有効射程距離25バ身   作:sabu

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11/14 第23回 G2デイリー杯ジュニアステークス 4/4

 

 京都レース場、最大の特徴、淀の坂。

 外回りの場合、4.3mの高低差がある上り坂と下り坂の通称である。

 向こう正面を抜けた第3コーナーにかけて上り、第4コーナーで一気に下る。

 それ以外に勾配はほぼなしでコースの形状もシンプルという、非常に極端な構成をしているのが京都レース場。

 

 要は淀の坂以外、非常に簡単なのだ。

 ただこれは、淀の坂以外は極端な実力主義が物を言うという事でもある為、レースが簡単になるという事ではない。

 波乱が起き難いという事は、弱者が強者を打倒する機会が少ないという事である。

 無論、波乱が起きない訳ではないが、京都レース場で波乱が起こるとすれば、まず淀の坂で起きる。

 

 ゆっくり上り、ゆっくり下れ。

 

 それが淀の坂の掟。鉄則。

 特に、淀の坂を二回駆け抜ける必要のある『G1・芝3000m 菊花賞』と『G1・芝3200m 天皇賞(春)』では破ってはならないタブーと呼ばれるほどにそれは重視されていた。

 

 これは後に『衝撃の英雄』と呼ばれるウマ娘が、坂の頂点付近である残り800mから加速し、3200mの世界レコードを一気に1秒も更新した上で、その勝ち上がりの上がり4Fが、800mの世界レコードすらも超越しているなどという記録を残して以降は、少しずつ話が変わっていく。

 

 後年、芝の改良が進み高速バ場化して行き、また時代が進み、様々な情報と経験がトレーナーやウマ娘の名門に蓄積されていく。

 それもあり『衝撃の英雄』が現れてからは、坂の下りから少しずつ加速し、平坦な直線に向かう戦法が段々浸透し始めていった。

 

 だがそれは少し遠い未来の話であり、現状では『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』というのは破ってはならないタブーである事に変わりはなかった。

 

 これは何故かを説明する前に、そもそもどうして淀の坂は、ゆっくり上り、ゆっくり下る必要があるのかを説明する必要がある。

 

 そもそも坂は勾配は違えど各レース場にある。

 そして実は、坂は必ずゆっくり上り、ゆっくり下れというものではない。

 各レース場の特徴や勾配、距離などによって複雑に条件が変わって来るからだ。

 場合によっては坂の下りなどから加速しないと間に合わないというレースもある。

 ただ日本では、坂で加速した方が良いレースが極端に少ない為、坂ではゆっくり上れと下れが常識と呼ばれている。

 

 ここで京都レース場の話に戻るのだが、淀の坂の場合、ゆっくり上り、ゆっくり下る理由がなんと三つもある。

 

 まず一つ目、淀の坂は上り下りが切り替わるように現れ、アップダウンが激しい事。

 アップダウンが激しいという事はペースの乱れを生み易く、走り切る為のスタミナが削られ易い為、冷静に走り切る事が本来より強く求められる。

 

 次に二つ目。その坂がカーブに重なる形で存在している事。

 コーナーでは遠心力がかかる為、どうしても速度を落とす必要がある。

 これに逆らって加速すると外に膨れやすく、そして距離ロスを生みやすく、二重に消耗しやすい。

 たかが遠心力と思って侮る事は出来ない。平均時速60kmで走るウマ娘にかかる遠心力は、人間で例えると高速道路のカーブを一気に曲がるレベルに匹敵する。

 

 次に三つ目、最大の理由。 

 京都レース場の、淀の坂がある第3コーナーから第4コーナーにかけてのカーブが、スパイラルカーブである事。

 

 スパイラルカーブとは何か。

 スパイラルカーブとは、入口から出口にかけて半径が小さくなっていく曲線の事を指す。

 要はカーブに入る第3コーナーはゆるやかで、第4コーナーの終わり側で一気にカーブがきつくなっていくのである。

 

 これはレースでどう働くかというと、最初のコーナーは緩やかなので速度がほとんど落ちずに進める。

 代わりにカーブ出口の角度が急なので非常に外に膨れ易く、また直線に入った時バ群がばらけやすい。

 

 ただでさえバ群がばらけやすいスパイラルカーブ( 淀の坂 )で加速したらどうなるか。

 遠心力のせいで、更に外に膨れやすい。

 膨れやすいので、距離ロスが生まれ易い。

 距離ロスは、即ち無駄な消耗だ。

 この距離ロスは、時に10mを簡単に超えるレベルのロスにもなる。

 ちなみにこの10mは全く短くない。

 0.1秒。たった2〜3m程度で1着と2着が変わるレベルの世界で、この10mの差は余りにも大きい。10mとは約4バ身だ。

 更に、膨れた隙に他のウマ娘が内に入って来て、厳しい位置取りをする必要性すら生まれて来るかもしれない。

 

 それが淀の坂は『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』と言われる理由。

 特に3000m以上のレースではこの淀の坂を二回駆け抜ける必要がある為、勢いの付きやすい淀の坂の下りを抑え、余力を残す事が非常に肝心となる。

 

 だからこそ、上りの時点から加速していき、外を回りながら下りに入る頃には先頭を奪って勝ったミスターシービーは、タブーを犯したと言われた。

 少し遠い未来、3Fしか全速力を維持できないとされる生命の限界を超越し、3200mの世界レコードを更新したレースで、2400m走った後の上がり4Fが800mの世界レコードすらをも貫いていた『衝撃の英雄』はタブーすら廃れさせていった。

 

 才能はいつも非常識だ。

 

 だから、一流になるようなウマ娘はいつだって常識を変える。

 既成概念を打ち破り、覆し、新たな歴史に蹄跡をトゥインクル・シリーズに残す。

 だが多くのウマ娘は、その常識を破れず、愚かな選択をしたと片付けられて来た。

 残酷だがそれが真実なのだ。

 常識と呼ばれるものは、いつだって王道という名の経験が積み上がって出来たものなのだから。

 

 菊花賞。芝3000m。京都レース場。

 ミスターシービーはタブーを犯しながら勝った。

 

 天皇賞(春) 芝3200m。京都レース場。

 ミスターシービーはタブーを犯して——シンボリルドルフに負けた。

 

 菊花賞と同じように、二周目の坂に入った時点の第3コーナーから加速していき、長距離の捲りで最終コーナーでは先頭を奪う。シンボリルドルフの前に立つ。

 ミスターシービーは再び、『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』の掟を破り、高速で坂を上り、高速で坂を下った。

 誰もが、菊花賞の再現と盛り上がった。

 ターフの偉大なる演出家は、天皇賞・春の舞台でも、再びトゥインクル・シリーズのファンを魅了した。

 

 そして直線に入った瞬間、シンボリルドルフは当たり前のように先頭を奪い返し、差し切って、ゴールした。

 

 坂で温存し、余力を残し、ミスターシービーの豪脚を当たり前のように迎え撃ち、完封する。

 勝負を決めたのは才能ではない。実力ですらない。

 勝敗が分かれたのは、余力の差。距離ロスの少なさ。

 才能の深さは同じ。実力の高さも同じ。

 だから、消耗の少ない方が勝った。

 

 ただそれだけの事。

 当たり前の事だけを当たり前にやって、勝つ。

 先行と差し。極めて面白みのなかった完封という名の蹂躙。

 王道の戦術を愛し、コースの形状の定石と常識に殉じ続けた『皇帝』はそうやって、たった一回も暴力的な勝ち方をする事なく、全てを覆す暴力的な戦績を挙げた。

 

 レースの絶対は、時に既成概念すら変える常識破りのウマ娘によって覆されていく。

 非常識な才能の持ち主によって破られていく、形を変えていく。

 そしてシンボリルドルフは、その非常識すら封殺した。

 一度も常識の範囲から出る事なく。

 

 故に、絶対がある。

 そう呼ばれた。呼ばれるのに相応しかった。

 何よりも、誰よりも。

 レースに絶対はない。だがそのウマ娘には絶対がある。

 運も天命も可能性すらも壊死させる、絶対的な君臨がシンボリルドルフには似合っている。

 

『——奪った! 奪った! 直線に入った瞬間先頭を奪った!』

 

 そして今日行われた、G2・芝1400m デイリー杯ジュニアステークスの舞台でもまた。

 

 後方一気。追込。捲り。

 今日、彼女は先行策を取ったが、直線を悠々と自由に駆け抜けていく豪脚の様はミスターシービーと瓜二つだっただろう。

 だが誰しもが、シンボリエウロスの背中に『皇帝』の姿を幻視している。

 ウマ娘のレースに詳しくない人は、シンボリエウロスが最内を走っているだけで他全ウマ娘が勝手に潰れていくように見えた。

 だがその揺るぎなさと、圧倒的な君臨に近い勝ち方に『皇帝』の後ろ姿を見ている。

 

 トゥインクル・シリーズを長年見て来たファンは、現役時代の『皇帝』が今までのウマ娘と比べて頭の出来が違いすぎると言われていた事を思い出した。

 京都レース場の鉄則を自分は裏切らず、他全てのウマ娘にはタブーを犯させて勝つ。

 そんな戦法を取った妹に戦慄を覚えながら。

 

 そしてこのレースを見ていたトレーナーと一部のウマ娘達は、現役時代の『皇帝』は、周りに配慮したレースをしていたのだと理解した。

 アレは、自分の才能を何の躊躇いもなく発揮し、そして容赦なく潰しに来る、非常に攻撃的になったシンボリルドルフだと。

 

 好位追走、好位抜出。

 逃げウマ娘によって出来上がった展開に潜み、少しずつ操作し、最後にしれっと勝つ。

 言ってしまえばシンボリルドルフはそういう形だった。

 

 だが妹は違う。

 最初から最後まで自分のレースをする。する為のレースをする。

 阻む障害を徹底して潰し、他ウマ娘を無意識的に支配し、強制的に動かしている。

 何故なら、京都1400mのレースでは、京都3000mと京都3200mでは鉄則とされる『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』 が、実は鉄則ではないから。

 

 破らない方が良いのは事実である。

 だが禁忌と呼ばれるほどではない。レース展開の指標の一つにしかならない。

 

 G2デイリー杯ジュニアステークス。京都1400m。

 そう、このレースは1400mであり、短距離だ。

 そして短距離では、逃げ・先行型が有利という、まず揺るがない鉄則がある。

 その為、最初から飛ばして速度に乗り、そのまま行った行ったと呼ばれる展開になりやすい。

 

 淀の坂をハイペースで走る消耗は当然ある。

 だが京都レース場は淀の坂以外極めて平坦であり、そしてこのレースは大前提として短距離だ。

 コース形状の有利不利を超えるほど、前提にある距離の影響は大きい。

 何より京都の長距離レースと違って淀の坂は一回しか走らない。

 

 その為、京都1400mは淀の坂を高速で抜ける展開になりやすい。

 或いはスローペースになっても、第4コーナー坂の下りから加速する展開になりやすい。

 故に淀の坂が終わる直線の瞬間、非常にバ群がばらけやすい。

 京都1400mは短距離でありながら、差しが恐ろしく決まりやすいレースだった。

 差しが決まりやすいレース展開になる事を許しても尚、逃げが前へ行く方が有利だから。

 

 逃げ・先行、そして差しの勝率がなんと並んでほぼ同率1位。

 年度によっては差しが一番決まっていたなんて事もある。

 追込が不遇なのは変わらず、圧倒的差の4位。

 

 逃げがそのままハイペースで勝つ。

 先行が最後、逃げを躱して勝つ。

 差しが、ハイペースの有利と展開の分け目を見抜き、勝つ。

 

 その勝負が決まるのは、淀の坂を抜けた瞬間。

 京都1400mはハイペースの展開になっても、どの脚質が勝つのか分かり辛い。

 ほんの僅かな差と積み重ねが、勝負を決める。

 だからこのG2デイリー杯ジュニアステークスでは『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』は破ってはならないタブーではなく、また展開による圧倒的な差が生まれ難い。

 

『——強い! 強すぎるっ! これはシンボリエウロス独走状態だ!』

 

 では、このレースは一体何なのか。

 

『もはや敵無し! 直線を一人悠々と駆け抜け、シンボリエウロス後方を置き去りにして行きます!』

 

 ほんの僅かな差と積み重ねが、勝負を決める。

 だから最初から、何から何まで少しずつ重ねれば、圧倒出来る。

 そういうただの極論を、アレは本当にやった。

 

 誰も追い付けない。

 もはやこのレースは、疲労困憊させたウマ娘500mのタイムと、一切疲弊のないウマ娘400mのタイム、どちらが優秀かを決めているようなレースだった。

 

 そういうレースに、あの妹はして来た。

 

 淀の坂の掟『ゆっくり上り、ゆっくり下れ』はこのレースでは破ってもタブーにはならない。

 レース展開の指標の一つにしかならない。

 ならば、その指標がタブーになるほど重要になるレース展開にしてやったと言わんばかりの蹂躙劇。

 

 真っ向に駆け引きを行いながら強引に展開を荒らし、自分の思い通りに動かし、最後で何もかも封殺するという超攻撃的なレーススタイル。

 それがエウロスというウマ娘が持つレースの進め方。

 シンボリエウロスにはそれが出来る。当たり前のように出来る。

 

『1バ身……2バ身……! 尚も加速する! 余力は充分か、足並みは衰えない!』

 

 だって彼女は、妹だから。

 王道という戦法をこよなく愛し、あまりにも圧倒的な才能を攻撃的に活かすのでなく、安定した王道の戦術に全てを込めたあの『皇帝』のだ。

 

 王道の駆け引き。支配に近いレース展開。

 それが姉には出来た。生まれた時から出来た。

 対し妹は、誰にも制御出来ないほど破滅的に展開を荒らし切った後に、あらゆる駆け引きから手を切って、他者の考え全てを強制的に封殺する事を好む。

 

 ルドルフは王道を好んだ。

 最初から存在するルールと鉄則の中で最強である事を選び、故に頂点に君臨した。

 エウロスは王道を強制した。

 最初から存在するルールと鉄則の外に他者を弾き出し、自分だけは檻の中で空を飛んだ。

 

 今日行われたのは、そういうレースである。

 

『4バ身……5バ身……………7バ身!? なんだこれは! これは大差で決める気か!? 尚もシンボリエウロス加速していく!』

 

 だから、彼女と正面切って駆け引き出来るのは『皇帝』くらいしかいない。

 或いは『素晴らしい素質』という意味を持ちながら、ひたすらに自分の弱さに向き合い続け、キラキラになりたいと夢見て、駆け引きの中で戦うという道を選んだ優駿だけ。

 そしてこのレースに、あまりにも圧倒的な支配を実現出来るウマ娘は居ない。自分の弱さではなく強さに向き合う事を選んだウマ娘しかいない。

 

『これは大差だ! 短距離戦でこんな差が生まれるものなのか!? 圧倒的リード! 圧倒的セーフティリードを保ったまま——』

 

 つまり。

 

『——シンボリエウロス、今ゴールッッ!!』

 

 ハナから、このレースはシンボリエウロスの術中、手の平の上にあった。

 最初から勝ち目などなかった。

 

 レースに絶対はない。だがそのウマ娘には絶対がある。

 

 きっとその言葉を、シンボリルドルフを知っている全員が思い出した。

 そういうレースだった。

 そういうレースだった事が分からなかった者には、誰であっても分かりやすい数字という記録を叩き付けた。

 

 つまり勝ち時計。

 スタートしてからゴールまでの時間と、2着にまで付けたバ身差という距離。

 燦然と輝く掲示板に刻まれた数字が、残酷にそれを示す。

 

 

着順枠番名前タイム上り着差
1 3 4シンボリエウロス 1:21.733.7  
2 6 10サープリムミック 1:24.837.3大差
3 4 5ブラッキーエール 1:24.937.4½バ身
4 8 14エイシンヒエン  1:25.137.72バ身
5 6 9マリーンパレス  1:25.237.21バ身

 

 

 掲示板に載れる五人分の記録だけを見ても、明らかに一人だけ数字の格差が違った。

 もしも掲示板に、今回のレース全員分が載っていたら、更に浮いていただろう。

 上がり3F 33.7秒。

 最後の直線400mからの直線一気で、34秒を貫いた。

 上がり2Fに至っては11.0 11.0という狂気のラップを刻んだ22.0秒ジャスト。

 触れた。破りかかった。

 ウマ娘という生命が未だに越えられない、1F10.0秒の壁、その一つ後ろ。1F11.0秒。

 それを出した。その速度を2Fに渡って維持させた。

 速すぎる。この時代で出せて良いタイムじゃない。

 ガラスのように脚が砕けそうなほどにはだ。

 

 だが、砕けていない。ヒビすら入っていない。

 彼女は、心配性なトレーナーの為に怪我をせずに帰って来る事を肝に銘じている。

 

 故にその上がり3Fはどこまでも理解し難かった。

 数十年近く時代を先取りしても尚優秀なレベルの末脚。

 今レース平均上がり3Fに、4秒を超える差を付けたなどという理解を拒む数字が、そこに現れている。

 そして彼女が2着に付けたタイムは3.1秒。

 1秒とは、約5〜6バ身である。

 それが何を意味するか。

 

『——19バ身差! 19バ身差です!』

 

 京都1400m外回りのコースレコード。

 デイリー杯ジュニアステークスのレースレコード。

 デイリー杯ジュニアステークスに於ける最大着バ身差。

 そしてトゥインクル・シリーズに於ける重賞レース最大着バ身差が、その日更新された。

 

『今出ました! 19バ身差です! 嘘ではありません! 幻を見ている訳でもありません!

 19バ身差! 重賞レースで19バ身差が、今記録されました!』

 

 旧来のレースレコード1:22.9を、1.2秒縮めたのはまだ良い。

 だが、19バ身差という記録はあまりにも隔絶した記録だ。

 今日のレースは短距離である。距離が短くなるほど、着バ身差は小さくなる。

 分かりやすく極端に例えるなら、10m走なら1秒の差も生まれないが、数十kmのフルマラソンなら、数分以上という差が生まれるのと同じだ。

 

 故に中距離・長距離で大差勝ちはままあれど、短距離で大差勝ちはまず現れない。

 そして19バ身差などという記録は、中距離・長距離でもまずあり得ない。

 

 シンザンは言った。

 1バ身でも勝ちは勝ちだと。

 

 では普通の勝利は?

 そういう時に上がる差は、基本的に2バ身差だ。

 3バ身差で快勝。5バ身差で圧勝。

 そして10バ身差以上は大差。つまり蹂躙。

 レベルがあまりにも違う場合にしか、大差は記録されない。

 

 シンボリエウロスはメイクデビュー戦でも、19バ身差を出しているが、それはまだ分かる。

 メイクデビュー戦は、言ってしまえば未来のG1ウマ娘と未勝利ウマ娘が混じる事は必ずあるからだ。

 メジロラモーヌという初代ティアラ三冠ウマ娘も、メイクデビュー戦で約20バ身差を付けている。

 逆に考えて、メジロラモーヌくらいしか比較対象に上がらないなんてのが可笑しな話だが、まだ理解の範疇ではあったのだ。

 

 だがこのレースはG2だ。重賞レースだ。

 ジュニア級の格式が高い訳ではないレースとはいえ、上から二番目のレース。

 しかも短距離による19バ身差の大差勝ち。

 

「マルゼンスキー………」

 

 観客席の誰かが呟いた。

 速さを競う世界で、二つ名に『スーパーカー』と名付けられた怪物。

 8戦8勝。生涯無敗。

 本当は逃げウマ娘じゃないのに、余りにも格が違い過ぎて、結果的に先頭を取っていただけとすら呼ばれた、伝説のウマ娘。

 脚に脚部不安を抱えていながら、同世代のG1相当ウマ娘に対してそう謳われたのだ。

 

 マルゼンスキーこそが最強のウマ娘だろう。

 マルゼンスキーが日本のトゥインクル・シリーズ史上、最も強い。

 

 そんな言葉が、別に大言壮語ではないレベルの存在。

 マルゼンスキーに並ぶウマ娘は誰だと問われて、僅か数名しか名前が挙がらないような強さを誇った、文字通り生ける伝説。

 それがマルゼンスキー。大差勝ちの『怪物』マルゼンスキー。

 彼女もまた、短距離レースで当たり前のように大差で勝って来た。

 

 シンボリエウロスがやった、G2の舞台での19バ身差勝ち。

 これはかつて、マルゼンスキーがジュニア級王者を決める、後のG1レース『芝1600m 朝日杯FS』でやった13バ身差勝ちに並び兼ねないどころか、もしかしたら上回っているかもしれないレベルの勝ち方だった。

 

『なんという数字! もはやこの19バ身差という数字は未来永劫破られないのではないでしょうか!』

 

 実は、シンボリエウロスが刻んだ1:21.7というレコードタイムそのものは、数年後、『勝利の探求者』と呼ばれたウマ娘が同タイムを刻み、更に数年後、『真珠の煌めき』と呼ばれたウマ娘が1:21.3というタイムを出して更に更新する。

 

 だがこの19バ身差という記録だけは、実況の言葉通り、未来永劫塗り替える事は出来なかった。

 後に1600mへ距離延長してレコードタイムが変わるまで、この差は不滅の記録として京都レース場に残り続ける。

 

 そして、このレースは重賞だ。

 重賞レースにて、2着に3.1秒差。

 

 これは後に『のんびりステイヤー』として愛されたメジロ家のウマ娘が『G2・芝3600m ステイヤーズS』で刻んだ約1.8秒差。約11バ身。

 そして、いずれ地上に舞い降りて来る『異次元の逃亡者』が完全なる覚醒を果たし、10F世界最強とすら呼ばれた伝説へのきざはし『G2・芝2000m 金鯱賞』にて刻んだ、同じく約1.8秒差。約11バ身。

 

 この二つのタイムは、グレード制導入以降のトゥインクル・シリーズに於ける、重賞レース最大着差になって残り続ける——筈であった。

 シンボリエウロスは今、それらを突き破った。

 3.1秒差、約19バ身。

 未来永劫塗り替える事が『絶対』に叶わぬであろう不滅の記録。

 

 グレード制導入以前に遡っても尚、ただただ『強い』としか言いようがないと呼ばれたヒカルタカイと言うウマ娘が『芝3200m 天皇賞(春)』で刻んだ、約2.8秒差。約17バ身。

 地方との交流重賞という枠組みまで範囲を広げた場合、少し遠い先の未来で『砂の女王』と呼ばれるホクトベガというウマ娘が『G2・ダート2000m エンプレス杯』で刻んだ約3.0秒差。約18バ身。

 

 それらを貫いた。

 全て貫いた。

 

 その事自体はまだ、このタイムを刻んだウマ娘以外は知らない。

 勿論、ターフの上のウマ娘達も知らない。

 彼女達が理解したのは、アレはあの十冠ウマ娘の妹だという事。

 

 再認識した。或いは、ようやく理解した。

 アレは『皇帝』という、頂点と君臨という意味を与えられた筈のウマ娘が、尚も自分を超えると予言したウマ娘なのだと。

 

Eclipse first, the rest nowhere(唯一抜きん出て並ぶ者なし)

 

 生徒会長をやってる姉の方が度々口にするその言葉。

 中央トレセン学園に刻まれたスクールモットー。

 その意味、それが如何に残酷な言葉なのかを、ようやく理解する。

 きっとあの妹以上に、中央トレセン学園スクールモットーを体現している奴はいない。

 事実このレースでの1着から2着までの差は、2着から最下位の14着までの差よりも大きかった。

 メイクデビュー戦でもやった事を、アレはG2という世界ですら行って来たのだ。

 

『これが十冠ウマ娘の妹! シンボリルドルフの妹! 凄まじい強さです!』

 

 絶望的な実力の差があった。

 背中が遠すぎる。

 無理だ。勝てない。勝てる未来が見えない。

 何をしたって隣に並べる未来すら見えない。

 

 だって分からなかった。

 今後の改善点とか、これからどう対策していくとか、どういうトレーニングを続けていくとか。

 分からない。何も見えて来ない。

 才能がどうとか、努力がどうとか、もうそういう次元ですらない。

 0.1秒、後たったの一歩の差、僅か数mで勝敗が変わるようなこの世界で、3秒以上の大差はそれほどだ。19バ身差とは、約50mに匹敵する。

 

 彼女達はこの後、現実味の無いまま一夜を過ごし、次の日レース映像を見返し、何回も何回もトレーナーを交えて、ようやくシンボリエウロスに何をされたのか、どういうレース展開だったかを悟る。

 あの時、こうしていれば良かった。

 そういう過去を知っているからこその判断。外野の意見。

 

 それをシンボリエウロスはやってくる。

 何もかも終わった後、何回も見返して分かるような事を、アレは僅か数分にも満たないレース中にやってくる。

 こうすれば勝てる。

 こうするだけで、勝てる。

 そんなただ理想論を——『100%』力を発揮出来るなら勝てるという、机上の空論を。

 

 それは『異次元の逃亡者』に並ぶ、ウマ娘レースの究極形。その一つ。

 ウマ娘のレースは、レース展開による影響を多大に受ける。

 ならばもし、そのレース展開を完全に操作出来るのなら『絶対』に負けない。

 

 姉の方は相手を選んでやってきたそれ。

 だが妹は相手を選ばない。選ぶ必要がない。

 

 故に、姉は言った。

 妹は、自らを超えると。

 

『見ているでしょうかトゥインクル・シリーズファンの皆様方!

 これが十冠ウマ娘が予言した二人目の怪物! 真の天才は勝ち方すら選べる!もはや彼女に敵などいないのではないでしょうか!』

 

 興奮する実況の声とは裏腹に、ターフの上は静かだった。

 隔絶した数字という、良くも悪くも見る者に一番分かりやすく差を叩き付けるそれに、ターフの上の彼女達は現実味の無さで溺れている。

 

 肉体と精神の疲労。そのピーク。

 脳が思考出来る余力すらない。故に心で受け入れる隙間もない。

 

 そんな中、シンボリエウロスだけは当然のような顔でターフの上を去り、観客席にいたとある人物へ柵越しに話しかけていた。

 

「勝って来ました」

「………控え室へ来てください」

「はい」

「返事はしなくて結構」

「………(コクッ)」

 

 短いやり取り。それで良い。何故ならそれで足りているから。

 傍から見れば不信に見える信頼関係を、トレーナーが替わったなんて報道にある懸念ごと木っ端微塵にするようなレースをして来た、領域外のウマ娘。

 

 だから何の憂いも感じさせない足取りで、シンボリエウロスは最後まで振り返る事なくレース場から消えていった。

 彼女にとって振り返るとは、後ろを見る事だから。

 後ろを見るという事は、既に倒した敗者達を見る事だから。

 

 故に前を見る。前しか見ていない。

 シンボリエウロスの視線の先には、唯一の無敗三冠ウマ娘にして十冠という偉業を果たしたウマ娘しかいない。

 その時、日本のトゥインクル・シリーズは世界に届いていた。

 誰しもにそう呼ばせた姉だけが。

 

 だから敗者は見ない。振り返らない。顧みない。

 頂点故の孤高を貫くそれは、敗者がケチを付けるには清々しいほどに完璧で、それ故に絶望的だった。

 

「エウロス、今すぐ脚を見せなさい」

「ん、はい」

 

 では、シンボリエウロスに文句を言う者は誰もいないか。

 それは違う。全く以ってそんな事はない。

 ただ一人だけ、シンボリ家から、『皇帝』から、何よりエウロス本人から物申す事が許されている、唯一無二の存在。

 樫本理子。彼女は控え室にシンボリエウロスが来た瞬間、すぐに脚を触って疲労と損傷の有無を調べた。

 

「……………」

 

 樫本理子の表情は決して優れたものではなかった。

 まぁトレーナーだしこんなもんかぁと、脚をペタペタ触らせながら耳をピコピコしている呑気な鹿毛とは対照的に。

 

「エウロス」

「はい」

 

 だから返事はしなくて結構ですと言いながら、樫本理子は厳しい言葉を続けた。

 

「何故あんな勝ち方をしたのか説明しなさい」

「……え」

 

 レコード勝利。ジュニア級にして現在5戦5勝無敗。重賞レース4連勝。

 この時点で獲得賞金額約1億。未来永劫……少なくとも半世紀近くは破られない重賞レース19バ身差勝ちをしたウマ娘に与えられた最初の言葉は、称賛ではなく非難だった。

 つまり叱られているのである。

 

「え、あの、直線に入った時……トレーナーと一緒に勝利を喜んでる姿が思い浮かんで……普段よりも力が入りました」

「やめなさい。レース中、別の事に思いを馳せるのは事故の元です」

 

 怒ってる。怒られてる。

 そんな……あんなに頑張ったのに…………そんな、そんな……。

 

「エウロス?」

「はい………」

 

 シンボリエウロス。

 今回のレースで何人ものウマ娘の心を折った張本人は、担当のトレーナーから叱られた事で心が急速に萎んでいった。

 もはや、しょんぼりという言葉以外に形容する言葉がないほど、耳が垂れて沈んでいく。

 絶不調である。このままさっきのレースに出したら、なんかそのまま惨敗しかねないと思うほどの絶不調である。

 

「………確かに、レコードタイムを出せば勝てるだろうと貴方に言いました」

 

 そして、樫本理子は落ち込んでいるウマ娘には弱かった。

 だがウマ娘から理由を聞いただけで終わらせず、ちゃんと追求して深掘りするのは、樫本理子の優しさであり、厳しさだった。

 

 シンボリエウロスは、樫本理子を以てしても成長曲線の判断が掴めない。

 つまり、何m何秒で走り抜けられるか分からない。

 

 そこで樫本理子が設定したタイムが、レコードである。

  芝1400m。G2デイリー杯ジュニアステークス現在のレースレコード、1:22.9。

 シンボリエウロスにとっての目標は、この一ヶ月それだった。

 

 レコードを出したウマ娘が、歴代で一番強いという訳ではない。

 だがレコードを出したウマ娘が弱いという事にはならない。まずあり得ない。

 

 今年の凱旋門賞のように、一気に何名ものウマ娘がレコードを更新するなんて事がある為、レコード=勝ちにはならないが、そもそも普通レコードとは更新されないものである。

 基本、レコードを出せば勝てるのだ。

 

 そしてシンボリエウロスは、意味の分からない事に全距離でレコードを出せるほどの可能性があり、素質があった。

 シンボリルドルフの妹。勝利では飽き足らず、レコードをも出せる素質のあるウマ娘。

 それに三女神は何を思ったか、距離が変わっても尚100%絶対に能力を発揮出来る精神性と頭すら搭載してしまったのである。

 

 芝1400m。1:22.9。この壁は容易く破れる。

 

 だがその壁を破って、更にその次の壁すらも通り抜けてしまうほど圧倒的に勝ってしまえば、彼女は壁を通り抜けたまま戻って来れなくなるかもしれない。

 故に、少し抑えた。

 

 彼女に勝って欲しい。だが彼女に怪我はして欲しくない。

 

 楽に勝たせるほどの蹂躙では、故障の可能性が増える。

 故障をしないよう抑えすぎれば、負ける。才能を潰す。

 悩みに悩んで、その両方の釣り合いに納得出来る妥協点が、樫本理子にとってのレースレコードだった。

 

「ですが、レコードを一気に1秒以上も更新しろとは言ってません」

 

 で、シンボリエウロスは何をしたか。

 一気に1.2秒もレコードを更新したのだ。19バ身差の蹂躙劇で。

 

「1.2秒です。分かっていますか?」

「………はい……ごめんなさい」

 

 僅か1.2秒ではない。一気に1.2秒である。

 今年の凱旋門賞のように、一気にレコードが更新される例外もあるが、それでも基本的にレコードとは0.2秒、0.3秒くらいで更新されていくようなものだ。

 

 樫本理子は、別にシンボリエウロスに対してレコードを踏めと言っているのではない。

 出来れば同タイムが良いが、レース中には何が起こるか分からない。

 想定出来ない事が起こるのは当然。最初から最後まで何もかも思い通りにレース運びは出来ないだろう。そういう誤差は、エウロス本人に任せる事にした。

 

 我儘を言うならレコードと同じタイムで勝って欲しい。

 もしくは最低限の、0.1秒のレコード更新で。

 だが誤差はある。彼女にそれを意識させすぎて固執させてはいけない。

 故に0.2秒、或いは0.3秒が妥当だろう。0.4秒も許容範囲とする。

 

 で、シンボリエウロスは何をしたか。

 一気に1.2秒もレコードを更新したのだ。

 

 これはつまり、一枚目の壁は容易く破れるだろうけど、二枚目の壁を超えたら戻って来れなくなるかもしれないと樫本理子が故障を心配していたのに、シンボリエウロスはなんか四枚くらい壁を破って来たようなものである。

 

 尚、結果論である為口にしていないが、19バ身差も決められるほど完璧にレースを運べるのなら、レコード更新せずに勝って欲しかったと樫本理子は思っている。

 というか最後の直線でこのウマ娘は19バ身差出しているのだ。

 シンボリエウロスはなんか上がり3F33.7秒、最後の2Fに至っては22.0秒という、比喩でも何でもなく選ばれしウマ娘しか出す事の出来ない異次元のタイムを刻んでいるが、普通に36秒台でも勝てた。

 つまりシンボリエウロスはひたすらに1F12秒のペースを刻んでいるだけで勝てた。

 レコードを目標にしていた為、レコード出さなくても勝てましたよねというのは、本当にただの結果論だから樫本理子は我慢して言わなかったが。

 

「でも、あの……日本レコードは更新してませんし」

「……………」

 

 良く言うわこやつ。

 樫本理子はそう思った。思ったが言わなかった。

 樫本理子が大人だという事もあったが、シンボリエウロスが何を言いたいのか察したのである。

 

 今日、シンボリエウロスが刻んで来たタイムは、1:21.7。

 対し芝1400m現在の日本レコードは、1:21.1。

 つまりシンボリエウロスのタイムは、日本レコードより0.6秒遅い。

 1400mという区分にだけ目を向けるなら、今日のシンボリエウロスより3バ身ほど速くゴールしているウマ娘はいるのだ。

 

 ではこの日本レコードは凄い記録かと言うと……実はそこまでではない。

 この日本レコードが記録されたのは、獲得賞金額1400万以下のウマ娘しか出走する事が出来ない、クラシック級の条件戦である。

 

 言ってしまえば、メイクデビューは勝ったけど、クラシック級になっても2勝目を挙げる事が出来ないくらいのウマ娘だけが参加するレース。

 言葉を選ばなければ弱い。下から数えた方が圧倒的に早い。

 後々覚醒するかもしれないウマ娘がいる可能性は勿論あるが、現状弱いという事に変わりはない。

 

 そういうレースで、日本レコードが記録されたのだ。

 これは日本では短距離レースの人気が低く、あまり多くのレースがされていないのと、1400mという距離は中途半端なので更に少ないからという理由も重なっている為ではある。

 だがそれでも、芝1400mの日本レコードは、400m単位の根幹距離や1000m単位のレコードといった、レベルが高く何度も開催されて、繰り返し鎬が削られるレースのレコードより権威や価値があるという訳ではない。

 

 クラシック級で、下から二番目のレースで、それくらいのウマ娘の芝1400m。

 ジュニア級で、上から二番目のレースで、十冠ウマ娘に並ぶ才能のウマ娘の芝1400m。

 

 本格化後の一年は軽視してはならないが、ここまで来ると同じレベルどころか、後者の方が上回っている可能性がある。

 一応、レース場の違いやその時の調子の違いなどあるが、それを加味しても尚シンボリエウロスの方が強いだろう。

 樫本理子もその点は太鼓判を押せるほどの強さがこのウマ娘にはあった。

 シンボリエウロスは、既にクラシック級でも当たり前のように通用するほどの怪物だと。

 

「だから許して欲しい、と?」

「…………ごめんなさい。もう言い訳しません」

 

 なるほど。確かにきっとこのウマ娘は、自らが刻んだタイムを更に0.6秒以上も縮めて、日本レコードを叩き出せるのだろう。

 日本レコードは更新してませんし、という言葉は傲慢ではなく、本当にきっと、ただの事実なのだ。

 19バ身差? 私が速いんじゃなくて、皆が遅いだけです。

 レース展開に呑まれて私以外のタイムが遅くなったからこんな差が開いただけです。

 ちなみに私がもっと本気出したら20バ身差超えてました。

 

 分かった、認めよう。

 シンボリエウロスはあれでも抑えて走っていた。

 かなり意味が分からないが、あれでまだ全力じゃないのだ。

 樫本理子も、彼女の発言などからそれを認めた。

 

 認めたが、言い訳して良い理由にはならない。

 故に樫本理子は続けて叱った。

 樫本理子はこういう部分に厳しかった。

 

「………今後は、日本レコードと出走レースのレコード両方を擬似的な目標タイムに設定します」

 

 その言葉に反応して、地面と平行になっていた耳が、ぴょこ、と少しだけ浮かび上がる。

 絶不調に沈んでいた鹿毛が浮かび上がって不調くらいになる。

 尚、樫本理子は一瞬だけ正気に戻って、日本レコードが目標タイムってなんだろうと常識が揺らぎかかけたが、シンボリエウロスという常識外のウマ娘と向き合う事を決めた。

 

 樫本理子は落ち込んでいるシンボリエウロスにすごい弱かった。

 

 シンボリエウロスは今まで一切手がかからなかったからだ。

 恐らく気性難。だが普段全く手がかからない。

 反抗を受けた事もないし、厳しい管理主義に何も文句を言ってこない。

 支配に近いレベルで自らを制御しているのがこのウマ娘。

 何なら既に私生活も管理しているのだが、シンボリエウロスがあまりにも此方に従順すぎて逆に不安になるレベルだ。

 気分の上がり下がりも自分で調整しているのか、落ち込んでいるところすら見た事がない。

 

 つまりシンボリエウロスは、本当にレースにだけ全精力を注いでいる。

 そのレース結果で、彼女を叱る。落ち込ませる。

 これは樫本理子にとってもかなり心苦しかった。

 厳しい管理主義を敷いているのは樫本理子本人だ。

 

「今回のレースで分かった事もあります。今後は今日の反省や経験を活かし、次の機会に繋げていきましょう。

 レースレコードは通過点。日本レコードが目標。ただし、レコードを出さなくても勝てるようなレースを基本とする事。

 貴方の加速力とトップスピードは速すぎます。レース中、抑えても勝てると確信出来た場合は抑えてください。良いですか」

「…………(コクッ)」

 

 まだ落ち込んでいるのだろうか、彼女は頷く事で応えた。

 彼女が言葉で返事をしないのは、寂しいかもしれない。

 少し、そう思った。

 

「後、次に」

 

 だから、最後に一言加えた。

 

「……良くやりました。凄いレースでしたよ、エウロス」

 

 樫本理子は大人である。

 故に叱るところは叱るし、褒めるところは褒める。

 というか樫本理子が厳しい言葉を言っているのは、担当ウマ娘が自分の思い通りに動いてくれなかったから怒っているのではなく、心配だから叱っているのである。

 

 何なら極論、シンボリエウロスは最善を尽くしただけで、樫本理子を裏切った訳ではない。

 最善を尽くし過ぎて、常識を突き抜けたが、そういう意味では常識の擦り合わせをしなかった樫本理子にも問題があると言えなくもなかった。

 何より樫本理子が最も警戒している、過度なトレーニングによる疲労の蓄積や、情動的な暴走による制御圏からの逸脱という観点の中では、シンボリエウロスは極々普通の優等生である。

 

「私が今まで見て来たレースで、貴方のレースが一番強かった。

 クラシックG1も、シニアの強豪が集うG1レースと比べても尚です。

 少なくともこの時点で貴方より実力のあったウマ娘を私は知りませんし、きっと生まれて来ないでしょう」

「…………」

 

 故に樫本理子は自らにも非があると認めて、担当を褒めた。

 レコードを更新し、完璧な勝利を担当ウマ娘が刻んで来たのだから。

 それを褒めない者は、そもそもトレーナーではない。

 樫本理子はどこまで行ってもトレーナーであり、その前提に心配性で不器用な大人であるだけだ。

 

 担当ウマ娘が勝った。

 ただの勝利ではない。

 トゥインクル・シリーズに未来永劫上塗り出来ない蹄跡を残すほどの勝利。

 そして、怪我なくちゃんと帰って来た。

 

 ちゃんと樫本理子は確かめた。

 怪我はない。この後、総合病院に連れて行って精密検査させるつもりだが、樫本理子には怪我や故障があるとは思えなかった。

 

 傍から見れば、樫本理子の発言は御節介である。

 偉大な勝利に水を差した、なんて言われる可能性があるもの。

 

 樫本理子は、それを理解している。

 していても心配だから叱ってしまう。

 このウマ娘は、何もかも置き去りにして、光の先へと消えてしまうような危うさがあるから。

 

「はい」

 

 そしてそれを、担当ウマ娘は察していた。

 その心配。その不器用さ。自身に向けられている憂虞の大きさ。その全て。

 

 だから、何の躊躇いもなく全力を出せている。

 このトレーナーは、何があっても心配してくれて、現実に引き留めてくれるから。

 

 シンボリエウロス。

 自らの才能で空の彼方へ霧散しかねないウマ娘。

 彼女は管理主義という檻と樫本理子という楔によって、自由に空を飛べる。

 

「次も、その次も、ずっとその次も勝って来ます。

 怪我なく、故障もなく、もう少しで勝てたと思わせる余地すらなく」

 

 その事を、樫本理子だけはまだ知らなかった。

 




 
⚪︎それもあり『衝撃の英雄』が現れてからは、坂の下りから少しずつ加速し、平坦な直線に向かう戦法が段々浸透し始めていった。
 ちょっと記憶が怪しい。もしかしたら違うかもしれない………。
 ただ近代で結構な主流になっている戦法を一番最初にやったのは誰だとなった場合、間違いなく飛んだ! 間違いなく飛んだ! のこの人な気がしてならない……。
 有識者のたづなさんがいたら教えてください……。

⚪︎この二つのタイムは、グレード制導入以降のトゥインクル・シリーズに於ける、重賞レース最大着差になって残り続ける……
 
 ちなみに京都レース場最大着差の場合、
 1987年1月31日。京都・ダート1400m・4歳新馬戦にてダイゴアルファが2着に3.1秒差で勝っています。
 ので、主人公はタイ記録です。

 尚、作中時間軸内での最大記録は、
 1986年3月1日 阪神・ダート1800m・4歳新馬戦にてツキノオージャが2着に3.6秒差を出した記録が最大着差です。
 この記録は、
 2022年8月20日。小倉・ダート1700m・2歳(3歳)新馬戦にてヤマニンウルスが4.3秒差を出すまで保持され続けました。

 ちなみに1984年からのグレード制導入以降、平地競走で3.0秒以上の大差勝ちが記録されたのは(多分)13回だけです。
 その内の一つが、メジロラモーヌの東京・ダート1400m・3歳新馬戦にて叩き出した2着に3.1秒差、約20バ身差の勝利です。
 ちなみメジロラモーヌの勝利を含めた13回の全てが、新馬戦・未勝利戦・未出走戦であり、またダート戦です。

 尚この主人公は芝の重賞レースで3.0秒以上の大差勝ちをしているものとする。
 そんな事ある?

⚪︎真の天才は勝ち方すら選べる。
 この実況の言葉は、朝一から京都レース場に並び、最前列でこのレースを見ていたファン会員一桁の『ハマノテイオー』さんに多大な影響を与える。
 更にそれが巡り巡って、『マッハの衝撃波』という二つ名を得た、変幻自在のウマ娘に理解(わか)っちゃったされる事になる。
 
⚪︎意味が分からないが、あれでまだ全力じゃないのだ。
 初手領域持ちの癖に、未だに領域を使ってない主人公がいるらしい。
 そんな事ある?
 
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