もう何度も繰り返したように、目を開くと見慣れたベッドの天蓋が視界に広がっている。
起き上がったニルフィは不思議そうに手を握ったり開いたりをして体の調子を確かめた。オールグリーン。白哉の捨て身の攻撃であれほどまでに傷つけられた身体が、今ではいつも以上に快調である。
「オリヒメさん、かな……?」
ほとんど本能的に
しかし、
「……居ない?」
アネットも、グリーゼも、ましてやドルドーニや下官ひとりさえ宮から消えてしまっていた。
不安が心を支配する。
まさかもう戦いが終わったのかと時間を確かめるが、自分が倒れたであろう時からあまり変わっていないことを考えると、あまり現実的ではない。下官がいないのは疑問だがアネットたちは出かけているのだろう。
ベッドから飛び降りたところでニルフィはあることに気づいた。
「あれ、髪が短くなってる」
肩より少し長い程度のセミロング。切り揃えられてはいるが、あの腰まである綺麗な長髪はコンプレックスだらけの自分の容姿で一番気に入っていただけに、惜しい気持ちを隠せない。
それに惜しいというならば。
アーロニーロが死んでしまった。
それが何よりも悲しい。胸がきゅうと締まり、痛みを抑えるようにして手を添えた。
舌舐めずりしたニルフィは、そばに畳まれてあった自分の死覇装に手を掛けて着替え始める。患者服のような薄い衣類を脱ぎ捨てると体の至るところに包帯が巻かれてあった。それらをはずし、着慣れたパーカーのような死覇装を着込んで服装を整える。
「…………」
感じるのは、少しばかりの違和感。
慣れた長髪が無いとむずむずとする。それを嫌い、部屋を探して見つけた赤いゴムでいっそのことポニーテールにして髪をまとめる。
ほどなくしてニルフィは宮を飛び出した。
大雑把に霊圧を探索すると、やはりまだ多くの
お隣さんであるザエルアポロのものは感じ取れないが、それはいつものことだ。宮に籠もっているはずの彼がそうそうやられることはないと知っているニルフィは、ようやく目当ての霊圧を見つけたことで関心を移した。
ーーでも、かなり離れてるっていうか……外なのかな?
なぜか、アネットとグリーゼの霊圧は
行けばわかるだろう。そう思い直したニルフィが、すぐさま神速と化して目的の場所を目指した。
歩けば数日もの距離を飛んでいると、ほどなくして
もう壁は目の前まで来ており首を巡らしても端は見えなかった。
「こんなトコで何してるの、グリーゼ」
「……それより、その様子だと全快したようだな」
「うん、おかげさまでね。オリヒメさんを連れてきてくれたのってキミたちなんでしょ? あのままじゃ死んでたかもしれないし、ありがとうね」
剣をかたわらに、壁に背を預けていたグリーゼが淡々と言った。
「……それはアネットに言ってやれ。あの人間を連れてきたのはあいつだからな」
「うん! でも、アネットってどこに居るの? 宮には下官のみんなも誰も居なかったし、心配したんだよ。オジさんもどっかに出てってるし、霊圧の
「……そうか」
「私が寝てた間になにか大きなコトってあったかな。ほら、その、誰かが死んじゃった、とか」
不安で眉を寄せるニルフィはグリーゼの言葉を待つ。
「……大丈夫だ。侵入者に倒されたと言えるのは、まだアーロニーロと
「そっか」
ニルフィはほっとしてため息を吐いた。
もう、仲間が死ぬなんてこりごりだ。表面こそこうして明るく振舞っているニルフィだが、その内面は崩れ落ちてしまいそうなほど脆くなってしまっていた。
今にも倒れ込んでしまいたいほど頭痛がひどい。
仲間が居なくなった。その事実だけで、切り裂かれたことよりもずっと痛みがあった。
「それで、さ。アネットはどこにいるの?」
わがままだと自覚している。しかしすぐにでも宮に戻って休みたかったし、そのためには二人にそばにいてもらわないと心が休まらないだろう。
「……あいつは“外”だ」
グリーゼが壁を叩くと隣に扉が浮き上がって現れた。
首でその奥を促しながら、従者の男は目を伏せる。
「……俺はここでやることがある。すまないが、会いたいというのならひとりで行かせることになるが」
「ううん。なら、すぐにアネットのこと連れてくるね。そうしたら、みんなで帰ろう?」
「…………ああ、そうだな」
大きな手がニルフィの頭を不器用にそっと撫でた。
いくらか嬉しそうな顔をしたニルフィは、外へと続く道を駆けていく。
何も考えず、すべてを信じて、ずっとずっと。
ーーーーーーーーーー
主人の消えた
白い肌に面妖な黒い化粧をした異相。そして白い羽織をなびかせるのは、護廷十三隊十二番隊隊長である
ニルフィの眠っている間に残りの死神たちの隊長は侵入している。
あとは自由行動となり、他の隊長格が援軍として活動している中、マユリは自分の科学者としての好奇心に従って動いていた。
「フム、この宮の主人はなんとも不用心だネ。防衛機能を自分がいること前提に創ってあるとは。まったく、なんのための自立防衛機能なのやら。こんなのじゃネズミ一匹さえ逃してしまいそうだヨ」
右手中指の不自然に長い爪を杖のように振りながらマユリは呆れのため息を吐く。
二度。
最初は見たこともない宮の主人にであり、次には自分より先行していった隊長格の青年に対してだ。
「まァ、さほど時間を置いてやってきたつもりは無いが……。まさかもう倒されているとは想定外だ。あの眼鏡が戦った女のレベル程度なら大丈夫だと思っていたんだがネ。アレが不甲斐ないのか……、噂の
淡々と独り言をつぶやきながらマユリは廊下を進んでいく。
まるでメトロームのように響いていた靴音が止まったのはそれから少しばかり時間を置いてからだ。
「ネム、ここの壁を破壊しろ」
「はい、マユリ様」
なんの変哲もない壁を壊せという命令に疑問を示すことなく、細身の女とは思えない腕力でネムが壁を殴り壊した。この瞬間、今日の
穿たれた大穴を覗き込むマユリは肩を落とした。
「やれやれ、ここもハズレか。とっととそれらしい研究材料のある部屋が出てきてもいいハズだがネ。……ん?」
見たところ、いくつもの資料が積み重なっているだけの部屋にマユリがわずかな関心を示す。
部屋へと足を踏み入れたマユリは手近な一枚の写真を取り上げた。
黒髪の綺麗な少女がローアングルで写っていた。画質も良く、これが現世での先遣隊を追い詰めた
「成程。身内にも研究対象として見られていたようだネ」
これら膨大な資料すべてに“ニルフィネス・リーセグリンガー”という少女に関する情報が記されてある。
少しばかりマユリも興味を持っていただけに、こうしてまとめられているのならば後での資料作成が楽になるだろう。そう思い、多少の溜飲は下がった。
「なにをしているんだネ。毛色は違うが、これらは探していたモノに近い紙束だヨ。さっさとめぼしいものがないか探せ!」
「はい、マユリ様」
理不尽極まりない前触れもない要求にも、やはりネムは淑々と従う。
そしてマユリ自身も物色に加わって漁り始めた。
近い部分には趣味程度に集められたらしい写真やら
「フム? これは……」
無造作にそのうちのひとつを手に取る。
それには、少女の過去を知る
少女がただ強いだけの
この時、死神のマッドサイエンティストの認識が変わった瞬間である。
「どうやら藍染はオモシロイものを探し当てたようじゃないかネ」
そうしてマユリはいくつかの資料を選ぶと懐に仕舞い込んだ。
「おい、ネム」
「いかがなさいましたか」
「いかがしたのはお前のほうだヨ!」
紙の山の影から現れたネムは、なぜかカラフルな
「いえ、めぼしいものと言われましたので目に付いたモノを選びました。資料などはマユリ様が直々に選ばれると思い……。それと、
「私は忙しいんだ。まったく、少し時間さえあれば今度こそ『メス豚』とでも縫ってやるものを……。さっさとそれを置いて私の選んだモノを台車に詰め込みたまえ!」
「…………」
「解ったからその小道具も一緒に台車に入れて、さっさと動くことだネ!」
欠陥品になってきたのかとぼやくマユリは、そそくさと動き始めたネムから視線をはずしてもう一度資料の束に目を落とす。
「やれやれ、いいように扱われたあとは壊れに壊れ、いまだに現実から逃げられてないとはネ。私でも同情を禁じえないヨ」
そのつぶやきは、誰にも聞かれることなく掻き消えた。
ーーーーーーーーーー
晴天を描く天蓋から抜け出せば、外となる砂漠は常闇の世界を
おぼつかない足取りで白砂を踏みしめたニルフィは、きょろきょろとあてもなく周囲を見回した。その顔は迷子の子供のように不安に染まっている。頭痛のせいで冷や汗は収まることなく、腹がよじれそうな吐き気もあり、今にも泣き出しそうなほど崩れていた。
「どこにいるの……? アネット……」
うわ言のように繰り返しながら少女は進む。
どうしてこんな場所にアネットがいるのかとか、まだ
いまはただアネットに会いたい。自分が望む分だけいくらでも愛してくれる女の肌が恋しい。
そうして
「アネット?」
「ほかの誰かに見えたのかしら? もちろん、アタシよ」
人を食ったような笑みを浮かべている従者の女を見てニルフィが安堵の息を吐いた。
「こんなトコでなにしてたの」
「ちょっと、ね。でもあなたはもう動いて大丈夫なの? 精神的にも疲れてるんだから、まだ少し宮で休んでたほうがよかったでしょ」
「あはは……。ひとりでいると、すごく不安になっちゃってさ。キミに会えたからそんなのは吹き飛んじゃったけどね」
「……そう」
今度は困ったように笑うアネットがニルフィのそばまでやってきた。
アネットは膝をつくと、右手でニルフィの頬にそっと触れる。夜風で冷たくなった肌が温かくなった気がした。
「髪、まとめたのね」
「うん」
似合ってるかどうかわからない。けれどアネットの表情を見る限り、悪くはないのだろうと思った。
アネットは指を黒髪に絡ませるようにして撫でると、ゆっくり下へと降りて行き、いつもよりも鮮明になったうなじから
少女の口から熱を孕んだ切なげな吐息が漏れ出す。
「フフッ、一回痛い目を見ても堪え性がないのは変わりないみたいですね」
「あぅ……」
羞恥で顔を赤くしながらニルフィがアネットに抱きついた。
それを面白がったアネットが再び手を動かそうとしたが、抱きしめた小さな少女が震えていることに気づいたのか、その背をぽんぽんと優しく叩く。
ようやく少女のカラダを縛っていた緊張がほぐれ、押さえつけていた内心を吐露する。
「ーー私、怖かったんだ」
嫌に鮮明な夢を見ていた。見たこともない
「また誰かが死んだんじゃないかって、そんな嫌な妄想して。目が覚めたとき私のそばに誰も居なくって。それに気づいちゃったとき、ベッドの上で死にたくなったんだよ……? 寂しくって、寒くて、気が狂っちゃうかと思った」
もう、この温もりを放したくない。
いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも。
ニルフィは従者を抱きしめる腕にさらに力を込めた。安心によってだろう。今まで自分を苛んでいた頭痛などが波のように引いていく。
申し訳なさそうにアネットがニルフィの頭を撫でた。
「ごめんなさいね。あなたを一人にするつもりじゃなかったんだけど」
「ちがう、ちがうの。私はキミたちが一緒にいてくれるならそれだけで満足だから。謝ったりなんか、しないでよ。ずっと、ずっとずっと、キミが大好きだから」
顔を上げる。
アネットの目が和らぎ、ニルフィの熱っぽい視線に気付いたのだろう、顔を寄せてくれる。
そうしてニルフィはカラダのすべてを目の前の女に預けようとしーー。
殺気。
本能が世界を動かす。理性が認識できるようになれば、自分はさっきまでいた場所から十メートルも
それだけ、なり振り構わない強引な回避行動を無意識に取っている。
「ーーッ! ーーッ!?」
知らずのうちに荒くなる息。
それ以上に、疑問なのが。
ニルフィはおそるおそる指で首元に触れた。
傷のついた細首には本来ならば赤い血が付着しているはずだが、
「あらら、避けられちゃいましたね」
少女の指についていた薄皮だったものの“灰”がボロリと落ちた。
「……どうして?」
少女の視線の先では、冷めた表情をしたアネットが斬魄刀である鉄扇を手に、また自分を見返している光景があった。ポタリ、ポタリ。鉄扇の隠し刃の先端から赤い血が落ちていた。
砂漠の夜風よりも寒々しい目つきがニルフィの胸をえぐる。
ーーーーーーーーーー
「クンクンクン、こっちだ! こっちからネルの匂いがするぞ!」
「君が匂いとか言うと犯罪臭がするよ」
ペッシェがかさかさと変態的な動きで進んでいくのを雨竜が呆れ顔で追っていた、
この
「しかし我々は幸運だぞ! ここまで来てまだ追っ手のひとりさえ見ていないのだからな」
「幸運、と言えればね」
「湿気た顔とは縁起が悪いぞ」
「いや、いくらなんでも静かすぎる。最後に
嵐の前の静けさ。そういった不穏な言葉が脳裏を掠め、慌てて頭を振る。
「いまは静かならそれに越したことはない。急いでネルちゃんを回収して、一護たちと合流しよう。それに僕の予想が正しいなら……」
「なんだ? 溜めをつくらずに早く話ーーうおおおおおおぉぉぉぉ!?」
催促しかけたペッシェが突然、空中に突き上げられた。
そしてモアイ像のごとく砂から突き出た巨大な顔を見て雨竜が声を上げた。
「君は……ドンドチャッカか!?」
「ぎゃああああ! 知らない眼鏡がオラの名前を知ってるでヤンス~! ストーカーがいるでヤンス~!!」
「いや、会ってるだろ!? 石田雨竜だ!」
「う、うん? た、たしかに知ってるでヤンス! 心細かったでヤンスよ~」
砂から這い上がったドンドチャッカが仮面の目の穴から涙を流しながら雨竜に飛びかかる。
それを慌てて回避した雨竜は、抗議の声を無視しながら、いまだに涙を流すドンドチャッカに訊いた。
「君はだれかと一緒に行動していたんじゃないのか?」
「恋次が、恋次が倒されてしまったでヤンス! そ、それでアテもなく逃げてたでヤンスが、ペッシェの霊圧を感じる前に別の死神と会ったんでヤンス。あのオバ……ウォッホン、お姉さんの死神に預けたでヤンス」
「死神に会ってよく殺されなかったな」
「その人は血を止めるためにやって来たと言ってたでヤンス。オラのかすり傷も治してくれたんでヤンスよ。…………おっと」
ドンドチャッカが巨大な口を開き、そこから高校生とは思えない巨躯の青年を吐き出した。
「茶渡君! 君も一緒に行動してたのか?」
「ム、石田か。一緒に行動していたというよりは、卯ノ花隊長に傷を癒してもらっている時に、偶然出会っただけだ」
悔やむように茶渡は頭を力なく振る。
「
「……いや、僕も同じようなものさ。完全に決着はつけてないよ」
思えば、
ーー必要以上に戦うのは避けたほうがよさそうだね。
そう結論付け、騒いでいるペッシェたちをよそに茶渡と情報を交換する。
聞けば、その女の隊長は『四』の番号が刻まれた羽織を着ていたらしい。雨竜の記憶が正しければ、それは護廷十三隊でも回復役の死神が集う部隊だ。そしてその隊長が来ているとなれば、ほかの隊の隊長格も来ている可能性もある。
ここで最善の行動はその隊長格の誰かと合流することだ。
チルッチ以上の
ーーけど、この二人が素直に頷くはずがないか。
雨竜の視線の先では、復活したペッシェがリアクションを取る間もなくふっ飛ばされたことをドンドチャッカに抗議している光景があった。たとえ最善だと説明したところで、目と鼻の先にいるネルを見捨てるはずもないだろう。
それを口にしても、
「当たり前だ! ネルを、妹を守らずしてなにが兄か!!」
「そうでヤンス。オラたちは“熱砂の怪力四兄弟”。いつでもどこでも一連結託でなければいけないでヤンス!」
「な、なにを兄者!? 我々の総称は“グレート・デザート・ブラザース+1”に決まったではないかッ」
「それはペッシェが勝手に思ってるだけでヤンスよ」
「なにを、もとはと言えば兄者が……」
「いや、ペッシェが……」
「まさか……」
「イヤイヤ……」
「ーーさっさと茶番は終わらせてくれないかい?」
「「すみませんでした」」
ふたりの間に矢を突き立てた雨竜が強制的に口を閉ざさせる。
「それに、ネルちゃんを追うのは僕も賛成だ。ここまで来ているってことは彼女も独自に移動しているんだろう。ここを離れたら、この広大な城で次にいつ会えるか解ったもんじゃない」
「う、うむ。たしかにその通りだ」
「だからすぐに先に進もう。こうして話しているうちにも距離が開いてしまうかもしれない」
おとなしく頷く
「茶渡君も、どうかな」
「異論はない」
目的がようやくまとまったところで、四人は声を掛け合うこともなく動き出そうとする。
だが、
「ん?」
誰が発したのか定かでもない間の抜けた声。しかしそれこそが、全員の内心を代弁していた。
ペッシェが困惑気味に足元を指差す。
「なあ、雨竜よ。さっきまで、ここに線などはなかったはずだ……」
「……ああ、そうだね」
彼らが踏み込もうとした一歩先に“異常”がつくられている。
簡単に言えば、線が引かれていた。なにかしらの塗料が塗られているわけではなく、砂が割れてできた物理的な境界だ。線は砂だけに留まらずに壁にも刻まれており、視線を上げてもその終わりが見えないほどだった。
音もなく消えた、否、斬られた物体の成れの果て。
空気の変化を雨竜は感じ取った。
そして次の瞬間には、自分も含めて全員が膝を突いていることに気が付く。空気の重さのせいで知らずのうちにそうなっていた。
声が、上から投げかけられる。
「……ここからは通行止めだ。引き返したほうが賢明な判断だぞ、侵入者」
雨竜たちと境界を挟んだ向こう側に長身の
ペッシェがその男の名を呼んだ。
「なっ……! グ、グリーゼ様!?」
「……久しいな。ペッシェ・ガティーシェと、ドンドチャッカ・ビルスタンか」
その声は懐かしさを
さらに淡々とグリーゼは言った。
「……侵入者といえど、俺はお前たちをすぐにどうこうするつもりもない」
「それが、信じられるとでも?」
「……ならばその線を踏み越えないことを願う。そこから先はどれほどの弱者であろうと不確定要素になりえる確率を持っている。悪いが、そうなればお前たちを潰さなければいけないだろう」
体の軋みを無視するようにしてペッシェが立ち上がった。
「だが、この先に……この先にネルがいるのだ! それなのにいきなり立ち去れなどーー」
「……運が悪かった。それで諦めて欲しい。こちらにもこちらの事情というものがあるんだ、天秤にかけるのならばおのずと結果は見えている」
「ならばこの先でいったいなにが」
その問いに、しばし目を伏せるグリーゼ。
しかしすぐに大剣の柄に手をかけて抜き放つ。雨竜たちに向けるのは、完全な敵意だ。
「……ここから先で始まるくだらない茶番劇には、もう登場人物が出揃っている。ーー俺たちは、入れない」
それ以上グリーゼは何も言わなかった。言外に、線を踏み越えた瞬間からは敵となる。
どれほどグリーゼが強いのか解らないが、おそらくチルッチや茶渡と戦った
運が悪かった。たしかにそうなのだろう。こんな広大な
この先でなにが起こっているのか雨竜にはわからない。だが、迂回する暇もない今となっては進むか撤退の選択肢だけしかなかった。
「雨竜よ」
前を見据えたままペッシェが言った。
「ここで別れよう」
「なんだって?」
「貴様はまだ仲間を助けるという目的を果たしていないだろう。それを、忘れるんじゃない」
「君たちは……、どうするんだ?」
その言葉に、ペッシェとドンドチャッカは顔を見合わせる。頷くふたりは、言葉を交わさずともすでに決意を固めていた。
「まあ、大丈夫だろう」
ペッシェの足は震えていた。臆病なドンドチャッカも怯えを隠しきれていない。
しかしどちらも、この場から後ろへと去るつもりもないであろうと思わせるようにして、つま先を線の向こうへとつけていた。守れずしてなにが兄か。その背は、そう語っているようだった。
雨竜は呆れたように茶渡と目配せした。
そして己の武器である
「僕は自分を合理主義者だと思っているが……、旅の道連れを見捨てるほど、冷血ではないはずだよ」
「ーーそうか」
線を、踏み越えた。
ーーーーーーーーーー
首筋にくっきりと刻まれた傷を感じて背筋がゾッとした。
ニルフィは
そしてようやく発せた言葉は、
「ごめん、なさい……」
自分が殺されかけたことにはまったく疑問を抱かず、体を縮こまらせながら謝罪しつづけた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! な、なにか気に障ったかな? それなら、ちゃんと直すから。キミの言うとおりにするから。……オリヒメさんを連れてくるのが面倒だったなら、代価になるようなこと、なんでもするから……!」
この時になってもニルフィを支配し続ける恐怖は、自分が死ぬことよりも誰かが傍から居なくなってしまうことだった。このままでは自分が見限られてしまう。必死になって、奴隷のごとく恥も外聞も捨てた言葉を口にする。
そこには、アネットが自分に暴力といえるものを振るったことに抱く疑惑すらない。
ニルフィは捨てられたくなかった。そのためだけに、ビクビクと怯えながらも下手に出る。
「正直、別にそういうのとかどうでもいいんですよね」
「え……?」
「ん~、なんて言いますか。ニルフィ、あなたは……」
あっけからんといった様子で、アネットが言った。
「ーー用済みってコトですよ」
意味がわからない。頭が追いつかない。自分が用済み? そんなはずはない。そんな“要らないモノ”にならないためにニルフィは今まで生きてきたから。
それが顔に表れていたのだろう。冷めた表情のままアネットが説明した。
「あなたは強くなりすぎたの。今じゃ油断さえしなければ、ロクに怪我することもなく死神の隊長格でも殺せるでしょ? そしてこれからもまだ強くなれる。あなたを仲間にするときも藍染はそれを危惧してたのよ。すごいわね、自分に届くかもしれないってアイツに言わせたコト」
耳を塞ぎたい。大声を狂ったように上げてアネットの言葉を遮らせたかった。
「それにおかしいと思わなかった? ただ強いだけの兵士が必要なら、アーロニーロに今までの
「私は、謀反なんてしないよ」
「可能性があるだけで藍染は無視できないってだけです」
頭痛がより一層ひどくなってくる。胃がよじれて、少しでも気を緩めれば無様に吐き出しそうだった。
何よりもニルフィにとって辛いのは、語っている間のアネットの表情が変わらないことだ。優しかったハズの女は居なくなってしまった。
それでも、ニルフィは
「でも、あの、私の傷を治すために動いてくれたんだよね……? さ、最初から殺すつもりなら、そんなことするはずないし……。だから」
「勘違いしてるようだから教えてあげるけど、死にかけを殺したってなんの面白みもないでしょ。要はそれだけ」
「嘘、だよね?」
「虚実を信じたいっていうなら勝手にしてほしいですね。……あなたのそういう所だけは嫌いだったわ。ヒトの顔色を伺って、仲間であり続ける幻想を追う姿がね」
種明かしをしましょう、とアネットが鉄扇の刃の血糊を振り払う。
「そうやって
「なんで……? だって、みんなは!」
「ーー仲間だから。そう言いたかったんですか? じゃあ訊きますけど、あなたを殺すかもしれないってことを、今までそいつらは一言でも口にしたことはありますか。それってずっと前から決まってたことなのに」
記憶を辿ってもそんなことは誰も言わなかった。しかしかすかに感じていた違和感が、パズルの一ピースのようにカチリとはまった感覚。
そして気づく。誰も、宮から動こうとしていない。もしかしたら迷っている者がいると考えるが、結局のところ、誰もニルフィを助けにやって来ない。
「どうして」
「?」
「どうして、アネットは私を殺そうとするの? 命令、なんだよね? それで仕方なくやってるんだよね!?」
「違うわよ」
ひどくあっさりと、心の支えになるはずだった疑問が打ち砕かれた。そしてまともに立っていることすらできず、ニルフィがへたりこむ。痛い痛い痛い。頭に杭が打ち込まれたかのような衝撃のせいで頭が真っ白になる。
そばにまで近づいたアネットがうなだれるニルフィを見下ろした。
「ラティアがね、生き返るかもしれないの」
その声は色濃い感情に染まっているようで。
「まだ
「……や、めて……」
「グリムジョーも同じ条件を飲んだんじゃないかしら。ディ・ロイたちはともかく、シャウロンたちの死体もまだ残ってるものね。グリーゼは知らないけどニルフィをどっちが殺すかで揉めたりもしましたし、他の連中も、逆らえば死ぬって解ってるから流してる。彼らにも昔からの目的があるからね、売ることに多少の躊躇はあれど、最後は背を向ける。ちょっと付き合っただけのあなたを命に代えて守るヤツなんてーー誰もいない」
「やめてッ!!」
耐えられずにニルフィが叫ぶ。
自分を愛してくれたはずの紅色の女に答えを知りたくないと思いながらも、必死に言葉を投げかけてしまう。
「アネットは……、私のこと、愛してくれたでしょ? 好きだって、何度も言ってくれたし、ラティアさんとして見なかったって……! ……ぜんぶ、見せかけだったの?」
ーーいやだ、嫌だ!!
ーー訊きたくなんか、知りたくなんかないのに……!
内側の悲鳴も虚しく自分の口は言い切ってしまう。
夜風で少し乱れた髪を掻き上げるたアネットが気怠げに口を開いた。
「別にアタシはラティアと比べてどっちが好きなのか言ったワケじゃないでしょ?」
それに、とニルフィの心を壊すのに十分な言葉を無情にも続ける。
「多少の趣味は入ってたけど甘い言葉を与えてちょっと深い関係になっただけで、あんなにもあっさり骨抜きになってくれるとは思わなかったわね」
胸の奥でなにか大切なものが音を立てて崩れた。
全部、全部ウソだった。今までの生活のすべてが嘘で
脳裏に今までの光景が浮かんでくる。
談笑したり、お菓子を一緒に食べたり、腕試しとして戦ったり、遊びに興じたり。楽しい、思い出だった。綺麗なはずの、思い出だった。すべての記憶には必ずニルフィの隣に誰かが居てくれた。
それが今はどうだ。
捨てられて、ひとりぼっち。
各々の葛藤があろうと、少女を捨てたことに変わりなく結果的にニルフィはひとりだ。
ただただ虚しかった。
涙がポロポロと青白い頬を零れていくのを拭うことすらできず、歪んだ視界で呆然とアネットを見上げる。
「というわけで、なんでもしてくれるのならアタシたちのために死んでくれないかしら」
子供が駄々をこねるように、いやだとニルフィが首を振った。
「どうしてかしら? あなたは死を怖がるような性格じゃないと思ってたんだけど」
「……し、死んだら、みんなといれないから……。死にたくなんて、ないよ……!」
アネットが呆れの表情となった。
「けどあなたと一緒にいてくれるヒトなんて、ここには誰もいないはずよ?」
「…………ぁ」
非情な現実を突きつけられたことで逃げることもできなくなった。意味を成さない声を漏らしながら肩を震わせ、力なくうつむく。
そこで甘い声が少女の耳を打った。
「でもね、ニルフィ。ここで死んでくれるっていうのなら、本当の仲間っていうのになってあげてもいいわよ」
どれだけ矛盾していようが、心が死にかけている少女にとってはやはりどこまでも甘い毒である。
「仲間、に……?」
「ええ、そうよ。ホントのところ、あなたに悪感情を抱いてるヒトって少ないし、それにあなたのおかげで願いが叶うんですもの。これからずっと一緒に居てあげてもいいのよ」
「ずっと、一緒なの?」
「ええ、ずっと、ずっと」
もうなにも考えたくなかった。そこでアネットは言うのだ。これ以上辛くなるどころか、そうすればいまみたいな偽物の日常よりも幸せでいられると。
よろよろと動いたニルフィは首をのけぞらせ、救いを待つ。
目を閉じたからアネットがどんな顔をしているかは見えなかった。だが、もはやどうでもいい。このまま短絡的に楽になれば自分は苦しまずに済むのだ。身を預けることに躊躇いはなかった。
刃が喉元に添えられる。動かないようにとアネットの片手がニルフィの頭に当てられた。皮肉にも、その手つきは少女が甘えた時に撫でてくれるような柔らかさがあった。
そうして少女は今までのことを思い出していき、
「ーーーーーー」
気が付けば、アネットの手を振り払って距離を取っている。
「……どういう風の吹き回しかしら」
それにニルフィは弱々しく首を振りながら、いまにも泣き出しそうな顔を辛うじて笑みとして形作る。
「わ、私……、死ねないよ。死んだら、ダメなんだ」
「?」
脳裏に浮かんだのは、異形を隠し続けた皮肉屋な男のうしろ姿。
「約束、したから」
それは死の間際まで少女のために『かっこいい』人物であろうとしてくれた、そして仲間でいてくれた、大切なヒト。
「アーロニーロと、約束したんだ。生きろって、アーロニーロは言ってくれたんだ! 自分が消えちゃいそうだったのに、生きろって……私に!!」
折れかけた心が音を立てて戻ろうとする。
よろめきながら、たしかに砂を踏みしめてニルフィが立ち上がった。
約束は守らねばならない。それが本当の仲間であった者の遺志であるならば、なおさらのこと。
「ぜんぶ、偽物だったかもしれない。打算とか、享楽とか、みんなにとってはその程度の思い出だったかもしれない。だけど、それでも……! 私にとって、価値のある、本物の思い出だった!!」
まだ胸は裂けそうなほど苦しい。崩れ落ちそうなほど心が腐りかけている。
それでも少女は、弱さをさらけ出しながらも立ち上がった。
「……そう。まったく」
そのあとになにを続けようとしたのか。
次の言葉を飲み込んだアネットは肩をすくめ、次の瞬間、烈火を纏う。
「結局、アタシのやることは変わりないワケね。……アンタの意志ごと、灰にすればいいってだけだから」
なにが合図だったのかは当人以外には解らない。
まるで示し合わせたように同時に踏み込み、激突により砂漠の表面が抉れ上がった。