凱旋門賞がどのようなものか書いていたら2万字越えました。
レベルが違う。格が違う。異質。そういうのを表現しようとしたら、これくらいの文字になってしまった。
全然プリティーじゃない……!!
ガコン、と開いたゲート音すら映像から聞こえて来たような錯覚がする中、談話室の緊張を解きほぐす、或いは無視するようにシンボリエウロスは口を開いた。
「姉貴の主な勝ち鞍は日本ダービー。バーデン大賞典。ロイヤルオーク賞。ミラノ大賞典。そしてフォワ賞。G1を4勝。シリウスシンボリは今、四冠馬です」
四冠とは、普通に凄まじい偉業である。
十冠を成し遂げてしまったシンボリルドルフが、はっきり言って異常なだけで、G1を一つ勝つだけで偉業だ。
そもそも日本のトゥインクル・シリーズで二番目の勝ち鞍は、今現在シンザンの五冠、或いは六冠である。
「姉貴は凄まじい偉業を成し遂げました。十年近く時代を先取りしたほどの偉業。日本のウマ娘による、初欧州G1勝利を」
G1を一回でも勝てれば、ウマ娘とトレーナー共々経歴に箔が付く。
名門でもG1を勝てる家は非常に少ない。数年前まで、G1は年に8回しか行われてなかったようなものであり、今現在でもG1は15しかないからだ。
そして欧州G1、或いはそれに相当するレースを制した日本ウマ娘は誰一人いなかった。
シリウスシンボリが現れるまでは。
これは本来、少し遠い未来で『真珠の煌めき』と呼ばれたウマ娘が出るまでは日本ウマ娘の誰もが出来なかった偉業である。
四冠の内、三冠が欧州G1。
シンザンのいる神の領域一歩手前、世代最強を名乗れるレベル。
四冠ウマ娘。それがシリウスシンボリである。
「ですが、姉貴は現在21戦8勝です」
その成績は、当然普通に優秀だ。
数字だけを見ると負け込んでいる印象を受けるかもしれないが、そもそも3戦に1回以上勝ってるウマ娘はまずいない。
しかも勝っているのは欧州の、レベルが高い重賞レース。更にG1を3勝。
シリウスシンボリは圧倒的上位勢の更に上澄みである。
0.001%以下。欧州G1勝利者というのなら、日本でただ1人。
そう、普通に優秀だ。
だが、その普通でダメなのだ。
「それが、シリウスシンボリが6番人気の理由の一つです」
このレースは凱旋門賞。
各国……特に欧州のトゥインクル・シリーズの頂点だけが集まっているレース。
トゥインクル・シリーズには天才しかいない。
故にトゥインクル・シリーズでは、天才が天才でなくなる。
それでも尚、天才と呼ばれた頂点が凱旋門賞に来る。
「21戦8勝。これは日本で上げた勝ち鞍を取ると、今先程挙げたレースしか勝ってない事になります。つまりシリウスシンボリは、凱旋門賞の前走戦フォワ賞を除くと、G1レースしか勝ってない。また、前年度のフォワ賞からシリウスシンボリは一度も勝ち星を上げられていない」
それが、欧州でシリウスシンボリが期待されてない理由だった。二重の意味で。
実力的に期待されてない。人気的な期待もない。
現在欧州では、シリウスシンボリは日本から来たヒール扱いされてる。
つまり悪党。G3やG2レースは勝てないくせに、何故かG1を取っていった。凱旋門賞で、あのダンシングブレーヴの2着に執念で食い込んだ。そういうウマ娘。
そう執念だ。実力じゃない。
アレはフロックだと欧州では評価されてる。
何故ならシリウスシンボリの戦績が安定してないから。
G1を3回勝つという偉業を挙げながら、レベルの低いレースで負けてる。
それも2着や3着とかではなく、掲示板を外した大差負けを何回も。
掲示板を外すとは、5着未満である。
そして今5連敗中。昨年から勝ち星はひとつもない。
シリウスシンボリの戦績は、爆発力があるか、安定感がないと捉えるか。
安定感がないと考えているのが、欧州だった。
そしてシリウスシンボリは、既にシニア2年目の、10月後半。
ウマ娘にとっては、既に現役を引退していてもおかしくない年数を既に超過している。
全盛期はもう過ぎてる。爆発力すら消えた。
それでも尚12人中、6番人気にいる辺り、シリウスシンボリが成し遂げた偉業に対する警戒は欧州の面々に焼き付いているようだが。
「全盛期は疾うに過ぎた。後は衰えをどれだけ抑えられるか。
つまり自らの勝ち筋を周囲に押し付けるのではなく、自らの負け筋を抑える堅実な勝ち方が必要になって来ます」
基本的には、とエウロスは続けた。
その基本的に何よりも忠実で、故に何よりもおかしかったウマ娘がいるから。
それが他ならぬ——『皇帝』シンボリルドルフである。
菊花賞辺りから、彼女は差しから先行主体のレースを選び始めた。
一番実力を発揮しやすいのが差しなら、一番レース中に不利を受けないのが先行だと言われている。
故に差しが最も有効で、先行が最も確実。
——先頭から四番手先行位置に控え、最終コーナーか最終直線辺りで、前三人を抜き、勝つ。
シンボリルドルフはそれを徹底した。
三人を抜く。三人だけを抜く。その位置を徹底する。
その位置でもっとも有効的な立ち回りをする。
極めて最低限の消耗。現役時代後半はその勝ち方だけで全レースを勝利した。
強すぎてつまらない。
それには、戦法が同じ過ぎてつまらないという意味も含まれている。
冷静に考えれば、常に同じ戦法で勝てるというのが本当は何を意味しているのか分かるものだが、極めて純粋で、獅子の如き暴力的な才能がそれを隠していた。
今、常に同じ最後方からの捲りで勝っている、どこぞの妹みたいに。
「姉貴の負け筋は、大抵最後の末脚が届かない事です」
勝ち筋を押し付ける。
それが出来なくなって来たのなら、負け筋を抑える。
故に、今、レースで勝つ事を考えるなら負け筋から考えるべき。
そういう考え方で、シンボリエウロスは続けた。
「そして最後の末脚とは、自らの身体性能とレース展開をどれだけ有利に運べたかの掛け算です」
尚、そのレース展開に全く恵まれず、最後の最後の末脚で全てを後方から追い抜いて蹂躙したのが、前年度のダンシングブレーヴだ。
レース展開を左右する側か、最後にひっくり返す側か。
極論、この二つに分けられる。
ダンシングブレーヴは後者側のウマ娘だった。
「ではシリウスシンボリは、レース展開を左右する側のウマ娘か。
答えは否。更に姉貴は今、全盛期を終えた先の世界にいる。レース展開を左右する労力を支払えば、純粋に実力が発揮しにくい時代にいる。
厳しいレースを強いられるでしょう。特にハイペースになれば」
レースとは駆け引きだ。
だが、何事も主導権を握っていれば良いという訳ではない。
例えば、自分に有利な展開が出来れば10点のポイントが稼げるとする。
だがその有利な展開をする為に20点を消耗したら意味がない。
そういうのが駆け引き。それをレースにいるほぼ全てのウマ娘が、刹那刹那で行ってくる。
立ち位置を修正するのでも駆け引きだ。
これはどの脚質でも変わらない。
「ハイペースは………」
「後方型に有利」
メジロアルダンの呟きに一瞬で反応し、そして封殺するようにシンボリエウロスが言う。
察しが良い……というよりも、その反応と態度は彼女が好むレース展開に似ていた。
彼女が選抜レースでやった封殺のような。
「そしてシリウスシンボリは差しウマ娘。後方型という事に変わりはない。
正確には自在差しですが」
自在差し……?
多少呟く程度には余裕のあるメジロアルダンと、ひたすら真剣にテレビ画面を見ていたサクラチヨノオーとヤエノムテキ。そしてどちらかというとエウロスの言葉に耳を傾けていたディクタストライカは、皆全員が同じ事を思った。
思ったが、突っ込まなかった。
慣れである。
「ただその前提の前に、ハイペースは基本全てのウマ娘にとって不利であり、スローペースは全てのウマ娘にとって有利という前提がある。
アメリカでは多少違いますが、欧州と日本では特に」
欧州と日本では、最初に抑えて、最後の直線で勝負を仕掛けるレーススタイルが王道だ。
特に、最後の直線が各国に比べて長い欧州ではその傾向が強い。
カーブでは速度が出難い。直線では速度が出し易い。
故に速度が出し易い最後の直線での勝負で勝ち負けが変わる。
だから最初に飛ばすハイペースは全てのウマ娘に不利。
最初に抑えて最後の直線末脚勝負になるスローペースは全てのウマ娘に有利。
その不利有利の恩恵をどれだけ効率良く得られるかが脚質による差である。
正確に言うのなら、ハイペースは全てのウマ娘に苦しく、スローペースは全てのウマ娘に楽なのだ。
ペースによるレース展開の差。
脚質の差。
次に。
「そして凱旋門賞では、ハイペースがひたすらに厳しい」
コースの形状による差が来る。
「あそこには、日本であの設計をした者は頭がおかしいとすら言われた、中山競馬場の5.3m最大勾配2.24%を優に超える坂があります」
競馬場……あぁ、そうだった、レース場の事ね。
聞いていたメジロアルダン以外の全員が同じ事を思った。
思ったが、突っ込まなかった。
慣れである。
「ロンシャン競馬場。
日本ではあり得ないほど長い、約1000mの直線。次に約600mのコーナー。次に緩やかなカーブを描く偽りの直線が約300m。そして最終直線533m。
最初の400mから始まる、高低差10m以上最大勾配2.4%の坂を約600mをかけて上り、その次にコーナーを回りながら、再び600mをかけて下る。
ロンシャンでは、1200mも坂があるのです」
坂はゆっくり上り、ゆっくり下るのが基本的に常識だ。
その常識を、ついでにコース形状のタブーごと犯しながらなんか勝ったミスターシービーというウマ娘がいるが、あれは例外なだけだ。
何故その常識を破るのがタブーかといえば、普通にレースで負けるからである。
いわゆる悪手。しかも絶対にやってはならない最悪レベルの。
消耗がバカにならない。故に失速して負ける。
ミスターシービーはなんか勝ったが。
尚、凱旋門賞が行われるロンシャンレース場は、日本とは比べ物にならないほど過酷で坂が長い。山登りと揶揄される事がある程度には過酷だ。
さらに上りと下りが切り替わるように行われる。
つまりアップダウンが激しい。アップダウンが激しいという事は、単純な消耗以上にペースの乱れを生みやすい。
ペースの乱れは感覚を狂わせ、体力を奪いながら根本的な能力の発揮をも阻害する。
長い上り坂も難なく登れる力強さと持久力。
下り坂で、ペースを乱さない冷静さと我慢強さ。
ひたすらに険しくアップダウンを強要されるレース中盤をリズム良く駆け抜けられるかが鍵。
故に、凱旋門賞はハイペースが凄まじくキツい。
ハイペースは基本、暴走だ。リズムなど、ハナっからない。
「では、スローペースに持ち込んでくるだろうと?」
「はい」
「………」
「ですが」
返事を返した。
頷きではなく。
小さな驚愕をメジロアルダンが覚える最中、画面の中のあるウマ娘にエウロスは視線を向けた。
『来た、来た、来ました!』
「あそこには、当代最強の逃げウマ娘がいる」
『先頭に立つのは——やはりこのウマ娘、1番人気。リファレンスポイント!』
最初に先頭に立つのは、逃げウマ娘だ。
逃げウマ娘が、レースの速度を作る。
なんのかんの言われようが、レースの始まりは絶対に逃げである。
逃げがいなければ始まらないし、逃げがいるかいないかで、レースの展開はがらりと変わる。
そして逃げウマ娘が真の実力者であるなら、最初の主導権は必ず逃げが握り、故に最も逃げが注視され、意識され、警戒される。
「……………」
画面の逃げウマ娘に周りの三人が意識を向けた。
その最中、ディクタストライカだけは、画面ではなくシンボリエウロスを見ていた。
正確には、シンボリエウロスの手元。
片手に握られたウマホのメモ帳にびっしりと刻まれた、文字の羅列。
・
9戦7勝。内2着1回。3着1回。
主な勝ち鞍
G1 英ダービー
G1 セントレジャーS
G1 KGVI & QES
G1 ウィリアムヒルフューチュリティS
G2 ダンテS
G2 グレートヴォルティジュールS
特徴
G1、4勝
徹底した逃げ。二の脚。二枚腰。逃げて差す
イギリスクラシック二冠ウマ娘。
病気が無ければ、恐らく三冠を取っていた逸材。
英国ウマ娘獲得賞金額一位。(国内)
現在4連勝中。世代代表クラシックウマ娘。
今世代世界最強&歴代最強逃げウマ娘。
・
29戦10勝。内2着5回。3着7回。
主の勝ち鞍
G1 愛2000ギニー
G1 ガネー賞
G1 コロネーションC
G1 インターナショナルS
G1 チャンピオンS
G1 アイリッシュチャンピオンS
G1 マルセルブサック賞
G3 オマール賞
G3 レパーズタウン1000ギニートライアルS
特徴
メイクデビュー以外の勝ち星が全て重賞。
内G1、7勝。アイルランドクラシック一冠。
クラシック級、約2ヶ月で6レース出走。
シニア級一年目、約6ヶ月で11レース出走。
超過密スケジュールを何回も行いながら、未だに一切の怪我なし。『
今年度、G1エクリプスS 3着、G1KGVI&QES 3着。
前年度、G1エクリプスS 2着、G1インターナショナルS 2着、G1KGVI&QES 3着。G1フェニックスチャンピオンS 3着。
G1出走数、現在25。
現在、29戦中22レースが3着以内。
シニア2年目。今世代最強、歴代最強格の女王。
・
10戦4勝。内2着3回。
主な勝ち鞍。
G1 エクリプスS
G2 プリンスオブウェールズS
G3 ブリガディアジェラードS
特徴。
エクリプスSにて、
前年度ジャパンカップ。日本五冠ウマ娘シンザンの血を引いた『神の子』ミホシンザンを撃破した、
『踊る勇者』ダンシングブレーヴと同期。
超高速型ステイヤー。後方からの追込。
シニア1年目。
・
16戦9勝。内2着2回。3着3回。
主な勝ち鞍。
G1 ミラノ大賞
G1 イタリア共和国大統領賞
G3 エリントン賞
特徴
クラシック級までは好走こそすれど勝ち切れない厳しい状況が続いていたが、シニア級にて突如覚醒。
重賞の壁を貫き、G1の壁すら突破し4連勝。内G1を2勝。
イタリア最強ウマ娘の座を奪取し、未だ成長期の最中。
16レース中14レースが3着以内。
・
4戦3勝
主な勝ち鞍
G1 仏ダービー
特徴
フランス代表。
クラシック級の遅咲きながら、デビュー1ヶ月でフランスダービーを勝利。
同一チームの陣営に………
その後もまだ続いている文字の羅列は、一目見ただけでは全て読み切れない。
恐らく、全員分ある。国を跨いだ遠く彼方のウマ娘の情報が全部あそこにある。
まだジュニア級の、本格化を迎えて精々半年しか経ってない、日本のウマ娘が。
国を飛び出した事すらなく、家から出たのすら数ヶ月前な筈の世間知らずなお嬢様が。
もう、全て調べ上げてる。
「………あの1番人気の逃げウマ娘は、三冠を取れたかもしれないウマ娘なのか」
「詳しいですね」
お前がな、とディクタストライカは言わなかった。
言う気力がなかったとも言う。
文字の羅列を見て、一瞬鳥肌が立った。
日本のウマ娘ならまだしも、異国のウマ娘の情報が全て載っている。
しかも、自分が出走しないレースの相手をだ。
明らかに、レースにかけている熱意の質が違った。
畏怖だった。恐怖に近い。
外国というのはそれだけで別世界である。
そもそも調べるのにすら時間がかかるし、簡単に情報など手に入らない。
日本のトゥインクル・シリーズには詳しくても、外国のトゥインクル・シリーズは詳しくないなんてウマ娘は大量にいる。というかほとんど。トレーナーすらもそうだ。
そんな中、シンボリエウロスだけが違う。
見ている世界が、最初から違う。
国内のウマ娘を、軽視してるとも思えない。
国内の有力なウマ娘全員をマークしてる上で、アレは国外のウマ娘をマークしているだろう。
『全員が敵』。
皮肉な事に、メディアの見出し文句は嘘でも何でもなかった。
本当に、世代全員を敵に回す気でいる。回して勝つ気でいる。
勝つ為の全てを、もう揃えて来ている。
「(これは……ちょっとやばいかもな)」
実力で負けていた。
才能で負けていた。
そして今、上昇志向で負けた。
多分、ようやく今このウマ娘の本質に触れたかもしれない。
努力の量は負けてない。
そう言って必死にトレーニングするウマ娘に対して、「そうですね」と平然に返しながら、質で凌駕して来るような奴が、コイツ。
量でしか勝負出来ないなんて、どれだけ努力不足だったのかを自覚した頃には、もう取り返しの付かない差を生み出すような奴が、多分目の前にいる。
「エウロス。お前……」
一瞬の間。
次の言葉に何を言おうとしたのかを悩み、軌道修正する。
「……スローペースにはならないって言ったな」
「はい」
思えばそもそも、シンボリエウロスとまともに会話する以前に、このウマ娘の事をほとんど何も知らない。
何故クラシック三冠を目指すのか、姉の事をどう思っているのか。
四年前のあの事件まで、本当に外界を知らなかったのか、とか。
彼女の心情というのを、誰も知らない。知っている者がいない。
だから、奇妙な感覚だった。
意思疎通はまだしも、内面に触れかかっているのは初めてである。
しかもレースの事を、戦術レベルで話し合っている。
「1番人気の逃げウマ娘は、ハイペースで逃げるのか?」
「いえ」
「………んぁ?」
逃げが、レースの速度を作り出す。
それは常識だ。先頭を走るウマ娘のペースと自分のペースを擦り合わせるからだ。
故に合点がいかない。話が噛み合ってないと言うべきだろう。
もう少し詳しく話せ、と態度で促す。
一瞬、一目を返した後、再びエウロスは話し始めた。
「1番人気、逃げウマ娘。リファレンスポイント。
彼女の逃げは自分の強さにひたすら忠実に向き合い、それ故に極めて純粋な強さに優れた実力者です」
「つまり?」
「ミドルペース。ハイペースで逃げず、スローペースで抑え込まない。
先頭を奪い、自分が最も走りやすいペースを刻む」
逃げウマ娘の勝ち筋は、凡そ三つに分かれる。
1.最初にひたすら飛ばし、序盤に稼いだリードを守り続けるタイプ。
2.先頭を奪った後は、自らのペースを刻む事を徹底し、余力を持って後方勢を最終直線で迎え打つタイプ。
3.先頭を奪った瞬間から、後方を抑え続け、後方勢の末脚を余らせる事に注視するタイプ。
彼女、リファレンスポイントは2番目のタイプだった。
「逃げて差す——」
一瞬、その単語を呟いて、黙る。
僅かの間の後に、エウロスは続けた。
「……とはいかずとも、彼女は先頭を奪い自らのペースを刻んだ後、直線で再加速します。後方勢に並ばれ、競り合いに応じ、二の脚で勝利する」
先頭を奪い、序盤のリードを後半で潰されて負けるのが大体の逃げである。
だが先頭に立ち、後半で詰め寄られる最終直線で再び加速して勝利する戦法を、二枚腰と呼ぶ。
もしも——もしも最初からハイペースで飛ばし、序盤のリードをほとんど詰められる事なく後半まで進み、さらに直線で再加速する。
そういう、影すら踏ませない逃亡劇をしたウマ娘の戦術は、こう呼ばれる。
逃げて、差し切ったと。
それが、ウマ娘レースの理想論にして空想の産物。
未だ地上には存在せず、異次元にのみ存在が許されている机上の空論。
ハイペースに付いて来た者を潰し、一人だけタイムアタックを行い、レースに勝つ為の駆け引き全てをただの足の引っ張り合いにするような、正真正銘の怪物。
二枚腰という言葉が廃れるほど鮮烈な勝ち方をしたウマ娘にしか『異次元の逃亡者』の二つ名は似合わない。
「……じゃあ、順当に行けば1番人気のウマ娘が勝つのか」
ただ少なくとも、現時点で世界最強の逃げウマ娘は彼女だった。
逃げて、直線で再加速する。『異次元の逃亡者』にはなれなくとも、その域に片足……否、半身入り込んでいるのが1番人気のウマ娘。
リファレンスポイント。クラシック級ながら、現イギリス最強。
逃げの脚質で長距離すら逃げ切り勝ちをしたという面を見るなら『異次元の逃亡者』すら敵わないかもしれないほどの、誉れ高き王者。
逃げは孤独で良い。
特に、常に距離ロスのない最内の経済コースを回れ、他のウマ娘と競り合わなくて良い。
つまり無駄な消耗が何一つない。逃げが理論上最強と呼ばれる理由はそこにある。
「はい、勝ちます」
順当に行けば逃げウマ娘が勝つ。
極められた逃げは、全てのウマ娘を敵に回しても尚勝てるポテンシャルを持った脚質だ。
最初から最後まで先頭を走り続けるという、最強の証明は逃げにしか出来ない。
また日本で逃げウマ娘が不遇と言われている理由の一つに、日本のコース形状は逃げに不利な面が多いのがある。
対し、ロンシャンレース場は最初と最後の直線が長く、日本のように、直線すぐにコーナーがあるという事もない。
代わりに最後の直線も長く末脚も活かしやすいが、そもそも凱旋門賞では脚質による差は少なく、枠内による差はほとんどない。
求められるのは運でも適性でもなく、ひたすらに純粋な実力と技量。
そしてどれだけレース展開を有利に進められるか。
その中で、逃げは序盤中盤のレース展開を、ほぼ確実に有利に進められる脚質である。
凱旋門賞では、逃げが一番強い。
「単走なら」
「あ……?」
理論上は。
つまり単走。誰ともレースせず、一人で走ってられるなら。
そしてレースは、一人で走らない。
画面の中、凱旋門賞のレースを映しているカメラが引いていく。
そこに映し出されたもう一人のウマ娘。
『シャラニヤです! シャラニヤが、リファレンスポイントを猛然と追撃しています!』
「なに……?」
一人のウマ娘が、最強の筈の逃げウマ娘に競り合っている。
自分が潰れる事すら厭わず。いや………もはやリファレンスポイントと一緒に潰れる気などではないかと思うほどに熾烈な先行争い。
接近。接触。肩と肩で押し込むようなラフプレー。
日本だったら、審議のランプが点り、違反になるだろうほどのポジション争いが画面の中で繰り広げられている。
「……………」
動揺と、衝撃。
それは何もディクタストライカだけではなかった。
ヤエノムテキが、サクラチヨノオーが、メジロアルダンが。
テレビの先の、もはや殴り合いに近い熾烈な争いが、彼女達を震撼させる。
「長い歴史の中で、凱旋門賞を逃げで勝ったウマ娘は、たった数名しかいません」
そんな揺れる談話室の中、テレビから流れる実況の声と反比例する声色が反響した。
凱旋門賞を勝った逃げウマ娘は、たったの数人しかいない。
十年に一人すら生まれないレベルの勝率。
凱旋門賞では、逃げが、一番弱い。
「では何故、凱旋門賞で逃げが全く勝てないのか。
答え、凱旋門賞はハイペースがひたすらに厳しいから」
『リファレンスポイント、譲れない! 譲る事が出来ない!』
「では何故、ハイペースに陥りやすいのか。
答え、最初の直線が長い故に、枠内に関わらず誰しも仕掛けやすい、故に先行争いが簡単に熾烈になるから」
『何という熾烈な先行争い、リファレンスポイント! 分かっていても先頭を譲れないっ! 1000m通過時間は——な、なんと57.8秒っ!』
1000mの通過タイムが57.8秒。
これは本来あり得てはいけないレベルのハイペースである。
あり得ないではなく、あり得てはいけないだ。
芝ではなくダートであり、コースの形状が全く違うので比較対象としては相応しくないが、この前シンボリエウロスが記録したダート1000mの日本レコードが、58.3秒。
つまり今、ダート1000mの日本レコードよりも早い時計が凱旋門賞で刻まれている。
まだ、残り1400mもあるのに。
ウマ娘のレースは、基本的に平均速度が時速60kmである。
これを1F当たりに直すと、1F12.0秒。
ウマ娘という生物が未だ到達出来ていない限界速度の1F10.0秒が、時速72km。
ウマ娘の時速が60〜70kmと言われている理由である。
凄い大雑把に例えると、ウマ娘はレース時、最初は時速55〜60kmほどで走り、最終直線で時速60〜65km辺りの速度で走る。
故にウマ娘のレース時の平均時速は60kmで落ち着く。
短距離だとその最初が短く、長距離だと長くなる為、短距離の平均時速は約65km、長距離だと約55kmに近付くが、ウマ娘のそもそもの平均時速は60kmに落ち着く。
故に1F……つまり200mのラップタイムは12.0秒ごとに計算され、最初の1000m通過時間は大体60秒がミドルペースとされる。
その時のバ場や根本の距離によって差はあるが、基本は大体1F12.0秒がミドルペースだ。
そしてその60秒を基準に、1.0秒ごとにペースが変わる。
たった1.0秒と思われるかもしれないが、0.1秒で勝ち負けが決まるのがウマ娘のレース。
61秒ならスローペース。62秒は超スローペース。
逆に59秒ならハイペース。58秒は超ハイペース。
そしてその58秒すら超越した57.8秒は、異次元の領域だ。
日本では、殺人ラップ、或いは狂気のハイペースという言葉がある。
そしてその言葉を作り出した逃げウマ娘がいる。
カブラヤオー。13戦11勝。
戦法を確立する前のメイクデビュー戦と、ゲートでの事故により脳震盪を起こしながら走り切ったレース以外全て逃げ切り1着という、希代の破滅逃げウマ娘。
彼女は、逃げという戦法の常識を変えた。風評すら変えた。
逃げという脚質の、可能性の先の先。逃げが理論上最強である事を誰しもに刻み付けた。
クラシック二冠。屈腱炎を発症しなければ三冠すら取っていたかもしれない、幻の三冠ウマ娘。
それがカブラヤオー。『狂気の逃げウマ娘』カブラヤオー。
では何故、彼女は殺人ラップと狂気のハイペースという言葉を作り出したのか。
答えは簡単だ。
G1・芝2000m 皐月賞。
そこで破滅逃げをする己に競り合って来たウマ娘がレース中に故障、骨が砕けるほどの怪我をし、二度と走れなくなった。
つまり引退。ウマ娘としての死、そう言っても過言ではないほどの。
だから、殺人ラップと言われた。
——あのウマ娘は普通じゃない。化物です。
カブラヤオーの殺人ラップに挑み、そして引退したウマ娘は涙ながらにそう告げた。
その時のレースでカブラヤオーが刻んだ1000mのラップタイムが……58.9秒である。
当時の1000m日本レコード、58.2秒に0.7秒にまで迫った殺人ラップ。
更に彼女は次にG1・芝2400m 日本ダービーにて尚も速い、58.6秒のタイムを叩き出しながら勝った。
カブラヤオー。
史上初、日本ダービーをハイペースで逃げ切った、狂気の逃げウマ娘。
そして今、凱旋門賞で刻まれた1000mのラップタイムは、狂気の逃げウマ娘が刻んだ、どの殺人ラップよりも速い。
無論、時代による芝の差はあるだろう。コースの形状もある。
だが同時に凱旋門賞が行われている欧州の芝は、まだまだ高速芝化が進んでない今の時代の日本と比べても尚格段に重い洋芝。
このハイペースは、異常である事に何の変わりもない。
「逃げはハイペースで進んではならない。
だが、逃げは先頭を奪われてもいけない。
だから、加速する。分かっていても止められない」
「……………」
「逃げが弱いと言われる理由の一つです。
逃げは、レースに勝つ事を捨てたウマ娘が一人いるだけで、簡単に崩れる。
少なくとも、4つの脚質ではもっとも簡単に」
「勝つ事を捨ててる……?」
「はい。1番人気リファレンスポイントに競り合っているウマ娘。
12番人気、シャラニヤ。彼女は勝つ気がありません。リファレンスポイントを潰す為だけに競り合っている」
「そんな事……!」
反則だろ。ディクタストライカはそう続けようとした。
「反則ではありません」
「は……?」
「反則になるのは日本くらいです」
一瞬の間、画面の中でハイペースのまま、ハイペースで走ってはならないコーナーを駆け抜けていくレースを後目にしながら告げる。
荒れる展開。それに比例し熱が上がる実況の声と、狂瀾とでも言うべき異常な熱量の声。
恐ろしい。これが凱旋門賞なのか。
そんな反応とはどこまでも裏腹に、平静を瞳に刻んだ『暴風』は更に続けた。
「——では何故、仮に違反にならないとしてもハイペースな競り合いという自滅行為を仕掛けに行くか」
何故、凱旋門賞では逃げが勝てないのか。
凱旋門賞はコース形状的に、ハイペースが厳しい。それもある。
脚質と枠内による差が少なく、故に先行争いを極めて仕掛けやすい。それもある。
だが、それは副次的な理由でしかない。
そんな事、逃げが勝てない原因にはなり得ない。
そもそもハイペースな競り合いは、逃げにとってはただの自滅行為だ。
普通そんな事はしない。
だから、普通はしない事を行う本当の理由がある。
凱旋門賞では逃げが勝てない。
更に言えば、欧州でG1レースを逃げウマ娘が勝ったレースが歴代全て含めて数える程度で終わる、その最大の理由は、たった一つ。
「答え。海外には『ラビット』という役割があるから」
ラビット。
元々はドッグレースで先頭を走り、犬に追われる役割をする兎が語源である。
つまり、都合の良い囮。
「日本ではトレーナーは複数の担当ウマ娘を持ちチームを作る事が推奨されていますが、正確には日本のアレはチームではありません。一人のトレーナーが、個人を複数受け持っているだけです」
「どういうことだ」
「日本ではウマ娘が主体です。ただ国外ではトレーナー側が主体なんです。
これはどういう事か。
日本では同一トレーナーで同じチームに所属していても、ウマ娘個人は全く別のものとして数えられます。故に勝利はウマ娘個人の一人に贈られます。
対し国外では、同一トレーナーによる担当は全て同じチームの味方と考えられ、レースに勝利したチーム全体に、勝利が贈られます。
つまり極論を言うと、国外では談合して良いんですよ」
日本では、同じトレーナーが担当していようが仮に同じ名家の家族だろうが、全て個人として数えられる。
例えば、妹に勝って欲しいから。同じチームの子に勝って欲しいから。
そういう理由で同じレースに出て、他の有力なウマ娘を意図的に妨害すれば違反となり、無期限の出走停止を喰らう。つまり強制的な引退。
しかし、国外にはそれがない。
正確に言うなら、勝利は個人ではなく同じチームに与えられるから許されている。
故にチーム内の有力なウマ娘を勝たせる為だけの、意図的なレース運びをして良いのだ。
それがラビット。
自らが負ける事により、味方チームのウマ娘を勝たせる、囮。
自分の勝利を度外視して、味方を勝たせる為だけのレースをする、ペースメイカー。
だから、欧州では逃げが全く勝てない。
強力な逃げウマ娘がいれば、ラビットが潰しに来る。
故に逃げが1着を取れない。
強力な逃げウマ娘がいなければ、ラビットがただペースメーカーとして逃げて、後半失速して本命にバトンタッチする。
故に逃げが1着を、取らない。
ラビットの役割は複数だ。
チームの有力のウマ娘が後方型なら、ペースを上げる為に先頭を取る。
その逆もしかり。ペースを抑える為に先頭を取った後、後方を抑える側に回る。
或いは有力な逃げウマ娘が敵にいるなら、強引に競り合いに応じさせ、自ら諸共潰れさせる事すら出来る。
度が過ぎた妨害になれば流石に物議を醸すが、逆に言えば物議を醸す程度で滅多に違反にはならない。
グレーな面はある。
だがグレーを黒と判定する日本に対し、グレーを白と判定するのが国外。
そこは文化の違いだが、それ以上に前提のルールと規定が違う。
戦法、戦術の一つとして確立されてる。
要は日本はひたすらな個人戦で、国外ではチーム戦なのだ。
では何故、チームという名目ながら、その実ひたすらな個人戦である日本でチームという言葉が残っているかと言えば、昔、国外と国内の差を懸念したURAと中央トレセン学園によって設立されたとあるチーム対抗戦の名残りだ。
そのチーム対抗戦の名前は——アオハル杯。
チームによる団結と友情が、より多くの経験を与え、ウマ娘を強くする。
そういう名目で、ラビットの概念を少しずつ世論の反発を和らげながら日本にも取り入れようとした、URAと中央トレセンの心組み。
だがトゥインクル・シリーズとは別枠で行われていたが故に、故障と消耗のリスクが懸念され、既に廃れた。
アオハルに挑んでいた、とある優秀なトレーナーのウマ娘が故障したのがトドメとなって。
その名残りが日本のトゥインクル・シリーズに残るチームの概念であり、5人以上からチームの名前が与えられるという、古びた規則である。
「日本とは違い、国外にはラビットという役割をするウマ娘がいる。
故に欧米ではポジション争いが極めて熾烈になりやすく、また熾烈な先行争いで審議のランプが点る事もない。
アレが欧米の日常だからです。
度が過ぎれば流石に付きますが、逆に言えば度が過ぎなければアレは普通の手段でしかなく、またラフプレーですらない」
度が過ぎるほどの行為とは、転倒を誘発させるようなタックルやレース中の殴り合いレベルの攻撃だ。
肩か肩が接触し、押し込む程度、国外では普通である。
むしろ、意図的に体をぶつけて削って来るのが国外のウマ娘レースだ。
「アレが、国外のトゥインクル・シリーズの普通なんです。
欧米が特殊なのではない。日本が特殊なんです。
日本のトゥインクル・シリーズは行儀が良すぎる。だから弱い。
そう、揶揄される程度に」
そしてその言葉に全く反論出来ないのが、今の日本のトゥインクル・シリーズだった。
日本からの海外遠征は悉く失敗し、日本のスターウマ娘達は手痛い惨敗を喫して来た。
国外のウマ娘が集まる国際G1レースのジャパンカップでは、設立以来『皇帝』シンボリルドルフ以外に日本の勝ち星は一つもなし。
昨年は、あのシンザンの血を引いた『神の子』ミホシンザンすら惨敗して久しい。
日本のトゥインクル・シリーズを運営しているURAの威信は国外のウマ娘によって脅かされている。
だからこそ、凱旋門賞は日本の悲願なのだ。
勝って欲しい。お願いだから勝ってくれ。日本のトゥインクル・シリーズを証明してくれ。
それはもはや祈りに等しかった。
そしてその祈りは、欧州G1勝利を初めて挙げ、前年度凱旋門賞2着に食い込んだシリウスシンボリの偉業を以って、強く再燃した。
あの瞬間、日本の牙が世界に届いたのである。
スピードシンボリ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリと続いて来た、シンボリ家の血脈が、あの日、確かに。
『コーナーを越えても尚、先頭は譲らない! 譲る事が出来ない! 超ハイペースのまま、偽りの直線——フォルスストレートに入ります!』
「………………」
序盤、極めて熾烈な先行争いになるか、全員が仕掛けないか。
極端な展開になりやすく、折り合いを付ける事も肝心な最初の直線約1000m。
中盤、日本とは比べものにならないほど厳しく長い坂。
序盤の争いによって既に勝負が決まる可能性があり、尚且つアップダウンの激しい上り下りを強要されながら、遠心力のかかるコーナーを駆け抜けさせられる約600m。
そして終盤の最終直線と中盤を繋ぐのが、約300mの偽りの直線。フォルスストレート。
ウマ娘が限界出力の全力疾走を維持出来る時間は、約30〜40秒である。
これは人間も同じだ。最大出力での無酸素運動を維持出来る秒数の限界、生命としての限界が、その秒数。
そしてこの秒数を距離に直した場合がウマ娘にとっての3Fであり、故に上がり3Fが重要視されている。
つまり極論、最終直線は600mが丁度良い。
逆に言うとこれは、600mよりさらに後ろから仕掛けると最後で伸びを欠き、一気に失速し兼ねないという事である。
この限界と壁を超越出来る、神に選ばれた奇跡のようなウマ娘は歴史上に数名確認されてはいるが、だとしてもそこから先は故障と怪我が隣合わせな、死の綱渡りでしかない。
仮に根性でその壁を通り抜けたら、二度と現世に戻って来れなくなるような壁。生命の限界の壁。10.0秒の壁がまだ世界で破られていないように、生命としての限界地点がそこにある。
仕掛けるなら最後の3F……残り600mから仕掛けろ。
それより前からは仕掛けるな。
これは常識に近い、王道だった。
だが、凱旋門賞には偽りの直線と呼ばれる、魔の直線がある。
極めて緩やかなカーブを描く約300m。
そして次に本当の最終直線533mがある。
偽りの直線の真っ只中から仕掛ければ600m以上を走り切る事になる。
最後に失速して負ける。
だが仕掛けるのが遅ければ、末脚を余らせる事になる。
ではちゃんと600mから仕掛ければ良い。
だがその600mが、分からない。
偽りの直線と真の最終直線の境目が判別出来ない。
本当にここから末脚は届くのか。
もしかしたら早すぎるかもしれない。
いや、逆に遅すぎるかもしれない。
そもそも1800m走り切り、消耗した体力の残量を考えなければならない。
他のウマ娘の立ち位置を考え、勝ちの目を見出さなくてはならない。
だが、今こう考えている刹那刹那にはもう、機が離れている。
それが偽りの直線。フォルスストレートと呼ばれる魔の領域。
序盤、中盤、終盤。
凱旋門賞ではその全てが極めて難しい。
比喩でもなんでもなく、世界最高の難易度。
凱旋門賞ではパワーが求められると言われるが、それは正確ではない。
日本勢は基本的にパワーが低い為にそう言われるだけで、凱旋門賞に勝つにはありとあらゆる全てが必要とされる。無論、世界最強を名乗れるほど高次元に。
だから凱旋門賞は、世界最高峰であり、世界最強を決めるレースと呼ばれるのだ。
参加しているウマ娘のほぼ全てが、ヨーロッパ圏内の欧州勢だけという狭い地域でありながら。
求められているのは極めて純粋且つ超高次元な実力。
何か一つでも欠けていたら勝てない。レース中に欠けても勝てない。
故に、どれだけ冷静にレース運びを出来るかが鍵。
凱旋門賞ではハイペースが厳しいとされる、もう一つの理由だ。
ハイペースはスタミナを奪うが、何より脳に行き渡る酸素を奪い尽くす。
生命として、冷静な判断が出来ない状態に引き摺り込む。
『先頭は変わらず、未だ競り合いを続けている1番人気リファレンスポイントと12番人気シャラニヤ! シャラニヤをラビットとして送りだした、フランス代表のナトルーム陣営は中段を維持!』
画面の中でカメラが動き続ける。
その中心に、シリウスシンボリはいない。
実況に名前を挙げられる事すらない。
苦しい顔を浮かべながら走るシリウスシンボリが画面の端にいるだけ。
「姉貴……………」
後方3番手。それがシリウスシンボリの位置。
奇しくもそれは、昨年のダンシングブレーブと同じ位置だった。
前には中隊となって進むウマ娘達の壁があり、先頭二人は未だ競り合いを続けたまま、マッチレースかのように走っている。
日本からの唯一の参加者である『開拓者』は、凱旋門賞の主役ではなく、レース展開を左右する重要な参加者でもなかった。
『リファレンスポイントが、リファレンスポイントが———』
直線に入る。
残り約500m。
その瞬間だった。
『リファレンスポイントが失速っ! 1番人気リファレンスポイントの首が垂れていく! シャラニヤと共に急激に失速していきます!』
最初に飛ばして、後半失速して負ける。
首が垂れてヘロヘロになって、バ群の中に沈んで負ける。
典型的な逃げウマ娘の負け方。
もしも凱旋門賞が1600mだったら、彼女はぶっちぎりで勝っていただろう。
2000mだったら、根性で逃げ切っていたかもしれない。
だがダメだった。
1番人気リファレンスポイント。最も勝利を期待されていたウマ娘。
彼女は欧州では全く勝てない逃げでありながら、尚も1番人気に選ばれ、事実相応しい数の冠を逃げで上げた、世界稀に見る歴史的怪物。
病気さえなければ、英国のクラシック三冠を間違いなく取っていた存在だった。
そんな、英国から来た当代最強の、しかも英国ウマ娘の中ですら歴代最強格のウマ娘が今、凱旋門賞で惨敗する事が確定した。
勝利を期待されてなかった代わりに、味方の陣営のウマ娘を勝たせる為ラビットの役割を請け負った、たった一人のウマ娘の手によって。
——ざまぁみろ。やってやったぞ。
自分の走りが出来なくなったリファレンスポイントに対し、自らの仕事は完璧に果たしたシャラニヤの顔は対照的だった。
根無し草のような存在であろうとも、天に輝く一等星を地に落とした。
落とせる事を証明した。
それがラビット。日本にはない文化。
地を這うウマ娘が、時に天から授けられた才を持つウマ娘すらも捩じ伏せられる事の絶対的な証明。
逃げウマが垂れる。後方に沈んで来る。
反応は刹那で、瞬間的だった。
前が崩れるのを待っていた後方待機のウマ娘全員が、垂れウマを回避し、抜き去る為に外へ出る。その外へ出たウマ娘を抜く為に、更に大外へ。
元々、いつ先頭を走る逃げが失速するのか張り詰めていた状態だった。
隊列は中段を維持、やや横に広がっていた。
先行・差しウマ娘との間に距離はほんの僅かしかなかった。
それが更に、一気に横へ広がる。
物理的なウマ娘の壁。追込脚質の後方待機勢が正面に出るには、大外しかない。
だがその大外に出る距離ロスすら看破出来ない。
追込脚質のウマ娘は、既に敗北が決まったようなもの。
「来た」
その筈だった。
コーナーを越えた辺りから、遂にエウロスすら喋らなくなった。
静寂と緊張を伴っていた談話室。
その静寂は、ゆっくりと瞳を瞑り、ぽつりと一言呟いたエウロスが破る。
「(あ………?)」
そして、周りの他のウマ娘達の中で、唯一ディクタストライカだけが気付いた。
画面の向こう側だというのに感じた、ナニかの気配と波動。
或いは、幻覚。
一瞬、世界が暗闇を帯びて、次に開ける。
圧力を帯びて、縮小する。
そこに広がっていたのは別の世界。
開けた野原。広がる草花の中で音楽を奏でながら踊っている、一人のウマ娘。
別次元。別世界。或いは。
——領域。
『——すり抜けた……トランポリノ、バ群の壁をすり抜けましたっ!』
そして画面映像からの声で、彼女は息を吹き返したように意識を取り戻した。
幻を見ていた。自分自身にもそうとしか言えない、オカルト的な現象。
その残滓がまだ、体から抜け切らない。
「今のは……なんだ」
「8番人気、トランポリノ。G1未勝利故に期待されていなかった伏兵。
ラビット役シャラニヤ。その味方ナトルーンをマークし、後方に位置取り続けていたジョーカー。彼女が今、最後方からバ群のど真ん中を通り抜けました」
違う、そうじゃない。
瞳を開き、今何が行われたのかを語るエウロスにそう告げられたのならどれほど良かっただろうか。
「あんな事が、可能なんですか……?」
「可能にしたみたいですね。今」
『すり抜けたっ! すり抜けた! トランポリノ完全に抜け出しました!
何という……何という怒涛の追い上げ! 最後方から一気に先頭へと抜け出したトランポリノ、さらに加速して差を広げていくっ!』
メジロアルダンとシンボリエウロスの呟きも、熱を帯びる実況の声も、ディクタストライカには何処か現実味がなかった。
何かを見た。
だが、その何かが一体なんだったのか分からない。
だから、ディクタストライカは遅れて結果だけを理解した。
8番人気、トランポリノ。
後方3番手に位置するシリウスシンボリと、2番手に位置するトニビアンカのさらに後ろ。
最後尾に位置していた彼女が、隙間なんてない筈のバ群を抜けた。
内でも外でもない。
ほんの僅か一人分の隙間もないバ群中央の隙間を、正面から抜けた。
数十m離れた針の穴に、槍の穂先を当てるような神技だった。
実況から、すり抜けたと言われるほどの絶技でもあった。
リファレンスポイントとシャラニヤが沈んでいく。
隊列が横に広がる。
壁になる。
シャラニヤ陣営の、ナトルーンが上がっていく。
その真横、ほんの刹那だけ開いた僅かな隙間をすり抜けるように、バ群を真正面から通り抜け、先頭に立った。
それを、最後方からやった。
一番後ろにいたウマ娘が、怒涛の追込で全てを抜き去り、あらゆる不利を全て覆した。
それが、ゴールまで約400m付近で行われた最後の攻防。
言葉にしてみればそれほどの攻防が、僅か刹那の数秒で行われている。
500mから、400mまでの僅か5秒程度の刹那でやり取りされた、世界最高レベルの駆け引きと攻防劇。
『今、トランポリノが——』
そしてその結果が。
『勝った! 勝ちました! 1着トランポリノ! 1着トランポリノ!
勝ち時計は……何という…………——2:26.3! 2:26.3!
レコードです! 前年のあのダンシングブレーヴのタイムを貫き、何と1秒以上更新するレコード!』
歴代最速の勝ち上がり時計という、蹂躙劇だった。
1着に8番人気のウマ娘が食い込み、しかもレコード勝ち。
2着には、1着トラノポリノの後方を追撃した9番人気のトニビアンカが2バ身差。
次にようやく、2番人気の上位勢だったトリプティクが、更に3バ身離れた3着。
圧倒的1番人気だったリファレンスポイントは、あの状況から二の足を使って再加速したが9着に惨敗し、誰にも期待されていなかったような下位人気ウマ娘が上位2着という、凄まじいレース結果。
1着のトランポリノの上がり2F、約22.3秒。
凄まじい怒涛の追い上げ。
超ハイペースの失速ラップでそれだ。
これは前年度のダンシングブレーヴの末脚に匹敵するほどのタイムである。
では——日本勢の期待だったシリウスシンボリは?
「8着………」
「………………」
呟いたのは誰だっただろう。
誰でも変わらなかったに違いない事だけは確かだった。
12人中、8着。
先頭から約15バ身も離れた後方。
約2.4秒差。
2:28.8。
それがシリウスシンボリの時計。
確かに前年度、ダンシングブレーヴの2着に食い込んでいた。
シリウスシンボリは歴代で2番目に速い凱旋門賞の勝ち上がりタイムを持っていた。
だが今、6番目になった。
この凱旋門賞で1着のトランポリノが刻んだ、異次元のレコード。
一気に1秒以上を更新したというのは、まず見られない事である。
たった1秒と思うかもしれない。
だが繰り返すが、0.1秒で勝ち負けが決まるのがウマ娘のレースだ。
だからレコードも、そういう積み重ねで変わる。
故に今日、トランポリノはそういう積み重ねを一気に超越した記録を出したに等しい。
超ハイペースに引き摺られて加速した戦いとはいえ、彼女は失速ラップで規格外の末脚を出している。
そしてそのトランポリノに追従した上位3名もまた、旧来のレコードよりも早くゴールしていた。
つまり今、このレースの上位4名の記録が、今までの歴代の凱旋門賞勝ち上がり時計の1位から4位なのである。
5位があのダンシングブレーヴ。そして、6位にシリウスシンボリ。
前年度のダンシングブレーヴの勝ち上がり時計、2:27.7。
前年度のシリウスシンボリの時計、2:28.0。
今年度のシリウスシンボリの時計、2:28.8。
つまり0.8秒差。
シリウスシンボリは、過去の自分には約5バ身しか負けていない。
圧倒的厳しいレース展開を受けていながらだ。
何ならこのタイムは、歴代の凱旋門賞に入れても勝ちの目が見えるほどの記録である。
もうすぐシニア3年目という既に本格化を終え、全盛期を通り過ぎ、急激な走力の衰えを実感せざるを得ない時代にいながら、その執念と実力は信じ難いものがある。
日本の誰もが言うだろう。
シリウスシンボリは、凄いよと。凄い事をしたよ、と。
だが、負けた。それでも負けた。
今、目の前にある事実は変わらなかった。
今年の凱旋門賞が、前年のあのダンシングブレーヴのレコードすら歴代5位に沈むレベルの、史上稀に見る超ハイレベルな戦いだったからなんて言い訳をしようが、勝ち負けだけは変わらない。
過去の自分に5バ身しか負けていなかったとしても、目の前にある、勝ち上がりの時計だけは絶対に変わらない。嘘を付かない。
それが数字。レコードという、積み上げられ続ける歴史と記録の重さ。
12人中8着。
1着から、15バ身以上も離れた大差負け。
終始後方に位置し、最後の末脚が届かず、負けた。
レース展開を左右する事もなく、もはや居ても居なくても、レースの結果は全く変わらなかったと、そう言われて何も反論が出来ないほどの大差負け。
つまり完全なる敗北。
世界に届いた筈の日本の牙は今、傷を付けることなく抜け落ちたのだ。
「………………」
「あ………」
プツ、とテレビの電源を消し、ラジオも止めるエウロス。
膝を突いて表情が見えないシリウスシンボリの、その表情がカメラに映るよりも前に、テレビの電源は消えた。
静寂だった。
シンボリエウロスは、普段何を考えているか分からない。
だから話しかけづらい。
だが今は、なんて言葉を彼女にかければ良いか分からない。
そういう静寂。
「付き合わせてごめんなさい」
そして静寂を破るのは、またエウロスからだった。
「時間ですし、そろそろお休みの時間です」
「あ、えっと……はい」
「チヨノオーさん、お気遣いありがとうございます。
だけど私には私達のやるべき事があります、ので明日からも互いに頑張っていきましょうね」
「えっと……うん」
お休みなさい。お休み、なさい。
そう返して、シンボリエウロスは片付けを手短かに済ませて帰っていった。
シンボリエウロスは耳が動かない。
ウマ娘の第二の表情と言われている、耳がだ。
だから感情がないと思われている。
だが談話室を去っていくシンボリエウロスの耳は、下に傾いて垂れていて、悲しげだった。
「………アレが、凱旋門」
シンボリエウロスの後ろ姿を見送り、談話室に残された四人。
その中で今までずっと、一言も喋らなかったヤエノムテキが呟いた。
画面の中から伝わって来た日本とは別種の、異常ともいうような熱量。完全なる異文化。そして超ハイレベルな攻防。
だからヤエノムテキは、シンボリエウロスの語る言葉全てに全身全霊をかけて耳を傾けていたのだ。口を挟むのは無粋だと。
未だ、体に残る熱が取れない。
衝撃と畏怖。文化の違いの差。そして怖気と恐怖。
今見たレース映像は、今まで見てきたどのレースよりも格が違った。
参加しているウマ娘が見せた勝利への執念。瞳の裏に隠れた激情。それらを支えるトレーナーの熱意と、見ている観客達の熱狂すらも。
「アレが、エウロスさんの見ている領域ですか」
「(…………領域)」
ヤエノムテキは、そういう意味で言ったのではないのだろう。
だが、その言葉がディクタストライカにはどうしても引っ掛かる。
何故今、自分だけがその領域という言葉に引っ掛かりを覚えたのかすらも。
レース中、何かを見た。
世界が暗闇を帯びて縮小し、拡大し、別の何かが開く。
幻覚だった。恐らく。
でもアレが、ただの幻覚には思えない。
予感だった。確信と言ってもよい。
アレは間違いなく、ただの幻覚ではない。
何故かは分からない。だがナニか………自分の胸の中にある心、或いは魂が告げているのだ。
アレはウマ娘だけが持つ、固有の何かだと。
「(アレが、鍵なのか……?)」
それを、今はまだ、ディクタストライカだけが確信していた。
⚪︎ラビット
海外遠征する都合上、やっぱりこの話題には触れないといけないので、ラビット関連は若干オリジナルを入れつつ説明。
ウマ娘世界だとラビットがどういう感じで認識されてるのか考えるの難しいね……。
⚪︎そのチーム対抗戦の名前は——アオハル杯。
アプリ育成シナリオ第2弾『アオハル杯 ~輝け、チームの絆~』より。
⚪︎それが、ウマ娘レースの理想論にして空想の産物。
1973/6/19
ベルモントパーク ベルモントS ダート2400m
世界レコード。2:24.0。31バ身差。
⚪︎1000mの通過タイムが57.8秒。
⚪︎1着のトラノポリノの上がり2F、約22.3秒。
ちょっと調べてみたのですが、私の調べでは実際の数字の記載まで辿り付けず、動画に残っているレース映像を見返し手動でタイムを測ってみたらこうなりました。
多分、普通に1秒単位でずれていてもおかしくないです。
有識者のたづなさんがいたら教えてください……。