ウマ娘ジュニア級限定競争
メイクデビュー戦
札幌・ダート・1000m
6月14日。11:15。札幌レース場。第2R
晴・良バ場のダートの上で、ウマ娘達のメイクデビュー戦は行われた。
「(抑えろ………抑えろ——!)」
スタートしてから僅か10秒の出来事だった。
だがその10秒で、どんなウマ娘でも当たり前のように150mを駆け抜け、超一流のスプリンターであれば200m近い距離は駆け抜ける。
10秒では100mしか走り抜けられない人間とは、速さの段階があまりにも違うのだ。
そして違い過ぎるが故に、ウマ娘はレースに勝つ為に脚を抑える事を覚えなくてはならない。
スタートに成功し、ハナを取った7枠7番のウマ娘。
彼女は必死になって脚を抑えていた。
脚を抑えなくては勝てないから。
すぐ隣やや後方にアイツがいる。あのウマ娘が、いる。
8枠8番。またもや大外。
現役最強クラスの末脚。逃げウマ娘の天敵。先行ウマ娘の障害。
規格外の追込ウマ娘、シンボリエウロス。
『各ウマ娘、綺麗な出だしを決めて一斉にスタートをしましたが、シンボリエウロス! あの埒外のスタートは決めない!」
『やはりここは芝の上ではなくダートですからね。脚が滑るのかもしれません。前方のウマ娘は、スルスルと後方位置に陣取ったシンボリエウロスを意識せざるを得ませんよ』
『圧倒的先行型有利のこの札幌レース場1000mで、再びあの豪快な末脚を見せるか! これは展開が読めません!』
シンボリエウロスの事は知っていた。
あの選抜レースも見ていた。
圧倒的に逃げ・先行型が有利で、あまりにも内枠が有利だったあのレース。
鉈の切れ味。全て一撃で捩じ伏せた、後方からの捲り。
最後方大外。10バ身差の蹂躙劇。
あのウマ娘を意識してないウマ娘は同期に存在しない。
あのウマ娘の対策を進めてないウマ娘は現役に存在しない。
いるとしたら、デビュー戦も未勝利戦も突破出来ずに終わるような存在だけだ。
そもそもあの選抜レースを知った全てのウマ娘と人間が、彼女を意識し始めている。
つまり、シンボリエウロスを見ていないウマ娘は、ハナから勝利を諦めているような弱者。
そして7枠7番のウマ娘は、そんな弱者ではなかった。
何より、シンボリエウロスに負けたくなかった。
吐き気がするほど負けたくなかった。
後に神話になるだろう化け物の、最初の栄光に刻まれる気もなかった。
だが、それでも——
「(なんでオマエみたいな奴がここで出て来た………ッ!)」
デビューするのが早過ぎる。
まだ6月の中旬。要はほぼほぼ最短最速のデビュー。
こんな早期にデビュー出来るウマ娘なんて限られているのに、なんなんだよオマエ。ふざけんなよオマエ。
しかもここ、ダート戦だぞ。1000mとかいう超短距離だぞ。
クラシック三冠狙いが、なんでここにいる。
「(クソッ……! 抑えろ……抑えろっ———)」
焦る気持ちが空回れば死ぬ。
昂る気持ちが暴走すれば死ぬ。
ウマ娘のパフォーマンス能力というのは、非常に精神的なものに左右されやすい。
レース中という脳にわたる酸素が低下する状態や、今までの努力や結果が僅か数分で全て決まる極限の緊張状態に置かれるのもあるが、何よりヒトとウマ娘の違いがそこにあった。
ウマ娘は掛かりやすい。特にレース中。
普段は冷静なのに、平常時なら簡単に出来るのに、試験中は凄く頭が良いのに……そういう子が、レース中で変わるなんて事は良くある話だ。
平常時の賢さと、レース中の賢さは全くの別物。
ウマ娘のレースにはナニかがある。
抑えられないのだ。
ヒトとは違う何か。本能的とも揶揄されるウマ娘の衝動。
そしてそれを抑えられなかったら、ウマ娘は簡単に惨敗する。
時に気性難とも呼ばれる滾りを、勝負根性に変換出来なければ絶対に大成しない。
だから7枠7番のウマ娘は、その滾りと真正面から向き合う事を選んだ。
「(ハイペースになったら、負ける……っ!)」
先頭に立った。
圧倒的な有利だ。
このまま更に加速して、この有利を確実にしたい。早くゴールしたい。
いや、更に更に……もっと速く駆け抜けたい——。
だがダメなのだ。
更に加速して、後方との距離を取るのは、逆に不利になる。
7枠7番のウマ娘は実際に見ていた。
4月29日。今からたったの45日程度前の、1200m部門選抜レース最終戦。
どうせきっと、あの選抜レースは後に伝説とか言われる。
あらゆる不利を捩じ伏せた完璧なレース展開。歴代最速上がり3F。
しかもついでに、短距離では絶対的不利な追込で、歴代最速レコードを、アレは叩き出しやがった。
自分以外の全員をハイペースに引き摺り、全ウマ娘を先行崩れにさせたあのレースを見て、逃げ・先行型のウマ娘は身を引き締めただろう。
ハイペースに陥るという、その恐怖を。
レースには基本形の分類と展開がある。
1.前残り——逃げ・先行ウマ娘が上位入着を果たしたレース。
2.前崩れ——差し・追込ウマ娘が上位入着を果たしたレース。
3.その他——先行型、後方型がばらけ、バランス良く入着したレース。
1は、前に行ったウマ娘が、後方とのリードを守りゴールする。
2は、前に行ったウマ娘が、後半に失速し、後方ウマ娘が台頭する。
3は、脚質による差が無く、先行型と後方型がゴール直前で競い合う。
そしてそのレース中で最も重要視されるのが、ペースだ。
ハイペースなら前崩れが起こりやすい。つまり先行型が不利。後方型が有利。
スローペースなら前残りが起こりやすい。つまり先行型が有利。後方型が不利。
この前提はまず絶対に崩れない。
最初の前提にレース展開があり、その次にウマ娘の能力と才能がある。
レース展開によって、人気薄のウマ娘が1番人気のウマ娘を蹂躙するなど良くある話だ。
1番人気のウマ娘が1着に、2番人気のウマ娘が2着に、3番人気のウマ娘が3着に……そんな事は滅多に起こらない。一割も存在しない。
だからウマ娘の実力や才能よりも前に、まずレース展開の流れがある。
故に、この前提は覆らない。
この前提が覆る時にのみ、天才と呼ばれるウマ娘の能力、或いは余りにも隔絶した才能によるモノが介入して来る。
要は規格外。このレベルに居て良いウマ娘じゃないよ、と言われる正真正銘の怪物。
そういう天才が、例えばステップレースやオープン戦を叩かず、いきなり重賞レースに挑む。
更にはそれすら飛び越え、いきなりG1レースに殴り込む。
そして7枠7番のウマ娘は、そんな天才ではなかった。
異次元でも規格外でもなく、時代を作るようなウマ娘でもなかった。
「(ハナは取った……有利は取った……っ! あとはこのペースを維持するんだ!)」
逃げウマ娘は、ハイペースで進んではならない。
何故なら後半で垂れて失速するから。失速して、バ群に呑まれて負けるから。
それが常識。それが逃げウマ娘にとっての当たり前。
仮に出来ても、ハイペースで消耗する体力や根性、更には考えられる頭を後半のスパートに使った方が良い。
それでもハイペースで進むのなら、凄まじい根性がいる。
スタミナが切れ、完全に失速し死んだ後に息を吹き返せるか、もしくは死んだまま序盤にとった有利を維持してゴール出来るか。
それくらいの根性。
具体的には、G1の勝利をもぎ取れるほどの。
そして、G1の勝利をもぎ取れるほどの根性があるなら、普通ハイペースで逃げない。
だから逃げウマはハナを取った後、後方を抑える。
差し・追込ウマ娘の脚を余らせるスローペースに持ち込もうとする。
逃げは弱い。
正確には強くない。
何故なら逃げが勝つには、必要とされるものが多すぎるから。
消耗を強要されるものが多すぎるから。
のに、逃げの脚質を選ぶウマ娘は大抵……先行・差しが出来ないからだ。
先行・差しが出来ないから、逃げか追い込みを選ぶ。
そして更に、追込ウマ娘のような末脚の切れ味や最高速度に劣るウマ娘が、逃げに行く。
逃げは速いイメージがあるが、実際は真逆だ。
逃げは遅いウマ娘が選ぶ。速くなくても選べる。
故に、逃げは弱い。
逃げウマ娘は、先行・差しのようなレース展開の駆け引きが出来ず、追込ウマ娘のような末脚の切れ味がない、寒門のウマ娘が選ぶから。
そういう評価があった。
勿論、逃げで勝てるウマ娘は当たり前のようにいる。
逃げが自分の脚質に一番合っていて、勝ち方を確立させたG1ウマは何人もいる。
だがそういうウマ娘は例外だ。例外だからこそ強かったのだ。
そんなウマ娘を基本にしてはならない。
逃げウマ娘そのものの勝率、という残酷な数字だけは、例外でも覆せていない。
逃げウマ娘の勝率は高くなかった。
逃げが勝てるのは、短距離戦。
最後の直線が短く、差し・追込が活躍出来ないレース場。
距離が短く、カーブがキツイ事の多いダート。
G1の舞台に上がれば、距離が長くなれば、逃げウマ娘の勝率は露骨に低下する。
何より求められるモノが多すぎるのに、前提で序盤にハナを取れなければならず、枠内の番号による運が大きく介入して来る。
そんな、残酷な評価がある。
逃げという脚質そのものが弱く、逃げを選ぶのは弱いウマ娘が多い……なんて世間の目と風評がある。
そしてその評判を覆せる逃げウマ娘はいなかった。
少なくとも、今の時代までにはいなかった。
可能性は見出せても、覆したウマ娘は、まだ地上に存在しない。
序盤からハイペースで進み、そのまま垂れもせず、圧倒的に勝つ。
フロック勝ちでも、根性による差でもない、完成された逃げ。
そんな可能性を一切感じさせず、介入すらもさせない逃げ。
それはウマ娘レースの理想。そしてただの空想。机上の空論。
神話の時代よりも更に前、そんな理想論と机上の空論を間違いなく現実に引き摺り落としにかかり、生涯無敗のまま日本ダービーを制した二冠ウマ娘は、幻に消えた。
殺人ラップ、狂気のハイペースという言葉を作り出した破滅逃げのクラシック二冠ウマ娘は、屈腱炎という死の病を二度発症し引退した。
影すら踏ませない逃亡劇は、まだ存在しない。
それを戦法として確立させ、一世一代の逃亡劇を当たり前のように繰り出し、後半からの差し・追込ウマ娘すらも直線で引き離すような逃げウマがこう呼ばれる——『異次元』と。
つまり、同じ地平に存在しない。現実にはそんなウマ娘はまだいない。
逃げは弱いという常識と不利を覆し、神の領域から机上の空論ごと現実に舞い降りて来た逃げウマ娘以外に『異次元の逃亡者』の二つ名は与えられない。
そして7枠7番の子は『異次元の逃亡者』ではなかった。
例外の逃げウマ娘でもなかった。
ハイペースで進めば後半で崩れ、ハイペースで進まなくても勝ち筋は多くなく、弱い逃げの常識を覆せない、普通の逃げウマ娘。
つまり彼女は弱かった。
G1の頂は遠く、G2もG3も勝利するのが難しい、弱いウマ娘だった。
「(——でもここでは違う!)」
そう、違う。
ここでは違う。
逃げは弱い。確かに7枠7番の彼女もそう思っている。
逃げが勝てるのは短距離。
最後の直線が短く、差し・追込が活躍出来ないレース場。
距離が短いダート。
そしてここは——短距離で、最後の直線が約260mと短い、ダート戦だ。
札幌レース場。ダート1000m。
高低差がほとんど無く、圧倒的短距離且つ最後の直線の短さ故に、最終直線に入った時の着順がほぼそのまま最後の着順に反映される。
逃げウマ娘の約7割が3着以内に必ず絡むという、逃げウマ娘が超有利なレース場。
ハイペースになっても、そのままスピードが乗って決着する事が多い……多いが、ダメなのだ。
何故ならシンボリエウロスがいるから。
最初の直線約280m。その中、スタートしてまだ1Fと進んでない距離でもう後方に控えたあのウマ娘。
左、最後方。約10バ身離れた位置で控え、内に切り込まず大外で直線を突き進む、アイツがいる。
「スゥゥ———……………フゥゥ——…………」
普通は4バ身も離れると、ウマ娘の脚音はバ群の音に呑まれてまず識別出来なくなる。
その二倍以上の距離を離しても聞こえて来る、シンボリエウロスの脚音。
何より、奴の息遣いが聞こえて来る。
怖い。
逃げウマ娘にとって、ハナを奪われるというのは集中を阻害される事だが、後ろに控えられるというのは恐怖になるのだ。
それが、最も実力のある強者なら、ほぼ確実に。
響いて来る怪物の脚音。暗い闇から気配だけを覗かせている怪物がいるような錯覚がする。
『直線を駆け抜け、もうすぐ第3コーナーに入ります! 1番人気シンボリエウロスは変わらず最後方ですが、少し前に進出し先頭から8バ身差の位置にて控えます!』
『徹底して先行争いを避けていますね。他ウマ娘も、シンボリエウロスを意識しているのか激しい先行争いはせず、硬い展開のまま進んでいます』
違う。シンボリエウロスが先行争いを避けているんじゃない。
他のウマ娘が、シンボリエウロスそのものを避けている。
硬い展開? まさか、次の瞬間には破裂しそうな展開を誰もが恐怖しているだけだ。
もう展開は荒れている。これは嵐の前の静けさでしかなかった。
『7枠7番! ヨシノエレナスが先頭のまま第3コーナーに入ります! このまま彼女が先頭のままゴールするのか、シンボリエウロスはいつ動いて来る!』
最初の直線、約280mは簡単に終わった。
何の争いや駆け引きもなく終わった。
シンボリエウロスが仕掛けなかった。
シンボリエウロスを警戒していた全ウマ娘は、仕掛けられなかった。
その中、7枠7番のウマ娘は、ひたすらに自分自身とだけ向き合っていた。
自分の力と武器を最大限発揮する事で、彼女は怪物と勝負する事を選んでいる。
「(抑えろ……ハイペースになるな。あの選抜レースのようになるな)」
抑える。溜める。冷静さを保つ。
後半垂れて失速し、バ群に呑まれてそのまま沈むという逃げウマ娘の一番ありふれた敗北を避ける。
自分は弱いと分かっていた。
少なくとも、シンボリエウロスと比べたら間違いなく弱い。
でも関係ない。
そんな事を分かっていて簡単に勝利を諦めるようなウマ娘は、大した戦績も上げられないまま生涯を終える。
彼女は勝つ気だった。
既に、神話の住人であるウマ娘と同じ戦法を完成させ、十冠ウマ娘本人から自分を越えると言われたウマ娘の伝説に、呑まれる気などない。
何故かこんな早期に、追込が絶対的不利な超短距離に、しかもダート戦にアレは出て来た。
遊び半分に蹂躙される気などない。
メディアからの分かりやすい困惑と、専門家からのローテーションに対する批評そのまま、シンボリエウロスに敗北を叩き付けてやる。
獰猛な闘志。もはや殺意にすら振り切れそうな負けん気。
それこそ彼女の強さであり、その負けん気が名門生まれウマ娘に対する最大の武器だった。
『硬い! 硬い展開だ! 先頭集団はミドルペースを維持して進む! 誰が、いつ、どこで仕掛けて来る! このまま逃げ切らせるのかシンボリエウロス!』
第3コーナーを回っていく。
7枠7番の彼女は、後続とのセーフティーリードを護り続けた。
アレがいつ仕掛けて来るか分からない。怖い。
怖気を獰猛な闘志で抑え付ける。抑え付けなくてはならない。
だからそれで集中力が途切れかける。不安定になる。
逃げが弱いと言われる理由の一つ。逃げるより、追う方が有利なのは野生の世界でもウマ娘のレースでも変わらない。
だから、逃げウマ娘は良く後方を気にする。
振り返ってしまう。
だが、振り返らない。
振り返らない、振り返らない——
——あぁ、うん。
身体は振り返らないと決めていた。
でもそれは身体だけだ。心が後ろを気にする。意識が後方に集中する。
先頭だけを意識出来る逃げウマ娘は、例外中の例外だけ。
だから、聞こえて来た。
明確にだ。
何かに納得したような、アイツの声が。
——勝てる。
は——?
思わずそう口に出さなかった彼女は偉かっただろう。
意識しまくっていった相手が、レース中、ゴール前で勝ちを確信する。
何も歯牙にかけていない、いつものつまらない顔が想像出来るほどの声で。
7枠7番のウマ娘は、常に追われ続ける逃げという脚質で、最強クラスの末脚を警戒し続ける事を強いられ、必死になって自分を平静になるよう心掛けていた。
要は掛かりかける寸前で、自らの闘志を緊張感として正しく変換していたのである。
その均衡が、今崩れた。
誰が悪いかと言えば、7枠7番の子が悪い。
レース中、ささやきによって周囲のウマ娘を惑わせるのは、実は普通の常套手段である。
つまりシンボリエウロスが意図的にしろそうでないにしろ、掛かった彼女が悪い。
レース中に精神を乱した方が悪い。
だが、レース中という極限状態でそんな悠長な事を考えられるウマ娘は少なかった。
分かっていても止められない。
感情が空回りし、激情に変わる。
7枠7番のウマ娘は掛かった。
怒りと殺意すら滲んだ瞳で振り返った。
振り返ったのだ。
『——上がって来たっ!上がって来たっ!! シンボリエウロス、仕掛けて来たッッ!!』
そして、全て悟ってしまった。
『何という早仕掛けっ! 直線を待たない——』
自分の真下をすり抜けられた。
そんな錯覚と同時に襲ってくる、どうしようもない悟り。
『——第4コーナーすら待たないっ! 何だその末脚はっ!? 最終コーナー手前の第3コーナー中腹から、大外から、遠すぎる位置からシンボリエウロス、末脚で差し込んで来たっ!』
勝てる、とアレは言った。
そして負けた、と悟ってしまった。
だがその心とは別の心が、現実を受け入れるのを拒絶する。
は………?
怒りではなく、困惑。
理解出来ない。何でそこから末脚を決めて来る。
半分以上がコーナーだ。遠心力のかかるコーナーでは速度が出せない。出してもいけない。そこからゴールまで、スパートが届く訳が——
『——上がり3Fっ! 上がり3Fっ! 変わらず自分のペースを貫いたシンボリエウロス、また600mから決めて来たっ! 再び最後方から捲り上げて来たっ!』
あ……と口から溢れた代わりに頭に入るのは納得。
そして次に溢れたのは、納得に対する、理不尽。
「……何だよ、オマエ」
前を走っていく、その背中を見る。
もう勝てない。逃げが先頭を奪われた。
先頭を奪われて勝てるほどの才能はない。
有ったら逃げなんて選んでない。
差し返せる技量も能力も、7枠7番にはない。
それもまだ中盤での出来事だった。しかもアレは、もうスパートをかけている。
速い。速すぎる。狙う獲物はもう自分の前にいない癖して、猛禽類のような超前傾姿勢で、尚もアレは加速していく。
「……何なんだよ、オマエ——!?」
ふざけた速さだった。
それが、アレの末脚だとも理解していた。
規格外の末脚。最速の末脚。捲り。鉈の切れ味。
知っていた。見ていた。理解していた。
でもそれを……バ場もレース場も関係なしに決めて来るとは聞いてない。
ダートで、半分以上コーナーで、それでも尚末脚の切れ味が衰えないなんて聞いている訳がない。
『ヨレない!? 外にヨレない!? なんて技だ! その速度を出しながら内を完全にキープしているっ! 最小限で外から差し込んだまま、シンボリエウロス完全に独走した! これはもう完全な一人旅だっ!!』
完全に抜け出したシンボリエウロスを追って、今までミドルペースを貫いていた全ウマ娘が加速していく。
必死になって追い縋る。
7枠7番のウマ娘も追い縋った。
だが熱くなる肉体の片隅で、心が死んでいた。
ダメだ。届かない。出来ない。速度が違う。
仮に自分がアレと同じ速度を出せる脚があっても、このカーブでそんな速さを出せない。
何故なら遠心力に振り回されるから。
ウマ娘が出せる最高速度を維持出来る3Fを駆け抜けられないから。
末脚が届かない。
当たり前だ。だから差し・追込ウマ娘は、最後の直線の長さに左右される。
コーナーから末脚を解放するというのは普通じゃない。
何故なら遠心力に左右されるから。
だから捲りは難しいのだ。
『シンボリエウロス完全に独走状態っ! 後方が追い縋るが届かない……10バ身以上開いた差を尚も広げるっ! 更に加速していくシンボリエウロスっ!』
そして当人は、その神技を当たり前のように平然と繰り出していた。
きっとアレ以外……あの末脚によって抜き去られ、シンボリエウロスの後ろ姿を眺めているこのレース場のウマ娘は、全員同じ顔をしているだろう。
恐怖だった。
仮にアレと同じ速度を出せる素質があっても、このカーブであの速度を出せない。
更にこのカーブであの速度を出せたとしても、その速度を3Fも維持出来ない。
更にたとえ、その速度を3Fも自分が維持したら、脚が保たない。
それを理解してしまった。
余りにも隔絶した差があった。
そしてその差があるのを理解しても、何故その差を生み出せるのかが理解出来なかった。
才能と言われたらそれまで。
だがその才能を、こうやって形にした努力と執念が分からない。
ジュニア級のウマ娘が持っていて良い訳がない、神域の末脚。閃光の切れ味。
閃光の正体を彼女達が理解するには、あまりにも刹那で時間が足りなかった。
『——シンボリエウロス独走したままゴールっ!』
つまり、レースが終わった。
予定調和の勝ち。ただの蹂躙。
クラシック級G1ウマ娘が、重賞レースで勝てないジュニア級ウマ娘を相手に大人気なく本気を出した、そういうレベルの大差勝ち。
彼女達が同期であるという事を知らなければ、そう認識するほどの虐殺。
「—————」
7枠7番のウマ娘は、ゴールした後しばらく悔しさが湧き出て来なかった。
ただ茫然と、現実を理解出来ないような表情のまま、ぼんやりと掲示板に刻まれた着順と秒数を見る。
| 着順 | 枠番 | 馬番 | 名前 | タイム | 上り | 着差 |
| 1 | 8 | 8 | シンボリエウロス | 58.3 | 34.4 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | 7 | 7 | ヨシノエレナス | 1:01.4 | 37.6 | 大差 |
| 3 | 2 | 2 | グランドイエロー | 1:01.7 | 37.8 | 2バ身 |
| 4 | 3 | 3 | トシノオー | 1:02.0 | 37.8 | 2バ身 |
| 5 | 6 | 6 | カンタロー | 1:02.0 | 37.9 | アタマ |
目を疑いたくなるような記録だった。
一人だけ明らかに次元が違う。
1着シンボリエウロス。
レコード勝ち。最速3F勝ち。大差勝ち。約——19バ身差。
アレが2着に付けた距離は、2着から最下位までの距離よりも長かった。
短距離だ。しかも1000mのダートだ。
それで1000m1分の壁を越え、59秒の壁すら貫いたぶっちぎりのレースレコード………そして約20年振りに更新された、日本レコード。
つまりダート1000mを走って来た日本の全ウマ娘の中で、アイツが1番速い。ダート1000mのレコードが遅れている事を加味しても狂っている。
アレは、追込でこのタイムを叩き出した。
追込である事を何よりも象徴する上がり3F。このレースに於いては、2着にして2番目に速い上がり3Fに対して3秒以上の差。平均よりも4秒弱速い。
速すぎる。規格外にもほどがある。
『……いやぁー………ちょっと凄い記録ですね。
実は私、あの選抜レースをネット中継で見ていたんですが、アレのようなレースをシンボリエウロスはまたやって来ましたよ』
『19バ身差とは……ちょっとあまり見ない記録ですね。ここまでの記録で、しかもメイクデビューとなると、私は彼女、ティアラ三冠ウマ娘のメジロラモーヌを思い出してしまいます』
メイクデビューで19バ身差。
並ぶのは初代ティアラ三冠を成し遂げた伝説のウマ娘、メジロラモーヌ。
彼女が出した約20バ身差。
それくらいしか比較対象が上がって来ない、本物が、アレ。
『私も同じ事を思いました。メイクデビュー戦で約20バ身の差を出したメジロラモーヌを思い出す人も多かったのではないでしょうか。
しかしシンボリエウロスは、1400mではなく1000mでこの差を出していますからね! あの末脚の切れ味は見るものを引き付ける……そんな衝撃の末脚でしたよ』
静まり返っていた。
選抜レースのように、また。
レコード勝ちなんていう、歓声が巻き起こる筈のレース場は奇妙な静けさを保ったまま、実況と解説の声だけが響いている。
「フゥゥ——…………」
瞳を閉じ、胸に両手を当て、少しだけ天を仰ぎながらゆっくりと吐息を吐く。
シンボリエウロスのその様は、何も知らない者が見ればこの身を捧げる巫女か何かに見えるだろう。
だがその正体は、正真正銘の怪物だ。
嫉妬すら追い付かない。憧れすら届かない。
そう呼ばれた、あの史上唯一のティアラ三冠ウマ娘のように。
見た目も雰囲気も、そうあの——メジロラモーヌに並ぶくらいの。
「……………」
そして整え終えた呼吸の次に、吐息を一つ。
それでアレは、普段のつまらない表情に戻った。
勝利に酔って拳を突き出す訳でもなく、笑う訳でもなく、観客のファンに手を振る訳でもなく、機械か人形か何かみたいにレース場を去っていった。
アイツは自分のペースを崩した事はない。
何かに左右された事すらない。
そう、日常生活はおろか、レース中でさえ。
「…………ぁ」
ミドルペース。
最も実力を発揮でき、故に一番実力差がモノを言う。
逃げウマ娘はハイペースで進んではならない。
だから7枠7番だった彼女は、ミドルペースに持ち込んだ。
そしてそのミドルペースで、アレが一番強い。
ただただ、負けた。
選抜レースと違って、内と外のバ場に差がない。
選抜レースと違って、コーナーに然程特徴がない。
だから、本当に——ただただ純粋な実力差で負けた。
シンボリエウロス。
逃げウマ娘の天敵。
有効射程距離、25バ身。
「………クソっ……」
ハナから全て間違えていた。
あの選抜レースでは、皆理解していたんだ。
理解していて、ハイペースで進む事を選んだ。
選ぶしか勝ち目がなかった。選ばなくてはならないレース展開に、アレが引き摺り込んで来るから。
アレがレースにいるだけで、逃げ・先行が不利になる。
差し・追込の末脚勝負に持ち込んで来る。
そしてその末脚勝負で、純粋にアレが一番強い。
アレが、シンボリエウロスがハナからマークしていないのはただ一つ。
ハイペースで逃げて、逃げて逃げて………アレの射程から完全に抜け出すほどの逃げウマ娘。
常に先頭を走り続け、ハイペースで走り抜けながら、最後の直線ですら再加速してゴールするという、ウマ娘レースに於ける机上の空論。
——『異次元の逃亡者』
それ以外のウマ娘の勝ち目を、アレは丁寧に潰す。
「………クソっ……クソッッ——」
心の何処かで、選抜レースでハイペースに陥ったウマ娘達をバカにしていた。
アレとそんなに実力差がないと思っていたヤエノムテキが10バ身もの大差を叩き付けられた時、あんまり強くないんだなと落胆した。
だが……そのヤエノムテキは、3着に何バ身付けていたのか。
答えは、6バ身。
つまりアレは、3着に16バ身差を叩き付けた。
では今日のレースは?
答えは19バ身。
シンボリエウロスと、それ以外のレース。
2着も最下位も、見ていた人の記憶に残らないほどの差。
それに唯一抗えたのは、ヤエノムテキだけ。
7枠7番のウマ娘は、蹲ったまま泣いた。
ヤエノムテキにも、選抜レースの3着にもなれなかった悔しさに、彼女は泣いた。
ウマ娘の脚には、人間とは比べ物にならない力がある。
人間がハンマーを振り下ろしたり、機械を使って整える芝を、ウマ娘はただ走るだけで踏み荒らし、大地の形を変える。
芝に刻まれた蹄鉄の跡。沈み込んだ芝の形状。
それを見て、時に人は畏怖を感じた。
「明らかにこれだけ浮いてるな………」
そしてそれは、ダートでも同じ事だった。
ウマ娘達の脚力の違いや、レースにかける情熱の跡を身近に感じ取れるから、バ場を整える仕事はかなり人気が高い。
ダートは芝と違って車と機械でレース場を均していくが、それでも十分倍率の高い業務だった。
札幌レース場。第2Rを終えたダートの上。
コース整備員がレース場の土に、彼らはそれを見つけた。
途中まで大外に刻まれ、400m地点から一気に深さを増し、常に最内に刻まれた、とあるウマ娘の足跡を。
「……うわぁホントに怖いなー」
「…………」
寡黙。クール。無愛想。
その見た目通り……いや見た目通り怖いは怖いが、見た目からは全く想像が付かない方向性の怖さが、その足跡には刻まれていた。
一人だけ、明らかに足跡が違う。
大外を突き進んでいる時点ですら、沈み込んでいる深さが違った。
先頭を取った後、後方のウマ娘によって荒らされた最内の足跡ですら、明らかにシンボリエウロスのと分かるほどに深い。
「……俺さ、これと似たようなの見た事あるんだ」
「え、嘘……これと?」
「あぁ。ダート整備員の間でちょっと有名になって、俺みたいなとこまで出回って来たんだ。レース場に消えない足跡が刻まれた。ダートの下の路盤が見えていた。怪物の足跡だ、って」
各レース場によってダートの深さは微妙に違う。
だが大体、平均9cmがダートの深さである。
つまり路盤が見えたという事は、地面に9cm近く沈み込んだ足跡を残したという事である。
「そのウマ娘も、何だかシンボリエウロスと似たような走り方をするというか……いや、シンボリエウロスがあのウマ娘と似た走り方なのか?
兎に角……だからかなんだけど既視感があるんだ。何か、やばいウマ娘だなって」
「…………」
そのやばいは、語彙力の問題ではなく、根源的な意味だった。
つまり恐怖。異質。異常。そういう二つ名が似合うような存在に向けた、畏怖。
その情緒が伝わったのだろう。片割れの彼も、神妙になって黙り込んでしまった。
「……でも凄いな。そんな子がもう一人いるなんて。
シンボリのあの子は芝の方に転戦していくだろうけど、もしかしたらこの足跡が二つ分刻まれる可能性があるのか」
「いや多分、無理だと思うぞ」
「まぁ……芝ダート二刀流って子は滅多にいないからな」
「いや、そうじゃなくて……その子、中央所属じゃないんだ」
「……んぁ?」
一瞬の硬直。理解が遅れる。
それほどに、中央のレベルは高い。
中央所属と地方所属のウマ娘では、知名度に隔絶した差がある。
「ま、待てお前……お前が言っているウマ娘の足跡、何処で見た……!?」
「いや、えっと」
ウマ娘の中には、規格外がいる。
このレベルに居て良いウマ娘じゃないよ、と言われる正真正銘の怪物。
そういう天才が例えばステップレースやオープン戦を叩かず、いきなり重賞レースに挑む。
更にはそれすら飛び越え、いきなりG1レースに殴り込む。
或いは。
「地方の、笠松レース場なんだけど……」
地方から中央に来る。
⚪︎ダート1000mのレコードが遅れている事を加味しても狂っている。
当時のダート1000mのレコードは、1966/08/27の3歳未勝利戦にて記録された58.4。
つまり主人公は0.1秒のレコード更新をしている。またダート1000mの日本レコードは、当時の世界レコードと5秒近い差がある。
言葉を選ばないのならそこまでレベルの高いレコードではない。
余談だが、主人公が刻んだ日本レコードは、1989/06/25の白樺賞(OP)にて58.2秒に上塗りされる。
⚪︎逃げは弱い。
芝が改良され、高速決着が頻発するようになった現代では、そうとは言えない。
それでもG1や長距離になると逃げの勝率が下がるのは変わらず。
また各国によるレーススタイルの差も大きい。特に米国。
では追込は? という話題はもう少し先で段々語られていきます。
逃げに関する話題も今後もう少し触れられます。
⚪︎『異次元の逃亡者』
ウソでしょ………と言っているが周囲はおろか全ウマ娘と全トレーナーからウソでしょ………と言われているだろう走り方をするウマ娘ステークス圧倒的1番人気。
逃げて差すってどういう事なの。空中ジャンプみたいなもんやんけ……