるの?」

 

「いえ、これといってないんです」

 

「?」少女は首を傾げる。

 

「ただなんとなく、北上さんとお出かけしたいなあって思ったから……………どことかは考えてなかったわね」

 

 彼女は手を止めずに言う。皿の次は箸、箸の次はマグカップといった具合に、それらは彼女の意識とはほとんど関係のない場所においてあらゆる汚れから解放されてゆくように見える。

 

「どこがいいかしら」

 

「そうねえ、紅葉狩りとか行ってみたいなあ」

 

「ちょうどシーズンですものね」

 

 そうだ、今は秋なのだ、と少女は心の中で自らに言い聞かせる。紅葉を見るにはちょうどいいか、あるいは少し盛りを過ぎたというくらいの時期だ。もっとも、そういった微妙な季節感を敏感にとらえ続けるには、この部屋からの眺めはいささか単調にすぎた。

 

「海は見飽きちゃったよ」

 

「そうですか?」と彼女は笑う。「海もいいものだわ、四季折々でいろんな顔を見せてくれるから」

 

「うへえ、わかんないなあ」

 

 洗い物の終わった気配がする。少女はそれを肌で感じとることができる。間もなく彼女がキッチンから出てくる。彼女はテーブルの西側へ回りこむように歩いてきて、軽く息をついて座る。

 

「まあ、明日の出撃の間にでも考えとくよ」と少女は言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

8. いつであれ、そこから抜け出せなくなる前に

 

 

 仕事から戻ると僕は北上の作った夕食を食べ、軽い会話を交わし、しばらく小説を読み、41度の風呂に入り、それからベッドに倒れこみ、気を失うようにして眠りにつく。こういう生活がしばらく、まるで判で押したみたいに続いていた。不満もなければ不安もない。しかしだからといって無感動というわけでもない。

 食事中の会話と風呂の時間は、僕にとってとりわけ重要な意味を持った。いろいろな問題について───つまり性急なものも長期的なものもあわせてということだが───考えるための時間として、それらはいくつかの条件をほとんど奇跡的に満足していた。

 

「おおいっち」と僕は声に出してみた。

 

 その声はバスルームの中の湯気を少し震わせる。しかしそれだけだった。わずかにくぐもったような音はほんの短いあいだだけそこに留まったあと、すぐにどこかへ消えてしまった。

 『おおいっち』。僕はその名前に心当たりがない。考えるに、大井という───あるいは大飯、大居………まあ漢字はなんでもいいのだけれど───苗字の愛称のようだ。そしてそれは北上の友人か誰かの名前であろうと僕はまず推測する。少なくとも、彼女の寝言に出てきたからにはそういうことになる。

 もちろんそれ───つまり彼女の寝言を聞いたのはあの夜の一回きりだったし、僕の聞き間違いだという可能性もぬぐいきれない。実際のところ、あの時彼女は半ダースの麦酒のためにほとんど致命的に泥酔していた。彼女の頭の中で偶然に起こった文字の配列が、『大井っち』という架空の人物について僕を真剣に悩ませることになっているのかもしれない。

 

 なんにせよ、と僕は思う。

 

 なんにせよ、いまのところ僕は最低限(あるいはできる限り)の思考をめぐらせ、そしてどこへもたどり着くことができないでいる。同じところをぐるぐると回っているだけだ。

 僕はとりあえず、そこから抜け出せなくなる前に風呂からあがることにした。それは僕がいま最もすべきことのように思えた。あとはいつものようにベッドに沈んで泥のように眠るだけだ。それは何よりも簡単で、そして何よりも正しい行為のように思えた。ある程度決まったリズムの中で生活することで、我々の人生における問題のほとんどは解決するのだ。

 しかしベッドに倒れこんでも、どういうわけか睡魔がやってくる気配はなかった。何度も身体をひねり、体勢を変えてみてもだめだった。目をつむれば、僕はまぶたの裏に脈打つような闇と静かに力強い血潮の流れをありありと感じとることができる。そして長い時間をかけ、僕はそれらを少しずつ制圧しようと試みる。

 そのとき、僕は腰のあたりにふとした重みを感じる。それは何匹かの子猫を抱くときの感触に似ている。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何が起こっているのか確かめたいと僕は思う。しかし僕は目を開くことができない。それは今の僕には許されていない。触れ合った部分からやわらかな熱が流れ込んでくるのを感じる。熱は流動的で、そして狡猾な存在だ。僕はその⟨誰か⟩の動きを肌で感じようと努める。が、それはまだうまくいかない。

 僕の目は閉じられている。僕はまぶたどころか、指先ひとつ動かすことすら許されていない。腰のあたりが少し軽くなり、⟨誰か⟩の全体の重心がこちらへ近づいてくる。僕はそれを気配として感じる。ひんやりとした指先があごに触れ、頬へとつたっていく。僕は思わず声を上げそうになる。しかしそれが声になることはない。微かな息遣いが僕の前髪をなでる。そして、熱くしめった何かが僕の額にそっと触れる。

 それはすぐに離れていく。身体は解放されたが、僕はやはり身動きひとつとることができない。まぶたは鉄のとばりのように堅く閉ざされている。しかし眠ることも許されない。

 やがて僕は目を開く。そこには誰もいない。僕の意識はむしろ目をつむる前よりも一層するどく研ぎすまされている。心臓は高鳴り、とくとくと固くかわいた音を立てている。まるで何かのはずみに眠る権利を剥奪されてしまったみたいだ、と僕は思う。仕方なく僕は丸太のようにじっと横になる。そうすることで、僕は覚醒の海をなんとかやりすごすことができる。

 

 カーテンのすき間から月の光が、部屋の四角い暗闇を裁断するようにして差し込んでいた。それはどこか示唆的で、中立的な光だった。僕はそこに手をかざしてみる。光はしっかりとした重みのようなものを持ち、僕はそれをいくらか手のひらにすくいとることができる。

 

 夜が深まっていくのを感じる。腰のあたりにはまだ温もりが残っている。僕はふたたび目を閉じる。覚醒を免れた意識が不完全な闇の中へと沈みこんでゆく。そのようにして僕は眠りにつく。

 

 そして翌朝、僕は北上がいなくなっていることに気づく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9. 遅すぎるということはない

 

 

 僕は北上がいなくなっていることに気づく。

 

 彼女は彼女の伴ってきたすべてのものと共に、忽然と姿を消してしまった。僕はウォークインクローゼットを見に行った。ハンガーにかけられてあるべき、彼女が最初───僕と出会ったあの日───に身につけていた風変わりな服はそこにはない。ダッフルコートもなくなっている。今は真夏だ。普通に出かけるだけならそんなものを持ち出す必然性はどこにもない。おそらく何らかの特別な事情があって、そして何らかの明確な意思があって、彼女はダッフルコートとそのポケットに入ったままの二百三十五円もろともどこかへ行ってしまったのだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()。僕は暫定的にそう結論づけた。しかしその事情というものが何なのか、僕にはさっぱり見当もつかない。

 

 とにかく、と僕は思った。とにかく何か食べよう。考えるのはそのあとにしたって何も遅すぎるということはない。なにしろ腹が減って仕方がないのだ。

 しかしこの時間に僕がこれほどまでに空腹なのは、はっきり言ってかなり珍しいことだった。僕は時計を見た。午前八時。オフの朝にしてはずいぶん早い。ベッドに戻ることも考えてみたが、僕はどういうわけかあと五分ほどさえも眠る気にはなれなかった。

 

 僕はとりあえず湯を沸かし、そのあいだに市販の食パンをこんがりとトーストした。紅茶をいれ、まだしっかりと熱を持ったトーストの上に丁寧に削り出したバターをのせた。バターはゆっくりと向きを変えながら融け、トーストの表面をすべりおりた。いたってシンプルな朝食だ。レギュラーな朝を取り戻すにあたって、そのシンプルさは必要不可欠なものだった。

 

 食べ終わると歯を磨いた。歯磨きの都度、歯を一本ずつ自由に取り外せたらどんなにいいだろうと僕は思う。しかしもちろんそんなことは不可能だ。抜け落ちた歯を再び歯茎に植え付けることはできない。それはもはや死んでしまったようなものだからだ。僕は気がすむまで磨いたら何度もうがいをし、今度は顔を洗った。

 

 そして着替えに移った。僕はようやく馴染んできたデニムパンツに白のボタン・ダウン・シャツを合わせた。

 

 すべてを終わらせた僕は窓際の籐椅子に腰掛けた。まるでそれがこの世界における僕の唯一の居場所であるみたいに、僕の身体はそのくぼみの中にこの上なくぴったりとはまり込んでいた。胎児であった頃に感じたかもしれない安心感のようなものがそこにはある。そしてそれは幼い子供の頃からよくめぐらせてきた想像───絶海の真ん中に椅子がぽつりと浮かんでいて、自分がそこに座っているというイメージをしばしば呼び起こす。僕はその椅子の上で食べ、眠ることになる。食べるということに関していえば、漂流物を使えば魚を獲るだけの道具は作れないことはないだろう。睡眠についても、座って眠るというのはあまり快適なことではないけれど、なにしろ大海に椅子がひとつしかないのだから四の五のと言ってはいられない。

 

 籐椅子から部屋を見渡してみると、その景色は昨日までとほとんど変わりないように見えた。それはおそらく彼女の配置していった⟨ピース⟩のせいだった。オリーヴ・グリーンのランチョンマット、バナナスタンド、灰皿………。僕はそこに何かしら規則性みたいなものを見出そうと目を凝らしてみる。しかしそこには何もない。あるのは趣味のいいいくつかのインテリアと、一定に保たれたランダム性だけだった。僕はそれらを飽きることなく眺め続けた。どうして北上はここを去らなければならなかったのか?

 

 答えが出ないまま、時間は粛々と過ぎてゆく。時計の針は圧倒的な自我をもち、あらゆるものを引き裂きながら荒々しく回り続ける。

 

 ふと気がつき、時計に目をやるとそれはすでに午前十一時をさしていた。僕は腹のあたりに痛みにも似た欠落感を感じる。またすっかり腹が減っているようだった。

 

 僕は足のつま先でフローリングの床をそろりとなぞり、そこが真っ青な絶海の真ん中でないことを確かめた。床板はしっかりと張られ、籐椅子はその上に四本の脚をぴったりとつけて静止していた───まるで何百年も前からこうだったじゃないか、とでも言うように。

 

 パンばかりというのもどうだろうと思い、昼は白飯を炊くことにした(休日は僕はほとんどパンか、できあいのサンドウィッチしか口にしなかった)。時間はかかるけれど、待てないほどではない。たまにはこういうのもいいじゃないか。味噌汁なんかも軽く作ることにしよう。長いこと北上に包丁をあずけていたから腕はかなり鈍っているだろうけれど、それくらいなら作れないことはないはずだ。なにしろそれまではずっと一人でやってきたんだから。

 

 昼の献立について考えをめぐらせながら腰を上げたその時、少女はやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10. とても素敵な人なのです

 

 

「電といいます」

 

 チャイムが鳴り、玄関を開けるとそこには一人の少女が立っていた。

 

「いなずま」と僕は言った。「それが君の名前」

 

 少女はこくりと肯く。

 

「本当はちゃんとした名前がありますが、それはいまのところはそれほど重要じゃないのです」

 

「なるほど」

 

 やれやれ、と僕は内心首を振った。『いまのところはそれほど重要ではない』ときたものだ。

 

 だいたいどうして顔を合わせた途端に自己紹介からはじめなくちゃならないんだろう、と僕は思った。そこにはまず『こんにちは』なり『はじめまして』なりあってもいいはずだ。あるいは何か急ぎの用があって、やむを得ず会話において特に意味のない部分を省略しているというのであれば分かるが、どうもそういう風にも見えない。彼女は僕の家の玄関の前に静かに佇み、きわめて穏やかな調子で話している。まるで食事をしに川辺へ降り立った水鳥のように。

 近所の子だろうか、とまず僕は考えた。僕はこの少女を見かけたことはないけれど、なにしろこのマンションはそれなりに大きい。お前はこのマンションの住人の顔をじつのところ半分も知らないんだ、と言われても納得できそうだ。

 見かけは小学生高学年くらいに見えた。どう大きく見積もっても中学生には見えなかった。ぶかぶかの制服みたいなものに身を包み、どちらかといえばやせ気味に見えた。髪は明るくくすんだようなブラウンで、それはよく手入れされていた。もみあげは柔らかく肩のラインにそって流れていた。後ろでまとめているのか、穂先のようなものがつむじのあたりからぴょこんと飛び出して見えた。

 僕は口を開こうとした。おおよそ『こういういたずらが流行っているのか』といったようなことを言おうとしたはずだ。

 が、先に口を開いたのは少女だった。

 

「電は北上さんの件でおうかがいしたのです」

 

 僕は心臓がとくりと乾いた音を立てて跳ね上がるのを感じた。その言葉は僕を動揺させるに十分なものだった。

 

「そうなんじゃないかとは思った」僕は内心の動揺をできる限り隠しながら言った。できるだけ軽口に聞こえるように。

 

「じゃあお話が早いのです」と電はどこかほっとした様子で言った。「北上さんを呼んできてもらえませんか」

 

「北上はいない」と僕は言った。

 

「え?」

 

「北上ならいない」僕は繰り返した。「今朝出ていったんだ」

 

 言ってから僕は少し後悔した。北上が出ていったことなんて、思えばこんな子供に話す必要なんかないことだ。

 しかし電の顔を見ると、そこには露骨な焦りのようなものが現れていた。どうして彼女がそんなに焦らなくてはならないんだろう?

 

「………かくまおうとしても、のちのちいいことはあまりないのです」

 

 少女の声は震えていた。焦燥の色は彼女の表情の中から姿を消し、そこには徐々にいらだちと、怯えにも似た暗い雲が不吉に立ち込めようとしていた。彼女の眉間にはしわが寄せられていたが、それは間に合わせのためにとりあえずそこにこしらえられただけの短い水路のように見えた。

 

()()()()?」

 

 僕は心の中で首をかしげた。かくまう?

 

「ねえ、もしかして君は北上の友達だったのかな?残念だけど彼女はうちにはもういない。でも万に一つ、ひょっとすると、いつかひょっこり帰ってくるかもしれない。その時にはぜひ仲良くしてやってくれないかな」

 

 僕が言い終わっても、電は何か煮え切らないような表情をうかべていた。それはどこか、北上がドストエフスキーの『未成年』をぱらぱらとめくりながら見せた表情に似ていた。電は深く何かを考えているようだった。じっと足元を見つめながら、彼女は『考える少女』という題の銅像みたいにそこに立っていた。

 

 やがて思い出した、という風に彼女はぱっと顔を上げた。彼女の頭のてっぺんに電球がついていたとしたら、それは今業務用の懐中電灯に匹敵するくらいには光っていただろう。彼女はスカートのポケットから何かをごそごそと取りだし、僕に差しだす。それは名刺だった。

 

 僕はそれに目を通し、しばし言葉を失った。

 

「海軍軍令部から来ました、電なのです。北上さんを回収しにきました」

 

 電は淡々と言った。

 

「北上さんは脱走兵なのです」

 

 まるで皆勤賞の表彰状を読み上げるみたいに。

 

 

 ◆

 

 

「北上さんは終戦の混乱にまぎれて海軍第四鎮守府から脱走しました」電は言った。「私たち海軍はその頃てんやわんやで、艦娘一人がいなくなったところでそのことを気にかけているような余裕はなかったのです」

 

 僕は彼女を家に招き入れた。彼女はテーブルの西側の椅子に腰掛けた(というか、よじ登ったというのが正しいかもしれない)。僕は紅茶をいれ、ティーカップを差しだした。彼女は「ありがたいのです」と言って受け取った。

 僕は彼女に向き合うようにして座った。

 

「ひとつ訊いてもいいかな」

 

「どうぞなのです」

 

 なのです、というのはどうやら彼女の一つの口ぐせのようだった。

 

「その『カンムス』っていうのはなんなんだろう?」と僕はおそるおそる言った。

 

 電はびっくりしたように言った。「テレビでよく見かけませんか?」

 

「あいにく映る機械がないんだ」

 

 彼女は軽く部屋の中を見回した。そして納得したように僕のほうへ視線を戻した。

 

「艦娘というのは簡単に言うと、海軍所属の特殊戦闘員の愛称なのです。対深海棲艦戦に特化しているのです。戦艦の艦に娘と書きます」

 

 そのシンカイセイカンというのも僕にはさっぱり分からなかったが、黙っていることにした。おおむね敵みたいなものという認識で問題なさそうだった。

 それにしても、北上が海軍に所属していたという事実は流石にかなりの衝撃を僕に与えた。彼女は僕と一緒にいる間、一度たりとも軍人らしき片鱗を見せたことはなかったからだ。

 

「君もその艦娘の一人?」

 

「はい」と電は肯いた。「なのです」

 

「そして艦娘にはそれぞれ一風変わった名前が付けられている」

 

 電はまた肯いた。電はよく肯く。

 

「電というのは旧日本海軍の駆逐艦の名前なのです」と電は言った。「艦娘はひとりひとり、昔の軍艦の名前で呼ばれているのです」

 

「じゃあ『戦艦大和』なんて呼ばれてる子もいるわけだ」

 

「はい」電は言った。「ちゃんといます。ずいぶん前に会ったことがありますが、とても素敵な人なのです」

 

 電は少し紅茶を飲んだ。

 

「それとはべつに、艦娘にはちゃんとした戸籍上の名前もあるのです。電にも、北上さんにも」

 

 僕はため息をつき、椅子に強くもたれかかった。

 

「北上からはそんなことは一度も聞かなかったな」

 

「それも─────」

 

「それほど重要じゃなかった」と僕はさえぎって言った。「少なくとも、あの時には」

 

 電は肯いた。

 

「北上さんは脱走し、電はその捜索を一任されたのです。本当なら、GPSですぐに簡単に見つかるはずだったのです」

 

「GPS?」

 

「すべての艦娘の身体にはGPS受信機が埋め込まれているのです。そのほうがいろいろ便利だからです。電の身体にも埋まっています。左肩のあたりなのです。お見せしましょうか?」

 

 僕は首を左右に小さく振った。

 

「北上さんの信号をたどっていくと、電は古い漁港の倉庫にたどりつきました。でもそこをいくら探しても北上さんはいませんでした」電は言った。「信号はちょうど目の前のあたりから発信されているのに、なのです」

 

「変な話だね、そいつは」

 

 電は肯く。

 自然に考えれば、北上は何らかの方法でGPSを自分の身体から取り出し、それをその漁港に捨てたということになる。もちろんそれは海軍からの追跡を免れるためだ。

 そして僕は思い至る───彼女の左肩にあったいびつな傷痕のことに。彼女は自ら左肩を切り裂き、そこに埋まっていた受信機をえぐり出した───そうだとすれば確かに説明はつく。しかし疑問は残る。

 

「だとしたら、君はどうやってここにたどりついたんだろう?」

 

 北上を追跡できなければ、当然この家のことも分かるはずはない。

 電は紅茶をすすり、そして答えた。

 

「はい、それには長い経緯があるのです。電はまず北上さんの受信機のあった倉庫を中心に、市内をさがすことにしたのです。聞き込みだったり、あらゆる監視カメラの録画の確認だったり───これ以上はちょっと言えないのですが───とにかく色々な手を使いました。考えうるすべての方法を試しました。でも見つかりませんでした。そして途方に暮れていたとき、あるうわさを聞いたのです。ホームレスらしき女の子があちこちふらふらしていて、そのあたりではちょっとした有名人になっているといううわさです。電はもちろんそのうわさに飛びつきました。その女の子がいるのは隣の市らしいということだったので、電はわらにもすがる思いで電車に乗りました。そして調査に調査を重ねた結果、どうやらこの家───渡辺さんのお家に出入りしているらしいということが分かったのです。それがつい昨日のことなのです」

 

「そして君はここへたどりついた」と僕は言った。「たしかにしばらくの間北上はここで暮らしていた。でも運の悪いことに、彼女は今朝出ていった」

 

 電は肯いた。「みたいなのです」

 

「北上は気づいていたんだろうか?つまり、君が彼女の所在をつきとめつつあったことに」

 

 電は首を左右に振った。それに合わせてライトブラウンの髪がふわふわと揺れる。

 

「わからないのです。でも、多分気づいてはいなかったと思うのです。電は調査中の行動にはずいぶん注意していましたし、じつのところ、電はそもそもまだ北上さんと直接お会いしたことはないのです」

 

「会ったことがない?」僕はびっくりしてたずねた。「艦娘どうしでもそういうことはあるんだ?」

 

「よくあることなのです。艦娘はたくさんいますから。部隊が違えば話す機会は減りますし、鎮守府が違えば面識もないくらいが普通なのです」

 

 とにかく電は軍令部上層から渡された北上についての最低限の情報だけを頼りに、今日までおよそ半年近く彼女を捜し続けてきたのだという。

 

「そこで渡辺さんにおりいっておねがいがあるのです」

 

「どんな話なのかなんとなく予想はつくけど」僕は言った。「聞くよ」

 

「北上さんを一緒に捜してほしいのです」と電は言った。「電一人ではもうじき限界がきます。情報が足りないのです。少しでも北上さんと暮らしていた渡辺さんならわかることがあるかもしれないのです」

 

 電の大きくてみずみずしい二つの瞳は僕をしっかりと見つめていた。僕は慎重に言葉を選び、そしてたずねた。

 

「北上を見つけて、それからどうする?」僕は言った。「彼女はどうなる?」

 

「まず重大な規則違反を犯しているので、営倉入りはどうしても避けられません。懲罰が終われば軍役に復帰ということになると思うのです。何にせよ、解体されたりということはないと思うのです。艦娘はいつも人材不足なので」

 

 僕は黙っていた。解体、という言葉の意味も僕にはよく分からない。しかしそれは不穏な響きをもち、僕の心にしみのような影を落とす。

 とにかく海軍の───電の思惑どおりにすべてのものごとが進めば、北上はまた軍に戻り、艦娘としての任に就くこととなる。左肩を再び切り開かれてGPSを埋め込まれ、軍の管理下におかれるわけだ。それが良いことなのか悪いことなのか、結論を出すことは僕にはひどく難しい。それはあるいは良い悪いという尺度の外にあることだからだ。

 

「少し考えさせてくれないかな」と僕は言った。

 

 電は肯いた。そして椅子から降り、ぴょこんと一礼した。

 

「明日になったらまたおうかがいします。その時にお返事を聞かせてほしいのです」

 

 僕も肯いた。

 

「ではさようなら、なのです」

 

 彼女はもう一度礼をして、玄関のほうへ足を向けた。彼女は短い廊下をてくてくと歩いていく。その時、その背中に僕はちょうど思い出したように言った。

 

「そういえば、昼食はまだ?」

 

「?」電は振り向き、首をかしげた。「はい、まだなのです」

 

「よかったら食べていくといい」と僕は言った。「たまたま今日は真面目に作る予定なんだ」

 

「でもなんだか悪いのです。今日のところは───」

 

 その瞬間、腹の鳴る音がした。電は赤くなった。

 

 

 ◆

 

 

 彼女はまた西側の椅子について、気持ちよく背すじを伸ばし、静かに部屋の中を眺めていた。僕はキッチンに入り、昼食の支度をはじめる。

 

「すてきなお部屋なのです」

 

 ありがとう、と僕は素直に言った。

 

「君の住んでるところからだと、ここまでは遠いの?」

 

「電は海軍の官舎に住んでいるのです」と電は言った。「ここまでかなり遠いとはいっても、だいたい二時間もあれば着くはずの距離なのです。こんなに遅くなってしまったのは、恥ずかしながら、ずいぶん道に迷ってしまったからなのです。あんなに早起きしたのに……」

 

 このあたりはそれほど複雑な入り組み方をしているわけではないけれど、たしかに初めて来るのだと多少迷ってしまうかもしれない。それに、二時間といったってそれなりの道のりだ。そう何度も往復したい距離ではない。

 

「明日も来る予定なら、今日くらいは泊まっていってもいいけど」

 

「それはすごくありがたいのですが、流石にそこまでしていただくわけにはいかないのです」電は遠慮がちに首を振った。「一度帰って、また来るのです」

 

僕は感心してため息をついた。「君はまだ小さいのにしっかりしているな」

 

「電はもうすぐで九十歳になるのです」

 

「やれやれ」僕は首を振った。「参ったな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11. 海へ行くんだね?

 

 

 電が帰り、僕は一人になった。

 

 僕は洗ったばかりの食器を棚に片づけ(食器の半分は電が洗ってくれた)、キッチンを出た。そして籐椅子に腰をおろした。それはすでに絶海の孤島だ。僕はまたつま先で足元を確かめるが、そこにあるのが本当に板張りの床なのか、僕には自信がなくなっている。

 彼女が帰ってしまうと、まるで泉の水を抜くみたいにして音は消え去り、ふたたび青い静寂が訪れた。この部屋には音がない。ものはあるが、音はない。

 またラジオでも買うべきだろうか、と僕は思った。でももうそんなものを買う気にはなれなかった。代わりが見つかるものもあればそうでないものもある。そういうことだ。

 

 

 ◆

 

 

「協力するよ」と僕は言った。

 

「ありがとうございます」と電は頭を下げた。「とても心強いのです」

 

 電は十時きっかりにやってきた。それは昨日二人で打ち合わせたとおりの時刻だった。彼女は昨日と同じように椅子に座り、僕と向かい合う。

 

「でも、具体的には何をすればいいんだろう?」僕は言った。「あまり有益な情報は出せそうにない気がする」

 

「北上さんがどうして出て行ったのか、心当たりはありますか?」

 

「ないな」

 

 僕は少し考えた。そして口を開いた。

 

「北上には、好きなだけここにいればいいし、出ていきたいときに出ていけばいいと言ってあった。そのときが来たんだろう、細かい事情はともかくとして」

 

 結局のところ、僕が電に話せるのはそれくらいのものだった。北上がどうして急に出ていったかなんて、僕なんかにわかるはずがないのだ。

 

 

 ◆

 

 

『とにかくこの市内から調査していきましょう。何かわかることがあるかもしれないのです』

 

 僕は駅前公園のベンチに座り、電の言葉を思い出していた。

 

『では、ヒトハチマルマルにまたこのマンション前で待ち合わせましょう』

 

『ヒトハチマルマル?』

 

『失礼しました、十八時にまた、ということなのです』

 

 そしてコンビニで買ったサンドウィッチをひと口齧った。

 

 公園には小さな噴水があり、それをとりまくようにしていくつかのベンチがあり、さらにそれらをとり囲むようにしてカエデの樹がずらりと植えられてあった。周囲にはガラス張りの高層ビルが立ち並び、どうやらこの場所はサラリーマンやOLのささやかなオアシスとして機能しているようだった。ごく普通の公園だ。わずかな緑をたたえ、都会的な喧騒の真ん中に何かの償いみたいにしてぽつんと立っている。

 

 僕はまたサンドウィッチをひと口齧った。

 

 市内を捜索すると言われても、何から始めればいいのか僕にはさっぱり分からなかった。電と僕で共有することができた情報は結局ないに等しかったのだ(その割には電はさして落ち込む様子もなく颯爽と捜索に出ていった)。

 

 そういうわけで、まず市の中心へ向かうことにした。そしてその中心とは、僕の思いつく限りでは市でもっとも大きい鉄道駅だった。北上がどれだけの金を残し持っていて、どこへ行くつもりなのかは不明だが、移動手段としてまず考えられるのは電車だ。この駅には市内のほとんどの電車が停まるし、大規模なバスターミナルも併設されている。人捜しをするならここから手を付けるのがベストだ。

 しかしスタート地点としてベストであったとしても、それは最終的な成功を保証するものではない。僕はまだどこへもたどり着いてはいない。その証拠として僕はいまこうして途方に暮れ、サンドウィッチをもう一口齧ろうとしている。やれやれ、いつでも出ていって構わないと言っておきながら、今や彼女を探すためにこうして必死で頭を捻っている。まったく奇妙なものだ。

 

 とにかく適当な電車に乗ってみよう、と僕は思った。行くとしたら海がいい。僕は海が見たかった。それはほとんど説明のつかない衝動的な感情だった。僕はサンドウィッチの残りをバックパックにしまった。市内で海が見られる所といえばほとんど限られているし、幸運なことにそこへは一度の乗り換えだけで行くことができる。僕は海へ行くことにした。

 

 

 ◆

 

 

 海へはせいぜい一時間もかからない。乗客が減ってゆくにつれ、徐々に潮風の香りが強くなってゆく。海か、と僕は思う。海に特別な思い入れがあったり、特筆すべきルーツがあったりするわけではない。それでも海はいやおうなく僕をひきつけた。それがほとんど無意識的なことだったと気づいたのは、電車を二度乗り換えたあとだった。

 

 水平線が見え始めるとあたりの街並みは急にひなびてくる。車窓からちらほら見えるのは老人ばかりで、この街は人よりもカモメのほうが多いんじゃないかとさえ思う。ワンマンカーの狭い車内を見渡すと、ほとんど客は僕ばかりになっていた。乗り換えた時には僕のほかに、いかにもみすぼらしい老人とスーツを着込んでぱりっとした青年が乗っていた。

 

 しばらく窓の外を眺めていると、みすぼらしい老人のほうが隣へ移動してきて僕に話しかけた。

 

「あんた、黒アメは好きかいね」

 

 僕は肯いた。黒アメは好きなほうだ。

 老人は黙ってそれらしきものを取り出し、僕のほうへ差し出した。僕が素直にそれを受け取ると、老人はうんうんと深く肯いた。僕はありがとうと言って黒アメを口の中へ放り込み、包み紙を丁寧に四つ折りにしてズボンのポケットにしまった。

 

「こんな電車に乗っとるっちゅうことはあれだね、あんたも帰りの人かいね」

 

 帰り、という意味が僕にはよくわからなかった。「人をさがしているんです」と僕は言った。ほおう、と老人は肯いた。

 

「まあ、そういう場合もあるわな」

 

 彼は一人で納得したように何度かまたうんうんと肯いて、視線をぼんやりと前に向けた。彼はしわの多い年季の入ったまぶたを無理に押し上げ、やっと視界を確保していたが、目は確かにしっかりと前を見ていた。その目が海を見ているのか、それとも手前の窓を見ているのか、僕にはわからなかった。あるいは何も見ていないのかもしれなかった。

 

「あなたはなんの用でこの電車に?」と僕は問いかけた。

 

「そりゃああんた、うちへ帰るためさね」と老人は視線を動かさずに言った。「うちへ帰るためさ。わしたちは時が来れば帰らにゃなるまいし、その時ってのがいつ来るのかはだいたい自分で分かってるもんさ。なぜって、そうじゃねえとおかしいものな。どこから乗るにせよ、このおんぼろ電車に乗ってる連中はみんな同じほうへ帰るってわけさね」

 

「そうですね」僕は肯いた。彼の言うとおりだ。

 

「帰るべき場所ってのはもしかするとねえのかもしれんが、しかし何もしていなくたってどこかしらへは行き着いちまうもんだ。そうだろう、あんたはどこへ帰るんかいね」

 

「人をね」と僕は言った。「さがしているんです。帰るのはその人が見つかってからということになるんだろうな」

 

 老人は見たところずいぶん歳をとっていた。言葉のひとつひとつが水分を失ったみたいにひび割れ、しわがれており、それらを聞き取るには少し時間が必要だった。でも苦労をする必要はなかった。ただ僕は時間をかけ、ひび割れた言葉の欠片をつかまえ、頭の中でふたたびそれらを組み立てていけばよかった。そこにはあるべきいら立ちのようなものが不思議となく、僕はその作業に至って落ち着いて臨むことができた。車内には寛容な潮の香りと曖昧な西陽の光だけが充ちていた。

 

 同じような問答がさらに三回ほど続いてから、老人は田舎の村らしき駅で降りた。駅には彼の家族らしい人々が迎えに来ていて、しきりに抱き合ったりしているのが窓から見えた。

 

 それからも僕は窓の外の海を眺めながら、電車に揺られ続けた。やがてスーツの青年もどこかでふっと消えるようにして降りてしまった。僕は彼が降りたことに全然気づかなかった。でもそれは大したことではなかった。実のところ、彼がどこで降りたのかなどといったことは、ここではさほど重要な問題にはならないのだから。

 

 この街には海と畑のほかにはほとんど何もないようだった。車窓から外を眺めやれば、いかにも牧歌的な風景が右から左へと流れてゆく。それは何ら生産性を伴うものではないにもかかわらず、外を眺めているだけで少しずつ、しかし確かに何かが僕の中に蓄積されていくように感じられた。

 

 ()()()()()()()()()()、と僕はふと思った。

 

 それもやはりとくに根拠のない思いつきだった。次の駅に何があるのかはわからない。でも確かに言えることとして、僕はどこかでこの電車から降りる必要があった。このまま乗り続けて放浪の旅に出るのも魅力的ではあったが、やはりまだ今の仕事を放り出すわけにはいかないし、そもそも現実問題としてそれほど金の手持ちがなかったということもある(もちろんそういう問題ではないのだけれど)。とにかく僕はどこかで反対向きの電車に乗り換えなければならない。

 

 次の駅は前の駅やそのまた前の駅と同じように、海岸に臨んでぽつりと建っていた。ほとんど誰かの役に立っているようには見えず、何かの帳尻を合わせるためだけにそこに置かれているような印象を与えていた。

 ドアがのんびりと開いた。一歩踏み出すと、僕は久々の外の空気を胸いっぱいに吸いこむことができた。しっかりとした潮の香りがした。それは恐らく長い間僕が必要としてきたもののひとつだった。そこには濃厚な生命の芳香があり、鋭利な死の気配がある。

 

『どうしてここだって分かったのさ?』

 

 べつに選んでこの駅に降り立ったわけじゃない、と僕は思った。僕はあくまで受動的に行動しているにすぎないのだ───そう、いつものように。

 

 

 ◆

 

 

 電は途方に暮れていた。国鉄の、どちらかというとさびれた駅だ。ホームは侵食の進んだコンクリートで固められていて、その殺風景具合は海軍病院の霊安室を思わせた。臨海方面への私鉄に連絡しているという事実だけがこの駅を現世につなぎ止めているように見えた。そういうわけで人はそれなりにいた。どこへ行くにしたって、ここは必ず通らなくてはならないわけだ。

 電はあたりを見渡した。駅はどうしようもなくうらぶれていた。それは駅と言うよりはむしろ、黒い海をあてもなくただようくじらのように感じられた。このくじらが生きているのか、はたまた死んでいるのかはわからない。電にはそんなことはわからない。電はわからないことは考えない。

 尾行対象を見失ったことで、上官は自分にどんないやみを言うだろうかと電は考えた。電がそういったことに考えをめぐらせるのはどちらかといえば珍しいことだった。電はめったに失敗しないからだ。

 電は駅のホームの隅にしがみつくようにあるベンチに座った。その脚はコンクリートの中に埋まり、しっかりと固定されていた。フジツボみたいなのです、と電は思った。クジラにしがみつくフジツボにこしかけたわたし。小さなため息。

 

 電は一流の軍人だった。

 彼女の経歴を簡潔に語ることはひどく難しい。たとえるなら、それは半世紀続いたテレビドラマシリーズのあらすじをレシートの裏に書きとめておくようなものだからだ。それでも批判をおそれずに試みるとすれば、まず彼女は海軍兵学校に最年少で入学してから特A課程を首席で卒業し、そのまま艦娘となった。14歳と2ヶ月の時だった。入学は16歳以上にのみ認められていたが、彼女は書類の偽造によって年齢と生年月日を4年ほど詐称していた。40年にもわたって艦娘として前線を張ったのち、彼女は退役艦娘として江田島で教鞭をとることになった。まもなく海軍軍令部第三部(情報担当部)に引き抜かれた。戦場における情報収集能力と的確な分析能力が高く評価されたためだ。それは海軍史的に見ても異例の人事だったが、誰も口をはさむ者はなかった。海軍組織にはとりわけ実力主義的な体質が色濃く残されており、それは少なくとも軍的組織として持ちうる数少ない美点のひとつだった。

 情報担当部において、電は───有りていに言うならばということだが───ひときわ輝かしい功績をのこすことになる。敵対勢力の動向を的確に分析し、参謀部へ有効な助言をたびたび行った。暗殺や工作員まがいの仕事の手助けもした。そうしているうちに、やがて彼女は身動きをとることが難しくなっていった。軍組織の暗部に触れすぎたのだ。

 

 電は駅構内のキオスクで缶のブラックコーヒーを買い、ベンチへ戻る。そしてひと口ずつ飲みながら次の手を考える。焦がされた苦味が頭をリセットし、よりクリアな思考を可能にしてくれる。

 彼女は現在の目的を確認する。私は北上の行方をつかむため、渡辺氏を追わなければならない。彼ならば北上がどのような行動パターンをとるか、予測できる可能性があるからだ。しかしどういうわけか、電は撒かれてしまった。

 これまでの行動経路から考えるに、彼は海へ向かっている可能性が高い。そして彼はこの駅を確かに通過した。この駅はハブ的な役割を果たしており、臨海部へ足を伸ばそうとするならば、各駅停車しかない私鉄か、いくぶんさびれたワンマンカーかということになる。電はため息をつきながら電光掲示板に目をやる。

 

『臨海線○○駅で人身事故が発生した影響により、現在運行を見合わせております。運転再開時刻は未定で────』

 

 私鉄は事故に伴う設備点検のため止まっている。ワンマンカーのほうは通常通り運行しているものの、利用者の減少により4年前からダイヤが見直され、一日に数本しか来ないという有り様だった。念のため今日の残りの便を確認したが、時刻表を見たあとで電はもういちどため息をつかなければならなかった。

 

「お嬢ちゃん、あんた迷子かね」

 

 ベンチに座り尽くしていると、話しかける者があった。

 

「電は迷子なんかじゃ───いえ」電は思い直して言った。「そういったところかもしれないのです」

 

「黒あめをあげよう」と”それ”は言った。

 

「黒あめ?」

 

「そうさね」”それ”は肯いた。「黒あめっちゅうのはつまり、黒砂糖で作ったあめさね」

 

 電は肯いた。そして黒あめを受け取り、丁寧に包み紙を開いた。

 

「とても甘いのです」

 

「うんぬ」”それ”はまた肯いた。「そりゃあつまり、黒あめってのは黒砂糖でできてるわけだからなあ」

 

 その話し方からは、少なからず認知症の進行を感じとることができた。

 

「海へ行くんだね?」

 

 "それ"は突然はっきりとそう言った。電は心臓がとくりと跳ね上がるのを感じた。そこにはまるで、簡単な言葉しか話せないはずの対話型のおもちゃが、突如として自分の言葉で自由に話し始めるような、恐怖にも似た違和感があった。

 ひと呼吸おいて電はこくりとうなずいた。それが今彼女にできる精一杯だった。

 

「バスがいい」と"それ"は言った。

 

「バス?」と電は言った。

 

「バスってのはつまり、車輪が4つついとって、いくぶん細長い」

 

「わかります」と電は言った。電はそれぐらいは知っている。

 

「この駅を出て北西へ少し進めばバス停があるさね。バス停ってのはつまり────」

 

 "それ"はバス停について夢中で話し始めた。そして話は連鎖的に続いた。バス停について話したあとは時刻表について話し、時刻表について話したあとは時間の概念について話し始めた。きりのないドミノ倒しのように。

 電は小さくお礼を言い、立ち上がってその場を去った。彼女にはあまり時間がなかった。"それ"はかまわず虚空に向かって話し続けていた。口の中の黒あめは、いつの間にか無くなっていた。

 

 

 ◆

 

 

 降りたその駅から出ると、すぐに砂浜が広がっていた。空は高く、空気は鋭く澄んでいた。刷毛で引いたように雲のすじが浮かび、西日をうけて温かく染まっていた。それは猫が飼い主につける、親愛のしるしとしての甘い傷あとのように見えた。海はほとんど理想的に青かった。海水は見事に透きとおっていて、少し沖を見ると淡いエメラルドグリーンから暗い青へと色が変わる境目を確かめることができた。

 

 そしてそこには北上が立っていた。

 

 彼女はこちらに背を向け、沖のほうを眺めていた。いや、視線まではわからない。頭を正面に向けていたから、多分そうだろうと思っただけだ。

 

「どうしてここだって分かったのさ?」

 

「別に」と僕は言った。「特に目当てがあってここに来たわけじゃない」

 

「嘘つきだってよく言われない?」彼女は半分だけこちらを振り向いて言った。

 

「言われたことはない」

 

「嘘だ」と北上は言った。「それだって嘘だよ」

 

 北上は海の色の変わり目のところに、ひざまで浸かって立っていた。波はほとんどなかったが、彼女のスカートの端は少し濡れていた。

 そこには生と死の気配が満ちていた。それは手にすくいとって重さを確かめられそうなほど濃く、そして流動的だった。うまく形を変え、折り合いを付けながら、世界を構成する要素として正しく機能している。あまりに透明すぎる海がちょうどそうであるように。

 

「君はもうすぐ死ぬのか?」と僕は言った。

 

「知ってる?」北上は質問に答えず言った。「飼い猫って死に時がきたら、ふっといなくなるんだって。飼い主に死に際を見られないように」

 

「君は飼い猫じゃないだろ」僕は言った。北上は飼い猫ではない。そして僕は飼い主ではない。

 

「そう思ってくれて嬉しい」

 

 北上は微笑んだ。思えば、僕は彼女がそのように笑うところを目にするのはほとんど初めてだった。

 

「ねえ、実はあたしって艦娘なんだよ」彼女は小さく海水を蹴った。「艦娘のことは知ってる?」

 

「たまにテレビに出ている」

 

「そう、たまにテレビに出たり、新聞に載ったりする」

 

 僕は電に教えてもらうまで艦娘のことなんてまったく知らなかったが、黙っていた。僕は僕が知っているすべてのことについて、いったん黙秘を貫くことにした。

 

「艦娘は正しくメンテナンスをしないと長く生きられないんだ。あたしたちは艦だからね。人間じゃない。自転車や包丁となにもかわらない」

 

 そして包丁は正しく研がれなければならない、と僕は思った。その用途が何であれ。

 

「軍には戻らないのか?」

 

「それってその辺で死ぬこととどう違うの?」と北上は嘲笑気味に言った。

 

 僕は答えられなかった。

 

「何も違わないんだよ。むしろもっとずっと酷いことかもしれない」

 

「その辺で死ぬことと、僕の家で死ぬこととはどう違う?」

 

 彼女は少し驚いたような顔をした。

 

「……わからないよ、そんなの」

 

「君との生活は悪くなかった」

 

「あたしだってそう思う」彼女は言った。「できれば戻りたいってさえ思う」

 

 波が一度だけ少し強くなった。それは彼女の太ももをスカートぎりぎりまで濡らし、やがて僕のつま先を濡らした。

 

「でもあたしには誰かに看取ってもらう権利なんてないんだよね」

 

「なぜ?」

 

「大井っちを看取ってあげられなかった」

 

 おおいっち、と僕は思った。

 

 例の寝言だ。

 

 僕はそのことについてもっと聞きたかった。質問したいことが山ほどあった。しかしそれはかなわなかった。そこで目が覚めたからだ。

 

 

 ◆

 

 

 電はバスに乗り海を目指した。

 車内には誰も乗客はなかった。乗ってくる者も、降りていく者もなかった。

 一時間ほど揺られ、辿りついたのは断崖絶壁だった。電は和歌山で見た三段壁を思い出した。それはあらゆる意味において圧倒的に行き止まりだった。

 

 ふと電は思う。どうして自分はこんなことをしているのか?会ったことも話したこともない人物を半年近くも探し続けているのはなぜか?

 

 もちろんそれがわたしの仕事だからだ、と思う。しかし電はそのことに少しづつ自信を持てなくなってきている。これは果たして海軍の、日本という国の未来に益することなのだろうか?

 艦娘は道具にすぎない。道具が使命から逃れ自由な暮らしを望んだところで、そんな話は通らない。ある日自分の包丁が、明日からはかなづちとして生きていきたい、と言い出したところで、はいそうですかと肯くわけにはいかない。でももう自信はない。包丁がかなづちでもいいのではないか、と言われても、今のわたしにはうまく言い返せないかもしれない。

 

 強い風が吹いた。それはたっぷりと潮を含み、電のスカートをすっかりめくり上げた。電は気にもとめなかった。どうせ誰も見ていない。

 

「どうせ誰も見ていないのです」

 

 声に出してみると、それはまるで自分の声ではないかのように響く。

 

 わたしを失えば海軍はどうなるだろう、と電は思う。おそらく次の刺客がわたしと北上さんを探し始めるだけだ。サメの歯がリボルバー式に生え変わるみたいに。特にわたしは海軍の機密の多くを知ってしまっている。死にものぐるいの追跡を受けることになるだろう。そしてその刺客はわたしや北上さんが通った道をそっくりそのままなぞることになるだろう。───もしそうなったら、渡辺さんはわたしたちについての情報をしゃべるだろうか。

 おそらく答えはノーだ。彼はそういったタイプの人間ではない。彼はきっと北上さんについてもっと多くを知っているけれど、わたしにほとんど話さない。

 

 そして電はふと思う。おそらく彼はすでに北上さんに再会している。あの駅からたどり着いたどこかしらの海で、二人はまた出会うことになる。電にはどういうわけか強い確信があった。でも理由はわからない。電は海に背を向け歩き出す。

 

 電はわからないことは考えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

12. とにかく海です

 

 

 車掌に身体をゆすられ目が覚めた。

 そこは例の寂れたハブ駅だった。ワンマンカーは僕を載せたまま折り返し運行し、もとの振り出しに帰ってきたようだった。僕はその道中で眠ってしまっていたのだ。

 僕は今までに起こったものごとを頭の中で丁寧に整理していった。農家がリンゴの出来をひとつひとつ点検するみたいに。それら全てが現実離れしすぎていたが、それでいてそこにはしっかりとしたリアリティと説得力が備わっていた。ただの夢だとは思えない。少なくとも断言はできない。僕には北上と直接話をしたという確かな実感があった。

 

 時計を見ると、17時を示していた。随分長いあいだ電車に揺られていたみたいだ。18時には家に戻るという電との約束がある。僕はJRの切符を買い、改札をぬけた。

 目についたベンチに腰かけ、電車を待った。埃っぽいトタン屋根に切り取られた黒々とした空からは、しっとりと重い雨が降っていた。それはどこか示唆的な雨だったが、吉兆なのか、それとも悪い兆しなのか、僕にはうまく見極めることができなかった。

 

 

 ◆

 

 

 マンションのロビーへ入ると、四角いうぐいす色のいかにも硬そうなソファに電がちょこんと座っていた。歩きの途中で雨に降られたのか、彼女はつま先までくまなく濡れていた。ライトブラウンの髪は水分を含んでいくらか暗い色になり、首すじにぴったりと張り付いていた。セーラー風のトップスは透けて、わずかに下着の輪郭が浮かび上がっていた。そして電はそんなことは気にもとめず、整然と着席していた。それは遠くから見れば、誰かが注意深くポーズを調節し設置した人形のように見えた。もちろん、ぐっしょり水浸しになっているという点を別にすればということだが。

 腕時計を見た。17時47分だった。

 

「おかえりなさい、なのです」電はやはりちょこんと立ち上がった。「油断してしまいました」

 

「ただいま」と僕は言った。「早くシャワーを浴びた方がいい」

 

「すみません」電は頭を下げた。

 

 謝ることはない、と僕は言った。謝ることなんか何もない。

 そして我々は部屋へ戻った。電がシャワーを浴びている間に僕は彼女の衣服類を全て洗濯し乾燥機にかけた(僕がそれらを洗うことについて彼女は特に何も反応を示さなかった)。やがて電が出てくる頃には全てを終わらせることができた。

 

「驚いたのです」と電は目を丸くした。「ずいぶん早く仕上がるものなのですね」

 

「急速運転という機能がついている」と僕は言った。「早く仕上がるけど、そのかわり少し傷めてしまったかもしれない」

 

 気にしなくていい、というように電は首を左右に振った。「どうせ官給品ですので」

 

 なおさらまずいのではないか、と僕は思ったが、黙っていることにした。

 僕はミルクパンで牛乳を温め、クラッカーと一緒に彼女に出した。彼女はそれらをわりに美味しそうに口へ運んだ。

 

「北上には会えなかった」と僕は率直に言った。「海へ行ったんじゃないかと思ったんだけど、話はそう単純じゃなかったみたいだ」

 

 電はひとしきり黙っていた。彼女はオリーブグリーンのランチョンマットをじっと眺めていた。穴が空いてしまうのではないかと思うほどに。

 僕は指先で机の裏の手触りを確かめた。それは職人によって丁寧にやすりがけされたひのき合板のテーブルで、赤子の肌のように滑らかだった。

 

「猫を飼っていたことがあります」と電は唐突に話し始めた。

 

 僕は黙って聞いていた。

 

「めすの黒猫でした。勤め先に迷い込んでいたのを保護したのです。やせ気味で、いつも鋭いきつい目をしていました。年齢もわかりません。でもよく懐きました。家の中をよく走り回って、捕まえた虫やヤモリをわたしのところまで運んできてくれました。結局わたしはその子を2年半飼いました。最後は腎臓の病気で亡くなりました。知っていますか?猫の宿命ともいえる病です」

 

 僕はホットミルクを飲みながら、その黒猫のことを思った。サバイバルナイフのような目つきで、飼い主のために夢中で獲物を追いかけまわすめす猫のことを考えた。でもなぜ電が今そんな話をしなくてはならないのか、僕にはわからなかった。

 

「電が何よりも幸福だったのは、その子の最期を見送ることができたことなのです。彼女はお気に入りのクッションの上で丸くなり、最後までごろごろと喉を鳴らしていました。ひと撫でするたびに呼吸が浅くなるのがわかりました。目はうっすらとこちらを見つめていました」

 

 電はクラッカーを一枚かじった。

 

「それ以来生き物は飼っていません。私は────いえ、私たちは彼女のようにはなれないと思わされてしまうからです」

 

 サバイバルナイフ、と僕は思う。その通りだ。正しく研がれた刃物。

 

「艦娘というのはずいぶん厄介の多い仕事みたいに見える」と僕は言った。

 

「おおむねその通りなのです」

 

「辞めるわけにはいかないんだろうか?」

 

 電は少し考えて言った。

 

「艦娘には正式には寿命というものがありません。艦がそうであるように、正しくメンテナンスと改修を続ければ半永久的に生きられるからです。もちろん艦娘を辞めることは可能なのです。その場合、きわめて特別な儀式を経て艦の魂が身体から抽出され、艦娘は『解体』されることになります」

 

「でも肉体と魂の時間的ギャップが何かしらのエラーを生むことになる?」

 

 電は肯いた。「北上さんに聞きましたか?」

 

「いや」僕は首を振った。「彼女はそんな話はしなかった」

 

 北上はそんな話はしなかった。それどころか、軍人であることさえ僕に勘づかせなかった。

 

「電は艦娘として長く生きすぎたのです。まだ実例を知らないので分かりませんが、電の艦の魂を抜けばこの身体はもろく崩れ去ってしまうでしょう」

 

「砂の城に水をかけるみたいに?」

 

「おそらくは」と電は肯いた。「でも北上さんはそうではないのです。彼女は艦娘になって日が浅い」

 

「つまり」と僕は言った。「まだ北上は艦娘を辞めることができる」

 

 電はクラッカーをもう一枚かじった。

 

「でも軍をやめるには軍へ戻る必要があるのです。戸籍を処分するのに役所へ行くのと一緒です。皮肉なことですが」

 

 そしておそらく軍は彼女を辞めさせないだろう。少なくとも彼女の罪を清算させ、相応の働きをさせるまでは。

 電は少し間をおき、おそるおそる言った。

 

「少しおかしなことを言ってもかまいませんか?」

 

 僕は肯いた。

 彼女はどちらかと言えば、彼女の手元にあるランチョンマットに対して話しかけているように見えた。でもいったいランチョンマットに対してどのような打ち明け話があるというのだろう?

 

「ここのところずっと考えていることがあります。いえ、正確には海を見てからずっと、ということなのです。電も今日北上さんの手がかりを探して海を訪れました。渡辺さんとはたぶん違うルートですが、とにかく海です」

 

 電はそこでひと呼吸おいた。

 

「さっきも言ったように、艦娘と艦の魂を分離するには儀式が必要です」

 

「きわめて特別な儀式」と僕は言う。

 

 電は肯く。

 

「電はそのやり方を知っているのです。そして、そのことをきっと覚えておいてほしいのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13. はっきりいって離れ業です

 

 

 その日、電はうちへ泊まっていくことになった。ベッドを貸そうとしたが、彼女はそれをかたく断った。

 

「そこまでしていただくわけにはいきません。電はこう見えても軍人です。その気になれば海の上で立って寝ることもできるのです」

 

 本当にそんなことが可能なのか気になったが、確かめる術はなかった。結局電はリビングのソファで寝ることになった。北上がずっと使っていたソファだ。リクライニングすれば簡易ベッドになるし、わりに寝心地もいい。僕も北上も、そのソファを気に入っていた。

 夕食は簡単にカレーを作った。

 電は僕の横でぴょんぴょんと小さく背伸びをしながら鍋の中を覗き込んでいた。人混みの中から街頭演説を見届けようとする子どもみたいに。

 

「電はカレーには一家言あるのです」

 

 やれやれ、と僕は思った。海軍人というのは皆こうであるらしい。

 

「電の隊ではオイスターソースを入れていたのです」

 

「そうなんだ」

 

 そして僕は黙って火力を調整し、カレーをかき混ぜる。

 

「厨房には必ずオイスターソースがありました」

 

「そうなんだ」

 

 僕は信楽焼の小皿にカレーを少し取り、味を見た。悪くない。

 

「オイスターソースは」電は言った。「本来は塩漬けの()()を発酵させて作っていたようです。どうりでうまみが凝縮されているわけなのです」

 

 僕は小さくため息をついた。

 どうやらつまり、オイスターソースを入れろ、ということらしかった。僕は冷蔵庫の小物入れのオイスターソースを取り出し、念の為に賞味期限を確認した。僕が適当な量を投入するところを見届けると、電は満足そうにてくてくとキッチンを出ていった。

 そしてカラーボックスの前に立った。

 

「ここにある本を読んでもかまいませんか?」

 

 かまわない、と僕は言った。

 

「それほど大した量を揃えているわけじゃないけど」

 

「いいえ、素敵なコレクションなのです」

 

 そう言って彼女は『深海の使者』を取り出した。標準的な中編の文庫本だ。

 

「吉村昭が好き?」

 

 電は肯いた。「何度も、何度も読んでいるのです。特に戦時────わたしたちの魂が生まれ、もっともその輝きを強めた時代について描いたものを。彼はそういった描写にかけては、他の作家とは明らかに一線を画しています。まるでカメラを持ってその場にいたかのようです」

 

 僕は吉村昭が伊号第三十潜水艦の艦橋に立ってカメラを構え、ドイツの軍港のUボート・ブンカーや防塞気球の姿を写真におさめてゆくところを想像した。でももちろん実際に彼はそういったことをしたわけではない。彼の小説のもつ立体感と説得力は、執拗なまでに緻密な取材と、徹底した三人称視点に裏打ちされている。

 

「彼の作品の美点のひとつは」と電は言った。「海軍組織というシステムを、忖度なく忠実に描きあげているところにあると思います。その内包する不安定さや理不尽さを、間接的なイメージとしてわたしたちの中に立ち上げていくのです。はっきりいって離れ業です。それは黒い絵の具だけを使って光を描き出していくような作業なのです」

 

「君は今ではそのシステムの一部になっている」と僕は言った。

 

 電は困ったように微笑んだ。

 

「当時に比べれば、ずいぶんましなのです。ほんの少しだけ悪いものを受け継いではいますが」

 

 その後我々はカレーを平らげ(オイスターソースを入れたことは確かに間違っていなかったみたいだ)、歯を磨き(電はどんなときも自分の歯磨きセットを持ち歩いている)、そして各々の眠りについた。

 僕はベッドにもぐりこみ、そしてやはり様々なことについて考えた。国鉄のうらぶれた駅について。黒あめについて。そして電の言葉について。

 

 ───電はそのやり方を知っているのです。

 

 なぜ彼女は僕にそんなことを打ち明けたのだろう?

 もちろん考えても答えは出ない。同じところをぐるぐるとさまよっているだけだ。僕はどこにもたどり着くことができない。どのような結論にも。どのような場所にも。

 

 

 ◆

 

 

 翌朝、電はうちを出る。空は気持ちよく晴れわたり、街は昨日の雨の気配をわずかに残している。

 

「とてもお世話になったのです」電は頭を下げた。

 

「かまわない」と僕は言った。「いつでも泊まっていけばいい。仕事がない日なら、だいたいにおいて暇なんだ」

 

「北上さんの件ですが」と電は言った。「いったん保留ということになりそうなのです」

 

「海軍の意向ということ?」

 

 電は肯いた。

 

「半年も探して成果が出ないところを見て、ようやく諦めがついたのでしょう。戦局もいまのところ落ち着いています。でも覚えておいてほしいのですが、経験上、海軍が一度裏返した書類がもう一度表を向くことはありません」

 

「つまり」と僕は言った。「海軍はもはや北上を求めていない」

 

「そういうことになるのです。どうしても代わりがいないというわけではありませんから」

 

 じゃあ、と僕は言いかけてやめる。

 ()()()()()()()()()()()()()

 いや、それだって筋の通らない話だ、と僕は思う。好きなときに出ていけと言ったのは僕だ。なのにどうして誰かが彼女を探さなくてはならないのだろう?

 黙っている僕を見て、電は話し始める。

 

「猫が死んだとき、こう見えても電はずいぶんショックを受けたのです。身体の一部をすっかり失ってしまったような気分でした。視界の端で何かが動けば、あの子が帰ってきたような気がして振り向いたものです。でもどこを探しても彼女はいない」

 

 そこにはいくぶん同情的な色が見てとれた。

 もちろん、それだけではないにせよ。

 

「北上は猫じゃない」と僕は言う。

 

「はい、北上さんは猫ではないのです」と電は言う。「でも、むしろその異なっている部分が重要なのです。そうは思いませんか?」

 

 でもむしろその異なっている部分が重要なのです、と僕は頭の中で繰り返す。その言葉は、僕の心の中へなにかしら明るいものを運び込んでくれた。そのような実感があった。

 

「希望を持たずに生きることは死ぬことに等しい」

 

 僕は言う。

 

「ドストエフスキーですね」

 

 そう言って電は小さく肯く。

 

「大好きな言葉なのです」

 

 そして我々は別れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

14. 窓を開けてもかまいませんか

 

 

 電が去った翌日、少し悩んでから僕は会社に辞表を提出した。

 それほど熱心に働いていたわけではなかったが、それでも上司は少なくとも驚き、それなりに惜しんでくれた。そして僕の意志の固いところを見ると、諦めたようにすんなり納得してくれた。

 

 それからまず僕のやるべき事は、家財道具をすべて処分することだった。大半のものはリサイクルショップで売りさばき、大きな家具や家電は区の施設に寄付し、それでも残ったものは廃品回収に出した。籐椅子も、テーブルも、カラーボックスも。貯蓄はそれなりにあったが、それでも気持ちばかりの足しにすることができた。

 

 次に僕は中古車ディーラーへ行った。

 

「こいつなんかおすすめですけどね、」と若いスタッフは言った。「大して走行距離がかさんでるわけでもないし、わりに素直な車です。小回りもききます」

 

 私はその中古の日産・マーチを一括払いで買い求めた。少しヘッドライトが曇っているものの、その奥には鋭く光る確かな意志みたいなものを感じとることができた。まるで次に飛びうつる高所を見定める老いた黒猫のような、気高く美しい意志を。

 

 しかし北上が残していったものたちを、僕は最後まで上手く処分することができなかった。奇抜なデザインの灰皿、オリーブグリーンのランチョンマット、バナナ・スタンド……。

 しばらく睨みあった末、僕はそれらをダンボール箱に詰め、日産・マーチのトランクルームに押し込んだ。ひょっとしたら彼らは僕を上手い具合にどこか別の場所へ導いてくれることになるかもしれない。───例えば夢で北上と会ったあの砂浜へ。そうでなくても何かしらの助言みたいなものは与えてくれるかもしれない……七人の小人たちのように。僕はあの砂浜を探さなくてはならない。

 

 僕はあの砂浜を探さなくてはならない。

 

 

 ◆

 

 

 最後に僕はマンションの部屋を引き払った。

 マンションの駐車場で、わりにゆったりとした運転席に身体を沈め、僕は眠った。特に夢は見なかったと思う。目を覚まし、ダッシュボードのデジタル時計を確認する。午前11時。2時間ほど眠っていたようだ。

 僕はそれからどうするかについて考えた。思考はクリアで、秘密の地底湖のように澄みわたっていた。しかしあまり考えても仕方ないことはあらかじめ分かっていた。考えればそれなりの答えは出るかもしれない。でもその答えが未来における自分の行動を、何らかの形で制限することにならないともいえない。

 僕はあとに残してきた仕事や、ものや、家のことを思った。僕は既にそれらのものとは分断されてしまっている。堅く本質的な壁によって、ほとんど決定的に隔てられている。

 

 言えることはただ一つだ。()()()()()()()()()()()()。心の底から。

 

 特に行き先を吟味するようなことはせず、まずは適当に車を走らせることにした。交差点を気分次第で右に曲がったり、左に曲がったりした。ある場合には気に入った雲を追いかけ、ある場合には何も考えずにまっすぐ走った。確かにその車はレスポンスという点においてわりに正直で、よく小回りがきいた。あの若者の言う通りだ。それは少なくとも信頼に足る車だった。

 そのように気まぐれに走りながらも、やがてだんだんと海へと近づいていっていることに気づいたときは、いくらか困惑を覚えないわけにはいかなかった。この車は海を目指している。それも僕の意志によって。野心に目を光らせたその車は、そんな僕の意志におおむね賛同してくれているようだった。それは早かれ遅かれ僕がやらなくてはならないことだったのだ。

 

 海沿いへ出ると、僕の気持ちはいくらか晴れやかなものになった。空はやはり気持ちよく晴れわたっていた。夏特有の濃く深い青の中に、いくつか小さな積雲が浮かんでいた。まるで誰かが片付けるのを忘れてしまったみたいに。海は美しくどこまでも広がっていたが、しかしそれはあの海とは違っていた。北上が膝までつかり、猫の目のように淡く透き通っていたあの海とは。

 僕は海岸沿いに東を目指した。ときどき道沿いのファミリーレストランに入り、休憩をとった。軽食をとり、あるいはブラックコーヒーを飲み、それからまた車を走らせた。夜が来ると適当な場所に停車し、シートを倒して眠った。自由な旅だったが、金はできるだけ節約しておきたかった。たいして泊まるべき場所が見つからなかったという事情もあるのだが。

 

 そういった暮らしを一週間ほど続けたところで、やはりと言うべきか、大きな(それも避けがたい)問題に出くわすこととなった。車のエンジンがかからなくなったのだ。

 それは小さなファミリーレストランでのことだった。車を停め、目玉焼きをのせたハンバーグ(美味しかった)を食べた。駐車場には他に車はなかったが、店内には若い女性が一人だけいて、何かのパスタを上品に食べていた。歩いて来たのだろうが、周囲にほとんど民家らしきものは見当たらなかったから、少なからず僕は不思議に思わずにはいられなかった。首をかしげながらハンバーグを完食し、帰ってくるとエンジンは既にかからなくなっていた。

 ためしにボンネットを開けてみたが、それは何かの真似事というか、このような状況に対する一応の作法みたいなものにすぎなかった。電話を切る前にお辞儀をするのと一緒だ。それは実際的な意味を持たない儀式だ。僕はドストエフスキーを読んでいる時の北上の気持ちが少し分かったような気がした。

 途方に暮れていると、背後から呼びかける声があった。

 

「どうかなさいました?」

 

 育ちの良さを感じさせる、丁寧な発声だった。

 それは店内にいたさっきの女性だった。

 

「エンジンがかからなくなってしまって」と僕は言った。「周りに修理できそうな場所もないようだし、どうしようかな」

 

「ちょっと失礼しますね」と彼女は私の横をすり抜け、エンジンルームを覗き込んだ。嫌味のないシトラス系の香水の匂いがしたが、やがて豊かな潮風がそれをどこかへ運びさってしまった。彼女は色の抜けたスキニー・ジーンズを履き、トップスとして小豆色のオーバーサイズTシャツを合わせていた。裾はジーンズの中にぴったりと入れ込まれていて、そのために胸元には秋の里山のような健全な膨らみが二つ浮かび上がっていた。暗いブラウンの髪は腰の辺りまで注意深く、丁寧に伸ばされていた。

 こうして近くで見ると、彼女は若い女性というよりはむしろ少女と呼ぶべき年頃のように見える。そう、例えばちょうど北上と同い年くらいであるような印象を受ける。そのせいで、エンジンルームを覗き込むその後ろ姿にはいくらか奇妙なところがあった。

 

「大丈夫ですよ」と彼女はこちらを振り向いて言った。「これくらいならすぐに直せると思います」

 

「わかるの?」僕はびっくりして尋ねた。

 

「簡単な工具があればすぐにすみますが」彼女は首を軽く傾げた。「素手だと少し手間取ることになると思います」

 

 僕は頭の中で彼女の言葉を反復した。素手だと少し手間取ることになると思います、と彼女は言ったのだ。かからなくなったエンジンに対して素手でいったいどんな太刀打ちができるというのか、僕にはさっぱり見当もつかなかった。しかし僕はひとまずその疑問を脇に置いておくことにした。考えても話をややこしくするだけだ。

 工具ならあると思う、と僕は言った。そして実際にそれはあった。中古車ディーラーの若いスタッフがトランクルームに簡易なリペアキットを積み込んでおいてくれたのだ。

 工具の内容を確認すると少女は素敵に微笑み、手際よく作業にとりかかった。

 

 僕は少し口を開いたまま彼女の手の動きを眺めていた。どこをどのようにどうするのか、その作業内容を見届けようと努めた。しかしもちろんそれは上手くいかなかった。彼女はあまりにも手際の良いマジシャンであり、僕はそのオーディエンスだ。スペードのジャックがどのタイミングでハートのエースにすりかえられたのか、僕は見極めることができない。

 

「キーを貸していただけますか?」

 

 彼女の声ではっと我に帰った。僕は肯いてキーを彼女に手渡した。

 彼女が乗り込みスターターを回すと、日産・マーチはゆっくりと目を覚まし、何度か軽く咳払いをし、小気味よいエンジン音を響かせはじめた。少女は運転席から顔をのぞかせ、微笑んだ。僕は駐車場の隅にあった蛇口でタオルを湿らせ、彼女に手渡した。

 

 「ありがとう」僕はすっかり関心して言った。「君がいなかったらどうなっていただろう」

 

「ふふ、ラッキーでしたね」彼女はタオルで手を拭いながら言った。「ずいぶんはぐれた場所ですからね。JAFは呼べば来ますが、時間もお金もかかります」

 

「そんなはぐれたところにファミリーレストランがあるのも、考えてみれば妙だ」

 

「そうですね、本当に。どうやって経営が回っているのか謎です。いつ来ても客は私しかいないし」

 

「でも今日は僕がいた」

 

「ええ、珍しくてかなりじろじろ見てしまいました」彼女は苦笑いを浮かべた。「気を悪くされていたらごめんなさいね」

 

「全然気づかなかった」と僕は戸惑って言った。

 

 彼女は少し考えて言った。「注文をとるときは必ず右手を上げていましたよね。あとたしか、目玉焼きをしっかり食べてからハンバーグに手をつけていました。サラダにはシーザー・ドレッシング。おしぼりはきちんともとの形に畳む。レシートは受け取らない」

 

 彼女は「どうですか」という風にこちらを見た。

 僕は肩をすくめた。

 

 

 ◆

 

 

 お礼がしたい、と僕が言うと、彼女はまた少し考える素振りを見せて言った。

 

「ではもしご迷惑でなければ、私の家まで送っていってくださいませんか?」

 

 僕はそれを了承した。少女を助手席に乗せ、日産・マーチは快く走り始めた。

 助手席に誰かを乗せて運転するというのは、何かしら妙な心地のするものだった。特にそれが若い女の子であるような場合には。

 

「家まではどれくらい?」

 

「歩いて30分くらいです。自転車や車を持てればいいんですけど、そういう余裕もないですから」

 

「今日も歩いて来た?」

 

 少女は肯く。「海辺を歩くのは好きなんです。季節によって違う表情を見せてくれるし、なんというか────潮の香りを身体に取り込んでいることで、何か自分が充電されていくような感じがするんです」

 

「わかる気がするな」と僕は肯いた。海は自由であり、なにものにも束縛されない。それでいてそのアウトラインみたいなものを失うことはない。あらゆるものを取り込み、あるいは吐き出しながら、刻一刻とその姿を変化させる。

 

「窓を開けてもかまいません?」と彼女は言った。

 

「僕も同じことを言おうと思ってた」

 

 彼女はおかしそうにくすくす笑った。

 窓が半分ほどスライドして開き、勢いよく潮風が流れ込んできた。それはやわらかく、暖かく、豊かな生命の気配をたたえていた。

 

 少女の家もやはり海辺に立っていた。こぢんまりとしたペンションのような格好をしていて、道路を挟んで三角座りで海を眺める気の良い老人のようにそこに佇んでいた。素敵な家だ、と思った。あるいはジョン・レノンが生きていれば老後はこのような家で過ごしたのかもしれない、と勝手に想像する。表札はかかっていない。玄関の左手には少し高くなったテラスがあり、小さなサイドテーブルと安楽椅子が出されていた。テラスへはガラス張りの引き戸でリビングと行き来できるようになっていた。

 

「ここらで構わないかな?」と僕は尋ねた。

 

 彼女は少し考えた。彼女は考えるとき、いつも人差し指で軽く唇に触れる。

 そして言った。

 

「よければ少し上がって行きませんか?美味しい紅茶が出せます」

 

「そこまでしてもらうと何だか悪いような気がするけど」

 

 彼女は左右に首を振った。「むしろありがたいくらいです。こんなところに住んでいると話し相手もいませんから、なにしろ暇なんです。これもお礼の一部と思ってください」

 

「僕は君へのお礼として、君の家にお邪魔する」

 

 彼女は肯いた。「美味しいクッキーもあります」

 

「なんだか旅人を騙して食べる妖怪みたいだ」

 

「ふふ、お鍋になる覚悟はできてますか?」

 

 僕は笑って首を左右に振った。

 玄関の右手の空き地には車輪止めの石が置かれていたが、それは忘れ去られた句読点のようにその役割を見失っていた。彼女に言われるまま、僕はそこに車を停めた。

 少女に連れられて家に入る。入って左を向くとすぐにリビングになっていた。外から見た印象よりはわりに広く、奥にはローテーブルがあり、それをはさむようにして一人がけのソファが二つあった。突き当たりの壁には簡素なキッチンが備え付けられていた。入って正面の壁にはドアが二つついており、一つは寝室、もう一つは便所に通じていた。三角屋根には明かりとりの天窓がついていて、陽光が頑丈そうな梁を照らしていた。

 

「なんだか照れますね」

 

「どうして?」

 

 彼女は本当に少し恥ずかしそうに言った。「家に人を入れるのはこれが初めてなんです」

 

「僕が第一号でよかったのかな」

 

 もちろん、というように彼女は微笑んだ。

 僕がソファにかけて部屋の中を見まわしている間に、彼女は紅茶の支度をした。ローテーブルには山吹色のランチョンマットが二枚しかれていた。

 

「おかしいですよね」と少女は言った。「どんなものでも、二人分のものを揃えておかないと気がすまないんです。どういうわけか」

 

 それについて僕はなんとも言えなかった。

 彼女はカモミール・ティーと何枚かのジャムクッキーを丸いトレイに乗せて運んで来てくれた。

 

「こんなに美味しいカモミールを飲むのは初めてだ」

 

「本当ですか?よかったです。なにしろこうして誰かにお出しするのも初めてなものですから」

 

「自信を持っていいと思う」と僕は言った。「本当に美味しいよ」

 

 そしてカップに鼻を近づける。それは霧雨の降りそそぐ朝の高原のような香りがした。

 僕はふと気になったことを少女に問いかけた。

 

「そういえば君の名前はなんていうんだろう?」

 

「名前ですか?」

 

 僕は肯いた。「表札がかかってなかったものだから」

 

「私は大井といいます」と彼女は言った。「大きい井戸で大井です。大井川というのがありますね。あいにく、実際にその川を見たことはありませんが」

 

 そう言って彼女は苦笑いを浮かべた。

 その名前には何かひっかかるところがあった。僕は記憶の海へ飛び込み、深く潜る。

 

 ()()()()()、と僕は思った。

 

 しかしそれは声に出てしまっていたようだった。彼女は間違って虫を飲み込んでしまったときのような顔でこちらを見つめていた。そして次に僕が聞いたのは、ティーカップが落下する音だった。

 

「どうしてその呼び方を知っているんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15. 根源的な悪、間違ったわた

 

 

 

「どうしてその呼び方を知っているんですか?」

 

 その大井と名乗る少女は言った。

 

「その呼び方を知っているのはごく限られた知人だけのはずです。どうして………どうして」

 

 彼女の手は震えていた。大きく見開かれた瞳は、僕ではなくはるか向こうの海を見ているようだった。呼吸は浅く、速かった。

 

 やがて彼女ははっと気がついたように焦点を僕にあわせ、「すみません、私ったら」と言った。割れて四散したティーカップを片付けようとするので、止めて僕がやろうとすると、彼女はそれを制止した。

 

「大丈夫です」と彼女は言った。「この程度のことでは傷ひとつつきませんから」

 

 

 ◆

 

 

 それから彼女は破片をひとつ残らず片づけ、新たなティーカップに紅茶を入れなおし、何度か深呼吸をしてから座った。そうすることである程度の落ち着きを取り戻すことができたようだった。

 

「ごめんなさい、取り乱してしまって」

 

「いや」と僕は言った。「僕の方こそ、なにかおかしなことを言ったのかもしれない」

 

「おおいっちと私を呼ぶのは、あの人ただ一人だけでした」と彼女は言った。「あなたは北上さんに会ったことがあるんですね?」

 

 僕は肯いた。

 それから僕は、僕と北上の間に起こったものごとについて、できるだけ言い漏らすことのないよう注意深く話した。どのようにして出会ったのか。奇妙な共同生活が、どのように営まれたか。そしてどのようにして彼女がいなくなったか。

 

「そう、でしたか」と大井は言った。「こんなことがあるものなんですね。なんと言っていいのか」

 

 僕は彼女の言葉の続きを待った。

 彼女は小さく深呼吸をした。

 

「なんというか」と彼女は言った。「私は一度死んでいるんです」

 

「死んでいる?」と僕はたずねた。

 

 彼女は肯いた。

 

「それは(あとになって分かったことですが)戦争を終わりへと導く最後の戦いでした。私は北上さんと共に雷装を満載し、夜のうちに敵本隊の側面から奇襲をかける手はずでした。でもこれは一般的なお話ですが、完璧なプランなんてものは存在しません。たとえば、敵本隊からはぐれた航空隊が私たち二人を見つけることになるなんて誰も予想していませんでした」

 

 僕は黙って聞いていた。

 

「私たちは二人で協力してその航空隊をなんとか撃滅しました。しかしそのうちの一機が、最後の力を振り絞ってこちらへ向かってきました。カミカゼの特攻のように。狙いは北上さんでした。そして私は何も考えずに北上さんの前へ飛び出しました」

 

 そして彼女は沈んだ。

 浮力を失い、圧倒的な闇の中へゆっくりと、しかし力強く確実に引きずりこまれていった────はずだった。

 

「次に目を覚ますと私はベッドの上にいました。医務室の、かたくて、四角いベッドです。奇妙なことに、その感触を今でもよく覚えています。そこで私は終戦を告げられました。まるで図書館で居残っている生徒に閉館を告げるみたいにあっさりと。そしてそれ以外の一切の事情をも知りました。私が奇跡的に引き揚げられたことも、そして北上さんが失踪してしまったことも────そのかたく四角い、どうしようもないベッドの上で」

 

 彼女はそこで長いまばたきをした。特別な種類の花が、夜のあいだだけそのつぼみを閉じるみたいに。

 

「私は海底で一週間を過ごし、引き揚げられてからもまる一週間眠りつづけていたそうです。だからその時点で終戦から────北上さんがいなくなってから二週間がたっていたということになります。そして一週間にわたる深海での滞在は、私の身体に少なからず悪い影響をもたらしました」

 

「深海棲艦」と僕は反射的に言った。

 

 彼女は肯いた。

 

「それはいわば根源的な悪のようなものです。そして同時に私たち艦娘と対をなすような存在です。時が経つにつれ、私の中でそれらの境界があいまいになっていくのを感じました。そして私はみずから艦娘であることをやめました。戻れなくなってしまう前に。海という巨大なシステムから、逃れられなくなる前に」

 

 システム、と僕は思う。

 彼女は自分の意志でそこから抜け出したわけだ。北上がそうしたように。

 

「そして今はこうしてほとんど隠居みたいにして暮らしています。元艦娘の女というのは、だいたいにおいて気味悪がられますから。でも軍令部から毎月補助をもらっているし、わりに快適に暮らしています」

 

「北上を探そうと思ったことはない?」

 

 僕はすっかり言ってしまってから、そのことを強く後悔した。僕はそんなことを口にすべきではなかった。

 それでも彼女は優しく微笑んで言った。

 

「もちろん何度もあります。数え切れないほど。北上さんがいなくなってしまったことで、私はそれまでにない痛みを経験しました。一ヶ月近く立ち上がることさえできませんでした───比喩ではなく、です。だって、彼女は私の人生そのものだったんです。身体の一部を引き裂かれ、どこか知らない場所へ隠されてしまったようなものです。できることなら、もう一度だけでもあの温かい手に触れたい。美しい黒い髪をなでてあげたい。でも私はその資格をすっかり失ってしまった。私は間違った()()を詰め込まれた人形のようなものだから」

 

「北上が君に会いたがったとしても」

 

 大井は悲しげな笑みを浮かべ、首を振った。

 

「残念ながら、北上さんがそれを願うことはありません。彼女の世界では私はもうすでに死んでしまっています。それに、あなたのお話を聞いている限りでは、北上さんはもう前に向かって歩き出そうとしているように思えます」

 

「そうだろうか」

 

 彼女は肯いた。

 

「ねえ、きっと北上さんを見つけてあげてください。あなたならそれができます。そして彼女もそれを強く望んでいるはずです」

 

「僕が君の代わりになれるんだろうか?」

 

 彼女は首を左右に振った。

 

「私の代わりをする必要はありません。代わりが見つかるものもあれば、そうでないものもあります。大切なのは心です」

 

 僕は肯く。その通りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16. 嘘だよ

 

 

 大井の家を出るとき、彼女は僕にいくつか約束ごとをさせた。彼女が生きていることと、そして彼女と会ったことについては、何があっても北上に話さないこと。時々は(もちろん僕一人で)紅茶を飲みに来ること。

 

『この子のメンテナンスもしてあげますから』

 

大井は黒い日産・マーチを愛おしそうになでてそう言った。

 

 

 ◆

 

 

 そして僕はまた走り出した。

 標識だけを頼りに、海岸沿いの道を北東へ向かい進み続けた。走るにつれ気温は徐々に下がり、やがてエアコンを回す必要はなくなった。秋が深まりつつあるのだ、と僕は思った。窓を開けると、秋の涼しく悲しい空気が僕の心をやんわりと締めつけた。

 道路はトンネルをくぐり、単線列車と交差し、枝分かれし、そしてまた合流することを繰り返した。僕は、それほど長くひとつの道を追跡していくということは初めてだった。曲がりくねり、太さを変え、組成の違うアスファルトが継ぎ足され、どこまでも続いている。

 しかしやがて、僕はその考えにひとつ間違いを認めなくてはならなくなった。「どこまでも続いている」という点だ。どのような道にも終わりはある。終止線のない楽譜がないのと同じように。

 僕は車を降り、その行き止まりを5分近く見つめていた。『車両通行禁止』。ありふれた車止めだ。特に変わった様子はない。こちら側にも、その柵の向こう側にも、同じように堤防が続き、アスファルトが敷かれている。判で押したみたいに同じ道が続いているように見える。しかしこの車だけが、それより先へ進むための権利を既に決定的に剥奪されてしまっている。

 周囲には畑や雑木林が広がり、その合間に民家らしきものがちらほらとあった。それはこれまでに見てきた景色とおおむね変わらないものだった。僕はコインパーキングがないか辺りを見回したが、それはもちろん無駄な試みに終わった。

 僕は車を路肩に停め、キーと財布を持ってその車止めを越え、歩き始めた。他に何も持つ必要はないと思った。振り返ると、黒い日産・マーチはよくしつけられた利口な動物のようにじっとそこで待っていた。でもやがて道の曲がりの向こうに見えなくなった。

 

 どれだけ歩いたか、うまく思い出すことができない。半日くらいは歩いたかもしれない。あるいは二十分ほどしか歩いていないのかもしれない。ここでは時間の流れがあまりにも希薄に感じられる。でもとにかくずいぶんな距離を歩いていることは確かだった。

 歩いているうちに、少しづつ周りの民家の数が増えていった。海の色はより明るくなり、透明度を増した。岩場続きだった海岸線はやがて砂浜に変わった。僕は立ち止まった。

 

 それは夢で北上と話した砂浜だった。

 

 僕は言葉を失った。いや、言葉なんてものはずいぶん前から失われていたのかもしれない。なにしろ誰とも話さずにひたすら車を運転し続けていたのだから。でもとにかく、その砂浜に対して、僕は適切な言葉を見つけることができなかった。

 そこに北上はいなかった。浅瀬から深みへ色が変わるその境目に、彼女の姿はなかった。僕は堤防の上に座り、その景色をぼんやりと眺めた。それは夢で見た景色とほとんどそっくり同じだった。違う点と言えば、何人かの子供たちが波打ち際で遊んでいるところくらいのものだった。

 きわめてのどかな情景だった。うすく引き伸ばされた飛行機雲が、傾きかけた陽光をうけてぼんやりと浮かび上がっていた。遠くには漁船が何隻か、何かの暗号みたいに好き勝手な方向を向きながら浮かんでいた。漁港が近いのだ。おそらく。

 堤防の上であお向けに寝転がると、まだ西日の気配をもたない突き抜けるような青空を見ることができた。ときどき海からの風を受けて木々がやさしく騒いだ。子供たちの歓声が遠くに聞こえた。

 そして僕は眠りについた。

 

 

 ◆

 

 

「ねえ」

 

 その声で僕は目を覚ました。

 

「こんなところで何してるのさ、君」

 

 うっすらと目を開いた。西日は沈みかけ、空はすっかり暗くなっていた。そして僕は今度こそ完璧に言葉を失った。

 

 目の前にいたのは疑いようもなく、北上その人だったからだ。

 

 彼女は本当に驚いたように目を見開き、堤防の上に横たわる僕の顔を覗き込んでいた。

 

「少し寝てたんだ」と僕は言った。

 

 でもその声は自分の声ではないみたいだった。少なくともいまそんなことを言う必要はなかった。僕が言いたいことはもっと別に山ほどあるはずだった。

 

「いや、それはわかるよ」

 

 彼女は顔に驚きを残したまま、呆れたように少し笑った。

 

「えっと、なんていうか───」

 

彼女は言った。

 

「サンドウィッチとか食べる?賞味期限、昨日だけど」

 

 僕は黙って肯いた。

 

 

 ◆

 

 

 僕らは堤防に並んで腰かけ、賞味期限切れのサンドウィッチを二人で食べた。

 

「美味しい?」

 

 僕は肯いた。しかし実際のところ、僕にはそれを味わうような気持ちの余裕なんてなかった。

 

「やばい女だよね」と北上は笑った。「賞味期限切れを渡しといて『美味しい?』なんてさ」

 

「前にもこんなことがあった」と僕は言った。

 

「ああ、出会った時のことね。覚えてるよ。今回は立場が逆だけどね」

 

 彼女はそう言ってサンドウィッチをひと切れ口に放り込んだ。

 波打ち際で遊んでいた子供たちはすっかりいなくなっていた。波が音を強めた。潮が動いているのだろう、と僕は思った。風はほとんど吹いてはいなかった。水平線にはまだ夕焼けの気配が残されていた。

 北上は音を立ててサンドウィッチを飲み込んだ。

 

「あたしを探してくれたんだよね」

 

 僕はそれについてどう答えていいか分からなかった。というか答えたくなかった。しかし口にしなくても、僕の表情がそれを雄弁に物語ってしまっているようだった。僕は顔が少し熱くなるのを感じた。

 

「えへへ」と彼女は笑った。「嬉しい」

 

 そして彼女は空いた手で僕の手の甲に触れた。

 

「旅をしていたんだ」と僕は言った。

 

「どれくらい?」彼女は首を傾げた。

 

「今日って何日?」

 

 彼女は腕時計を確かめ、日付を言った。僕は出発日から数えてちょうど二週間旅をしていたことが分かった。

 

「そりゃまたご苦労さまだ」

 

「悪くない旅だった。出会いがあり、別れがあった。海の表情が刻々と変わる様子を見られた。食べ物も美味しかった」

 

「そして最後にはあたしに出会えた」

 

 北上はにやりと笑った。

 僕はそれについては何も言わないようにした。

 僕が最後のひと切れを食べるところを見て、彼女は砂浜に降りた。

 

「ねえ、黙って出ていったの怒ってる?」

 

 僕は左右に首を振った。「好きに出ていけと言ったのは僕だ」

 

「君ならそう言うと思った」と彼女は苦笑いを浮かべた。「でもとにかくあたしにも事情があったんだ。それもかなり急な」

 

「追っ手のこと?」

 

 僕がそう言うと、北上は大きな瞳を見開いた。

 

「知ってたんだ」

 

「いや、正確には知ったのは君が出ていってからだ。それから色々あって、結論から言えば海軍は君を諦めたみたいだ」

 

「その色々がすんごく気になるんだけどさ」と彼女は言った。「まあ一旦置いといてあげる。時間は使い切れないくらいあるんだし」

 

「そうしてもらえると助かる。話すと長いんだ」

 

 そう言って僕も堤防を降り、砂浜に立った。

 

「ほんとはさ、ことが落ち着いたら君のところに戻るつもりでいたんだよ」

 

 我々は二人で砂浜を歩いた。彼女はサンダルを脱いで手に持ちながら、砂上に注意深く足跡をつけるようにして歩いた。僕はそれを見習って靴と靴下を脱いだ。

 

「ことが落ち着いたら」

 

「そう」彼女は肯いた。「それがいつになるかは分かってなかったけどさ。それまでどこか遠い場所で、自分の人生をやり直してみようと思ったんだよね。身一つで稼いで、なんとかギリギリやっていけるみたいな」

 

「どんな仕事をしてるの?」と僕は尋ねた。

 

「近くの漁港で頼み込んで働かせてもらってる。雑用ばっかだけど、そんなこと言いだしたら漁業ってほとんどが雑用みたいな作業の積み重ねだからさ」

 

「そうか」と僕は言った。「なんとかうまくやれてるんだな」

 

 北上は上手くやっている。『あなたのお話を聞いている限りでは、』と大井は言った。『北上さんはもう前に向かって歩き出そうとしているように思えます』。その通りだった。

 

「ねえ、うち来る?もう遅いしさ」

 

「いいのか?」

 

「いいも何も」と北上は言った。「宿あるの?」

 

「もちろんない」

 

「やれやれ」

 

 彼女は笑って小さくため息をついた。

 そして我々は歩き始めた。

 

「そういえばあの家は変わらず?」

 

「あの家ならもう引き払ったよ」

 

 北上は波打ち際で立ち止まった。

 

「え……なんて?」

 

「仕事も辞めた。晴れて無職、住所不定」

 

「ごめん、まだ何を言ってるか分からないんだけど」北上は頭を抱えた。

 

 僕は少し考えて言った。

 

「びっくりさせようと思って」

 

「それ嘘でしょ」

 

「嘘だよ」

 

 彼女は僕のふくらはぎを軽く蹴った。

 

「前より痛い」

 

「じゃあ何、あたしの帰るべき家はもうないの?」彼女は構わず言った。

 

「そういうことだな」と僕は言った。「鍵はまだ持ってる?」

 

「肌身離さず持ち歩いてる」

 

 彼女はぴったりとしたスキニー・ジーンズのポケットから見覚えのあるキーを取り出した。僕らは近くにあったコンクリートの桟橋の先まで歩き、そこからキーを投げ捨てた。

 

「あーあ……」

 

「出会いがあれば別れもある」

 

「いい言葉だよね」北上は感情をほとんど込めずに言った。「あの家は結構気に入ってたんだけどな」

 

「そこまで言ってもらえて幸せだろうな」

 

「ねえ、買い戻さない?あたしもうちょい頑張って働くからさ」

 

 そういう選択肢もあるかもしれない。北上とあの家に戻り、以前のように暮らせたなら、それはとても楽しいだろうと僕は考える。でもその一方で、僕はもう少しだけ自由でいたいとも思う。可能性の海の真ん中に浮かびながら、漂流物の残骸を集めて暮らしていたいと思う。

 

「それは保留だな」

 

「ええー」北上は不満げに頬を小さく膨らませた。

 

「帰ったら何を作る?」と僕は尋ねた。

 

「もちろんカレー」

 

「僕はカレーにはうるさいよ」

 

「ほう、言うようになったじゃん」

 

「オイスターソースを入れるといいんだ」と僕は言った。

 

 北上はおかしそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<艦娘を拾った日  終わり>




 読んでくださりありがとうございました。「北上で何か書きたいな」と思い立って筆を取ったはいいものの、だらだら書いているうちになんだか5年くらい経ってしまいました。書いていると主人公も北上も好き勝手に動いてくれるので、後をついていくのがなにしろ大変でした。でも書くべきことはなんとか書き切ることができたみたいです。

 艦娘たちに幸あれ。



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