ふとした時、自分は充実していると感じる事がある。
それを私は、ご飯が美味しいなと思って実感していた。
「エウロス、今日の食事のメニューは此方です」
「………(コクッ)」
体作りは食から。トレーニングだけでは体は作られない。
当たり前だが疎かになりがちのそれを、今は全てトレーナーに任せている。
私は事務的な態度とか反応が苦じゃない。
前のトレーナーを決して悪く言う訳じゃないが、この必要な分だけ関わり合うこの関係が好みだった。
とある世界的トップクラスの会社の社長にはこんな逸話がある。
自分は大きな決断を一日に何回もする必要があるから、その気力や集中を維持出来るように小さな決断の数を少なくしていると。例えば毎日同じ服を着たり毎日同じ食事を取るなど。
私は今、それと同じ事をやっている。
事務的な反応と最低限の意思疎通。
無駄にお互いと干渉せず、自らの役割を果たす。
喉の部分もあるが、私は静かなのが好きなのだ。
この関係は、周りから見たらあまり普通ではないと思う。
実際に私とトレーナーの関係を無機質だとか義務的とか、或いはURAから強制されたものと不安視する人もいると聞く。
普通のトレーナーはもっとウマ娘と会話するし、コミュニケーションを取る。
ただ敢えて悪い言い方をするなら、別にトレーナーとウマ娘がちゃんと会話するからレースに勝てる訳じゃない。
トレーナーが担当の子に勝って欲しくて、敢えて厳しいスパルタをして勝てる訳でもない。
極端な根性論はまだしも、ウマ娘は精神的なパフォーマンスによる差異が大きいからこそ、そういう根性論が本当に一部正しいものである上では、樫本トレーナーは異端寄りなのだろう。
「……………」
相も変わらず会話はなかった。
トレーナーは事務仕事をしている。
時計とパソコンの音だけがする、無機質な時間。
何も知らない者がここを見たら冷たい関係に見えるかもしれないが、私はそうじゃない事を知ってる。気遣われている事は、気遣われている側が分かれば良い。普段の会話から知る必要もない。
毎日常に私からデータを取り、少しずつ変化していくトレーニング内容から。必要な栄養素を厳密に測っている食事内容から私は知れる。『騎手』と『競走馬』が、言葉は分からなくても心は通じ合えるように。
また一口、トレーナーが作った料理を運ぶ。
あぁ、美味しい。
最近は毎日そう思う。
「エウロス、今日のトレーニングですがお休みです」
私の食事が終わったところを見計らってトレーナーは言った。
トレーナーの育成主義は徹底管理だが、実は最初からずっと何日もの予定が完全に決まっている訳ではない。
基本は決まっているが間近に迫るまで敢えて予定を決めない空白を作り、余裕と幅を持たせている。
だからこのように、直前で内容を説明される事はそれなりにある。
今日が祝日なのも関係あるかもしれない。
「じゃあ、今日は一緒にお勉強ですね」
お休み? なら今日は遊びに行こう。
とはならない。私も別に遊びに行きたいとは思わない。
休暇は、必要だ。
身体を鍛えるとは、負荷を与えて回復させる事を指す。
毎日ずっと高負荷なトレーニングを続け、回復させる期間を取らなければ、逆に壊れるだけだ。成長はしない。
つまりスパルタは効率が良くない。
取り繕わないで言うと無駄が多い。回復させる期間と釣り合ってないから。
人間のトレーニングも、毎日トレーニングするより二日に一回の頻度にした方が成長するという研究成果があるそうだ。
私はウマ娘だし、何よりずっと同じトレーニングをする訳でもないのだから全てに於いてまるっきりそうじゃないが、時間を費やすだけでは意味がないのは事実。
努力で成長出来る量は、才能で決まってる。
残酷だがそうだ。
そもそも才能とはそういう意味である。
だから無駄な努力というものはあるし、努力で越えられない壁もある。
でなければ、ウマ娘レースがブラッドスポーツと呼ばれる訳がない。
50努力して50成長する者が、100努力しても50成長するのは普通の事。
100も努力したせいで40しか成長出来なくなる事もざらにある。
つまり休暇の必要性は私も理解している。
私はまだ大丈夫なので今日もトレーニングしましょうとは言わない。
だが、じゃあ今日は休みなので好きなだけ遊んでダラダラした生活をします、なんて理由になる訳ではない。
私は、ウマ娘だ。
こういう休暇の日にどう過ごすかで、確実に差は生まれる。
レースの勝敗は、この差を見て来る。
今さっき努力の事をそれなりに否定したし、無駄な努力があると言った。
だから無駄にならない努力をする事が、勝敗を決める。
或いは、唯一逃げという脚質でシンボリルドルフの偉業に挑んだ『坂路の申し子』のように、努力の方向性と才能の形を、技術に合わせて最適に可変する必要がある。
今の段階では、私が最も強い。
謙遜しない。私は同世代の皆より何歩も先を行っているだけの差がある。
それに値する事を私はトレーナーとして来たし、姉譲りの才を受けた私が周りと大した差がないなんて在ってはいけない。
ただそれが、勝てる理由にはならない。
ウマ娘のレースは、1秒にも満たない時間の差や後たった一歩で1着と2着が変わるような世界。
1バ身は、約2.5mだ。
2バ身で普通の勝利だ。
つまり基本的に、普通の勝利で差は5mしか生まれない。
数千m走って、距離の差がたったの5m。
何分も走って、時間の差がたったの0.4秒程度。
だからウマ娘のレースは、レース中の展開によって容易く勝敗が変わる。
1番人気のウマ娘が1着を取る確率が30%程度しかないのは、そういう理由。
安定した強さを見せるのは、本当は凄まじく難しい。
無敗のまま勝ち続けるのは、不可能に片脚を突っ込んでいるくらいには難しい。
そして無敗のまま三冠を制するのは『皇帝』が地上に存在して来るまで、ただの絵空事でしかなかった。
神の時代でも尚、無敗三冠は夢の彼方でしか成立出来ない空想であった。
だからウマ娘レースの世界では、どれだけ速く走れるかと言った個人個人の肉体的才能の差は、どこまで行っても二番煎じ。
レースで最も重要視されるのは、才能じゃない。
培った実力でもない。その時の調子ですらない。
本当はレースの展開だ。
そのレース展開を握るには相応の頭がいる。
全力疾走しながらも鈍らない思考能力と、前提となる知識のプールがいる。
だから、その為の勉強は幾らやっても無駄にはならない。
これが、まず無駄にならない努力。
むしろ勉強は永遠に終わる事はないだろう。
ウマ娘のレースは、それくらいの深度だ。
勉強に終わりがない事なんて、当たり前と言えば当たり前だけど。
「何から始めましょうか。
同期の皆の調子や最近の成績をもう一度見直しても良いですし、今後のローテーションを考えて、次のレース場の特徴を振り返っても良いですよね。
或いは、脚質分布による差を意識した、レース映像の鑑賞会を始めましょうか。追込はレース展開の差が大きいですから」
「…………………」
ウマ娘のレースは情報戦だ。
こういう事を勉強するだけで普通に一日は終わる。
何なら周囲のウマ娘達も成長するのだから、そういう変化を振り返ったり復習するだけでも一日は終わるし、一日だけでは終わらない事もある。
つまり基本、時間は圧倒的に足りない。とどのつまり、休暇で遊んでる暇なんてない。
「……一旦お話しましょう。大事な事です」
部室のビデオデッキを取り出して、VHSをガチャガチャやろうとした私の後ろ姿に、トレーナーは神妙な声色で呟いた。
少し、雰囲気が変わった。
緊張感のある雰囲気だった。
怒られるような事をしたとは思ってない。
さっきまでトレーナーが怒っていた訳でもない。
話すと言うのだから、意識の擦り合わせや改革、確認なのだろう。
VHSを仕舞い込み、改める。トレーナーの正面に座る。
向かい合って、私は話を聞く体勢を取った。
「エウロス。貴方は知らないかもしれませんが」
はい。
「実は、この世界には休暇というものがあります」
……はい?
「トレーニングをしない日ではありません。休暇です。休息日とも言います。
貴方の周りにも、土曜日や日曜日は好きな時間に没頭したり、街にお出掛けしたりするウマ娘がいるでしょう。アレは学校で授業がない日だからではなく、実は学校教育法施行規則・第61条という法律で制定された、正式な休息日なのです」
「…………」
……知ってる。
休暇という概念も知っているし、休暇の必要性も知っている。
言ってしまうと何だけど、まだ行けます……っ! とトレーニングを強請る、ある種の反抗は一度もした事ないし、しない方が良いとも思っている私は、年頃のウマ娘の中でもかなり休息の必要性を理解していると思う。
「あの……知ってますよ……?」
「では私と貴方が契約を結んでから、早二ヶ月弱。この期間に何日ほど休暇があったのか数えられますか?」
「え……今パッと数えて言うのが難しいくらいにはありましたよね……?」
もう一度言うが、樫本理子トレーナーの管理主義は非常に厳しくガッチガッチに予定が決まっているように思えて、ちゃんと余白があり休暇の日がある。
厳しいか厳しくないかで言えば厳しいのだろうが、自由がない訳じゃない。
トレーナーの方針は強制じゃなくて管理なのだ。
そも厳しい環境を望んでいた私からすれば、樫本理子トレーナーの方針に何ら不満がない。
え……まさかだけど……これ言って良いのかな。
「あの、お勉強している日も休息日ですよね」
「エウロス。実はこの世界では違うんです」
また世界って言われちゃった……。
「それは休暇とは呼びません。それは例えるなら、社会人が休暇を返上して仕事に明け暮れていると言っても過言ではありません」
そんな………。
私はショックを受けていた。
アレ、実は休暇じゃなかったんだ、という衝撃ではない。
まさか私が異次元からの来訪者レベルの世間知らずだとトレーナーから思われていた事に。
確かに私は、今までの12年間一歩も家から出た事がないお嬢様ではあるけど別世界から来た異星人ではない……いやウマ娘は異世界から名前と魂を受け継ぐ存在であるとすれば、私は異次元の存在なのか?
——休暇とは呼ばない。
——社会人であれば、休暇を返上して仕事に明け暮れているレベル。
そうかな……そうかも。
何だかそんな気がしなくもない………ような。
いや、でも……。
「休みと言われても……休日にお勉強するのは当然じゃないんですか……?」
「確かにそうではあります。休日にも勉学に励むのは偉いですエウロス。それはちゃんと褒めます」
「やるべき事をやって褒められても別に嬉しくはないです。私と一緒にやるべき事をやって貰えると嬉しいです」
「……少し話を変えましょう。貴方は先程、当然と言いました。ですが本当は当然という訳ではありません。休日にも勉学にも励むのは美徳ですが絶対ではありません。貴方は自らの私的な時間を削ってレースに力を入れています」
そうだろうか。削っている自覚はないし、私的な時間がないと言われてもピンと来ない。
それに。
「でも私はウマ娘ですよ」
「…………」
そう、私はウマ娘だ。
レースを生き甲斐にしており、レースで結果を出す事を求められている。
何より自分自身に目標があり、私は姉の背中を追っている。
未だ影すら見えない『皇帝』の背中を。
「確かに……貴方はウマ娘です。レースでの結果を求められています。ですが前提に貴方は中等部一年の学生であり、まだ子供です。二ヶ月弱自らの時間が一切ないというのは行き過ぎです」
「しかし私は学生とか子供である以前に、シンボリ家のウマ娘です」
「……………」
黙り込んだ後、天を仰がれた。
もはや取り返しのつかないものを目撃してしまった人がする反応。
その反応は酷くないかと、少し思う。
トレーナーの言う事は分かる。
さっき当然と言ったが、この当然が他のウマ娘に適用されない事も分かる。
ただ私にとっては当然なのだ。
ウマ娘は、前提に年頃の少女だ。
だから休日にお出掛けするのも良いだろう。
普遍的な趣味を日常に組み込んでも良い。
私は気にしないし、好きに時間を使えば良いと思う。
更に言えば現役を引退した後の生涯の方が何十年以上も長いのだから、別にレースの事を捨てて、大学の入試で有利にする為とか、ほどほどで頑張ってゆるーく生きようという子がいても別に笑わない。
その子の選んだ生涯だし、賢い生き方だと私は思う。
ただ私はその前に、名門生まれのウマ娘である。
名門生まれのウマ娘には、相応の時間と手間とお金がかけられている。
何より私は喘鳴症だった故に、相応ですらない。
シンボリ家は私の家であり、命の恩人だった。
私は、私一人では自分の生き方すら選べなかった。
そして今、私は好きに選べる。
選べるから、選んだ。シンボリ家に恩返ししたいという道を。
ただそれだけだ。
誰かから強制された訳でも、そうする以外に道がなかった訳でもない。
私が、私の意志で選んだ選択に、他からどうこう言われる筋合いはない。
「昔、貴方に勉学の重要性を説いた私の影響もあるのでしょう。ただ——」
「違います」
何が言いたいのか察して、強引に遮る。
「私は自分で、名門のウマ娘である事を選びました。『皇帝』の妹である事もです。
誰の影響でもありません。私が私で選びました。だからこの想いは私のものです。一分足りとも貴方のものじゃありません」
名門という重圧が嫌だと感じたのなら、そう言える機会は幾らでもあった。
自らの選択を選び直そうと思えば、選び直せる機会は今まで何回もあった。
だが、私は其方の選択肢を選んでない。
それが全て。
故に譲れない。
私の気性難は、きっとこういうところにある。
「あのトレーナー。多分私が色んな事を我慢していてるんじゃないかとか、迫られているんじゃないかと不安なんだと思いますが、別にそんな事はないですよ。トレーナーと一緒にお勉強してる時間も好きですし、むしろこの時間が来るのが楽しみです」
「……………」
「平行線ですね」
使命感はある。
ただ辛いと思った事はない。
休みがないとか、楽しみがないとも思わない。
そもそも、この時間が私は好きな訳で。
好きな人と一緒に、同じ事を考え、同じ事で悩み、同じ気付きを得る。
トレーナーとの時間は、その延長線にある。
だから私は自分の事をかなり充実していると思っているし、恵まれているとも思っている。
自分の時間を全て共有出来る人がいるというのは、そうある事じゃないだろう。
「……分かりました」
少しの逡巡を跨いだ後、トレーナーはゆっくりと言った。
「確かに貴方は名門のウマ娘です。それもシンボリという、この国代表の。だから貴方は貴族や王族、或いは武家の意識に近いのだと悟りました。生まれ落ちた意味を自覚し、それを全うするという部分が、まず根本的な部分で違うのだと」
「………(コクッ)」
「故にここからは、私の我儘になります」
そう言われると、弱い。
でも私は、それをちゃんと聞かなくてならない。
本当ならトレーナーは、良いから私の言う事を聞いて欲しいと思っている筈だから。
なのに言わないのは、私がこの国でもトップクラスに特異な生まれと環境だという事を理解しているから。
ここで耳を背けるのは、多分違う。
「それでも貴方は、まず休み方を覚えるべきです」
「じゃあ私を啓蒙してください」
「分かりました」
必要性の有無は分かる。
ただ、私という個人には必要だとは思わない。
論点はそこにある。
僅かなりとも悩む事なく、トレーナーは続けた。
「まず貴方は勉学の日を休日と認識していますが、正確にはこれは体力の消耗がないだけのトレーニングであり、普通は休みではありません」
確かにそれは、そうかもしれない。
勉学は脳のトレーニング。
体力を消耗しないから、怪我や故障なく成長出来るものとして私が認識している以上、この言葉に明確な反論は出来ない。
「ではこれが何が問題なのかと言うと、今の貴方は常に気を張り続けた状態にいます」
あー……なるほど?
「ONとOFFの切り替えを学んだ方が良いという事ですか」
「それは……本題は少し別です」
今何か言葉に詰まったな。
……まぁ、良い。掘り下げて重箱の隅を突くような事はしない。
「本題とは?」
「そうですね……貴方は今、自らの使命と生きる意味が完全に合一しています」
つまり、自らの使命と生きる意味は本来別物だと。
………へぇ?
「分かりやすく言うのなら、仕事と趣味が全く同じになっています」
例え話だ。
子供は勉強するのが仕事と呼ばれる事もある。
だからウマ娘にとって、レースをするのが仕事と考える事も十分出来るだろう。
仕事と趣味が全く同じ。
だが、それは良い事ではないのか。
自分がしなくてはならない事を生き甲斐に出来るという事は。
自分に与えられた使命を、生きる意味に出来るのは。
私にはその違いが分からない。
「仕事を趣味に、或いは生き甲斐に出来るのは基本的に無理です」
「ウマ娘にとって走る事も同じだと?」
「同じです」
「……………」
言い切った。
走るのが楽しいから走る。そういうウマ娘がいる事を知っている筈のトレーナーが。
樫本理子さんは言外に、ウマ娘にとってレースを絶対的に辛いものだと言っている。
「ウマ娘にとって走る事が好きだという子は多いです。
ですが、それはそれとしてトレーニングは過酷であり、勉学もまた大変であるという事に変わりはありません。
それらを乗り越えても尚、レースで活躍出来るのは本当に一握りの選ばれたウマ娘だけです。
走るのが楽しいから。それだけでどんなにも頑張れるという事にはならないんです」
だからこその、管理。
ウマ娘本人の甘さを言い訳にさせず、しかし強制を押し付けない。
それを恐らく、手綱を握ると言う。
「……………」
「年頃の子であるのだから、勉強なんてしなくとも良いのならしたくないと言う子の方が多いでしょう。故に貴方のは明確な強みです。そしてその強みがいつか逆転してしまう事が、私は怖い」
はい。
「エウロス。貴方は今、仕事と趣味が全く同じになっています」
もう一度トレーナーは同じ事を言った。
諭すような、繰り返しだった。
「そして今後もずっと、仕事を生き甲斐に出来る訳ではありません。
もしかしたら……貴方は走れなくなるかもしれない。その理由は、肉体的・精神的かもしれない。そんな時、恐らく貴方に残るものがありません。今、貴方の世界は全て走れる事が前提にあるからです」
「…………」
「仮に走れなくならなかったとしても、貴方は必ず走り終える日が来ます。いつか現役を引退する日が来ます。その時の為に、走る事以外の生き甲斐や意味を貴方は見つけるべきです」
もしかしたら、走れなくなるという意味を私は分かってなかったのかもしれない。
元々走れなかった癖に、こうして言語化されるまで意識の片隅にもなかったとはなんてバカなのだろう。
走るのが好きだ。走って結果を出す事を求められていた。
故にそれが全てだった。
だから多分、私は燃え尽きやすい。
肉体的にも精神的にも。
ウマ娘に怪我は付きものだ。『皇帝』ですらそうだった。
ほとんどのウマ娘は、怪我と故障で現役を終える。
何なら、無事で引退出来る方が少ない。
生涯で一度も怪我らしい怪我をしないウマ娘は更に少ない。
それを知っているからこそ、私は樫本理子トレーナーのメニューは酷く忠実に守って来た。
怪我をしないように気を付けてはいた。
ただ怪我をした後の世界を、私は何も考えてない。
走れなくなった後、或いは走り終えた後の自分を私はイメージ出来ない。
——それでも貴方は、まず休み方を覚えるべきです。
怪我をして走れなくなった時、私は立ち上がり方を知らない。
良くも悪くもレースの世界が全てだった私にとって、レースが出来なくなると私の世界が全て壊れてしまう。
「…………そうですね」
自分では、別に大丈夫だと思ってる。
でもきっと、本当はそうじゃないのだろう。
仮に私が大丈夫だったとしても、トレーナーには心労を背負わせたくはない。
そういうものを背負うのは、ずっと私だけで良い。
「じゃあ………今日はトレーニングもお勉強もなしの日ですね」
ほっ……とトレーナーが胸を撫で下ろしたのが見えた。
自分でも譲らないと決めたものは絶対に譲らないタイプだし、さっきまでそういう姿勢だったから、その反応もむべなるかなとしか言えなかった。
でもまぁ今『絶対』ではなくなった訳だが。
「でも、いざ時間が空くと何をすれば良いのか良く分からないですね」
ただ、分からないものは分からなかった。
私はレース中に凄まじい速さで選択し続けるという頭の使い方をしている以上、こういう日常での選択の数を減らしている。
意図的に思考を放棄しているとでも表現するべきか。
だからこういう時、今から何をしようというのが浮かばない。
更に言うと、私はうるさい場所や人混みのある場所が好きじゃないので、公共施設とかに足を運ぼうという気にならない。
アイドル的な側面のある私達ウマ娘がSNSを弄るのは根本的な部分が休日になり得ない。気分転換にはなるが、今の私に必要なのは気分転換じゃない。
というかSNSを使って、無作為且つ膨大な情報に頭の記憶容量を刺激されたくない。
あぁ、ホントに無趣味。
森林浴や釣りは自分の気性に合っていそうな気はした。
でも多分最中に、走る事が意識に浮かぶ。
静かでいて、走る事を意識外に追いやれるくらいに没頭出来るものが私には合っている。
……うーん。
何も浮かばない。
折角だからぱかプチ買いに行って散財しようか。
16分の1。8分の1。4分の1のシンボリルドルフ&シリウスシンボリぱかプチ人形、それぞれ4個くらい。
等身大になったせいでめちゃくちゃ頭が大きい、特大シンボリルドルフぱかプチ(165cm 2.5頭身)も欲しい。
何となく抱き枕にとても丁度良さそうな感じがしている。
「エウロス」
律儀に今まで使っていなかった片方のベッドを、いっそのこと姉上と姉貴のぱかプチで埋め尽くそうかと片肘を突きながら結構本気で思っている時、トレーナーは言った。
「不都合がなければ、私と一緒にお出かけしませんか?」
普通→好調