第1話『Saffron』
宇佐美ラボ強襲作戦から2ヶ月が経った、8月中旬の夕方。雨雲交じりの暗雲が立ち込める霞が関某所のガーデン運用監査局本部は、いつも以上の慌ただしさを見せていた。階下の喧騒が貫通する3階の強襲捜査課のフロアの一角、レギオン用に割り当てられた会議室へ、緊急招集の名の下、ウォーターシップダウンの面々は招集されていた。
「諸君、夏休みは終わりだ」
開口一番、そう言った真波の表情は揶揄いと取るには嫌に厳格かつ険しいものであり、それに抗議をしようとする者は1人として居なかった。
「諸君らに集まってもらったのは他でも無い。昨夜、ルドビコ女学院にてクーデターの発生が確認され、機能不全に陥った。その後、指し示した様に併設されたルドビックラボより研究用のヒュージが多数脱走。現在、新宿区内で暴れ回っているそうだ」
真波の至って冷静な説明と共に、用意されたスライドが現場で撮影されたらしいヒュージ迎撃の様子を克明に写す。新宿の街並みは怪物達を前に成す統べなく蹂躙され尽くしており、老若男女を問わず、群れに飲み込まれた人々は肉片として引き裂かれ、叩き潰されていた。本来ならエリアディフェンスの効果で起こり得ない惨劇に、渚達も言葉を失う。
そして、スライドの中に添付された動画では、統率の取れた動きで迎撃部隊を返り討ちにするヒュージ達の様子が映されていた。本来なら有り得ない動きの理由は、動画の次、最後のスライドが答えとなっていた。
「ギガント級……!」
思わず声に出していたアイネに、真波は頷きを返す。その言葉は事実だ、とした彼女に、アイネは苦々しい顔を浮かべる。
「つまり、我々の招集はこのギガント級の討伐の為、と言う事になりますか?」
珍しく焦りを含んだアイネの言葉に、渚達にも緊張が走る。監査局の立地を考えれば、新宿区内のヒュージは大きなインシデント要因になる。最悪、行政機能に大ダメージを受けかねない。そうなる前に手を打つべきであり、それを容易に叶えるなら政府付きレギオンである自分達だろう。
そんなアイネの分析を言葉の裏に感じ取りつつ、真波は僅かに苦笑を漏らして首を横に振った。
「残念だが、お前達にやってもらうのはヒュージ共の撃滅では無い。お前達にはルドビックラボの内部調査をやってもらう」
「霞ヶ関への浸透リスクについては考慮しなくて良いのですか? 万一の事があっては」
「その万一の為に、お前達をラボに送り込むと決めたんだよ。今回のラボ崩壊で奴等が申告していた以上のヒュージが新宿に放たれた。害獣共を放置するよりも奴等の口約束を真に受けていた方が死ぬ確率は高くなると上は判断したんだ。それと、この機に乗じて
至極面倒そうにそう言った真波は、手元のタブレット端末を操作してプロジェクターに地図を表示する。霞ヶ関から新宿御苑までを表示した地図を見上げ、彼女は話を始めた。
「さて、貴様らにはこれから
「移動中に撃墜される危険性は?」
「十分にあり得るな。何せ、何の進路確保も無しにヒュージ共の真上を飛ぶんだ。まぁ、心配なら神にでも祈っておけ」
冷笑を浮かべた真波がいつもの軽口を飛ばすのに、肩を竦めたアイネは、話は次に移る、と前置きした彼女から、ラボの青図面を受け取る。受取先はこのブリーフィングに参加した全てのリリィであった様で、各々、僅かながらも反応が伺えた。
「突入対象であるラボは地上階三階、地下二階と公表されているが、この青図面を見てもらえば分かるだろうが、実際には地下階層は三十階もある。対象であるヒュージ群は恐らく地下三十階に保管されていた可能性が高い。残存するヒュージの確認の為にも、お前達には最下層まで行ってもらう」
移動行程を簡略化したのか、地下階層までぶち抜かれた青図面に存在感に違和感のある矢印が地上階から直角に折れ曲がって地下深くまで落ちていく。図では簡単に言いはするものの、実際には各フロアをくまなく探す事になる事は、わざわざ口にされなくても全員が理解していた。
「何にせよ、今回は前回以上の長期戦を覚悟しろ。地下深くの隅々まで調べ尽くすのがお前達の任務だ。それが出来るまで、帰ってこれないと思え。と、言いたい所だが、現在の新宿はヒュージ共の影響で通信封鎖状態にある。だから、現地到着後は貴様らの自主性に任せる事になっている。くれぐれも妙な行動だけはするなよ」
「雑に現場任せとは、凡そ政府が承認したとは思えませんね」
「言うなよ。今回の事態は日本政府にしても完全に想定外だったんだ。何せ今の新宿には、連中の申告以上のヒュージが流出している。これ以上あるかどうかも定かじゃない今、我々は打てる手を失っている。だからそんな雑な作戦を決行するしか無かったんだ」
肩を竦めながらそう言った真波は、さもありなんと言った表情のアイネに薄ら笑いを向ける。事実として、ルドビコ側から完全な奇襲を食らった以上、政府関係者には一晩以上に腰を据える余裕は無く、唯一採れる迅速な対応として今回の作戦が決行された。
唯一のレギオンを地獄の渦中に投入するのは些か博打が過ぎるが、政府側の戦力で単身ラボの調査が出来るのは彼女達だけであり、他に代替の利く戦力は浮かばなかった。
「ところで監査官、今回の件、後手も後手の状況下でラボの情報だけは随分と詳しく収集されてますね。これらの情報の出所は?」
沈黙の最中、青図面を初めとする資料を検めていたアイネが、それら資料の出所について真波に疑問を呈した。司令塔であるアイネへは、建物の構造を表す青図面を初めとし、ラボ内の詳細な研究内容や内々的な活動資料の数々が送信されており、凡そトラブルを認知してから取り寄せられる様な資料では無かった。
「ああ、それについてだが。黒木からの提供だ。奴は、ルド女のクーデターの通報をした後、連絡が取れなくなった。その資料は連絡が取れなくなる寸前に送られたものだ。ついでに、ラボの崩落映像も添付はされていた。一部破損してはいたがな」
「最終履歴は8時間前ですか。もしかして、彼女は今、何らかの事情でラボに立て籠もっているのでは?」
「お前もそう思うか? まあ当然か。普通なら8時間もあればリリィ単独でも通信可能範囲への離脱は出来る。にも拘らず、奴は今も通信不能のまま、と言う事は動いていないと考えるのが自然だろうな。で、だ。これは監査局としての依頼だが、可能なら奴を救出してほしい」
「それはどう言った意図で?」
「そうだな。あわよくば奴をウォーターシップダウンに引き込みたいからだな。無論、奴が拒否するならそれまでだが、いずれにしてもこれだけの情報を提供してもらっておいてアイツを助けない選択肢は採れないだろうよ。まぁ、私としては、CHARMの維持管理について心配があるからアイツに入ってもらいたいがな」
気怠げに撤収の素振りを見せる真波へ、アイネは無言の同意を向ける。白濁した目で真波を見たアイネは、冨亜奈を引き入れたいとする彼女の意図を読んでいた。CHARMの維持管理問題に加えて、もう一つラボを失った冨亜奈へ、一時的にでも居場所を提供する為だろう。
現在のルドビコ女学院は、先のクーデターに加え、隣接するルドビックラボから流出したヒュージによって打撃を受けている事は想像に難くない。最悪、ガーデンはおろか組織として機能しない可能性だって有り得る。で、あれば居場所として、あるいは避難所として、ウォーターシップダウンに籍を置かせるのは対外的には兎も角、対内的には悪い事では無い。むしろ、彼女が所属する事で、正式にアーセナルが編成に組み込まれる事となる。
元々整備性に難のあるプロジェクト・フレイア機を初めとして、CHARMの維持管理は彼女の整備手腕に依存していた為、むしろ居てもらわないと困ると言うのは、アイネがよく理解していた。
それに、彼女が加入しようが、ウォーターシップダウンの面子が、文句を言う事は無いだろう。他人に興味を示す事が基本的に無い彼女達は、レギオンに関する縄張り意識が極端に薄く、誰がどんな形で所属しようが、至極どうでも良いと受け流すだろう。
彼女達にとっては課せられた仕事の邪魔でさえなければ、どんなリリィがレギオンにいようが構う事は無い。もし所属に異を唱える事があるとすれば、それはその誰かが『使えないリリィ』であると判断した時だけだ。
「救出に関して、探索にひと手間かかる分には構いませんよ。状況によっては断念する事があると思いますが」
「それならそれで構わん。今回の主題はあくまでも内部調査だ。さて、この場の会議は以上したいが、何か言いたい奴はいるか? いなければ解散だ。総員、準備完了後、地下駐車場へ集合。17:00に出発する。遅れるなよ」
気だるげな態度は崩さず、そう言い残した真波は、気を抜いた雰囲気のアイネ達を見回すと、プロジェクターとタブレットの電源を落とす。
暗くなった画面に自分の顔が写り込むのを見た彼女は、何かを思い出し、一つ息を吐いて場の雰囲気を突き崩す様に切り出した。
「くれぐれも貴様ら、油断するなよ。ルドビコのクーデターをG.E.H.E.N.A.共が察知出来ていないとは思えん。場合によっては連中の火消し部隊との交戦もありうる。我々政府とて奴等が対リリィ兵器の類を持っていないとは断言しきれん」
緊張感の無い彼女達を前に、そう言った真波は、その中でひときわ浮かない顔をする黄昏に気付いた。表面こそいつも通りの顔だが、そこには僅かに違った色が混じっていた。それを追求しようとした彼女だったが、腕に巻いたスマートウォッチと、ウェラブルコンタクトの表示がそれを遮った。
見れば課長からの緊急の呼び出しだった。自分の好奇心を優先できる程の私人でも無い彼女はすぐに思考を切り替えるや、集合時刻の再伝達とその上で遅刻しない様、念押ししてその場を後にした。
足早に去った真波に続き、会議室を出たアイネ達は、レギオン待機室へ移動し、潜入後の基本行動について室内のプロジェクターを使って再度確認を始めた。
「皆、聞いての通り今回はラボへの内部調査。と言う事は必然的に建屋内での戦闘となるわ。各フロアの部屋及び曲がり角については入念にクリアリングする事。ラボ内の敵性勢力の詳細が不明な以上、不意打ちがどれだけの被害をもたらすか見当が付かない。可能な限り、時間を掛けて進撃を行うわ。それと、各自、監査官から入手した図面を使って地形情報は頭に入れておいて。こちらでもミニマップへ登録は行うけど、それを見ながら進む余裕は無いと思うから」
プロジェクターを操作しながら説明を行うアイネは、マップの登録作業をしている麻衣の様子を窺う。作業難度はそうでも無いらしく、比較的落ち着いて作業している事に安堵し、アイネは元の場所へ戻る。
「それと、調査と平行して冨亜奈の捜索と救出も実施する。但し、こちらの戦力に余裕は無いから、彼女以外の救助はしない。もし仮に発見したとしても、相手の容体問わず、冨亜奈以外の人間は見捨てて構わないわ。でなければ共倒れになるもの」
冷淡そのものとも言えるアイネの決定に、異を唱える人間はいなかった。地獄の渦中に飛び込むのがたった9人しかいない以上、おいそれと救助活動へ戦力を割ける余裕は無く、何よりも自分や仲間の命を危険に晒してまで、赤の他人を助けようと言う視野の狭いお人好しはこのレギオンに籍を置いていなかった。
しばしの沈黙の後、タブレットとにらめっこをしていた黄昏が徐に呟いた。
「しかし、今回の任務、黒木さんからの連絡以降、事前情報が無いのは少し不安になりますね」
僅かに不安を浮かべ、そう言った黄昏は、物珍しく見てくる面々の視線に気付き、ばつが悪そうに顔を俯ける。そんな、いつもと様子の違う彼女の素振りを訝しんだ渚とアイネは、お互いの様子に気付き、愛想笑いを向け合った。
俯き続ける黄昏は変わらず沈黙し続けており、彼女の様子を窺っていたアイネは、これ以上切り出した話題で彼女が話す事は無いと断定し、話題を変えた。
「話題を変えましょう。今回、通信障害対策として事前に交戦規定を通告するわ。皆には、基本的にそれに従って行動してもらう。それで今回は明らかな戦闘要員については無警告で先制攻撃しても構わないとするわ。でないと、こちらが先制されるでしょう? その代わり、非戦闘要員についてはしっかり識別する事。最も、あそこに生きてる人はそうそういないでしょうけど……」
「恐らくあのラボで生きてるのは、冨亜奈くらいだろうね」
苦笑を向けてくるアイネへ、うっすらと笑い返した渚は変わらず冷淡な面々を見回し、悪びれつつ彼女に先を促した。
肩を竦めたアイネは、話題と共にスライドを変更する。ロードアウトとタイトル表示されたスライドには、ピックアップされた数名の顔写真と、各人に対応するCHARMが表示されていた。
「続いて、各人の装備について展開するわ。今回設定した装備は
説明口調の冷たさから一転、アイネは少しユーモアを含めた柔らかい口調に切り替え、一同を見回す。異存は無い、と沈黙し続ける彼女等の中で一人、顔を上げた黄昏が手を上げていた。
「私がダインスレイヴを? どうしてです。屋内での戦闘を主とするなら、私もカービンタイプを使用すべきでは?」と、彼女は疑問を呈する。
「ダインスレイヴは砲戦主体で運用する。役割としては不足するであろう砲火力支援よ。無論、屋外戦用の通常出力で運用すれば、崩落要因になりかねないから基本は弱装モードで運用、必要になったら制限解除を指示するわ」
なるほど、と合点のいった黄昏はそれ以上の追及を止め、大人しく下がる。不服と言うよりも理由を確認したかっただけらしい彼女は、興味を失った様に手元のタブレットで配信した作戦工程表に目を落とす。
「後は何も無いわね? じゃあ、各自装備を付けて指定された場所へ移動。解散」
解散の一言と共に手を打ち、アイネはブリーフィングに集っていた面々を解散させる。ブリーフィング後、機材を片付けるアイネと渚を他所に、装備の変更が命じられた詩季達は、一足先に待機室へ併設された装備保管庫へと向かった。
レギオン成立と同時に設置されたそこは、共用品であるカービンシリーズが立てかけられたガンラック12機分と、各々の主兵装を保管するガンロッカーが人数分並んでいる。
各人に割り当てられたガンロッカーは元々ライフル用の物で、CHARMの収納はハードケースに収められる事で果たしていた。大体の機体はここに納められている事になっているが、どうしてもここに入らない物、特に超大型タイプに位置する真霜のインレは、近所の貸倉庫に隠されていた。
そんな閑話はさておき、各々、ロッカーを解放した詩季達は、それぞれ指定されたCHARMのケースを引き出し、端末を当てた。紐づけられた認証情報が接触部を介してやり取りされ、凶暴な武器を収めたケースは音と光の両方を合図にロックを解除する。
立てられた角柱型ケースの中身が側面から真横に解放され、中に納められていたサーベル型ヨートゥンシュベルトが電磁制御でせり上がる。鞘を掴み、中身ごと持ち上げた詩季は、鞘込めのそれを少しだけ引き出し、刃の具合を確認する。
対人用のマット加工が施された刀身に刃零れが無い事を確認した詩季は、ウェポンベルトに接続し、固定具合を確認。問題無い事を確認して、再びケースに収めた。
続き、拳銃型のアンチヒュージウェポンを取り出した彼女は、スライドを引いて簡単に動作を確認すると、ハンマーを落としてケースに戻した。
持って行く装備の確認を終えた詩季は、手持無沙汰になりながら少し騒がしい装備保管庫を見回す。主に騒いでいるのは真霜とオリヴィアで、作業スペースの取り合いで喧嘩になっている様だった。喧騒の最中、隣の部屋での作業が終わったらしいアイネ達が入室し、呆れながら詩季の隣に立つ。
「全く、隣にまで聞こえてるわ。ところでシキ、あなた、準備が終わってるなら外に出ててくれないかしら? ここだと作業スペースを埋めてしまうから」
苛立ちそのまま故か少しキツめの言い方をしたアイネの声色に、詩季は僅かに動揺し、身を強張らせる。そんな彼女を見たアイネは、すぐさま自分の言動が原因であると気付いた。
「あ。ごめんなさい、少し言い方が悪かったわ。でもまぁ、外で待機しててほしいのは事実よ。と言っても、まだ時間はあるから、急いで駐車場に行かなくて良いわ。このフロアのどこかで、私達の作業が終わるまで時間を潰しててくれれば良いの」
一転変わって温厚な表情と口調でそう言ったアイネは、緊張をほぐしつつある詩季に安堵し、相対する彼女もまた、無意識下の恐怖を飲み下す。小さく深呼吸した後、足元の荷物を持ち上げた詩季は、小さく会釈してその場を後にした。
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ソードキャリアと装備一式をまとめたボストンバッグを手に休憩所へ移動した詩季は、自動販売機の前に立つ。夏場に合わせたラインナップは、2カ月も経てば見慣れたもので、カフェオレを押した彼女は電子決済の為、端末を押し当てる。キャッチーな電子音と共に決済が完了し、自販機が商品を吐き出した。
「何だ、休憩か?」
不意打ち同然に呼びかけられた詩季が身を竦め、声のした背後を振り返る。振り返った先、目頭を揉んだ真波が、疲労を溜め込んだ溜め息を吐き出していた。労いの意を込め、何か買おうと再び自動販売機へ向き直った詩季は、意図を汲んだらしい彼女にやんわりと押し退けられた。
「気を使わなくて良い」
そう言い、吐き出された自分の分を手に取った真波は、微笑を詩季へ向け、彼女を座らせた。然程力を入れた訳でもないのに何処か抵抗できない、そんな力の入れ方で座らされた詩季は、曇天を背負った真波を見上げる。
日の光を多く取り入れる構造の監査局の建屋も、新宿に起因した悪天候の前では形無しだった。薄暗い休憩所を人工的な照明が照らし、暫しの間、二人の間に沈黙が流れる。
詩季が、缶のカフェオレを半分ほど減らした所で、真波が話を切り出した。
「三朝、体調はどうだ。気分は悪くなっていないか?」
「え、あ。はい。何とも。今くらいならまだ何とか抑えられていますし、戦う時になれば追加投薬で対応できますから」
「そうか。まぁ、そうだと思ったよ。頼もしい限りだ」
薄く笑った真波は、缶の中身を煽り、近場のゴミ箱へと投げ入れる。プラスチック特有の光沢を放つゴミ箱を見下ろし、深く息を吐いた彼女は、きょとんとしている詩季へ僅かに顔を向ける。
「だが、あまり無理はするなよ。この仕事はお前の人生を掛ける程、崇高な仕事じゃない。…………私だって、お前を犠牲にする事は望んでいない」
強い思いを感じさせる口調の真波が諭すのに、詩季は痛々しささえ感じさせる様な笑みを返す。
「ありがとうございます。でも、私に出来る事は戦う事しか、無いですから」
そうである事しか選べないとでも言う様な顔で、詩季が悲し気な笑みを浮かべる。柔和なそれと共に向けられた目の昏さは、その心に刻まれた傷の深さを物語る様だった。
見る者を深淵へ吸い込む様なその目に、眉をひそめた真波は少し呼吸を整えて振り返り、彼女と向き合う。真波を見つめる詩季の顔立ちは美人揃いのリリィの中でも一際整っており、それ故に真波は憐れみを感じずにはいられなかった。彼女には、本来あるべき幸福があっただろうに、と。
自身が管理するリリィの中でも、一際彼女が思い入れているのが、三朝詩季と言う少女だった。ある日突然、大切な存在を喪ったこの少女は、きっと自分に近い存在なのだと、彼女の来歴を見た真波は、そう思わずにはいられなかった。
そして、彼女を救う事が出来れば、長らく抱え続けてきた自分自身の苦しみから解放されるかもしれない、とも。
「そんな事を言うなと、言いたい所だがな。悔しい事に、今の私はその言葉を否定できない。お前の言う通りだ。今のお前には、戦う以外に出来る事は無い」
はっきりとそう言った真波は、対面する詩季を見つめる。自ら飲み下した現実を肯定され、酷く悲し気な表情を彼女は浮かべており、理性と言う名の薄氷が今にも踏み抜かれてしまう、そんな危うさを何処と無く覗かせ始める。
予測通りだと、内心で呟き、しゃがみ込んだ真波は、詩季の手を包み込む様に取った。小刻みに震える彼女の手の中、中身の残ったカフェオレがちゃぷちゃぷと波音を立て、それを止める形になった真波は、荒くなりつつある詩季の呼吸音を聞きながら、言葉を続ける。
「だが、それはお前に限った話じゃない。ここに居る連中は、皆戦う事しか出来ない連中だ。リリィは皆、そうなんだ」
一リリィとして、一監査官として、味がしなくなるまで噛み締め続けた現実。リリィであらんとする事を一度でも選べば、そこから自分を変える事は出来ない。ガーデンと言う檻を抜けるまで、否、自らの生が終わるまで、リリィである事は自らを呪い続ける。戦場に立つと言う、常人の道を外れた時点でもう元に戻る事など出来ない。
「だから今は、戦う事だけで良い。だがいずれは、それ以外に出来る事を見つけてもらう。それはお前だけでなく、レギオンの連中、全員。例外無くな」
確固たる意志を目に宿した真波は、その視線を詩季に注ぐ。荒げた呼吸は少しずつ和らいでいき、浮つきかかった目も、しっかりと真波の目を見つめ返していた。
返答が無くとも言った意味を理解している、とそう推察した真波は、彼女から手を放し、微笑んで見せる。対する彼女は、表情を和らげつつも何処か不安げな顔をしていた。その意図も、真波は理解していた。大方自分がそんな物を見つけて良いのだろうかと、葛藤しているのだろう。何人もの戦友を死なせてきた自分が、生きる希望を抱いても良いのかどうか、詩季はずっと迷っている。明確な屍の上に立つ彼女にとって生きていく事は、美徳であり、悪徳でもある。だがそんな矛盾を抱えるのは、生きていたいと願う事の査証だ。
生きていたいから、死にたくないから、自分がそうあるからこそ、他人のそれを奪い去った自分が赦せない。そして、他人の生きる権利を奪ったから、自分が生きていく事は赦されないと捉えてしまう。
そんな考えは間違っていると言うのは簡単だ。だが、その言葉を受け止めるのは簡単では無い。根が真面目な彼女なら猶更だ。だから、言葉控えめに、真波は告げた。
「少なくとも私は、お前にこの先も生きていて欲しいと思うよ。ウォーターシップダウンの戦力としてで無く、一人の、女の子として」
そう言い、頬に手を伸ばしかけた真波は、ウェラブルコンタクト経由で呼び出しに気付き、伸ばした手を胸元に当て、インカムを引き出し、耳に当てた。
「どうした?」
そう応じ、その場から立ち上がった真波は、ちょうど部屋から出てきた渚達に気付き、手持無沙汰だった詩季の肩を叩く。真波が指す方を見た彼女は、休憩は終わりだと気付き、急いで缶の中身を空にする。
荷物を引っ掴み、慌てて駆けていく彼女を見送った真波は、輸送機手配の件での最終調整についての呼び出しに応じ、その場を後にした。