中継映像が菊花賞出走者のパドックを映し始めたところで、丁度控室のドアを叩く音が聞こえた。
勝ちウマ表彰式に出席するため、ペコ先輩と共にウィナーズサークルにほど近い別室へと移動し待機することになった。
『クレノは、私がおばさんに練習やレースで使う消耗品を提供している話は聞いてると思う』
「はい、おばさんから一度伺いました」
『…パドックでマーサさんの蹄鉄が外れるのを見てね』
『私が発注してる蹄鉄は二種類あるんだけど、そのどちらでもなかった。蹄鉄の色みは、それとは異なるメーカーの物だった』
引き連れるスタッフ数名ばかりの足跡のはるか向こうに、出走を待ち望む観客の気配が漏れ出ていた。
蹄鉄は知っての通り、走行するウマ娘の足指先を保護するためレース中の装着が義務付けられている。
当然ながらウマ娘毎に靴のサイズは異なる為、蹄鉄のサイズもそれにあったものを用いる。スポーツ用品店ではメーカーや用途に応じた無数の蹄鉄が用意されている。
なお、基本的にはURA・NAUが認定しているメーカーの製品を用いるが、団体の検査を通した海外メーカー製品や規定に沿ったうえでの自作も認められている。
URAでは、レース出走時に装着する蹄鉄は「厚み」「太さ」「重量」に一定の基準を設けている。例えば重量には上限値が設けられており、極端に重い蹄鉄を装着することはできないわけだ。
逆に、重さの下限値は存在しない。安全性が担保されていれば脚に合わせて細かく形状を変えたり、一部分にゴム素材*1を用いたりすることも認められている。
一定の長さ未満であれば接地面にスパイク状の突起を生やすことも可能だし、蹄鉄を構成する弧の長さを変えることも問題ない。
チームをサポートする身として、マーサが今日のレースに合わせて蹄鉄を変えたことは知っていた。
彼女が今回装着しているものはどちらかと言えば荒れたバ場…コースの整備が完璧でない野良レースでの利用を本用途としたものであり、パーマーさんのレース場で走りに付き合ってくれた先輩方、フリースタイルレース走者の皆さんも同様のモデルを使用している。
内側の芝が荒れた状態で常時内ラチを走らなければならない逃げウマ等、トゥインクルシリーズでも時折この蹄鉄を使用するトレーナーは存在するが主流というわけではない。
一般的に用いられるメーカーのモノより遥かに軽く、耐久性や取り回しの面で劣るからである。
『さっきのレースでマーサさんがコーナーで見せた加速は、その蹄鉄の軽さが功を奏したように見えるの。下り坂の加速とある程度荒れていないコーナーの外は、今日のバ場の中では最もスピードを出すのに向いたスポットだと思っている』
『でも、マーサさんに今回の蹄鉄が合っているとは…少なくとも私は思わない。あの蹄鉄は湿ったバ場にも向いてないから』
『…そういった諸々を承知でおばさんが軽い蹄鉄を採用したのは、マーサさんのレースとは別の目的があるように見えないかしら?』
軽い蹄鉄は一度地に着けた脚を再び持ち上げる際の負担を軽くする。とくに芝コースの場合は脚の離れを良くし、土に脚を取られにくくする効果がある。
一方で、軽さは地面を踏み出す力が弱くなることと同義であり、歩幅を大きくとって距離を稼ぐストライド走法には向いていないとされる。
また、水が染み出るような重バ場では、蹄鉄の重さが地に着いた脚を固定するアンカーのような役割を果たす。軽い蹄鉄では満足にこの効果が果たせず、逆に足を滑らせる危険もある。
その上、水を吸った土から上がる
その状態で走ることによる振動と踏みつける力が何度も働けば、(通常の蹄鉄よりわずかに、だが)レース中の落鉄が起きやすくなるらしい。
…ロジックの面では、先輩の言ってることは正しい。
確かに今日のマーサの走りは少し無理をしたように見えるし、その原因が蹄鉄であればなぜ今日に向けてわざわざその軽量蹄鉄を採用したか、という疑問が残る。
何より、軽量蹄鉄の採用は人手不足による何かの見落としではなく明確な意図がある。
ただ先輩からは焦りを感じる。
具体的な言葉にするのは難しいのだが、ロジックを理解することが先輩自身を傷つけるのではないかという懸念があった。
ぽつりぽつりと語り続ける先輩を心配するあまり、
「先輩は」
不意に、口から整理しきれていない思いの一部が漏れた。
しまった──と、脳に情報が届きどう取り
「…今の先輩は、少し怖いです」
「えー…おばさんとオコシの事を心配しすぎて、その…かわりに先輩が深みに堕ちてしまいそうで、怖いんです」
観念し、途切れ途切れでも言葉を紡ぐ。
怒られるならまだいい。仕事を控える先輩を傷つけるわけにはいかない。
『オコシさんが負けるように聞こえた?』
再びの静寂。
先輩も言葉の選択に迷っている。
『逆よ』
『おばさんに酷いことをしたと思ってるからこそ… オコシさんには私と同じ気持ちになって欲しくないの』
眼前の窓からは満面の芝コースが見える。
既に走者は本バ場入場に移っており、それぞれ向こう正面のスタート位置へと移動を始めている。
ターフビジョンを
鈍色の空。朝方現場入りした時とは空気の感じが変わっている。日が暮れるころには晴れるだろう。
各走者はそれぞれのスピードでスターティングゲートに歩を進める。
内ラチ側のバ場を気にする素振りを見せる出走者が心なしか多いように見えた。
「それで、答えって何なんですか」
『スタッフとして蹄鉄の世話してるクレノなら分かってるでしょ』
あっ、と小さな声が漏れた。控室に入ってから初めて先輩の笑顔を見たような気がした。
『皐月まで半月蹄鉄だったのに、ダービーは蹄鉄変えてたって後で聞いたから驚いたわよ』
オコシがレースに使用している蹄鉄は
弧の両端がカバーする範囲はまさしく脚の指先だけしかない為、当然ながら両端の無い分軽い。
オコシはトレセン学園に入学して初めて、蹄鉄を装着しての走りを経験した。
その慣れない蹄鉄での練習が原因で脚を地面に付ける際の力の掛け方が爪先側に
比重が偏る…すなわち接地面全体で地面を蹴り出せていないという事であり、それが長らくトレーナーとの契約を結ぶほどの成績を残せていない理由の一つでもあった。
半月蹄鉄は、本来蹄鉄でカバーされるはずの
一方、矯正を主目的としたこの蹄鉄がレースで使われることは稀だ。ダービーで通常の蹄鉄に戻してもある程度好走できることがわかった上で、改めて半月蹄鉄を選んだ理由があるのだろう。
『…私の愚考がおばさんの考えと合致してるなら、オコシはオールドスクールな走りで勝負を賭けてくる』
『オコシ本人の勝ちにつながるかは分からない。でもそれが上手くいけば… 少なくともダービーウマ娘は沈む』
立場が近しくなった今でも、おばさんの考えをすべて理解しているわけではない。
一方で控室に入ってから、まるで全てを見透かしたようにモノを語りつづける先輩が相変わらず怖く見える。本人は表彰式出席に備え、淡々と鏡の前で繕いを続けていた。
出走者18人がゲート前に揃ったところで、スターターが旗を振る。
ファンファーレの生演奏。曇り空の切れ間から差す陽の光が窓の外から見える。
実況は全てのウマ娘のゲート入りを伝える。
仲間のG1挑戦がもう3度目であっても、スターティングゲートが開くまでの僅か数十秒余りは相変わらずとても長い時間に思える。
本日
いつもより濁ったようなゲート開放音が響いた。
【同世代主要メンバーの秋G1戦線動向】
・負傷等による年内休養
ゴッドキングコング(京都新聞杯、ダービー9着)、リリィ(皐月賞8着) 等
・マイル・ダート等の他路線に移動
ヴェントリキュラー(NHKマイルカップ2着、ダービー11着)、タンホイザーゲート(ダービー15着) 等
・凱旋門賞
| 1着 ナポレオンマキャヴィティ(英) 2着 ツバサヒーロー(URA)(シニア級。クラシック三冠・宝塚記念等) 3着 エスメラルダベル(仏) 5着 ナートゥサクティ(URA)(皐月賞、ダービー3着) |
・秋華賞
| 1着 シャコーダンサー(トリプルティアラ達成) 2着 ヤヨイハクレイ 3着 アグネタ(皐月賞6着) |
・天皇賞(秋)へ
ミリオネアドリーム(毎日王冠4着 ホープフルS・ダービー2着)
ワイズアキンボ(オールカマー1着 皐月・ダービー出走なし)
キルヒューマニティ(オールカマー2着 皐月賞3着)