——あ、あの……私が何かしましたか……?
——いえ。別に何も。
——な、何もしてなかったのがダメってことですか……!?
——いえ。
そんな形で始まった、首席合格トレーナー(成人済み)とウマ娘(中等部1年)による、ウマ娘側の圧迫面談。
耳も尻尾も微動だにしないという、トレーナーであればあるほど段々怖くなってくる状態のウマ娘を相手に、彼女は良くやっていた。
正直、耳を後ろに絞っているよりも怖かった。
何を考えているのか分からないから。
出したお茶と御茶請けに一切手を出さないのも怖かった。
これが正しいのか分からないから。
年齢差十歳以上の年下に何をと思うかもしれないが、人間がウマ娘に敵わないのは常識である。
ついでに言えば社会的地位ですら負けている。
相手に勝てるのが年齢しかないと理解した存在は非常に弱いのだ。
更にはURAの悲願を背負っている、恐らく日本最大の良家生まれの令嬢(本家直系)を相手にして上手に出られる人間など、この国には数えるほどしかいないのだ。
ただ、話は流れるように進んだ。
シンボリエウロスが端的に話を進めていったから。
「単刀直入に言います」
「は、はい!」
「ですが……貴方に対して失礼である事も理解しています」
「え……は、はい!」
「怒ってくださっても構いません。拒否しても構いません」
「…………は、はい」
「私に、名義を貸してください」
「え……ぁ——えぇ?」
名義貸しとは、メイクデビューをする為の最終手段としてウマ娘が縋る手段だ。
強いウマ娘は、強いトレーナーが担当する。
普通のウマ娘は、普通のトレーナーが担当する。
では弱いウマ娘はどうなるか?
答え、担当すらされない。
何故ならトレーナーの数が圧倒的に足りないから。
そして担当トレーナーがいないと、ウマ娘はレースに出られない。
だから最後のチャンスとして、弱いウマ娘は名義だけをトレーナーから借りてレースに臨む。
自分は弱くないと見返す為。
レースに勝てる実力を証明して、正式に担当トレーナーを付かせる為。
そして、勝てない。
当たり前だ。
弱いからトレーナーが付かず、トレーナーが付かないからしっかりしたトレーニングが受けられず、故に更に弱くなる。
そもそも、強いウマ娘と弱いウマ娘どちらに力を入れるかと言われたら、強いウマ娘をトレーナーは育てる。
だから弱いウマ娘はあぶれるのだ。
それでも諦め切れないウマ娘が行う最終手段が『名義貸し』という半ば黙認された制度。
その『名義貸し』を、シンボリエウロスが行おうとしているのが、彼女は信じられなかった。
言葉を選ばなければ、名義貸しを行うのは実力の最下層帯のウマ娘である。
それを、実力の頂点にいると言っても誰も否定しないだろうウマ娘がやる、なんて正直信じられないくらいの異常。
ちょっとただ事じゃないな、という考え。
シンボリエウロスに何があったんだろう……という不安。
中央のトップレベル……しかも今までの何十年分の歴史の中でも尚トップクラスレベルのウマ娘が抱える問題を、テストでは良い点数を出せただけの新人が解決出来ると思えない。
「ごめん、私はあまり頭が良くないし、貴方の悩みも良く分からないから、色々教えて欲しいな」
「はい」
「後多分、途中で色々な事を質問すると思う。物分かりが悪かったらごめん」
「構いません」
ただそれでも目の前にいる子は今年入学したばかりの、年端も行かない少女なんだよなぁ……という思いが先行する。
厄介事に巻き込まれたなぁという思いより、これは何とかしなきゃならないなぁという思いが最初に浮かんだのは、駿川たづなに認められるほどの、彼女の美徳でしかなかった。
「ではまず、選抜レース以降私にトレーナーのスカウトが来ないという事は知っていますか」
「あ……うん」
あぁ……そういう……?
最初の衝撃が強すぎてド忘れしていたが、彼女は知っていた。
というか中央のトレーナーならほぼ全員が知ってる。
シンボリエウロスの逸話は有名だから。悪い意味で。
優秀なトレーナーは、優秀なウマ娘を求める。
そしてシンボリエウロスの場合は、あまりにも優秀過ぎてトレーナーが付かなかった。
十冠ウマ娘の妹。十冠を狙えてしまう素質。
高すぎる能力と高すぎる前評判に押し潰される事を中央のトレーナー達は恐れた。
奈瀬文乃。
中央トレセン最年少トレーナーの記録を更新したあの人も、何故かスカウトには動かなかった。
「もしかして、だから私みたいな新人を?」
「それも少しあります。ですが私にスカウトが来ないというのは重要ではありません。私がスカウトしに行くので」
自分は選ばれる側ではなく、選ぶ側。
凄い自信だと純粋に思った。でも不遜だとは思わなかった。
それが出来るだけの実力が、目の前にいるウマ娘にはあるから。
何よりそもそも、トレーナーがウマ娘を選ぶ側だという認識があることに、彼女は疑問を覚えている人間だったから。
「ただ私のトレーナーになりたいという意欲のある人が居なかったのは少し、残念でした。そういう方を私がスカウトしても、あまり良い関係にはなれないでしょう」
「うん、そうだね。理由があって貴方をスカウトしに行かなかった人もいると思うけど、居なかった事実は変わらない」
「はい。後は私がトレーナーに求めているモノを満たすトレーナーが見つかりませんでした」
「………なるほど」
何となく、シンボリエウロスというウマ娘の人となりが彼女には分かった。
姉、シンボリルドルフが、常に己が正しい規範となる事を意識している理想主義者。
妹、シンボリエウロスは、自他共に完璧である事を望み常に上昇志向を持つ完璧主義者。
似ている。勿論違いはあるが、通じるものがある。
冷たい印象が先行するが、それでもシンボリの冠を持つ者だと彼女は理解した。
そして、クラスメイトから距離を置かれ憚られる中、中央トレセンでシンボリエウロスの人となりの輪郭を捉えた一番最初の存在が今、彼女になった。
彼女が、一番最初に理解した。
「私がトレーナーに求めている事は……」
「あ、待って大丈夫。そこまでの説明を私にしなくても大丈夫だよ」
「……すみません」
「ううん。誠実で良いと思う」
事情は何となく分かる。
彼女は察する能力が高かった。
「えっと、じゃあ私から質問して良い?」
「はい」
「ありがとう。後返事は喋らずに、頷くか首を横に振るかだけで大丈夫だから」
「…………………」
「エウロスさん……?」
「………(コクッ)」
そして何より、ウマ娘側の事情を理解する早さに於いては、経験と蓄積された知識が先行する名門に比べて、彼女は圧倒的に群を抜いていた。
彼女は、シンボリエウロスが喘鳴症だという事を知らない。
ただ、あまり喋りたがらない気質の子だともう見抜いている。
見抜ける要素があったから、見抜いた。
仮にも彼女はトレーナー試験主席合格者だ。
というか、これが首席合格の理由である。
隣の芝は青い。彼女は名門生まれのトレーナーさんに、テストの点数が良かったから勝てただけと思っている。
だが名門生まれのトレーナーからしたら、彼女の能力は異常でしかなかっただろう。
トレーナーとして最も重要視される素質、数十年のベテランが持つ能力を、彼女は最初からもう持っている。持てる為の努力もしている。
「じゃあ一つ目の質問だけど、私から名義を借りるって事は本命のトレーナーが見つかるまでの滑り止めって事で良い?」
「………、……言葉を選ばなければその通りです」
「なるほどね」
今、頷く事で意思疎通しようとしたけど、流石に誠実じゃないと思ったからか口頭で伝えたんだな。
彼女の考えは完璧に的を射ていた。
そしてほぼ全て分かった。
今ので確認を終えたから。
そもそも最初に名義貸しをしてくださいって言った時点から自分を担当トレーナーとしてスカウトしに来たのではないと分かっていたし、求めているモノを満たすトレーナーがいないと言っている時点で、これが代替案である事も察していた。
つまりプランAではなくプランB。
彼女が自分のところに来たのは、恐らく入試の成績順に来ただけだろうとも。
だから、彼女自身が求めているトレーナー像は言わなくても良いよと言った。
後に別れる関係。要はライバルとなるかもしれないウマ娘の子からそこまで踏み入った事を聞くのはフェアじゃない。
彼女はそう捉えていた。
それがどれだけの事かを正確に理解していないまま。
「あ、もう一つだけ聞きたい事が出来た。名義を貸して欲しいのはデビューしたいから?」
「…………(コクッ)」
となると、今後トレーナーが見つかるか分からないから念の為、滑り止めに結んだというよりは、デビューしたいから誰でも良かったという事。
冷静に考えればそうか。
最初から怒っても良い。拒否しても良いと言っていた。
これはつまり手当たり次第だったという事でもある。
別に貴方である必要性はありませんと言外に言っていたという事でもある。
「ごめん、分かりきった事かもしれないけど聞くね。名義貸し、って事はトレーニングとかの面倒も全部要らないって事……かな?」
「…………(コクッ)」
「そっか。うん、分かった。ありがとう」
トレーナーが見つからない。
でもデビューしたい。
だから名義を借りる。
つまりシンボリエウロスの行動は、突き詰めれば結局、普通のウマ娘と変わらない。
唯一普通の名義貸しと全く異なるのは、自分とシンボリエウロスの契約がいずれ必ず終わるという事だ。
だから、トレーニングはしなくて良い。不誠実だから。
そういう理由でシンボリエウロスは動いている。
「あの」
「うん?」
「もしかして了承するんですか。こんな事を」
「え、うん。そのつもりだった」
と言っても既に誠実っぽいのが隠し切れてないから、何かしらの対価を用意しているんだろうなとは思っている。
ただトレーナー側は、その対価が無くても普通に受け入れるつもりだった。
なんか自分が断ったら、他のトレーナーに食い物にされそうだなぁ、とちょっと思ったから。
今までシンボリ家が秘匿し、シンボリ家という籠の中で育てられてきたシンボリエウロスは少し世間知らずなところがある。
中央のトレーナーは優秀だ。だが全てが聖人ではない。強い野心を持った人間がいる。その事を、多分ちゃんと理解してない。
野心があるのは別に良い。向上心と紙一重だ。
だが、ふと魔が差して……それでシンボリエウロスに名義貸しをして、そこから契約を迫るという人が居てもおかしくない。
シンボリエウロスは、適当に育てても数億の金を間違いなく獲得して来る、そんなウマ娘だから。
シンボリエウロスは恐れられている。
トレーナーが誰もスカウトしに来ないほど。
だがその大きな恐れが、もしかしたらその大きさのままひっくり返る可能性は0じゃない。
「私に名義だけを貸して、そしていずれ本命のトレーナーが現れたら契約を解消するという事がどういう事か理解していますか」
「してるよ、全部」
「……………」
別に冗談でもなく、本当に彼女は全てを理解していた。
周囲からの評判とか、別れた後の評価とか。
ハナから貴方を正式なトレーナーではなく滑り止めのトレーナーにしますと言っているのも、まぁちょっと堪えてはいる。
ただ、それをシンボリエウロスが理解しているからこそ誠実な態度で接しようとしているのは分かったし、それだけの実力がこのウマ娘にはあるから、彼女はそれを追求しなかった。
嫌われるのを承知でちょっとお説教が必要かなぁ、とは最初思っていたが、とんでもない。多分シンボリエウロスは理解している上でこれをやっている。
そして多分、これ以外に選択肢がない。
本当に、今の段階でデビューしなくてはならない理由がある。
高すぎる前評判。その前評判通りの実力があると証明する為に、トレーナー選びがどうしても譲れない。
名門の子って大変なんだなと思うくらいに、彼女は同情していた。
名門の責務は、ウマ娘を自由に羽ばたかせられないほど重いんだなと。
「それに、私にもちゃんと利点があるから。さっき貴方はトレーニングに付き合わなくても良いって言ったけど、ちゃんと付き合わせて欲しいな」
「良いのですか」
「うん。全然迷惑じゃない。私が貴方はどういうトレーニングするかを見たい……って感じかな。ほら、私新人トレーナーだから色々分からなくて。私が貴方のトレーニング内容を決めても足引っ張りそうだから、怪我をしないかだけ見守るような形で」
「…………」
「全然手間とかじゃないし、仮契約の人にそこまで負担をかけられないとかもない。むしろ私からお願いしたいくらい」
「……よろしくお願いします」
深々と頭を下げるエウロスに少しの居心地の悪さを感じながら、奇妙な契約が決まった。
担当トレーナーと担当ウマ娘というよりは、利害を一致させた取引相手同士の関係と言っても差し支えない、そんな間柄。
次の日から始まったトレーニングは、早速集まる視線の中からスタートした。
ストレッチ。筋トレ。柔軟。
そして心拍数を一定にまで引き上げる軽いジョギングを済ませた後、タイムを意識した走りをする。
シンボリエウロスの才能は……耳に挟んではいた。
あの選抜レースを見た訳ではないが、既に動画として保存されてネットに上げられている。
だから彼女も知っていた。
常識外の末脚。鉈の切れ味。
——あれは、ジュニア級のウマ娘が持っていて良い脚じゃない。
シンボリエウロスが走っているのを見た瞬間に分かった。
アレほどの才能があって、それを分からないようなトレーナーは中央に来られない。
スプリンターと見間違える……というか、刹那の切れ味という一点なら間違いなく一流のスプリンターすら置き去りにするほどの末脚。
瞬発力。速度に乗るまでの速さ。その速さを持続させる脚。全て揃っている。
彼女はシンボリルドルフと同等の才能を持っていると誰かが言った。
シンボリルドルフ本人は、自分を超えると言った。
そして多分、両方とも嘘じゃない。
自分の中に秘められている才能を、たった一点、最後の末脚だけに注いだと言っても過言ではないほどの速さ。
ゴールまでのタイム上では、まだクラシック・シニアのG1ウマ娘には劣る。
ただ上がり3Fという末脚という一点に於いては、クラシック・シニアのG1ウマ娘に並ぶどころか、置き去りにしていた。
単走。1200m。上がり3F、33.5秒。
速すぎる。
脚が壊れてしまうかもしれないと、思うほど。
上がり3Fは一流の差し・追込ウマ娘でも35〜37秒台だ。
34秒台に踏み入るには、それこそG1ウマ娘が良バ場や展開、コース場そのものに恵まれて、踏み入れられる領域でしかない。
そしてそれが33秒台となれば……G1ウマ娘の更に上澄みの上澄みがようやく出せる世界。
例えば、そう。あのミスターシービーのような、そういうレベルの存在。
何十年後、各レース場の芝が進化に近い改良をして、やっと出せるようになるかもしれない33秒台を今、当たり前のように平然と出すウマ娘。
単走だとしても、短距離だとしても、この記録はおかしい。
勿論、彼女だってトレーナーだ。
ウマ娘という存在がどれだけの速度を出すか、今不可能と言われている限界を破れるかもしれないと思わせるほどの天才を前にして、興奮しない訳がなかった。
日本で数回しか記録されていない、上がり3F 32秒台を記録するかもしれない。
いやシンボリエウロスなら、恐らく世界でもたった一度しか記録されていない、31秒台の領域に一番最初に踏み入れても不思議じゃない。
誰もが不可能だと思っている……1F、10.0秒の壁を破り9秒台の世界を、現実に引き摺り落とすかもしれない。
無敗三冠の世界を、現実に引き摺り落とした『皇帝』のように。
見るものを狂わせるほどの速度と、末脚の切れ味。
ウマ娘が抱いた原初の欲求、人間がウマ娘に抱いた原初の夢。
速度という何よりも分かりやすく他者を惹きつけるものが、彼女の走りにはあった。
それでも、彼女は真っ当なトレーナーだった。
ジュニア級のウマ娘が持っていて良い脚じゃない。
これは比喩でもなんでもない。
あまりにも高すぎる才能が、早熟に現れている事を指す言葉でもない。
こんな才能をジュニア級のウマ娘に持たせたら、脚が壊れる。
限界を超越した才能が、まだ出来上がっていない体を粉々に壊す。
ウマ娘の脚は、ガラス。
砕ければ、もう二度と戻らない。
幾らか戻っても、ヒビの入った脚は脆く壊れ易くなる。
速度とは代償だ。
脚にかかる衝撃と負荷だ。
速度の壁を貫き、そのまま脚が砕ける。……帰らぬ人になる。
その予感が、彼女の脳裏に浮かぶ。浮かばせるほどの速度。
「ごめん、脚だけ見せて欲しいな」
「…………(コクッ)」
名義を貸しただけのトレーナーだが、仮にも彼女は中央の試験に合格したトレーナーだ。
トレーナーの不安は、ウマ娘のパフォーマンス能力に影響を与える。
何より、今自分が抱いた欲求と不安、恐怖に近かった畏怖で彼女を縛ってはいけない。
怪我の可能性だけを案じる事を意識しながら、彼女は腫物を扱うような慎重さでシンボリエウロスの脚に触れた。
「…………」
信じ難いほど、エウロスの脚に消耗はなかった。
筋肉の疲労も感じ取れられないし、筋肉の痙攣もない。
それどころか、当の本人は脚の消耗より、消費した体力と上がった呼吸を戻す事の方に気を回している。
ゆっくりと、深く呼吸する。
心拍を効率よく回し、抑え、無駄を消す。
喉に負担をかけない。
そしてその無駄を消すという行為は、脚の消耗にも現れていた。
脚を触っているのだ。その柔軟性と関節の柔らかさ、バネのような筋肉に驚く。
柔らかい。その柔らかさが強烈なしなりとなり、抜群の末脚の切れ味を生んでいる。
その切れ味の末脚を支える為の根本的な筋肉があり、その筋肉を関節の柔らかさが支え、その関節を体全体の柔らかさが補填している。
そして均整の取れた肉体を効率良く動かす為、呼吸法をも意識して調整している。内も外も、彼女は完全に支配しようとしている。
無駄がない。極めて。
一種の芸術品のように完成させられた肉体だった。
しかも、そうなるように手が加えられた形跡があった。
これはつまり、自らの才能をこうするように成長させ、成長させる為の努力をしている事を指す。
意味が分からなかった。
こうなるように体を作り上げた努力の量と、才能の方向性すら制御しようとしている執念。
そしてそれを、実際に実現させている結果が。
「ありがとう。どうやら私、本当に怪我してるかしてないか見るくらいになりそう」
「いえ、それだけでもありがたいです。後、そんなに心配しなくても大丈夫です」
「………そっか」
それだけでもありがたい。心配しなくても大丈夫。
全部見抜かれてる。
見抜いた上で、規格外のウマ娘は再び気にしてないように走っていった。
シンボリエウロスの後ろ姿に、何となく悟る。
自分では、間違いなく足手纏いになるだけだなと。
不甲斐なく証明されてしまった。
自分が名義貸しだけをする程度の力しかない、トレーナーなのだと。
彼女の求める水準に達していないのだと。
分からなかったのだ。彼女が自分自身でやっているトレーニング以上に効果のあるトレーニングが。
レペティション走。
インターバル走。
テンポ走。
彼女はマラソントレーニングというのをほとんどしない。
より正確に言えば、長時間負荷を与え続ける運動をあまりしない。
レペティション走で一瞬の切れ味を伸ばし、インターバル走ではより呼吸の仕方と入れ方を重視し、テンポ走で負荷に耐えられる体を作っている。
量ではなく質。無闇矢鱈に体を動かさず、自分の体にかかる負荷を意識しながら走っている。
自分が彼女のトレーニングに口出ししたら、効率の悪いスパルタ教育になると悟った。
質より量を重視するようになると。
何より、自分が付き従うと彼女の才能を潰す。
あーぁ……と溢れた言葉が誰に聞こえる訳でもなく消えていった。
小さな挫折だった。少しばかりあった自信も無くなった。
身の程を弁えたとも言えるが、挫折は挫折。
悟った。彼女の先に立って道を舗装する事は出来ない。
管理によって、彼女の行く道を事前に決めておく事すらも出来ない。
だからこの契約が切れるまでは、せめて彼女が困った時、最低限度の保証くらいは出来る拠り所にはならないと。
奇しくもそれは、シンボリルドルフを担当したトレーナーが味わった最初の挫折と同じであり、良く似た志だった。
周囲の者からはシンボリエウロスが、姉と同じように若く才能のあるトレーナーを選び、見出したと噂される中、少しだけ溝のある関係は変わらないまま続いていく。
いずれは解消される、仮契約のまま。
一週間。二週間。
そして、一ヶ月。
メイクデビューの日が来た。
⚪︎上がり3Fは一流の差し・追込ウマ娘でも35〜37秒台だ。
1990年代半ばを過ぎる頃合いになると芝の高速化が進み、34〜36秒台に。
更に時代が進んだ近年では33秒〜35秒台。場合によって32秒もそれなりに頻繁する。