有効射程距離25バ身   作:sabu

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 ウマ娘プリティーダービー、遂に始まりました。


10/4 第三グラウンド

 

 焦りがあった。

 そして、自分への現状に対する嫌悪があった。

 

 ——何やってんだろうな。

 

 それを呟く事なく、心に反響させる。

 良くない事だ。口に出さずひたすら頭で負の感情を回転させるのは、まず以って良い方に働かない。

 誰か心を打ち明けられる人がいたら話は別。

 でもその相手がいない。

 その相手はトレーナーじゃない。

 

 悪い。

 私が悪い。

 私は今、悪い事をしている。

 頭の中で回転する。

 良くない事だと分かっていても止められない。

 

 だって今、走ってるから。

 

「……………っ」

 

 誰もいない、深夜のグラウンド。

 もうすぐ0時を回るだろうか。

 寮の門限以前に、月明かりしかなく単純に走るのが危ない時間帯の中、私は走っていた。

 

 ハイペースに入り込み、急速に息が上がって脚を止めていく。

 掛かってはいけない。焦ってはいけない。

 それら全ては暴走に繋がる。そして私は、暴走すると死ぬ。

 比喩ではない。レースの結果的な意味でもなく、単純に生命的な意味で。

 いや、本当にすぐ死にはしないが、どう考えても危ない。喘鳴症が悪化する。

 

 ——何、やってんだろうな。

 

 再び湧き上がる言葉。

 今まで私はルールや規則は一度も破らない優等生を演じて来た。

 体面や名家として求められている振る舞い以上に、ルールを守るのは普通に得だったから守って来た。

 怪我の予防や、規則正しい生活。

 それの積み重ねの重要性は知っている。

 

 なのに、今、破っている。

 

 ショックがあった。

 シリウスシンボリが負けた。姉貴が惨敗した。

 分かってはいた。『シリウスシンボリ』号は、凱旋門賞で惨敗していたから。

 しかも今年度ではなく前年度からだ。そもそも『シリウスシンボリ』号は今年度の凱旋門賞に出走してない。

 

 前年度、2着に食い込めただけで奇跡。今年度も出走出来ただけで偉業。

 私は既に、シリウスシンボリの夢を見る事が叶った。

 だから満足しろよ……なんて言われても、納得出来るような精神はしてない。

 

 ——お前の夢、先に私が取ってやるよ。

 

 そう言った。

 そう言われた。

 ちゃんと覚えている。

 その時の表情も。

 姉貴だった。

 血が繋がってないだけで、家族のようなものだった。

 だから、悔しい。悲しい。

 

 ウマ娘のパフォーマンス能力は、その時の精神状態によって大きく変動する。

 人間もそうじゃないの? ……なんてちょっと他人事のように考えていた自分が全く笑えない。

 多分今、私は姉貴が惨敗したショックで少しおかしくなっている。

 自分の走りが出来ない。そういう状態。

 そして今、思い出した。

 今の今まで忘れていた。

 

 私は少しでも調子が崩れると、一気に走れなくなる。

 

 掛かってはいけない。ペースを乱してはいけない。調子を崩してもいけない。

 何故なら私は、喘鳴症だから。

 三つの内、どれかが崩れると連鎖するように全てボロボロに壊れていく。

 

 何かがダメになるとその負担が体に現れ、走行フォームが崩れる。

 軸がブレる。そして消耗が激しくなり……さらに軸がブレ、消耗が増え、そして喉に来る。

 負の循環。その負の循環が、私の場合は必ず喉に来る。

 体力の消耗が増すという事は、取り込まなくてはならない酸素が増えるという事だから。

 

「………スゥ——………フゥゥ———」

 

 脚を止めて、息を落ち着かせる。

 自分の体に必要。何より深呼吸は心を落ち着かせる。

 多分、私は今酷い顔をしている。

 あれだ。四年前、私がちょっとナーバスになっていた頃くらいの表情。

 何もかもが上手く行かなくなった、スランプの時の顔。

 

「………後、一本」

 

 そう言って、既に三本走っていた。

 つまりただバカだ。言葉を選ばなければ愚か者。

 

 不調の原因は分かっている。

 だから寝れば良いと分かってる。

 

 意識を落とし、肉体を強制的に再起動させる。

 それで、幾分かはこの不調は治るだろう。間違いなく。

 それで。

 それで………。

 

 それで………次はどうすれば良い。

 

 焦りがあった。

 このままだと、私は凱旋門賞に勝てない。

 勝てる未来が見えない。

 いや、もっとさらに前、勝てる筈のレースで私は負ける。

 

 その癖、私は妥協し続けてる。

 選択を後回しにし続けてる。

 

 嫌悪があった。

 自分の現状への。

 

 私には、トレーナーが居ない。

 多分こんな事を言ったら学園の皆は意味が分からない顔をするだろうが、実は本当の事だ。

 

 トレーニングは全て自分がやってる。

 レース対策も全て自分がやってる。

 

 私が目をかけたあの人は凄い良い人だ。

 多分、このトレセン学園で本当にあり得ないくらい。

 更に私の事を考えて、私のトレーニング内容とかには口を出さず、ただ怪我を予防する為だけに私を見てる。

 

 これがどれだけあり得ない事か。

 酷く居心地が良い。気を張らず、求めている事を必ずしてくれる。自分の目線に立ってくれる。仮契約をしただけの、私のトレーナーではないのに。

 何となく、あの人は姉上のトレーナーと似てるのだと思う。

 だから多分、私とも相性が良い。

 

 だが……ダメだ。

 私がトレーナーに求めている人じゃないんだ。

 その癖、居心地が良いと感じている。

 

 あの人の負い目を解消し、ちゃんとした本契約を果たし、これから一緒に成長していきましょう。私の求めるトレーナーになってくれますか。

 そう言って正式なトレーナーと担当ウマ娘になれば、少し変わるだろう。

 

 それも一つの手だった。

 私がトレーナーに求めている選択肢をクリアしている人がいない。

 じゃあ、そういう風な人になるよう育てよう。一緒に成長していこう。

 

 干渉しない人ならどの人でも良い。お金を出して黙る人ならそれで良い。

 最初はそうだったが、今では違う。あの人で良かったと心の底から思ってる。

 もしもここから正式契約するならあの人が良い。そう思ってる。

 適当に成績順で選んだだけと言うと凄い失礼だが、あの人ははっきり言ってダイヤの原石だった。今は新人なだけの名トレーナー。

 未来ではG1ウマ娘を担当して導くだろうほどの人。

 

 でも、未来だ。

 今じゃない。

 

 だから、その今すら妥協出来なかった。

 一つの手と言ったが、プランBである事に変わりはなかった。

 そうして私が求めている人が見つからないまま、選択を先延ばしにしているのが、最大の妥協だと気付いている癖に。

 

 ——何……やってんだろうな。

 

 頭の中で繰り返されるその言葉。自身に対する嫌悪。

 流れるように駆け抜けていく思考が、このままでは不味いという事を理解させる。

 自分の走りが少しずつ悪くなっているのが分かる。

 このトレーニングでもっと成長出来て良い筈なのに、全然成長出来てないのが分かる。

 仮契約したあの人に、まだ迷惑をかけ続けてる。

 

 悪い方向にしか話が進まない。

 夜という時間に、自分一人で悩むと悪い方向にしか考えが進まないという研究論文は正しいらしい。

 じゃあ誰かに悩みを話せよ自分と思っているが、悩みを打ち明けたいトレーナーがいない。

 トレーナー………あの人。

 

 あぁ……っ……!

 もうダメ。ほんとにダメ。連想ゲームみたいに悪い事ばかりが浮かぶ。

 

「………っ!」

 

 重く苦しい暗闇を振り払うように、また加速した。

 不思議だな。この暗闇が私はずっと好きだったのに、今は好きになれない。

 今、自分自身を本当に嫌いになっている事の証明なんだと思う。

 

「———ハ………ハァ……っハ、ァ…………」

 

 そしてすぐ息が上がる。

 肩で息をして、膝に手を突く。

 私には、こうやって自分に当たる事ですら悪いモノを振り切れないらしい。

 

 ……決めないといけない。

 

 トレセン学園に入学してから既に半年。

 トレーナーが居ないままレースに出て4戦。

 限界が近付いている。

 名門生まれ故に得られる入学前の利点と、自分の才能によって勝てていた時代はもう終わる。

 あの人と正式に契約を結ぶか、結ばないか。

 

 選べ。

 

 これからの競技人生を預けた時、支え合うという部分は申し分ない。

 そこだけは、絶対に。

 ただ……本当にただ単純に、私が必要としているものを持っておらず、方針も異なるあの人を。

 

 "ウマ娘のパフォーマンス能力は、その時の精神状態によって大きく変動する"。

 

 あの人は、精神状態を維持する事に関しては圧倒的な天才だ。

 不調から好調に導くという世界であれば、あの人は既に中央トレセン最大の存在だ。

 故にじゃあ、私が、あの人の不足している部分すら些事になるほどの強さを得られれば———

 

「何を、しているのですか」

 

 かけられた声にはっ、とする。

 思考が止まって、現実に戻る。

 今はもう深夜だ。見回りの用務員の人がいても何もおかしくない。

 見られてはならないところを見られた。そんな焦りで、振り返る。

 

「既に寮の門限時間を過ぎています。

 ………特別に今回だけ、寮長への報告と処罰はなしにして差し上げましょう。

 ですが速やかに、無駄な自主トレーニングはやめて寮に戻りなさい。また、今後このような事はしないと約束しなさい」

 

 女性だった。

 固く、厳しさのある声だった。

 そして私は、この人を知っていた。

 

 トレーナー。

 ウマ娘のトレーナー。

 私が一番最初に見たトレーナー。

 私が抱いているトレーナーという印象の原型になった人。

 私の走りを見て、唯一、怪我の心配しかしなかった、トレーナー。

 

「聞いているのですか。いるのなら頷きなさい」

 

 ……やっぱり、あの人だ。

 でなければ、返事をしなさいと言うから。

 私が喘鳴症だと知っている、数少ない一部の人だから。

 

 トレーナー。

 私のトレーナー……のような事をしていた人。

 でも、トレーナーじゃない人。 

 

 何故なら、この人がきっちりと着こなしたスーツの胸元にあるのは、中央トレセン学園のトレーナーバッジじゃない。

 

 前傾姿勢で走るウマ娘を囲う、蹄鉄のエンブレムが刻まれたバッジ。

 この国のトゥインクル・シリーズを守る執政機関の証。

 

 URA。

 私の目の前にいるのは、その幹部職員だった。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 アオハル杯というものがあった。昔の話だ。

 という漢字が、有記念といった格式高いレースでしか使用されなくなって廃れたように。八大競走という言葉が廃れ、G1というランクに統一されたように。

 

 ラビット。

 その文化を日本にも取り入れようとしたかった。

 国外のトゥインクル・シリーズと差を感じたURAが主導し、中央トレセンが設立した、短距離・マイル・中距離・長距離・ダートの5種目で争う、チーム対抗戦。

 5種目。故にチームは最低でも5人が必要。

 日本のトゥインクル・シリーズに残る、チームは5人からという古い規則の名残。

 

 それがアオハル杯。

 ウマ娘は、友情や絆というモノが重要視されている。

 ウマ娘は人間よりも、精神的な面による能力向上の差が大きいから。

 そんな論説から来る言葉は、かなり一般的な認識であった。

 

 共にチームの仲間と苦楽を乗り越え、成長する。

 時にぶつかり合い、時に悩み合い、時に励まし合う。

 チームの皆との友情や経験がウマ娘を成長させる。

 

 そういう名目で設立されたアオハル杯は、当初の好評とは裏腹に、異例の早さで廃れた。

 まず第一に、アオハル杯はトゥインクル・シリーズとは別枠で行われた。

 当たり前だ。ラビットという役割は日本では違法である。

 トゥインクル・シリーズのファン……言い変えれば国民からの支持が受け辛い。

 何より日本という国の国民的な意識として、負けるのを受け入れてラビットの役割に甘んじるウマ娘はまずいない。

 そういう意識を規制と共に少しずつ変えていこうという心組みがアオハル杯だったのだから、まずトゥインクル・シリーズと別枠で行われるのは当然だった。

 

 故に廃れた。

 アオハル杯は、どこまで行っても非公式である。

 アオハル杯で優秀な成績を残しても、トゥインクル・シリーズの成績には全く関係ない。

 そして多くのレースに出るという事は、その分だけ消耗し、怪我と故障のリスクが高まる事でもある。

 

 故にアオハル杯への参加を辞退するウマ娘が相次いだ。

 非公式レースに力を入れて、公式レースに力を入れられなくなったら元も子もないという、極めて普通の判断。

 そしてトドメが、トゥインクル・シリーズで優秀な成績を残していた筈のウマ娘の、故障だった。

 

 コーナーを抜けて、向こう正面を超えて、第3コーナーに踏み入る。

 そして転倒した。糸の切れた人形のような不自然さで倒れた。

 競走中止。甲高い音のサイレンがなって、彼女はすぐさま病院に担ぎ込まれる。

 原因は疲労骨折。

 彼女はアオハル杯で決まったチームの為、オーバーワークをしていた。

 そしてその無理がレース中に限界を迎え、脚が壊れ、転倒した。

 日常生活を送れるほどには回復する。だが、ウマ娘としてレースに出るにはもう……その医者からの言葉は真実になる。

 チームは解散。故障したウマ娘はレースを引退し、トレセンを中退した。

 

 ——感受性の高い思春期の生徒たちはチームなどの強い関係性を築くほど無計画で情動的な判断をしかねない。

 

 故に、アオハル杯の中止を願います。

 故障したウマ娘を担当していたトレーナー。

 ウマ娘の自由を尊重する事で有名だった筈の人が書いたものとは思えないそれには、震えた文字と涙の跡があった。

 URAは、その嘆願書を受け入れた。

 

 アオハル杯の中止。

 人気は高かったが、公式なレースではなかったアオハル杯の騒動は、そうして世間に広まる事はなく、幻へと消えた。

 シンザンの『神話』の時代よりも更に昔、生涯無敗のまま日本ダービーを制し、レコードを7つも更新しながら、ひっそりと消えた、とある幻のウマ娘のように。

 

 だが残された人には、消えない後悔の跡は残った。

 もしもそのトレーナーに、何が悪かったのかと問うたら、自分が悪かったと言うだろう。

 アオハル杯はただの理由でしかなく、原因は別にあると。

 担当の自由意志を尊重する。担当の事を信じる。

 大人のそういう無責任な言論と行動で、未来ある子の未来を奪った。

 全ては自分の、監督不足だった。

 

 彼女はトレーナーを辞めた。

 中央トレセンから姿を消した。

 

 ただし、彼女の行き先はある種の必然だったのだろう。

 アオハル杯。URAが主導して設立した、チーム対抗戦。

 同じ事をもう、繰り返してはならない。絶対に。

 自らの担当ウマ娘を故障させた者という厳しい目がある中、彼女は孤独な戦いを選んだ。

 

 そしてその孤独の道を、彼女は乗り切った。

 

 中央トレーナーライセンス取得試験よりも尚厳しい司法試験をストレートで突破。

 URA職員の最年少記録を更新し、厳しい目すら全て真っ向から跳ね除けた。

 その彼女がもうすぐ、20代前半という異例中の異例でURA職員幹部になるという偉業をもが、ウマ娘達が主役のトゥインクル・シリーズの裏でひっそりと達成される、少し前。

 

 ——シンボリ家、ですか?

 

 その日が、転換点だった。

 

 曰く、シンボリ家には何かがある。

 その何かを調べて来て欲しい。

 最近の、中央で起きている問題を諌めるという名目で。

 呼び出された彼女は、大雑把に言えばそういう説明を受けた。

 

 URAが現在頭を抱えている問題は彼女も知っていた。

 というか当時のURA職員なら間違いなく全員が知っている。

 

 シンボリ家には何かがある。

 何故そう呼ばれたか。あのマルゼンスキーとミスターシービーが、学園生活はおろか学業すらも疎かにして、シンボリ家へ頻繁に通っているからである。

 片や、後の全レース大差勝ちの怪物。片や、後の連対率100%にして三冠ウマ娘。

 既に彼女達二人は、日本トゥインクル・シリーズ歴代屈指の優駿であり、スターウマ娘だった。

 だからその動向が注目されない訳がない。

 何より、二人の性格を知る関係者は特に。

 

 縛られる事を嫌い、自由を好むミスターシービー。

 固い雰囲気よりも和やかな雰囲気の方が好きなマルゼンスキー。

 その二人が、シンボリ家に入り浸っている。

 二人の行動はある意味自由奔放であったが、何か……普段の自由さとは趣が違った。

 まるで、自らの意思で何かに縛られるのを許容しているような、違和感。

 

 周囲はそれを感じていた。

 社会問題であった。

 国民的なアイドル性を内包するスターウマ娘が、いやそんな事知らないから、それよりも重要な事あるから後にして、とメディア対応なりなんなりを後回しにし続けていたら、当然URAとしては困る。

 

 そしてそれを、今のところシンボリ家が一切咎めない。

 そればかりか多分先導している。

 既に逸材と評されている、シンボリルドルフとシリウスシンボリもそれに加担している。

 最初に凱旋門賞へと挑戦した日本ウマ娘、スピードシンボリから脈々と続く、URAと関係が深い、あのシンボリ家がだ。

 

 URAとしては既に何度か諌めてはいた。

 やんわりと、機嫌を損ねないように、遠回しに。

 

 URAという日本のトゥインクル・シリーズを運営している、いわゆる大御所の頂点とは思えないほど慎重だったが、それほどにシンボリ家というのはトゥインクル・シリーズへの影響力が強い。

 またマルゼンスキーとミスターシービーが間違いなくシンボリ家側にいるのも大きかった。

 故の異常。あるいはそれでも尚、当時は何かがおかしかったのかもしれない。

 

 マルゼンスキーとミスターシービー。

 そしてシンボリ家。

 それら全てを、ナニかの動きが呑み込んでいた。

 全てを無差別に引き込む暴風雨にも近いナニかが。

 何故ならURAからの懇願にも近い要請を、シンボリ家は全て突っぱねたから。

 

 今ばかりは、何も干渉しないでいただきたい。

 どうか今だけは、何も言わず一歩引いた立場を専念して欲しい。

 そんな言葉を残して。

 

 URAは悩んだ。

 相手はあのシンボリ家だ。

 理由があるならそうなんだな、とURAが納得するほどの名家。

 

 ……なのだが、URAにも体裁というものがある。

 別にマルゼンスキーとミスターシービーの成績が急激に悪化し、何かの騒動に巻き込まれているとかそういう、首を突っ込むのすら慎重を期すような事態でないのなら、URAとしては静観の一手だけしか打たないのはまず組織としてダメなのだ。

 後になって大きな騒動になった時、調停者であるURAは見ているだけでしたというのは内外問わず許されていない。

 

 原因を知りたい。

 マルゼンスキーとミスターシービー、更にシンボリ家を動かしている、この騒動の中心核の全容が見えない。

 そして悩みに悩んで……結果、目を付けられたのが彼女である。

 期待の新人。新しい風。

 社会問題になりかけている……言わば嵐の前の静けさのような、異例な雰囲気が日本に広がっていたこの問題に対する兆し。

 

 たった一人の職員に全てを押し付けて解決して貰うという無能をURAは働いたのではない。

 ただ、今シンボリ家を包んでる動きが何か、それを把握する為の兆しになって欲しいという意味合いで、当時一番相応しかったのが彼女だったのである。

 

 既に幹部職員のほとんどがシンボリ家から拒絶されたか、立場上シンボリ家に簡単に出入り出来る自由がないような者しかいないような状態。

 そんな中、既に幹部職員に繰り上がる事が決定しており、丁度良く動かせる人材が彼女だった。

 

 では彼女は消去法で選ばれたような能力の人物かと言うと、全くそんな事はない。

 彼女がどれほどの能力があるのか枚挙すると凄まじい事になるので、今回の騒動に対する問題点をURAが上げるなら、トレーナー現役時代に、担当ウマ娘の故障を事前に防げなかったという一点のみだった。

 

 つまり彼女はURA職員として問題になるような事は一切していない。

 トレーナー時代、担当ウマ娘を故障させた者と、そういう評価を下す人間もいたが、そのような者は極小数だった。

 純粋に、そうなるほどに彼女は優秀だったのである。

 

 彼女よりは、担当ウマ娘の方が問題だったのではないか。

 そういう評価が、流れるくらいには。

 

 ——違う。アレは。

 

 私が悪かった。

 無責任な監督不足が招いた、自分の失態だ。

 何度も己の心にそう呟いている。

 その証明というべき『管理プログラム』は出来てる。

 

 己の方針を真逆に反転させ、させていながら既に育成方法を確立させているという、その優秀さ。

 現役時代の経験があったとはいえ、名門という家が代々受け継いで来た知識と経験と論理を新たに0から創り出し、そして完成度すら上回り兼ねないレベルの育成論。

 それがどれほどの事か。どう考えても個人が保有出来て良いモノではない。

 そしてそれこそが、彼女が一気にURA幹部に登り詰めた理由であり、担当ウマ娘の方が問題だったのではないかと言われる、皮肉だった。

 

 

 そして彼女がシンボリ家から許可を貰えた理由であるのも、また。

 

 

 圧倒的拒絶。完全なる情報封鎖。封印に等しい秘匿。

 その日、秘匿が破られた。

 鎖国していた日本の如きシンボリ家の、門が開いた。

 トゥインクル・シリーズ最大の名家が外部に晒した、突然変異種にして最高傑作。

 それを最初に見たのは駿川たづなではなく、彼女だった。

 

 シンボリ家の至宝。そういう意味でいえば、間違いなく最高傑作はシンボリルドルフである。

 誰もが言うし、ほぼ間違いなく妹の方も言う。

 だが変異種という意味であれば、最高傑作は妹の方だった。

 そして最終的に、シンボリ家の最高傑作が妹の方になった。

 

 何故か。

 シンボリエウロス。

 彼女が一番最初だった。

 

 マルゼンスキーでも、ミスターシービーでもなく、シリウスシンボリでもなく。

 姉の、ルドルフですらなく。

 

 世界で最初に、それに目覚めたとされる原初のウマ娘。

 ウマ娘の始祖。ウマ娘レースの『始祖』エクリプス。

 

 そして日本では、恐らく最初に目覚めたウマ娘。

 初代三冠ウマ娘。戦時の日本の中で光を取り戻し、夢を始めた希望。

 セントライト。『神聖なる光』セントライト。

 次に、二人目。

 二人目の三冠。当時史上最強と言われ、今も尚最強と呼ぶ声が多いウマ娘レースの神。

 シンザン。『神話』シンザン。

 

 神の時代。神にしか三冠が許されていなかった時代。

 まだ、トゥインクル・シリーズという言葉が使われていなかった過去。

 彼女達二人は、別の世界に何かを見ていたという。

 G1のような舞台に上がるウマ娘のほんの一部が感じ取れ、更にほんの一部の、時代に選ばれた……或いは時代を作るウマ娘だけが至る事を許される世界。

 

 それに目覚めた、恐らく三人目。

 ハイセイコー。

 

 シンザンが、戦後日本中央競走界とグランドライブを終わらせたウマ娘なら。

 ハイセイコーは、トゥインクル・シリーズとウイニングライブを始めたウマ娘だ。

 

 今よりも更に地方と中央の壁と差が大きかった時代に、地方から中央に飛び込み、その壁を突破しながらも尚、グランドライブに取って代わる形でURAが提唱したウイニングライブに最も早く適応したアイドルウマ娘。

 当時ウマ娘レースが最も盛り上がっていたと後に言われた時代を牽引し、ウマ娘レースの未来を変えた。

 日本のトゥインクル・シリーズを始め、方向性すら定めた。

 それがハイセイコー。『最も偉大なウマ娘』ハイセイコー。

 日本のウマ娘レースの歴史、トゥインクル・シリーズの歴史に関わる上で、彼女の名前が避けられる事だけは絶対にない。

 彼女もまた、見ている世界が違った。

 

 そして次に花の世代が、そして次にTTG世代が。

 そんな時代を作るウマ娘だけが至った、普通のウマ娘では到達出来ない何かの壁。後一歩、限界の先、の更にその先を埋める何か。

 

 それをシンボリエウロスは、既に踏み抜いていた。

 理由は分からない。何故かも分からない。

 だがエウロスというウマ娘はもう、G1の舞台に上がる前の幼少期から、本格化に至る以前の段階からそれに至っていた。

 何かの壁を砕き、蹂躙し、己という枷の裏側に潜め、支配していた。

 

 それを一番最初に知覚した外部の者は駿川たづなである。

 

 だが、彼女にはそれが分からなかった。

 彼女はトレーナーとしてなら凄まじい才覚の持ち主だが、どこまでも普通の人間である。

 オカルトに懐疑的な反応をし、友情や絆がウマ娘を強くするなどという論説を、全ては否定しないまでも時代錯誤と断ずる側の人間。

 だから、感じ取る事はなかった。

 彼女が認識するのは、目の前の結果であり、事実である。

 

 ——な……本格化前のウマ娘を相手に何をしているのですか貴方達は!?

 

 故に彼女は、どこまで行ってもトレーナーだった。

 URA幹部職員という立場と名前より尚、トゥインクル・シリーズのルールという秩序を守る側の人間である事よりも尚。

 彼女はウマ娘の隣に立つのが似合う人だった。

 

 昔、ウマ娘は何よりも速く大地を駆ける事を是とした。

 そのウマ娘に、人間は速さという夢を見た。可能性と進化の先を見た。

 だから、速さというのは見るモノを惹き付ける。

 

 その速さに。

 最初に待ったをかけた。

 夢ではなく、現実を見た。

 

 ウマ娘は想いを乗せて走る。夢を受け継いで走る。

 夢を見るのは良い。それは自由だ。誰にもその権利を縛る事は出来ない。

 だが夢は無責任だ。夢は責任を取ってくれない。夢が何かをする事はない。

 夢に辿り着こうと、夢に道半ばで破れようとも。

 たとえ、夢の目の前で、走れなくなっても。

 何故なら、夢というのはただ在るだけだから。

 

 彼女はそれを知っている。

 何よりも、誰よりも、それを知っている。

 

 だからせめて——トレーナーだけでも現実を見なくてはならない。

 

 夢を見るウマ娘に代わり、厳しい世界を直視する必要があるのはトレーナーの役割だ。

 もしもウマ娘が夢を見られなくなった時、トレーナーもまた夢しか見てなかったなどという事は許されていない。許される日も来ない。

 夢は自由で、その自由という無責任でウマ娘が放り出されないようにするのが、トレーナーの役目なのだと彼女は自身に課していた。

 

 限界の先の先。

 その壁を通り抜ければ、二度と戻れなくなるかもしれない。

 そんな領域に至り、壁を踏み抜いていて、戻れなくなるか戻れるかの境目をフラフラしているウマ娘。

 知覚は出来ない。だが才能は分かる。その才能が何を齎すのか想像出来る。

 翼を広げて、地の果てまで駆け抜けて、天にすら昇って、そのまま消えて行くかもしれない。

 現実を飛び越えて、夢の先を超えて、異次元の領域へと至って、超高速の光すら置き去りにして、もう永遠に戻って来ないかもしれない。

 それを良しとしなかった。

 その最初のトレーナーが、彼女だった。

 

 

 

 彼女の名前は、樫本理子。

 後に、シンボリエウロスを担当するトレーナーである。

 

 




 
⚪︎樫本理子
 徹底した管理主義。逸脱を許さないほどの管理主義。一つ何かが掛け違えば共倒れ。しかし何一つも間違えないのなら——それはシングレ時空に於ける一つの可能性、若き日の樫本理子。
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