そこは、
その中央で高速の手陣を切り始めたニルフィが、霊圧を複雑に編み込む。
矮躯から放たれる霊圧が彼女の艶やかな黒髪を持ち上げた。
紡ぐ。
「縛道の六十三」
空中から出現した霊子の鎖が、模擬相手となる人形へと襲いかかり、生きた蛇のように相手の全身を幾重にも締め付ける。人形は至って特徴もない関節がむき出しのものだが、なぜか顔には東仙の絵が貼り付けてあった。
ニルフィの歌うような詠唱は終わらない。
「
詠唱の終了とともに地面に腕を叩き付けると、地面が五ケ所割れ砕け、人形の真上に光り輝く紋章が浮かび上がる。そこから地面に向けて五本の光柱が延び、人形の体を突き刺すような形で全身の動きを封じ込めた。
それに重ねるように、詠唱破棄で縛道の六十一、『
ここまでで、三重の封印が施された。
ニルフィは床に突いていた手を前面に差し出し、短く、そして気の籠った言葉を吐き出す。
「ーー縛道の八十一」
ただの詠唱破棄ではない。扱いが難しい八十番台の鬼道を、都合六回詠唱したのと同じ効果を発揮させる。
八十九番以下の破道を完全に防ぐ、特殊な壁を生み出す縛道、『断空』。その壁を六枚生み出すことで、ニルフィは眼前の人形の周りに立方体の結界を造り出したのだ。
本来は防御に使う『断空』を、疑似詠唱という形で封印に使うという裏技。
東仙人形は微動だにすることもできずに拘束させられた。
「ふぅ......これでヨシッ、と」
しばらく経っても崩壊したり不安定にならないことを確認してから、鬼道をすべて解く。
ザエルアポロ作のめちゃくちゃ頑丈なだけの人形が絶妙なバランスで床に足をつける。東仙人形に近づいたニルフィがその股間を蹴りあげた。推定100キロは下らない人形が、ズンッ、と腹に来る音と一緒にわずかに浮き上がり、ついに人形は床にぶっ倒れた。ドルドーニあたりが見たら顔面蒼白になりそうな光景だ。
思わず見とれそうなほど晴れ晴れとした表情のニルフィが、壁際で見ていた市丸に近寄った。
「市丸さん! さっきのも上手くいったよ!」
「いやあ、凄いわぁ。ボク、もう鬼道の腕じゃニルちゃんに敵わんわ。もし死神だったらすぐにでも副隊長になれるで」
監督役を務めていた市丸ギンが肩をすくめてみせる。
その顔は感心しているようであり、あるいは呆れているようにも見える。
視認しただけで模倣できる構築力。本来ならば死神が百年単位で研鑽する技を、ニルフィは一度の経験だけで八割を成功させ、二度目で十全に扱えるようになるのだ。修行舐めてんのかと言いたくなる能力であった。
さっきまで居た藍染も自分の仕事に戻っている。彼がいくつかの鬼道をニルフィに見せ、彼女はここで確認も兼ねて真似する。以前は市丸か東仙のどちらかが監督役を務めていた。しかしニルフィは東仙といざこざを起こしそうだという理由の為、鬼道の鍛錬の際は市丸が見ていることになるのだ。
「ん、でも私のはズルしてるようなものだからね。それに藍染様ほど使える人ってそういないだろうし、そんなに誇れることでもないよ」
「過程よりも結果やろ。死神にも鬼道がてんで駄目ってのもおるし、でもキミは出来とる。十年経ってないのにこんなに使えるんなら、胸張っとき」
「......張るほど胸、ないんだけどね」
「そないな悲壮な顔せんといて。きっと成長するやろうし、うん」
ニルフィはぺたぺたと胸回りに触れた。大きくなっているような実感はない。武芸の実力が成長しているのに悲しいまでに無反応である。
俯きがちのニルフィの顔の近くに、ヒョイと何かが差し出された。それを見て少女が顔を輝かせた。
「干し柿!」
「食べとき。キミに悲しい顔なんて似合わんよ」
嬉しそうに受け取ったニルフィがおいしそうに干し柿を口に運ぶ。その様はまるでリスのよう。尻尾があればブンブンと元気よく振られていただろう。
そしてちゃっかりニルフィの餌付けを成功させている市丸であった。
「市丸さんは干し柿大好きなんだよね?」
「ギンでええよ。キミみたいなめんこい娘から他人行儀なんて辛いわぁ。......まぁ、そうやな。子供の頃からよく食べてたわ。
「市......ギンはなにか後悔でもあるの?」
「なんでそう思ったんや?」
「他にも捨てたものがあるんでしょ? もしかしたら、仕方なく捨ててきちゃったものがあるんじゃないかなって」
「ボクはそないなこと何も言ってへんよ」
「......う~ん、なんていうか。--雰囲気で?」
コテン、と首をかしげるニルフィ。彼女もよくわかっていないようで、少しだけ眉を寄せていた。
市丸は表情を変えることもなく、いつもの飄々とした笑みのまま右手で額を叩く。
「やっぱりニルちゃんには敵わんわ。キミに隠し事なんて出来へんわな」
「あっ、ゴメンね。私ってよくズカズカ言っちゃうから」
「責めてへんよ。ただ、置いてきたモンがあるだけやから」
冗談かどうかニルフィは答えを知らない。しかし嘘ではないのだろうと思った。
そういった考えをうやむやにするかのように、飄々としたままの口調が語る。
「あらら、ボクの悪い癖やな。可愛いコの前だとついつい口が滑る滑る」
「お世辞上手だね」
「本心をお世辞とは言わへんよ」
二人は小さく笑いあった。
なんとも、歯が浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言えるようだ。それが彼の飄々とした態度を作る石組みなのだろう。相手を決して不快にさせることはしない。護廷十三隊にいた時もこんな様子なら、さぞ好青年として女性隊士にモテたはずだ。
だから、聞いてみる。
「ねえ、ギン。ギンはさ、好きな人っているの?」
「どうしたんや急に?」
「あのねっ、私ね、このまえクッカプーロと廊下で遊んでたら藍染様と会ったの。それで突然さ、『君はその
「それから?」
「今度はアネットのことが好きか? とか、グリムジョーのことが好きか? って訊かれて。それで全部『うん』って言ったんだけど。最後にね、『君が一番好きな相手は誰かな?』って訊かれて......。それがわかんなくて、ずっと悩んでる」
ニルフィは大抵の相手を好ましいと思っている。嫌なことをされない限り、さらにお菓子をくれたり頭を撫でてくれる相手は特に好きだ。東仙は嫌いで、ノイトラは怖い人と認識しているが、それもごく少数の例である。
多くの相手のことを『好き』と思っているが、その違いや大きさが量り兼ねていた。
「もちろんグリーゼのことも大好きだし、シャウロンたちのことも好きだったんだよ。だけど一番は誰かって言われたら、頭の中がごちゃごちゃってなって」
ニルフィにとって今までの世界は、『好き』な相手か『嫌い』な相手だけで出来ていた。しかしそれをさらに細かくするようになると、途端、自分のことなのに整理がつかなくなる。
「誰かに相談したん?」
「ううん。ギンが初めて。でも現世の雑誌でそういうことを書いてるのがあったから見てみたんだけど」
ニルフィが懐からその雑誌を取り出した。何度もページをめくっていたからか、最近発行されたばかりなのにくたびれている。『LIKE or LOVE』。そんな題名が表紙を飾っていた。
この本に書いてある『好き』とは、親愛か恋愛の二つだった。
親愛についてはなんとなく理解できた。シャウロンたちに向けていたのはおそらくコレだからだ。
しかし、恋愛。それがよく分からない。誰にでも向けていい親愛とは違い、恋愛とは主に異性間(例外含む)で交わされる物らしい。しかしアネットは普段の言動から同性オッケー(ニルフィの主観含む)な感じだ。めっちゃ複雑なのだ。
言葉では理解できない。そして
だから可能性のある死神として市丸を選んだ。藍染と東仙という選択肢はニルフィの頭にはたから存在していなかったが。
「なるほど。ニルちゃんもそういうお年頃なんやね」
「私が知りたいのはこの恋愛の『好き』についてなの。この場所じゃ、ギン以外に知ってそうな人がいないから」
「案外、アネットちゃんも知ってるかもしれんよ? それにクールホーンくんとか、ボクみたいな胡散臭い男よりももっとタメになりそうな人がおりそうなんやけど」
「そうすると一晩で
「......ああ、なーるほど」
女とは、得てして噂好きである。
「そうやねぇ......。ボクもあんまり分かっとらんよ。仲良い女のコはそれなりに居たんやけど、それ以上なるゆうとなぁ......」
「ウソっぽーい!」
「アハハハ、ホントや、ホント」
確かめる術はニルフィにない。だからいともたやすく市丸にあしらわれてしまった。
ぶーたれるニルフィに視線を合わせるように、市丸が膝を突く。
「ニルちゃん。キミが一番当てはまる思う人は誰や?」
その質問にニルフィは頭を悩ませる。
なんというか、それっぽい人があまり思い浮かばない。
アネットは姉のようで、グリーゼはなんというか、母親とか父親のような存在である。バラガンはお祖父ちゃん、クッカプーロはペット。誰もかれも、親愛と思える存在ばかりだ。
グリムジョーは......なんだろうか? 他のみんなももしかしたら違うかもしれない。これは、きっと......。
--ボフンッ!!
混乱しすぎたニルフィの頭から煙が噴き出す。市丸が彼女の頬を叩いて現実に戻していなければオーバーヒートしていただろう。
ニルフィの頭を撫でながら、たしかな苦笑を口の端に刻んだ市丸が言った。
「隊長に他に何言われたんかわからんけど、キミにとって大切なんは、そないな位置づけやあらへんやろ?」
「あ......」
「一番大切なんは、キミがただ、他の皆を『好き』って思うことや。その相手が危なくなれば、誰だろうとキミは助けようとする。それでいいんや。今までキミは、『好き』にランクなんてつけておらへんかったしね」
やっと、しっくりこなかった理由がわかった。
ニルフィは藍染の言葉で無理やり好意のレベルを考えていたのだ。そんなのは性に合わないというのに。
市丸が言った通り、『好き』という感情については無理やり考えなくてもいいのかもしれない。むしろ大切にして
胸のもやもやが取れ、心なしかすっきりした。
「そっか! ありがとね、ギン!」
「ええよええよ、ただテキトーに言っただけやし」
金色の眼を輝かせながらニルフィは拳を握る。
「私、もっと頑張って強くなって、皆を守れるようになるよっ。もちろん、ギンのこともね!」
「あらら、イケメンやな。女のコに守ってもらうボクは情けないわぁ。......まあ、悩みが取れたっちゅうなら、ボクでも相談に乗った甲斐があったってモンや」
そこでニルフィは気配を感じて扉の方を見る。向かえとしてグリーゼが来たらしい。キリのいいところで終わったようだ。
「ーーもう行くね。相談に乗ってくれてありがとう」
「気ィ付けてや。最近は物騒になっとるからなぁ」
『おもろいコト聞いてもうた』。去り際の市丸の言葉はニルフィには届かなかった。
ニルフィはさして『好き』について考えることなく、今後を思って嬉しそうに顔をほころばせる。
この場でもっとその『好き』について理解を深めていたのなら、これからしばらくしての出来事もちょっとは進路が変わっていたかもしれない。ニルフィは普通とは違う。あまりにも愚直すぎたことが今後の災いとなるのを、まだ誰も知らない。
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そんなとき、一時的に話題に上がっていたグリムジョーは。
特にアテがあるわけでもなく、ただ単にほっつき歩いていただけである。
目的などはなかった。しかしある人物の姿を見かけたことで、気まぐれのように話しかけた。
「ーーおい、オッサン」
「吾輩はオッサンなどという名ではない! ......っと、おやおや、誰かと思えば
ドルドーニは髭をしごきながら一度だけグリムジョーの左腕を見る。正確には左腕があった場所を、だ。
その隻腕ゆえに
「しかし珍しいこともあるものだ。君から吾輩に声を掛けて来るとは......。吾輩が
「別にくだらねえ話をしに来たんじゃねえよ」
「分かっておる。分かっておるとも。
--ウゼェ......!
グリムジョーは必死に拳の形を作りそうな右手の力を抜く。今にもドルドーニに殴り掛かってしまいそうだった。ドルドーニの戦士としての在り方は認めているが、普段のこの言動が気に食わない。
無視していたのも、単に構うのが面倒だっただけだ。
「そんなのはどうでもいいんだよ。聞きたいことがある」
「フム、なにかね?」
「この近くで、てめえらとニルフィが戦っていたってのは本当か?」
もう一度フム、と鼻で息を吐いたドルドーニが、髭をしごくのを止めた。
おもむろに息を吸い、
「--事実だ」
グリムジョーは自分が苦い顔となるのを自覚した。それは正面にいるドルドーニが一番分かっているだろう。おそらく、その理由も。わかっていながらドルドーニがわざわざ尋ねる。
「しかし
「あいつは関係ねえよ」
「そうかね。ならばなぜ質問などした」
「............」
「こうした問答をするのは無意味だったかな。それよりだったら早く、
たしかに会うのが正解なのだろう。
こんな馬鹿げたことなんて止めろと、直接言わなければならない。他の誰でもないグリムジョーが。
あの時ニルフィは、『自分の存在がシャウロンたちを殺した』ということを否定した。しかし本心からそう思っていたのならば、こうして実力を付けるための行動など起こさなかったはずだ。
火種は払う。しかし自分から火は付けない。それがニルフィの信条だ。
しかしグリムジョーが起こした現世への無断侵攻を機会に、ニルフィは自分から争いに身を投じる腹積もりでいる。
そのせいで一人の少女を変質させてしまったのだ。
自分自身のことがここまで気に入らなくなったのはいつぶりだろう。
「あいつは、オッサンたちと戦ったんだろ? それも自分から?」
「だからオッサンではないと......まぁよい。
ニルフィネス嬢は自分からここへとやってきて、鍛えてほしいと我々に頼んだのだ」
「全員が全員、頷いたワケじゃねえだろ」
「そうだとも。しかしそういった輩を
落ちた存在とはいえ、個々の実力は
だが、
「結果として我々は敗北した。最初こそ
聞けば、ドルドーニたちは全員が
かくいうドルドーニも『
「いくらアイツでもそんなコト出来んのかよ?」
「出来たのだ。吾輩たちは現に、それを見ている」
戦士としての貌を覗かせたドルドーニに、グリムジョーはそれ以上なにも言えなくなった。
「たしかに吾輩たちはアネット嬢たちやピカロのような、
「そうか」
いつもに増してこの場所がピリピリしていると思えば、ニルフィが原因だったらしい。
ドルドーニが肩をすくめさせながらため息を吐く。
「しかし、困ったものだ」
「なにがだよ」
苦痛にさいなまされるドルドーニを疑問に思い、グリムジョーが尋ねた。
しかしすぐにそれを後悔することになる。
「此度の戦いにより、ニルフィネス嬢は吾輩のハートをさらに射止めたのだ! 普段は見せられない戦女神のごとき凛々しい表情はかくも宝石のようだった。動くたびに見え隠れするうなじや肌の白さが、なんともいえぬ色香を漂わせていたのだよ」
「もうその口を閉じろ」
「そうっ、口だ! 正確に言えばあの柔らかくも可憐な唇なのだ! 鬼道だったか? 言葉を紡ぐ際の動きがなんとも艶めかしい。そして時折チロリと覗く舌先がまたなんとも吾輩のリピドーを刺激する! しかし吾輩が一番興奮したのは脚だった! あの精巧なガラス細工のような脚から繰り出される蹴りが、このいやしい身を揺する時、吾輩の中のケダモノが一気にーーーー!」
「......おい、アネットがいるぞ」
「--むぉう!? ち、違うのだ! 吾輩は別にいやらしい意味合いで話していたのではなく!!」
「嘘だよ。あいつはいねェから、そんなみじめな姿見せんじゃねえよ」
大袈裟なジェスチャーで長々と語ったかと思えば、アネットの影がちらつくと猟師に狙われた小鹿のごとく怯えはじめた変態紳士。手の施しようがないとはこのことだろう。普段から戦闘時のような雰囲気があれば、
ドルドーニを見ていると何もかも馬鹿馬鹿しくなる。グリムジョーは意気を削がれたように頭を乱暴に掻く。
「もういい。知りたいことは聞けたからよ。壁相手にいくらでも言ってろ」
「それだと吾輩が単なる不審者ではないかね?」
「そうなんだよ」
グリムジョーはさっさとこの場を離れようと体の向きを変えようとする。
それを引きとめるようにドルドーニが声を掛けた。
「
「......どうもこうもねェよ。あいつがこれから何しようが、俺には関係ねえことだ」
「吾輩が聞いたのは他の誰でもない
「俺の?」
「
自分が何をしたいのか。
そう訊かれると、グリムジョーはとっさに答えることができなかった。
ドルドーニはそれ以上追及する訳でもなく、今度は自分から身を
「先達者として助言するならば、理由を考えてから行動するといい。時間は有限だ。しかしまったく無いというわけではない。
去っていく背を見ながらグリムジョーが悪態を突く。
「喋りたいだけ喋って、最後にはワケ分かんねえのを残していくんじゃねえよ」
ドルドーニの言葉で余計分からなくなる。苛立ちに反応して霊圧が揺らめく。
しかし時間は多少なりともあるとドルドーニは言った。
「くそ......ッ!」
あの変態紳士の言葉に従うのは癪だが、今回ばかりは素直に聞き入れよう。
グリムジョーは無人の通路を歩きながら、自分の中でごっちゃになっていた感情を整理しはじめた。
最後に見た少女の顔が頭の隅でちらつく。
ひとつ分かったことといえば、あんな顔は二度と見たくないということだ。
なら、自分はどうするべきか。
「--
「まだ何かあんのかよ」
「絶対にだ! 絶対にさっきの吾輩の変た......ちょっと本能全開にしすぎた言葉をアネット嬢にチクるのではないぞ! いいか? これは振りではない!」
「いいからさっさと失せやがれ!」
......本当に、こんな変態紳士の言葉に従うのは癪だった。