後に、そのレースは最初から最後まで終始シンボリエウロスの手の平の上だったと言われる。
その言葉に偽りなく、デイリー杯ジュニアステークスは、いきなり荒れた展開でスタートした。
ゲートが開く。
レース序盤、各ウマ娘の脚質によって立ち位置が決まる瞬間。
いきなりそこから、致命的なほど決定的な勝負が始まるなどとは、恐らく樫本理子を除いて誰も思っていなかっただろう。
シンボリルドルフも、見てから察した。
京都レース場に集まった6万人の観客から騒めきが上がる。
シンボリエウロスが、先行を取った。
その騒めきは即座に伝播し、ターフの上にいる13人のウマ娘達に共有される。
彼女達は、シンボリエウロスに挑む側だった。
故にシンボリエウロスの対策を自分達に合った形で、トレーナーと合わせて最善を尽くして来ていた。
シンボリエウロスは追込。
しかも最後の600m地点から仕掛けて来る捲り。
つまり彼女達は、最後にてどう迎え討つかを考えていた。
故に、もしもシンボリエウロスが先行して来たらなんて考えてない。考える余裕がない。
これは『異次元の逃亡者』に覚醒して一気に何連勝もしている逃げウマ娘が、何故か序盤、敢えて先頭を譲り、しかも差し・追込で勝負しに来るのを想定するくらいの事である。
彼女達にとって、シンボリエウロスが上がるとはそういう意味だった。
シンボリエウロスが先行して来るとは即ち、掛かって来たから以外にまずあり得ないのだと。
だが、それでシンボリエウロスは掛かったから後々沈んで来るなと侮るウマ娘はいない。
いたらその程度であるが、このレースにその程度はいなかった。
そもそもシンボリエウロスの最大の武器は末脚である。
最初に先頭を奪う必要がある為、最初の動きによっては勝つか負けるかが一気に変わる逃げと違い、シンボリエウロスの末脚は前目に付けても、普通に最後で末脚を発揮して来る可能性が消える事はない。
仮に多少劣化したところで、それでようやく上の下くらいの末脚になるレベルをアレは持っている。
——シンボリエウロスは、追込じゃなくても末脚を発揮出来るようになった。
——今日このレースから、アレは立ち位置を変えてもレースが出来る事を証明しに来た。
誰一人油断する事なく、そういう事を全員が思う。
よりも尚早く、シンボリエウロスが前に上がって来たという衝撃に揺れている僅か数秒。
これからの立ち位置とレース展開を思考する間。
その間は、シンボリエウロスにとって勝負を決めるのには長すぎた。
僅か数秒。だがウマ娘のレースは、0.1秒で勝負が付く。勝敗が変わる。
他のウマ娘が数秒動揺している隙に、シンボリエウロスは刹那のやり取りを当たり前のように差し込めた。
レース開始数秒、圧倒的1番人気が誰も想定していない位置に上がって来る。
まず、まともなレース展開にならない事が確定した。
ではその割を一番最初に食ったウマ娘は誰か。
3枠3番。3番人気。逃げ選択したフリークギャルというウマ娘。
彼女が開始僅か10秒ほどで1着争いから脱落させられる。
「(え……)」
フリークギャル。彼女が先頭を取った。
3枠3番。極めて最内に近く、しかも1枠1番と2枠2番は逃げウマ娘ではない。
先行ウマ娘はいたが、ここで逃げの彼女を標的にするウマ娘はいない。
何故ならこのレースではシンボリエウロスが最大の標的だからである。
ここで逃げと争い、最も警戒すべきウマ娘に対応出来なくなっては意味がない。
故にフリークギャルが先頭を取るのは楽だった。
勝てる勝てないは別にして、自分の走りをする事は間違いなく出来るウマ娘。
それが開始して、すぐに終わる。
「(な、何……)」
ウマ娘は繊細な生き物だ。特にレース中。
極限まで高まった過集中状態。僅か数分の結果で、今までの努力の行く末も、これからの未来すらもが変動する、超極限世界。
限界まで研ぎ澄ました精神は、良くも悪くも周囲の揺らぎを敏感に察知し、故に心の動きがレース結果を強く左右する。
その心の動きは、当然外部からも。
騒つく歓声。焦る観客と取り乱す実況。
それも賞賛や期待とかではなく、想像だにしなかった異常を表す騒つき。
何かが起こった。それが分からない。先頭を走るフリークギャルには分からない。
だから少し振り返った。
「(は——、ま、待って……! 待ってなんでそこにいんの……!?)」
そこで気付く。
左後方。約1/4バ身差という超ギリギリの位置まで進出して来たウマ娘。
3枠4番。隣の枠内にいた圧倒的1番人気、唯一の単枠指定。シンボリエウロス。
フリークギャルは、このタイミングでシンボリエウロスが先行策を取って来た事を理解した。
そしてそれをもっとも最悪のタイミングで理解したウマ娘だった。
「(………ヒッ——)」
追込の彼女が、前に出て来たという衝撃。
その彼女が自分のすぐ後ろにいる。居座られている。潰しに来てる。
獲物を狙う猛禽類の如き前傾姿勢を維持したままの徹底マーク。
圧力。威圧感。圧倒的1番人気という、極めて純粋な実力の差。
野生の動物に序列があるように、ウマ娘達の中でも序列がある。
実力差という、人間のそれよりももっと根源的な序列は何を想起させるか。
それは、恐怖。最も原始的で極めて純粋な感情の発露が、彼女を加速させる。
——ウマ娘は繊細な生き物だ。特にレース中。
『おっとこれは! フリークギャルが掛かってしまったかっ!? 』
ウマ娘はレース中、非常に掛かりやすい。
普段は平静でも、レース中に同じ事を考えられるウマ娘はまずいない。
だがこれは仕方ない面もある。
ウマ娘達はレース中、平均時速約60kmで走る。
これは人間で例えるなら、高速道路をバイクで走っているに近い。
そんな中、同じ速度で走って来るバイクが、後方から加速して来て自分の僅か数十cm後ろにまで接近し圧力をかけて来たら。
しかも離れようとしたら、ピッタリと付いて来て数十cmの距離を維持し続けて来たら。
ウマ娘のレースは、ほぼそういう世界である。
そして更にここに、レースの勝敗が懸かって来る。
バイクと違って、自分の体力を消耗するという極限状態の中、ペースの乱れやレース取りが如実に勝敗を左右する世界で。
ウマ娘レースに於ける判断力は、戦場のど真ん中で平静で居られるかどうかと変わらないなんて言われる理由である。
『これは大逃げでしょうか、後続をぐんぐんと置き去りにして行きます!』
逃げは先頭を奪われてはいけない。
しかし逃げはハイペースに陥ってもならない。
それが逃げの戦術的致命。
では何故、ハイペースで走ってはいけないのか。
逃げは何故、ハイペースで不利なのか。
まず、ウマ娘は全速力を30〜40秒しか維持出来ない。
ウマ娘に限らず人間もそうである。人間とは比べものにならない脚力を誇るウマ娘だが、全速力を維持出来る限界秒数は人類と全く同じなのだ。
これは才能とか個人差とか、或いは種族間の差という話ではなく、生命としての構造上に於ける限界である。
全速力を維持し、体の内側が自らの熱量で焼け付き壊れていくかどうか、という。
スタミナや肺活量や脚の丈夫さなどは一切関係ない。
脳を含む内側の臓器が機能不全に陥り、死んでいくのだ。
その限界秒数である30〜40秒……ウマ娘の脚力で駆け抜けられる距離で表すと約3F。
それを前半で使用する事を強いられ、限界を超えた状態で更に走らされる事を強要される。
故に、消耗しきっても尚走らされる時間が他の脚質よりも圧倒的に長く、限界を迎えた先の時間、根性で無理矢理支えなくてはならない時間を逃げは絶対的に必要とする。
だから逃げは、他の脚質よりも桁違いに早く消耗をし、逆説的に逃げが勝つには、他の脚質より求められる基礎ステータスが圧倒的に高い。
逃げが一番強い。そう呼ばれる事がある。
だが正確には、逃げで勝てるのが一番強い、である。
逃げで勝てるのが一番強い。これは何故か。何故なら、逃げが勝つには他の脚質より求められるモノが多すぎるから。
逃げが勝ったという事は、同じレースにいたウマ娘より、暴力的なほど勝る基礎ステータスを持っていたという事だから。
最初から常に一番前を走り、最後まで先頭を譲らない。
影すら踏ませない逃亡劇。最も分かりやすい最強の証明。
その証明は逃げにしか出来ない。未来永劫、絶対に。
そして、それが最も出来ないからこそ最強であり、故に理論上最強が逃げだ。
勿論、例外はある。
だが例外は例外であって、普通じゃない。
まだ『異次元の逃亡者』が地上に存在しない最大の理由がそれだ。
成りたくても、成れないのだ。
ウマ娘という生命の限界の壁を破れるだけの才能……具体的には、種族の生存戦略の観点では、異常の域に踏み入っているほどの才能があって、ようやく至れる資格が与えられるほどの。
だから、逃げはハイペースになってはいけない。
ハイペースになって、更に早く消耗してはいけない。
故に逃げは強くない。
戦術的致命を脱け出せない逃げウマ娘は、強くないとも。
フリークギャル。
彼女は完全に掛かった。
しかも自分のすぐ後ろにはシンボリエウロスがいるかもしれないと、自らの影を振り切れなくなった。
背後の影に、黒い幻影がチラ付き続ける。
彼女はこの後、レース後半に抜き去られるまで、掛かった状態からずっと脱け出せないままだった。
『或いはまさかのシンボリエウロスも逃げを選択したのか!? 先頭争いはこの二人が争っています!』
フリークギャル、彼女には一切の考える余地が与えられなかったが、だがこのレースを傍から見ていた観客の何人かは気付いただろう。
シンボリエウロスは先頭争いなどしていない。
先行して有利位置を取るには逃げウマ娘に近すぎる。
しかし先頭を奪うにしては立ち位置がおかしく、風の抵抗を受けない真後ろの位置に陣取って体力を温存する訳でもない。
敢えて前のウマ娘に姿を晒し、意識される事を念頭に入れた、不気味な立ち位置とマーク戦法。
それは後に、祝福の名を冠した『黒い刺客』と呼ばれるウマ娘が得意とした徹底マーク。
恵まれた血の利点はなく、変異種と呼ばれるほどの才能はなく——しかし逃げという脚質でシンボリルドルフの偉業に挑んだ、とある逃げウマ娘。『異次元の逃亡者』に並ぶ、逃げウマ娘の特異点。
その特異点へと行った、鬼が宿っていたとすら呼ばれる切り札。
それをシンボリエウロスは、先頭を取る逃げウマ娘にやった。
最序盤で、極めて刹那で、故にひたすら攻撃的なものを。
自身の圧力と対象が覚える恐怖というのを理解した上で。
シンボリエウロスは最初に必ず逃げを潰す。
何故なら、レース展開を一番最初に握るのは逃げだから。
故に最も展開に影響を与えるのは逃げだから。
逃げがどんな評価や言われようを受けようが、逃げがレースの最初と基礎を型作る事だけは、未来永劫絶対に変わらない。
故に、最初は必ず、逃げを潰す。
レース展開に関わる逃げを破綻させ、先頭の速度をペースにするウマ娘全員の根幹を砕き、序盤・中盤最初から全てのレース展開を荒らし、その中自分だけは当たり前のように変わらぬレースをする。
それは、国外のトゥインクル・シリーズで重要な根幹を司るラビットに対する対応策でもあった。ラビットの大半は逃げであるが故に。
シンボリエウロス。
逃げウマ娘の天敵。有効射程距離25バ身。
普通の逃げウマ娘へ『異次元の逃亡者』になる事を強制させる、超攻撃的なレースプランナー。
「(………ふざけた事してやがる)」
それを後ろから眺めていたウマ娘。
4枠5番、ブラッキーエール。
アレが前に出た理由は分からない。
だがチャンスではあった。シンボリエウロスの強さは、後方からの追込という、序盤中盤で駆け引きをし難い位置にいるのが強みである。
そのアイツが前に出て来た。お世話にもバ体に優れているとは言い難いシンボリエウロスがだ。
別にバ体に優れている事が全てではない。
だがバ群に呑まれた場合、絶対的に不利なのは身体が小さい方であり、何よりシンボリエウロスの分かりやすい弱点である事に変わりはない。
チャンスだった。
アレが暴走しているという考えは捨てている。
もしかしたら自分のようにシンボリエウロスも掛かったのか……!? なんて考えを一瞬で凍えさせるような事が、目の前で展開されているから。
その光景が、皮肉にもレース前の問答で掛かっていたブラッキーエールを冷静にさせた。
前に出た理由は分からない。
だが今ある現実を受け止める冷静さはある。
故にブラッキーエールは前への進出を開始した。
『ブラッキーエール、彼女も前目へ付けて来ました! これは何とも——』
ハイペースな展開になる。
そう言おうとした実況の声が途切れた。
遅いのだ。
何もかも。
ブラッキーエールが前目に付けるよりも前。
他ウマ娘が少し遅れてブラッキーエールと同じ事を思い、全体的に前目に付いて、自分のイメージの立ち位置に修正するよりも前に。
『おっと!? シンボリエウロス、足並みを緩めています!』
シンボリエウロスは、駆け引きを差し込める。
刹那のやり取り。過不足ないコース取り。自分に合ったペース配分。
前の逃げウマ娘を潰す。前に出る。2番手を奪う。最内を取る。
それら全てを同時にやった。同時にやれる相性の良い札が複数あるから、重ねた。
言葉にすればそれだけの事でも、平然とやれるウマ娘は少ない。まずいない。
だが、彼女にはそれが平然と出来た。
巧遅は拙速に如かずとも言うが、彼女は同時に迅速果敢でもあった。
何故なら、姉がそうだから。
『先頭争いはフリークギャルに軍配が上がりましたが、これはシンボリエウロスにとっては然程影響しないでしょう。掛かり気味に前へ付けたようでしたが、即座に位置をリカバリーしていくようです』
「(違う、コイツは)」
『そうですね。雰囲気に呑まれてもすぐに冷静さを取り戻せるのは彼女の持ち味ですよ』
「(——コイツは掛かってない!)」
シンボリエウロスは掛かってない。
最初からずっと。ブラッキーエールにはそれが分かった。
左後方に並んだブラッキーエールを覗く、冷気すら感じる氷の瞳。
それを見て、誰がシンボリエウロスは掛かったと言うのだろう。
一瞬、少しだけ距離と立ち位置を確認するように向いた瞳には、ブラッキーエールを凍死させるように際立った、冷静さと平静が同居している。
『直線を抜けました! さぁここからは京都レース場名物、淀の坂!』
「(どうする、どうすれば良い)」
前に出て来たシンボリエウロスとやり合う気でいた。
だが、そのシンボリエウロスは既に完璧なコーナー取りをしている。終わらせている。
最内。レーンの柵に腕を掠めそうなほどの、絶妙な距離感。
その距離感は、カーブに入った淀の坂でも崩れなかった。
『フリークギャル、なんと後続に10バ身近く付けた大逃げ! 600m通過タイムは……なんと34.8!』
「(どうする………どうする……!? どうすれば良いんだ、クソが!)」
『2番手はシンボリエウロス! 今日はそのままの位置で良いのか! 後方集団はやや横の塊となって淀の坂を駆け抜けていきます!』
分からない。
バ群に呑まれた場合が、シンボリエウロスにとっての負け筋である事は分かる。
だが、そのシンボリエウロスはバ群に呑まれないギリギリ絶妙な位置をキープし続けている。
2番手。最内。隣は柵。
壁を背にして、片方面を完全な安全地帯にしているようなものだ。
シンボリエウロスは外側を気にするだけで良い。
ではそういう場合の対処として、外から抜いて内に圧力を掛けるのが選択肢に上がる。
だがそうするには遅過ぎた。
今はコーナー。コーナーでは外から抜き難いのは常識だ。
抜き難いコーナーで敢えて抜くと消耗するのも常識だ。
では、コーナーが終わった後の直線で、末脚勝負?
……あのシンボリエウロスを相手にそれはない。
その末脚勝負で、シンボリエウロスが一番強いのだ。
つまり最後まで待とうなんて考えは、ただの思考放棄である。
じゃあ、やっぱりコーナーから仕掛けてエウロスより前に出るか。
……その為の消耗を支払って、最後の直線で、コレに勝てるのか?
あの異次元の末脚の持ち主を相手に、コーナーで加速するという消耗をした状態で——?
分からない。
どちらを選べばいい。
分かるのは、このままでは負けるという事である。
絶対に、シンボリエウロスは先行でも当然の如く末脚を発揮して来るという信用がある。
だから分かる。負けると。
故に分からない
そもそも何故、先行を取って来たのかが分からない。
勝負が決まるまでもう一分もない。残り時間、僅かたったの30秒。
走りながら周りのウマ娘の考えを読み取り、反射的な速さの判断を要求される極限状態が、ブラッキーエールを焦らせる。
そしてそんな中で絞り出された判断がただの加速だった場合、それは後に掛かりと呼ばれる。
ブラッキーエールには分からない。
シンボリエウロスには分かって、傍から見ていたシンボリルドルフと最初から全てを知っている樫本理子には分かる事が、ブラッキーエールには分からない。
『淀の坂の頂点に入ります、800m通過タイムは……46.2! 速い! これはかなりのハイペースです!』
「(クッソ……! ペースが分からない! 配分が分からない! 仕掛け場所が分からないっ! なんで隣のコイツは平然と走ってられるんだよクソが!)」
『ですが、その他ウマ娘は約11バ身以上離れた場所で集団を維持! 先頭から最後方まで……なんと25バ身! まるで二つのレースが同時に行われているようです!』
逃げが死んだ。根本のペースが狂い、擬似的に2番手になったシンボリエウロスによってレース展開が操作されている。
その中で平然と走る隣のウマ娘、シンボリエウロスは片脚でバランスボールの上に立つような事を平然とやっているに等しかった。
ピッタリと柵ギリギリを維持し続け、無駄な距離ロスを全て避けるという、極めて純粋にして超高次元な技量。
知っていた。
この十冠ウマ娘の妹は、日常の会話レベルすら無駄と判断して削るような完璧主義者だと。
だが少しくらいミスしたっていいだろう。突け入る隙を見つけて強者を打倒するのは、弱者の特権の筈だ。
だが、シンボリエウロスは絶対にミスをしない。
その癖、他者に積極的な介入をして、ミスを誘発させる。
圧倒的にミスをしやすい荒れたレース環境内で、アレだけはミスをしない。
そして、最後の純粋な実力勝負で、アレが一番強い。
末脚に優れているとは、そういう事だ。
ウマ娘のレースは、最後に決まる。最後のラストスパートで変わる。
その最後のラストスパートで一番速い脚を持っているというのが、何処までも警戒される。
最後の最後で何もかも覆して来るという、不安。
自分以外の全てのウマ娘を、文字通り追い込む、逃げの天敵。
抜くしかない。それ以外にもう、選択肢がない。
展開と立ち位置の有利すら獲得したアレの末脚を封じられるウマ娘なんて、それこそあの十冠ウマ娘くらいしか浮かんで来ないのだから。
『残り600m! さあ残り3Fだ!』
だが極限状態の中で絞り出した答えに、何の戸惑いもなく心中出来る精神力と技量がブラッキーエールにはなかった。
そもそもそんなものを持っているのは、クラシック・シニア級でG1を取るような、才能を経験によって裏打ちした優駿のみ。
仮に有ったとしても、ブラッキーエールはそれをシンボリエウロスによってジリジリと削られていた。
シンボリエウロスと、空回りした競り合いを続けた代償による肉体的・精神的両方の損傷。
そしてレースを開始した瞬間、刹那で逃げウマ娘を掛からせて潰したあの光景が、ブラッキーエールから前に出る事を恐れさせる。
——ウマ娘は繊細な生き物だ。
焼き付いた光景。幻影を振り払い、恐れを闘志に変え、渇望に昇華させる本物。
そういうウマ娘が『影をも恐れぬ怪物』と呼ばれる。
『13バ身も離れた後方でシンボリエウロスは——』
ではこのレースにはいるのは、後々重賞レース一つも勝てないようなウマ娘だけか。
『——仕掛けない! シンボリエウロス、最後の3Fから仕掛けない!』
いや、違う。
ブラッキーエールの他にもう一人だけいる。
怪物ではない。特別才能に恵まれた訳ではなく、また経験によって自らの力を裏打ち出来てもいない。
「邪魔!」
だが彼女は、見つけた勝機に何の戸惑いもなく心中出来る精神力を持っていた。
彼女の名前はサープリムミック。2番人気。現在2戦2勝の差しウマ娘。
彼女は待っていた。約6番手の位置から、ブラッキーエールとシンボリエウロスの争いを見ていた。
最内にシンボリエウロス。その隣にブラッキーエール。
邪魔だった。内には完全に隙間がない癖に、まるでネズミ返しのような壁になっていて、外からも抜き難い。
ブラッキーエールとシンボリエウロスの後ろにいたウマ娘全員は、窮屈な思いをしている。
そしてバ群の中で、彼女は機を窺っていた。
ブラッキーエールと同じように、前目に付けてシンボリエウロスを位置争いの駆け引きに引き摺り込む機会を。
『仕掛けません! あのシンボリエウロスが、最後の3Fから仕掛けてくる『暴風』が仕掛けない!』
その均衡が、壊れた。
サープリムリックが仕掛けた瞬間、他ウマ娘全員が引き摺られるように仕掛けた。
全員見ている。シンボリエウロスが一瞬で逃げウマ娘を潰した瞬間を。
前に出たら潰される、自分一人じゃアレと駆け引き出来ない。そう思っていた。思っていたから、他が動いて一緒に動く。
一人が二人に。二人が四人に。
雪崩のように膨れ上がったウマ娘の群れが、加速して外側からシンボリエウロスを抜き去ろうと仕掛けて来る。
「…………」
その中、後方から凄まじい加速の足音が聞こえている筈のシンボリエウロスは、不気味な静寂を保ったまま——ほんの僅かだけ前に出た。
ほんの少しだけ、外に膨れた、1/2バ身の進出。
隣にいたブラッキーエールは邪魔だと思った。
まるで後ろに目でも付いてるのかと錯覚するような、完璧な位置取り。
内に入れさせない。外側へ膨らませる。加速に入った瞬間に横から邪魔を入れる。
それは例えるなら、力んだ瞬間に横から力を入れて転倒させるような、或いは走り出した瞬間に足を引っ掛けるような、酷く不気味な圧力。
そんな圧力は、スパートを掛けた瞬間のウマ娘を酷く刺激した。
2番手を奪い去ったサープリムミックも、邪魔だと思った。
邪魔、邪魔——だから絶対に抜き去る。闘争心の表れが、彼女を更に加速させる。
『——順番が入れ替わりました! サープリムミックが2番手! 続くブラッキーエール! 更に他後方のウマ娘も仕掛けていく! シンボリエウロスを抜き去って行きます!』
「(いける!)」
シンボリエウロスが上がって来ない。最後の3Fから仕掛けて来ない。
その理由が分からなくても、今ある現実を冷静に受け止め、実行する実力と精神力がサープリムミックにはあった。
速度に乗って、そのままゴール板まで進め。
シンボリエウロスが末脚を解放しても届かない位置まで加速し切れ。
滾る思いが脚先に伝わり、大地を蹴る。
加速して、コーナーを駆け抜けていく。
『おっとここで、凄まじい逃亡劇を見せていたフリークギャルはここで失速か!』
もっと、もっと速く前へ。
さぁ、後は最後の直線勝負だ。
そう考えていたサープリミリックの思考に電流の如きノイズが走った。
急激な失速。逃げが負ける事を告げる声。
「(え……)」
フリークギャル。
最初に、シンボリエウロスによって掛かった逃げウマ娘。
彼女は今、直線に入った時、外柵に接触しそうなほど——大外にいた。
常に最内を走っていられる筈の、逃げウマ娘が。
掛かったとしても、距離ロスだけはないレース運びを出来る筈の逃げが。
何故か、内ではなく外にいた。
「(いや、おかしいでしょ)」
僅かな動揺。
思考の空白は、肉体の反射を停止させる。
——いいかいサープリムミック。
ふと、トレーナーから言われていた事を彼女は思い出す。
思考の空白に答えを与えるのはいつだって、肉体の反射ではなく記憶の反射だ。
——京都レース場にある淀の坂は、下りで加速してはいけないよ。
それは何故か。
何故なら。
——下りで仕掛けるのはタブーだからね。
「(——ぁ)」
京都レース場。淀の坂。タブー。
そのタブーを犯しながら尚も勝利した、あの追込ウマ娘がどれほどの偉業を以って称えられたのかを、彼女は知っている。
その偉業を以って、あの追込ウマ娘が——ミスターシービーが、如何なる二つ名を与えられたのかを、トゥインクル・シリーズに関わる全てが知っている。
天衣無縫。或いは——『ターフの偉大なる演出家』
そう。
彼女は演出家だった。
神にしか許されていなかった三冠を望まれ。圧倒的不利から。誰もが諦めた状況から。
彼女は勝った。
最も鮮やかに。惚れ惚れするほど、豪快に。
タブーなんて人が作り出すものに過ぎない。
だから彼女は、何処までも自由で、何処までも愛された三冠ウマ娘だった。
じゃあ。
ここにいる彼女達は?
「(違う——ちがう、わたしは)」
記憶の反射は、思考の空白を消滅させた。
だが、動揺は残る。
僅か数秒。動揺から抜け切る事の出来ない数秒。
そして。
その間は。
『——仕掛けた! 仕掛けた! 仕掛けて来た!』
シンボリエウロスにとって勝負を決めるのには長すぎる。
『最内から! 最内から! 内ラチのない最内からシンボリエウロス突っ込んで来たぁっ!』
シンボリルドルフは確信していた。
あぁ、私がシービーに天皇賞・春でやったような事をやるなと。
『奪い返した! シンボリエウロスが先頭に立ちました! 最内だ! 彼女だけが、直線に踏み入った瞬間、外に膨れる事なくスパートに入った!』
樫本理子は、何も疑っていなかった。
全てのトレーナーが思う、レース中のウマ娘に全てを教えたい、失敗しないように徹底したいという考えが、彼女にだけは『絶対』に通用しないから。
——今回のレース、貴方は間違いなく全ウマ娘からマークされ、包囲されるでしょう。ですがそれは最終直線に入ってからです。
貴方が前に上がる。今回に限りですが、それだけで事前に貴方向けに立てられていた作戦は全て封殺出来ます。
——貴方と違って、事前に立てた策や展開を崩されて即座にリカバリー出来るウマ娘はいません。リカバリー出来ても貴方のように事前の策とほぼ同レベルの策を作れません。刹那の駆け引きでも優位に立てません。
——正直このレベルなら、貴方の場合展開を荒らし続けていればそのまま力押しで勝てるでしょう。どんなに展開が荒れても、貴方だけは荒れた展開すら操って脚が使えるのですから。
——ですがそれでも、展開が荒れるほど紛れが起こりやすいのがウマ娘のレース。万が一があります。
——故に、最初から最後まで計算尽のレースをして下さい。貴方なら出来ます。
——……では、ここからは私個人の話です。
——何故捲りが難しいのか。何故ミスターシービーはタブーを犯したと言われたのか。
——何故、淀の坂はゆっくり下らなくてはならないのか。
——それを教えるようなレースをして来ると良いでしょう。
——レースが如何なるペースであっても、貴方には関係ありません。
——1F12秒。逃げなら当然。先行で普通。差しなら速い。追込ならかなり速い、この速度。
——ただ、貴方にはこんな事関係ありません。貴方には脚質という区分すら必要ありません。貴方自身が12秒のミドルペースで進むか、進まないか、それだけです。
——先行位置を取れなくても構いません。厳しいと感じたら、大外に逃げても構いません。
——ただもしも、貴方が完璧なレース展開をするならば。約1000m地点、第4コーナーを抜けた瞬間。
——『絶対』に最内が開きます。
後方からの末脚勝負で、もっとも弊害になるのは前にいるウマ娘の壁によるブロックである。
では、それが直線に入った瞬間なんていう、スパートをかける最大のタイミングで一切存在しなかったら?
その答えが、これだ。
京都レース場。
淀の坂。第3コーナーから第4コーナーにかけて存在するこの坂で加速した、シンボリエウロス以外のウマ娘は、直線に入った瞬間、遠心力によって外に膨れた。
全員がだ。故に最内には誰もいない。
数瞬空いたその空白地帯。しかも内ラチすら存在しない、完璧な場所をシンボリエウロスだけが貫いた。
一人だけ単走しているような、あらゆる妨害が皆無の状況。
そこで、シンボリエウロスだけが直線勝負の加速に入れている。
更にはスパートをかけた後、もうゴールまで妨害が存在しないのすら確定した。
そういうレースにして来た。そういうレースにする為の走りを、最初からしていた。
何故なら、そうすれば勝てるから。
『やはりか! 最後の直線に入った時、先頭を奪っているのはやっぱりシンボリエウロスだ!』
もう一度繰り返そう。
後に、そのレースは最初から最後まで終始シンボリエウロスの手の平の上だったと言われる。
残り約400m。最終直線。
最内。
現在先頭。
完璧に余力を残した、このレースで最も末脚の切れ味のあるウマ娘1人。
大外。
後方位置。
仕掛けどころを間違えて無理な消耗をした、末脚の切れ味に劣るウマ娘13人。
二つの勢力による、最後の末脚勝負が始まった。
⚪︎
32戦5勝。獲得賞金額約3億4000万。1988世代G1戦線の強豪。
1989天皇賞(春)、イナリワンの2着。1989宝塚記念、イナリワンの3着。1989京都大賞典、スーパークリークの2着。1990天皇賞(春)、スーパークリークの5着。1990伝説の有馬記念、オグリキャップの8着。1991京都大賞典、メジロマックイーンの4着。1991鳴尾記念、ナイスネイチャの2着。
シニア4年目まで走り続けた古株。シングレ版サープリムミック。
⚪︎まず、ウマ娘は全速力を30〜40秒しか維持出来ない。
限界出力から一段階落とした高出力の負荷の場合はその場限りではない。
この辺りの深掘りはクラシック級になった何処かのタイミングでする気がします。
⚪︎ウマ娘という生命の限界の壁を破れるだけの才能……
この文は↑の全速力を30〜40秒しか維持出来ないという前提の話です。凄い強い逃げは、逆説的にあり得ないほど才能を持っているという訳ではありません。
特に、一定のラップを刻みながら走るという、技術の究極型を極めた場合。
この辺りの深掘りも以下略。