「ああ……もうすぐ時間だぁ……」
絶望するかのような声が思わず漏れてしまう。
時刻は朝。通勤に急ぐサラリーマンがちらほらと見える。
降り注ぐ陽光になぜか寒気を感じ、体の震えが止まらない。
今日から私――島津結は喫茶リコリコに転属となる。
いきなり楠木さんからここに配属と聞かされた時はただただ唖然とするばかりだった。
こんな知らない人のところで働くなんて私にはできないのに……。
「行かなきゃ……開けなきゃ……」
遅刻しまいと約束の時間の1時間前からリコリコの扉の前でそわそわして右往左往していた。
「10分前だ……でも早すぎても駄目で……でも遅すぎても駄目だよね」
こういうときどうすればいいんだろうかと思考を沈める。
いつも頼りにしている楠木さんはいないし、友好関係なんて無いに等しい。
そう懊悩する内に時間になってしまった。
心臓は変に音を立てて吐きそうだ。
「し、深呼吸……! 一回だけ。そうしたら入ろう……」
一回……やっぱり二回してから恐る恐る扉を開ける。
目に入ってきたのは和を基調とした店構えだった。
だけど洋風にも感じて不思議な空気を感じる。
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐり飲んでもいないのに苦いものが口に広がってきた。
「あ、あの~今日からここに配属になった島津ですけど……」
自分でも驚くほどの小さな声で呼びかける。
ちなみにまだ私は店の中に入っていない。覗くように扉から顔をだしただけだ。
「……あれ?」
店中に人の気配はなかった。いや、あるにはある。
カウンターで寝息を立てている大人の女性。
横には大きな酒瓶が置いてある。
私は少しだけ気が楽になる。
寝ているということは無理に起こす必要はない。
誰か別の人が来るまで心を落ち着かせる時間があるということだ。
「し、失礼します……」
やっと店の中へと足を踏み入れ人心地付こうとしたとき――
「結ちゃんだね、待っていたよ」
私の隣から不意に声が聞こえた。
その男性の声が聞こえた瞬間、体が硬直する。
ギギギと錆びた機械のようにぎこちなく頭を横に動かす。
そこには大きな人がいた。肌は黒くて背が高い男の人。
それが何ともいえない威圧感を与えてくる。
「う……ひゃ……」
「うひゃ?」
男の人が私の意味不明な言葉に首をかしげる。
「うっひゃあああああああ!?」
私の体が自然と飛び退き、そして――
「あいたぁ!」
後ろの扉に頭を打ち付けた。それは本当に盛大に。
勢いよく強打して転倒。入店を知らせるドアベルが鳴り響く。
「え! 何々!?」
そのときカウンターで突っ伏していた女性が跳ね起きた。
眠たそうな目で視線を彷徨わせている。
そして目と目があった。
「「……」」
しんとした静寂が店を包む。
私は何かいたたまれない気持ちになってしまう。
「驚かせてすまない……大丈夫かい?」
横から声。
男の人が声をかけてきて、手を差し出してくれる。
「は、はい。だ、大丈夫です……」
立ち上がりリコリスの制服についた汚れをはたく。
せっかくの真新しくしたのに台無しになってしまうところだった。
「ずっと扉の前にいたもんだから声を掛けようと思っていたんだが、心配はなさそうだ」
「え……ず、ずっと見ていたんですか……?」
それは心配をかけてしまい、申し訳ないことをしてしまった。
「ここの管理者のミカだ。よろしく頼む」
ミカさんがそう挨拶し、手を差し出し優しく微笑む。
私はびくびくとしながらも握手に成功。
その手は温かくてほっこりする。
初見では怖い人に見えたけど、この人に悪意はなさそうだ。
「……」
自己紹介――それは私にとって最大の難関。
何回シミュレーションしてもうまくいかなった。
だけど頭をぶつけたせいか緊張は解けていた。
今なら言える……!
「今日からここに配属となった、サードリコリスの島津結です。よろしししししし……」
……言えなかった。よろしくお願いしますが声に出せなかった。どうやらまだ体は緊張はしているようだ。
「ああ、よろしく」
私の失敗に気づかないふりをしてくれるミカさん。気を遣っていただき胸が締め付けられる。
「で、その子……誰?」
カウンターで寝ていた女性が不機嫌そうな声でミカさんに問いかけた。
「ここに配属となった島津結ちゃんだ。今日からここで働くことになる」
「こ、ここで働くことになりました、島津結です、よ、よ……よろしくお願いします!」
頭を低く下げて自己紹介。
「ここに配属ぅ!? 私なーんにも聞いてませんけど!」
「それは誰にもいってないからな」
ミカさんは低い声で冷静に女性と話し合っていた。
本気で驚いたようで女性は目を大きく見開いていた。
「何でこんなところにリコリスが? あんた何をやらかしたの!?」」
「まてまて。最近お客さんが増えてきただろ? その補充要員というだけだ」
そう言っても目の前の女性は納得した表情ではなかった。
「紹介しよう、こいつは中原ミズキ。元DAだ」
「こいつ言うな!」
ミズキと呼ばれた人は不満そうに鼻をならす。
「よ、よろしくお願いします……ミズキさん」
最初は近寄りがたい雰囲気だったけどある意味親しみさを感じた。
楠木さんからリコリコに悪い人はいないと言っていた意味が少し分かった。
やっぱり楠木さんが言うことに間違いはない。
「あの……ここにもう一人リコリスがいると楠木さんから聞いているんですけど……」
私より年が4歳上の超エリートリコリス。名前は――何だっけ?
「楠木さん?」
ミズキさんの鋭い視線がささる。
「す、すみません。指令って言った方がいいですよね……?」
他のリコリスの人は『司令』と呼んでる人が大半だし、私もそうしたほうがいいのかな?
ミズキさんは訝しげな眼を向けてはいた。
「まあ、なんだっていいや。千束ならすぐ来るんじゃない?」
そう言って寝起き顔で酒瓶をラッパ飲みしていた。
あんなに飲んでいるのに酔っていそうにはなかった。
「寝坊さえしなきゃ、という条件付きだが……」
ミカさんが神妙な顔をして呟く。
そう、思い出した。錦木千束さん。東京で一番のリコリスだ。
千束さんの事は楠木さんから一部聞いている。
あのときは転属のことで頭がいっぱいだったけど朧気に記憶を手繰る。
ファーストを冠するトップのリコリス。
旧電波塔での事件を一人で導くほどの能力を秘めた人。
楠木さんは千束さんのことを「あいつはあいつは」と悪態をついていた気がする。
だからこそすごく信頼されているのがひしひしと伝わってきた。
完璧で無敵で信頼もされて……。
つまり私とは真逆の人間。
私は任務では失敗ばかり。うまくいったことなんて何一つない。
悪い人じゃないとは聞いているけど、心配だ。
一緒に仕事をすることにもなるかもしれない。
そうなると足手まといになってしまわないか不安で仕方がない。
「結ちゃん。何かあれば私かこの飲んだくれに何でも相談してくれていい」
「そうそう、私みたいな飲んだくれに……って誰が飲んだくれじゃぁぁ!」
ミズキさんは雄叫びを上げてミカさんの言葉を否定する。
「ふふっ」
私はそのやり取りを聞いて思わず笑ってしまった。
少し心が緩んでしまう
咄嗟に口を両手で塞ぐが、ミカさんとミズキさんはと私を見つめてくる。
「千束が来るまでゆっくりするといい。話はそれからだ」
「来なくていいんじゃない? あいつの声は頭に響くのねぇ……」
恐い人じゃありませんようにと祈りつつ、カウンター席に座り背筋をピンと伸ばして待つ。
そのとき――勢いよく後ろの扉が開かれた。
「おっはようございまーす! アイドルの千束ちゃんだよーん」
溌溂とした元気な声が店内に突如響く。
この喫茶リコリコでの経験が、私に大きな影響を与えていくことになる。
――良くも悪くも。