月から地球の距離は38万km。これに対し雷速機動はマッハ440=54万km/h。全速力で移動して42分といったところだ。随伴艦の船員を尋問する時間もあったのだから、テオドールが行方不明になってすぐに移動を開始すれば先回り出来ていても不思議ではない。なるほど月で幾ら探しても見つからないはずだ。
アイリスディーナ≪テオドール!? 貴様何をしている!?≫
テオドール機の反応が突如出現し、彼がターニャを襲撃したことを知ったアイリスディーナが声を荒げた。コールサインで呼ばないあたり動揺が見て取れる。
テオドール機と正面から対峙したターニャは、核攻撃を阻止する6つの攻性デコイを並列で操作しながら更にテオドールに語りかけた。
ターニャ≪これでも部下に
処分。作戦中に上官を襲撃して作戦遂行の邪魔をしているのだ。ましてや今は核を使ったテロから地球を防衛している所なのだ。死罪は免れまい。アイリスディーナは下唇を噛んだ。しかしアイリスディーナにとっては幸いなことに、テオドール機から発信された声は、テオドールのものではなかった。
若い女≪あーあ、不意討ちじゃやれなかったかあ。でも丁度いいかもね。
ターニャの目の前の迅雷テオドール機からは意外なことに女の声が聞こえてきた。
ターニャ≪……誰だ貴様、テオドールから機体を奪ったとでもいうのか?≫
若い女≪違うよぉ、
通信スクリーンにテオドールと共に現れたその女。テオドールを兄と呼び、その後ろのサブシートに座っている女が誰であるかを思い出すのに、ターニャは少しだけ時間が掛かった。
ターニャ≪うん? 貴様は確か……≫
ターニャは目を細めてしげしげとその顔を眺めた。整った顔立ちに水色の淀んだ瞳。白と水色のストライプのリボンでツーサイドアップにまとめられた金髪。比較的豊かな胸。まあ確かにテオドールにはこんな病んだ感じの妹がいた筈だ。その筈なのだが、
アイリスディーナ≪貴様、リィズ・ホーエンシュタイン!?≫
そもそもテロリスト風情の名前など思い出してやる必要が無いのではないかとターニャが諦め始めた所で、アイリスディーナの方が先にその名を呼んだ。やはりターニャ以外にもそうとしか見えないようだ。
リィズ・ホーエンシュタイン。テオドールの義理の妹だ。元々孤児だったテオドールをホーエンシュタイン家が引き取って兄妹になったから苗字が違うんだったか。
そのリィズは
若い女→リィズ≪せいかぁい!≫
リィズが淀んだ目を見開きながら再びナイフを構えて突進してきた。これにターニャがカウンターを試みるが、雷速で回避されて側面からの攻撃に切り替わる。ターニャは上体を傾けてこれを回避し、反撃の魔導刃をリィズがかわしたことでまた幾分距離が空いた。
48連装携帯レーザー防御システムは互いにOFFにしてある。ナノマシン誘電体多層膜で反射されるか、或いは魔導防殻に弾かれるかで、どちらにしろ迅雷に対しては有効ではないからだ。
ターニャ≪そのテオドールの妹が今更何の用だ。愛しいお兄ちゃんを確保出来て終わりじゃあないのか?≫
とはいえそのテオドールの様子もおかしい。リィズ同様に目が淀んでおり、先ほどから一言も喋らない。いや待て、先ほど
リィズ≪それが一番だけどぉ、こんなことで終わらせてあげなぁい! 幾らお兄ちゃんが魅力的だからって、私からお兄ちゃんを奪って、今の今まで私とお兄ちゃんの仲を引き裂き続けてきた年増の泥棒猫にはきっついお仕置きが必要だもの! だからあなたの目の前でお兄ちゃんを奪い返して、お兄ちゃんの目の前であなたの貧相な体をいっぱい辱めて、バラバラにしてあげるの! アハハハッ!≫
ターニャ≪……ハ?≫
あまりに予想外のことを言われて思考が停まりかけながら、ターニャは言われた言葉の理解に努めた。
リィズからテオドールを奪った? 言われてみれば東ドイツから666中隊を引き抜くときには、東ドイツに置いて行く形になったこの女に凄まじい形相で睨まれていた様な気がする。そんなもの今の今まですっかり忘れていたが、部隊を引き抜くのに
次に仲を引き裂き続けてきたとは何のことだ? いや、そう言えば666中隊を引き抜いたあと、特に東ドイツ壊滅後に妙な妨害工作、具体的には隊員の拉致未遂、ターニャ自身への暗殺未遂が増えたとは思っていたが。なるほどこいつの仕業だったか。逆恨みも甚だしいな!
そして今回の作戦でテロリストやオルタネイティヴ5支持者を動かすなり乗組員を洗脳するなりしてターニャをピンポイントで狙ったのもリィズなのだろう。そういえばテオドールの目の淀みぶりが洗脳された船員とよく似ている。テオドールを洗脳出来たならテオドールの機体を奪うのもさぞかし簡単だったろう。
そう言えば、
そして何より訳が分からないのが、お兄ちゃんの事が性的に大好きなヤンデレのリィズは、ターニャがテオドールに懸想しているから手放そうとしないと思い込んでいるらしいということだ。
ターニャ≪……はぁ!?≫
いや待て、Just a moment. ジャパニーズサラリーマンは慌てない。結論を急がずもう一度考え直そう。
ターニャがテオドールを異性として愛しているなどということは天地神明に誓ってあり得ない。ターニャは女としての人生が2度目だが、性自認が現代日本時代の男で固定されたままであるため未だに男を恋愛対象として見ることが出来ないのだから。ターニャの人生の目標である盤石な社会的地位に関しては男女関係なく実力でどうにか出来ても、性的価値観ばかりはどうにもならないのだ。だからこその59歳独身なのだが、そう言えば世の中には想い人を忘れられず独身を貫く者もいるとかいないとか。なるほど傍目に見る分にはそういう解釈もあるか。
ターニャ≪はぁあぁあ!!? 何というおぞましい発想をするのだ貴様は!?≫
ターニャの全身はあまりの怖気に鳥肌にまみれ、思わず出た蹴りがテオドール機にヒットした。が、全く効いた様子は無い。
なおターニャのこの反応は、一般的にはテオドールの目の前で辱めた挙げ句バラバラにするという猟奇的な部分に対しての反応であると捉えられ、リィズも概ねそう
リィズ≪愛しいお兄ちゃんの前で辱められるのが怖いのぉ? でもやめてあげないんだからぁ! 今ならあなたは人形の操作に手一杯だし、何より私の意志は
リィズが咆哮すると機体が輝き、20を超えるデコイがターニャを包囲しに掛かった。ターニャも開発したばかりの攻性デコイだ。
しかも何だこれは。魔力を辿ると迅雷のマナリアクターとは別に魔導演算宝珠のようなものが見える。管制ユニットの中……いや、これはリィズの体の中か? これは見覚えがある。あれはそう、確か、
神。不老。簡単には解けない謎の洗脳。体内の魔導演算宝珠。ターニャの中でピースががっちりはまった。
ターニャ≪そうか貴様、
リィズ≪神様よ! 私の願いを叶えてくれる素敵な白髭の神様! だって
ターニャ≪思った以上に悪魔じみた契約だな!?≫
なるほど、リィズは
確かに強力ではあるが、王のギアスのようなものかと想定していたのに実際聞いてみれば発動条件に悪意しか感じない。呪いか悪魔の契約か。いや