え……何……?
それが他ならぬ私が抱いた最初の感情だった。
考えてみて欲しい。
例えば、部屋に入ったとする。
その部屋に友人四人がいるとする。
部屋に入った瞬間、その四人が先程までしていただろう動作のまま停止し、いきなり視線を向けられて、皆黙り込んでしまうとする。
もうこれだけで、気の弱い子だったら居心地の悪さで泣いてしまうだろう。
私は泣かないけど。
「「「「………………」」」」
じっ、と私に向けられた四つの視線。
特にサクラチヨノオーさんが、ビデオデッキを弄っている途中の姿勢で、尻尾がピーンとしたまま硬直してる辺りから、私が現れた事による変化が急を要する事態だったのだと察せられる。
察せられるんだが……
「……………?」
え……いや、本当に何?
今は私のウイニングライブの映像を見ているようだが、次に何か他人に見られたら都合の悪い映像でも流すつもりだった?
というか今、結構普通に寝る時間なんだよな。今23時だから。
今日は特別な日なのと寮内だからギリギリ許されてるけど、寮の門限は22時である。
……まさか本当に、火遊び的な悪い事をするつもりだった?
いやまさか、彼女達は普通に良い子だ。そんな事すると思えない。
というかそもそもウマ娘の皆、超良い子である。
ちょっと人間だったら信じられないくらい。
多少、不良ウマ娘というものもいるはいるけど、比率で言うと極端に少ないし、悪い子具合も可愛い。
そもそも、この世界の民度がかなり高い気がする。
何というか、優しいのだ。生まれた頃から自覚していたが、この世界は優しく、温かい。
夢がある。そんな言葉でも表せる。
ウマ娘という、もうはっきり言って人間とはまるっきり異なる異種族にも寛容だし、ウマ娘専用レーンが有ったり、完全にこの世界はウマ世界が中心に回っている。
制度も結構しっかりしてるし、不都合らしい不都合はない。
本当に、私は恵まれていると思う。都合が良すぎると思うくらい。
生まれも考え得る限り最高だったし、生まれた後の人生も今のところずっと幸運。こんな幸せすぎて良いの? って思うくらい順風満帆。
まずウマ娘自体がかなり優しいのだ。凄い温厚。
はっきり言って、私のような存在は学園内で針の筵になってもおかしくないし、何なら集団で排斥されそうな気がするのだが、全然そんな事ない。
皆結構話しかけてくれる。しかも私の雰囲気を察してくれてるのか、はい、いいえで答えられるように会話してくれる事が多い。
最高だった。学園内なのにシンボリ家で過ごしているくらいにストレスがない。
ウマ娘の皆最高。ウマ娘には良い子しかいない。ウマ娘は皆穏やか。
いや気性難があるだろ、と言われるかもしれない。
だが……え、これで気性難なの? ホントに? キミ本当に『〇〇〇〇』号のウマソウル積んでる? 凄い可愛い気あるじゃんって思う事は結構多い。
ちょっとした気性難エピソードがあったりするけど、昔はちょっとヤンチャしてました、なんてくらいばかり。
私の姉上……シンボリルドルフと『シンボリルドルフ』号は違う、別人だ。
そう幼少期から思ってはいたが、学園内での生活をする上で、それはより強くなったと思う。
〇〇〇〇さんと『〇〇〇〇』号は似ているけど、全く同じという訳じゃない。前提認識は全てじゃない。そういう把握が早期に出来たのは、やっぱり幸運だ。
ちなみに不良ウマ娘の話に戻るが、実は以前、一回だけ不良ウマ娘の集団に絡まれた事がある。
でもお金をゆすられたり、暴力を受けたりしなかった。
凄いよね。たった一人が集団に絡まれて何の怪我も損失もなしだ。
じゃあ何されたのかと言うと、まさかの「おい、ここは私らのナワバリなんだ」「何とかしたいなら私らと野良レースしな」としか言われなかった。
え……そんな事で良いの? 要求が可愛いね、って思わず笑っちゃった。
野良レースで遊んだら満足したのか普通に解放されて絡まれなくなったし、もうこれはウマ娘は皆良い子と言っても過言ではないだろう。
つまり何が言いたいのかと言うと、サクラチヨノオーさんは絶対悪い事をしない。
断言しても良い。
サクラチヨノオー、とても良い子。
まぁ年頃の女の子、つまり思春期でもあるのでちょっとオトナな映像を見る可能性がなくはないが、じゃあなんで友達四人も集まって共有の談話室で見るんだよとなるので、その線はない。
じゃあ何故こんな雰囲気になっているか。
自ずと答えは絞られる。
私が悪い。
或いは私に原因がある。
『〜〜〜〜〜〜♪』
私と彼女達の先程までの行動を繋げるのは、談話室のテレビの中でウイニングライブを踊っている、私の映像くらい。
でも、はっきり言ってそれだけだ。ネットで調べれば普通に出て来るだろう。
有名になったウマ娘であれば、特集でテレビ放送されたりもする。
強いて言うなら私は喘鳴症だから、逆にかなり力を入れてウイニングライブに望んでいる分、個人的にはこれ結構レベル高いんじゃない? って言う感じのライブをしているが、まぁうん。本当にそれだけだ。
——あ、こんばんはエウロスさん。今ちょうど貴方のウイニングライブの映像を見てました。
——歌唱にも力を入れてるんですね! 凄いです!
みたいなこう……別に凄いと思ってはいなくとも取り敢えず話を繋ぐ為に、何らかのアクションは起こしてもおかしくないと思う。
でもそれがないという事は、私が現れた事そのものが、彼女達にとってアクシデントだったという事だ。
私が原因だという事は察せられる。
だけど……私の何が悪かったかが分からない。
普段の態度がアレだから全部悪いんだよって言われたら反論出来ないんだけど。
くそ。私は察しが良い方だと思ってはいたが、実は察しが良くないのかもしれない。或いは皆の優しさに甘えすぎた罰か。
どうしよう。
どうすれば良いんだろう。
私は結構受動的タイプなので、自分から何かを起こすのはちょっと苦手だ。
何より自分から口を開く必要あるから。
「「「「………………」」」」
「……………」
あー……うん。これはダメだな。
多分この事を突っ込んだらちょっとギクシャクしそうな予感がある。
皆でなかった事にしよう。そうする為に私は私のしたい事をさせてもらう。
雰囲気が良くないなと感じた時は、多少強引なくらいが意外と解決策になる。
「それ、使っても?」
「え……」
一言じゃ伝わらなかった。
ビデオデッキを指差す。
「ビデオデッキ」
「は…………は——はいっ!」
私の言葉に、ガクガクと頷くサクラチヨノオーに既視感を覚えた。
私に絡んで来た不良ウマ娘が、こんな反応してた。
アレ。もしかして私、結構不当に怖がられてる? いやいやまさか、そんなに怖がられてるならもっと普段から私を避けるような気がするし……。
………まぁ、いっか………。
私はレースが関わらないなら、まぁ、いっかの精神で日々を過ごしている。
結構。かなり。私レースとウイニングライブでめっちゃ頭と集中力使うので、普段はあまり頭を回したくないのだ。つまりはまぁまぁな惰性で乗り切っている。
私に視線が集まる中、スタスタと歩いてテレビの下に向かう。
……この映像切って良いかな? 私が見たい映像はこれじゃないんだよな。
「これ、見てます?」
「い、いえ見ていません! 誰も見ていません!」
確認を取れば、ヤエノムテキがぎゅっと目を瞑った姿勢で、ビシッと断言していた。
じゃあ良いか。
特に戸惑う事もなく、テレビを一旦切って、ビデオデッキに持って来たVHSを突っ込む。
スマホ……じゃなくてウマホがあるのに古くない? となるかもしれないが、私から言うと逆に技術進歩早過ぎじゃない? である。
なんか最近まではウマホとかがなかったりSNSがそんなに発展してなかった気がするのに、なんかもう一気に時代が進んで、現代的なSNSとインターネット環境が出来上がった気がする。
噂には、サトノグループという新鋭の名門が関わってるとか何とか。
後更には、サトノグループはフルダイブ型VRの開発にも着手を開始してるとか何とか。
いや怖………。
名門ってすっごいなぁを通り越して、逆に怖い。サトノ家の進出規模と拡大の速さがおかしい。ちょっと時代を先取りしすぎじゃなかろうか。
競走界への本格的な進出はまだだが、新興の名門にしては社会への影響力が強すぎる。
総資産と影響力に限るなら、このままシンボリとメジロが何もしなければ、成長曲線的に間違いなく十年以内にサトノ家が抜くだろう。
企業というのはそれだけで強い。
シンボリ家とはあまり関わらないようにしてるが、少し本家側のゴタゴタと焦りが伝わって来た辺り、多分本当にやばい。
シンボリとメジロ、という名門の頂点二柱の勢力図が一気に変わる日が来たのだろうか。
シンボリとメジロは良くも悪くも古風だから、時代の流れに乗り遅れたら簡単に落ちぶれてもおかしくない。
というか、時代の流れは来ている。
この世代辺りから始まったというべきか。
長距離レースの縮小。世界的な中距離レース拡大。2400mへの変還。
天皇賞・秋もミスターシービーの時代に、3200mから2000mへと変わった。
天皇賞の盾に重きを置き、ステイヤーの優駿を輩出して来たメジロ家には厳しい時代が来ただろう。
この世界では、メジロは潰れない事を願ってる。
そんな夢を私が見ていたって良い筈だ。
ただそれはそれとして、今の私は新しい時代と古い時代の境目にいる。
夢と現実の境目でもあるかもしれない。だからちょっと古いビデオデッキも使うし、サトノグループが関わってるらしい、最新鋭のSNS機種も両方使うよ。
今日はVHSとラジカセだけど。
「何を、なさるのですか?」
ビデオデッキやら何やらをガチャガチャしてる私の背に、私と対になる名門生まれの彼女が話しかける。
メジロアルダン。初代ティアラ三冠ウマ娘、メジロラモーヌの妹。
彼女が語るには"芦毛"らしい。黒鹿毛じゃない。
それを証明するように、彼女は透き通るような蒼い髪色をしている。
何故だろう。そう思うよりも早く、メジロアルダンから受けた印象が、彼女が芦毛である事を補強する。
"ガラスのよう"に透き通った、透明感のある髪色だった。
〇〇〇〇さんと『〇〇〇〇』号は似ている。私は良くそう思う。
だが似ているという事は、本質的には別という事だ。何もかも全て同じではない。
生まれ変わりとは少し違う、継承という形で生を受けるウマ娘。
ウマ娘は、別世界の名前と魂を引き継ぐ。
だからここにいるメジロアルダンは『メジロアルダン』号のウマソウルを引き継いでいる。
では、そのウマソウルとは一体何なのか。きっと……『〇〇〇〇』号の名前と魂だけではないのだろう。『〇〇〇〇』号に向けられた想いを、夢を、関わった関係者の祈りを。
そういうものも、きっとウマソウルには引き継がれる。
時には、無念や、夢の残骸も。『メジロアルダン』号。怪我に悩まされた半生。ガラスの脚。伝説になれなかった天才。
……夢と共に、名前を受け継ぐのは重いな。
——でも、エウロス………私にはこういう意味もあると思うんだ。
姉上。あの日、私に言ってくれた事は正しかったよ。
ウマ娘は想いを受け継ぐ。夢を引き継ぐ。
でも、その夢で、もしも、ウマ娘が押し潰されてしまうのなら。
そんなウマ娘が私の前に現れたら。
私はきっと、その夢を奪うと思う。
『Eclipse first, the rest nowhere』
唯一抜きん出て並ぶ者なし。
あまりにも隔絶した差は、下位の能力を均等にする。
私がエクリプスを目指す理由は、きっとそこにある。
頂点が欲しい。
完全なる到達点が欲しい。
奪い取った夢の終着点に相応しい、ウマ娘という存在の果て。
届かなかった夢と無念の残骸を全て塗装出来るほどの、空の彼方にある栄光が。
「凱旋門賞」
そして、その頂点の指標になるレースがある。
URAの悲願。シンボリ家の悲願。私の目標。
世界で最も格が高いレースは何かと言われた時、恐らく一番多くの人から名前が挙げられるレース。
それはスピードシンボリから始まった、日本の絶望。
日本のレースとは求められる環境も力も何もかもが違う。
芝が、コースの形状が、レースの環境が。
あらゆるものがまるっきり違う。
それでも尚、勝利の意味とは釣り合わないほどの神格化をしても尚求めてしまう、夢の終着点。
「それが今日、彼方で行われます」
「…………」
「もうすぐ」
ビデオデッキで録画する準備は出来た。
ラジカセは、凱旋門賞が行われるパリから届く国際放送に繋げた。
テレビは、なんとリアルタイムで凱旋門賞の映像を流しながら、日本で解説と実況をしてくれる放送番組に繋げた。
この世界では、凱旋門賞に対する熱意と注目度合いが違う。
トゥインクル・シリーズが日本の文化の中心にあるのもそうだが、凱旋門賞というURAの悲願が現実味を帯びて来たからだ。
私のもう一人の姉と言っても良いウマ娘。
姉貴、シリウスシンボリ。『唯我独尊の開拓者』。
姉上が七冠から十冠になったように、姉貴は欧州G1を最初に獲得した日本のウマ娘になり、前年に凱旋門賞2着という記録を残した。
私は、夢を押し付けたくはない。
押し付けた夢で、ウマ娘が潰されるのを見たくない。
でも、私は夢が見たかった。夢の続きが見たかった。
メジロ家には潰れて欲しくないし、メジロアルダンの脚が砕けないで欲しいと思ってる。
私は我儘だ。
我儘なりに、もしもその時が来たらと考えていても、私は夢が見たい。
シリウスシンボリが、凱旋門賞を取る。
そんな光景を。
「見ますか?」
皆さんも。
告げなかった後半の言葉を、四人はきっと察したのだろう。
誰かが返事をするまでもなく、全員が頷いた。
『世界の屈指のスターウマ娘が揃う、パリ、ロンシャンレース場。
日本時間23:05分。凱旋門賞、ゲートイン完了です』
中央トレセン学園のとある一室。
その談話室で、厳かな雰囲気のまま、凱旋門賞の中継は始まった。
テレビでは、日本語でのライブ中継が。
ラジカセからは、本場のフランス語での解説が。
今、遠くの彼方で、日本の悲願である世界最高のレースが始まっている事を告げていた。
「……………」
静まり返った談話室の雰囲気は、ゲート前の緊張にも似ている。
ここにいる全員は、凱旋門賞というのをやんわりと知っているだけだ。
いや、シンボリエウロスだけはきっと理解しているのだろう。
だが他の四人は、凱旋門賞という言葉に込められている意味を、滲み出ている雰囲気からしか分からない。
メジロの冠を持つメジロアルダンもそうだった。
彼女の目は世界ではなく、天皇賞の盾に向いている。
メジロの目そのものが、世界ではなく日本に向いている。
ただ知識はある。シンボリのような理解の領域にはないが、メジロ家も凱旋門賞に出走した事があるのだ。
今まで凱旋門賞に出走した日本のウマ娘は、僅か二人。
スピードシンボリ。メジロムサシ。
当時間違いなく日本の代表だった二人。
シンボリとメジロが、日本に於いて対となる最大の名家である理由。
しかしスピードシンボリは着外に沈んで失格扱い。メジロムサシは18着という手痛い敗北を日本は味わっている。
メジロアルダンは、凱旋門賞を良く知らない。
ただメジロ家の歴史の一部として知っているだけだ。
それだけで日本のウマ娘としてはかなり知識がある方ではあるが、今世代最強のシンボリ、URAと自らの家両方の悲願達成を願われているシンボリエウロスと比べたら劣るだろう。
シンボリが特殊なだけだ。
そして海外遠征のノウハウが全くなく、海外遠征に行くウマ娘がまず存在しないこの時代に、いきなり欧州G1レースを制したシリウスシンボリがおかしいだけだ。
凱旋門賞が世界最高峰のレースという事は知っている。
でも、その重みと悲願の意味を、彼女達は良く知らない。
知識の差とかの話ではない。
今はまだ、そういう時代なのだ。
ただそれでも、一つだけ分かっている事がある。
それは、凱旋門賞に出走するウマ娘全員が、弱い訳がないという事。
『日本の悲願を叶えるか、前年度ダンシングブレーヴの2着に迫ったシリウスシンボリはここにいます。5枠9番。6番人気です』
「シリウスシンボリが、6番人気………」
呟いたのはメジロアルダンだった。
日本四強と言われたウマ娘がいる。
『怪物』マルゼンスキー。『天衣無縫』ミスターシービー。『皇帝』シンボリルドルフ。そして『開拓者』シリウスシンボリ。
今更、彼女達が刻んだ優駿の蹄跡を語る必要もない。
彼女達の名前を知らないトゥインクル・シリーズのファンは居ない。
故にその四人ともっとも縁の深い、シンボリエウロスの名前を知らない者もいない。
規格外に育てられた規格外。
そしてその規格外の内の一人だった筈のシリウスシンボリが、6番人気にいる。
衝撃と畏怖だった。
凱旋門賞というレースの深さは、魔物の巣窟と変わらない。
「シリウスさんは勝てるのでしょうか……?」
「厳しいと思います」
サクラチヨノオーの呟きに間髪入れずに断言したエウロス。
彼女の口からシリウスシンボリの事を聞いた事はない。
だが、もう一人の姉のような存在である事くらいは誰もが知ってる。
「ですが、姉貴は日本に戻らなかった。
勝ち目があるから、また凱旋門賞に挑戦している」
姉貴。
彼女にしては珍しい……というか初めて見た、親しみと気やすさが同居した呼び方。
それだけで、シンボリエウロスとシリウスシンボリの関係を推し量るには十分だった。
「前年、史上最強の世代が集まったとすら言われた凱旋門賞で、ラスト1F10秒8という、異次元の追込を大外から届かせ、更にレコードを更新したダンシングブレーヴに、姉貴は1と1/4バ身まで迫っている」
1Fとは200mである。
そしてラスト1F10.8秒とは、超驚異的である。
特にこの時代11.0秒の壁を破れるウマ娘は少ない。
数十年時代が進んでも尚、この数字は破格だ。
具体的には、その域を出すには自壊するのを覚悟しなくてはならないほど。
11.0秒よりも速く走る事自体は簡単だ。
ウマ娘は、人間と違って簡単に限界を超えられる。
そして限界を迎えた代償に、脚が砕ける。
仮に砕けなくても、1Fで走れなくなる。末脚の切れ味がその1Fで完全に死ぬ。
残りのゴールまでの距離を走り切るスタミナが、たった200mで全て消えるのだ。
ウマ娘は、人間と違って簡単に限界を越えられる。
これはつまり、人間と比べて遥か簡単に燃え尽きられるという事でもある。
ウマ娘という存在は、その気になりさえすれば、走るだけで寿命を縮められてしまう。
だから11.0秒の壁を通り抜けられても、破れるウマ娘は少ない。
通り抜けたまま、二度と戻って来れなくなるウマ娘は山ほどいた。
二度と戻って来れなくなるとは、故障である。
言い換えれば引退。二度とレースの舞台に戻れない。
瞬発力に優れた一流のスプリンターでも、この壁は厚く、そして険しい。
そして人間とは比べ物にならないほど遥か簡単に限界を越えられるウマ娘でも、10.0秒の壁を越えた者はまだ存在しない。
10.0の壁に触れた者すら、歴史上たった2名しか観測されていない。
人類という種族が、100m10.0秒の壁を越えるまで、多くの時間と金と生命を積み上げて来たように、まだいないのだ。
1F10.0秒という生命の限界を越えたウマ娘は、まだ、一人も。
人類と同じく、多くのものを積み上げても尚。
故に1F10秒台とは、そういう生命の限界という領域の境目にある。
その中、ダンシングブレーヴはラスト1F10.8秒を出した。
しかも大外から。さらに終始厳しいレース展開を最後の1Fまで強いられながら。
それでレコードすら超越して、彼女は勝った。
最後方3番手からの追込。最後の1F、約200mで全てを覆す。
異次元の末脚。欧州で最も有名な末脚。歴史上全てのウマ娘の中で、当時間違いなく歴代最強の末脚を持っていたウマ娘。
前年度、凱旋門賞レコード勝ち。勝ち時計2:27.7。
英三冠ウマ娘ニジンスキーの再来。
自己最速上がりラスト1F10.3秒。
欧州の重い芝で、10.0の世界に触れかかった者。
恐らく、世界で一番最初に上がり3F31秒台を出した怪物。
ウマ娘という生命が出せる速度の限界を一つ更新した伝説の勇者。
歴代最強の凱旋門賞優勝ウマ娘。
躍動する勇者。或いは——『踊る勇者』ダンシングブレーヴ。
そのダンシングブレーヴに、シリウスシンボリは1と1/4バ身に迫った。
レコード、つまり今までの凱旋門賞で1番速い記録を叩き出した伝説の勇者に。
つまり今までの凱旋門賞で1番目に速いのがダンシングブレーヴなら、2番目に速いのがシリウスシンボリなのだ。
「それなら——」
勝てるんじゃないか。
メジロアルダンはそう続けようとした。
レコードを出したから歴代で最も強いという訳ではない。
だが、レコードを出したウマ娘が弱いという事には絶対にならない。
何より記録された数字に刻まれた勝ち上がりのタイムも絶対に嘘を吐かない。
レコードとは、歴代の天才達が積み上げて来た歴史である。
ただ速いからと更新出来るものではない。レース展開、そしてバ場によって大きく変わる。
故に運にも時代によっても大きく左右される。
だからレコードを出したウマ娘が、今まで同じレースを走って来た歴代のウマ娘全員より強い事にはならない。
だが逆に言えば、生まれる時代の問題やレース展開の運、レースで勝つ為の実力が大前提に、ありとあらゆるものの総合力が過去歴代の優駿を上回った瞬間にしか、レコードは更新されない。
レコードを更新したウマ娘とは、そういうものなのだ。
そして今年の凱旋門賞に、運に恵まれなかった上でレコードを超越したダンシングブレーヴは来ない。
1番速い勇者は居らず、2番目に速い開拓者がいる。
「ですが、姉貴は6番人気です」
「………」
ピシャリと、シンボリエウロスが告げた。
彼女は身内が勝つのを応援してる。多分、誰よりも。
ただし、身内への贔屓目はない。
事実だけを告げる声色と、冷徹にすら見える瞳。
彼女がレースの直前で見せる顔だった。
当然、6番人気だから6着になるという訳ではないし、1番人気が必ず勝つ訳ではない。
番狂わせはいつだって起きる。
だが逆に、12人立てとなった今年の凱旋門賞で6番人気にいるシリウスシンボリは、番狂わせが起きないと勝てないだろうと思われている事でもあった。
前年度2着のシリウスシンボリが。
欧州G1を取った初の日本ウマ娘になり、欧州G1を三つも取り、史上最強の世代が集まったとされる、昨年の凱旋門賞2着を取った、あの『開拓者』が。
『今、レースが——』
「何故なら」
エウロスの言葉が、次を紡ごうとした時、画面の先で動きが現れる。
始まる。後数分後にはもう、今年の世界最強が決まる。
『——始まりました!』
「今年も、史上最強世代と言われているからです」
何度も勝利したことがある
何度も頂点に立った事がある
だが、毎年その日が来るのを切に待っている
それはウマ娘達のワールドカップ
本当の世界一は誰か
⚪︎後更には、サトノグループはフルダイブ型VRの開発にも着手を開始してるとか何とか。
アプリ育成シナリオ第5弾『グランドマスターズ -継ぐ者達へ-』より。
シングレ時空でもスマホなどが普及している理由を設定に落とし込むのにサトノ家がすっごい便利。
⚪︎彼女が語るには"芦毛"らしい。
悩んだ結果、メジロアルダンは芦毛という事に。
でも多分、今後この話題は出て来ない。
⚪︎ですが、姉貴は日本に戻らなかった。
本来ならシリウスシンボリは既に帰国し、10/11のG2毎日王冠の出走を控えている。
海外遠征をちょっとドン引きするレベルで成功させてるこの世界のシリウスシンボリはまだ帰国してない。
⚪︎異次元の末脚。欧州で最も有名な末脚。
欧州で『末脚』と言ったら? と聞いて恐らく今現在ですら一番最初に名前が上がるお方。
長らく欧州最強のレートを獲得し続けていた世界トップクラスの優駿。
この末脚の切れ味が1998世代、通称『黄金世代』のキングヘイローに受け継がれている。
キングのお母様の元ネタことグッバイヘイローが印象深いが、父は凱旋門覇者のダンシングブレーヴである。
血の恵まれた方がやばい。
尚ライバルの恵まれ方もやばかった。
⚪︎歴史上全てのウマ娘の中で、当時間違いなく歴代最強の末脚を持っていたウマ娘。
では『最強』ではなく『最速』は? という場合に名が上がるのが『5/13 教室』の後書きにあるシルキーサリヴァンである。
作中時間軸内で、10.0の壁に触れた者、歴史観測史上2人の内の1人。
尚、当時の時計の測り方が今と違うので絶対的な信憑性があるとは言えませんが、シルキーサリヴァンが40バ身を詰めたとされるレースでのラスト1Fの記録が10.0秒、もしかしたら10.0秒を切っていたかもしれないと言われています。
それが事実であったかどうかは正確ではありませんが、事実そう謳われるほどの速度を、しかもダートで出しているのは絶対的な事実です。
本作ではこの、10.0秒の壁というのが話に大きく関わっている為、作中ではシルキーサリヴァンは10.0秒を出したが超えてはいなかったという感じで進めていきます。