「…………………」
樫本理子が目を覚ましたのは、カーテンの隙間から差し込む陽の光でだった。
昇ったばかりの陽。恐らく早朝5時。中央トレセンが活性化し始める時間帯。
夜が明けた。
長い夜、と言われたらそんな気がするが、恐らく長くはない。
ただ精神的疲労と、脳内への情報量が激しかったのである。
意思疎通の確認。仮契約していたトレーナーへの報告。URAへの確認・報告。
次にたづなさんへの連絡。シンボリルドルフへの連絡。トレーナー寮と部室と担当契約に関する事務処理。
とりあえずシンボリエウロスを寮に戻して、今日はいいから寝なさいと言った後、樫本理子はそれらを一夜で終わらせてから眠りに就いた。
「3時間半……」
寝て、起きたにしては短かすぎる睡眠時間。
睡眠には波長がある。深い眠りと浅い眠りを行ったり来たりする。
つまり樫本理子は、気絶するように寝て一気に深い眠りにまで入り、そして浅い眠りになったタイミングで起きてしまったという事だ。
「………………」
携帯を見返せば、鬼のような連絡通知が入っていた。
まぁ当たり前である。昨夜……というか今日だが、一応ちゃんと連絡や報告をしたから急かすようなものではない。
ただ逐次報告とこれからの調整に関する事務連絡を求む記載はそれなりにある。特にURAから。
どうせこのまま寝ても、数時間ごとに起きるを繰り返す。
起きよう。昨日は色々と保留にした事が多すぎる。
ただ、分かっていても体は重かった。
樫本理子はすぐに眠れるが、起きるのには苦労する。
つまり体力がない。全くない。体力が貧弱なので気絶するように眠れる。
そして体力が本当に貧弱なので快眠した感覚が薄い。
樫本理子は朝に弱かった。
コーヒーを飲む。二杯。
何故二杯かというと眠れなくなるから。
樫本理子はカフェインにも弱かった。その弱さを利用しているのだ。
か弱い生物の悲しき習性のような、そんな感じで。
——コンコン。
朝の辛さと昨夜の情報量に未だ渋滞を起こしながら、夢見心地というより現実感の無さのままコーヒーを飲む。
最中、ドアがノックされる音がした。
その音で少し覚醒する。
樫本理子はすぐさま応じた。
気絶するように寝た彼女は、スーツ姿のままだった。
「はい」
「え」
扉を開ける。
両者が言葉を発したタイミングは同時だった。
「………………」
「起きてたんですね。もしくは……すみません起こしてしまいましたか?」
シンボリエウロスだった。
早い。凄い朝が早い。
どう考えても門限の5時ピッタリに起きてすぐトレーナー寮に直行している。
「………ちゃんと寝なさいと言った筈ですが」
「平静を取り戻せ、という意味で仰ったのですよね。あの時」
「肉体的な疲労を取るのも当たり前の事です」
「はい。ですが、それよりも話し合いの方が重要な事だと思いました。昨日は保留にした事が多かったですから。後、今日は学業の方をお休みします。今から休めというのなら、その通りにします」
「あのですね………」
学業の方を疎かにして良い理由には……と言う前に思い出した。
目の前の子、学業も普通に超優秀である。というか主席である。しかも圧倒的主席。
何ならシンボリルドルフの言葉が正しいなら、既に高等部の学業も完了させている可能性すらあるのが、目の前のウマ娘(中等部1年)である。
改めて考えてこのウマ娘、めちゃくちゃにやばい子かもしれない。
まぁ姉の方が普通にめちゃくちゃやばいのだが。
「それに、休みを取るのは樫本さんもそうです。
私のせい、ではあるんですけど」
言葉にして、彼女は樫本理子の瞳を覗いた。
目は口ほどに物を言うとあるが、実際に目から読み取れる情報量は多い。
例えば睡眠が取れているとかいないとか。目に隈が出来てるかだって分かる。
「後、お風呂、入ってませんよね」
「……………」
ウマ娘は肉体的感覚に優れている。
人間よりも大きな耳による聴覚だけではない。嗅覚にも優れているのがウマ娘だ。
別に、嗅覚に優れているからウマ娘は他人の清潔度を凄い気にするという訳ではないのが、それはそれとして樫本理子は凄い気になった。
明確に言葉にしてないだけで、お風呂に入ってない匂いがしますと歳下の子に指摘されるのは、かなり堪える。
「樫本さんが今、どれほど仕事に追われている身か分からない立場なので無遠慮に言います。今からでもお風呂に入った方が良いと思います」
「…………」
「私は寮に戻って休んだ方が良いですか」
樫本理子は悩んだ。
悩んだ末に、言った。
「……朝食を取った後に来なさい」
「はい」
彼女が頷いて戻っていくや否や、樫本理子は部屋の換気と衣服の洗濯を始めた。
次にお風呂に入った。
シャワーを浴びるだけではなく、湯船を張ってちゃんと体を沈めて。
樫本理子に急遽割り振られたトレーナー寮の一室だが、ウマ娘の寮と同じで部屋ごとに設備に差がある訳ではない。だからお風呂もちゃんと備え付けられてる。
チームの部室だと、チームごとの貢献度によって部屋の豪華さに差異が出て来るが、トレーナー寮は基本的に平等だ。
「(………ここに彼女を招くのは軽率だったのでは)」
だが一つだけ言える事がある。
急遽割り振られた部屋だったのと、昨日は中央トレセン学園に来た瞬間からエウロスの事で奮闘していたので、掃除だったり身辺整理がまだちゃんとしてないという事。
お風呂に浸かりながら樫本理子は猛省していた。
さっき、自分の匂いが気になって反射的に帰してしまったが、普通にここに入れるのは良くない。
別に生活感がある訳ではないが、身辺整理してない——要はちょっと散らかってる部屋を歳下の生徒に見せたくない。
凄い見せたくない。
本当に見せたくない。
というかそもそも、寮にウマ娘を入れるのが風紀的に良くないのだ。
ウマ娘寮にトレーナーが行くのが禁止されているのは当然として、何故かトレーナー寮にウマ娘が行くのは禁止されてない。
だが、どう考えても普通に禁止されるべきではないか。
女性同士だが、そういうのはちゃんと守っていくべきである。
やっぱり部室で集合……と言いたいがまだそもそも部室が割り振られてなかった。
これからの事を相談するとなると、トレーナー寮でとなる。
……なるほど。こういう時がある事を踏まえて、ウマ娘がトレーナー寮に行くのは明確に禁止されてないのか。
中央トレセンにトレーナーとして勤務していた時間が短いのが仇になった。
多分、彼女は早くても30分くらいで戻って来るだろう。
それまでに部屋を片付けるとしたら………もうお風呂から上がるべきではないか。
上がった方が良い。うん上がろう。
さばぁ、と風呂の縁に手をかけ、樫本理子が立ち上がろうとしたその時。
「あの」
「……!?」
ヌッ……と浴室ドアの先に現れる影。
ばっさぁ、とお風呂の水が溢れた。
手を滑らせて、樫本理子は湯の張った湯船に勢いよく落ちたのである。
「大丈夫ですか?」
「い……いえ、何でもありません」
浴室ドアを挟んで心配して来るシンボリエウロスの人影に虚勢で返しながら、樫本理子は問いただした。正確には慌てた。
「な、なぜここにいるんです……!」
「いえ、食堂に行く途中で思ったんです。私が朝食を食べて戻るまでの間に、その、色々済ませるだろうなって」
その、色々。
微妙に濁した言葉に、樫本理子は察した。
というかシンボリエウロスが察したのだという事を、樫本理子は察した。
つまり戻って来るまでに部屋を片付けなきゃとか、その為にお風呂に入る時間を減らさなきゃとか。更に必然的に朝食を食べる時間は取る暇がないな、とかを。
なるほど。シンボリエウロスは察しが良いらしい。
凄い察して欲しくなかった。大人としての見栄である。
「あの、お風呂にはちゃんと入ってて良いので、私掃除しますね」
「い、いいえ結構です……!! お気遣いは感謝しますけど本当に結構です……! やめてください……!」
「そうですか? でも朝食の時間が」
「それも大丈夫ですので!」
「そうですか………朝食は食堂から持って来たのですが」
さっき、食堂に行く途中で思ったのですがと彼女は言っていた。
だがそれはそれとして、多分朝食は抜くだろうなと察したのか、ウマ娘寮の食堂から、まさかの朝食用としてご飯を一緒に持って来てくれたようだ。
なるほど。シンボリエウロスは気も利くらしい。
凄い気を利かせて欲しくなかった。というか気が利くなら、大人の見栄を分かって欲しかった。ただの我儘である。
「朝食はありがとうございます…………ですが本当に大丈夫なので……!!」
「分かりました。8時くらいで大丈夫ですか?」
「はい、そのくらいの時間で大丈夫なので、貴方はしっかり休んでください………」
「はい」
シンボリエウロスの影が浴室のドアから消えていく。多分気配も消えていく。
鋭く耳を澄まして、ようやくトレーナー寮のドアの開閉音が聞こえた辺り、彼女の挙措はお淑やかというか名門らしく高貴らしい。
彼女は、音がしない世界の方が好きだから。
普段の存在感と鉈の切れ味で誤魔化されているが、彼女はかなりもの静かな方である。
何か大人としての尊厳と第一印象を盛大に失敗した気がするまま、樫本理子は色々と身支度を済ませた。
香水は嫌がるウマ娘が多いので使用しない。
自然的な匂いや環境を好む傾向にあるウマ娘に、匂いが気になるからといって香水を振り撒くのは余り宜しくないからだ。
要は常日頃から身支度はちゃんとしとけよ、というのがトレーナーの常識である。
8時。
体は結構元気になったが、心がちょっと重いまま、指定時間になった樫本理子は、もう部屋の前で待機していたシンボリエウロスを寮内に入れた。
彼女はぽすんと、さっき念入りに掃除したソファの上に収まる。
小さい。ミニチュアに人形を飾り立てた、そんな雰囲気。
こうして見ると名家から来た深窓の御令嬢という印象しかしないのがシンボリエウロスである。末脚の切れ味は鉈だが。
「……ちゃんと休んだのでしょうね」
「アレから食事をした後に軽い腕立て。次に30分ほど仮眠を取りました。食後すぐに横になるのはあまり良くないので、横にはなってません」
一応、ちゃんと指示には従っている。
まぁ適切な管理メニューが欲しいと言っているし、別に反抗的な態度を取っている訳じゃないのだから当たり前ではあるのだが、何となくもの凄い自我が強い気がした。
空気を読んでいて敢えてガン無視するような、名門生まれの子に良くある自我と意志。反抗的な態度を取る訳とは少し違う、気性難の証。
「私の要求は昨夜と同じです。
トレーナーになってください。樫本理子さん」
「………………」
そしてやっぱり、見た目に反してこういう時は悩む素ぶりもない。
堂々としているというべきか。
悩んではいた。
悩む余地などない筈だろうと思いながら、即決は出来なかった。
彼女を担当する。その責任の重さは、簡単に決めて良い問題ではない。
シンボリエウロス。
今後のトゥインクル・シリーズを変えるかもしれない……いや、変えるだろう逸材。
そして既に4戦4勝。無敗。そして重賞3連覇。
しかもほとんどトレーナーがいないような状態でその戦績を上げた怪物だ。
そんな彼女が、いきなりトレーナー変更を申し込んで来た。
もはや鴨がネギを背負って来ているような状態。
ウマ娘のレースは数千万が動く。そして今後、数億を稼ぎ、トレーナーにも賞金だけで数千万を与える事がほぼ確定しているような存在。
………これが、どれほどおかしい事か。
適当に育成してG1を取れるウマ娘など存在しない。絶対にいない。
故にG1ウマ娘をぽんぽん輩出出来るトレーナーも存在しない。
普通はそうなのだ。それくらいに熾烈なのだ。
まず各年代で生まれて来るウマ娘の内、地方でも良いからトレセン学園に入れるのが約6割。
中央トレセンに入れるのは5%程度。
そして地方でも良いからトレセンに入れた約6割の中で一回でも勝利を上げられるのが約3割。
条件戦、或いはオープン級まで進めるのが約1割。
重賞レースを突破出来るのが、約3%
G1を一回でも勝利出来るのが約0.14%。
そこからは、G1勝利数を重ねるたび、確率は指数関数並みに先細りしていくような世界。
最高峰の頂、G1のレースを勝てるのは年にたった15人のみ。最大でだ。
ウマ娘のレースはそういう世界。
圧倒的実力主義。超弱肉強食社会。
比喩でも何でもなく、選ばれたウマ娘だけが優駿の扉を開ける。
その世界で………『皇帝』は十冠を上げた。
G1を10勝。史上初の七冠を超え、八冠を貫き、九冠すらも超越した。
もはや0.14%とかそういうレベルではなく、数十年に一人、いやもう数百年に一人と言っても別に過言ではないレベルのウマ娘。
そして、目の前にはその妹がいる。
シンボリルドルフ本人から、自分を超えると言われたウマ娘が。
数百年に一人の逸材が、もう一人現れた。だからURAは目の色を変えている。
凱旋門賞。
それはスピードシンボリから始まった夢の到達点。
現実の先にある、夢想の栄光。或いは絶望。
神の時代からクラシック三冠が引き摺り下ろされ、無敗すら『皇帝』が成し遂げたように、神格化されている凱旋門賞が現実に引き摺り下ろされるところが見たい。
それはURAだけではなく、トゥインクル・シリーズのファンもであった。
凱旋門賞は、日本で求められるレースとまるで異なる事を理解しながらも尚、夢の先を人々は見ている。
だから、シンボリエウロスをURAに引き込みたい。
その為に送り込まれているのが、樫本理子。
樫本理子は優秀だった。
昔担当していたウマ娘も、優秀な成績を残していた。
だが実は、樫本理子が元々担当していたウマ娘は重賞レースを勝ってない。
目標にしていたのは、クラシックの重賞レース。
そのレースに出走する以前に、アオハル杯で故障した。
でも、優秀だ。
世代の中の上澄み。上から数えた方が圧倒的に早い部類に入る。
何故なら重賞レースを突破出来るのはたった3%しかいないから。
トレセンに入って、走る事を生き甲斐に出来る競走ウマ娘の中で3%だ。
これはウマ娘という種族間の中で考えれば、上位1%以内に存在するのとほぼ同義である。
樫本理子の担当がもしも故障しなかったら、間違いなく重賞レースを制していた。
更に次のグレードへと勝ち進んででいたかもしれない。G1すら勝ったかもしれない。
樫本理子が担当していたウマ娘、最低でも上位3%以内。
そして、樫本理子が元々担当していたそんなウマ娘すら……手加減して遊びながら、手慰みで勝てるような怪物が、目の前にいる。
あの子が目標にしていた重賞レースと同格のレースを、仮のトレーナーしか居ないまま3連勝している正真正銘の化け物が、自分の担当になる事を望んでいる。
樫本理子が担当していたウマ娘とは、何もかもが正反対。
血統。素質。才能。性格。求めている環境。
あの子は、チームが理由になって故障した。
お世辞にも強いとは言えなかったチームの皆の為、自分が一番優秀だからとオーバーワークを行った。
だが目の前にいる彼女はチームを望まない。絶対に。
チームなんて邪魔になるからいらないと半ば言っているようなものである。
そして目の前の怪物は管理を望んでいた。
天才と呼ばれるウマ娘の多くが縛られる事を嫌う中、彼女は何もかも管理して、制限して欲しいと言う。
運命とか、偶然とか、心情とか、そういう不明瞭なもの、可能性というものを全て消し去り、支配したい。
そういう感情が見え隠れしていた。
完璧主義。暴君。その暴威はまず、自分自身を対象にした圧政から始まっている。
それがシンボリエウロスという名のウマ娘だった。
「お願いします。貴方しかいません」
言って、頭を下げる。
深々と礼をするシンボリエウロスの姿を見て断れるトレーナーは少ないだろう。
そういうレベルの名家。しかも担当トレーナーに数千万単位を無条件で与える事がほぼ確定している存在。
樫本理子にも、打算はあった。
ウマ娘を守り抜く事を第一に考えていても、樫本理子だって人間だ。
シンボリエウロスだけを守りたい訳じゃない。
管理教育プログラム。
中央トレセンにて最も広まっている自由主義とは正反対のそれは、自主トレーニングの容認。開始時間の徹底不足。休憩時間の無駄話の許可。更には睡眠時間の不確認。
そういうもの全てを防止する、徹底管理主義のプログラムである。
トレーニング内容、食事、私生活に至るまでを管理し、才能の効率的な向上と怪我・故障のリスクを徹底して下げる。それが目的の育成論。
もしも、現在の中央のやり方とはまるで異なる管理主義の教育でシンボリエウロスを導けたら……そんな打算が樫本理子にもある。
「(彼女を放っておくと………自壊する)」
だがその打算は、結果の後に付いて来るものだ。
最初の印象は心配しかなかった。
しかも恐らく、ここで自分が断ると更にシンボリエウロスを取り巻く環境は悪化する。
ほぼ、間違いなく。絶対に。
昨夜、四年前の事件を彷彿とさせる表情で走っていたシンボリエウロスを見たいかと言われたら見たくない。もう三度目だけは、見たくない。
「………分かりました。受けましょう、貴方の担当を」
正直、受けない理由などなかったようなものだった。
彼女本人が望み、周りの環境が差し示し、自分も彼女の担当をしたいと考えている。
自分が担当をしたいというよりは、放って置けないというのが正しいが。
「…………」
深々と下げていた顔を上げて、二回ほどピコピコと動いた耳。
一回だけ持ち上がり、曲線を描いてポサッとソファに落ちた尻尾。
どうやらシンボリエウロスの耳は着け耳ではなく、尻尾も偽物ではなかったらしい。
多分、喜んではいる。
もの凄い分かり辛いが。
「ただし私の担当となる以上、私からの命令には従って貰います」
「はい」
即答。何の躊躇いもなく了承する。
自分の命令を聞け。そういう言葉に反発するウマ娘は多い。
トレーナーとして、更には大人として間違えた事を言う訳がない。
管理であって強制主義ではない。
それをハナから信じ切っていなければ口には出せない、確信の言葉。
一体どうしてここまで信頼されたのか………幼少期の頃の指導紛いが原因なのでしょうねと当たりを付けた樫本理子は、そのままシンボリエウロスと正式契約の話を進めていった。
シンボリエウロスとの契約だが、驚くほどトントン拍子で進んだ。
余りにも簡単に進んで、シンボリエウロスが担当トレーナーを変えたなんて事が全くと言って良いほど噂にならないくらいだった。
特に一悶着はあるだろうと思っていた前トレーナーとの面談すら、本当に何の問題もなかった。
「あの……彼女にちゃんとしたトレーナーが見つかって良かったです。本当に」
最初の言葉が、それだった。
エウロスと一緒に仮契約していたトレーナーとちゃんと話し合いをしようとして、最初がそれだ。
「担当を変えるのですよ? 理解しているのですか貴方は」
「えっと、同じ事を彼女にも言われました。相性が良いんですね」
「…………」
「あの、全部分かってます。でも最初から、そういう契約でしたから」
仮にも貴方はトレーナーか。
そういう視線の樫本理子にも、仮契約のトレーナーは怯まなかった。
無論、仮にもトレーナーかというのは、子供を守る立場の大人かという意味ではなく、実績や評判というのが今後の現実的な問題に関わる人の反応か、という意味である。
流石の樫本理子でも、そういう反応をするほどの人間であった。
「シンボリエウロスを宜しくお願いします、樫本理子さん」
そう言って、深々と頭を下げる。
自分の方が場違いだとでもいうような誠実さと潔さで。
「……サブトレーナーは」
譲歩であった。
仮契約とはいえ、シンボリエウロスを放ったらかしにしていたのではないかと思っていた樫本理子からの、譲歩であった。
「…………」
少しの静寂の後、仮契約のトレーナーは無言で首を振る。
その動作……シンボリエウロスと、似ている。
影響されたのだろう。
相性が良いんですね。樫本理子は、自分に言われた事と同じ事を思った。
「中央トレセンの現状は知っていますよね? トレーナーが圧倒的に不足している、という」
シンボリエウロスという個人に、二人のトレーナーが付く。チームにではなく。
しかもサブのトレーナーが、今年度の首席。
二人のトレーナーを付けても尚、周囲からの反発を封殺出来るレベルの名家とはいえ、評判は間違いなく悪い。
「それに、私じゃダメでしたから。
これ以上、私がおんぶに抱っこはいけません。
何も出来ないまま、担当の関係だけを引き摺るのは」
だから、シンボリエウロスをお願いします。
そう言って、また頭を下げる。
このトレーナーが、何も出来なかったのかは樫本理子には分からない。
今後、このトレーナーがシンボリエウロスに良い方向で影響を与えるかどうかも分からない。
ただ、惜しいなとは思った。
自分がサブに付くメリットとデメリット。
シンボリエウロスに、周囲からの評判という枷を残すか残さないか。
それらを冷静に考え、考えた上でも仮契約のトレーナーは潔すぎた。
故に、惜しい。樫本理子が素直にそう思い、だからこそシンボリエウロスとこの関係を続けられていたのだろうと納得する程度には。
「……あの」
その横で、今まで黙っていたシンボリエウロスが初めて口を開いた。
「いつか、貴方の手で、私を後悔させてください」
「え……?」
「貴方を手放した事を後悔するくらい、凄いウマ娘を導いてください」
似たような事を二回言う。
それは会話の手間や労力を支払っても尚、相手に全てを伝えたい事があるという一つの信頼である事を、二人の姉しか知らない。
「手放す……手放すかなぁ……最初からそういう契約だったから」
「貴方がどう認識してるかは別にいいんです。
ただ、私を悔やませてください。シンボリエウロス生涯最大の天敵と呼ばれるようなウマ娘を担当して」
「て、天敵っていうのはちょっと言葉が悪いような……」
「ライバルという言葉よりも、天敵という言葉の方が良いと思います。
強すぎて、ケチを付けるところが本当にないくらいに完璧で、捨て台詞のようにレースがつまらないとしか言われなかった私の姉上みたいに。
絶対の強さは時に人を退屈させる。そういう言葉は、最高の褒め言葉なんですよ」
「…………」
「だから、ライバルではなく天敵を担当してください。私を後悔させるほど」
シンボリエウロスの言葉に何を思ったか。
仮契約のトレーナーは、少しの間を挟んだ後、吹っ切れたように言った。
「うん………うん分かった。必ず、貴方を後悔させるようなウマ娘を担当する。導く」
「はい」
「これからは、敵だから」
「はい」
「学ぶじゃなくて、追い付くだもんね」
「はい。後悔する日を待っています」
そうして二人は、今まで迷惑をかけて申し訳なかったと互いに言い、今までお世話になりましたと互いに告げ、これからも何かあったら手を貸すと互いに締めた。
関係そのものは極めて良好。もはや何で名義貸しの関係に留めていたのか、傍から見ていて不思議に思うくらいの関係であった。
昨夜、シンボリエウロスの暴走をこのトレーナーに問い詰めた時の反応からして、少し言い過ぎたかもしれないと樫本理子が思うくらいに、彼女達二人はトレーナーと担当ウマ娘の関係に近かった。
関係者にトレーナー変更の通達だったり、一報を入れたりで時間はかかったが驚くほど順調に進み、シンボリエウロスの日常生活及びルーティンなどの擦り合わせが進み、本命のトレーニングに入る——その前に。
「エウロス。何故、あんな無茶なローテーションをしていたのですか」
「十人以上を相手にする併走トレーニングにはレースが最も最適でした」
「………………」
「後勝てる範囲だったので」
なるほど。つまり手は抜くけど、それはそれとして勝つシンザンか。
シンザンが敗北を喫した四戦の内、なんと三回は重賞レースではない、ただのオープン戦である。
つまりレースに出るウマ娘の内97%以下が存在するクラスに、上位0.0001%級のウマ娘が出走して負けているのだ。
当時、シンザンのレーススタイルに対する批判が湧き上がった最大の理由がこれである。
明らかに手を抜いたレース。低レベルのレースをトレーニング代わりに使っていた。
別に勝とうと思えば勝てるのだから、低レベルのレースを本気で勝ちに行く理由がない。
そういう態度が滲み出ているレーススタイル。
当時、獲得賞金が低かったのも理由だったのか、1バ身でも勝ちは勝ちという言葉は受け入れられても、シンザンのレース態度そのものは、今でもあまり良いとは言い難いものだった。
シンザンと同じように鉈の切れ味と呼ばれている彼女といい、シンボリエウロスは、あのウマ娘レースの神に近しいものがあるのかもしれない。
尚トレーニング代わりに使ってるのはG3で、しかもちゃんと勝ってる。
樫本理子も、今初めて彼女から聞くまで、レースを練習代わりに使っているなど知る由もなかったくらいである。
「それでも出走しすぎでは……?」
「いえ、脚にダメージはありません。日々のトレーニングも、レースによる併走トレーニングに合わせて調整していました」
「………………」
つまり日々の反復練習のように。
毎日の習慣のように。
レースには、勝つ。
シンボリエウロスにとって、当たり前に行う日々の繰り返しの延長線が、レースの勝利。
勝つのが当然だ。そう言っているようなものだった。
他のウマ娘が、一回の勝利に力を入れる中、彼女は勝利を積み上げるものと認識している。
負ける気などない。何故なら勝つのが当たり前だから。
勝つのが当たり前だから、勝つのに本気にならない。次の戦いで勝ちやすいレースをする。経験値を溜める事を優先する。
「足を掬われるとは考えてなかったのですか」
「はい。ここで負けるような存在なら、それまでです。故に考えるのを敢えて放棄しました。思考能力を負ける事に割くのは無駄なので」
清々しいほどに言い切った。
シンボリエウロスはこう言っている。自分が後々出走するG1レースで勝ち易くする為に、G3レースに出て経験を重ねると。
これだけ見れば普通というか当たり前の事だが、その実態は十人近いウマ娘に、合法的に駆け引きの練習台になって貰っているだけだ。
ある意味では、確かにレースの事を学ぶのなら、レースに行く以外に方法はない。
レース展開の駆け引き。ペース配分やコーナー取り。
全員がトレーニングではなく勝ちに来ている、根性や執念すらもが熱く駆け巡る。
それらに当てられながら、冷静になって駆け引きを行う。
その練習をどうすれば良いのかと言ったら、レースに出走する以外に存在しないのだ。
何より根本的な人数が違う。併走トレーニングは基本的に二人。多くて五人に届くかどうかだ。
傲慢。或いは慢心。
G1に出る事を確信し、十冠を得る上では正しいのだろう。
今の内からレース中にしか学べない事を学ぶという意味で。
ただ、今の一戦に命をかけているウマ娘達にとってすれば、酷い慢心である。
負けるなどとは思ってない。当たり前のように勝つ事が前提で、何の躊躇いもなく踏み台になって貰うという意識の表れだ、これは。
だが、それを樫本理子は止めなかった。止める方が間違っているから。
彼女の、半ば自分がこの程度のレベルで負けるとは思ってないという意識は、確かに慢心ではあるのだろう。
だがその慢心こそが、彼女が勝ち続ける最大の理由になる。
或いは負ける理由にもだが。
自身に対する、強烈な自負。
古来より、その自負こそが圧倒的な王者を生み、そしてそれと同じだけ破滅していった。
シンボリエウロス。
彼女は見ている世界が違う。最初から。
周りのウマ娘達が目の前のレースを見ている中、彼女は姉の偉業の先にあるものしか頭にない。
シンボリルドルフになりたいんじゃない。シンボリルドルフを、超えたい。
彼女は、自身の前を走るシンボリルドルフの影だけを追っている。
その為に、勝利を積み上げる。
周りには踏み台になって貰う。
そうしないと届かないから。
数多の傑物、数多の優駿達を足蹴にし、その上に立ってようやく、十冠という世界に並べるから。
ハナから同期達を見てない、シンボリエウロスの在り方に腹が立つウマ娘達は、きっと出て来るだろう。私を見ろ! そう言うウマ娘も出て来るかもしれない。
では、周りを見ないシンボリエウロスは悪いのか。
スポーツマンシップに則っていない、酷く失礼な存在か。
いや、悪くない。失礼ですらない。
その在り方が悪いかと言われたら、悪くない。悪くないのだ。
では何が悪いかと言われたら……彼女を振り向かせられない周りが悪い。踏み台にされる方が悪い。
ここは、そういう世界。
上しか見てない者にとって、横は邪魔なだけ。下はどうでも良い。
故にシンザンは、神になった。
『最強の戦士』
彼女の前では、全てのウマ娘が挑戦者だった。
まだか、まだか。彼女を超えるヒーローはまだか。
そのフレーズは『皇帝』と呼ばれるウマ娘が現れるまで、永遠であった。
僅かなりとも揺らぐ事なく、崩される事すらなく。
故にシンザンが現役だった時代は『神の時代』であり、二つ名に『神話』と謳われ、崇められ、故に全ウマ娘の目標だった。
ここはウマ娘のレースの最高峰——トゥインクル・シリーズ。
そしてその世界でも尚、誰もから天才と呼ばれる一等星だけが頂点に行く。
十冠を取った『皇帝』のように、幾千幾万もの敗者達の上の頂点に立つ事を、許される。
シンボリエウロスには、そういう意識が必要だった。
この程度のレベルでは負けない、こんなところで負ける筈がないという自負。
敗者に一瞥もせず、上しか見ない。君臨する者の精神性。
故に彼女は最強になり得る。
そして、この一戦で燃え尽きても構わないという、そういう刹那の煌めきによって、きっとシンボリエウロスは負けるのだろう。
十冠を取る。十回勝つ。勝ち続ける。姉を超える。
九回負けてもよい。でもたった一回で良いから、エウロスから勝ちを取る。
そんな意識の差。意識の割り振りの問題。
樫本理子は何も言わなかった。
シンボリエウロスのそれは長所だ。
同時に短所の裏返しでもあったが、何も言わなかった。
抑え付けてはいけない。これを矯正すれば、彼女の最大の強みが消える。
隠し切れていない、雰囲気と言葉から滲み出た暴君の証。
勝ち続けて頂点に君臨するという王者の素質。
暴風雨を乗りこなす船員のように、彼女の才能と素質を乗りこなす必要がある事を、樫本理子は明敏に理解した。
「今のところ、11/14のG2デイリー杯ジュニアステークスを次のレースに予定しています」
「………阪神ジュベナイルフィリーズに出走する予定ですか」
ジュニア級で行われるG1レースは現在二つだけ。
故にその二つのレースが、ジュニア級の王者を定める決定戦となる。
G1朝日杯フューチュリティステークス。
G1阪神ジュベナイルフィリーズ。
その前哨戦として位置付けられている二つのレース。
G2京成杯ジュニアステークス 。
G2デイリー杯ジュニアステークス。
どちらがどちらの前哨戦を秘めているのかは明確に決まってはいない。
ただG1阪神ジュベナイルフィリーズの前哨戦はG2デイリー杯ジュニアステークスだろうという認識がやや中央にはある。開催レース場の特徴と位置な問題で。
「はい。ジュニア級で6戦。これが私の考えていたローテーションです」
「………………」
「ジュニア級で出走しすぎ。しかもメイクデビュー以外全部重賞レース。負担が大きすぎる。そういう懸念は分かります」
でも、レースの負担を考えてトレーニングメニューを考えて来ました。
脚の負担もありません。調整も可能でした。
シンボリエウロスは続けてそう言った。
レベルの低いレースで負けるような弱いウマ娘は消耗しない。
しないから怪我をしない。出走が嵩む。
レベルの高いレースでも勝てるほど強いウマ娘は消耗する。
するから怪我をしやすい。出走が減る。
だが、これはこうも考えられる。
レースに勝てるのは、限界を超えられるからだ。
限界を超えられるのが、いわゆる強いウマ娘。
超えられないのが、いわゆる弱いウマ娘。
限界を超えられるから、消耗する。怪我をする。代わりに勝てる。
限界を超えないから、消耗しない。怪我をしない。代わりに負ける。
そして目の前には恐らく、限界を超えずに、当たり前のように勝てる化け物がいる。
限界を超えないから、レースの消耗が少ない。
だから過酷なローテーションでも出走していける。
代わりに、シンボリエウロスは限界を超えてはいけない。
何故なら彼女は、喘鳴症だから。
限界を超えてしまえば、簡単に競走生命が縮む。
脚ではなく、呼吸器が錆び付いているのだ。
だから今、限界一歩手前のローテーションを組んでレースをしている。
未来のG1の舞台で限界を超えない為。
レース展開という、ウマ娘レースに於ける真の絶対を支配する為。
レース展開を操る為には、レースに出るしかない。クラシックG1でも通用するレベルにまで精度を上げ、経験値を貯めるしかない。
ジュニア級という、まだ世代の本命がいない今の内に。
シンボリエウロスが言っているのはそういう事だ。
「樫本さん。私をレースに出してくれませんか」
「…………はぁ」
複雑だった。
常識の範囲内でなら、レースに出すべきではない。怪我に繋がるから。
ただその常識がシンボリエウロスには通用しない。才能も常識も全て範囲外にある。
常識の範囲内に収めたい。何もかも管理したい。
でもそうすると、彼女の才能を潰す。シンボリエウロスの可能性を消してしまう。
なのに彼女は管理を求めているのだ。
「……私にちゃんと相談してくれた、その礼儀に免じて許します」
長い間、逡巡したあと樫本理子はレースの出走を許した。
事実、彼女の脚にダメージが見られなかったからである。
「ありがとうございます」
「ですが、もしも今後脚に消耗が残った場合や怪我が危ぶまれた場合、強制的に止めます。
レースには出走させません。貴方の意志も聞きません。また全力を出さなくても尚勝てるというレベルに達さなくても出走は絶対に許可しません」
「……………」
「聞いていますか」
「はい」
樫本理子が厳しい事を言った後、耳が二回ピコピコして、尻尾が一回左右に揺れる。
次に尋ねた後もまた、耳が二回ピコピコして、止まる。尻尾の揺れは止まってない。
何がなんなんだか。
今黙ったのは、嫌だからじゃないのか。
そう思いながら、樫本理子は続けた。
「今後のローテーションは貴方と要相談ですが、代わりに貴方のトレーニングは全て私が決めます。自主トレーニングは全て控えるように。また、他人との併走トレーニングなども許可しません。良いですね」
「はい」
躊躇いもなかった。
そもそも、彼女から何か反発された試しがない。
短い間柄だからと言われたらそれまでだが、好きに走らせたりしないという、そういう意味の言葉だった筈だ、今のは。
「本当に良いのですね」
「はい」
再三の言葉にも、彼女は即答だった。
ただ、今度は続きの言葉を言った。
「管理してください。指示してください。命令してください。絶対に裏切りません。貴方だけは」
「結構。良い返事です。ではまず今日は、貴方の現状を把握する為の簡単なトレーニングから始め、それに応じて今後のトレーニングメニューと食事内容を変えます」
「はい」
「後は今後はい、いいえは言わなくて結構です。頷くか首を振るかで構いません」
「…………(コクッ)」
そうして、少しずつ始まった樫本理子の管理教育プログラムに、シンボリエウロスは即座に適応した。
自分が求めていたものはこれだったと言わんばかりに。
今までの自分を捨て去り、何の迷いもなく新たな自分を受け入れ、殻を破って進化するような飛翔具合で。
11月14日。京都1400m。G2 デイリー杯ジュニアステークス。
今まで1200m以上を走って来なかったシンボリエウロスが望む、次の距離にしてG2という、一歩先の地平。
それが、もうすぐに迫っていた。
⚪︎どちらがどちらの前哨戦を秘めているのかは明確に決まってはいない。
関東地区・関西地区という区分がないor薄い&牡馬・牝馬という概念もないウマ娘世界線故に、悩んだ結果この辺りは曖昧にぼかしました。
アプリ内の固有実況では史実に合わせて阪神JFがティアラ路線、朝日杯FSがクラシック路線の登竜門的な立ち位置になってるので、ちょっとオリジナル。
1991年に東西の3歳チャンピオン決定戦だった二つのレースが、牡馬と牝馬のチャンピオン決定戦に再編したのに合わせて、作中の4年後に路線整備が行われた的な小話が出るかもしれない。