世間では、後に日本四強と呼ばれるウマ娘達が彼女を育てていたのだと言われている。
それは恐らく正しい。
だが全てではない。結果的にそうなったという方が適している。
シンボリエウロスを相手に何かを試していた。何かを会得しようとしていた。
そういう真実を知るのは、極一部の者だけだった。
そしてその真実を知りたいと考えていたのが当時の世間で、その真実を追求しようとする姿勢を見せたのが当時のメディアだった。
干渉しないで欲しい。
シンボリ家の懸念は、最悪の方向で形になる。
事件が起きた。
本人は気にしてないと言う。
だが深層意識には残った。
天賦の才。その才能が歪みかけた。或いは壊れかけた。
そして光の点滅を極端に嫌い、騒音というものを極めて強く避けるようになり、人混みを嫌がるようになった。
それが今から四年前。
秘匿が破られた瞬間。
シンボリエウロスというウマ娘の存在が世間に初めて認知された日。
生を受けてから家を出た事のない子供が、世間という波に揉まれ、放り出された冬の寒空の事だった。
シンボリエウロスが中央トレセンに入学する。
その事に世間が再び騒がしさを増していた頃、URAはとある事で頭を悩ませる事になった。
シンボリエウロスが、どのトレーナーを選ぶのかである。
十冠ウマ娘の妹。その十冠ウマ娘が、自分を超えると言った逸材。
何より世間の注目度が違う。
彼女が走るだけで、何らかの歴史的快挙を間違いなく残す。或いは彼女の走りを見ていれば、歴史的瞬間を間違いなく目撃出来るとなれば、それも当然ではあった。
恐らくシンボリエウロス本人もその重圧を感じているだろうが、URAもまた別の方面から重圧と懸念を感じていた。
シンボリエウロス。
彼女の動向によって、今後の日本のトゥインクル・シリーズが変わる。
もしかしたら、ハイセイコーの偉業に並ぶかもしれないレベルで。
世間はシンボリエウロスが姉を超えるのか超えないのかを注視していた頃、URAはとにかく、彼女がトレーナーを誰にするのかという動向が気になって仕方がなかったのである。
姉のシンボリルドルフ。彼女は十冠を成し遂げた。
故にウマ娘側が目立つのは当然だが、その補佐であるトレーナーが居なくては、彼女は十冠を成し遂げられてはいなかっただろう。
本人自身もそれを認めている。
ウマ娘にはトレーナーがいる。必ず。
どれほどの天才であっても、トレーナーの有無で未来が変わる。
そして当然、トレーナーとの相性やトレーナー自身の腕でも戦績が変わる。
シンボリエウロスに、下手なトレーナーは付けられない。付けてはならない。
それがURAの総意だった。当然三女神に、シンボリエウロスを十冠ウマ娘に出来るトレーナーが偶然現れるのを祈る、なんて選択肢はない。
ならばどうするか。
URAから、シンボリエウロスのトレーナーに相応しい人を選ぼう。
そういう事になった。
特定のウマ娘を優遇するのはどうなんだとか、でも相手はURAと最も関わりが深いシンボリ家だとか、特例でもまかり通して良いのかとか、あの事件の教訓を無為にするのかとか色々すっごい揉めたが、最終的にそうなった。
URA職員は、中央トレセンでトレーナーというモノを経験してからなる職員が多数である。
故に経験は豊富だ。知識と実績自体も別に問題ない。
一部の名門生まれのウマ娘は、同じくトレーナーの名門と最初から関わりを持ち、或いは選定し、中央トレセンに来る前から専属トレーナーと担当ウマ娘の関係になるのを確定させる。
それと同じ事を、URAが主導でやろうとしたのだ。
で——思いっきり頓挫した。
まず一つ目が、シンボリエウロスのトレーナーをやりたいというURA職員が非常に少なかった事。
仮にエウロス=ルドルフ、の才能だったとする。
次に、過去に戻ってルドルフの担当になったとする。
次に、ルドルフを十冠ウマ娘に出来ますか? と問う。
無理だ。出来ない。そう言うURA職員が大半だった。
エウロスに求められているのは十冠である。
でなくともルドルフに並ぶ実績を上げる何かが必要である。
つまり難易度は、最低でもルドルフに十冠を捧げるのと同義。
やれ。と言ったら、まぁやる人間はいないでもないが、最初から積極的ではなかった者がエウロスのトレーナーを務められる気はしない。
そして次に、シンボリエウロスの許可が取れない事。
URAから君のトレーナーを選びたいんだけど良い? と聞けたら良かっただろう。
だが今、URAとシンボリ家の関係はちょっとギクシャクしていた。
悪くはない。でも良くもない。
メディアとシンボリ家……特にエウロスの両親及びルドルフを含む本家とメディアの溝はめちゃくちゃに深いが、その余波としてURAとの関係も少し悪化した。
更には、シンボリエウロス本人からURAがどう思われているのか分からない。
分かっているのはメディア等などに姿を現す気はほとんどなく、取材などはほぼ義務感だけで応じる気は皆無という事。
凄い才能があり、実績があり、更にシンボリ家との関係が悪くなく、そしてシンボリエウロス本人との関わりがあるURA職員。
そんな人間いる訳ないだろ——と思いきや、その条件に丁度ピッタリ合う存在が一人だけいた。
「私がシンボリエウロスのトレーナーに………?」
樫本理子である。
元々才能と実績を買われてシンボリ家に向かった。
事件が起こっても、樫本理子職員本人はシンボリ家との関係が悪化する事はほぼなかった。
どちらかと言うとアレを防ごうとした側であり、何より危惧していた人間だからである。
何より、僅か数日程度だが、シンボリエウロスのトレーナー代わりの事をしていた人物でもある。
どう考えても、樫本理子が相応しい。
何とかシンボリエウロスを説得してくれないか。
そういう風に頼み込まれた。
「………………」
まさか。彼女は私の事など覚えていませんよ。
そう答えたかった。
数日彼女のトレーナー代わりの事をしていたと言われているが、正確には数言の会話を、数日間に渡って繰り返しただけだ。
これはやらない方が良い。
これはやってもよい。
これは負担が大きいから改善した方が良い。
今走るなら芝ではなく、負担の軽いダートを走った方が良い。
喉に負担があるのなら、最終的にレペティション走、インターバル走、テンポ走を意識した走りにする代わりに、今は毎日走らず、自分の走法を馴染ませた方が良い。
本格化を迎える前と後で練習の質と効率が違うので、今は本格化の前後でも質の変わらない勉強を優先した方が良い。
具体的に言うと、樫本理子がエウロスと話したのはこれだけ。
更に正確に言うなら、話したではなく一方的に告げただけだ。
指導は何もしてない。トレーナー紛いですらない。ただ彼女の脚を少し見て、次に言っただけ。そしてエウロスは頷いただけ。
これだけで、担当トレーナーと担当ウマ娘に相応しいなどと誰が言えよう。
他人と他人。学校に通っている生徒に対し、数回話しただけの用務員程度の距離感。
先生ですらない。それが樫本理子とシンボリエウロスだった。
「……考えておきます」
ただ面と向かって、出来ないだろうと言う事は出来ず。
また彼女の境遇が気になっているのも確かであり、その時は曖昧に頷いた。
ただ、変化はあった。
最近の仕事が減ったのである。
そして、中央トレセンに向かう必要のある仕事が増えた。
シンボリエウロスと接触させようとしているのは明らかだった。
やれ、と言われたらやる。だがやって欲しいと言われると、悩む。
もしも先程の頼みが、現在理事長が不在の中央トレセン学園で『理事長代理』をやれだったら——樫本理子はほとんど二つ返事で了承していたかもしれない。
ウマ娘とトレーナー間の不連携が目立つ中央トレセン学園を改革出来るかもしれないのだから。
だがその改革を進める理由の大前提にはまず、樫本理子はウマ娘の事を第一に考えているからという理由がある。
だから、シンボリエウロスに相応しいトレーナーは君だと言われた場合、違和感が拭えない。
全体の規則を測る。変える変えない。
それならば樫本理子はやる。
だが個人に対し、相応しい相応しくない。
そういう心情の部分を、しかも他人からどうこう言われて、樫本理子はすぐには頷けなかった。
樫本理子は、その時々の心情や相性という不明瞭且つ不確定に揺らぐモノを好まない。
でなければ、彼女は『管理教育プログラム』なるものを作り上げてない。
どうするべきだろうか。
シンボリエウロスのトレーナーをやれ。
これはURAが、シンボリエウロスに下手なトレーナーを付けて、未来のトゥインクル・シリーズを担うかもしれないウマ娘を潰したくないという事から発している。
メディアによって歪みかけた、最も未来あるウマ娘の可能性を次は守れという、緊迫感からの。
なら逆に、中央トレセン学園からしっかりとしたトレーナーが付けば問題にならないという事でもある。
悩んだ末に、樫本理子は彼女の選抜レースを見る事にした。
四年前に数言話しただけで、それ以降関わりのなかった、あの自らの才能で自らを壊しそうな天才がどう成長したのかが、少し気になりもした。
「お久しぶりですね」
4月29日。中央トレセン学園。選抜レース最終R。
ガラス張りになっている、関係者専用の観客室からシンボリエウロスの選抜レースを覗き見る。
隣にいつの間にか立って来たのは『皇帝』という二つ名を与えられ、同時にその二つ名になんの見劣りもしない、稀代のスターウマ娘。
比喩でも何でもなく、トゥインクル・シリーズの頂点にいる怪物。
史上唯一の十冠ウマ娘。シンボリルドルフ。
樫本理子はシンボリエウロスのトレーナー……紛いにすらならないお節介をしていた。
だから当然、彼女はそれなりだがシンボリ家と関わり合いがある。
「貴方も、妹のトレーナーを?」
和やかな会話へ応じるように、少しだけ笑いながらシンボリルドルフは言った。
だが、彼女は王者だ。圧倒的頂点にて君臨する事を許される王者。
微笑みでも隠し切れる程度の圧力しか持ち合わせていなかったのなら、彼女は頂点と君臨を意味する二つ名を与えられていない。
相手の真意を見透かそうとするような言葉選びといい、彼女は一挙手一投足全てが正真正銘『皇帝』である。
「……いいえ。URAの職員として視察に来ただけです」
「それは残念です。妹はトレーナー選びに苦労するでしょうから、選択肢が増えるなら、喜ばしい事だったのですが」
選択肢。
当然、自分達が選ぶ側だという特権意識。
いや……彼女のそれは特権意識ですらなく、ただ当たり前の事実を当たり前のように告げているだけだった。
何故なら、誰も疑わないから。
シンボリエウロスは全トレーナーの中から、自分に相応しいと思った誰かを選定するのだという事を。
ただ、今日この選択レースで勝てるかどうかは少し疑われていた。
そして彼女の戦法が追込だと知っている樫本理子は、特に。
大外。8枠18番。
それがシンボリエウロスの入った枠だった。
コース形状的に、圧倒的逃げ・先行型が有利。
1200m短距離。追込が特に不利。大外が更に不利。
普通なら、勝率が1%を切るレベルの立ち位置が、十冠ウマ娘の妹に与えられた枠。
「大外………」
「勝ちますよ、私の妹は」
樫本理子の呟きの内容を察したように、ルドルフが断定する。
妹に少しだけ影響された封殺に近い姉の断言は、妹に影響された事は知らないまでも、時折圧力を伴う会話の仕方として広く認知されていた。
そして樫本理子は、その圧力のある断言を聞いても頷きはしなかった。
才能は知っている。
だが才能があるから何も心配しなくて大丈夫という無責任な事を、樫本理子は絶対に言わないし、今後未来言う事もない。
何故なら、その才能を食い潰すものがレースにはあるから。
時にその才能が、己自身を蝕む事すらあるから。
全てが味方していない。
そういう状況で、ターフの上に立つエウロスは、カメラのフラッシュも歓声の声も煩わしそうに耳を絞る。
少しずつ、カメラのフラッシュが消えていった。
歓声も静かになっていった。
シンボリエウロスには静寂が似合う。
だが何よりも、彼女は騒音を嫌うというのを知っているのは、シンボリ家に縁のある一部と樫本理子くらいしかいない。
ガシャン、とゲートが開いた。
閃光のような切れ味。全てを置き去りにする速度という、圧倒。
「あぁ、うん」
「…………」
誰もが戦慄するようなスタートダッシュを妹が決めた中、恐らく姉だけは、いっそ呑気なほどの声色で呟いた。
「勝ったな」
「……………」
レースが始まってすぐ、もう勝ちを確信する。
よっぽどでも無ければそれはただ慢心でしかない。
そんな訳ある筈ないだろうと嗜められるのが常だ。
レースに絶対などないから。
だが、この隣のウマ娘にだけは『絶対』があると言われた。
そして樫本理子は何も言わなかった。
よっぽどでも無ければ慢心でしかない。
そして目の前で行われているのは、そのよっぽどだった。
外部から見ているから分かった。
ルドルフに一歩遅れる形で、樫本理子も気付く。
エウロスが何をしようとしているのか、圧倒的不利な状態での勝ち筋をどのように手繰り寄せ、どういう勝ち方をしようとしているのか。
そして、その予想通り、シンボリエウロスは勝った。
今手元にある手札という台座に、レース展開という棒を組み立てていく。
その組み上がった新たな台座に、後半のレース展開を。その次にタイミングを。
次に他ウマ娘を自分の思い通りに動かせれば良い。
そうすれば出来上がった予想図はゴールに届く。
予想図が届いたなら、後は完成させれば良い。
言葉にすればそれだけの事。
だが何か前提が崩れれば、或いは一つでも箇所がずれれば全て台無しにするものを。
シンボリエウロスは何一つも間違う事なく、完璧にやった。
強すぎる。
何だアレは。
蹂躙だった。
このレベルに存在して良いウマ娘じゃない。
アレは既に、クラシック級でも通用する。
「本格化後の成長率は、本格化前の何倍にも値する」
強すぎる。格が違う。
現役時代のシンボリルドルフがそう言われたように、同じ視線を妹が集めている中、樫本理子に呟くように姉は言った。
「では逆に言えば、本格化前に数年間トレーニングをすれば、本格化後の一年間に匹敵する。
つまりジュニア級のウマ娘がクラシック級のウマ娘に通用するという事でもある。
勿論これは、ウマ娘本人の才能によって変わりますし、幼少期に行う過負荷なトレーニングは未来の才能を奪い易い為、まるっきりそうとは言えません。
ですが、純粋な才能だけで妹はもっと同年代のウマ娘に差を付けられた筈です。喘鳴症という弱点を背負っていても」
「……妹贔屓ですね」
「かもしれません」
生徒会長という間柄、シンボリルドルフは特定の個人を特別扱いしない。
そういう風に自分を戒め、意識している。
そのシンボリルドルフが、入れ込んでいる。
あのレース結果を見てそんな事が浮かぶのだから。
或いはただ事実を言っているに過ぎないから、別に贔屓でも何でもないのか。
樫本理子の言葉に対し、シンボリルドルフは言葉を濁す事もなく応えていた。
ターフの上では、シンボリエウロスに近寄るトレーナーは一人も居なかった。
トレーナー選びに難儀するだろう。
姉の語った言葉通りになっている。
URAがURA内の職員からトレーナーを選抜しようとして、難儀したように。
レコード、1:09.8。上がり3F 33.8。2着と10バ身の大差勝ち。
数字は全てではない。だが数字は嘘を吐かない。
勝率1%を切るような不利でも尚勝てる事を裏付けるに足る数字。
このレースは、一体何を選抜していたのかが知れるようなレース結果だった。
「スカウトしには行かないのですか?」
「視察に来ただけと言っているでしょう」
自らの才能で自らを壊しそうな天才が、どのように成長したかを見た。
……中央トレセンから彼女のトレーナーになる者はいるのかというURAの懸念は当たっていたが、自分が相応しいとは思えなかった。
「そうですか」
観客室から退出しようとした樫本理子の背中に投げかけられた、再三の言葉。
ガラス張りの観客室から下方を眺めつつ、皇帝は呟く。
「それは良かった」
そして、その言葉に足を止めた。
険呑の意味合いが強い言葉だった。
「選択肢が増えるなら喜ばしい事と言ったのは誰でしたか?」
「私ですね。ですが……唯々諾々として、妹の選択がURAの方々に決められるのはあまり好ましくなかった」
「…………」
どうやら、この選択はシンボリ家を敵に回す事になりそうですよ。
心の中でURA諮問会の委員長に樫本理子は告げる。
藪を突っついたら、蛇が出なかった代わりに親獅子が牙を覗かせていた。
そんなただならぬオーラ。
「ただ」
観客席に手を振り返すなどもせず、何かを探すような動作もしない妹。
スカウトしに来ないトレーナー達はハナから興味はないと見限っているかのような妹の立ち振る舞いを眺めながら、姉は言う。
「貴方個人としてなら、私はかなり好ましく思っていますよ」
「…………」
「URA職員として妹をスカウトする事はしなかった。
つまり今ではなく未来を選んだ」
悩んではいた。
今がチャンスと言われたなら、間違いなくそうなのだろう。
URAから言われた事を成すなら、恐らく今が最高のタイミングである。
そう思いながら、樫本理子の足は伸びなかった。
ただし、ルドルフの大層な捉え方は意外だった。
シンボリルドルフ。彼女は必要であれば大言壮語な物言いをするが、質実剛健という方が彼女には似合っている。
全てのウマ娘に幸福な世界を、という言葉を合わせても尚。
未来を選んだ。
その実感が、樫本理子には全くない。
「そういえば先程、妹は既にもっと簡単に勝てていただろうと言いました。
ですがそうはなっていない。妹の成長曲線はある時期から変化しましたので。
では何故か。妹は、今ではなく未来を選んだからです」
あの、一瞬の閃光のように走る妹が。
最高の走りが出来るなら一戦で全て燃え尽きても構わないと、半ば本気で思っているであろう妹が。
「具体的に言うと、彼女はある時期からトレーニングよりも勉学に力を入れるようになりました」
「……………」
「レース展開を学び。脚質の差を学び。ウマ娘レースの歴史を学んだ。
本格化後の時間が無駄にならないよう、既に中等部高等部の勉学をシンボリ家で終わらせて来た。樫本理子さん。貴方の言う通り、妹は勉学に励んでいました」
——そしてそれが、今のレース結果ですよ。
そう言ったルドルフの顔は笑っていた。
誇らしいものを、当然のように誇る。そんな笑みだった。
選抜レースに勝つだけなら、簡単だっただろう。
この時期の選抜レースは、本格化による差がほぼない。始まってすらいないから。
故に本格化の前の差、具体的には名門が持つ利点などが勝負の分かれ目になりやすい。
最初から存在する圧倒的な才能。駆け引きもレース展開も無視してゴール出来る、暴力的な才能。名門が持つ血統。血の利点。
それを伸ばせば、妹はもっと簡単に勝てた。
最も強いのは、駆け引きすら必要がないほどに単純な力なのである。
堅牢な城を作り、天才的な軍師を配置し、圧倒的な数の兵を持ち、強大な歴史と経験を持つ国であっても、少し大きな隕石が落ちて来たら何の意味もないように、純粋な力の差は、あらゆる経験も技術も策ごと蹂躙出来る。
だが、妹はそういう道を選ばなかった。
いつか必ず、純粋な才能と力だけでは勝てなくなる日が来ると悟ったから。
必ず駆け引きが必要になる日が来るから。
故に、今ではなく未来を取った。
知識と経験が、未来のもっとレベルの高い舞台で役に立つと。
「樫本理子さん。既に貴方には感謝しているんです。シンボリ家一同」
「ただの偶然です。あの時あの場に居たのが、ただ私であったというだけで」
「なるほど。では偶然、貴方は今シンボリエウロスの選抜レースの場に居合わせていますね?」
「………揶揄わないでいただきたい」
足早に、樫本理子は退室していった。
運命だとか偶然だとか、そういう言葉は樫本理子の好みではなかった。
ウマ娘には友情や絆が重要である。
そんな不明瞭な言葉と同じように、彼女はそういうものを信じていない。
正確には、信じるのをやめた。今後信じる事もないだろう。
夢というのはいつだって、現実の先にある。
現実を変えるのは、夢じゃない。
夢だけでなんとかなるほど、現実は甘くない。
樫本理子は、それを、自らの担当だった子で知っている。
「結構本気だったんだが………お節介だったかな」
シンボリルドルフの呟きは、既に退出した樫本理子には聞こえなかった。
月日が流れた。
選抜レースで、シンボリエウロスには誰もトレーナーが付かなかった。
樫本理子が聞いた、シンボリ家はエウロスに干渉されるのを好まないという言葉にもURAが再び悩みを抱えそうになった頃。
突然だった。
シンボリエウロスがトレーナーを選んだ。
何なら入学してから二ヶ月という超短期間でメイクデビュー戦に出走予定を決めて来た。
エウロスが決めたトレーナーは誰だ。
当然URAの動きは早かった。
何の実績もない、新人トレーナー。一応主席合格者。
本当に大丈夫か? そういうURA内での反応。そこにとある職員が言う。
——あれ……シンボリルドルフさんと同じ?
あぁなるほど……何かがお眼鏡に適ったのか。
そういう意見で、かなり急速に鎮静化した。
意外に思うファンが多いが、実はシンボリルドルフのトレーナー、当時新人である。
じゃあシンボリルドルフはトレーナーが誰でも良かったのかと言うと、まぁあの新人トレーナーの才覚を知っているならそんな訳あると本当に思ってんのかとしか言えないのだが。
つまり、恐らくシンボリエウロスも姉と同じ事をやったのだろう。
天才は天才を見つける目や運命力があるのかもしれない。更にそのエウロスが見つけたトレーナーはたづなさんからの評価が高いのも信用ポイントだった。
URA職員が担当になっていれば、色々助かった面が多かったが仕方がない。
メディア対応を差し引いても尚、シンボリエウロスという存在がURAとの繋がりを得るのは大きかった。
ルールや規則そのものを改定するほどの入れ込みは当然絶対にNGだが、個人の道を多少塗装するくらいならやっていた。
それほどに、シンボリエウロスはトゥインクル・シリーズに影響を与える事が確定しているのだから。
またURAは、スターウマ娘のみに絞った宣伝CMやぱかぷち、専用グッズを作ったりの、トゥインクル・シリーズに益になるかならないかの判断基準を結構普通にする。
尚それなりに遠い未来、後にこの判断基準で『衝撃の英雄』と呼ばれたとあるウマ娘への……ごり押しと揶揄させるほど過度な対応と贔屓に反発の声が上がる事になるが、それは別の話だ。
彼女にトレーナーが見つかったなら仕方がない。
打算的な考えはあるにはあるが、野心というほどではない。
何よりURAすらもが彼女に過干渉して、スターウマ娘の未来を今度こそ本当に歪めた場合の損失が大き過ぎる。更にシンボリ家が未来永劫完全に敵に回る。
触らぬ神に祟りなし。
URAの撤退と損切りは早かった。
6/14日に日本レコードを更新するというデビューを飾り。
8/2日に予定通りG3札幌ジュニアステークスを勝ち。
9/6日にまさかのG3小倉ジュニアステークスに出走して来て勝ち。
9/27日に…………G3函館ジュニアステークスにも出走して勝って来てから、URAは危機感を覚え始めた。
シンボリエウロスは明らかに出走しすぎであった。
具体的に言うなら、才能を使い潰してクラシック級に行く頃には燃え尽きそうなくらい。
勿論、アレはシンボリエウロスである。あの十冠ウマ娘の妹である。
もしかしたら大丈夫なのかもしれない。
だが常識的におかしいローテーションに変わりはなかった。
基本、レースには1〜2ヶ月ほどの休息を挟んでから出走していくのが普通である。
特にレベルが高いレースでは消耗が大きいからだ。
故に言葉を選ばなければ、低いレベルでも負けるようなウマ娘は出走数が嵩む傾向にある。大して消耗してないから。
逆にレベルの高いレースに出走するウマ娘は出走数が減り、更にそこで勝てるようなウマ娘は更に減る。しっかりと休息を挟み、慎重にレースに望む。
尚、アイルランドには現在未だに現役の
ウマ娘はレースに連続出走してはならない。
何故なら才能が潰れるから。何より怪我や故障に繋がりやすいから。
ジュニア級では特にそうだ。一応比較に挙げて良いのか分からないが、
それで現在出走出来る最も格の高い重賞レースを既に3連勝?
施行されるレース場が違う重賞レースを全勝していき、1〜2週間ほどしか離れていないレースだけを除いて、ジュニア級G3レース全制覇でもする気か。
既にジュニア級で重賞レース3勝は前人未到である。
怖い。流石にやめて欲しい。
強さがどうこうとか、一強時代過ぎてどうこうとかではなく、ひたすらにシンボリエウロスという才能がジュニア級で潰れるのをURAは懸念していたのである。
「(一体、彼女は何を考えているのか……)」
そしてその懸念は、樫本理子も抱いていた。
シンボリエウロス。自らの才能によって自壊しそうだった子。
だが自らの意志で自壊しに行こうとしているのは聞いていない。
彼女がトレーナーを自ら選んだ事に対し、素直に喜んでいた束の間の出来事だった。
「(トレーナーに………)」
何かされてるのか。
それは考えた。URAも考えていた。
だが、シンボリエウロスの担当になった新人トレーナーからは全くと言って良いほど悪い事を聞かない。むしろ好意的且つ良い事しか聞かない。
聞けば聞くほど、エウロスに相応しいトレーナーなのだろうなという事が分かる。たづなさんの言う通りであった。
というか、そもそもシンボリエウロスに何かあれば、普通に背後のシンボリ家と関係者各位、更に『皇帝』が動く。全力で動く。
シンボリエウロスを脅して無理矢理従えるという行為は、警察署に行って金を出せとモデルガンを突き付けるくらいの行為と同義だ。尚、国はアメリカとする。
つまり、死にに来てるのかお前というレベルの愚かさである。
あり得ない。
シンボリエウロスに何が起こっている。
樫本理子は自らURAに許可を貰って、中央トレセン勤務に変えて貰った。
事務処理など数日はかかったが、URAで最も未来ある幹部職員が全く別の部署に飛ぶ事を考えれば、どう考えても異例の早さだった。
それくらいに緊急を要する事態だったとも言える。
「(そういえば、今日は)」
凱旋門賞。
シンボリ家の悲願。URAの悲願。日本の悲願。
そしてシンボリエウロスに望まれているもの。
樫本理子が再び中央トレセンに来た初日。
それは奇しくも凱旋門賞の日であり、変更のゴタゴタで既に夜も更けていた時間帯だった。
足が向いたのは、深夜のグラウンドだった。
シンボリエウロスは、何かのルールを破ったという話を一切聞かない。
何か問題を起こした事もなく、過度なトレーニングをしているという噂もない。
だが、寮の門限時間が過ぎていて誰も居ない筈のグラウンドに足が進んだ。
過度な自主トレーニング。情動的なウマ娘の暴走。
それは必ずと言って良いほど、グラウンドの上で起こる。
樫本理子は、それを良く知っている。
そして——本当にいた。
明らかに苦しい顔で……四年前の事件を彷彿とさせる表情で走っている。
樫本理子は、シンボリエウロスの事を良く知らない。内情を知らない。
知っているのは、四年前に起こった事件と、傍から見た時の印象。
もの静かで冷たい。感情を表に出さない。彼女はそういう子だった。喘鳴症である事を加味してもだ。
ただ彼女は、意味のない事をしない子であった。
「何を、しているのですか」
衝撃であった。
あのシンボリエウロスが、という。
意味のない加速をしている。無駄なトレーニングを、彼女はしている。
ウマ娘に限らず人間もだが、最高速度に乗ったらそれ以上加速してはいけない。もっと速く走ろうとしてはいけない。
速度に乗ったら、その姿勢を維持し、速さを継続させなくてはいけない。
逆に速度が落ちるから。何より、潰れるから。
その無駄な事を、シンボリエウロスはやっていた。
走って、走って、一瞬でスタミナを食い潰す。
燃やし尽くして、簡単に燃え尽きる。
そうしてシンボリエウロスは止まった。
今までのレースで、一度も肩で息をした事のない筈の彼女が、膝を突いている。
その姿に言葉が溢れたのは必然だっただろう。
情動的な暴走。明らかなオーバーワーク。
それが行き着く先を樫本理子は知っている。
見ていられない。そういうのが一番の理由だった。
彼女でもこうなった。追い詰められた。そんな嫌な実感が樫本理子を動かす。
「既に寮の門限時間を過ぎています。
………特別に今回だけ、寮長への報告と処罰はなしにして差し上げましょう。
ですが速やかに、無駄な自主トレーニングはやめて寮に戻りなさい。また、今後このような事はしないと約束しなさい」
ただそれでも尚、樫本理子は自制した。或いは冷静だった。
慎重に事を要する必要がある、そういう判断。
自分の担当ならまだしも、彼女とは縁のない外部の者だからという判断を、樫本理子はこのタイミングで出来た。
まずは彼女を寮に帰し、寝かせた方が良い。
肉体と精神の両方に休養を与えるのが最優先であり、事情を聞くのも門限を破った罰を求めるのも、二の次でしかない。
「聞いているのですか。いるのなら頷きなさい」
「…………(コクッ)」
特に多感な時期にあるウマ娘は、感情に折り合いが付かなくなって暴走し、大人からの諌めに反感して言葉を聞かないという事が多々ある。
顔色があまり良くなく、話を聞いているのかどうか反応の薄いエウロスだったが、話は通じていた。
それだけは安心出来た。
まだ、間に合うのだと。
「なら寮まで送ります。付いて来なさい。良いですね?」
「……はい」
ただそれでも信用をしてはいけないのがこの頃のウマ娘。
返事を聞いて、はいじゃあ良いですとはならない。目を離すという選択肢もない。
心の中では別の事を考えていて、目を離した隙に万が一……なんて事は珍しくないからだ。
「あの……その」
グラウンドから寮に戻る道すがら、少しの無言を挟んで、ようやくエウロスが口を開いた。
開いて、次の言葉を悩んで口籠る。
珍しい……と思うほどの関係性はなかったが、樫本理子はそう思った。
姉のルドルフのような威厳だったり、自然と他者を跪かせるような印象がある訳ではないが、彼女が沈黙に耐えかねたように口を開く印象がない。
「…………すみません、でした」
「謝罪なら、私ではなく貴方のトレーナーにしてください。トレーナーが把握していない自主トレーニングは不和と故障の元です」
謝罪なら自分のトレーナーにしろ。
言葉ではそう言っているが、内心では彼女のトレーナーは一体何をしているのかとも思っていた。
この頃のウマ娘は非常に多感の時期だ。トレーナーであれば常識である。
彼女でもそうなった。あのシンボリエウロスがという衝撃はあっても、だからといって放任するのは無責任でしかない。
「いえ、あの………」
再びの、煮え切らない反応。
年頃らしいといえばらしいが、シンボリエウロスらしいといえば、らしくはない。
なんですか。
そう呟いて、少し立ち止まる。
俯いた彼女の言葉を樫本理子は辛抱強く待った。
「私にトレーナーはいません」
辛抱強く待って、どんな言葉が来るのか待ち構えていて、それでも尚、その言葉を理解するのに樫本理子は一瞬の間を要した。
「………はい?」
「あの人は、名義貸しをしてくれた仮契約のトレーナーです」
名義貸し。
ウマ娘に対してトレーナーが圧倒的に足りてない故に生まれた、半ば黙認されている非公式の制度。
知っている。知らない訳がない。
樫本理子は仮にも元トレーナーであり、URA職員だ。
その両方で類い稀な才覚を示した人間だ。
中央トレセンの問題を、彼女は正確に理解している。
「トレーニング内容とか、ローテーションとか、そういうのは全部私がやっていました」
「……………」
あのシンボリエウロスが名義貸しをしていた。信じられない。それが半分。
トレーナー選びに難儀していた。名義貸しをするほど選択を迫られていた。そういう納得が半分。
昔、樫本理子が担当していたウマ娘は、一人で背負い込んで、潰れた。
どうして気付けなかった。私がもっときちんと見ていれば。
奇しくもシンボリエウロスにそう思ったのは、今回で二回目。
シンボリエウロスは明らかに一人で背負い込み過ぎている。
そしてそうなる前に、自分が防げていたかもしれない。
いや、自分であれば防げていた筈だった。防いでいなければならなかった。
何故なら、URAから、シンボリエウロスのトレーナーをしてくれと頼まれていたから。
「あの、樫本理子さん」
そう考えていたから、少し遅れた。
名前、覚えていたんですね。
樫本理子がそう応える前に彼女は口を開く。
「貴方はURAの職員でしたよね。どうしてトレセンにいるんですか」
「それは………」
貴方が、心配だったので。
樫本理子の呟きに対して、エウロスは目を二回ぱちくりと閉じた後、確かめるように尋ねる。
「私と最初に出会った時は、恐らくURA職員として仕事を果たす為に来たんですよね。そして多分今回も、表向きにはURAから何か私に関する事を委ねられている」
「…………」
「まぁ、そこは良いんです。私にはそれくらいの期待がかけられていて、失敗させられないというURAの考えがありますから。
ただ……最初に出会った時、樫本さんは私に色々教えてくれました。
ウマ娘として必要な事を、いっぱい。多分、URAからの職務を果たすだけなら必要のない事だった筈なので、思わず気になってしまったからだと思います」
「それは………そうですね。貴方の才能が、貴方のまだ出来上がっていない体を壊しそうだったので」
「どうして分かったんですか?」
食い気味。純粋な疑問。
ただ尋ねている……にしては、圧のある聞き方だった。
「今のところ、私の事を才能によって壊れそうだと評したトレーナーは二人しかいません。
そんな私に的確な判断を下したという意味でなら、貴方だけ。樫本さんから教えて貰った事は今も継続してます。力になっている実感があります」
一言、二言。
話しながら土台を組み立て、完成させていくような会話で彼女は進める。
「ただ樫本理子さん。貴方の経歴は知りませんが、多くの担当を持っていたとは思えません。いるならもう少し歳を重ねている筈です。
なのに私の事を色々と見抜け、それに適したトレーニング内容を出せる。
これって、ウマ娘の育成をデータ化などして1から10の情報に拡大化し、細かく情報化しているからじゃないですか、きっと。
こうなるなら、次はこうなる。この情報の上にはこれが成り立つ。
そういう、管理のプログラム。僅かな担当から多くの経験を得て、それを次に繋げる為の法則。私と最初にあった時も、そういう教え方をしてくれました」
——良いですか。貴方の加速力とトップスピードは速過ぎます。その力を本格化前の貴方が芝で出せば脚が壊れ兼ねません。まずは負荷の軽いダートから始めてください。
樫本理子は、過去、シンボリエウロスにそう言った。
何故そうする必要があるか。何故ダートの方が良いのか。
それを理論立てて、明確に。
樫本理子がそう言わなければ、シンボリエウロスはダートを走らなかった。
樫本理子がいなければ、シンボリエウロスはダートを走れるようにはなってない。
あの時から、樫本理子は管理主義であった。
一人のウマ娘の未来を案じ、守る為の。
「樫本理子さん。貴方は管理主義ですよね。そしてそういう規則に伴った育成論が評価されたから、規則とルールを遵守するURAで異例過ぎる出世をしているんですよね」
「……………」
「やっぱり。じゃあ今回URAから委ねられている仕事は、私のトレーナーに関する事ですね」
遂に、尋ねるような疑問形ですらなくなり、断定になった。
だが何も間違いではない。事実だ。全て合っている。
「私がトレーナーに求めていた条件は、専属トレーナーで、適切な管理に従って私を育ててくれる人でした」
でした。
過去形。
求めていた条件。
過去形。
もはや悩んでいる素振りもなく、完全な確信を瞳に宿して、彼女は言う。
「樫本理子さん。私のトレーナーになってください」
⚪︎
逆指名。
すごく察しが良い。
マヤ