有効射程距離25バ身   作:sabu

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ジュニア級
2/11 入学前


 

 中央トレセン学園。

 正式名称、日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

 JRA……ではなく、URAが運営する日本最高峰のウマ娘養成機関。

 最高峰というか、普通に一番最高の設備がある施設がここだ。

 総生徒数、約2000人を抱えるマンモス校。年間7000人近い世代のウマ娘、その約400弱が毎年ここに入学する。

 中央は地方と比べてレベルが違う。

 競走率は高く、入学する事も難しき狭き門。

 

 まだ少し寒さを感じる季節頃、私はそんな中央トレセン学園の校門前に居た。

 

 概要は学んでいたし外観はメディアを通して知っていたが、実物を瞳に映し、肌身で感じるのとは訳が違うらしい。

 まず最初に思ったのは、ひっろ………としか言いようのない、広大な敷地。

 私の家、シンボリ家も迷いそうなくらい大層な広さだが、中央はそれ以上に広かった。

 中央トレセン学園、敷地面積約80万㎡。

 

 スケートコートが、約2千㎡弱。

 スタジアムのサッカーコートが、約7千㎡。

 東京ドームが約4万7千㎡。

 東京ディズニーシーが約49万㎡。

 

 と言うとその広さが分かるだろうか。

 本当に広い。絶対に迷う。というか普通の学校が約6千㎡、大きくて約1万㎡なのだ。

 実物大のコースを備えたグラウンドが数種類あるとしても尚広い。

 ウマ娘に必要な物、場所、全てがここに揃っている。その謳い文句は何一つ嘘ではないのだろう。

 

「では、お気を付けて」

 

 足代わりに使っていたリムジンの運転手、執事の男性の言葉に、私はコクッと頷いた。

 意思疎通はそれだけ。

 満足そうに微笑んだ彼は、リムジンに乗って静かに去っていく。

 

 本当だったらここで、『ご武運を』とか、『期待していますお嬢様』とか、『慣れない環境でご不安かもしれませんが——』とか続くのかも知れないが、私にはそれがない。

 ちなみに爪弾きにされているという事ではない。

 この短い意思疎通のやり方は、ひとえに使用人の皆様方の多大なる配慮なのだ。………と、最近までは知らなかった。

 

 私は生まれ付き、喘鳴症を患っている。

 すっごい単純に言うと喉が良くない。酷い時は呼吸困難に陥るレベルだったからずっとベッドの上に居たくらい。当然呼吸器は付けていたから喋れなかった。

 口元を覆うタイプじゃなくて、口に管を通すタイプだからマジで喋れない。

 

 つまり私の場合、意思疎通のほとんどがはい(YES)いいえ(NO)

 首を縦にコクって振って頷くか、横にふるふると振るか。

 喘鳴症が改善された後も、その癖は変わらなかった。

 そもそも改善された後でも基本喉に負担をかけていい訳ではないので、私はあまり喋らない、口を開かない。

 はい(YES)いいえ(NO)で応えられるなら、縦に頷くか横に振るかで済ます。

 

 だからだろう。

 いつの間にか、シンボリ家の使用人の方ではこんな暗黙の了解が出来たらしい。

 何か貼り紙に書いてあるの見た。

 

 1.エウロスお嬢様に答えを求める場合は、はい(YES)いいえ(NO)で応えられるようにお話をするべし。

 2.エウロスお嬢様は聞き上手だからと甘えて話を長くしてはならない。心労を与えぬよう、簡潔に分かり易く、短く意思疎通するべし。

 3.エウロスお嬢様が何かを口にする場合、短い会話で済ませられるように、事前に基本となる受け応えを決めておくべし。

 

 短い会話。意思疎通そのものが僅か。

 そして私はあまり喋らず口を開かない。愛想が悪いと言っても良い。

 傍から見たら私と使用人の関係は……いやもう、何ならシンボリ家そのものとの関係が、姉のルドルフと比べて冷え切っているように見えるだろう。

 明確な差別を受けていたとか思われてしまうかもしれない。

 厳しすぎる過度な教育、無駄口を叩く事を許されず、走る事を強制され、同世代との関わりは断ち切られ、シンボリ家という檻が生み出した最高傑作、感情の消えた悲しきモンスター………なんて訳では別にない。

 

 みんな、はちゃめちゃに過保護。

 何ならさっきの方は、リムジンからわざわざ降りて、私の手を引いてリムジンから下ろして、更に一礼してから私を見送るくらいの、もう使用人の鑑としか言えない立ち振る舞いだし。

 

「…………」

 

 去っていくリムジンが視界から完全に消えてしまった後、私は再び校門の方に向いた。

 私以外に人はいない。

 すっごい早朝……早朝かな? まぁ凄い早い時間だから居ない。

 というか居たら、校門前にリムジンを止めるなんて行為出来ない。

 名門生まれのウマ娘は多いのである。

 黒いリムジンで乗り付けるのはまぁ、数えるくらいしかいないだろうけどさ、うん。

 

 取り敢えずはまぁ、試験会場に向かおう。

 6時間くらい待つけど。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 早朝、とギリギリまぁ言えなくもないかなぁ………くらいの時間から、暫くして。

 具体的には校舎とかレースグラウンドとか寮とか色々見学しつつ時間を潰して、試験は始まり、つつがなく進んだ。

 

 今更だが私、実はデビュー前から凄い知名度がある。

 何故知名度があるのかと言えば、私は『皇帝』の妹だから。

 だがその実、メディア露出は少ない。シンボリの名前だけが一人歩きしている状態。

 つまり、シンボリエウロスという存在をメディアは探そうとしているが、実際のシンボリエウロスの顔はあまり知らないのだ。

 いや……まぁちょっと、四年くらい前にメディアとゴタゴタしたけど、顔はほぼ晒されてない。

 

 え、初等部は? そこから情報漏れてないの? と聞かれたらこう答える。

 ずっと家。本当にずっと家。12年間、家の敷地内から出た事がない。

 つまり小学校通ってない。ホームスクールで小学年の課程を修了しているのである。

 うわぁ名門ってすっごい。

 

 兎も角、身体的な事情で学力がないという訳ではない。

 初等部はほぼ完璧だった。

 中学レベルはまず躓かない。

 高校レベルも躓かない。

 大学レベルも多分いける。

 

 これは何故かと言うと、ホームスクールで初等部レベルを飛び級で終わらせ、中等部高等部レベルの勉学を既にシンボリ家から受けているから。

 うわぁ名門ってすっごい。こういう辺りがかなり柔軟。

 

 ちなみに、ずっと家にいたという事はつまり、地元で負け知らずとか同学年で敵無しとかの逸話もない。そもそも同学年に会った事すらない。

 要は私、今までの生涯で家から一度も出た事のない、超世間知らずなお嬢様状態なのだ。

 

 何が言いたいのかと言うと、ヒト耳ウマ耳問わず、アレがシンボリ家の………なんて視線は一切なかった。

 一応、今日は試験を受けに来ただけだ。

 額に刻まれているシンボリルドルフのような流星はあるが、ウマ娘全体で見たら流星そのものは珍しくない。

 超早朝で、黒いリムジンで乗り付けているのは見られてないから、試験は普通につつがなく進んだ。

 

 走力試験。学力試験。

 走る事を除けば、普通の学校とそう変わらない。

 普通の学校に行ってない私が言うのもなんだが。

 走る方もまぁ、ウマ娘だから別に気にならない。

 本気で走った。一番早くゴールした。それだけ。

 

 主席通過だと良いな。

 というか……主席通過じゃないと、ちょっとシンボリ家に顔向け出来ない。

 何故なら私は、シンボリルドルフ本人から自分を越えると言われた身だ。

 そもそも姉から期待されてなくとも、私はシンボリ家から大切にされている。相応の時間、労力、そしてお金をかけられている。

 つまり私が下手な事をすると、シンボリ家を下に見られる。

 ならば手を抜くなどあり得ない。今世代シンボリ最大の代表者としては、主席通過以外は認められていない。

 これは、そういう話だ。

 

 ただそれを、私は重みに感じていない。

 シンボリ家の看板を背負っているという事も。

 当然の義務。いやそれよりも、誇らしいと言うべきだった。

 

 だって私はこの生まれでなければ——とっくに死んでいた。走れもしなかった。

 

 ようやく借りを返せる時が来た。だから、私は頑張る。

 名門生まれ故のサポート、アドバンテージ、そして私にかけられる期待を糧に出来る。糧にしてるから、それ相応に自信はあるし手応えも分かる。

 

 きっと主席通過。

 シンボリルドルフを越えると言われ、自分自身が己にそう志しているのだ。

 それくらいはやるよ、私は。

 

 

 

 数時間後、面接。

 面接の日程はウマ娘によって変わるらしいが、私は試験の日からそのまま面接だった。

 つまり私が一番最初。一番早い。

 別に成績順とかそういう理由ではなく、メディア露出を配慮した学園側の措置なんだけど、それはそれとして一番というのはなんかちょっと嬉しい。

 

 一番最初。一番早い。ウマ娘としては甘美な響きだった。

 

 面接室……ではなく普通に校舎内にある理事長室に向かう。

 面接官がいるのではなく、理事長自らが面接を行うのは中央トレセン学園の特徴だろう。

 これを、ウマ娘一人一人に行う。

 そりゃウマ娘によって日程が変わるくらい時間がかかる。

 理事長の熱意は凄い。どんな人かは知らないが、大層立派だと思う。

 

 何を聞かれるのか。何を話せば良いのか。

 自己紹介、志望動機、今後のキャリアビジョン、自分の長所と短所、最後に質問はありますか………面接と聞くとそういうのが浮かぶ。

 

 姉のルドルフは面談がどういうのか教えてくれなかった。

 試験を突破して、面接がズタズタだと普通に笑えない。

 私、あまり喋らないタイプなので、結構緊張する。

 走力試験と学力試験以上に。

 

「……失礼します」

 

 多分、数日振りに開いた口と発した声で入室する。

 理事長室は、思っていたより広かった。

 

「初めまして、今日は面接官を務めさせていただく駿川たづなと申します!」

「………」

 

 え……理事長いなかった。

 

「と、言ったら驚きますよね?」

 

 そう続けて、彼女はいたずらが成功したように、はにかんだ。

 駿川たづな。緑色の人。

 私が幼い頃からの知り合い。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 まずそのウマ娘の名前を駿川たづなが知ったのは悪評からである。

 彼女の下には色々な情報が入ってくる。

 理事長秘書という役職についてはいるが、トレーナーから生徒、用務員の人にまで幅広いサポートをする彼女は、日々数十という人物と会話する。

 

 だから当然、彼女が知るのは時間の問題だった。

 人の口に戸は立てられない。噂は広がる。

 たとえどれだけ厳重に隠し通そうとしても。そこに悪意がなくても。

 しかもそれが悪評であり、シンボリ家なんていう、あまりにも大きな名門であるならば、尚の事。

 

 子は親を選べない。

 生まれる時代も、環境も。

 ただもしも、仮に選べるとしたら、誰しもが生まれを選んでいるだろう。

 

 こんな体になりたくてなった訳じゃない。

 

 駿川たづなはそういう声を聞いてきた。

 それは才能に恵まれなかった子の嘆きだった。

 才能。距離適性。体の大きさ。生まれながらの血の利点が大きく左右するもの。

 寒門生まれという、成り上がりの負けん気ではどうしようもない壁にぶつかった子が漏らした弱み。

 

 名門に生まれたくて生まれて来たんじゃない。

 

 駿川たづなはそういう声だって聞いてきた。

 名門生まれというのは、非常に有益なアドバンテージだ。

 ウマ娘のレースが、ブラッドスポーツと呼ばれる理由。

 名門生まれというだけで、寒門生まれのウマ娘よりスタートが違う。何十年分の知識の差がある。血の利点という、努力ではまず覆せない壁を持っている。

 ただ、番狂わせが起きる時は相応にある。ない訳がない。

 名門に生まれた。でも才能がなかった。名門生まれの利点を活かせなかった。

 

 寒門のあの子に負けたんだ。

 そんな言葉や視線は、時にウマ娘を走れなくする。

 

 自分の才能の限界を知った。家族の期待を裏切った。

 自分を支えていた土台が、プライドごと崩れ去った。

 ウマ娘のレース。入着はあっても勝者はたった一人。厳しい弱肉強食の世界。

 寒門には寒門の厳しさがあり、名門には名門の厳しさがある。

 寒門と名門は、互いに共感し合えない溝があった。

 

 夢ばかりではない。

 トゥインクル・シリーズは夢だけで出来た舞台ではない。

 それは、トゥインクル・シリーズが出来る昔からそうだ。

 

 夢の裏にある厳しい現実。影に隠れた涙。

 その中で顔を上げられるか、光に目を背けて諦めるか。

 もしくは……光に目を背けなくても、道半ば怪我で引退するか。

 

 駿川たづなは、そんな厳しさを何回も見て来た。

 勿論、趣味嗜好はある。好みの人柄というものもある。

 機械じゃないのだ。それが態度に表れる事はあっただろう。

 たとえば、ウマ娘を一番に考える、ウマ娘の視座に立つ事を大事にする、そんなトレーナーさんとか。

 

 だが誰かを露骨に贔屓するなんて入れ込みはせず、平等なサポートを駿川たづなは心掛けた。

 ある種の割り切りだ。

 その割り切りが年頃の少女に悟られない程度には、彼女は長くレースの世界に携わって来た。

 

 ——こんな体になりたくてなった訳じゃない。

 ——名門に生まれたくて生まれて来たんじゃない。

 

 ただその苦しみを、何も最初から二つも持つ必要はなかったのではないか。

 そう三女神に思う程度には、駿川たづなは割り切ってなかった。

 そこまで割り切っているなら、彼女は理事長秘書にはなっていない。

 

 心は折れていないのに、満足に走る事が出来ない。

 その気持ちを、駿川たづなは良く知っている。

 恐らく彼女は、誰よりもその絶望を知っている。

 

 

 一度目は、同情だった。

 

 

 喘鳴症。

 レース時、膨大な酸素を必要とするウマ娘にとってはあまりにも致命的な病。

 屈腱炎、繋靭帯炎。そして骨折。ウマ娘が引退する原因の大体は脚だ。

 ガラスの脚と例えられるように。

 だが、脚が丈夫でも引退するしかなかったウマ娘はいる。

 

 脚は残っている。私の脚はガラスじゃない。まだ走れる——そんなウマ娘の意志を無慈悲に、強制的に奪い去るのが、喘鳴症。

 呼吸がまともに出来ない。僅かそれだけ。たったそれだけで、脚も、肺も、心臓も、才能も、適性も全て関係なく走れなくする。

 名門でも、関係なく。

 

 トゥインクル・シリーズで優秀な成績を残したウマ娘のほとんどは名門生まれだ。

 例えば重賞レースを勝った、ただの重賞ではないG3、G2といったグレード制のレースを制した。最高峰のG1レースを取った。そういうウマ娘。

 優勝賞金を元手に、家が大きくなる。

 家が大きくなればトレーニング施設が大きくなる、最新鋭の設備が使える。

 最新の設備が使えれば、より優秀なウマ娘を輩出しやすくなり、レースの勝ち方、走法、駆け引き……そういう経験が溜まる。

 そしてより優秀になった次代のウマ娘は、次のレベルのレースに出て、より大きな優勝賞金を貰える。

 

 優秀なウマ娘は、より次世代が優秀に。

 いわば独占。滅多な事がない限り、寒門生まれはその循環に立ち入る隙間がない。

 それだけではない。名門生まれというだけで箔が付いてるのだ。寒門生まれのウマ娘より何十年分の知識の差すらある。

 故に走り方の悪癖がなく、寒門生まれが走り方を矯正してる間に、自分はトレーニングが出来る。優秀なトレーナーが付きやすくなる。好循環が好循環を生む。

 

 それが名門。ウマ娘界の上澄み。

 そしてその名門の中でも派閥があり、上澄みがあり、その頂点に名が上がるのがシンボリ家。

 シンボリ家に並ぶのは、恐らくメジロ家くらいだろう。

 逆にメジロ家に並ぶのもまた、シンボリ家くらいだろう。

 そんな認識があり、事実そうだった。

 シンボリ家は、比喩でも何でもなくトゥインクル・シリーズ最大の名門だった。

 

 そのシンボリ家で生まれた、呪いの子。

 それが、シンボリエウロスというウマ娘。

 

 

「——私が目指すのは、全てのウマ娘が幸福に暮らせる世界だ」

 

 

 あるウマ娘が言った。

 最初はその言葉を、荒唐無稽なものだと考えたトレーナーは少なくなかっただろう。

 才能は疑ってない。デビュー前、選抜レースで圧倒的な力を見たから。

 だが夢を語るばかりでは誰も耳を貸さない。それ相応の実績がいる。評価がいる。

 

 そしてそのウマ娘は、相応以上の実績を叩き出した。

 

 後に史上初となる無敗三冠を掲げて、シンザンの五冠を越え、史上唯一の七冠を取り……更にその七冠すら超越した十冠ウマ娘。

 彼女の名前は、シンボリルドルフ。『皇帝』シンボリルドルフ。

 そのウマ娘の始まりは、最初からずっと順風満帆だった訳ではない。

 

 ただ、個人的には応援していた。

 駿川たづなとしては、その荒唐無稽と断じられかねない夢を、もし現実に引き摺り落とせるとするなら、きっとシンボリルドルフなんだろうなと確信していたし、その夢と同じ視座に立ったただ一人のトレーナー、後に皇帝の杖となるトレーナーも、好みの人柄だったから。

 露骨な贔屓にならない程度には、多忙なトレーナーさんの仕事を肩代わりするくらいには、応援していた。

 故に必然、駿川たづなとシンボリルドルフは縁が深い。

 

「そうですね………私の夢。全てのウマ娘が幸福に過ごせる世界を作りたい。その夢の始まりは、たった一人のウマ娘からだったかもしれません」

 

 誰しもが認める頂点の存在になり、あらゆるウマ娘を導く。

 そして比喩でも何でもなくその頂点になり、相応しい二つ名を与えられる………よりも前、ふと駿川たづなは聞いた。

 シンボリルドルフと同じ視座に立ったトレーナーでも、いや、同じ視座に立ったからこそ聞かなかった、シンボリルドルフの夢の原点。或いは過去を。

 

 ただ駿川たづなの予想とは違って、シンボリルドルフは微笑みながら応えた。

 鼻から息が抜けるような苦笑い。実感と苦味を味わいながら、誇れる今を語る、乗り越えた者の笑み。

 

「きっと、たづなさんも会えば分かる筈です。私の、自慢の妹ですから」

 

 会えば分かる。

 その言葉の通り、邂逅は早かった。

 

 マルゼンスキー。ミスターシービー。

 二人がトレーニングしているところを全く見た事がない。

 そんな噂はトレセン学園ですぐ広まり、メディアに届き、そしてその動向が看破された。

 隠してもいない。二人の動向は、ある時期からいきなり急変している。

 行き先は、シンボリ家。

 

 二人は、シンボリ家でトレーニングしているのか。

 

 そんな憶測が精査されるよりも早く進展があった。

 シンボリルドルフとシリウスシンボリも、二人に合わせてシンボリ家に戻る事が増えている。

 世代の中心核と言っても過言ではないスターウマ娘達がこぞって同じ行動をしているのは何故かと、多少社会問題になりかけた。

 

 理由など枚挙すれば暇がない。

 当然、URAもトレセン学園も静観したままではいられない。

 駿川たづなも、シンボリルドルフから信用出来る人間だとしてシンボリ家に通して貰い、そして見た。

 

 

 二度目は、信じられなかった。

 

 

 小さなウマ娘が、四人を追って走っている。

 ただ、それだけ。

 故にそれだけが、何よりも異常だった。

 

 一目見た瞬間に分かった。全てを察した。

 彼女と一緒に走る方がトレーニングになると時折語っていたマルゼンスキーやミスターシービーの言葉は、嘘でも何でもない。

 極論トレーニングは、やろうと思えばどこでも出来る。

 ただウマ娘としての素質、或いは存在そのものを強化出来るとしたら、彼女と併せをするのが一番良い。

 アレに踏み入っているのは恐らく、彼女達の中ではシンボリエウロスただ一人だけ。

 

 自分でも知り得ない世界。限界の先の先。

 その先を、限界の先を、シンボリエウロスだけが知っている。

 限界を超えた先にある世界を、本格化すら始まっていないウマ娘だけが、覗き見る事を許されている。

 

「今日はもうやめた方が良いかな。息は整えられていても、疲労の蓄積は誤魔化せない」

「いやどうだろう。気迫はむしろ増してるから、ルドルフのそれは当てにならない気がするな。……正直アタシの方が先にダウンしそうかも」

 

 ルドルフが体調を慮り、シービーは限界を測る。

 

「中距離……いやマイルもダメだな。短距離1200mだ。それが今のお前に一番分がある」

「あたしとしては本格化前の今のエウロスちゃんに無理をさせたくないから800mが一番かと思うわ」

 

 シリウスが勝敗を考え、マルゼンスキーが適性を見る。

 

 傍から見れば、本格化前のウマ娘にスターウマ娘達が自らの才能を手ずから教えているように見えるだろう。

 或いは、現役ウマ娘の四人がトレーナーのような事をしているとも。

 だがその実情はむしろ逆だ。四人が、彼女から盗もうとしている。覚えようとしている。時代に選ばれたウマ娘しか踏み入れられない、固有の技術を。

 

「……三十分で」

「分かった。だが今日はこれで最後にしよう。これ以上は今後の成長を阻害する」

 

 四つん這いになって肩で息をしていた少女は短いそれだけを告げた後、息を整え始めた。

 三十分で、という言葉は、三十分の時間があれば息が整えられます。まだ走れるのでお願いします。という意味だと、駿川たづなはすぐには分からなかった。

 彼女達四人は、それがすぐに把握出来る程度にはこの行為を繰り返しているのだろうと察する事は出来た。

 

 そして、どうしてそんな短い言葉でやり取りしているのか、という理由を駿川たづなは今更になって思い出した。

 

 喘鳴症。喉頭片麻痺。

 喉の気管を維持する筋肉が上手く動かせなくなる病気。

 彼女は、その病に罹っている。

 それを駿川たづなは今更になって思い出した。

 それだけ、彼女が走っていたのが信じられなかった。

 

 静かに、彼女は息を整えている。

 

 スゥー……フゥー……と。寝息のように静かで、細く鋭く、深い呼吸。

 武闘家の呼吸法じみたそれは、意図的に心拍数を制御しているのだと気付いた。

 アレは負担を最小限に、自分の肉体に許された範囲ギリギリを見定め、逸脱しない範囲で呼吸をしている。針の穴に糸を通し続けるような事をしている。

 それをしなければ、走れないから。

 

 三十分が経った。

 いつの間にか、時間が通り過ぎていた。

 精神集中と瞑想に近い彼女の呼吸は、時間の流れすら忘れさせる。

 

「よし、次は私達も本気でやろう」

 

 立ち上がった彼女は、姉の言葉に小さく頷く。

 ここまで来ると、もはや彼女が喋ることそのものが無粋に思えた。

 限界まで後ろに絞った耳。瞳を閉じた姿勢。

 無駄なもの全てを削ぎ落とす、そんな佇まいの彼女は限界の集中を生む。

 世界を侵食し、歪曲させる。

 

 つまり静寂。

 ターフの上では息遣いしか聞こえない。

 

 明るい雰囲気を好むマルゼンスキーは一言も発していなかった。

 縛られる事、囚われる事を嫌う筈のミスターシービーは、その雰囲気に自らを合わせていた。

 二人のシンボリは、目も合わせずスタートに付いた。

 

 そして三人目のシンボリ。

 元凶の彼女だけは、自らの息遣いすら聞こえてないのだろう。

 自分の奥底にある景色を、彼女は空想から現実に溶け込ませている。

 

 誰かが、コインを真上に弾いた。

 そのコインがターフに落ちる、ほんの僅かな音。

 芝に吸われて消える筈のその音すらスタートの合図になり得る静寂。

 

 歓声はなく、ファンファーレもなく、ゲートが開く音すらない。

 

 レースは始まった。

 マルゼンスキーが逃げ、シンボリルドルフが先行、シリウスシンボリが差し、ミスターシービーが追込。

 彼女の位置は、ミスターシービーよりも更に後ろ。ぽつんと最後方に一人。

 

 時間が経つに連れ、広がっていく差。

 本格化前と本格後のウマ娘がレースすると必ず起こる現象だった。

 脚質とかそういう次元ではない、極めて単純な力量の差。

 そのまま直線が終わり、コーナーが終わり、最後の直線に差し掛かる。

 その瞬間だった。

 

 一瞬、世界が暗闇を帯びて、次に開ける。

 圧力を帯びて、縮小する。

 

 世界が歪む音がした。

 光が消える。音が消える。影に覆われ、闇を纏う。

 遂に、ウマ娘がターフを蹴る音すら消えた世界で、彼女は駆け抜ける。

 低く、次の瞬間には崩れ去りそうな超前傾姿勢。獲物を狙う猛禽類のように、前の四人を捉える。スパートをかける。何バ身も空いた距離を一気に縮める。

 

 そして、負けた。

 

 届かない。誰にも。

 マルゼンスキーは影すら踏ませず、シンボリルドルフは優位を維持したまま、シリウスシンボリは差し切り、ミスターシービーは豪脚で一気に。

 完璧な負け。圧倒的な地力違い。短距離800m。マルゼンスキーでも尚短いその距離。

 距離適性外という明らかに譲られた土俵で負けた。完全なる敗北だった。

 どうしようもない差が、シンボリエウロスと四人にはあった。

 

 それでもアレは、本格化前のウマ娘が出していい速度ではなかった。

 

 速い。あり得ないほどに。

 末脚に切れ味がありすぎる。

 何より目覚めていてはいい訳がない領域に、すでに踏み入っている。

 

 だが、きっと逆なのだろう。

 その領域に踏み入らなければ、走ることすら出来なかった。

 音も光も消えたその世界でなければ、現世は無駄な情報が多過ぎるから。

 喘鳴症。故にほんの一瞬、刹那の末脚で全てを覆す必要があるから。

 

 シンボリ家の名に恥じない才能。

 そして、その才能全てを台無しにする、死の病という不釣り合い。

 病を乗り越える為、無駄を省きに省いた集中の中に、自分の才能全てを注ぎ込んだ刹那。

 緩くでも、長く負担はかけられない。

 彼女はガラスの脚ではなく、ヒビの入った喉をしているから。

 だから。ほんの一瞬。僅かな刹那。そこで全てを引き出す。

 シンボリエウロス。

 彼女は今、速度の限界を超えた。限界の先の先へと到達した。

 疑いようもない。本格化前のウマ娘が、1F(ハロン)12秒を切るという歴史的瞬間を、恐らく駿川たづなは、最初に見たのだから。

 

 一度目は、同情だった。

 二度目は、信じられなかった。

 三度目は———

 

 

「——エウロスさんにはもう正直に話してしまいますが、実はこの面接の内容は合格に繋がりはしても落第には繋がる事はほぼあり得ません」

「…………(コクッ)」

「全てのウマ娘にチャンスがあるべき。

 中央トレセン学園はウマ娘の多様性を重じる為、走力試験と学力試験で合格に繋がらなかった候補者でも、二次審査の機会を用意しています。それがこの面談です」

「…………(コクッ)」

「もっとも、この面談は試験の内容に問わず、全生徒に対して行われます。

 この二次審査からトレセン学園の門を開き、トゥインクルシリーズにて優秀な成績を残したウマ娘の方も勿論います。

 例えば、夏の上りウマ娘と呼ばれる大器晩成型の成長をする方。シニア級にて突如覚醒し、重賞レースを制するというウマ娘の方がこの傾向に多いです」

「…………(コクッ)」

「なのでこれも正直に話してしまいますが……エウロスさんは合格です。間違いなく。この面接にもあまり意味はありません」

「…………(コクッ)」

 

 ところ変わって、トレセン学園の理事長室。

 駿川たづなはシンボリエウロスと面談をしていた。

 まともに話すのはこれがほぼ初めてと言って良い。

 正確には対面すると言うべきである。対面だとしても二回目だが。

 

 それはシンボリエウロスが幼い頃。

 彼女の走りを見て以来、時折シンボリ家にトレセン学園代表者として駿川たづなが通っていた頃である。

 

 ——お姉さん、私に走り方を教えてくれませんか。

 ——え……? えっと、どうして私に?

 

 ツンツンと、腰を引かれて振り返った先に彼女はいた。

 そういえば初めてちゃんと声を聞いた……と感慨に耽っている時、シンボリエウロスはいきなりぶっ込んで来たのである。

 

 ——お姉さんってウマ娘ですよね?

 ——ぇ……えぇ!?

 ——あの、歩き方ってヒトそれぞれですよね。職種によっても分類できます。特に走る事を生き甲斐にしてるヒトはかなり差がある。私にとっては、顔より歩き方の方が特徴的で分かり易いんです。

 

 あの時の駿川たづなの反応に先じて、すぐに理由を話し始める辺りが、彼女が聞き上手と言われる理由なのだろう。察するのが早い。

 勿論、駿川たづなとしてはそれどころではなかった。

 違いますよぉ……と断って以降、やや駿川たづなはシンボリエウロスを避けるようになる。ちょっとした苦手意識である。

 

「また、今現在トレセン学園に理事長は在籍していません。

 元々トレセン学園は秋川家が理事長として運営していたのですが、前理事長は歳を理由に退職されました。普通の会社であれば定年となる年齢ですから仕方がありません。

 そして、本来であれば次の理事長の方が来る筈だったのですが……えっと、秋川家にも色々ありまして……」

「揉めている?」

「……はい……そうなります。ここはあまり詮索しないで頂けると助かります」

「…………(コクッ)」

 

 元より、駿川たづなは彼女の患っている病気や事情を知っている。

 堅苦しい面接ではないので、頷くだけでも大丈夫ですよ、と注釈してから面談に入っていた。

 頷くばかりでちょっと不安になるが、本当にずっと喋らない訳ではなく、時折物事を聞く辺りちゃんと話は理解しているのだろう。

 

 秋川家のお家騒動とか、理事長がいないから理事長秘書の駿川たづなが面接しているとか、実質的な学園運営は生徒会長のシンボリルドルフと駿川たづなが分割してやっているとか、そういう事を。

 

「私がエウロスさんにお話ししなければならないのはこれくらいでしょうか………あっ、エウロスさんは学園というものに初めて通われますよね? もしも分からない事や困った事があれば何でも相談してくださいね!」

「…………(コクッ)」

 ありがとうございます」

 

 どうやら頷いた後に応えるという使い分けも出来るらしい。

 初めて同年代の子と触れ合う訳だが、彼女本人もそうだし周りのウマ娘さん達との関係は大丈夫かな……という駿川たづなの不安はちょっとだけ解消された。

 

 本当にちょっとだけ。

 不安90安心10が、不安85安心15になったくらいの変化。

 

 小動物的な可愛さというよりも、他を寄せ付けない孤高の天才オーラが凄いのだ。

 あのシンボリルドルフの妹だけはある。

 ついでに言うと、ぶっちぎりで首席だっただけはある。

 走力試験では同世代最速。学力試験では一つのケアレスもなく満点。

 完璧な入試成績が出たのを駿川たづなは久しぶりに見た。

 

 ……いや、シンボリルドルフが同じことをしていたからそこまで久しぶりではなかった。

 普通に天才だし努力も怠らない姉と、その姉を目標にしてる普通に天才だし努力も怠らない妹のせいで、少し常識が揺らぎかけている。

 

「えっと、じゃあエウロスさんの面接はこれでもう終わろうと思います。

 ……でも、そうですね。最後に一つだけ質問を良いですか。面接の時、ウマ娘の皆さんに必ず聞く質問です」

「………(コクッ)」

 

 元々の予定になかった質問を、駿川たづなはした。

 ウマ娘によっては、運命が変わる質問だった。

 

「貴方は、どうして走りますか」

「………………」

 

 試験で合格する事が出来なかったウマ娘は、この質問にどう答えるかで、運命が変わる。

 勿論、この質問でも合格出来なかったウマ娘の中には、大器晩成のウマ娘だからという理由で力を発揮出来なかった、未来のスターウマ娘はいたかもしれない。

 だが、そういう運を引き寄せられるかもウマ娘には必要で、そしてその運を手繰り寄せられるかが、この質問なのだ。

 

 喘鳴症。シンボリという重い冠。

 望んだ訳でもなく、生まれた瞬間に与えられた、運のないウマ娘。

 何故、走るのか。

 ウマ娘という存在にとって根源的な質問。

 

「私には夢があります」

 

 僅かな静寂の後、シンボリエウロスは口を開いた。

 

「目指すべき目標があり、理想があります。

 でも何故走るのかと問われたら、私はこう答えます」

 

 喉に爆弾を抱えていると知らなければ、当たり前に流してしまいそうだった。

 何年か振りに聞いた、彼女が自発的に話した言葉。『皇帝』と呼ばれたウマ娘を彷彿とさせる、もう一人のウマ娘がそこにいる。

 

「走れるからです」

 

 何故、ウマ娘は走るのか。

 それは遥か昔から当たり前のこと過ぎて忘れ去られた、ウマ娘という存在へ最初に向けられた疑問だった。

 

 どうして、ウマ娘は走るのだろう。

 何故、私達は走るのだろう。

 

 その理由は、未だに分かっていない。

 故に、この問いに答えられたウマ娘も、少ない。

 自分の中で答えを見つけられているという意味でなら、実は驚くほど少ない。

 多くが、この根源的な問いに意味と理由を見い出そうとし、そして口篭る。

 

「生まれ付き、呼吸をする事が上手く出来ませんでした。

 芝の上に立って走る事が出来ませんでした。

 シンボリ家に生まれなければ、私は今生きてすらいません」

「……………」

「でも今、私はこうして走る事が出来ます。

 私にとって、走る事が出来るのは奇跡です。そしてその奇跡を与えてくれたシンボリ家に、私に才能もくれたシンボリの人に、恩を返したい。

 だから私は走ります。走って示します」

 

 その言葉を、駿川たづなはしばらく反芻させていた。

 シンボリエウロスが礼を残して退出した後も、しばらく。

 面接が終わった後も。

 夕陽が沈んだ後も、しばらく、ずっと。

 

 子は親を選べない。

 生まれる時代も、環境も。

 

 でも、どう生きるかは決められる。

 自らの身の上を不遇とは思わない。幸多い生涯だった。

 それを決めるのも親でも時代でも環境でもない。自分自身だ。

 

「………そうですよね。走れる脚があるのなら、走りますよね」

 

 だって——ウマ娘だから。

 

 走れるから走る。それだけは誰にも譲れない。

 走るのに、理由なんてない。本当は理由なんてなかった。

 意味も理由も、全部後から付いて来た。

 きっと同じように、周囲から寄せられた期待や夢が、彼女には後から付いて来るだろう。

 

 ならその最初は、別に自分だって良い筈だ。

 

 ウマ娘は想いを乗せて走る。

 何もその想いは、夢や希望だけではない。

 想いや夢を託すのは、ヒトだけではない。

 無念。壊れた夢の残骸。届かなかった理想の残滓。

 自分が出来なかった事、見たかった物。それを代わりに叶えて欲しい。

 そんな夢を、ウマ娘だってウマ娘に託す。

 

 無敗三冠。

 その夢は、シンボリルドルフが現実にしてみせた。

 神話の時代でも空想の産物だった事を、現実に引き摺り落とした。

 

 じゃあ、ウマ娘という存在の可能性を、彼女に託す。

 あらゆる常識を覆し、あらゆる限界を越えて、次の世代のウマ娘に可能性と進化の先を見せていく。

 今ある不可能は、いつか可能となるただの壁でしかない。

 自らの身の上は不遇じゃない。そんな事を証明し続けていく。

 走る事など出来ない、そんな言葉と壁を、常に破り続けていく。

 そんなウマ娘になって欲しい。

 

「期待しても良いですよね」

 

 一度目は、同情だった。

 二度目は、信じられなかった。

 

「ちょっとだけ、贔屓しちゃいましたから」

 

 三度目は、期待だった。

 

 




 
⚪︎Symboli Euros(シンボリエウロス)
 はい いいえ で会話を進めていく系主人公。

⚪︎駿川たづな
 レースに懸けた時が実るときが来た。
 シビアな時空故にお出かけに誘ってもやんわり断られるくらいには内心もちょっとシビアな(推測)、シングレ版たづなさん

⚪︎秋川家の騒動。
 本作では秋川やよい理事長は出てこない。
 ……ごめんやで!
 
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