シンボリエウロスは喘鳴症である。
シンボリエウロスはハイペースで走れない。
しかしシンボリエウロスは、レース展開でいえばハイペースを好む。
1F12秒で走る事を考えた時、自分以外全てをハイペースに引き摺り込むのが最も手っ取り早く、効果的だからだ。
だからシンボリエウロスはまず、レースの速度を決める逃げを軸にしたレース展開をする。
故に彼女は追込でありながら、逃げウマ娘に匹敵するレベルでスタートの瞬間の展開に影響される。
「どうした!
「…………」
それは仕方ない。生まれ付き喘鳴症だったから。
じゃあ、最初を完璧にすれば良いだけだ。
生まれた頃からそうして来た彼女にとって、それは然程苦労でもなかった。
だから衝撃だった。スタートで覆された。
それだけは今まで誰にも防がれた事はなかったし、今後未来誰にも並ばれるつもりはない。
幼少期、唯一自分が走り方を教わりに行った、あの人以外には。
「(…………一歩目では並べない。だから二歩目と三歩目で並ぶ。先頭を奪う。その走り方、私は知ってる)」
ただあの人と同じスタートをするなら、多少は飲み込める。
「(そのスタートは、無理をしないと使えない)」
その無理を、私は不可能と言われていた技術と努力で補った。あの人から継承し、昇華した。
ディクタストライカは補えていない。そうせざるを得なかったあの人と違い、意図的に選択しているのもある。
肉体的な負荷。慣れない事をした精神的負荷。
「(ここから彼女を軸にする——?)」
そう考えるのは自然な事だった。
逃げウマ娘を初手で潰し、自らに都合の良い軸にしてレース運びをする。
それがディクタストライカによって不可能になった。
分かった。しょうがない。
じゃあ今から、ディクタストライカを逃げにさせる。
自分に喰らい付く為、ディクタストライカは無理なスタートを切った。
ここから意識的に抑えるのは彼女の性格と気性上、難しい。そしてディクタストライカをハイペースで逃げさせれば、彼女自身の末脚も潰せる。
丁度私の隣に来てくれたし、都合が良い。
今までの経験と感覚に裏打ちされた、思考の反射。
交わった視線の中で、ディクタストライカだけが叫ぶ。
「お前は、前目に付けても末脚の切れ味が一切鈍らない……そしてその末脚で、お前が一番強い。ならお前が私の誘いに乗らない訳がないよなぁ!!」
安い挑発だ。
シンボリエウロスには、挑発に乗る気はハナからない。
するべきはこの闘争心を空回りさせ、崩す事。
徹底マーク。空気の抵抗を減らし、自分を最終直線まで運んでくれる丁度良い壁。
嫌なら逃げれば良い。勝手に一人で、自分以外全てを巻き込もうとしていたハイペースで。
「……ハ」
そういう事しか考えていないのが、視線を交わしていたディクタストライカには分かった。
そして更に、自分を見ているようで見ていないこの視線の先には、じわじわと思い通りの走りが出来なくなっていく未来の自分がいる事も分かった。
吐き捨てるように口から溢れたのは畏怖である。
己の『絶対』を崩されても尚、目の前の結果を受け入れ今成すべき事を淡々と行える冷徹さ。
ただただ躊躇なく選択を実行し、その選択と当たり前のように心中出来る、ヤエノムテキとは別種の冷たい精神力。
交わされた視線。
少し先の残酷な未来を見ている、無機質な氷の瞳。
例えるならそれは、虫の動きを観察しているようなそういう瞳。
——ここで、終わらせよう。
——やばい。
僅かな刹那。
同時に二人が思う。
そこを仕掛け所の好機と見抜いた、唯一のウマ娘。
白。緑一本輪。緑がかった深い青。
シンボリと同じく、己の家を象徴する色を背負った勝負服が動く。
『メジロワース! 出遅れた筈のメジロワース! 凄まじい先行力で前へ取り付けていきます!』
彼女の名前はメジロワース。8枠9番。
9人立てとなったレースで、大外の位置を与えられた3番人気である。
彼女にはあまり才能がなかった。
名門生まれにしては、である。
事実彼女はG1レースに出走し、勝負服を着るという名誉が許された数少ないウマ娘だ。
だが彼女には、メジロの冠が重かった。
シンボリとメジロは、良く比べられる。
それはまぁ良い。仕方がない。同期にあのシンボリエウロスがいるのは全然良くないが、むしろあそこまで振り切れているなら諦めも付く。
ただ彼女は、同じメジロとも比べられた。
——よろしくお願いいたしますね。
それは過去、中央に入学する前。
微笑んできた、同じ家紋のウマ娘。
メジロアルダン。同期。同世代。
完膚無きまでに負けた。
病弱で、脚が脆く、パワーにも欠ける。
レースどころかトレーニングで熱を出し、病院通いが欠かせない。
そんな筈のウマ娘に、戦車で轢き潰されたに等しい負け方をした。
単純である。
メジロアルダンは天才だったのである。それも努力するタイプの。
アルダンの姉、ラモーヌのような派手さはない。身体の負担も大きい。
でもことレースセンスと冷静さに於いては、過去未来全てのメジロ家のウマ娘と比べても尚トップクラスを張れるものが、メジロアルダンにはある。
ガラスの重戦車、メジロアルダン。世代の中心人物。世代最強の一角崩しも射程に入るメジロ家の才媛。
——シンボリ家には……そう。凄い子がいるんですね。
病弱な子に勝てない。才能がない。
そういうものに彼女が囚われていた時、アルダンは違う方を向いていた。
当事者達を1番近くで見ていたメジロワースは知っている。
シンボリとメジロが良く比べられるのだとしたら、最も比べられたのは彼女達なのだと。
同じ妹。姉は無敗クラシック三冠。姉は完全ティアラ三冠。
比較対象に挙げられない訳がない。
メジロアルダンが、メジロの冠を時に苦悩するほど意識している事を、彼女は良く知っている。
学園では決して誰にも悟らせていないだけで、シンボリのあの子に、秘めたる思いを渦巻かせている事も知っている。
追込の対策とかレーススタイルの研究とか、ふとした時はいつも談話室に篭ってウトウトするまで勉強している事を、彼女は本当に、本当に良く知っている。
——私……恥ずかしながら、同じメジロの子と会うのが初めてで……これからも仲良く、お友達になってくれますか?
「私だって……」
メジロワース。
彼女には才能がない。
名門生まれにしてはと付こうが、下を見ればキリがなく、上を見てもキリがないこの世界で、その保証に大した意味はなく価値もない。
あるのは1着を取れたか、取れなかったか。ただそれだけ。
だからこの世界では比べられ続けるのだ。
「私だって……っ」
才能がない。
自分には、ない。
事実今日、大事なG1で出遅れた。
病弱だから未だにデビューを飾れてないメジロアルダンに代わり、身体だけは丈夫な私が、メジロの期待を背負わなきゃいけないのに。
「私だって……っっ!!」
でも、彼女は目は良かった。
例えば、他人の良いところを見つけられる。
例えば、病弱なのに毎日頑張っている友達の不調にすぐ気付ける。
例えば——レース展開の隙を見付けられる。
メジロワース。
彼女には才能がなかった。
だが彼女は実直であり、身体が丈夫であり、度胸があり、覚悟があり、努力が出来て、勉強も出来て、友達想いだった。
今日このレースで脚が壊れても良い。
だって私には病弱の身でありながら今世代メジロの代表者を背負った友達がいる。
同じく妹の称号を与えられ、きっとあの『暴風』に風穴を空けてくれる筈の友達がいる。
だから、メジロワースは上がった。
出遅れとシンボリエウロスが決めたスタートの距離を、もうここで自らの脚ごと使い潰すような覚悟で前へと進んだ。
——この一戦で燃え尽きても構わないという、そういう刹那の煌めきによって、きっとシンボリエウロスは負けるのだろう。
樫本理子がシンボリエウロスの精神性に抱いたそれは、極めて正しかった。
メジロワースは気付いていない。
彼女こそが今、その『暴風』に風穴を空けた事に。
「……………」
シンボリエウロスの視線が、隣から右後方へ移る。
ディクタストライカから、メジロワースへ。
——外れた……?
その事に最も驚愕を受けたのはディクタストライカだった。
自分こそがシンボリエウロスを最も追い詰めるだろうウマ娘だと認識していたし、事実シンボリエウロス本人もそう思っている。
だから圧力もかけていた。二の矢を放つ為のマークも、ディクタストライカにだけ向けていた。
そのマークが外れる。
自分よりも何とかしなくてはならない事が起きた証拠。
このレースは決して、シンボリエウロスとディクタストライカの2人しか走っていないレースではない。
『メジロワース! 後方から内枠へと取り付けていきます! 』
8枠9番メジロワース。彼女は大外であり、内枠に取り付くのは難しい。
しかし出遅れた彼女にとって邪魔なウマ娘は周りに居らず、メジロ家らしく隙のない先行脚質を無理矢理活かし、後方から僅かな隙間を射抜くように前に上がった。
出遅れた。掛かった。もうメジロワースはダメだ。
後にそう呼ばれるほどの暴走と加速。
メジロワースが取った位置は、ディクタストライカの真後ろ左後方。
具体的に言うのなら、シンボリエウロスだけは絶対に内枠に入れない事を徹底した位置。
そしてこのレースは——圧倒的に内枠有利である。
それは脚質の差やレース展開の差すら捩じ伏せる。
ただどれだけ長い時間内枠にいられるかが、そのまま勝率に影響する……なんてほど極端に。
これは、現在無敗のまま重賞レース最多勝利数を記録し前走を19バ身差で勝った圧倒的1番人気だろうが、外枠に締め出されたら凡走をして掲示板を外すくらいに重い。
まずこのレースの1番の特徴だが、レース開始地点がコーナーポケットから始まる事にある。
要は、最初の直線すぐにコーナーがあると思えば良い。
コーナーでは内枠が有利。
内円と外円の距離の差。円の算数の問題だ。
その為スタートした瞬間の内枠外枠の有利不利の比重が重いのが、阪神1600mの特徴であった。
なら別にスタートした瞬間無理に前へ出ず、後方でも良いから内枠に入れば良いじゃん、という訳でもない。
最終直線、352m。
やや短めで差し・追込がやや不利だが、問題はそこではない。
阪神レース場のコースは小回りで全体的にコーナーの角度が急、内枠が有利。
特に最終直線前の第3コーナーと第4コーナーが顕著であった。おにぎりの下辺の如き形状をしているのだ。
前のウマ娘を抜き去る都合上、基本的に外から追い上げる後方脚質にこのコースは向いていない。
更には最終直線前のカーブが極端な形状をしているという事は、差し・追込脚質の切り札である捲りも難しい。
このレースは、圧倒的に内枠が有利である。
逃げでも先行でも差しでも追込でも、まず内枠をどれだけ綺麗に走れるかが鍵であり、しかも同時にスタート直後のコーナーにより先行力も試される。
内枠を取れたからといい、コース形状により差し・追込が後方に位置したまま負ける事は普通の事だ。
少なくとも一つ言える事がある。
後方脚質が外に締め出されたら、そこでもう終わりなのだ。
『続いて3枠3番サープリミリックが続き、5枠5番シュガースティールが6番手、続いて7番手に——』
その事を、メジロワース以外にも理解しているウマ娘。
サープリミリック。4番人気。
先月のG2デイリー杯ジュニアステークス、シンボリエウロスの2着。
19バ身差という屈辱を祓うべく、闘志に燃える彼女が動く。
釣られて他のウマ娘が。更に釣られて多くのウマ娘が動いた。
空いた内枠へ、たった一人のウマ娘を外へ締め出す為だけに。
『各ウマ娘、縦長の陣形となって第2コーナーに入ります。1番人気のシンボリエウロスは——外に回されました!』
シンボリエウロスは、荒れる展開に刹那で対応出来る。
その刹那を、他のウマ娘全ての執念が上回った。
最初を阻んだディクタストライカ。
風穴を空けて拘束したメジロワース。
その風穴が好機だと見抜いた全てのウマ娘達。
前にも隣にも後ろにも、内枠にはもう誰かがいる。
縦長の陣形は、的確にシンボリエウロスだけを外枠へ締め出した。
『いきなり、シンボリエウロスには厳しい状況になりました! 完全に外へ締め出された! 』
開始して僅か10秒程度の時間に起こった出来事に、実況がようやく追い付く。
しかし観客の大半は、それが如何に深刻な事かを認識しておらず、普段と何がそこまで違うのかも把握していない。
ウマ娘レースに於いて、才能や実力よりもまず最初の前提にあるレース展開とは、そういうものだった。
ただターフの上での異様な雰囲気に、今日のレースは何かがおかしい事だけは悟った。
全てのウマ娘が、シンボリエウロスだけを見ていた。
比喩ではなく実際に。睨んでいるというのに近かったかもしれない。
そこには、皆と一緒ならこのウマ娘に勝てるという生ぬるい感情はなく、当然結託して潰してやろうという陰謀もない。
ただ各ウマ娘一人一人が自分にとっての最善の道を選んだ結果、全員がシンボリエウロスの敵になっただけ。
シンボリエウロスは、敵を作りすぎた。
自分一人と、他全員のウマ娘達。
己のみを向く八つの視線と交差する中、現在進行形で観客の全員を慌しくさせている渦中のウマ娘シンボリエウロスは、とりあえず面倒だなと思った。
「(テイエムオペラオーかな)」
——勝ち続けると、すべての馬が敵になる。
——勝ち続ける。絶対に負けない。それがどれほど困難なことか。
1番人気の宿命である。
突出した強さは必ず対策される。
負けたウマ娘達が、そのまま同じような負けに甘んじる訳がない。
「(………コーナーで仕切り直そう)」
そして当然1番人気のウマ娘も、自分以外の全てが敵になった場合の事を考えていない訳がない。
後方脚質が外に締め出されたら終わり。
並大抵のウマ娘なら、既にここで終わる。
だが残念ながら、彼女は並大抵のウマ娘ではなかった。
更に厳しい状況から勝利した『世紀末覇王』と呼ばれた存在も知っていた。
何よりその『世紀末覇王』と違い、完全に包囲されてない。道も消えていない。
じゃあ、行ける。
大事な初手を奪われた。
二の矢も防がれた。
だから、三の矢。
『外に回されれば回されるほど不利な阪神レース場。
第2コーナーを抜けて、1番人気のシンボリエウロスは後方に戻ります。いつもの調子と言えばそうですが、さあどう来るか!?』
短い言葉で、的確に現在の状況を語る実況はプロであった。
ただその実況を置き去りにするほど速く、刹那のやり取りがウマ娘レースでは行われる。
スタートで前に出て、少ししたら下がる。
いつも通りのように見えて、必ず逃げを潰しそのついでに内枠も奪っていたシンボリエウロスは、何も成す事が出来ず外を回されながら後方に下がっていった。
——何をして来るんだろう。
周りのウマ娘達はそう思った。
今までの全レースで必ず主導権を握り続け、自分以外のウマ娘全てを戦術で上回り続けたあのウマ娘が、単純な実力勝負に移る未来だけは想像出来ない。
——スローペースで。
しかし、何がシンボリエウロスにとっての不利かは分かる。
ハイペースは逃げ・先行に不利。スローペースは差し・追込に不利。
そういう基本に忠実に動こうとしたのもある。
だがこのままシンボリエウロスを下がらせて内枠に入れるのなら、縦長の陣形ごと下がらせ、終始シンボリエウロスを外に押し出し続けるのがどう考えても得策だった。
圧倒的スタートによって加速し、しかしその後スローペースに抑え込もうとした全体により、総じてミドルペースで先頭がコーナーを駆け抜け直線に入る。
その後方。
まだコーナーを抜けていない、最後方のウマ娘。
5番人気ジンデンボーイ。最初のスタートとメジロワースの強襲という早すぎる展開に置いてけぼりにされ、先頭を奪えなかった逃げウマ娘。
彼女が前に上がる。
少し外枠に持ち出して、位置を変える。
内枠から、外れる。
「え……?」
ウマ娘達の誰かが、疑問符を溢した。
よりも尚速くシンボリエウロスは既に、内枠を奪っていた。
それが直線に入った瞬間、凡そ数秒すらない時間に起きた出来事である。
——待って待って待って……!? 今、何が起きたの!? 何で!?
シンボリエウロスは外に締め出し、圧力をかけて内には入れない。
全体がそう意識していた束の間、一瞬の刹那に状況が入れ替わり、シンボリエウロスはいつの間にか内側にいた。
意味が分からない。一体全体何があった。アイツは、何をして来たのか。
それが、彼女達には分からない。
——あぁもう……本当に、本当に……っ!
全体の困惑に、1人何かを思い出したように忸怩たる思いを歯軋りで拒んだウマ娘がいた。
4番人気サープリムミック。
現状、シンボリエウロスのレーススタイルを最も理解しているウマ娘。
正確には、理解させられたウマ娘。
G2デイリー杯ジュニアステークスで、彼女はシンボリエウロスの2着に甘んじた。
もっとも19バ身差の2着は、普通のレースで例えるなら1着と最下位の着差に近い。
あのレースは文字通り、シンボリエウロスとそれ以外だった。
何もかもが、シンボリエウロスには追い付いていなかったのだ。
勝てない。隣に並べる未来が見えない。
あのウマ娘は何もかも終わった後、何回も見返して分かるような事を僅か数分にも満たないレース中にやってくる。
そして今日もまた。
同じ事を、アイツはやって来た。
『シンボリエウロス内側!』
何をしたのか本当に分からない。
そもそも今の状況を、現実として受け入れる準備が出来ていない。
彼女達の理解はまず、シンボリエウロスが後ろに下がっていたところにある。
『シンボリエウロス最後方!』
後ろに来られた。
その事を振り返る暇もなく、しかし気配と威圧感で理解した8番手のウマ娘。
隣を見る。
顔面を蒼白にしたジンデンボーイがいる。
掛かりと焦り。次に事態をようやく理解して、何か取り返しの付かない事をしてしまった表情に変わるジンデンボーイ。
その姿は、次の瞬間には自分もこうなるかもと、並々ならぬ恐怖を覚えるには充分だった。
『シンボリエウロス最後方! 9番手!』
何が起こったのか分からない。
きっと分かるのは、レースが終わった後の事なのだろう。
ただ一瞬で、一名が潰された事は分かる。分かってしまう。
『ですが今日は——』
前に上がりたい。正直言うのなら逃げたい。
若干半泣きになりながら、後ろにいる風の神の名前を冠するウマ娘から距離を取るように、無意識にストライドが広がった。
——ぁ、やば。
しかし正面からは、スローペースで抑え込もうとしていたウマ娘の集団。
反射的な反応。8番手のウマ娘が避けるように外へ向く。
内から、外れる。
『距離を取りません! 今日のシンボリエウロスは前方と距離を取らない!』
外れた先には、隣のジンデンボーイ。
軽い接触。脚が滑る。腕の振りのペースが乱れる。痛みが集中力を乱す。
それが呼吸の崩れに繋がり、歩法全体の崩れに繋がる。
——やばいやばいやばい。
8番手のウマ娘が加速度的に冷静さを失っていくと同時。
接触の反動によりジンデンボーイは更に外へ膨らみ、そして衝撃で掛かった。
『何という徹底マーク! 今までのレース、彼女は一度も本気でマーク戦法を使ってはいなかったと言わんばかりのマーク!』
完全に掛かったシンデンボーイは焦った。
今は直線。外に回されてもまだギリギリ影響はないが、第3コーナーまでに前の方で内枠を取らないと、もうどうしようもない。
シンボリエウロスのあの末脚で、潰される。
掲示板に入るどころですらなくなる。
だから上がらないと。
そう考えたジンデンボーイは悪くないし、然程間違えてもいない。
ただ正解ではない。そして正解はシンボリエウロスが本気になった瞬間にはもう存在していない。
つまり詰み。
ジンデンボーイは、全体を切り崩す為の駒にされていた。
急かされ、そして実際に他の選択肢がないジンデンボーイが、前に上がる。
7番手、6番手、5番手と一気に順位を持ち直していく。
それをまざまざと見せられた8番手のウマ娘。
ただでさえ冷静さを失っていた彼女のトドメになる。
彼女はシンボリエウロスから逃げるように前へ進んだ。
そして2人のウマ娘が上がって行く光景に、多くのウマ娘が振り返った。
シンボリエウロスが、後方から全員のウマ娘を見ていた。
重厚な装い。『皇帝』と瓜二つの衣装に翼を生やした勝負服。
壁で締め出しても止められない。きっと檻に入れても止められない。
最後方。前方のウマ娘達全てを、ゴールまでに必ず食い破って来る、化け物。
彼女達ウマ娘は、狩りに興じていた獅子が本気になり、牙を剥き出しにして襲い掛かって来たような雰囲気を味わっていた。
『これは前方のウマ娘は苦しいか!? 影の中に潜むようなレーススタイル、今まで見た事もありません!』
それが、一気に実況が語り尽くしていた10秒程度の出来事。
刹那刹那に選択肢を強要し、圧殺する。
ウマ娘が持つ野性の本能に近い恐怖心も織り交ぜて、封殺する。
振り返り、シンボリエウロスの走る姿を視認したほとんどのウマ娘が掛かった。或いは掛かり易い状況に追い込まれた。
——加速する。
その中、振り返らなかった数少ないウマ娘。
現在3番手に位置するディクタストライカは気配だけで悟る。
——クソ、ダメだ……少しずつ加速させられる!
じわじわと後方から。
少しずつ確実に。
精神的にも状況的にも、追い詰める。
たった一つのミスから、こうしないと勝てないという状況に貶め、それで動いたウマ娘の行動すら合わせて、追い込んで来る。
——あぁ……本当に、お前は台風みたいな奴だよ。
段々と迫って来る圧力と、誰にも制御出来ず思い通りにもならない様を称するには、それくらいしか言葉が出て来ない。
苦笑い気味に呟いて、彼女は呆れた。
ただ他のウマ娘達とは違い、呆れるくらいの余裕はしっかりとあった。
その後方で余裕の無くなっていったウマ娘が、また一人、また一人と自分の走りが出来なくなっていく。
あるウマ娘は、徐々に圧力を増していくシンボリエウロスと、焼き付いた末脚の切れ味の幻影に振り回され、呼吸を乱し、無駄に体力を消耗した。
あるウマ娘は、ハイペース、スローペース、ハイペースという緩急の激しいラップタイムによって、歩幅の伸びとペースが壊れ、体力を削られた上に末脚の感覚が狂った。
「何故一番後ろの脚質が"追込"と呼ばれたのか……それを再び思い知らせるようなスタイルだな、本当に」
たった1人のウマ娘の手によって、ウマ娘の集団が少しずつ押し上げられていく。
その光景を見ていた、観客席のシンボリルドルフが呟く。
追われる者より、追う者の方が強い。
野性の世界でもまず覆る事のないそれが、ウマ娘レースの世界でもそうなのは、時にウマ娘という存在が野性的だと称される所以なのだろう。
具体的な話をすれば、後ろは走りながら前を見られるが、前が後ろを見るには振り返らないといけない。
精神的負担と強迫感。その二つは決してバカにしてはならない。
またウマ娘レースに於いて、前の動きから計算して仕掛けどころを見極められるのも大きい。スリップストリームも後方にしか存在しない。
だからと言って、1番後ろの追込が最も勝率が良いとはならないのがウマ娘レースに於ける戦術戦略の妙だが、そういう常識は妹には通じない。
逃げはハイペースで走れない。
追込はレース展開に支配される。
じゃあ、逃げがハイペースで走れたら?
じゃあ、追込がレース展開を支配出来たら?
ターフの上で行われているのは、そういう二つの机上の空論の内の、一つだった。
「だが、それでも」
シンボリエウロスは既に——レース展開の『絶対』を崩されている。
何故なら彼女は、喘鳴症だから。
彼女が喘鳴症でなかったのなら、このまま押し切って勝つだろう。
姉は、そう断言する。
1F12秒。
妹にとって根本的となるそのタイムを、まだ刻めていない。
極論、妹にとって自分以外のウマ娘がハイペースだろうがスローペースだろうが、別にどうでも良い。
その秒数、完全なミドルペースで走れるかどうか。
たったそれだけの為に、妹はレースの全てを握り、操っている。
そしてまだ、1F12秒の世界に妹は居ない。
1F12秒前半。スローペース。そこにまだ、妹はいる。
そしてその不利は、ハイペースに入れない妹にとって取り返しのつかない負積だ。
妹はハイペースで走れず、かと言ってスローペースで走ればそのまま走破タイムが遅れていくのだ。
『1番人気シンボリエウロスは先頭から11バ身後方! 第3コーナーを迎え、ウマ娘達は坂へと入ります!』
「………………」
観客達は知らない。実況も気付いていない。
そしてターフの上のウマ娘達も分かっていない。
妹には常に、完璧しか求められていないのだと。
成績、実績、期待、環境。そしてレースの展開。
それを知り得ているのは、彼女が喘鳴症である事を知っている、数少ない関係者だけ。
「まだ……お前に不利は続いているぞ」
レース前半が終わり、後半へと移行した。
ターフの上のウマ娘達とシンボリルドルフの視線の先には、阪神レース場最大の魔境、勝負の境目である第3コーナーと第4コーナーの複合カーブが待っている。
⚪︎
平地競走。22戦6勝。障害競走21戦11勝。獲得賞金額約3億9000万。
1988世代障害戦線関西圏、最強。中京障害S・秋連覇。中京障害S・秋春連覇。平成時代中央主催平地+障害レース勝利数、JRA歴代最多記録タイ。
⚪︎ 幼少期、唯一自分が走り方を教わりに行った、あの人以外には。
——お姉さん、私に走り方を教えてくれませんか。
——え……? えっと、どうして私に?