昏睡していた詩季が目を覚まし、いの一番に目にしたのは無機質な意匠の天井だった。白で統一されたそれは、意図せず今まで見て来た黒く焼かれた部屋とは対照的な印象を与えていた。
「ぅ……?」
意識もはっきりせず、乾き切った口からは掠れたうめき声しか出せない中、体を起こそうとした詩季に激しい頭痛が襲い掛かる。頭が割れそうな程の痛みと共に気持ち悪さがこみ上げる。
「わー、ちょっとちょっと、ここに吐いてよ!」
耳鳴りに紛れ、聞き覚えのある明るい声が近寄り、声の主に差し出されたバケツへ詩季は吐き戻す。数度噎せ込み、胃液しかない吐瀉物を見下ろした彼女は、荒れた呼吸をしながら顔を上げる。
「おはよう、三朝君。よく寝れた? は、不適当か。まぁ良いや。はい、お水」
そう言い、500mLの飲料水を差し出したのは、救助対象である黒木冨亜奈その人だった。差し出されたペットボトルを空にした詩季は、いまいち状況の掴めない現状に疑問符を浮かべる。
紙皿に乗せた1ピースのケーキを手に戻ってきた冨亜奈は、そんな彼女に明るい笑みを向けると、一緒に持ってきたダイニングチェアに腰かける。
「まぁ、取り敢えずケーキでもどうぞ。詩季にゃんが何でここにいるかはちゃんと説明するからさ」
いつもの軽い調子を思わせる冨亜奈に促されるまま、詩季は差し出されたケーキに手を付ける。黙々と1ピースを食べる彼女を安心した様な目で見た冨亜奈は、気分転換で一拍手を打つ。
「よし、じゃあ何でここにいるか説明しよう。と言ってもまぁ、一言二言で済むんだけどさ。私が隠れてたこのフロアの一角に、詩季にゃんが倒れてたってだけなんだよね」
にゃは、と照れ臭そうに笑う冨亜奈は、ケーキと一緒に状況を飲み込んだ詩季の目に気付き、小さく咳払いをする。
「詩季にゃんさ、上でドンパチやってたでしょ? その音、こっちにも聞こえててさ。で、それが急に止んだからなんだろうって思って、取り敢えず同じフロアをほっつき歩いてたら、うつぶせで倒れた君がいた。んで、ここに運んで、起きるまで待ってたって訳なんだけど」
歯切れ悪そうに言葉を止め、冨亜奈は笑みを張り付けた顔を俯ける。
「君がいるって事は、ウォーターシップダウンの皆もいるって事だよね?」
俯いたまま、問いかけた冨亜奈を前に、詩季は最後の一欠片を口にする。咀嚼しながら向けられた訝しみを、跳ね除ける様に冨亜奈は顔を上げ、左の人差し指を顎に当てながら笑みを向け直す。
「でもおかしいなぁ。詩季にゃん助けた時は他に誰もいなかったんだけど」
「それは……」
悪戯っぽく言う冨亜奈を前に口ごもった詩季は、落ちていく真霜の姿を思い出し、口元を抑えた。死を連想し、吐き戻しそうになった彼女に慌ててバケツを構えた冨亜奈は、何とか堪えた彼女に胸を撫で下ろした。
「ごめん。その感じだと、皆とはぐれちゃったんだね」
口元を抑え、震える詩季から視線を逸らした冨亜奈は様子を窺いつつ、椅子に座り直る。手にしたバケツを傍らに置き、詩季から紙皿とフォークを持って行く。
「まぁ、取り敢えずベッドから降りなって。こっちでゆっくり話そうよ」
笑みを崩さない冨亜奈に促されるまま、ベッドから降りた詩季は仮眠室と書かれた部屋に気付く。電磁式で固く施錠されているらしいそれを凝視していた彼女は、不意に手を掴まれた。身を竦め、見下ろした先、笑みを貼り付けた冨亜奈が見上げていた。
「何ぼっ立ってんの?」
射竦める様な目に刺された詩季が怯んだのを見逃さず、冨亜奈は半ば強引に引っ張る。後ろ髪を引かれた詩季は、自分が寝ていたベッドがソファーを改装したものだと言う事に気付いた。
「ほら、座って」
後から両肩を抑えられ、無理矢理座らされた詩季は、キッチンに引っ込んだ彼女を視線で追った。二人分の飲み物を淹れているらしい彼女がポップスの鼻歌を歌う中、詩季は改めて、病な程に真っ白な部屋の中を見回した。
清潔さを思わせる趣はまるで研究ブースの様だ、とそんな第一印象を抱いていた詩季は、キッチンに据えられたカウンタースペースの向こうに、研究用の機材を見つけ、抱いた印象があながち間違いでも無かった事を悟る。不用意に動けず、その場から観察するだけだった詩季だが、それでも多少なりと観察する事は出来た。
何かを調べる為の機械らしい物には納刀状態の日本刀が据えられていた。だが、遠目に見てもその意匠は少し変わっており、ゴシック調を思わせるくすんだ黒地の鞘にマットゴールドに塗装された蔓を思わせる金属製の飾りが、所々に散りばめられていた。
鍔の飾りまでは窺えなかったが、日本刀型、と言う点からアーヴィングカスタムと言う機種のCHARMであろう事は、想像に難くは無かった。
「はい、お待たせ」
よそ見している詩季の視線を戻す為に、インスタントコーヒーをダイニングテーブルに置いた冨亜奈は、身を竦めた彼女に苦笑を向ける。自分の分のカップを手元に置いた彼女は、使い捨てのコーヒーミルクとスティックシュガーを流し込む。
甘いコーヒーを仕立てた彼女は、押し黙る詩季より先に茶色く変わったそれを口にする。それに促される形で詩季も黒いままのそれを口にする。
「うわ、詩季にゃんブラック飲めんの?」
コーヒーから口を離し、身を乗り出した冨亜奈に、身を引いた詩季は黙々と頷きながらカップを傾ける。やけに冷静な詩季の態度に、中てられる様にして冨亜奈は席に着き、嬉しそうに両手でカップを抱えて飲む。
そんな彼女を見て首を傾げた詩季は、ブラックコーヒーを飲み干すと、ダイニングテーブルに空いたカップをそっと置いた。
「あ、ごめん、待たせちゃって」
「ううん、大丈夫。落ち着いてから聞かせて」
苦笑を浮かべた詩季に笑みを返した冨亜奈は、甘いコーヒーを一気に飲み干すと、詩季の分のカップを持ってキッチンに引っ込んだ。
乱雑に流しに置いた冨亜奈は、その足でラボの方へ向かい、必要であろう機材を引っ張り出していた。乱雑に置かれた機材の山から発掘している彼女は、ガラガラと音を崩れていく機材の山から、目的の物を引き出し、ダイニングテーブルへと持ってくる。
「お待たせ!」
そう言い、説明に使用するらしい出力機材を乱雑に置いた冨亜奈は、おっかなびっくりの詩季を他所に電源を入れ、自身の端末と同期させる。
ホロデバイス上に、見覚えのある青図面が表示されるや、詩季は目を見開いて見つめる。そんな彼女の素振りを笑った冨亜奈は、端末を操作しながら説明を始める。
「現状について説明しよっか。と、その前に個々で起きた事の触り位は真波さんから聞いてるよね?」
「うん、ちょっとは」
「じゃあ、ここからするのはもうちょっと詳しい現状の話。今、このラボには掃除屋が侵入してる。多分、本部からの。私は取り敢えずやり過ごせはしたけど、確認できる限りだと、もう……」
一転して暗い顔になった冨亜奈の前、ホロデバイスに監視カメラから取得されたらしい画像に黒い装備を身に着けた集団が映り込んでいた。揃いも揃って目出し帽を身に着けた彼等は、男女入り混じったバラバラの体格ながらも総じて鍛えられた印象を纏っていた。
彼等を凝視した詩季の脳裏に、上階の惨劇が過ぎる。肉の花を咲かせ、臓物の蔓を引き延ばし、そうして路端に飾られる異形のオブジェ達。彼女達の最期と同じ、異形となって死んでいった人の慣れの果て。
そう思うと、詩季の腹から何かがこみ上げ、堪らず口を抑える。体を震わせ、吐き気を下した彼女は、ヒビを入れる程の力でテーブルの天板を握り締めた。
「大丈夫、詩季にゃん?」
少し引き気味で問いかけた冨亜奈は、顔を俯けたまま、縦に首を振った詩季に安堵の息を漏らし、ゆっくりと席に着いた。
「その感じ、上で色んな人を見たんだね」
顔を上げた詩季は、ぽつりと呟いた冨亜奈の視線を追う。その先にあったのは、固く閉ざされた仮眠室への扉だった。
「後で話すよ」
肩を竦めた冨亜奈は振り返った先で、首を傾げていた詩季の背中へ、苦笑と共に言葉を投げかける。背中にぶつかった言葉に引かれる様にして振り返った彼女は、苦笑から笑みに変わった冨亜奈と対面する。
「では、続き。現状のラボの設備状況だけど、ライフラインは全てダウンして、電気も水道もガスも全部止まってる。予備電源もね。そのせいで今ここは封鎖状態。詩季にゃんも見たっしょ、上の分厚い扉。アレ、強化リリィの脱走防止壁なんだけど、あの扉を開けるには大元の制御室で予備電源を復旧させなきゃ解除出来なくてさ。ただ、件の制御室は地下のどん底にあって、そこまで行く必要がある」
肩を竦めつつそう言った冨亜奈は、詩季へラボの階層図を見せ、その最下層、自身の言うどん底である地下30階を指す。
「けどさ、聡明な三朝君ならご理解いただけるだろうけど、私1人で下まで行くのって、ぶっちゃけ無理じゃん?」
自嘲気味の笑みと共に、冨亜奈が首を傾げてそう言う。苦笑を返すしかなかった詩季は、それでも、その自嘲が持ち得る限りの情報で状況を分析した結果だと理解していた。
現状のルドビックラボには最大で4つの脅威が存在する。1つはG.E.H.E.N.A.が送り込んだ火消し部隊、2つ目はレギオンが散り散りになった原因である無人機、3つ目はラボが開発していた強化リリィ、4つ目はラボに残存するヒュージ。後ろ2つに関しては、詩季にとってあくまでも研究内容からの憶測でしかない。だが、憶測だからと言って勘定に入れない程、彼女は楽観的な人間では無い。
いずれにしても、これらの脅威を冨亜奈一人が対処するのは特段戦闘能力に秀でている訳では無いと言う点からかなり厳しいものがある。黒木冨亜奈と言う少女は、あくまでも護身として最低限の戦闘が出来るアーセナルであり、詩季達リリィほど戦える訳では無い。
よしんば単体には辛勝できるとしても、それが集団で彼女一人に襲い掛かれば、捌き切る術を持たない冨亜奈に勝ち目は無く、嬲り殺しにされるだけだ。
「でも詩季にゃんがいるなら百人力かなって思うんだよね」
楽観的な物言いの冨亜奈は、苦笑と共に肩を竦めた詩季へケラケラと笑い、ラボの設備へと移動する。CHARMの内部構造を調べる為の検査台、そこに置かれていた詩季のヨートゥンシュベルトを手に取り、彼女はナックルガードを自身に向ける様にしてダイニングテーブルへ置いた。
「どの道、詩季にゃんも皆の事を探しに、下に降りなきゃいけないでしょ? 利害は一致してると思うけど、どうかな?」
提案と言うよりももっとラフな、お願いと言う雰囲気を醸す彼女に、笑みを返した詩季は、テーブルに置かれた愛機を受け取り、状態確認の為に鞘から刃を引き出す。簡単な確認から問題無いと断じ、彼女は鞘に込め直す。
「良いよ。それに、元々黒木さんの救出も任務内容に入ってるから、無事に連れて帰らないと怒られちゃう」
微笑と共にそう言った詩季は腰にヨートゥンシュベルトを取り付ける。嬉しそうに笑った冨亜奈は、再びラボへ引き返し、アーヴィングカスタムとダインスレイヴ・カービンをそれぞれ2機ずつ持ってくる。
「ほい、これ。ここで保管してた自衛用のカービン。非常用のダミーコア駆動機だから性能は結構落ちるけど、それでも無いよりは良いっしょ?」
そう言い、アーヴィングカスタムを備えた冨亜奈は、ダイニングテーブルの上へダインスレイヴ・カービンを並べた。2つ、寝かせる様に置かれたそれは、ルドビコ仕様の銀色から一転して、ルドビックラボ仕様とも言うべき、目立ちにくいマット調のダークシルバーに塗装されていた。加えて形状面の違いとしてコアの装着部に代替モジュールが装着されており、ダミーコア駆動である事を示していた。更に装着部には容易な取り外しを阻害する為か、本体と同色で塗装されたカバーがはめ殺しにされていた。
差し色として機能しうるコア特有の透明感のある色は無く、単色で彩られたそれは武骨な道具としての側面を色濃く表していた。
「一応この機体は、ラボで調整して連続3時間くらいは保つ様にしてるから、下に降りるまでは何とかなると思う。あ、そだ。忘れてたけど、詩季にゃんクラスの供給に耐えれる様な回路じゃないから、使う時は詩季にゃんの方から調整して使ってほしいな」
「分かった。善処してみる」
困り繭の顔を向けてきた冨亜奈に、少しばかり冗談めかして返した詩季は、近接用のグリップを通じて抑え気味にしたマギを供給する。流量に気を付け、疑似コアに火をくべた彼女は何かに触れた様な感触を得ると共に、体内から力が沸き上がらせ、呼応する様にカバーの隙間からマギの光が漏れ出す。
ひと先ずの起動確認を終えた詩季は、リンクを解除して机に立てかける。超常の力を失ったそれは、剣を模したただの金属の塊となり、破壊力を失った先端が、力無げにこつんと床を叩いた。
「そう言えば、黒木さん。さっきの部屋の事……」
そう言いかけた詩季は、思い詰めた様な表情を浮かべ、ダインスレイヴ・カービンを見つめる冨亜奈に気付いた。その表情は静かでありながら、かと言って十全に理性的であるとは程遠く、見慣れた感覚を交えていた。
──ー明確な殺意。
それを抱えた彼女は何とか自分の中からそれを逃すまいと、必死にその象徴である得物を見つめている。端から静かに見ていた詩季はそんな印象を抱いていた。
「あの、黒木さん」
改めて呼びかけた詩季は、肩を竦ませた彼女に微笑を向ける。自分が抱いていた感情に対してなのか、笑みに射竦められた冨亜奈はほんの一瞬、酷く怯えた表情を浮かべ、そして誤魔化す様に笑い返した。
「何? 詩季にゃん」
「あ、えっと。さっき話すって言ってた、あの扉の事についてなんだけど」
あの扉、と言われた仮眠室の扉を見た冨亜奈の表情が強張り、軽かった力も強く、ダインスレイヴ・カービンが握り締められる。明らかに変わった彼女の態度を前に、指差した手を緩めた詩季は、数瞬の間、彼女の顔を凝視する。
何かに怯えた顔。敢えて何かをあの部屋に封じていて、それを開ける事その物に対する表情。垣間見せた原初的な表情はすぐに彼女の理性に抑え込まれ、仮面の様な微笑が張り付く。
「あ、うん。そうだったね」
極僅かに震えた声で、気丈さを保った冨亜奈はパネルの前に立ち、開錠コードを打ち込む。張り詰めた空気感には場違いな、間の抜けた電子音が8ケタ分鳴る。その間に彼女の背後に立った詩季は、エンターキーを前に、人差し指を震わせた彼女を見下ろす。
生唾を飲み下した冨亜奈は、自分にかかった影、詩季へ乞う様な目を向ける。許しを乞う様な、この先から引き返したいと、そう言いたげな目が詩季を見上げる。敢えて意図を読もうとせず、詩季は先を促す様に首を傾げて見せた。
「……開けるね」
諦めを感じさせる声と共に、冨亜奈はエンターキーを押し込む。ロック解除を告げる電子音と共に、『LOCKED』と書かれたパネルが背景色の赤から『UNLOCKED』の表示と共に緑に切り替わり、それを目視した冨亜奈は開放用のタッチパネルに手を当てた。
甲高い電子音が扉の開放を警告し、空気の抜ける音と共にゆっくりと扉が開いていく。開けるに連れ、光が差していく扉の向こう、一人が寝るには大きなダブルベッドが見え、その後、4つの黒い繭の様な物が姿を見せた。
戦場で何度も目にしたそれが死体袋であると、詩季はすぐに理解し、息を飲んだ。大きく陰った冨亜奈の横顔からは表情を窺えない。恐る恐る肩に手を伸ばそうとした詩季は、触れるより前に手を掴んだ彼女に身を竦めた。
「これね、パパと、ママと、私の親友達」
抑揚の無い声でそう言う冨亜奈の手の力は華奢な見た目通りのものだったが、彼女の纏う雰囲気が振り解く事を許さず、詩季はそのまま導かれる様にして死体袋の傍へ歩み寄った。
呆然と立ち尽くす詩季に微笑んだ口元だけを見せた冨亜奈は、顔が見える様に2つ並んだ死体袋を開けた。弾丸の衝撃波によるものか、顔の半分が抉られた中年男性、その隣には、喉笛に大きな切り傷を付けた中年女性が並んで寝かされ、いずれも人の手で安らかに目を閉じていた。
「今日ね、2人の20回目の結婚記念日だったんだ。ケーキやプレゼントも友達と一緒に用意して、それで……」
言葉を失い、肩を震わせた冨亜奈は、大粒の涙を床に落とす。
「それを見た2人が喜んでくれるの、待ってたんだ。大好きなパパとママが、ずっと、私の将来の夢を応援してくれる2人が、少しでも幸せな気持ちになってくれる様にって。皆で、揃って、ここで……」
最後まで言い切れず、これまで抑え込んでいた感情を決壊させた冨亜奈は大声で泣き出し、やがて声を殺す様に床へと伏せる。死体を見たショックを受けていた詩季だったが、彼女の泣き声が、パニックに陥りかけた意識を正常な物に引き戻した。
言葉も無く、彼女の傍へと歩み寄った詩季は何も言わず、彼女を抱き締めた。彼女の大きな泣き声を収める様に顔を埋めさせ、それでいて、死体には背を向け、目に入れない様にしていた詩季は、自分の目の前に誰かが立っている事に気付いた。
『傲慢ね、詩季。あなただって、奪う側の人間でしょう?』
『そうですよ、御姉様。あなたは私達の将来を奪った人間です。今そうして、奪われた人を慰める資格なんて無いんですよ?』
『それとも、その子に共感する事で、自分も奪われた側の人間だって、勘違いしたいの?』
くすくすと笑う2人の少女の姿は、詩季の脳裏にこびり付いた者。同級生、そしてルームメイトだった『鹿島 美晴』、そして、自分の義妹である『一ノ瀬 夏輝』。かつて力及ばず、彼女がヒュージとの戦いで喪った者達。無論生きてなどおらず、幻影として詩季の前にあるが、それを彼女が自覚する事は出来なかった。
『あなたは私達を見殺しにした。助けなかった。それって、人を殺す事と同義よね?』
眼前に迫った美晴は、嘲笑を浮かべて詩季を見やる。光も焦点も無い死人の目が彼女を射貫くと、動悸が早まり、冨亜奈を抱き締める力が制御を離れて強くなっていく。
「詩季にゃん……?」
毟る様な力のこもり方に痛みを感じた冨亜奈は、どこかを見つめ、息を荒げる詩季に気付いた。みしりと骨が痛むのに顔を歪ませた彼女は、それと同じくらいに強く、彼女を抱き返した。
「ごめんね、詩季にゃん」
顔を埋めた詩季の胸の中でそう呟いた冨亜奈は、身を竦ませた彼女を見上げる。半ば反射的に合わさった詩季の目には、過去に犯した罪への恐怖が滲んでいた。
「辛い思いさせちゃって」
目を合わせ、そう言った冨亜奈は、泣き腫らした目を笑みに変えて詩季を抱き返した。泣き出すでも無く、空虚な目でされるがままになった詩季に、彼女は言い聞かせる様に話し始める。
「私ね、詩季にゃん。復讐したいんだ。パパと、ママと、美愛と、唯を殺した連中に」
声を震わせ、そう言った冨亜奈はその言葉に反応した詩季へ、涙目で苦笑を漏らす。
「でも、さ。怖いんだ。復讐したい連中と、同じ事をしてしまうのが。誰かの人生を、幸せを、私の独り善がりで奪ってしまうのが」
そう言った冨亜奈の表情は、複雑なまでに存在する感情でぐちゃぐちゃになっていた。理不尽に奪われた怒りと、大切な人を喪った悲しみと、一線を越える事で自分も奪う側に立つことへの恐怖。
「ねぇ、詩季にゃん、教えてよ。私、どうしたら良いのかな」
ぽつりと言い落とし、涙を流した冨亜奈は、そっと抱き返してきた詩季に目を見開いた。
「それは、黒木さんが決めるべき事です」
抑揚の無い声でそう返した詩季は、心の内に広がりつつある闇から目を逸らす様に、視線を落とした。
──ー数多の命を、将来を奪い取ってきた自分には、彼女に寄り添う資格が無いのだから。
「そっか。分かった。ごめんね、変な事聞いて。じゃあ、行こっか」
昏い目の詩季から体を剝がした冨亜奈は、無理矢理に作った明るい笑顔を彼女に向ける。
「はい」
変わらず、抑揚無く答えた詩季は彼女に導かれるまま、ラボの外へと出て行った。