「その… 私に撮影用のレースでなく普通のレースをやれ、と?」
『そう。今言ったように私からオコシヤスさんへ直接指導することはできないし、私がトレセンに出向けるのは今週一度きり。ダービーまでクレノが彼女のサポート役を務めてもらうと決めた以上、今どれくらい走れるか私も把握しておきたい』
練習でない普通のレース… すなわちトゥインクルシリーズを最後に走ったのは2月の初旬。
心の奥底に封じたはずの苦い経験を思い出し、耳が忙しなく動く。
行き脚の速いライバル達にスタート直後の位置取りで先を越され、苦手な後方でのレース。
外に行き場を求め不慣れなコーナーでの仕掛けを
別に観客席から酷い言葉を投げかけられたわけではない。競走生活に関わる負傷をしたわけでもない。
ただこれまで未勝利戦で負けを重ねるたびに、長年トウカイテイオーに向けていた憧れを砕かれるような思いでいた中の大敗。
レース後のシャワールームでふと
『…無理強いはしない。クレノがトゥインクルシリーズで苦しい思いをしたのは知ってる』
「やります」
答えに詰まった私を気遣ったのだろう、心配げに声を掛けた先輩の気遣いを私は
今まで先輩に流されるまま受け身だったことを考えれば、私の返事は意外だったのだろう。
ペコ先輩が私の瞳を見つめ、一呼吸おいてから私の意志を理解するように小さくうなずいた。
『マツの姉さーん、もうすぐ時間貸し交代の時間だけど割り込んだりできる?』
『ん。今丁度フリーレース組が距離決めるところ
"マツの姉さん"と呼ばれた彼女は、出走者の集まりから手を振りこちらに来るように
レースモデル組と比べて比較的若いフリーレース出走者の中に居るからか、方言交じりの軽い口調でも飛びぬけた年長者の
ライブラムホウマツ。
彼女は本日不在の"パーマーさん"に代わり、レース場の監視役を頼まれている。
ペコ先輩たちのようにレースモデルとして働くウマ娘の一人だが、彼女は
むしろ仕事の暇を見つけては各地のフリースタイル・レースに顔を出しているらしく、周りにはそちらの方でも名を知られているようだ。
『
『ふーん… 大井の"
ローカルシリーズ・大井レース場で年明けに開催される重賞、"金盃"。
"東京大賞典"の様なグレードのついた重賞ではないが、半世紀以上に渡る歴史とダート2600mという唯一無二の開催距離から、マニアックなファンの多いレースである。
元々ダート競走は世界的に見ても1800から2000メートルのレースが花形であるため、それ以上の距離を走る競走は世界的に見ても開催数が少ない。それでも高知レース場の"高知県知事賞*1"・佐賀の"九州大賞典*2"等、細々ではあるものの2400メートル以上の長距離重賞がローカルシリーズを開催する各地のレース場に残っている。
『…2500mって長いなあ』『"金盃"経験者いる?』『走ってたらこんなところ居ないってば』
『面白そうだけどどうする?』『興味はあるんだけどね…』
『…ま、ウチらフリー組としては興味はあるけど気乗りしない、ってのが総意です。モデル組のお願いでタダで走るってのもなんですし、飲み物
ペコ先輩からの提案に対し、共に走るフリーレース出走者達からの反応はあまり
彼女らにはローカルシリーズ出身の子が多いが、流石に普段走り慣れていない距離での対戦を挑まれると尻込みするのも不思議ではないだろう。
『だって。ペコ、
『参加したらお茶奢り。勝ったらはちみーでどう?』
『…はちみー、2着目までになりません?マツさんが出るなら勝ち逃げされちゃ
ペコ先輩は特に
彼女らも他人の都合で走る以上は何か見返りは欲しい。手を抜くつもりはないが勝ってはちみーが貰えるならやる気も出る。
何のことはない、大人の競走仲間として普通のやりとりである。
『2500のスタートはトラックの中じゃなくて、向こうの第三コーナーポケット*3のトコやね、準備するから少し
レース開始までは他の参加者がグラウンドの整地などの準備を進める。それを眺めながら簡単なウォーミングアップを行う横でぬらりとやって来たのは、その参加者の一人だ。
「ク、クレノフォーエバーです、よろしくお願いします!」
『あー、そんな堅苦しく名乗らなくて大丈夫だよ、あたしらの仲間全員本名知らねぇし』
『ビートって呼んで。今ストレッチしてるのがピエール。あと今向こうで着替えてるのがレンとタイゾー』
共に走る相手はそれぞれが異なる色のジャージ・運動着。
マツ先輩を含め、それぞれ異なる
『やっぱトレセンの子だったかぁ』
エンジ色のジャージに身を包んだ私をまじまじと見つめ、ビートさんがポツリと
『…ここで個人の私生活に首突っ込むのマナー違反だけど、クレノって"フェブラリーS"の日にジューススタンド来なかった?』
「え?買いましたけど… 店員さん?」
『そ。あたし仕事でキッチンカー走らせてるけど、重賞開催の日はレース場で営業してんの。トゥインクルシリーズが忘れられなくてねぇ』
「えー、その… ビートさんも元々トレセンにいたんですか?」『まあね』
『走るの好きだし、トレセン卒業したら走るの引退、ってのは嫌だったからかなぁ。本格化終わり切って周りについていけなくなるほどになったらこっそり辞めるだろうけど。…それまでは走ってると思うよ』
ここでフリースタイルレースに参加するウマ娘も、皆トゥインクルシリーズに対してなんらかの未練を持っているのかもしれない。
ビートさんが私に対して向ける眼は、過去の懐かしみと憧れが入り混じったように見えた。
スタート位置の確認と簡単な整地が終わり、トラックに足を踏み入れる。
ゲートもハロン棒も無い、ラチは木の
『マツ先輩、2500mのタイムってどれくらいが平均ペースなんですか?』
『芝は参考にならんけど"有馬記念"のレコードがご存じゼンノロブロイ大先生の2分30秒弱*4。"金盃"のレコードが2分50秒?*5かそこら…
ゲートが無いため、出走者のスタート位置は足元に埋め込まれたロープを目印にする。
腕がぶつからないように左右の距離は開けられているが、内側が比較的有利という事情から皆が心なしか目印の内側に寄り、スタートの合図を待つ。
『あ、クレノ手ぇ上げて。フリースタイルレースって全員が準備できた合図出さないと始まらないんだ』
「あ、はい!」
代理の監視役が鐘を叩いて、私を含む出走者が一斉に駆け出した。
レースモデルでない四名の走者はいきなりギアを最大にまで上げ、大逃げも辞さぬほどのペースで先頭を争っている。
私はスタート時の加速を維持したままマツ先輩の後方につき、無理のないレース運びを行う。
他のメンバーがギアを最大まで上げることは、直前に受けたペコ先輩のアドバイスで想定済みだ。
『フリースタイルレースは、クレノがトゥインクルシリーズで経験した走り方とは違ったものになる』 「バ場が変わってるのは判りますけど、他にも何かあります?」 『話の腰を折らない。…走ってみてもわかる通り、ここの土はレース場のダートとは違って、農場の土のように柔らかいものになっている。理由はコストの問題で土を全部張り替えられなかったとか怪我を防ぐためとか色々あるみたいだけど…おかげで一般のレース場で走る時ほどは加速が乗りにくい。ここまでは判るでしょ?』
『あとパーマーさんが言うには、ここのコースレイアウト…特に第三コーナーから最終直線は中山レース場を模してんのよ。ホンモノみたいな坂や
『加速の乗らないバ場と地方レース場程ではないけど短い最終直線。結論として、ここで走るセオリーは逃げからの前残りになる。だから今回一緒に走る相手はまず逃げに逃げて先頭に立とうとする』 『かといって慣れない大逃げの前残りに追従するのはおススメしない。マツの姉さんはオーソドックスなレース運びをする方だから、最終コーナーまではあの人の後ろでレースを進めてもらえれば大丈夫』
『勝つ必要はない。このレースで私がクレノに望むことは二つ。トゥインクルシリーズのペースでも息を切らすことなく2500を走り切れるかどうか。それと本番収録になる"有馬記念"のコース取りの疑似体験。…ま、軽い気持ちで行っておいでよ』
「…わかりました!」
|
勝者には
そのため前の四人が連携して後半のスタミナ消耗を抑える走りをすることも
ゴール位置の目安となっている看板を通過し、すぐさま直面する第一コーナー。
大逃げをかました四名は流石にスタート時からはスピードを落としていたが、それでも私・マツ先輩とは10バ身近い差を保っている。
レース開始の時点で消耗したスタミナは、四名である程度同調しつつ無理に飛ばさないことで回復しつつある。
彼女らの実力は判らないが、中山レース場相当の最終直線であればもう一度スパートを掛けることはできるのかもしれない。
マツ先輩は一瞬後方を振りむき、私に仕掛けのタイミングを教えるかのように位置を上げていく。
前四名はスタートの勢いから落ち着いてきている。走る姿勢に乱れはない。私達が
気持ち大きく息を吸い足に力を込める。私なりに徐々にギアを上げて前との着差を埋める為、再び前に目線を合わせる。
脚を気持ち強く踏み出す。
私ってバカだな。
勝つ必要はない、普段通り走れるかを見ると言われてるのに、まだ勝つ気持ちでいるんだ。
…でも、私だって勝てるかもしれない。
私の勝ちたい気持ちに火が付いたように感じた。
その根源はトウカイテイオーに対する憧れではなく、ウマ娘としての本能がそうさせたように思えた。
集団は第三コーナーに到達しようとしている。
たった今スパートを掛け始めたはずのマツ先輩は、一人をすでに抜き去っている。
レース前の会話から、マツ先輩がフリースタイルレースでも高い実力を誇ることは推測がついていた。しかしこうも
しかし先輩に対する思いは一瞬で脳裏から過ぎ去った。代わって前の四人を誰か一人でも抜く一心──勝ちたいという気持ちが先輩のことを忘れさせたのだ。
向こうからは観戦する先輩たちの声が聞こえる。人数が少なくても人通りのない田舎だから声がよく通る。
柔らかい土。コーナーで強く脚を踏みしめられず、少し外に振られる。
それでも徐々に加速はついて来た。10バ身以上離れていた前の四人との差は
外に振られたまま中山レース場を模した短い直線に突入する。
隊列は差し切りを狙うために縦一列の体系から徐々に横に広がりつつある。
今更内にコースを取る理由はない。このまま突っ切るしかない。
逃げていた4名の集団はそれぞれが思い思いのスパートを掛けていくが、マツ先輩が先頭を走る一人に並んだ。
出自も実力もバラバラの逃げ集団はそれでも2着に残らんと必死にスパートを掛けていくが、最後方の一人が徐々に垂れていく。
でも先頭争いから脱落しただけで、私とは未だ2バ身程度の距離を維持している。
耳を相手に向けても、息の切れた様子は感じられない。まだ最後の末脚は残っているかもしれない。
疲労はある。でもこの直線くらいなら全速力で走り切れる。
フォームを崩さないよう腕に意識を向ける。歯を食いしばる。
手を伸ばせば届く距離まで近づいた。
最後方の彼女も後ろに私が付いた事は知っている。最後にもうひと伸び、死力を振り絞っている。
体格差…自分の脚幅の小ささを
私がトウカイテイオーなら、こんなところで失速なんかするはずはないんだ。
私が死に物狂いで横に並ぶ。
彼女も死力を振り絞る。
私が死に物狂いで横に並ぶ。
彼女も死力を振り絞る。
横に並んだ一人をようやく抜いたかといったところで、ゴールの目安となった看板を超えた。
【登場人物】
・ライブラムホウマツ(LIVE A MuhouMatsu)
トゥインクルシリーズ・ローカルシリーズ登録なし
本業は繁華街のスナック店主。九州出身だが他地方の方言も混じる。
レースモデルとして長く勤めあげた実績もあり、事務所に所属しないフリーであっても仕事を選べる立場にあるらしい。
学生時代は地元随一の才能からトゥインクルシリーズ入りを嘱望されていたが理由あってレースの道には進まず。小倉・博多界隈の野良レースで番長的ポジションに立つ。
高校卒業と共に身一つで上京、夜の仕事で生計を立てる傍ら各地のフリースタイルレースに顔を出し、界隈の仲間内では知らないものはいないまでの強者に上り詰めている…とのこと。
・フリースタイルレースを走るウマ娘達
彼女達だけではなく、この場に出入りするウマ娘それぞれに競走の道を諦めるまでに至った経緯と、働きながらフリースタイルレースを楽しむことを選んだ理由がある。
ビート(BEAT Umbrella)
元トゥインクルシリーズ所属(→ローカル川崎→浦和)
通算成績60戦4勝(うちローカル54戦4勝)
ピエール(Electro Pierre)
元ローカルシリーズ船橋所属(→名古屋)、通算成績11戦0勝
レン(Ren Vortis)
元ローカルシリーズ高知所属、通算成績42戦4勝
タイゾー(Taizo Poseidon)
元ローカルシリーズ大井所属、未出走引退