記憶の壊れた刃   作:なよ竹

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舞台開始の五秒前

 虚夜宮(ラス・ノーチェス)外周部、その近辺。

 壁に沿うようにして駆けている二人の人影があった。

 ひとりは破面(アランカル)の死覇装とは違う白いスーツを身にまとった少年。

 手入れされた眼鏡などから几帳面な性格だとうかがえるのは、石田雨竜(いしだうりゅう)という滅却師(クインシー)である。彼も一護と同じく織姫の奪還をしにきた侵入者であった。

 そしてもうひとりはアリもしくはクワガタムシを模した仮面をつけている細身の男。

 灰色の身体で各所にプロテクターを着けており、見た目は(ホロウ)そのものの姿で、褌を穿いている。名はペッシェ・ガティーシェ。成り行きで雨竜たちと行動をともにし、はぐれた仲間の二人を探していた。

 言葉を交わさずにしばらく走り続けていた二人だが、ペッシェが重々しく口を開く。

 

「しかし……一護よ」

「雨竜だ。いきなり大暴投してきたな」

「ムウッ!? では雨竜らしき眼鏡よ。貴様は……本当にその織姫という人間の場所にまでたどり着けると思っているのか?」

 

 色々とツッコミを入れたい衝動を抑えた雨竜が顔を曇らせた。

 

「目的を達しなければ、どうして虚夜宮(ここ)までやって来たか解らないじゃないか。それに井上さんは自分の意志で相手側に行ったんじゃないと睨んでいる」

 

 それ以上雨竜はなにも言わなかった。オレンジ色の髪の死神代行に思考が毒されていると感じながら、引くに引けない状況なのだ。

 

「それだったら君のほうこそ危ないんじゃないか?」

「そ、そんなことは解っている! だがダメなのだ! これ以上ネルを虚夜宮(ラス・ノーチェス)にいさせては」

「どういう意味だい」

「それはネルに興味を持ったという認識で間違いないな? この幼女趣味めッ。やはり眼鏡男は変態と相場が決まっているようだな!」

「どうすればその認識になるんだ! ただ目が悪い人に謝れ!」

 

 雨竜は走る速度を緩めた。周囲には破面(アランカル)らしき霊圧もあらず、せめて何も無いうちに体力の消耗を和らげようとする。それはペッシェも察したようで特になにも言わずに従った。

 そうしなければ全力の戦いなど何度もこなせない。

 雨竜の白いスーツは所々切り裂かれており、血の跡だとわかる赤色がよく目立つようになっていた。3ケタ(トレス・シフラス)の巣で戦った十刃落ち(プリバロン・エスパーダ)チルッチ・サンダーウィッチによって与えられた傷だ。倒すには手が掛かると判断し、二人は隙を突いて離脱している。

 

「あれで、十刃(エスパーダ)じゃないのか」

 

 チルッチは自分は子供に負けていると語っていたが、十分な強さがあったように思えた。

 

「ペッシェ。君は虚夜宮(ラス・ノーチェス)にいた期間があるはずだ。十刃落ち(プリバロン・エスパーダ)の中で、彼女はどれくらい強かったのかわかるか?」

 

 戦闘していた場所を離れるのに必死で訊いていなかった質問をする。

 答えることに迷った様子のペッシェ。しかし情報が無ければ簡単な判断ミスさえすると説き伏せれば、しぶしぶといった様子で、ネルには教えることがないようにという条件で語りだす。

 

「あのゴスロリ女だが、私の記憶が正しければ過去の十刃(エスパーダ)の中では飛び抜けた部分は無かった……ハズだ。いまは死んでいるが過去に生きていた十刃(エスパーダ)には、もっと厄介な能力の持ち主もいた。死の形が『疫病』であった女など……うむ、思い出したくもない」

「僕が欲しいのは今の破面(アランカル)たちの情報だ」

「せっかちな奴だな。早漏れは嫌われるぞ、雨竜よ」

 

 破面(アランカル)と戦うよりも、なぜかペッシェとの会話でストレスマッハしているのは気のせいではないだろう。

 

「しかし言っておくなら十刃(エスパーダ)はもとより、十刃落ち(プリバロン・エスパーダ)にも規格外がいる」

 

 ペッシェが記憶を探るように仮面の奥の目を細めた。

 

「まずグリーゼ・ビスティーという男だ。しかし本人が寡黙すぎて詳細はよく解らん」

「じゃあどうして規格外だってわかるんだ」

辻斬(つじぎ)りだ」

「辻斬り?」

「奴は事情から空席になった十刃(エスパーダ)の座に戦わずして据えられた。それをよく思わない者たちを片っ端から殺していき、ついには十刃(エスパーダ)を何人か返り討ちにしたのだ。能力型など抵抗する間もなく葬られている。しまいには『……あれらが十刃(エスパーダ)だとは気づいていなかった』とまで言う始末」

 

 現世で対峙したらしい恋次から名は聞いていたが、予想以上に力のある破面(アランカル)だったようだ。

 そして次に聞く名も知っているものだ。

 

「そしてアネット・クラヴェラ。これはアレだ。とにかくヤバい女とだけ覚えておけばいい」

「ものすごいアバウトになったな」

「他人を殺したところでゴミ掃除と変わらないと本気で思っているイカレた感覚の女、と言えば理解できるはずだ。とりあえずこの二人が危険だ。それも、どちらも第7十刃(セプティマ・エスパーダ)の下に就いているらしいが……」

 

 ところで、と今度はペッシェが雨竜に話題を振る。

 

「今までかいつまんで貴様達の現世での情報を耳にした。そこで訊いておきたいことがある。ーー第7十刃(セプティマ・エスパーダ)の幼女はどんな名を名乗っていた?」

 

 君が幼女と口にすると犯罪臭がする。

 そう言おうとしたした雨竜だが、ペッシェの真剣具合が違うことに気づき、ロクでもない答えが返ってくると予想しながらも素直に答えた。

 

「ニルフィネス・リーセグリンガーと名乗ったそうだけど。ああ、そういえばあのチルッチという破面(アランカル)もその名前を口にしていたね。それがどうした?」

「ウム、そうか……」

 

 仮面越しでも難しい顔をしていると解るペッシェが腕組みをしながら足を止めた。

 そんなにも名が重要だったのか? 雨竜がペッシェの顔を覗き込む。

 

「もう一回訊くけど、それがどうしたんだ?」

「いや、まさか……。まあいい。話しても困ることではないか。では雨竜よ、あの幼女について語り合おう」

「同志に語りかけるみたいにしないでくれ」

 

 また歩き出した雨竜はペッシェの話に耳を傾けた。

 ペッシェは虚圏(ウェコムンド)(ホロウ)たちの生き方は三つあると言った。ひとつは一匹狼として、もうひとつは四、五体くらいのグループとして。それらは基本的にアテもなく放浪して生きていく、と。

 最後に、コロニーについて説明があった。

 大勢の(ホロウ)たちが寄り集まって住み、他のコロニーと小競り合いをしている場所らしい。力のある中級大虚(アジューカス)がトップにいることも珍しくないとも付け加えられた。

 (ホロウ)だとしてもそういったコミュニティが形成されているのだと雨竜は初めて知った。

 

虚圏(ウェコムンド)でも噂などが広がるのはそのためだ。情報を知る者が多くなれば、必然的に拡散する。我々が無限追跡ごっこをしている間にも、しているからこそか、いろいろな情報を耳にした」

 

 その中のひとつには、力のある(ホロウ)の情報が混ざっていることも少なくない。

 

「多くの場合、コロニーというものは弱者の集団だ。強者の情報に敏感になるのも自然な流れだった。そしてこの世界での強者とは、多くの(ホロウ)を喰らった者を指す。そこまで大規模な行動をしたものの名が広まるのもまた、自然な流れだろう」

「それは同意できるよ。人間も、いまは情報戦が物を言うからね」

「やはり、貴様の眼鏡(ナニ)は見掛け倒しではないようだな」

「いちいちナニなんて言わないでくれ! 僕が(変態)の仲間に思われそうだ!」

「ち、違う……のか?」

「なんだそのカルチャーショック受けた顔は! 僕はノーマルだ!!」

 

 疲れを癒すはずなのに余計疲れた気がする。雨竜はずれた眼鏡を押し上げて続きを促した。

 

「ではそういうことにしておこう」

「君は……ッ! 殴られても文句は言えないぞ!?」

「お、落ち着け。それでだな、最上級大虚(ヴァストローデ)ともなれば存在が知られてないほうがおかしいのだ。第2十刃(セグンダ・エスパーダ)であるバラガン様の名はもとより、活発に活動していたアネットの名も、もちろん知られている。だからおかしいのだ」

「どういう意味だ?」

 

 雨竜の問いに、いくらか重くなった声の調子でペッシェが言った。

 

最上級大虚(ヴァストローデ)クラスであるはずなのだがな」

 

 続けられたのは奇妙な言葉で、

 

 

「ーーニルフィネス・リーセグリンガーの名など、私は聞いたこともない」

 

 

 ただの聞き間違いじゃないかと雨竜が追求する。

 

「それこそまさかだ。臆病かもしれないが、我々は危機に対して敏感だ。そこだけは断言できる」

「…………」

 

 雨竜は深く考え込む。

 戦ったチルッチはおそらく中級大虚(アジューカス)クラスだ。押されはしたが、終始一方的な戦いはされなかった。少なくとも死神の副官クラスを瞬殺したニルフィネスが最上級大虚(ヴァストローデ)であることに疑いはない。

 だが、なぜ名が知られていない? 

 むしろペッシェの話し方は、存在自体があったのかも怪しいといった様子だった。

 

 

 ーーーーーーーーーー

 

 

 ボコリ、と音を立てて壁にめり込んでいた二人は床に降りる。節々の痛みに顔をしかめながら死覇装からほこりを払い、顔を見合わせ、幸せが逃げると言われているため息を吐いた。

 片や下顎のない犬の被り物のような仮面をつけた青年。

 片や蛇のウロコのような仮面片で額が覆われたダウナーな雰囲気の優男。

 どちらも、暴走特急アネットの餌食にされた数字持ち(ヌメロス)破面(アランカル)である。ぶつかる瞬間に虚弾(バラ)で弾かれたため女の柔肌を感じる間もなく壁にキスさせられていた。

 

「あぁ、クッソ、誰だよレディファーストなんて言葉作ったヤツ。必要ねえじゃん。むしろ男である俺らのほうが守られるべきじゃねえの?」

「不甲斐ない。オレも含めて、不甲斐ないな」

 

 不満に吠えるような犬頭の抗議を流したいくらか冷静な蛇男が、頭痛をこらえるように頭を振る。

 

「どうせあの嬢ちゃん絡みだろう。アーロニーロの敵討ちしてケガをしたんじゃないかと思うんだが」

「ケッ、それでアレが簡単にくたばるはずねえよ。俺が文句言いてえのはな、そのとばっちりでこっちまで火の粉が飛んでくることだよ。いましがたその火の粉にブッ飛ばされたけどな!」

 

 悪態をつく犬頭にやれやれといった様子で蛇男が肩をすくめた。

 特定の十刃(エスパーダ)の部下になることもなく過ごしている犬頭と蛇男。実力が自称“中の上”である彼らは、実はニルフィと繋がりがある。それも昔いたコロニーを(ホロウ)であったニルフィに壊滅させられているという血みどろなものだったが。

 

「あれで火の粉なら可愛いもんだよ」

「藍染がショルダータックルしてきたら火炎放射並ってか。たしかに可愛いもんだな。打撲程度で済んだことで、幸運の女神に乾杯かよちくしょう」

「うまい(たと)えだな」

「自分で言うのもなんだけど全然うまくねえし。それに気遣いでヨイショしてくれる優しさが痛いぜ」

 

 やはり不満たらたらな様子の犬頭。

 口が悪いのは勘違いされやすい彼の気質だと理解している蛇男が、やはり声に隆起を見せることなく淡々と犬頭に言葉を返す。

 

「なら実際文句言ってくるか? そうすればアネットかグリーゼが出てきてオマエは地獄行きだよ。焼却処分か首チョンパって選択肢があるだけマシだと思え」

「バッカ、お前。そういう時は『ここはオレに任せとけ』だろ」

「腐れ縁の身から出た錆でオレは人生を棒に振るつもりはない。仮面が割れてから、つまらない死に方だけはゼッタイにしないと決めてるんだ」

 

 蛇男はどこまで本気なのか解らない言葉を吐くと、最後に袖の汚れを払う。

 

「所詮オレらは舞台裏の登場人物。つまらない死に方をしない代わりに、パッとした幕切れが臨めればいいほうだよ」

 

 それに対して不服そうに犬頭が言った。

 

「なんだアレか? 俺たち二人がたまたまバケモノだったチビから生き残ったからって、自分だけが特別だと思ってるのかよ?」

「自分が特別だと思うのは古い。まして平凡だと思うのはもっと古いことだ」

 

 まあともかく、と蛇男が曲がりのない光の宿った目で犬頭を見た。

 

「最初に覚えた漢字が『女湯』の高度な破面(アランカル)であるオレには関係ないことだがな」

「……ある意味高度すぎるな」

 

 頬が引きつった犬頭がかろうじて言葉を吐いた。

 この話題を引きずれば取り返しのつかないことになりそうなので、わざとらしく犬頭は思いついた話題を適当に振る。

 

「ーーで、あのチビか。あいつが倒れてから虚夜宮(ここ)も荒れてきてる。空気を吸ってるだけでのどが痛くなりそうだぜ」

「それだけ愛されてるんだろう」

「愛? 愛だと? ゾマリの野郎じゃねえんだからさ。だぁれもあのチビがどういう奴か知りもしない。虚夜宮(ラス・ノーチェス)に入れば外からの情報がまったく入ってこないからつっても、上辺だけ見てあのチビをみんな評価してやがる」

「気に入らないのか? お前が昔の禍根を気にするようなタマではないと思っていたが」

「そりゃもちろんコロニーの件はどうでもいいよ。こうしてお前と一緒にいるのもたまたまの流れだしよ」

 

 くだらないくだらないと繰り返しながらも犬頭が口をへの字に曲げた。

 仮面の奥の目は寂寥で大きく揺れている。それはバラガンでさえ深くは知らないだろうから。そして十刃(エスパーダ)を含めてニルフィに親愛を抱いている彼らが、以前の自分たちと重なることがどうしようもないまでにやるせなかった。

 アレがどういうモノかネタばらしも禁止されている。

 取り返しのつかないことになるのに、そう時間はかからないだろう。

 

「あのチビも哀れなもんだぜ。自分がどういう奴か知ってても、記憶が無いから肝心なことが理性じゃ解ってない」

「でもここで生きるくらいならべつにいいいだろ? 破面たち(オレら)って記憶があっても身分証誰も持ってないぞ」

「頼む、少し黙っててくれお前」

 

 犬頭の切実な願いを吐き、

 

「ともかくさ、あのチビは面倒事の塊みたいなもんなんだよ。望む望まないに関わらずなにもかも巻き込んでいく。俺はそれに引き込まれたくないって言ってんだ」

「たしかに、末端の雑用係もじっとしてないだろうな」

「……あ? なんで雑用係の奴らが出てくんだよ。役にたたないだろ」

「それでも嬢ちゃんのことがあいつらは大好きなのさ。上にも下にも囚われない。大切なのは、昔がどうだろうと今がどうだかだ」

 

 それだけで話が終われば犬頭的にはよかったのだが、懐を探った蛇男が、嫌な予感を当てるかのように何枚かの写真(のようなモノ)を取り出す。

 

「……なんだコレ」

「見れば解るだろう」

「解らねえから訊いてんだよ馬鹿! 知らねえぞ、ホントになんだよコレ!?」

 

 キレ気味に犬頭が叫んだ。

 写真には同じ人物の日常の何気ない様子が写っていた。ニルフィだ。そのどれにも共通することは、アングルのせいもあるだろうが一枚もカメラ目線ではないこと。それに気づくと写真がやたらと犯罪臭のする物体に見えてきた。

 蛇男がわずかに口の端を吊り上げながら言った。

 

「これといって名前がつかないから適当に“会”とだけ呼ばれてるんだがな。ああ、属しているヤツらは自称だが“会員”と名乗るのが通例だ」

「うっわ、なんだその……、もう、ダメそうな集団だって勘だけで解りそうなの」

 

 蛇男は常識があると自覚している犬頭が、仮面に覆われていない口元をうわぁという形に変えながら言った。

 しかしそれで止まらないのが蛇男という破面(アランカル)だ。

 まるで演説でもするかのように、無駄のない無駄な動きでジェスチャーを加えながら腕を振り回す。

 

「馬鹿にしないほうがいいぞ。多さだけで言えば、虚夜宮(ラス・ノーチェス)の勢力図を塗り替えられる数は在籍している。ーーそして随時募集中だ」

「その元気をもっと有意義に使って欲しいな俺は!!」

 

 聞きたくない。けれど構わずに蛇男が語りだす。

 

「なんだったか、『プサリス・ゾイフィオ』という偽名の誰かが最初に広めたらしい。途中でパッタリと消息がつかめなくなってから『カングレッホ』というものが後を継いで、最初は危なっかしい少女を見守ることから、だんだんとエスカレートしていった結果が……これだ」

「脱線どころか入るレール自体が間違ってるよな」

「それだけヒトを惑わす少女だから仕方ないだろう。それに危惧したオレは試しに潜ったんだがーーいつのまにかハマってたんだ」

「いいからもう死んでこいよお前!!」

 

 犬頭の叫び声が廊下に虚しく響いた。

 ちなみにプサリスとゾイフィオはギリシャ語で(はさみ)と蟲。

 カングレッホはスペイン語で(かに)という意味だ。

 もはや世も末な状態であった虚夜宮(ラス・ノーチェス)内部であるが、だからこそその中心となっていた少女の行動ひとつで大きく変わるのだろう。ましてやそれが傷ついて倒れたなど、蜂の巣に石ころを投げて挑発するかのようなものだ。

 

「つっても、いつまでその連中も嬢ちゃんを庇いきれるかね」

 

 気だるげに写真を仕舞い込みながら、蛇男が虚空へ向かって言った。

 

 

 

 

「ーーアレはそう夢のある代物(ヤツ)じゃあ無いってのに」

 

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーー

 

 

 第7宮(セプティマ・パラシオ)近辺、第8宮(オクターバ・パラシオ)方向の石材が乱立する砂漠。

 

 そこを重い足取りで進んでいくザエルアポロが、手近にいたという理由だけで自分の従属官(フラシオン)を掴んで動けないようにし、大口を開けて(むさぼ)った。すると気味の悪い咀嚼音と共に傷だらけの体が癒えていく。肩から腰にかけての裂傷も同じく消えて行き、ぎこちない歩き方も正常に戻っていった。

 ちぎれた翼のような触手なども同様に再生していき、血と肉が満ちていく。

 

「ハァ……ッ。ハァ……ッ。ハァーーーー…………」

 

 そして呼吸を整えたことで、ザエルアポロは冷静になった心が怒りで打ち震えるのを感じた。

 

「クソッ!!」

 

 叫び、回復薬として使った従属官(フラシオン)の成れの果てを踏み潰す。それを見て周囲に残った十数体の異形たちは身をすくませるが、ザエルアポロの視界に入ることはなかった。

 結果的に、ザエルアポロは生き延びた。 

 それもそのはずだ。これは科学の成果とか運の要素とか以前に、グリーゼがザエルアポロのことを殺すつもりがなかったから。主人の言ったことをバカ正直に間に受けるあの男は、おそらくニルフィから仲間を殺さないように頼まれているのだろう。強烈な一撃で塔の区域ギリギリまで撥ねられ、棍棒に変えた斬魄刀によって数キロメートル離れたこの場所まで従属官(フラシオン)もろともふきとばしただけだった。

 ザエルアポロは内心で渦巻く怒りの理由を整理できない。コケにされたことへの屈辱、自分の小手先が一切通用しなかったことへの絶望。そこまでは解るが、あとは言葉が見つからなかった。

 

「クソがッ。まだだ、まだ準備さえあればいくらでもくつがえせる。失った霊圧も宮に戻ればいい。けど時間は……もうないか」

 

 苛立たしげに石材の間を歩いていく。

 ザエルアポロの行動は他の十刃(エスパーダ)にも知られているはずだ。貴重な自由を使い切ってしまった。また、バラガンあたりが出てきては面倒なことになるだろう。藍染は絶対に邪魔してこないのが不幸中の幸いだが、もはや形振(なりふ)りかまっているヒマはない。

 あそこまで貴重な研究材料をフイにするつもりなどなかった。

 ニルフィはザエルアポロにとって欲してやまない結果を与えてくれるであろう特性がある。みすみす目の前にある極上の獲物を見逃す性格ではない。

 ここまでのリスクを払ったからには、途中で降りることなどもとから出来なかった。

 

「ああ、そうさ。もう穏便にやらなくてもいいのなら、爆弾だろうが地雷だろうが薬だろうが、こそこそ使わなくとも奪掠はできる。多少被検体が傷ついても、それこそあとでどうとでもーー」

「生憎だけど、幼女にイタズラしようなんて、藍染()が許してもアタシを差し置いてなんて許さねーですよ」

「ッ!!」

 

 声のした方向を振り返ると、適当な石材の上に脚を組みながら朱色の女が座っていた。

 

「アネットか……!」

「そうよ。いいリアクションありがとう。けど男の呆けた顔なんて嬉しくないわね、カワイイ娘がやると見方によってはアh……コホンッ。あれれ、なぜかいきなり(せき)が」

 

 いったいどんな単語を口にしようとしたのか。

 ふざけたことをのたまいそうになるアネットを、彼女の妖艶な色香を漂わせる白い太ももにさえ目もくれず、ザエルアポロが睨んだ。

 

「僕としては……君の行動が一番予想外だった」

「さあね、どうしてかしら」

「考える時間も惜しい。だから単刀直入に言わせてもらうよ。ーー僕と取引をしないか?」

「……へぇ?」

 

 興味を示したアネットが目線だけで促してくる。

 

「ニルフィを研究しつくしても殺すつもりはない。たったひとつだけ知りたいことがあるんだ。そのあとになら君に返すことだって約束するさ。……まあ、今までみたいに感情を表に出すことができなくなってるかもしれないが」

「それにアタシが頷くとでも?」

「ああ、本気で思ってるよ。なにしろそれだけでもう君の目的は果たしている(・・・・・・)だろう。断言するが、君にとって不利になりえる条件は一切無いはずだ」

 

 しばらく足をぶらぶらさせていたアネットだが、

 

「却下」

 

 短く、そしてこれ以上意思を変えるつもりがないことを示した。

 

「グリーゼも同じことを言っていたよ」

「それなら珍しく意見が一致したんじゃないでしょうかね」

 

 癪だけども、とアネットが付け加えた。

 

「これからあなたは邪魔するだろうし、存在がアタシにとって邪魔になってるの。グリーゼと違って見逃すつもりなんてさらさらないわ。害虫駆除は、とことんやる性格ですから」

 

 アネットが石材から軽やかに飛び降りる。

 帰刃(レスレクシオン)状態とはいえ、いまだにザエルアポロの霊圧までは半分も回復しきれていない。そうでなくとも、まともにこの女とやりあっては勝率がゼロから変わることもないだろう。また、仕込みなどはほとんどあの塔の区域にしか集中させていない。

 ーーだが、これはチャンスでもある。

 ーーどうせ手元の賭け金をすべて投げた僕がやることはひとつだけ、か。

 思念だけで通信できる蟲でザエルアポロは部下たちに命令を下し、続けられる言葉を待つ間もなく起死回生の一手を打った。

 

「邪魔」

 

 捨て身の特攻を仕掛けてきた異形たちをアネットが灰にしていく。

 だが装甲によってわずかに存命時間が増したザコたちに涼しい顔をしながら苛立っているのが解った。

 さらに周囲の岩にあらかじめ(・・・・・)仕込んでいた爆弾を起動させて岩のつぶてを殺到させる。

 今のザエルアポロにとってはそれで十分だ。

 大ぶりな攻撃を放つアネットの隙を突き、砂の中をミミズのごとく突き進ませていた翼のような触手で、即座に彼女の体を複雑に絡め取る。

 その瞬間、触手よりも先にザエルアポロは自分が獄炎の波に飲み込まれながら、賭けに勝ったことを悟って哄笑した。

 

 受胎告知(ガブリエール)

 

 それは、ザエルアポロ自身が最も自慢している能力であり、本人曰く『敵に自身を孕ませる能力』。

 肉体の大半が損失したとしても、敵の(へそ)から体内に侵入して卵を産み付け、体内から相手の全てを吸い尽くして死に至らしめ、自らの肉体を復活させる。

 

「?」

 

 よく解っていないという様子のアネットを縛る茎の途中。そこに切れ目が入って細長い歯が整然と並んだ口となった。

 こうなってもまだザエルアポロの意識は消えてない。

 灰となった本体のあとを続くように、不気味な口から奇声じみた笑い声が上がった。

 

「クッハハハハハハハハハハ!! まさか、まさかこんなにも簡単にいくとは思わなかったよッ」

 

 うるさそうに眉をしかめたアネットが吐き捨てる。

 

「何ですか、コレ? あいにく触手プレイされる趣味なんてアタシには無い……、あ、ニルフィがされてるところを見るのはアリね。相手はあなた以外限定だけど」

「そう余裕ぶってられるのも今のうちだ。いかに君がこの受胎告知(ガブリエール)とは別の『不死』を体現させていようが、霊圧を喰い尽くされては不可能だろう。僕の前に、死という終焉は存在しない。僕は殺されようと完全な死の前に(よみがえ)…………なぜだ?」

 

 そこまで喋ったところで、ザエルアポロは疑問を口にした。

 もうすでにアネットに侵入させた卵は孵化していいはずだ。

 無様に女の腹は膨れて口から新たな自分が誕生する。そのシナリオがちっとも進まない。

 そうしているうちに、ブチブチと、まるで炎さえ必要ないとでも言うように、アネットが腕力だけで鋼鉄以上の硬度があるはずの拘束を引き裂いた。

 触手であるザエルアポロも半ばからちぎれて砂の上に落ちる。

 

「茶番に付き合ってあげられるほどアタシも暇じゃないんですよね」

 

 たしかにアネットの服の腰あたりは破け、狡猾な猫のように妖しい媚態を感じさせる臍がちらつく。

 ならば、

 

「ま、待て。どうしてだ!? たしかに卵は植え付けたはずだ!」

「……簡単なことよ。アタシがアンタごときに戦闘シーンなんて必要ないくらい格上だから、ってトコ? 余分なのよね、アンタみたいな存在って。横から出てきて黒幕気取ろうなんて虫が良すぎ」

 

 女性がゆっくりと歩く。

 その真紅の瞳を爛々と輝かせながら。

 

「アンタの間違いはふたつあるわ。まあ、ひとつは、先に言っておくけどね。アンタ、アタシみたいなイイ女に逆らおうとしてる時点で終わってるのよ。何しろイイ女は、惚れた相手にしか負けないからイイ女なんだもの」

 

 本来ならば燃えることのない虚圏(ウェコムンド)の砂が灰として崩れていく。

 

「あとひとつは……自分で考えなさい。でもニルフィを襲おうとしてる時点で、アンタには一生答えが見つからないわよクソ科学者」

「やめろ! こんな、こんな馬鹿な! 力尽くで僕のチカラを破るだと!? ッ! それ以上近づくな!」

「大丈夫よ。考える時間はいくらでもあるわ。どうせアンタは地獄行きだろうし、クシャナーダに殺され続けながら考察してるのがお似合いね」

「まだだ、話を聞いてくれ!! これでも僕は彼女(ニルフィ)のことを考えてーー」

 

 さようなら(アディオス)

 アネットが未練なく吐き捨てた直後、虚夜宮(ラス・ノーチェス)のどこからでも見える極太の火柱が周囲一帯を包んだ。それによって地下を逃げていた触手の断片ごと焼滅させられることとなる。

 

 十刃(エスパーダ)、残り八名。

 

 巨大なクレーターから這い出したアネットが、ふと腹をさすった。

 あろうことが彼女は炎をまとわせた右手を、肌のさらされている部分に躊躇なく突き込む。無造作に探る動作を何度か繰り返すと、やはり突き込んだ時と同様に、再び躊躇なく引き抜いた。

 

「…………」

 

 大豆ほどの球体がアネットの右手の中でボロリと崩れ落ちた。

 そしていじくりまわした腹だが、どういうわけか傷ひとつ付いていない。

 

「やっべー、やっちまいましたねやだー」

 

 棒読み口調で背後を振り返った彼女は、半径がキロ単位になりそうなポッカリと大口を開けた灰の降り積もるクレーターを前に、逃げるようにして第7宮(セプティマ・パラシオ)の方向へと響転(ソニード)を繰り出した。

 

 

 ーーーーーーーーーー

 

 

 アネットが宮に戻った頃にはニルフィの治療は終わっていたようだ。

 ベッドの上で眠るニルフィの体は、あれほど痛々しかったのが嘘のように滑らかな真珠色の肌を見せている。しかし意識はいまだに戻らないようで、少女は泥のように眠っていた。

 

「……戻ったのか」

「どこかの誰かさんが手加減したせいですけどね。わざわざアタシが簡単にトドメを刺しに行っておりましたよ」

 

 椅子に座ってのんびり雑誌を読んでいるグリーゼにアネットが皮肉を飛ばした。

 

「……その割にはかなり派手にやったように思えたのは俺の気のせいか。自分の力に自信が持てなくなってくるというのも、なかなかに不安が煽られる」

「ぐっ、べつにいいでしょ。アタシの辞書に加減なんて言葉は無いのよ」

「……おまけに家事や料理もな」

「う、うるさいうるさいうるさい!! 大体そういうのは下のに任せとけばいいのよ。ちょっとくらいアタシより家事ができるからって天狗にならないでもらいたいわね、鼻折りますよコノヤロー」

 

 口では勝てない。それを認めることもせず戦略的撤退を選んだアネットが周囲を見回した。

 

「そんなことより、あの織姫って娘はどこに行ったんですか?」

「……そんなこと?」

「蒸し返さないで頂戴。ともかく、アタシが訊きたいのは人間がどこに行ったかってこと。お礼の一言でも言おうと思って」

「……さっきまで居たグリムジョーがすぐどこかに連れて行ったぞ」

「グリムジョーが?」

 

 またどんな理由で、と訊きかけてアネットは口をつぐむ。もう少しで、なぜあっさり出て行ったのかを知ろうと思ってしまうところだった。どうしてだろう。自分はいま、否定の言葉が欲しかったのか?

 

「ふん、去り際にどうせ『勝手にやってやがれ』ってカッコつけて言い捨てたんでしょ」

「……俺にはな。お前には『馬鹿』と言い残した。そのあとに一言ではダメだと思ったのか、『救いようのない馬鹿』と称してたぞ」

「あの猫……! デカい顔するようになりやがりましたね」

 

 憮然とした表情となったアネットがベッド脇の椅子を引っ張って腰を下ろす。

 

「じゃあ、他の二人は予定通り?」

 

 アネットの問いに、グリーゼが頷くことで肯定を返した。

 なんのことはない。ドルドーニが護衛代わりにロカを救護室まで届けたかを確認しただけだ。しかしすぐには帰ってこないのは、響転(ソニード)をロクに使わない移動だからだ。アネットがしたようにロカをお姫様抱っこすることはドルドーニに禁じてある。

 そしてこの宮には、下官のひとりさえいなくなった。

 いるのはアネットとグリーゼ、そしてニルフィの三人だけだ。

 

「……ドルドーニは察している様子だったが……、なにも言わなかった。グリムジョーも同じだ。だが俺は違う。すこし前にも尋ねたがもう一度訊こう。配役を変えるチャンスはこれで最後だ。心変わりはないか?」

 

 アネットはすぐには答えない。眠る少女の肌を手になじませるように肩から首、そして顔を順に撫でていき、そして触り心地のいい髪へと流れていく。すべてが戻っている中で唯一セミロングのままにさせていた黒髪が、わずかなランプの灯りを星のように散らした。

 

「ア……ネッ…………ト」

 

 寝言だろうか。ニルフィの口から、恋しそうに女の名で求められた。

 くすりと笑ったアネットが言う。

 

「やっべー、このシチュで名前呼んでくれるってもう『俺の嫁宣言』と受け取ってオッケー? いやいや、否定する言葉はゼッタイに認めないですし、これはもう二身合体せざるをえねー!!」

 

 ガッ、とニルフィの服に手を掛けたアネットの腕を、ガッ、とグリーゼが万力のようなパワーで掴んだ。

 しばらくギリギリと音を立てながら拮抗していた二人だが、アネットが鼻を鳴らして腕を引いたことで落ち着いた。

 

「あなたさえいなければ、今頃ニルフィはアタシ無しじゃ生きられないカラダになってたんですけどね」

「……ロクでもない未来だと判断する。だが俺が居なかったところで、お前は本当のところ(あるじ)を汚すつもりなどハナから無かったかのように思うんだが」

「それこそまさか」

 

 おどけたように肩をすくめてみせたアネットが苦笑する。

 

「忘れられない想い出作り? そんなトコよ」

「…………」

 

 間違ったことは言っていない。本心が歪むことなど自分に限ってないと自覚している上に、今もこうしてブレた様子を見せないことが何よりの証拠であった。そしてこれから証明される。徹底的に邪魔となるモノを消した独壇場で、なにもかも。

 舞台は整った。それならば最後まで成し遂げるつもりだ。

 そうでなければーー報酬に釣り合わない。

 

「それと質問の答えだけど、アタシは変わるつもりなんてないわね」

「……だが」

「大丈夫ですよ。しくじることなんて万が一にもありませんし、あなたは予定通り舞台に上がってこようとするクズを一掃してくださいな。それくらい余裕でしょ? でしょ?」

「……それが、お前の答えなのか」

「最良であっても最善でなくて結構。これはアタシの自己満足の塊で、マジパネェくらいの覚悟の上よ」

 

 難しい顔をするグリーゼだがそれ以上質問をすることもなく、無造作に雑誌をそばに投げる。

 立ち上がった長身の男は背中に大剣を吊り下げるとドアのほうへと歩いていった。

 

「……無理はするな」

「不器用な気遣いどうもです。そうはできないって理解してるくせにね」

「……お前は」

「なに?」

「………………いや、もうなにも言うつもりはない。余計な言葉だ」

「なによ、気になるんだけど」

 

 アネットの耳に、ため息が聞こえた。呆れた、日常ではいつも耳にした、影の苦労人からのため息。

 

「……仮面は被り続けるものじゃない」

 

 視線をグリーゼの背へと向ける。

 しかし男の姿はもはや部屋には無く、アネットの視線だけが宙をさまよった。

 

「それくらい、言われなくたって解ってるわよ」

 

 椅子の上で伸びをしたアネットがそうぼやき、眠る少女の顔を見つめる。

 無垢で無邪気で、女のなかでもっとも大切だった従者と面影が重なる寝顔だった。

 今しばらく時間はあるだろう。

 薄暗闇のなかでアネットは静かに目を閉じた。


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