『クレノもおばさんも遠路はるばるごめんね、ちょっといろいろ事情があってね』
『あ、体面上言っとくね。 …"クレノフォーエバーさん。
"皐月賞""桜花賞"の出走メンバーも固まり始める3月中旬。
私とトレーナーはトレセン学園から程よく離れた貸会議室に出向いていた。
スマイルペコさんをきっかけにレースモデルの世界を知った"フェブラリーステークス"開催日。
私の突然のラブコールに対しペコさんは一瞬面食らっていたが、そこからは想像以上に 彼女の言うままに履歴書を書くことになり、普段の走りやダンス練習の動画と併せて事務所に送ることになった。
ダンスに関しては(トゥインクルシリーズでは披露することはなかったが)いくらか自信はあった。 トウカイテイオーに憧れてトレセン学園に入った以上、レースがダメでもダンスだけは… と
『えーっと、"志望動機。以前からトウカイテイオーに対し憧れを抱いており、学校の先輩がレースモデルの世界で働いていることを知った。レースモデルの道に進めば、憧れのトウカイテイオー役として走ることが出来るかもしれないから。"…』 『あのさ… あ、ごめんね。 …志望に至った理由を正直に記すとなるとこう書くしかないのがもどかしい。
『まあ、必要な書類は揃ったから事務所に掛け合ってみる。…後輩を悲しませたくはないけど、ダメと言われる可能性があるという事だけは覚えておいて』 「ありがとうございます」
そこからほどなくしてペコさんから連絡があり、改めて面談を行うことになった。少なくとも門前払いは避けられたように思える。
『…クレノとおばさんの三者で面談を行いたいんですけど、トレセン周辺に貸会議室ってあります?』 『トレセン内の応接室を使えると思うけど不満かしら?土日はチームの子の出走予定があるから、その方が都合がつきやすいのだけど』
『あー… 詳しくは言えないんですけど、学内に持ち込めないモノがあって』
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『まず結論から言うと。…クレノの加入についてはオーケーサインが出ました。未勝利クラスとはいえトレセンに在籍している時点で、礼儀作法やダンスの素養に関しては問題ないと事務所は判断してます。一応私がクレノの身元を保証している面もあるけど』
『正式な加入手続き… 身元書類の提出だったりを行えば、すぐにでも事務所に入ることが出来るわ。当分は並行して業界に必要なマナーや知識を学ぶ研修があるから、仕事らしい仕事は当分ないかもしれないのは頭に入れておいて』
無事通過した旨を言葉として聞けたことに
テイオーになりたい衝動から始まった就職活動も早々に決着がついたわけだ。まだ心の準備は付いてないが、これでようやくトレセンの退学準備も…
『でも』「でも?」
『クレノはレースモデルが具体的にどのような仕事をするか、どのような給与体系なのか… そういったことを知らないと思う。OGとして、同じ業界に入ってもらう以上はレースモデルの世界をよく理解してもらう必要がある』
『なのでこの時間を使って、業界について説明させてほしい』
レースモデル。
スタントマンのように、走るシーンを専門としてこなす役者。
映画をはじめとする番組撮影や広告撮影等が主な取引先となるのは以前語った通りだ。大学や企業の研究機関に、フォームや靴の性能テストのために呼ばれることもあるらしい。
極端な話を言えば己の
『まず夢を壊すことを言うけど、この仕事は稼げない』
世の中に映像・広告は数あれど、ウマ娘を走らせて撮影を行うような大規模な広告は限られる。そのうえ1日2日で済むような撮影は、トゥインクルシリーズ現役の有名ウマ娘にコンタクトを取るほうが手っ取り早いうえにイメージ戦略としても効率がいい。
そうした背景もあり、映画撮影などの数週間弱にわたる長丁場の撮影が主な仕事先となる。
とはいえ毎月そんな
また、会社勤めとは異なり、撮影のない待機期間は当然ながら給料なし。そして待機期間であろうと食費・家賃…出費は発生する。
そのうえレースモデルは肉体を鍛え続け、現役ウマ娘程ではないにせよレースを走るものとして
トレセン学園等で生活する現役ウマ娘とは違い、社会人である以上アスリート向けの食事やトレーニング設備を自費で調達する必要があるのだ。
『一応私はレースモデルでない俳優や舞台の仕事もあるけど、
そして、事務所としてもスケジュールの空いている状態は好ましくないし、所属しているモデルを活躍させたい。そういった事情もあり通常のモデルやタレント業といった別業種のアプローチも行うことになる。
多方面での活躍で世間からの認知度が上がれば、そのままレースモデルとしての仕事量も増えることになるからだ。
『詳細は入所してから相談することになるだろうけど、クレノには一般的なモデルとかアイドル…つまりレースモデル以外の仕事もさせたいと事務所は考えていると思う』
『勿論最初は事務所側が手助けしてくれるけど、仕事を受けるためには今後オーディションへの参加や売り込みを行う必要が出てくる。無論レースモデルとしての仕事の枠も同じ。今後そういった競走の中に
『それと私たちウマ娘は、本格化*1を終えた後、競走能力が
『なので5年か10年か… 遅かれ早かれこの仕事を辞めなければいけないときが来る。だからその時が来るまでに、他の業種で食べていくか家庭に入るか… 今後の将来設計をしっかりと考えてほしい』
『…業界の説明は以上。どう?夢のない話ばかりだったけど、なりたい気持ちに変わりはない?』
矢継ぎ早に行われた説明は、私の前掛かりになった気持ちの出鼻を折るには十分すぎるものだった。
だが、どのみち社会に出ても自己研鑽を重ねなければいけない事に変わりはない。
テイオーになりたくて飛び込む業界なんだ、それくらいのリスクは多少覚悟している。
一方、業界説明の話を進めていく中でペコさんの顔はどんどん深刻さを深め、最後には不機嫌にも見えるような形相になっていたことが気になっていた。
言葉にこそ出していないが、この人にとってはなにか好ましくないことがあるようにも見えた。
『でね、これからが本題なんだけど。今日クレノとおばさんを遠路はるばる貸会議室に呼んだのはこの本題があるから』
『クレノ。そしておばさん。私が今から話す内容について、決して誰にも… 勿論家族や他のチームメンバー・寮の同室にも他言しない、そう誓ってほしい』
また一段と強くなる語気に一瞬たじろぐ。
これまで語ってきた業界の厳しさとは全く異なる、これを聞けば後戻りできないようなプレッシャーを感じる。
不安になるあまり真横に居るトレーナーの顔を伺う。トレーナーは凛とした顔のままでいる。
『クレノ。私を見て。これに関しては
『クレノさん。レースモデルでなくとも社会で働く以上、こういった契約や約束事は頻繁に発生します。守秘義務を守ることも社会人の仕事の一つです。…守れますね?』
少し息を吸って、首を縦に振った。
『…じゃあ、これがその本題。 あ、撮影もだめだからね』
《社外秘》
《Abeuma秋のG1特集 追憶の有馬記念(仮題)》 幕間レースドラマ担当
キャスティング資料 B稿C稿
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内容は所々黒塗りで隠されているが何らかの番組の企画書のようだ。
それもペコさんが渡している以上、レースモデルが関わる仕事だという事はなんとなく想像がつく。
なにより、このタイトルには覚えがある。ペコさんの過去の来歴に乗っていた、オグリキャップ役を演じた再現ドラマ…
『そう。私が昨年出演したのが"追憶の天皇賞(秋)"。過去の名ウマ娘のレースを振り返る番組で、ドラマ部分に私が出演したのは説明した通り』
『昨年の番組が好評だったので、今年はテイエムオペラオー・ダイワスカーレット・キタサンブラック… 規模を拡大して、過去に偉業を成し遂げたより様々なウマ娘を紹介することになったみたい』
『で、今回はうちの事務所が
『そこで事務所は、クレノを"トウカイテイオー役"として迎える用意をしている』
え?
『トウカイテイオー1着。あの年の有馬記念の再現ドラマに、主役として出てもらう』
トウカイテイオーに?私が?
『クレノさんがちょっと混乱してるから口出しさせて頂戴。採用に関与しない部外者の意見で申し訳ないのだけど、どうしてクレノさんにそんな大仕事を?』
固まっていた私に代わり、トレーナーが私の整理できない感情を代弁する。流石のトレーナーも
そうだ。事務所には履歴書一式を出しただけ。向こうに伝わっているのは容姿とトレセン学園での活動歴、志望動機くらいのはず。
第一、レースモデルが具体的にどういった撮影を行うかすら私は知らない。性急すぎやしないか?いきなりそんな大役を?
『
『まず一つがレースモデルの人材不足。志願者の少ない
『加えて今回再現することになる有馬記念、現実のテイオーは道中控えての展開でした。最終直線でビワハヤヒデ役との競り合いだけ撮れればあとは比較的ごまかしが効きやすく、新人が実際のレースを体験するにはちょうどいい機会なんじゃないかと。クレノがテイオー役を演じるモチベーションさえあれば周囲のサポートで何とかなると踏んでるのかも』
『だけど失礼を承知で言えば、事務所はクレノの"トウカイテイオーに対する思い"ではなく、"トウカイテイオーに似ている容姿"を買って出演させようとしている風に見える』
『正直、大したヒアリングもせずにこうした仕事をセッティングするのは不義理だとも思う。でも一方で、
淡々と語る裏で、ペコさんの不機嫌な形相は更に深さを増していた。
彼女からすれば、長年努力してようやくレースモデルとして日の当たるところに出てきたところに、私のようにただ容姿だけで名有りの役を与えられた子の面倒を見る羽目になったのだ。先輩からすればあまり気持ちのいいものではないかもしれない。私の知らない裏でなんらかの話し合いがあったことは想像に難くない。
また後日トレーナーが話すに、事務所はペコさんの伝手を使って
私含むペコさんに縁のある後輩が事務所に加入すれば、技術共有などが円滑に進みやすいメリットもあるのだろう。
…ともかくいろいろな思惑はあれど、私に大役を与えるにそれなりの理由があることは判った。
『…まあ、私としてもあなたがレースモデルになってくれるのは嬉しい。でも"トウカイテイオーになりたい"という思いだけでこの道に進むのは正直お勧めできない』
『あなたも知っているように、トゥインクルシリーズでG1を勝てるのはほんの一握り。
『だから、事務所には2カ月
ペコさんが提示した意思決定の締め切り日は約2か月後、G1"日本ダービー"の翌日。
ドラマ部分の本格的な撮影は7月からになる、逆算して出演者の決定や役者・撮影スタッフのスケジュール調整、もし私が断った場合のリスク管理を考えるとこの日がギリギリなのだという。
『…わかりました。トレーナーの私から何かできることはあるかしら?』
『おばさんはクレノに引き続き練習させてください。それと、今週末…日曜日って空いてます?』
『日曜日は中山での未勝利戦と"スプリングS"*2で埋まってるわね。以前みたいに私の付き人をしてもらう予定だったけど、クレノに用事があるならそっちを優先して構わないわ』
『分かりました。じゃあ日曜クレノを借ります』
【用語解説】
・追憶の天皇賞(秋)
昨年末にインターネットテレビ局・Abeumaにて独占放送されたドキュメンタリー番組。
過去の名ウマ娘が勝利したG1レースひとつに焦点を当て、本人・関係者へのインタビューや再現ドラマを交えることで歴史を振り返る。"追憶の有馬記念"はこの2シリーズ目にあたる。
1シリーズ目は全4話を放送、スマイルペコはこのうちタマモクロス編にオグリキャップ役として出演した。昨シリーズが視聴者に好評だったこともあり、"追憶の有馬記念"はエピソードを増話することが内々で決められている。
・レースモデル
給与体系が恵まれていないのは、所属するモデルの中にトゥインクルシリーズで好成績を挙げたウマ娘が全くいないことも一因にある。
比較的世間に取り上げられ辛い裏方稼業である以上、例えばドリームトロフィーリーグに進むような有名ウマ娘はその名前を生かした専属モデル活動の道に進む方がはるかに効率的だからだ。
スマイルペコが京都レース場リニューアルイベントのPR役として選ばれたのは、トゥインクルシリーズ時代にクラシック三冠に出走したレースモデルが彼女くらいしか居なかったため。