有効射程距離25バ身   作:sabu

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12/20 第39回 G1阪神ジュべナイルフィリーズ 3/4

 

 普段のレーススタイルが全く出来ていない。

 そういう事は分からなくても、シンボリエウロスは外に締め出され、不利を背負わされている事は明白だった。

 自分以外全てのウマ娘が敵になったレースをさせられているのも分かり易かった。

 

 ——ただでも、シンボリエウロスは勝つだろう。

 

 呑気にそう思っているのではない。

 観客の人達の中には、シンボリエウロスが圧倒的大差で勝ち続けて来た記憶がある。

 19バ身だ。現在の合計着バ身で言えば、55バ身。

 脚質は真逆だが、その強さと2着までの差はもはやマルゼンスキー以外に例えられるウマ娘が挙がらないレベル。

 負ける訳がない。負ける姿すら想像出来ない。

 事実マルゼンスキーは生涯無敗だったのだから、そう考えるのは全く以って間違いではなかった。

 

 ——多少不利を被ったところで、あの差を詰められるとは思えない。

 

 ただその考えだけは、完璧に間違いである。

 3.1秒差。19バ身。誰かが勝てる訳ないと言った。

 しかし違う。全く以ってそんな事はない。

 シンボリエウロスの19バ身差は詰められるし、崩せる。

 それは、そもそも何故シンボリエウロスは19バ身差を出せたのか? という問いに帰結する。

 

 強いから、速いから、という答えは具体的ではない。

 

 まず前提に、ウマ娘レースには距離ロスがある。

 最も分かりやすい具体例ではコーナー。内枠と外枠の距離の差である。

 角度と距離によって変化するが、内から5m離れた外を走るだけで最終的にゴールまでの距離は数十mも伸びる。

 

 仮にこの数十mを、25mとしよう。

 では25mは何バ身かと言うと、10バ身である。

 じゃあ内を走れば良い。

 そういう常識は、レース中では通じない。

 レース中ではない単走でも、中々通じない。

 

 大半のウマ娘は、実は真っ直ぐ走れない。

 

 真っ直ぐ走れるウマ娘は、一握りの天才。

 或いは、ひたすらにつまらない上に成長した実感も湧かない地道な努力を積み重ね続け、そして努力に相応しい成長が出来た、一握りの天才。

 秀才は才能の差を埋める為、代わりにレース展開の戦術を学ぶ。

 それが全てであり、大半のウマ娘は大からずとも斜行する。

 

 そもそも人間だって真っ直ぐ走れる者がほとんどいないのだから、当然といえば当然だ。

 多くの人間がそれを自覚していないのは、走る距離が短いから、学生の頃は白いレーンの中で走って来たから、社会に出ても歩道が狭いから。

 地面に目印のない広い野原で人間を走らせた場合、大抵は利き足とは反対の方向に段々傾いていく。

 

 同じ事が、ウマ娘レースの中でも起こる。

 

 人間の徒競走のように区画化されたレーンはない。

 根本的に走る距離は長く、故に直線も圧倒的に長く、レース場の横幅は平均30m以上と非常に広い。

 そしてウマ娘は人間とは比べ物にならない脚力を誇る為、僅かな差で人間以上に大きくズレる。

 

 ウマ娘にとって脚の外向・内向が致命的な問題になり得る理由はそれだ。

 利き足などにより、左回り・右回りの成績が全く異なる理由も。

 直線を綺麗に真っ直ぐ走る。コーナーを柵に沿って綺麗に走る。

 たったそれだけで10バ身以上の距離の差が出来る事は、あまり有名ではない。

 

 ——じゃあ私一人だけ完璧に走って、私以外には自分の走りすらさせなければ良いですよね。

 

 しかしそれは、流石に机上の空論だった。

 大半のウマ娘は斜行する。一部の天才すら、レース展開の妙や有利不利により距離ロスを背負う。故に大きな差はでない。

 それが現実だった。

 誰にも出来て、今の今でも誰にも出来なかった事だった。

 ただそれが、シンボリエウロスには本当に出来てしまった。

 

 G2デイリー杯ジュニアステークス。

 シンボリエウロスはほぼずっと最内を走った。

 そして自分以外のウマ娘全てを、淀の坂で加速させた。

 外を大きく振らせ、スパイラルカーブで潰し、末脚のタイミングを狂わせ、最終直線を真っ直ぐ走る事すら許さなかった。

 

 あの日のレース展開を端的に表現するなら、シンボリエウロスは1400m走り、自分以外のウマ娘全てを1450m近く走らせたのである。

 だから彼女は、19バ身差を出せた。

 具体的な理由など、ただそれだけだ。

 シンボリエウロスは決して、圧倒的に突き放して大差勝ちした訳じゃない。

 大差勝ち出来る環境を作り、順当に大差勝ちしただけである。

 それを成し遂げた精度が、如何に緻密であろうとも。

 

『コーナー前の坂を抜けて、ウマ娘達は第3コーナーに入ります! シンボリエウロスは依然最後方! 先頭から12バ身後ろに控えたままです!』

 

 だから、シンボリエウロスから距離ロスの有利を奪い取ったら?

 当然、19バ身差は埋まる。

 シンボリエウロスに、距離ロスの不利を与えたらどうなるか?

 当然、彼女は負ける。ただただ順当に。

 その事を大半の者が理解していないまま、レースは進んで行った。

 

「かなり最悪に近いな」

 

 そしてその事を理解している数少ない存在。

 姉。シンボリルドルフ。

 

「また、後ろに回された」

 

 ターフの上では、妹が苦心させられていた。

 走るペースが、落ちている。

 1F12秒前半から、1F12秒中盤へ。

 

 第3コーナー手前にある上り坂。

 当然平地よりも上り坂の方がペースが嵩み、タイムは落ちる。

 何より、実際にペースが緩くなったウマ娘達の集団に阻まれ、後ろに回されているシンボリエウロスもまた強制的にペースを下げられていた。

 逃げとは真逆の、追込らしい不利だ。

 更には第3コーナーの角度が急である為、ウマ娘達はコーナーを曲がり切る時にまたペースが落ちるだろう。

 このままでは最悪、1F12秒台後半に入る。

 

 妹は、良くやっている。

 自分以外全てを敵に回し尚も勝つ為の手段を少しずつ重ねている姿に、シンボリルドルフは順当に妹を褒めた。

 だが、まだ勝利には届いていない。

 1F平均12.3秒強。それが今妹が刻んでいるタイム。

 

 僅か0.3秒、ではある。

 だが最初の1000m通過タイムが60秒ならミドルペース。61秒はスローペースである都合上、 1F辺りの秒数が0.3秒変わるだけで大きな誤差だ。

 今日の阪神JFの距離は1600mなので、ペースの基準になるのは凡そ800m。その誤差はより重い。

 

「(邪魔だな)」

 

 当然、走っているエウロス本人もそれを理解している。

 後ろからウマ娘達を追い詰めペースを加速させたが、加速させ切れていない。

 目の前で集団を成すウマ娘達は掛かっていてもまだそれなりに内枠を維持しているし、バ群は縦長から横長になったが、方向性が変わっただけで邪魔は邪魔。

 

「(本当に……邪魔だな)」

 

 特に、視線の先。

 左前にいるウマ娘が。

 

 そのウマ娘の名は、メジロワース。

 

 メジロワースは再び位置を後ろに落とし、最後方近くまで引いて来ていた。

 何か戦略がある訳じゃない。ただ単純に、無理なスタートを切った代償と緩急の激しいラップタイムの煽りをくらい、既にバテて来ているのである。

 

 ——呼吸の乱れが止まらない……! 脚が全然上がって来ない……っ!

 

 メジロワースは、優秀なステイヤーを輩出して来たメジロ家らしく長距離に向いたウマ娘である。

 中距離とマイルもそれなりに走れるポテンシャルがあるが、それはまだ本格化が完了しておらず適性もまだ分からない部分があるからで、彼女の真の長所はステイヤーとしてのスタミナだ。

 その豊富なスタミナが、既に死んでいた。

 スタートしてから第3コーナーまでの、僅か660mで。

 

 ウマ娘は、全速力を30〜40秒しか維持出来ない。

 

 ステイヤーでもスプリンターでもそれは変わらず、ウマ娘という生命へ平等に与えられている等しい時間。最大出力の無酸素運動を維持出来る限界秒数。

 じゃあ呼吸すれば良いじゃん、という訳ではない。

 残念ながらウマ娘はそういう構造をしていない。勿論人類もしていない。

 酸素を使わずに作り出す事の出来るエネルギー源を筋に蓄えていられるのが、30〜40秒分なのであり、使い尽くしたら後は安静にしないと回復しないのだ。

 

 その壁を超越し、尚も無事に戻って来る事が出来たら、それは奇跡だ。

 究極の才能、血統による配合、ウマ娘という存在の結晶。

 セクレタリアトのように生命の位相が違う存在を、奇跡として現実に引き摺り落とす為、あらゆる計算の果てようやく実現した存在。

 

 ——『奇跡に最も近いウマ娘』

 

 二つ名にそう呼ばれるようなウマ娘にのみ、壁を越えられる権利が与えられる。

 そしてメジロワースには、その奇跡は欠片もない。

 自らの脚と筋と肺を犠牲にし、戻れなくなっても良いから30〜40秒の壁を通り抜ける才能もない。

 彼女の才能と素質は、出遅れを取り戻す為のスタートだけで、後一歩分しか残されていなかった。

 

「(まず、この子から潰す)」

 

 その事をシンボリエウロスは知らない。

 仮に知っていたとしても、躊躇などしない。

 圧倒的な気性難に裏打ちされた勝負根性。負けるのが嫌というプライドと反骨心。

 遠慮して勝ちを譲るなどという感情、欠片も存在しない。

 

 何より、相手が相手だ。

 

 名門メジロ。

 メジロ家らしく隙がなく、弱点もなく、バランス良く完成したウマ娘。

 そして自分を今の状況に追い込んたレベルで頭が回り、根性もある。

 こういう手合いが、最も面倒。

 潰しに回らない理由など何処にもない。

 

『おおっと!? ここでシンボリエウロス外に膨らむ! 外に膨らむ!』

 

 ——は……はぁ!? 何でここで外に出るの!!?

 

 阪神レース場は外に回されるほど不利。

 後方に位置する都合上、最終的に1着を取るにはいつか外に出るしかないのは分かる。

 内の僅かな隙間を抜く方法もあるが、現在内は埋まっている。

 だからと言って何でここで外に持ち直して来るのか。ただでさえ外が不利なコーナーに入る瞬間で。

 

 何をして来るか全く読めず、置き去りにされた者がいた。

 逆に思考を割り振るのをやめ、自らの走りを貫く事を決めた者がいた。

 これ以上加速させられたら不味いと、迎え撃つ覚悟を決めた者もいる。

 そして、シンボリエウロスが何をする気か理解した極一部のウマ娘は——加速した。

 

『コーナーで加速する……シンボリエウロス、コーナーで加速! 今日はここから捲るのか!?』

 

 加速した上で、その選択は二手ほど遅かった。

 

 ——クソ……クソ! 曲がり切れない!

 

 コーナーは急であればあるほど、外と内の距離の差が増えるので、内枠が有利。

 しかし同時に"角度"は内の方がキツくなる。

 内枠であればあるほど、遠心力に振られてコーナーを曲がり切れない。

 外は距離。内は角度。

 それが、内枠と外枠の差、有利不利の妙であった。

 

 ——………前を奪われる……? こんなタイミングで?

 

 対し、外側は速度を落とさずにコーナーを曲がれる。

 直角に切り込む事で捲る事が出来て、内枠に圧力をかけられる。

 それでも尚取り返しの付かない距離の差が外にはあるが、その距離の差をシンボリエウロスには覆せる手札があった。

 

 緩急の激しいラップタイムである。

 

 加速出来ないウマ娘はそのまま。

 加速しようとしたウマ娘は、激しかったラップタイムの影響で小刻みとはいえ三回目の加速。

 速度が乗らない。乗っても精度が落ち、曲がり切れない。

 

 統率の取れていないウマ娘達の集団。

 思考が鈍り、反応速度が遅れる。

 コーナーを綺麗に曲がり切るという、単純な事が難しい。

 

 加速したら、曲がり切れない。

 加速しないと、そのままシンボリエウロスに抜かれる。

 

 彼女達の集中力は限界だった。

 強制的にペースが緩ませられていた。

 

 ——ダメだ。嫌だ。

 

 シンボリエウロスが来る。

 第3コーナー。急な角度。外枠が不利。

 その筈なのに、アレは外から来た。

 ただただ純粋に極められた技量と経験、そして適応力によって成せる戦技。

 内と外の有利不利が入れ替わるなんて事を、アレは簡単に行う。

 

 ——……いやだ。

 

 メジロワースには、それが分かった。

 まず自分が最初に抜き去られ、外から内に抑え付けられて、もう二度とシンボリエウロスの前を踏む事なくゴールを迎える事も。

 

「うぅぅぅ……わぁぁぁあ!」

 

 それは絶叫だった。

 負けたくないとか、後ろにあのウマ娘がいて怖いとか、息を吐かせぬまま溺れさせて来るような駆け引きへの怯えとか、そういう絶叫。

 感情の発露が、メジロワースを進ませる。

 メジロ家として持っていたスタミナは既に押し潰され、才能と素質を最初のスタートで消費させられた彼女の僅かな余力。後、残り一歩。

 

『シンボリエウロスとメジロワース! 両者コーナーで仕掛けた! この位置争いは——』

 

 その、たった一歩が。

 またシンボリエウロスを追い詰める。

 

『……ッ……これはっ!?』

 

 ドンッ……と鈍い衝突音がした。

 

『——接触っ!! シンボリエウロスとメジロワース接触!』

 

 コーナーを曲がり切れなかったメジロワース。

 外から抜こうとしていたシンボリエウロス。

 二人がぶつかった。肩と肩がぶつかる衝突事故だった。

 シンボリエウロスが外へ大きく、物理的に弾き出される。

 

 審議のランプは、灯らない。

 

 重い接触ではない。

 だが軽い接触ではない。

 何よりシンボリエウロスは体格に優れていない。

 

『シンボリエウロス抜けない! シンボリエウロス上がって来れない! また外に回されました! 一人だけ大外に回されました! コーナーで外を進まされました!』

 

 一歩、外へ膨らむ。

 二歩、体が傾いて体勢が崩れる。

 三歩、たたらを踏んで脚が乱れる。 

 

 しかしウマ娘レースでは、こういう事はそれなりにあるものだ。

 

 誰が悪いかとなった場合、メジロワースは別に悪くない。

 強いて言うのならシンボリエウロスの運が悪い。ただの自業自得。

 

「あぁ………本当に……」

 

 レース中、ただの一度も言葉を口にしなかったシンボリエウロスが、ボソリと呟いた。

 引っかくように、髪を掻き上げながら。

 乱れ、逆立った額の流星が、心情の荒れ具合を物語る。

 観客のざわつきと、彼女の感情の揺れ動きは恐らく同じだった。

 

『シンボリエウロス上がって来ない! 厳しいかシンボリエウロス! 不利を背負されたまま、コーナー間の直線に入りました!』

 

 大きく展開を変えるつもりだったが、結局変わらない。

 しかもより不利を与られ、レースは最終直線前の最後の駆け引きの舞台へと突入する。

 

 阪神レース場には、他のレース場では類を見ない特殊な地帯がある。

 それが第3コーナーと第4コーナーの間に存在する、約130mの直線。

 阪神レース場のカーブを角度を全体的に急にし、刹那7秒程度の瞬間だけ外枠内枠の有利不利が完全に消える魔の直線。

 

『大丈夫かシンボリエウロス! 第4コーナーはもうすぐだ。最終直線を越えた先のゴールもすぐそこだ! 依然シンボリエウロスは最後方! 外に回され距離は14バ身! 先頭は——』

 

 そして、ゴールから800m手前の地点。

 今の今まで、ずっと抑え続けていたウマ娘が動く。

 

『——先頭は……ディクタストライカ!? 先頭はディクタストライカ! 仕掛けた! ここで仕掛けて来た! まさかここから、ここから末脚を解放して走るつもりかディクタストライカ!?』

 

 それが、遂にシンボリエウロスの手から主導権すら離れた瞬間だった。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

「エウロス。今更な気もするのですが」

 

 それは阪神JFが始まる数日前。

 シンボリエウロスと樫本理子が、阪神JFに向けて最終調整をしていた日の事である。

 

「貴方の走り方は、それで良いのですか?」

「はい……?」

「いえ、その……説明が難しいですね」

 

 煮え切らない不明瞭な言葉を使った自覚のある樫本理子が、腕を組んで言葉に悩む。

 抽象的な感覚を言葉にするのは苦手だ。

 オカルトや根性論を信用していないのもあるが、樫本理子は単純に理論派タイプであり、感覚派ではない。

 

「もう一度走って来ますか?」

「いえ必要ありません。そうではなく……」

「……………」

 

 自分の言葉が相手の言葉を引き出すに繋がらないと悟るや否や、シンボリエウロスは言葉と動作を止めた。樫本理子が心の中で言葉を纏めるのを、ただじっと待つ。

 そういうふとした時の挙措や態度が、王様気質のそれとは真逆のシンボリエウロスに若干の居心地の悪さを感じながら、樫本理子はまず、シンボリエウロスとの会話で重要となる認識と情報の擦り合わせを始めた。

 

「ウマ娘は、特徴的な走り方をするでしょう」

「はい」

 

 ウマ娘と人間の走り方は違う。

 総じてウマ娘は、かなりの前傾姿勢で走る。

 その傾き具合を人間の競技で例えるなら、スキージャンプやスピードスケートの前傾姿勢に近い。

 

 無論、走り方と姿勢はウマ娘個人個人でかなり差がある。

 頭を下げて走るウマ娘もいるし、頭を上げて走るウマ娘もいた。

 そこは極論向き不向きであり、才能や癖、筋肉の付き方の話になって来る。

 メリット・デメリットはあれど、走り方に明確な答えは決まっていない。

 分かっていないと称する方が適切かもしれないが、無理に走り方を変えて不調や怪我に繋がる可能性を考えれば、慎重に模索しなくてはならないと考えているのが樫本理子だった。

 だから実は、樫本理子は走り方にはあまり口出しをしない。

 

「私がその筆頭格みたいなものですからね」

「えぇ。ただレーススタイルの話ではなく、姿勢の話です」

 

 超前傾姿勢。周りのウマ娘達の前傾が普通に見えてしまうほどに深く、重心の低い独特なフォーム。

 それがシンボリエウロスの走り方。

 最後方から全員を抜き去る以外の勝ち方をしないとか、そういう話以前に、彼女は特徴的な走り方をするウマ娘の中でも、更に特徴的な異端だった。

 

 ちなみにだが、重心の低いフォームで走るウマ娘は珍しいがそれなりにいる。

 有名なところでいえば、トゥインクル・シリーズ史上最強の姉妹と呼ばれた二人。『悲運の二冠ウマ娘』タニノムーティエ。『遅れて来た英雄』タニノチカラ。

 

 二人の走法は、首を下げた重心の低い前傾姿勢というものだった。

 尚タニノムーティエは、自在性の強い脚質ながら強力な切れ味の末脚で勝つスタイルであり、好調時は上がり3F34秒台という、現在で言うシンボリエウロスの33秒台に近い末脚を使えるウマ娘だった。

 日本ダービーを勝利した後、喘鳴症を発症し、以降一度も掲示板に入る事なく引退するまでは。

 

 日本ダービーを10戦10勝生涯無敗のまま勝利し、幻のように消えたウマ娘。

 日本ダービーを史上初ハイペースで逃げ切り、狂気のウマ娘と呼ばれたカブラヤオー。 

 

 タニノムーティエは、彼女達に次ぐ幻の三冠ウマ娘である。

 それが『悲運の二冠ウマ娘』タニノムーティエ。彼女以上に、喘鳴症を患ってさえいなければと言われ続けたウマ娘は今のところいない。

 

「不安、ですか?」

 

 そういう事を危惧しているのか。或いは、脳裏によぎったのか。

 喘鳴症とは本来、発症すれば引退を免れないレベルの、死の病であるのだと。

 

「違います」

「…………」

 

 試すような声色の返答は、予想外に断言だった。

 迷惑と不安ばっかり掛けているウマ娘への返答にしては、揺らぎの無さすぎる言葉。

 瞳孔の反応に嘘はない。視線の向きも。言葉の間や息遣いも。

 反射的な断言ではなく、本当にそう思っている。

 そこに樫本理子が持つ何らかの信条と由来、或いは相当する過去を感じ取ったエウロスは、尻尾をバサっと左右に揺らした後、二回耳をぴょこぴょこさせた。

 

「不安ではなく、疑問です」

「疑問?」

「はい。その走り方で良いのかという。………また話が最初に戻りましたね。えぇと……」

「…………」

 

 不安ではなく疑問。その走り方で良いのか。

 そんな言葉、何かと比較しなければまず出て来る事はない。

 

「……もしかして、私の走り方ではない別の何かを思い浮かべていますか?」

 

 樫本理子の反応から察し、二つほど段階をすっ飛ばした言葉は核心を突いていた。

 

「そうですね……はい」

「ふぅん」

「………私が貴方と初めて出会った日の事を、エウロスは覚えていますか?」

 

 突いていた上で、微妙に的は外れていた。

 樫本理子はある過去を見ている。

 信条と由来に相当する、過去を。

 

 ——な……本格化前のウマ娘を相手に何をしているのですか貴方達は!?

 

 四年前。

 樫本理子とシンボリエウロスは初めて出会った。

 正確には、四年と少し前。とある事件が起きる以前である。

 

「……覚えているに決まっているでしょう? でなければ、今の私はいません。少なくともダートを走れるようにはなっていません」

「……………」

 

 それには語弊がある。

 ダートを走れるようになったのは、自分によるものじゃない。

 少なくとも、樫本理子本人はそう認識していた。

 

 ——良いですか。貴方の加速力とトップスピードは速過ぎます。その力を本格化前の貴方が芝で出せば脚が壊れ兼ねません。まずは負荷の軽いダートから始めてください。

 

 樫本理子は決して、走り方を変えろとは一言も言っていない。

 その走り方では、芝では負担が大きいからダートで走れと言っているのだ。

 本来なら、本格化以前且つこんな短期間で、シンボリエウロスはダートを走れるようにはなっていない。なる訳がない。

 

「(それが走れるようになったという事は、別の理由がある。彼女自身の努力があったという事でもある。そしてその中心には、きっと………)」

 

 樫本理子はそれを、直接的に指摘する事はしなかった。

 無理に走り方から変化を加え入れるのではなく、まず環境から変えるというアプローチを取ったように、彼女は慎重だった。 

 

「ではダートを走れるようになる前、自分がどういう走り方をしていたか分かりますか」

「え………それは、良く覚えてないですけど……」

 

 悩む素ぶりと動作には、四年前からの変化は感じられない。

 だが事実、シンボリエウロスの走り方は変わった。

 ダートでならまだしも、芝でも変わった。

 

 或いは変わったのではなく——変えられた、と呼ぶ方が適切なのかもしれない。

 

「……………」

「私って、どうやって走っていたんだっけ」

 

 小さく呟いて、何処を見るでもなく空を仰ぐ。

 彼女の言動と思考に素が出る時、いつだって過去を振り返らない彼女は、過去の記憶を再生している。

 瞼が揺れていた。

 眉間に皺が寄るとは微妙に違って、瞳を閉じるにしてもしっかりと閉じ切らず、しかしちゃんと開いている訳でもない、痙攣に近い反応。

 例えるならそれは。

 

 目の前で、カメラのフラッシュを大量に浴びせられた時の反応のような。

 

「……エウロス」

「ん、はい」

 

 呼び掛けに対する返事一つで、彼女は過去から現実に戻って来る。

 それで瞼の揺れは消えた。今の出来事の残滓もなく、引き摺る事もなく、何事もなかったかのように。

 

「貴方が………いや貴方自身に違和感がないのなら構いません。昔、私が貴方に言った助言が悪癖になってないか気になっただけですので」

「悪癖が出来ても、まぁ直せば良いだけですし、そんなに気にしないでください」

 

 貴方が………でどうして言い淀んだだろ。

 何を考えているか分からない見た目と雰囲気をしていながら、その実何も考えていない事が多く、しかしそれはそれとして相手の反応は結構考えているシンボリエウロスは、樫本理子の微妙な心境をかなり察していた。

 ただ察する能力は高くとも、姉のルドルフ以上に本質の部分が上位者気質の彼女の返答は根本的な部分を微妙に履き違えたままだった。

 

「それは………いえ、そうかもしれません。ただ直せば良いだけという考えは甘えに繋がり兼ねないので気を付けるように」

「はい」

「今日のトレーニングは一旦終わりです。1時間の休憩の後、阪神JFへの対策会をするので、指定の会議室へ来てください」

「はい」

 

 故に樫本理子の誤魔化しに気付く事なく、その会話は終了した。

 樫本理子にとっては重要な意味合いを持つ会話であっても、シンボリエウロスにとっては、普遍的で日常的なトレーナーとの会話でしかない。

 

 樫本理子は自らのトレーナー室に戻る。

 手元には、シンボリエウロスの走法のデータ。

 映像媒体として保存しているに収まらず、3D化し、脚先から腰に至るまでの負荷のかかり方などを数値化した物。

 

 だが、樫本理子は知っている。

 数値化出来ない過去に、あの走り方が存在している事を。

 それを鮮明に思い出せるほど、自分の記憶の中にだけ残っている事も

 

「一体何を………」

 

 いずれ向き合わなければならない事だった。

 触れないまま、ずっとなかった事には出来ない話だった。

 そういう言葉で理論武装すれば済む事を、樫本理子はしない。

 

 自覚があった。

 脳裏に、四年前に初めて自分が見た、彼女の走り方がある。

 別に、彼女の今の走り方が悪い訳じゃない。悪癖でもない。

 何なら今の走り方の方が良い。

 樫本理子の理性と経験が、そう言っている。

 言っている筈なのに。

 

 四年前の彼女の方が、ずっとらしく見えた。

 

「無責任だ……」

 

 ウマ娘は、想いを乗せて走る。

 逆説的に、人々はウマ娘に想いを託す。 

 その無責任さを、樫本理子は自らが担当していた子で思い知った。

 

 ただ樫本理子は、トレーナーという存在の業までは知らなかった。

 

 トレーナーが、ウマ娘の走る姿に何も思わない筈がない。

 ウマ娘に最も身近な人間は、トレーナーである。

 そしてシンボリエウロスと最も身近なトレーナーは樫本理子である。

 ずっとずっと最初から。

 

 シンボリエウロスは前傾姿勢で走る。

 でも違う。ただの前傾姿勢じゃない。

 彼女はもっと……もっと。

 

 無慈悲で残酷で。

 美しい、走り方をする。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 阪神レース場は、特殊である。

 敢えて悪い言い方をするなら、問題がある。

 阪神1600mが、まさにそれだった。

 

 レース開幕に第2コーナーのカーブ。

 第3コーナーと第4コーナーの角度が急。

 全体的に小回り。圧倒的内枠有利。

 

 これは後に阪神レース場が改修され、第3コーナーと第4コーナーの間の直線を廃止し第3コーナーと第4コーナーが大きく緩やかなカーブに変更。

 次に先行して内枠を取る逃げ・先行対策に、ゴール手前に上り坂が作られる事で改善される。

 更には新たに外回りのコースが新設、阪神1600mのレースが、まるっきり別のコースで行われる事になってまた更に改善される。

 

 問題は、その改善と改修が未来の話であるという事だ。

 

 第3コーナーと第4コーナーの中間に存在する、約130mの魔の直線。

 外枠と内枠の有利不利が消える場所として存在するこれは、そもそもこの直線を消して、コーナーを緩やかな円にした方が、外枠と内枠の有利不利の差は薄まるのでは? となるまで、この直線は存在した。

 

 この直線は、魔の直線である。

 その理由は、ほぼ丁度ゴール手前800mに存在するから。

 

 最終直線が短い。

 差し・追込が不利。

 捲ろうにも、最終直線手前の第4コーナーの角度が急で難しい。

 だから第4コーナー手前で仕掛けないと後方脚質は厳しい。

 何より圧倒的内枠有利で、先行して内枠を取る先行勢がそのまま力押しで勝ち易い。

 

 しかしなんと、第4コーナー手前にはこれ見よがしに直線があった。

 ここでなら逃げ・先行脚質が維持していた内枠の有利が消えるじゃないか。

 外から追い抜く不利が一番薄くなるここで仕掛け、第4コーナーと最終直線を有利の位置で迎えよう。

 

 後方脚質はそう考える。

 故にこの直線で加速する。

 そして、大体が潰れて負ける。

 加速したまま800m走るから。

 

 ウマ娘が全速力を維持出来るのは約600m。

 時間にした場合30〜40秒。

 限界出力から一歩下げた高出力のスパートなら話は変わるが、それでも一歩間違えば掛かって限界出力に踏み入ってしまう800mのロングスパートは極めて難しい。

 だからこそ距離のロスを支払い、長距離のロングスパートを仕掛け、コース形状のタブーすら犯しながら勝ったミスターシービーは、本当にあり得ない勝ち方をしたのだ。

 才能、実力、技術、勝負根性、冷静さ、地頭の良さ。

 ロングスパートには、全てがいる。

 

『ディクタストライカ先頭! ディクタストライカ先頭! 後続のウマ娘達を突き放し、1番手に躍り出た!』

 

 それを彼女は行った。

 先行3番手。後方脚質でありながら、唯一先行勢に取り付き、展開荒らしのシンボリエウロスが駆け引きに引き摺り込めないギリギリを維持していたディクタストライカは、第3コーナーを抜けた瞬間一気にバ群から抜け出した。

 

 魔の直線からロングスパートを仕掛けるか、短い最終直線で末脚の切れ味に全てを賭けるか。

 後方脚質のウマ娘は、レース展開の有利不利やペースの流れを読み取り、方向性が全く異なるこの二つの策を選ばなくてはならない。

 

 ここでディクタストライカは、何故か後方脚質のウマ娘のように仕掛けた。

 先行勢の有利を意図的に捨てて、このまま持つ訳がない。

 最終直線、ゴール手前200m付近で一気に伸びを欠く。失速する。

 ディクタストライカは、きっと1着争いには入らないだろう。

 ターフの上のウマ娘達と、観客の多くはそう思う。

 事実、仕掛け所を間違えて負ける典型的なウマ娘と同じ動きはしている。

 

 ——走ることに、安心なんて求めるな。

 

 でも彼女達、彼ら達は知らない。

 ディクタストライカが持つ、才能、実力、技術、勝負根性、冷静さ、地頭の良さ。その全て。或いはディクタストライカというウマ娘が持つ本質。

 

 ステイヤーの身体に、スプリンターの魂。

 

 彼女は適性と身体、精神と勝負根性の質に致命的な乖離があった。

 それは、彼女が圧倒的気性難である事に由来する。

 勝負根性への力強さを通り越し、走るだけで自らの脚を踏み砕いてしまい兼ねないレベルの、過去未来全ての気性難達と比べても見劣りしないほどの気性難。

 ディクタストライカ以上に、心と体のチグハグさで悩まされたウマ娘はそういない。

 

 ——無難を笑え。

 

 だがそのチグハグさが一度噛み合えば、何もかもが裏返る。

 自らの脚を踏み砕いてしまい兼ねないほどに際限のない闘争心は、超脅威的なスパートの維持能力へと。

 圧倒的な量のスタミナを、僅か一瞬で燃やし燃え尽きるようなスピードへと。

 彼女が本気になったなら、もう誰にも止められない。

 

 限界出力から一つ落とした800mのロングスパート?

 違う。彼女はそんな無難な選択をしない。

 後ろにいるのは、当代最強のシンボリ。

 ただの一度も自分の走りが出来ない状況に追い詰められながら、刹那すら自分を見失わずレースを進めて来た異次元。

 生半可な走りが通用する訳がない。

 ここしかない。

 タイミングも、状態も、全てが今だった。

 

 ——行ける………っ!!

 

 魂から溢れ落ちた思考の上澄みが、確信していた。

 今なら、きっと出来る。

 今だけは、常識も限界も越えられる。

 

 限界の先を越えた、更にその先へ。

 

 パリンッ……。

 その瞬間、何かの壁が破られた。

 空間が歪み、壊れ、砕けた音をディクタストライカは確かに聞いた。

 次に彼女は見た。

 

 世界が暗闇を帯びて、次に開ける。

 圧力を帯びて、縮小する。

 

 ——何だ、これ。

 

 そこに広がっていたのは、世界だった。

 ディクタストライカ。

 彼女は自らの実力と才能、そして自らの脚を以って、限界の先の先へと到達した。

 並のウマ娘では知覚すら出来ず、時代を創るウマ娘にしか至る事を許されない地平。

 ウマ娘という生命が持ち得る固有の世界。

 風の音も、自らの脚音も、歓声の声も聞こえない。

 まるで世界が自分一人だけになったような感覚の中、ディクタストライカは大地を駆ける。

 

「これ……不味いんじゃ………」

 

 最初に呟いたのは、観客席の小さなウマ娘だった。

 額には月のような流星。ターフの上のシンボリエウロスとは真逆。

 しかしシンボリルドルフとは同じ。

 何となく雰囲気が、エウロスよりもルドルフと似ているウマ娘。

 彼女が、誰よりも早く気が付いた。

 

「このままだと……負けちゃうんじゃ………」

 

 誰が負けるのかを、彼女は言わない。

 月のような流星を持つ彼女がこのレースで見ていたのは、ただ一人だけだ。

 彼女には、最初から何となく不安があった。

 シンボリエウロスは自分の走りが出来てない。出来ないようにさせられている。

 皆は皆、何となくシンボリエウロスは勝つだろうと思っているし、事実彼女も勝つだろうなー、この逆境を覆して誰よりも鮮やかに勝つんだろうなー! と慢心に近い応援をしていた。

 

 でも彼女は、頭が良かった。

 

 観客の多くが理解していないシンボリエウロスの不利を、彼女は理解している。

 多くの人間が盛り上がったシンボリエウロスの攻防劇も、本来ならそういう事をしなくても良い筈なのに、色んな手段を使わないといけないくらいまで追い詰められていた事も察している。

 

 同時に彼女は、天才だった。

 

 その天性の才覚は、ターフの上で展開された限界の先の先に存在する地平を何となく感じ取れるほどに鋭く、濃い。本格化すら始まっていない、この年齢で。

 ——『帝王』

 その渾名を気に入り、渾名からも気に入られているような少女だけは、何よりも分かっていた。

 このままだと、あの人は負ける。

 

『先頭ディクタストライカ! ぐんぐんと後続を突き放し、一人独走状態!

 最後方でシンボリエウロスは——来ない! 仕掛けて来ない! 先頭のディクタストライカと15バ身……16バ身! 尚も離れる!』

 

 その予感が、ルドルフに似たウマ娘の少女以外にも広がっていく。

 次にターフのウマ娘達も理解していく。

 

 ——え、これって………。

 

 まさかディクタストライカは、止まらないんじゃ。

 この速度のまま、本当にゴールしちゃうんじゃ。

 そういう考えが広がってからは、止まらない。

 接触によって後ろに控えたままのシンボリエウロス。

 ゴールへ最大出力のまま走り続けるディクタストライカ。

 この場面で脅威となるのは、明らかに後者。

 

『ウマ娘達は抜け出したディクタストライカに追い縋るように加速していきます! シンボリエウロスは……まだ来ない! シンボリエウロスだけはまだ来ない! 18……19………20バ身後方!』

 

 その流れは、もうシンボリエウロスにも止められない。

 利用するならまだしも、雪崩のように崩れた集団を個人は止められない。

 何よりここからはもう最後のラストスパート。単純な実力勝負。

 駆け引きが通用する場面ではない。

 

『最終直線手前の第4コーナーに差し掛かっても依然先頭はディクタストライカ! シンボリエウロスは、シンボリエウロスは——仕掛けた! 残り600! やはり残り600mから来た!』

「………そんなぁ」

『だが……だが厳しい! これは厳しい! 18バ身……17バ身……!! シンボリエウロス上がって来たがこのままでは勝ち切れない!』

 

 追い縋るウマ娘達に遅れる形で、シンボリエウロスはラストスパートに入った。

 いつもなら、彼女が末脚を解放した時に上がる歓声が、今日はない。

 シンボリエウロスの並外れた末脚でも尚届かない物理的な距離がある。

 このままの速度では差し切れない。

 誰にも分かる事だった。

 追込はいつも、こうやって負ける事も。

 

『もうすぐ最終直線! 依然先頭はディクタストライカ! 完全に抜け出したディクタストライカ! 2着に6バ身の差を付け、シンボリエウロスには16バ身近い差を付け、先頭を独走!』

 

 無敗が、終わる。

 こんなところで、終わってしまう。

 誰もがそう思った。

 月のような流星を額にもつ帝王(テイオー)もそう思った。

 

 そして。

 ターフの上の当の本人も、同じ事を思う。

 シンボリエウロスは、ここで初めて負けを意識した。

 

「—————」

 

 呼吸音。歓声。芝を蹴る音と風切り音。

 音という音の全てが意識にない。

 あるのは目の前に広がる光景。自分以外のウマ娘全員が立ちはだかり、先頭のウマ娘は手を伸ばした爪先の大きさしかないほど遥か彼方。

 キラキラと、チカチカと、弾かれた弾丸の閃光にも似た情景と共に、1着のウマ娘が走っている。

 

「(邪魔………)」

 

 それが、煩わしくて仕方がなかった。

 自分の前に誰かが走っているのも煩わしい。

 何もかも全てが煩わしい。

 

 点滅する光が煩わしい。

 

 何かが刺激される。

 どうしてかそれだけが、何よりも邪魔で、煩わしくて仕方がない。

 際限なく溢れるその感情に蓋を出来ない。

 

「(——邪魔………)」

 

 それが彼女の本質だった。

 無意識下で、自らの走り方にすら影響するほどの。

 

 シンボリエウロスは必ず、追込と捲りで走る。

 しかしそれ以外にも、もう一つ特徴がある。

 彼女は今までのレースで最終直線に入った時——必ず1着だった。

 

 理由は、負けたくないから。

 勝ちたいからではない。

 勝ちたい相手は、いない。

 

 シンボリルドルフ。シリウスシンボリ。マルゼンスキー。ミスターシービー。

 前を走っているのは、その四人だけ。

 でも皆全盛期は過ぎ去った。まだ引退してないのは、たった一人しかいない。

 同期に勝ちたいウマ娘なんていない。

 ただ、吐き気がするほど負けたくないだけ。

 

 皆に胸を張り続けられる存在であり続けたい。

 

 だから、負けない走りを。

 最終直線に入った時、自分が最も有利な位置を。

 彼女は後天的に、そういう走りをするようになった。

 

 じゃあ——元々は?

 

 最終直線に入った時、彼女は1着を取れた事などあったか。

 答えは明白。一度足りともそんな事はない。

 彼女は別に無敗でも何でもない。何なら負けの方が多い。

 本当に勝ちたい相手には、一度だって届いた試しがなかった。

 

 "調子は落とさなかった"。

 "出遅れもしなかった"。

 "レース中に掛かりもしなかった"。

 "一度もハイペースには陥らなかった"。

 "だけどいつも、最終直線に入った時、最後方だった"

 

 自分は完璧に走っているのに、皆には何一つ届かなかった。

 

 今日もそう。

 自分は完璧に走った筈なのに、負けかけている。

 最後の直線で、1番後ろにいる。

 

 そんな時、どうするか。

 完璧に走っても尚届かないなら、どうするか。

 限界を越えるしかない。

 

 限界の先の、更にその先へ。

 風も音も消えて、光すらも置き去りにした、誰もいないあの地平へ。

 

 瞬間。

 

『——来た。シンボリエウロスが来た……』

 

 世界が暗闇を帯びて、次に開ける。

 

『シンボリエウロスが来た! シンボリエウロスここで来た!』

 

 圧力を帯びて、縮小する。

 

『シンボリエウロス——翼を広げた! 翼を広げて追い込んで来た!!!』

 

 最終直線。

 残り約350m。

 

 現在先頭。1着。

 ディクタストライカ。

 

 15バ身後方、最下位。

 シンボリエウロス。

 

 芝。残り2F未満。

 15バ身差を覆して勝利したウマ娘は、存在しない。

 間に合う訳がない。

 勝てる訳がない。

 誰もがそう言った。

 誰もがそれを否定しなかった。

 

「——おかえり、エウロス」

 

 でも、ある四人だけは、疑いすらしなかった。

 

「"領域"へ」

 

 シンボリエウロスは、元々。

 空を飛ぶように走る。

 

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