記憶の壊れた刃   作:なよ竹

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お気に入り件数が1000件を突破しました。これで本当の大盤に乗ることができた、ということになります。

読者の皆様に感謝を。


なんでもするから!

 大浴場の片隅でニルフィは縮こまりながら湯に浸かっていた。

 虚夜宮(ラス・ノーチェス)に帰還してあとは報告を残すのみなのだが、他の十刃(エスパーダ)破面(アランカル)の召集を待つために、少しだけ自由な時間が出来たのだ。

 浴場は第七宮(セプティマ・パラシオ)に元からあったものなのか、それともアネットがニルフィのために作らせたものかは定かではない。

 濡れた流麗な黒髪は頭の上で纏められ、仄かに朱の差すうなじが幼い見かけ不相応に色っぽい。死覇装を脱いで露わになった肢体は乳白色の湯に隠れてしまっているが、それがどこか見る者に倒錯的な欲情を煽る。

 そんな少女が小動物を彷彿させるように震えているのにはワケがあった。

 

「............」

「............」

 

 ニルフィを腕の中に抱きながら、アネットが朱色の髪を後頭部で()って湯に浸かっている。

 普段の溌剌(はつらつ)とした雰囲気は無く、ただほんの少し、憂いを帯びた表情を浮かべるだけで、男を狂わせるような蠱惑的な妖しさを纏う。ニルフィとは違い、成熟した女としての肢体を持て余しているような様は、同性だとしても頬を染めてしまう。ニルフィが、そうだったのだから。

 いつもは非常に残念な美人だが、それが鳴りを潜めただけで別人のようだ。

 

 だから、いつもとは違うのだと暗に告げているだろう。

 

 (あるじ)の体を洗ってやる時もただ優しく、慈しむような手つきで終始接した。

 これが普段であれば、

 

『うへへへっ、観念するんだな。オレをケダモノと知ってて誘ったお前が悪いんだぜ!』

 

 みたいなことをのたまいながら、四の五の言葉もなくニルフィを襲っているはずだ。そうされるよりも、なすがままにされていたニルフィは恐怖を感じていた。

 今だってそうだ。腕の中のほっそりとした存在をいやらしく撫でまわすでもなく、無言のままそっと抱いている。一度盗み見たアネットの顔を思い出すと、尋ねようにも躊躇われた。

 こうなった理由は、極めて単純な理由。 

 第7宮(セプティマ・パラシオ)に戻らなくとも、出口となった黒腔(ガルガンダ)の前でアネットは従者のように、居るべきものとして佇んでいた。そこまではにこやかだったのをニルフィは覚えている。

 しかし、ニルフィの姿を見た途端、顔に暗雲を立ち込めさせた。

 死覇装の状態を確認したからだ。

 紅姫の槍で裂けた腕は完治しているし、夜一の通らせた(・・・・)打撃による(あざ)も見えていない。しかし土埃で汚れた死覇装の傷み具合を見ればおのずと察せるのだ。傷の完治は出来ても、死覇装の大きな裂傷までは隠せない。

 ウルキオラとの会話もそこそこに、二人は体の汚れを落とすために宮に戻った。

 死覇装を脱げば真珠色の肌に(あざ)も残っていたため、さらにアネットは目を細めることになるが。

 ここまで、事務的な会話しかしてないのだ。

 ニルフィにはそれが一番不安で、なにより心細かった。もしかしたら失望されたのかもしれない。主人であるというのに、任務は成功してもこんな情けない姿で帰って来たのだから。

 

「......アタシは、怒ってなんかないですよ」

 

 ざわついた心を察したかのようにアネットが口を開く。

 

「もしかしたら怪我をして帰ってくるかもしれないなぁ、とか、泣きながら帰ってくるかもしれないなぁ、なんて。そんなこと考えてましたし」

「泣きながらなんて、しないよ」

「でも、怪我をして帰って来た」

 

 あれほど怪我をしない約束をしたのに、返す言葉もない。

 アネットが深くため息を吐く。ニルフィは胴に回された腕に、少し力が入ったのを感じた。

 

「あぁ、もう。これだとどっちが大人げないのかって。分かってたわよ、貴女がただで戻ってこないってのは」

「私だって気を付けてたんだよっ。でも相手の人が強くって、模倣(コピー)するのに自分で体感しておかないとって思って、さ。仕方なかったの」

「ええ、そうね。貴女の判断が一番だったのよね。でもそれで納得しきれないアタシもいるの」

「大丈夫だよ。帰刃(レスレクシオン)だってあるし、ウルキオラさんだっていたんだよ。それにこれからも、アネットも、グリーゼもいるから、私は安心できるしさ」

「......そうね。そうよね」

 

 黒髪に指を絡めるようにアネットがニルフィの頭を撫でる。虚夜宮(ラス・ノーチェス)に帰還してから初めて撫でられた。そのことが嬉しく、ニルフィは気持ちよさそうに目を細めた。

 ニルフィはいまの日常が楽しい。だから、こうでなくてはいけないのだ。

 日常を壊す要素など、彼女にとって恐怖の対象でしかない。遠からず始まる戦いが終わっても、こうして生きていきたかった。

 思い出した数少ない記憶には、必ず孤独があったから。

 

「ふふ、懐かしいですね。そういう、アタシがいるから安心できるって言葉を聞くなんて」

破面(アランカル)のほとんどの人は自分の力だけを信じてるからね。誰が言ってたの?」

「アタシの、従属官(フラシオン)だった子です」

「その人は......」

 

 名を訊こうとしてニルフィは口をつぐむ。アネットの声音に、時折含まれる悲哀が(にじ)んでいたからだ。 

 思えば、一緒にいたいと言いながら、ニルフィはアネットたちのことを何も知らない。

 元から寡黙なグリーゼも、このアネットも、過去のことには自分から口にしないのだ。

 ニルフィの髪から小さな水滴が垂れた。それは水面に小規模な波紋を作り、胸元に当たる。その揺れでさえ、踏み込むかどうかの心を震わせた。

 

「ま、暗い話はなしなしっ。こんなあったかいお風呂に入ってるんだし、もう少し堪能しないとね」

 

 葛藤しているうちに見えたかもしれない本心が影をひそめる。

 いつも通りに明るくなった声と一緒に、無理矢理流された。

 それを止めるための勇気は、まだニルフィにはない。臆病だっていい。それでも、この日々が続くならば、どんなことでもしよう。

 

 

 ----------

 

 

 アネットがいつもの調子を取り戻してしまったため、それから盛大にセクハラをされまくったニルフィ。

 体の火照りは風呂上りだけが理由ではない。

 

「顔が赤いな。体の調子でも悪いのか?」

「な、なんでもないよっ......」

 

 戦い方がアレなくせして、嘘はとても下手なようだ。

 ウルキオラはそうか、とだけ頷いて言及はしなかった。

 長い耳の布地が縫い付けられたフードを弄りながら、ニルフィは新しい死覇装の調子を確かめる。壊れる前と同じものなので違和感はなかった。いきなりイメチェンするほどニルフィは剛毅ではない。

 そうしているうちに扉が開かれ、まずウルキオラが、次にヤミーが入っていき、最後にニルフィが玉座の間に足を踏み入れた。

 それを知っているかのように扉がひとりでに廊下の光を閉ざす。

 薄暗い空間だ。以前来た時と変わらず、そこに立つだけで気味の悪さを肌で感じる。

 影に潜むようにひっそりと、あるいは豪胆に。先に来ていた破面(アランカル)の気配が漂ってきた。

 それ以上に、高みにある玉座に腰をおろした藍染が、彼らの存在を塗りつぶしていくようだ。

 ウルキオラが藍染を見上げる。その後ろでニルフィとヤミーは膝を突いた。そうしなくてはいけない。本能が体を地に近づけさせる。

 

「--只今(ただいま)、戻りました。藍染様」

 

 平坦な、判の押されたような声。

 

「おかえり、ウルキオラ、ヤミー、ニルフィ」

 

 返されるのは夜明けの前の海のような鷹揚さを持つ。

 

「さあ、成果を聞かせてくれ。我等、同胞の前でーー」

 

 少しの緊張の糸が引き伸ばされる。少なくとも、藍染だけは平静な雰囲気を崩さない。それが彼の内心の表れでもあるからだ。

 

「さあ、見せてくれ、ウルキオラ。君が現世で見たもの、感じたことのーー」

 

 一息。

 

「すべてを」

 

 応えは、肯定。

 

「......はい」

 

 色素がないようなウルキオラの左手が、己の左の眼球を無造作に掴み取る。目の中に指を滑り込ませ、抉り出したのだ。

 パーツのごとく目玉が指の中に納まっている。そして空洞となった眼窩に繋がる細い粘性の糸が尾を引いた。球体の臓器は躊躇いなく、体から離れる。

 そのことに対する驚きは、ない。藍染はもとより、ヤミーも、集まった破面(アランカル)たちも、そしてニルフィも。こうなることが分かっていたかのように動揺の色など見せなかった。

 --うわぁ、痛そう......。 

 動揺はなくとも、見てるだけで左目が幻痛を感じるようだとニルフィは思う。

 ウルキオラは左手を真っ直ぐに前方へ伸ばした。眼球が握られており、衆目が丸い物体に集まる。

 握る手に力が込められた。普通ならそれはやってはいけない行為だ。万が一にしろ、奇跡のような出来事があればその抉り取った目を戻して左目の視力が回復するだろうから。そのまま力を入れてしまっては、戻すためのパーツがこの世から消える。

 しかしやはり、これもなんの躊躇もなく行われた。

 眼球がウルキオラ自身によって握りつぶされたのだ。

 肉の潰れた生々しい音ではなく、なぜか鈴の鳴るような音がしたかと思うと、先程まで生体器官であったはずの物体が砕け散る。

 眼球は無数の欠片となって霧散した。それは広間を覆うように広がり、ウルキオラの『記憶』が共有されることとなる。

 すべて現世での出来事であり、それらが破面(アランカル)たちの脳裏に鮮明に浮かび上がった。より明確にするために、彼らは眼を閉じた。藍染も軽く頬杖をつくようにこめかみに手を当て、しばらく広間には本当の意味での沈黙が支配する。

 

「--成程(なるほど)

 

 最後に、負傷しながら己の無力さに(こうべ)を垂れた死神の姿が映り、『記憶』は途切れた。

 藍染は軽く頷くと、ゆっくりと目を開けた。ウルキオラの報告が終わり、それを咎めるような雰囲気でもない。ただ納得がいった。それだけである。

 

「それで、彼を『この程度では殺す価値なし』と判断したという訳か」

「はい。“我々の妨げになるようなら殺せ”との御命令でしたので、それにーー」

 

 自らの考察を交えながら続けようとしたウルキオラは、嘲笑が含まれた声で遮られる。

 

「ハッ、微温(ぬり)ィな」

 

 ニルフィがそちらに目をやると、グリムジョーが少し離れた石材の上で胡坐(あぐら)をかいていた。彼の従属官(フラシオン)たちも一緒であり、もちろんニルフィは全員と面識がある。

 予想できたことだ。ニルフィは彼らの性格を知っており、この燃えきらない(・・・・・・)結果は不快であろう。

 

「こんな奴等、俺なら最初の一撃で殺してるぜ」

「......グリムジョー」

「理屈がどうだろうが、『殺せ』って一言が命令に入ってんなら、殺したほうがいいに決まってんだろうが! あ!?」

 

 傍らに立っていたシャウロンも頷く。

 

「......同感だな。いずれにしろ敵だ。殺す価値はなくとも、生かす価値など更に無い」

 

 ニルフィは『なんだかシャウロンの言い方のほうが賢そうだなぁ』と頭の中で考えていたが、突如、グリムジョーの矛先が彼女に向いた。思考を読んだわけではなさそうだが。

 

「大体、ニルフィ!」

「ふぇ?」

 

 青年の視線に今まで見たことのない色が浮かんでいるのを見て、ニルフィが情けない声を出す。

 

「テメー、なんで最後は殺そうとしなかった?」

 

 言われた意味が分からずに小首を傾げる。それを苛立たしげにグリムジョーが見た。

 

「俺なら最初の一撃で殺してるぜ。訓練だか経験だか分かんねえが、すぐに相手を殺さなかったのは、まだいい。けどな、もう一度言うぜ? どうして最後は仕留めようとしなかった。人間の女も、死神も、増援の奴等も。テメーはわざと殺さなかったな?」

 

 むしろ、蒲原喜助と四楓院夜一相手には、最後は狩猟かなにかと勘違いしていたような節さえある。

 それが、グリムジョーには気に入らない。

 彼は非常に好戦的で、障害となる(もしくはその可能性のある)者は、強弱を問わず抹殺すべきとの考えの持ち主である。

 彼にとって戦いとは命のやりとりであり、結果は死んだか死んでいないか、敗者か勝者かが決定づけられていなければならないのだ。

 グリムジョーの剣幕に身をすくませながらニルフィが答える。

 

「それは、さ。クロサキさんならともかく、増援のウラハラさんとヨルイチさんは強かったんだよ。それに、まだお互い本気じゃなかったし、仕留められる距離が掴めなかった。だから......」

無貌姫(カーラ・ナーダ)を使おうとしてそのセリフが口から出るなんてな。元から殺るつもりはなかったってハッキリ言いやがれ。反吐が出る」

「あ......うぅ」

 

 鋭い眼光に射すくめられてニルフィは俯いた。それなりに仲が良いと思っていた青年からの辛辣な言葉に、目尻に涙が溜まり始めた。

 

「離せ筋肉達磨! もう頭にきた! あの子を泣かせやがったネコ科野郎の顔面に、マタタビを投げつけてやるだけだから!」

「......止せ。俺の視力が一時的に落ちただけかもしれないが、手に持っているのが斬魄刀にしか見えない」

 

 騒がしい外野も視界に入らない。

 反論は出来なかった。たしかにグリムジョーの言う通り、あの時の自分はネズミを甚振る猫のような立場にいると思っていたし、その通りの行動をしていたのだ。浦原たちは分からないが、一護と織姫を殺す機会などいくらでもあった。

 今まではたまたまグリムジョーの気に入らない行動をしてなかっただけで、一歩外れればここまで脆い。

 嫌われた? それは嫌だ。離れたくない。もし今からでも現世に行って殺しなおせば、グリムジョーは許してくれるだろうか。

 それならばすぐにでも行きたい。もはや重要ではない対象を消しても問題にはならないはずだから。

 幼さとは別の昏い光が心に渦巻いていく。

 グリムジョーはヤミーにも目を向ける。

 

「大体、ヤミー! テメーはボコボコにやられてんじゃねえか! それで『殺す価値なし』とか言っても、『殺せませんでした』にしか聞こえねーよ!」

「......てめえ、グリムジョー。今の視てなかったのかよ。俺がやられたのは黒い女だけだ。このガキじゃねえ」

「わかんねえ奴だな。ニルフィに尻拭いされてたようにしか見えねえぞ。俺ならその女も一撃で殺すっつッてんだよ!」

「なんだと?」

 

 ヤミーがその巨体を起き上がらせ、霊圧を大きく揺らがせた。

 それに対して、挑発的にグリムジョーも抑えていた霊圧を漏れさせる。

 十刃(エスパーダ)同士の戦いがあろうことがこの場で勃発するのかと、報告の一瞬前とは違う緊張が空気を包んだ。

 その空気を断つように、ウルキオラが間に割って入る。

 

「グリムジョー。我々にとって問題なのは、今のこいつじゃないってことはわかるか?」

「......あ?」

 

 苛立ちを隠さずにグリムジョーは訊き返す。冷静というよりも無機質な態度のウルキオラのことが気に入らないのだ。

 

「藍染様が警戒されているのは現在のこいつではなく、こいつの成長率だ。確かに、こいつの潜在能力は相当なものだった」

 

 一度言葉を切り、時間を置く。グリムジョーがなにも言わないことを確認したウルキオラは、すぐに話し出した。

 

「だが、それはその大きさに不釣り合いなほど不安定で、このまま放っておけば自滅する可能性も、こちらの手駒にできる可能性もあると俺は踏んだ。だから、殺さずに帰って来たんだ」

 

 落ちくぼんだ眼窩がグリムジョーを捉える。

 グリムジョーは顔を少し俯かせ、しかし次に顔を上げた時には苦々しく、怒りを抑えるような表情であった。

 

「......それが微温ィって言ってんだよ!」

 

 圧力だけで、空気が押し返される。

 

「そいつが、てめえの予想以上にデカくなって、俺らに盾突いたらてめえはどうするってんだよ!?」

「その時は俺が始末するさ」

 

 間髪置かずに返された『答え』に、今度こそグリムジョーは押し黙った。

 たしかにウルキオラは言葉通りに、もしあの死神が刃を向けてきたのなら、躊躇いなく殺そうとするだろう。嘘でもなく、有言実行を体現でもするように。ウルキオラの発言で、グリムジョーの提示した問題はあっさりと解決したようなものだ。

 納得は出来ない。しかしそれを形にするだけの材料はなかった。

 

「それで文句はないだろう?」

 

 いや、ないはずがない。しかし否定するのはこの場では難しい。

 ウルキオラが片付けるというのならば、それこそが最も効率のいいことなのだから。

 ついでというように、ウルキオラはいじけるように俯いたままのニルフィの頭に手を乗せた。

 

「そして、リーセグリンガーはあくまで俺の指示に終始従っていただけだ。最後こそ『遊戯』をしようとしたが、それも俺が任務をすべて完了したと考えてからだった。こいつに非はない。その責任も、俺が取ろう」

 

 それでいいな? 

 これでこの話は終わりだと、言外に告げる。

 

「そうだな、それで構わないよ。君の好きにするといい、ウルキオラ」

有難(ありがと)うございます」

 

 藍染が認めた。ただそれだけのことで、虚夜宮(ラス・ノーチェス)において異議を唱える者はいなくなった。

 納得するしないの話ではなく、決まってしまえば十刃(エスパーダ)であろうと覆せない。

 それが藍染の言葉の重みである。

 一礼をするウルキオラを睨みつけながら、グリムジョーは心の中で煙を上げてくる(くすぶ)りをどうしようかと考えた。

 

 

 ----------

 

 

 宮殿の廊下を走りながら、ニルフィは複数の人影を追いかける。

 

「まってよっ、グリムジョーさん!」

「............」

「あのさ、まってってば! お願いだから!」

「............」

「ね、ねぇ......ま、ってよ......グリムジョーさん......」

 

 足音がだんだんと弱くなっていき、しまいには声は水が満杯になったコップを揺らすようなものだった。

 視線を送らなくとも、しゅん......とうな垂れるニルフィの姿が、第6十刃(セスタ・エスパーダ)の主従たちの脳裏にありありと映ってしまう。なんともいたたまれない。従属官(フラシオン)たちの中には後ろ髪を引かれるように、一瞬にしろ立ち止まってしまう者もいたほどだ。

 呆れた表情のシャウロンがグリムジョーに尋ねる。

 

「いいのか? 姫君が泣いてしまう五秒前のように思えるが」

「勝手に泣かせとけ。だからあいつはいつまで経ってもガキなんだよ」

「アネット嬢にあとで何を言われるか分かったものでもないだろう。それに、これは分かっているはずだ。こんなことはくだらない意地だと、な」

 

 グリムジョーは奥歯を噛み締めた。ウルキオラが言った通り、ニルフィは現世で指示に従って行動したに過ぎない。指揮官的な役割はウルキオラが担っており、少女は間違った行動などしていないのだ。

 さっきも、とばっちりを受けてしまっただけにすぎない。

 それを謝れとは言わない。しかし話をするぐらいなら別にいいだろう。このままでは豆腐メンタルなニルフィが泣き出し、面倒な大事に発展してしまう。

 

「......チッ」

 

 あえて聞かせるように舌打ちして、グリムジョーは振り返った。

 

「ーーあ」

 

 たったそれだけの行動で、涙は散り、小さな少女の顔に喜色が広がる。ありきたりな表現で向日葵(ひまわり)のようなという言葉があるが、それもさして誇張というほどでもなかった。

 見る物にブンブンと尻尾を振っている子犬のようなビジョンを思い浮かばせながら、ニルフィがグリムジョーの元へと駆け寄った。

 

「グリムジョーさん!」

「聞こえてるから、もう名前呼ぶなよ。それと面倒だから、もう『さん』なんて付けんな」

 

 まだ涙の雫が見えるものの、ニルフィの表情は晴れ晴れとしている。切り替えの速さは子供ゆえか。グリムジョーとしては、さっきまでの泣きそうな表情をしていてほしかった。

 言葉の刃を受けても、ニルフィの顔に一切の影はないのだから。

 グリムジョーの苦手な表情だ。むしろ、さらに苦手となった笑顔である。

 敵意など無い、ただ純粋な好意の塊。辛辣なことを言った相手に対しては浮かべるはずもないものだ。だが、ニルフィは声を掛けられただけで嬉しそうにして、曇りのない金色の双眸を輝かせる。

 それが居心地悪く、しかしどうしてか満更でもないように思っている自分がいた。

 

「えっとね、その......」

 

 慌てて後を追って来たためか、自分の中で言葉のまとまりがつかないようだ。

 催促することもなく、グリムジョーは黙ったまま続きを待つ。

 

「グリムジョー......は、私のこと、嫌いになったの?」

「あァ?」

 

 何が言いたいのかとグリムジョーが首をかしげる。十中八九、さっきの広間での出来事に関してだと思っており、的の外れた質問に疑問を抱いた。

 ニルフィはグリムジョーの反応を勘違いしたように立て続けに言った。

 

「私、今度......もしあったらなんだけど、ちゃんと相手の人をゼッタイに殺すからさっ。戦いで遊んだりなんてしないよ。今からでも現世に行ってちゃんと後片付けもする。ちゃんとグリムジョーの言うことだって聞くし、それに私、なんでもする!」

「おい?」

「だからーー」

 

 相変わらず、笑顔だ。

 しかしその笑みが焦燥に駆られたものであることに、グリムジョーはやっと気が付く。

 

「ーー行かないでよ」

 

 ニルフィは怖がっているのだ。グリムジョーが離れていってしまうことに。

 声の震えは怯えが見え隠れしているから。目に溜まる涙は失うことへの恐怖から。

 子供としての価値観はニルフィの中にある。信頼している人物がいなくなってしまうことが不安でしかないのだ。グリムジョーが広場で言い放った言葉で、ニルフィは嫌われてしまったと考えた。

 心細さが少女の体を削っていき、遂には心まで蝕もうとしている。

 

「............」

 

 グリムジョーはしばらく何も言わずにニルフィを見下ろし、少女もそれ以上は口を開かなかった。彼の従属官(フラシオン)は黙って二人のやりとりを見ている。自分たちが口を挟むことではない。それを理解していたから。

 深いため息がグリムジョーから漏れた。

 

「くだらねえ」

 

 その一言で、ニルフィは肩を震わせる。

 

「てめえがそんなことしなくても、俺はハナから嫌ってなんかねえよ」

「......え?」

 

 下げようとしていた視線を無理やり持ち上げて青年の顔を見上げた。それは呆れているような、手のかかる妹でも相手にするような、そんな表情。剣呑さは無く、ただただ言葉通りにくだらなさそうだった。

 

「てめえのやったことが気に入らなかった。さっきのはそれだけだ。元から俺は他の奴らが気に入らねえんだ。最初から、てめえのこともな」

 

 硬くてごつごつした手がニルフィの頭に置かれた。ぎこちなく、乱暴に黒い髪をかき混ぜるように撫でる。

 

「だからな。何も変わってねえんだよ。気に入らなかっただけで、好きも嫌いもねえ。元からてめえとの距離なんて、なんも変わっちゃいないんだ」

 

 染み込ませるようにグリムジョーは言い切った。目を横に逸らしたのは、らしくなさを自覚したからか。

 呆けたようにニルフィは細く息を吸い込み、そして浅く吐く。

 途端、目にぶわっと再度の涙が溜まったことにグリムジョーがぎょっとする。

 

「うおッ!? どうした、俺の言い方が悪かったってのか!?」

「だって、だって......ホントに嫌われちゃったと思ってたからぁ!」

「泣くなよ、おい! ならいいじゃねえか!」

「うっ......うぇええええええええええええええんっ!!」

「ッ!? おいシャウロン! なんとかしろ!」

「一発芸を見せてはどうか」

「んなこと出来るかッ!」

 

 泣き止めと言うグリムジョーの言葉も虚しく、ニルフィはわき目も振らずにぽろぽろと大粒の涙を頬に伝わせる。

 通路に響く泣き声はよく通り、それに連られてやってくる者たちが影から姿を現した。

 まずアネットとグリーゼが駆け寄る。

 

「ああっ、やっぱりグリムジョーが泣かせてる。しかも怪しい男どもに囲まれてるこの構図! きっと集団痴漢なんてされたんですよ!」

「失せろ煩悩女! これ以上ややこしくすんな!」

「......そうして事態をうやむやにするつもりか」

「だからやってねえんだよ!」

 

 面倒くさい面々の登場にグリムジョーがキレ気味に叫んだ。

 しかしニルフィの泣き声は疑似餌のごとく、普通なら集まらないものたちを引き寄せているようだった。

 

「コレハヒドイ。オ姫様ヲ泣カセテシマウダナンテ」

第6十刃(セスタ・エスパーダ)でも子守りは無理らしいな」

 

 アーロニーロが肩をすくめながら靴音を響かせて現れた。

 

「ニルフィ、なぜそこまで泣く。お前を悲しませる元凶は私が斬って捨ててやるぞ」

 

 ハリベルが三人の従属官(フラシオン)を伴って、目に静かな怒りを秘めながら歩み寄る。

 

「なんじゃ、小娘がはしたなく泣きおってからに、五月蠅くてかなわん。お前たち、どうにかして泣き止ませろ」

  

 バラガンが憮然としたまま配下に指示して、流れ続ける涙を止めようとした。

 集まったのはそうそうたる面々。

 三人寄れば文殊の知恵という(ことわざ)もある。だが子守りスキルなどほとんどのメンバーが皆無であり、泣き続けるニルフィを前にあたふたとし始めた。泣き止ませようにも、どうしたらいいのか分からないのだ。

 さながら戦争のように、大人の破面(アランカル)たちはあれやこれやと様々な手を使う。十刃(エスパーダ)だろうが従属官(フラシオン)だろうが関係なく、ある意味で珍しすぎる光景が通路で展開された。

 ニルフィの鈴が転がるような泣き声は、それからしばらく響き続けたらしい。




お風呂シーンのハプニングを書こうとしたら、力尽きてしまった......。色気って難しい。
オラに力(知恵)を分けてくれ~。

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