中山レース場、二人きりの控室。
鏡には必死に未知への恐れを抑えようとしているトウカイテイオーと、それを心配そうに見つめるビワハヤヒデが映っている。
この時控室の外では、万一
扉の外からスタッフらの慌ただしい足音が聞こえる。他人に迷惑をかけてしまった後悔が頭の働きを鈍らせていた。
『正直… クレノにはつらい役目を押し付けたとは思ってる。一部でも撮影できるなら出てほしいって監督は言ってるし、私達もできる限りの助けはする』
『クレノの今の震えについては、正直撮影陣の皆も起こるかもしれないって話してた。それはクレノの心がどうこうじゃなくて、私達がウマ娘である以上起きうる生理現象だから』
ウマ娘の本能である"走りたい"という気持ち。
一方でレース場等で走る時…欲求が満たせそうな状態である時、この本能は抑えが効かなくなる。
トゥインクルシリーズでレースに向かう際は皆例外なく気が
科学的な裏付けはないが、"走りたい"本能は"勝ちたい"という別の本能に直接つながる。
特にG1の様な大舞台・大多数に見られる前提での特別なレースは、現代の科学でも解明できない程の
では、
"全力を出すことが許されず、台本に従って走る"
これらが両立する環境下では、ウマ娘の"走りたい・勝ちたい"という本能はどうなるだろうか?
『…その矛盾する状況の結果が、今のクレノの身体に出てるんだと思う』
台本に従って走るという事は、ウマ娘の"勝ちたい"という本能に根本から逆らうという事だ。
単独で駆け出すことも、タイミングを見つけて仕掛けることもできない。そもそも最初から最後までペースを指定されている為に、全力を出すことすら能わない。
練習ではある程度この本能は抑制される。身体も脳も今走っている状態が練習と分かっているからであろう。
だがレース場に赴き今のように勝負服に身を包み、全力で走ることが能わないとなったら。
私は"台本通りにレースを遂行し、トウカイテイオーになる"と考えている。一方でウマ娘としての本能は"全力で走りたい"と願っているはずだ。
今の私が揺れているのは、その本能との
『テイオーに憧れてるクレノの事だから、覚悟が付けば私とおなじ
『撮影するって決まって1ヵ月もあったのに、説明するべきだった。ごめん、クレノ。怖かったよね』
「つまり…ウマ娘としての本能がこうさせてるって事なんですね。私が決してレースモデルとして負い目を感じているわけじゃなくて」
『私達ウマ娘の本能については分からないことも多いから、断定はできない。…でも、クレノの気持ちがまっすぐなのは判ってるつもり』
乾いた喉奥を少しでも潤すためペットボトルに手を伸ばそうとするが、手が届くより先に先輩が私の元に差し出してくれた。
しばらく、水面は小刻みに揺れていた。たどたどしい手つきでペットボトルを掴む。
「…先輩」
握ったペットボトルの水面が一瞬跳ね上がる。そこでようやく、先輩の手先が震えていることにようやく気付いた。
『あいにく、今の私もクレノと同じ状態。…昨日からずっとこうなの』
先輩は何かを観念したように小さく息を吐き、自分の足元を見るように指図する。
足下の震えは貧乏ゆすりのようにも見えるが、私と変わらない症状であることは即座に分かった。
他の先輩方が言うには、こういった撮影に対する拒否反応そのものは珍しくないそうだ。
トゥインクルシリーズでもレースに慣れないうちはゲート入りを拒むウマ娘が居る。個人差はあるがそういった子も出走を重ねるうちにある程度は慣れていく。
それと同じようなもので、仕事を重ねるうちに折り合いが付いていくものらしい。
『この震えはトゥインクルシリーズ然りローカル然り、競走経験した子に多いんだってさ。私の
先輩がクラシック級の末にトゥインクルシリーズを去ったという話は聞いている。
おばさんとの信頼関係に一度
素人考えだが役者の夢という
『…私がレースモデルを始めることになった理由はクレノより受け身でね、走る仕事ならなんでもよかったの』
私のよく知る先輩は三足の
役者の仕事1本に専念することが正しいと分かってはいるのに、走る楽しさに
そして、心のどこかでは今の選択に対する負い目を感じ続けている。役者の仕事に専念しなかったことだけではなく、役者を選んだことすらも。
普通の仕事に就く選択肢はいくらでもあった。それ故に、普通の仕事に就いた自分と今の自分をずっと比較し続けている。
『走るのを辞めるのが怖い、走り続けた毎日が無になるのが怖い。でも役者業を諦めるわけにもいかなかった。そうしてたどり着いたのがレースモデルという仕事なの。でも…いくら仕事で走ることになっても所詮は他人の指示。私のトゥインクルシリーズに対する未練は完全に収まることはなかった』
『クレノがレースモデルになることに消極的だったのは…結局私が一番今の仕事に対して満足できてないからだと思ってる』
| この先、"普通じゃない仕事"の人間として 生きていく覚悟はあるの? |
先輩は二人の問いかけが届いているかのように、鏡から視線をそらし続けていた。
「…どうして先輩はこんなに苦しんでいるのに、私を同じレースモデルの道に引き込んだんですか」
先輩はレースモデルの道に進もうとした私を、やんわりではあるが何度も引き止めてきた。
いつあるかわからない撮影のために身体づくりを続け、数日単位のスケジュール確保を強いられ、撮影中はウマ娘の本能に
事故や衰えでいつ仕事が出来なくなってもおかしくない。それでいて高給取りという訳でもなく、名が残ることも殆ど無い。
ただ何度も引き止めた最大の理由は…先輩本人が仕事そのものに負い目を感じていたために、私を巻き込ませたくなかったからだろう。
それでも試験は行われ、合格した。先輩がダメだと言えば私なんて幾らでも落とせるはずなのに。
『…試験の時、クレノは思いの丈を存分にぶちまけてくれた。「私ではない誰かのために走れるのだとしたら」って、言ってくれたよね。…私もそれと同じ』
しばらくの沈黙。
観念したように先輩は一つ息を吐く。
『"私の仕事をきっかけに、君がレースモデルを志してくれたことが嬉しかったからだ"』
控室に小さく響き渡っていた金具の音が止まった。
先輩がビワハヤヒデに戻ってからはもう、二人きりの控室から貧乏ゆすりの音が聞こえることはなくなった。
『…"立てるか?"』
差し出された手を受け取り椅子から立ち上がる。
私と一回りも違う巨体の息は荒く、震えは完全に収まってはいない。貧乏ゆすりも自然に止まったわけではなく、心の中で必死に押さえつけているようにしか見えなかった。
それでも、パドックやライブの映像で何度も見たビワハヤヒデ本人がそこに居た。マツ先輩が言っていたように、先輩は怖れに負けず"ビワハヤヒデであろう"としている。
『"私がこうした震えにも負けずに頑張れているのは、レースモデルが誰かの心を動かすことのできる仕事だと信じているからだ"』
『"気休めでしかないが、その誰かのために走ることを考えて仕事に臨むことにしている。そうすれば多少は… 震えも止まる"』
おぼつかない足取りで一歩、椅子から離れる。
震えは止まっていない。まだ立つことが怖い。
それでも先輩は私の為に、みっともない自分の姿を全てさらけ出した。
『"私達の走り、そして君の走りで誰かの心を動かす。一緒について来て欲しい。 …トウカイテイオー"』
…それにもし私がトウカイテイオーだとしたら、ライバルの申し出を断ることなんてないはずだ。
『只今戻りました、ビワハヤヒデ役・スマイルペコです!本日はよろしくお願いいたします!』
「お待たせして申し訳ありません!トウカイテイオー役・クレノフォーエバーです、本日は宜しくお願いします!」
真夏の中山レース場。遠くわずかにセミの声が聞こえる中、撮影の開始を告げるカウントが響く。
遠くゲートの向こう。カメラが
確かに脚は震えているかもしれない。それでも怖気づかないと決めた。
ゲートが開く。いざ踏み出してみれば、震えのことなど全く気にならなくなった。
真新しい芝を踏みしめた時の感触。全速力ではなくとも自分の走りが生み出す風。トゥインクルシリーズで走った過去を思い出す。
内に秘める熱が
台本に従ってポジションを落ち着かせる。向こう正面に至るまではビワハヤヒデをマークしながら、目立たない位置で待機しなければならない。
改めて圧に
皆、多かれ少なかれ苦しんでいるのだ。
能力・金銭面… 様々な理由でトレセンへ入学することが敵わなかった。
夢を抱いて競走の世界に入ったのに、勝利することすらできず引退を選んだ。
誰かを演じるのではなく"自分"として、本物の"有馬記念"を走りたかった。
先輩達がレースモデルという仕事を選んだ理由の裏には、何かしら過去の未練を清算したい思いがあるはずなのだ。
その未練が内で熱となって、"圧"という形で放たれているのだとしたら───
向こう正面に到達する前に、スパートを掛けるため位置をやや外に取る。
バ群の死角を使い耳でビワハヤヒデが合図する。
進路を開ける後続。先輩達が放ち続ける"圧"は滑走路誘導灯の様に並び、
先輩達すべてが内に秘めた思いを語るわけではない。心にどうやって整理をつけているかは分からない。
それでも皆例外なく、
出さないという選択肢はない。私達がこういう生き物である以上、放たずにはいられないのだ。
ずっと先頭に立っていたメジロパーマーが内枠前を維持しつつも、ハヤヒデに先頭を譲る。
ビワハヤヒデの後方に位置取っての脚を溜める動き。左右に並ぶ先輩達が位置を譲る。
外に位置どっている先輩は、私がコーナーで
最終直線。
視界にはビワハヤヒデの後姿。
歯を食いしばる。一歩一歩、脚を踏みしめる。
レースの結果は判っている。もう十数歩の後、ビワハヤヒデがわずかにペースを落とす。
とはいえ、"だけ"なんてことはない。
楽ではない。ゲートが開いてから3分余り、最後の最後まで妥協を許されない。
玉のような汗が額からこぼれる。そんなことなぞ気にすることもできず、ただトウカイテイオーであろうとし続ける。
割に合わない仕事だ。半年前の私は、こんな苦しい思いをしてまでテイオーになることを望んでいたのか。
──トウカイテイオーだ!トウカイテイオーだ! ──トウカイテイオー、奇跡の復活!!!
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…それでもゴール板を横切った瞬間、自然と笑みが零れた。
レースの長尺撮影を終えた後は出走者個人を抜き出しての撮影や足下のパーツ撮りといった、番組制作に必要な細かい素材の撮影が中心となる。
既に陽は空の真上を指す。レースモデルや撮影陣は代わる代わる冷房の効いた屋内に避難しながらも、地味な撮影作業を進めていった。
──"仮初の有馬記念 トウカイテイオー編"、撮影終了です!
──トウカイテイオー役クレノフォーエバーさん、レースパートこれにてクランクアップです!お疲れ様でした!
現場入りから半日弱。私は皆より一足早いクランクアップ… 全撮影工程の終了を迎えた。
実質レースパート1日だけの撮影で末席中の末席であるのだが、スタッフからお祝いの花束を受け取る。
花束の重さが両手に伝わった瞬間、涙で視界が緩んだ。
『なー!初仕事おつかれ!マツ先輩が記念に今日ご飯
『遅めの就職祝いよ。ここで先輩風
メイクの解除も終わり、私は"トウカイテイオーに似ているだけのウマ娘"に戻った。
控室の外には一足早く撤収作業を終え、帰り支度を済ませた先輩達がたむろしていた。
「あ…ありがとうございます!荷物取り終わったら是非ご一緒させてください! …えーっと、ペコ先輩は?」
『あー、ごめん。私はまだ帰れないからパス』
ついさっきまでビワハヤヒデを演じ続けていた先輩は、ハヤヒデの為に掛けていたパーマを再びストレートに戻さなければならない。
私以外のレースモデルは明日以降も撮影を控えている。何より次に控えているのは"オグリキャップ編"。
『今日の仕事が手ぇ抜いとったまでは言わんが、明日の撮影はペコにとって特別やけ諦めてぇな』
『先輩。クレノのお世話よろしくお願いします』『ん。』
今決まっているスケジュールでは、今日の撮影以降先輩と私が同じ現場で仕事をする機会はない。先輩の忙しさを考えれば私設レース場で顔を合わせる機会も当分なさそうだ。
朝方の控室での会話からは想像もできない程の軽口で会話を交わして、先輩はメイクスタッフが待つ控室へ歩みを進めていく。
『…クレノ、本当にありがとう』
それでも最後は半年間付き合った仕事の打ち上げに付き添えなかったことを名残惜しそうにしながら、ゆっくりと控室の奥へ消えた。
『
「は、はい!直ぐ準備します!」
先輩の足元から湿布の香りが鼻を刺す。それに半日あまり走り続けたからか足取りも少しぎこちない。
私達より年長の先輩達は既に本格化を終えきっていてもおかしくはない。疲労の回復も万全ではないはずなのに、明日もまたレースモデルとして走る仕事が待っている。
なぜここまで苦しい思いをしているのに、先輩達は明日の仕事を楽しみにしているのだろうか。
…私もそうは思いながらも、心中は仕事場である中山レース場から去ることを名残惜しんでいた。
明日には一足早くホテルを引き払い、トレセン学園のレーススタッフ候補生としての日常に戻る。今日一日苦しみながらも、心のどこかで今日走ったことをとてもうれしく感じているのだと思う。
ロッカーの扉を開き、着替えやスマホの入ったカバンを取り出す。
姉・クレノエニィモアから来ていたメッセージの返事をどうするか悩んでいると、ふと扉の内側に鏡があった事に気付いた。
深く呼吸を整えて再び視線を合わせれば、目の前には今も作業服姿のトウカイテイオーが映る。
「普通じゃない仕事」で生きていく覚悟は今もない。それでも一仕事終えた達成感・また走りたいという気持ちに偽りはない。
事務所が私を仕事に呼んでくれる以上はその役割を果たし続けることにする。いつかレースモデルを辞める時が来ても、それで誰かの人生を少しでも変えることが出来たのなら、私が普通じゃない仕事を続ける意義はあったんじゃないか。
…おそらく鏡の向こうの私が期待した回答ではないだろう。でも、私が返す答えはこれ以外にないと思う。
鏡の向こうのトウカイテイオーが、少し諦めた顔で笑ったような気がした。
先輩はレースモデルの道に進もうとした私を、やんわりではあるが何度も引き止めてきた。
いつあるかわからない撮影のために身体づくりを続け、数日単位のスケジュール確保を強いられ、撮影中はウマ娘の本能に
事故や衰えでいつ仕事が出来なくなってもおかしくない。それでいて高給取りという訳でもなく、名が残ることも殆ど無い。
それでも先輩達は自分の仕事に誇りを持ち、また次に走る日の為に全力を尽くす。
こんな割の合わない仕事の為に、私達はなぜここまで頑張れるのだろう。 撮影を一つ終えて、その理由が分かった気がする。
私達はどうしようもなく走ることが好きで、走ることを諦められなかった不器用ばかりなのだ。