私が死に物狂いで横に並んだ一人をようやく抜いたかといったところで、ゴールの目安となった看板を超えた。
徐々に減速し、激しく動く心臓を落ち着かせる。風が止んでいたこともあり、歩みを止めた途端に身体全体から一気に汗が噴き出した。
私設レース場特有の
数か月ぶりに行ったほぼ実戦の全力疾走は、身体で忘れていなくても心が
それを無理やり動かしたからか、普段以上の疲れが来ても仕方ないだろう。
それでもギリギリ最下位をまぬがれたかもしれない安心感からは分からなかったが、私の心中は得体の知れない幸福感に満ち溢れていた。
『ねえ!どっちが2着か見てた!?』『ワタシが先よね!』『最後前に出たのこっちだって!』
一方、観戦していた仲間は私に興味を向けるどころではなかった。次の出走者が準備を行う
ムホウマツ先輩が周囲の予想通りに1着をかすめ取った以外は皆がそれぞれ
フリーレース場に着順を判定するような設備はなく、他観戦者の目視で順位を確認する他ないためにこういった揉め事は時折起こる。
『二着三着争いで言い争いして
『あざっす!』『ざーっす!』
周囲が私の結果を見ていないのはトゥインクルシリーズのころから変わらない、いつものことだ。
それでも自分の中では満足いく走りが出来た。でも得体のしれない幸福感の根元はこれではない。
また、これまでのトゥインクルシリーズで結果を出せなかった焦りや悔しさ…。そういった感情が湧いてこないのは、今走ったのが勝ち負けが重要なレースでないから…そんな理由ではないことも判っていた。
…今自分の中に
走ることそのものに対する快感だった。
『クレノ、
「あ、はい!」
息が整ったところでヨタヨタとコース脇に退いた私はランナーズハイが残っていたのか、肩を叩かれて初めて先輩の存在に気付く。
先輩の声色は不安げにも聞こえたが、私が元気よく振り向くなりいつもの軽口を取り戻した。
これまで競走を避けていた私に実戦をやらせた不安もあったのだろうか。
「じ、自分の動きどうでしたか!」
『動画撮って追いかけてたけどギリギリ最下位かな…。
ペコ先輩は私のレース中にカメラを回していた。撮影位置はゴール位置の看板真正面。
ゴールした瞬間の並びは…推定クビ差決着。目視では判別が難しい着差でも、映像で残っているからには負けを認めざるを得ない。
それでもついた
『…それでも、今のクレノがなんだか楽しそうだからよかった』
「楽しかったです」
ずっと"トウカイテイオーを目指す"といった高い目標を掲げてレースをしてきた。
それで打ちのめされて、心が折れて。
トゥインクルシリーズを退くと決めた日から三カ月余りで全く未知の世界に入ってしまって。
実際、たった今走ったのはトウカイテイオーを目指す道からは外れたもの。
そんな私が、"楽しかった"という言葉を
走る意味に思いを巡らせながら、数日が経った。
『スマイルペコです。時間は限られてるけど、同所属の先輩として出来る限りのアドバイスをできればと思うわ』
トレセン学園の入構手続きを済ませたペコ先輩は、挨拶もそこそこに足早に説明を始める。
本日与えられた時間は3時間余り。この後はジムインストラクターの仕事が控えているそうだ。
『…ミラクルオコシヤスです。本日はよろしくお願いします。最初に質問なんですけど、どうしてクレノさんが同行しているんでしょうか?』
『いろいろと訳アリで説明できないこともあるのだけれども…彼女から直接頼まれたのよ』
なぜ一介の生徒である私が、クラブ
レースモデルの仕事については現状一切口にできないため、私達はあくまで先輩後輩の関係だと説明するほかなかった。
『経緯はさておいて… 私も
『2400を失速せず走り切れるスタミナはある、スパートの掛け方も機敏だけど一番の欠点はトップスピード… 前々から話を聞いていた通りね』
オコシは"皐月賞"以来ずっと続く気落ちに加え、初めて会う先輩との対面も相まって口数は少ない。
それでもこなすウォーミングアップメニューのタイムや姿勢を見ても、とても調子を落としているようには見えない。
いくら心に乱れがあっても身体はしっかり動くのが、チーム内で唯一重賞で戦えてる理由だろう。
『オコシさん。
『下るって、いつも上っているルートを逆走するのでしょうか?』
『私見だけど、おばさんのトレーニング傾向やオコシさんの筋肉のつき方から…ダービーを走り切るだけのスタミナや心肺能力はすでに整ってると思う。そしてジムインストラクターの観点から言えば、末脚を発揮するのに必要な
『で。何もない山道を駆け降りるのを想像してほしいんだけれども、最初は下るにしたがって自然に両脚が交互に出ていくだけだけど、降りていくにつれて徐々にスピードが高まってくるから、自然に従うだけでは転倒してしまう。だから意識して脚を踏み切っていく…そんな様子がイメージできると思う』
『つまり坂を下ることで、自分にとって最高速度で走れるフォームを探していくわけ。長距離マラソンのランナーはこのトレーニングをやってるそうよ』
『…ペコさん。下り坂を使った加速の練習となると坂で得たスピードを維持するための平坦な直線が必要なの。トゥインクルシリーズのスピードで下るとなると脚にかかる負担はマラソンの比ではありませんし、トレセンの坂路コースは一直線のコースではないから安全な練習を出来る保証が得られない』
『それにこの練習をするには普段皆が登る坂路コースを逆走する必要があります。私が常にオコシさんを監督できる状態にはありませんし、この練習を一人でさせるわけにもいかないの』
ペコ先輩は副業の仕事柄、運動に必要な筋肉の部位や鍛え方について一定の知識を持っている。指導相手は老若男女多種多様で、ローカルシリーズ現役のウマ娘も相手にしている。個人個人に合わせた筋力トレーニングの知識は先輩に分がある。
しかし提案された練習の決定権はトレーナーであるおばさんにある。何よりペコ先輩はトレーナー資格を所持していないので専門性は
『…ですが提案を
それでもおばさんは極力先輩に寄り添い、提案を出来る範囲で受け入れようとしている。
学生時代の縁もあるだろうし、一人のトレーナーとしてなんとか新鮮な意見を取り込もうと苦闘しているのだろう。
『その…先輩やクレノさんには失礼と思いますけど、勝負になるのでしょうか?』
大分時間が経ったところで、私はオコシの併走相手として呼ばれることになった。
ペコ先輩はこの併走の為に私をフリースタイルレースで慣らせたらしい。
私はトゥインクルシリーズをドロップアウトした未勝利ウマ娘。公式戦でのタイムはオコシと比べられたものではない。
オコシの言い分も
『でも"菊花賞"の3000を実戦形式で走ったことはないでしょう、クレノには不完全だけど3000の走り方を仕込んでる』
『!』
3000といえば、普段レースモデルとしての練習で走る距離。
これまで行ったのがレースモデルとして行うスローペースな走りであっても、私はこの距離のペース配分について十分な知識がある。
ただ一方で、一般のレースのペースで走ったのは数日前の2500、それも約3か月ぶりの一度きり。
数日前失速せずに完走はできたが、ぶっつけ本番で500メートル延長してもいけるかどうかは…正直心の中では半々だ。
先輩が私を試してるんじゃないかという疑念を抱きながら、ウォーミングアップに入った。
ほどなくして併走が始まった。
数日前に走った私設レース場よりスピードの乗りやすい固めの土。
競う相手は同世代の
何より私のトップスピードが大きく劣ることはオコシも承知の上。
そのアドバンテージを生かすため、オコシはスタート早々から突き放しにかかる。
早速開始600メートルで5バ身差をつけられた。耳の動きからみて、彼女は更に突き放そうと勢いづいているように思える。
友だちとして口にすることは無くても私の能力に対する
ただこれは想定のうち。
今回走っている練習用コースは固めのバ場を選んでいる。スピードが比較的乗りやすい一方で、土を踏みしめる感覚が脚に伝わりやすい。
更に直前、坂路を下る形でのフォーム調整も行っている。実戦に近い形でスピードを生かした走法を試したくなるのが道理だろう。
自ら高めたスピードは自然と運動強度を高め、心肺能力では簡単に補いきれない疲労物質を増加させる。
それでもオコシは大舞台でも比較的周りに流されないペース配分が出来るし、たらればの話ではあるが"菊花賞"を無理なく走れるスタミナもあると思う。
だが今日この時ばかりは、実戦未体験の距離に対する心構えが空回りしていた。
丁度3000メートルの半分を過ぎたところから、着差が広がらなくなった。
そしてオコシ本人もペース配分を誤ったことを自覚したのか、手の振りを変え極力身体の消耗を抑える走りにシフトしている。
残り1000メートル余りを今のペースで走ることは不可能と感じたのだろう。
そして控える私がスパートを掛ける時が来た。能力の無いなりに徐々に加速を続ける。
エンジンが乗り切ったのは最後の200メートル。ようやく着差は最初の5バ身差を切り、徐々に追い詰めていく。
残り3バ身。もうひと踏ん張りで届く距離まで来た。
勝ちたい。
目の前を走っている彼女は"皐月賞"に出たんだ。
後数メートルまで追い詰めた。未勝利の私が!
勝ちたい!
私だって勝てるんだ!私だって──────
…私の中に初めて湧き上がって来た勝利への熱い思いがあっても、チームの勝ち頭を抜き去るのは
ペース配分の知識というアドバンテージを得ても尚、最後まで3バ身差を
『…嬉しくない。勝ったのに悔しい。事実上、私の負けですね…』
それでもこれだけの差に収められたことは上出来。むしろ大きくトップスピードに劣る
序盤にあった明確な理由のないフォームの変化、ペース配分の落とし方、苦しくなった最終直線での走り…
併走で見えた
『オコシさんに今できることは、"皐月賞"の走りを更に進めたスタミナでひねりつぶすオールドスクールなレースだと私は思っている。一線級の子に比べて足りない点が多いのはもう仕方ない、それなら他の武器を突出させて戦う方がまだ
『そのために必要なのは何よりハイペースのレースになっても潰れない足腰… まあ、オコシさんがおばさんに課せられている練習を普段通りやり続ける他無いって事よ』
一方そう呼ばれるようになったのは、時代を経るにつれレース場の整備技術が発達し、
整備技術の発達に伴いレースは高速化、結果としてトゥインクルシリーズの主流はスタミナを生かした
それでもこの勝ち筋が完全に死滅したわけではない。
例えば他の大逃げウマ娘が奇襲を行った際、二番手に立ち差を詰めていくことで前の優位を確保する走り方。もしくは芝が水を吸えない程の不良馬場。
例えば、ある年の"天皇賞・秋"は台風が近づいての開催になった。その時の勝ちウマはG1レース7勝のレジェンド、キタサンブラック。
脚を下ろせば水分を含んだ土から水が跳ねたほどの不良馬場は、現代のレコードタイムから15秒弱も遅れてのゴールである。
…現代でもそういった条件さえ重なれば、トップスピードに劣るウマ娘が優位に立つこともある。
『もっとこう、斬新な練習メニューとか提案できればよかったんだけどね。…おばさんが私にさせたかったレースも
『いえ、私の為にお時間作っていただいて、本当にありがとうございました!』
落ちこぼれチームの代表として、出来ることは全てやってほしい。
おばさんもペコ先輩も、推し進める主張の根元は変わっていない。
時間はあっという間に過ぎ去り、ペコ先輩が次の仕事に向かう時間になった。
私と先輩の次の対面は約二週間後。話すことが山のようにあったので、クールダウンもをそこそこに学外まで先輩に付き添うことにした。
『じゃあ、次にパーマーさんトコで会うのは再来週…"ヴィクトリアマイル"の週末かな。クレノ、今日はいい併走だったよ』
「ありがとうございます…、なんかこの頃走るのが楽しくなってきてて… GWの間もパーマーさんとこ行こうなんて思ってて… ハハ」
多少の
先日の私設レース場・そしてオコシとの併走で、これまで遠く感じていた"純粋に走る楽しみ"を思い出させてくれたような感じがしていた。
思えば、子供のころからずっと"トウカイテイオーを目指す"ことに執着し、走ることそのものには着目していなかったような気がする。
現在はともかく、トレセン入学前は地元では最速。それで周りに賞賛されてしまえば、走る楽しみより勝つ楽しみの方に心が染まっていても仕方ないだろう。
…もし今からトレセン学園入学の日までやり直せるのであれば、即座に首を縦に振る程度には。
『…そっか』
『実はさ。私がオコシさんの練習相手を提案したのって…クレノがそう口にするのを待ってたところがあってさ』
「…待ってた?」
『…クレノにはモデルとは別に、レーススタッフの道を本職にしてほしいと思っていたのよ』
筆者病気療養中に伴い、次回更新は12月中旬の予定になります。 読者の皆様にはご迷惑をお掛け致しますが、何卒お待ちいただければと思います。 |