有効射程距離25バ身   作:sabu

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 時期的にはここからクラシック編が始まるのですが、話のタイミング的にこの話もジュニア編のものとして分類します。
 


1/10 第12回 重賞ゴールドジュニア 1/2

 

【オグリキャップ、ゴールドジュニアを最後に中央行き!?】

 

『カサマツの星』オグリキャップといえば、中央からの勧誘を受けている事は記憶に新しい。

 中央レース場にて行われた『中京杯』を圧倒的実力で勝利したオグリキャップ。

 その実力に目を付けた、偶然居合わせた中央トレセン生徒会長シンボリルドルフ。

 関係者によると、その日の内にオグリキャップが所属するチームのトレーナーである北原 穣氏が呼集され、中央移籍の話を持ちかけられたという。

 ルドルフ会長自らの勧誘という前代未聞の事態。オグリキャップ。そしてそのトレーナーである北原 穣氏の動向が注目されていたが、今回新たな動きが見られた。

 

【勝てば中央。負ければ東海ダービー】

 

 東海ダービーといえばオグリキャップの目標であり、北原トレーナーの夢である事は周知である。

 しかし中央へ移籍すれば、東海ダービーへの出走は絶望的だろう。

 そこで北原氏は新たに、1月10日に開催される『ゴールドジュニア』への出走を決め、そのレースで勝てば中央へ、負ければ東海ダービーへ出走する事を発表した。

 北原氏の東海ダービーを諦められない気持ちと、中央へ挑戦させてみたい気持ちが葛藤している様子が伺える。

 

 しかしその公表の裏には、オグリキャップ本人からの言葉もあったと関係者から伝わっている。

「私が走る事で誰も悲しませたくない。だけど……私が中央に行かない事でも悲しませたくない」

 北原氏と同じく複雑な心境を語ったオグリキャップの今後の動向は『ゴールドジュニア』での成否が大きく左右するだろう。

 

 また、その『ゴールドジュニア』に、オグリキャップに唯一土を付けたフジマサマーチも出走する事を公表した。

 フジマサマーチといえば、オグリキャップ陣営と同じく東海ダービーを目標としている事は有名であり、オグリキャップの中央移籍に大きな反応を見せる事を予想されていたウマであった。

 

 ただ予想に反しフジマサマーチ本人からの言葉は少なく、「私のやる事は変わらない。またオグリキャップに土を付けます」とだけ簡素に語った。

 オグリキャップを中央に行かせたくないのかという問いに対してはノーコメントを貫き、「……ただ私はオグリキャップに勝ちたいだけです」と述べている。

 

 

 ——『笠松スポゲツ新聞』から一部抜粋。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

「これは……エウロスのやった事か?」

「違うよ」

 

 シンボリルドルフは、隣の指定席で『笠松スポゲツ新聞』を広げている妹を訝しげな目で見ていた。

 新年明けた、今日の笠松レース場は喧騒に満ちている。

 だからといって全席満員という訳ではないのは、何処まで行っても地方だからとしか答えようがないが、それでもやはり普段よりかは人が多い。

 

「私はオグリキャップ本人には何も言ってない。

 私がしたのは、悩んでいたあるウマ娘に事実を言っただけ。

 もしかしたらそれが今の結果なのかもしれないけど、私に判別する力はないし、何より彼女達の選択を決めるのは彼女達だけだから、私は何もしてない」

 

 妹は、この問題にあまり積極的ではなかった。

 決断するのは彼女達なのであって私達じゃない。

 だからあまり干渉するべきではないというスタンス。

 たとえそれが、傍から見て明らかに間違えた決断をしていたと分かるものだったとしても、妹は何もしなかっただろう。敢えて悪い言い方をするなら、無慈悲。

 実際に助けを請われるまで、分かっていても何もしない。それが妹だった。

 

 当然と言えば当然なのかもしれない。

 他人の事だからどうこう以前に、妹は現在多忙の身だ。

 樫本トレーナーから一時的に妹を預かっている都合上、ルドルフとしても妹に負担をかけるつもりはない。

 

「ただ、運命に力があるのなら収束するものなのかもしれないね」

「つまり、なるようになると」

「うん」

 

 ——……なるほど。勝てば中央、負ければ地方と。

 ——はい。……オグリキャップと一緒に決めた事です。

 ——……分かりました。ならば私から言う事はありません。

 

 先日、オグリキャップのトレーナーである北原氏から、ルドルフは通話越しに答えを聞いた。

 それがトレーナー1人で勝手に決めた選択なら物申す事はあったが、担当するウマ娘と一緒に考えて出した結果であるなら、もうルドルフから言う事はない。

 

「マルゼンスキーなら、なんて言ったんだろうね」

「マルゼンなら………オグリキャップの実力を中央の皆に見せたいくらいは言うかもしれないな。でもどうかな、案外何も言わないかもしれない」

 

 最近のマルゼンスキーは何処かルドルフ達に距離を置いている。

 だからか、余計にそう思う。

 何か具体的な夢があった訳ではない。

 でも色んな規制やしがらみで、走りたいレースに出る事が叶わなかった彼女なら、この問題にも何か答えを示してくれたり、力になってくれたのではないだろうか。

 

 ——ねぇルドルフ? ……もしかしてこの前エウロスちゃんとお出かけしてた?

 ——そんなんじゃないさ。一緒に地方へ視察に行っただけだよ。

 ——………………。

 ——マルゼン?

 ——ハッ……。そうね、そういう事ね……大丈夫大丈夫! お姉さんは全て分かってるから! 忙しいお仕事の合間に姉妹一緒で観光したいわよね!

 

「マルゼンスキーも一緒にいた方が良いのにな」

「うん」

 

 ぐっ……っと両手で親指を立てて見送った気ぶりマルゼンスキーだが、ルドルフとしては変に気を使わなくても良いのにと思っているのが実情である。

 何なら彼女は、そういう風に気を使って欲しくない人物の1人だった。

 あの赤いスーパーカーは、いつだって好きにすれば良い。好き放題走って周りを振り回せば良い。

 天衣無縫のミスターシービーとはまた違った奔放さが、マルゼンスキーには合っている。

 

「……だから、オグリキャップを中央に誘ったのかもしれないな」

 

 もっと相応しいレースを。

 地方出身だからとか、そんなしがらみなんて関係ない場所を。

 そして妹は、だから中央移籍に積極的じゃなかったのだろう。

 見ているものが同じでも、胸に抱くものは異なる。

 マルゼンスキー。彼女の走りと生き様は、まだ2人の中にある。

 

「『皇帝』サマがそんな事言って良いの?」

「今はお前の姉だ」

「二律背反」

 

 遠慮がない。手厳しいな、と思いつつルドルフは返答をしなかった。

 自覚している事だからである。全てのウマ娘に幸福を。その夢の始まりが、たった1人のウマ娘から始まった時点で。

 

「……まぁ、私もだけど」

「ん?」

「私もオグリキャップは地方にいるべきじゃないと思ってる。でも今日、私はオグリキャップを応援してない。今日オグリキャップが負けたら、中央に来ないのにね」

「………エウロス。お前は今日、誰が勝つと思う?」

 

 ジュニアグランプリの時、ルドルフは同じ事を妹に聞いている。

 オグリキャップ。妹は即答した。

 

「…………」

 

 その妹が、今日は即答しない。

 少し黄昏れるようにダートの上を眺めて、答える。

 

「フジマサマーチ」

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 今日は不思議な感じがする。

 出走を間近に控えているフジマサマーチは、そう思った。

 

 自然と心が凪いでいる。

 感情が揺れない。雑音も聞こえない。

 最初は、現実味を実感出来ていないのかと思った。

 しかし笠松レース場に入り、控え室の中に入り、そしてもう間も無くパドックだというところで多分違うのだと気付いた。

 

 このレースをオグリキャップが勝ったら中央に行く。負けたら地方に残る。

 

 それが何を意味しているかは、分かってる。

 今日誰が勝っても、夢が一つ消える。今日誰が負けても、夢が一つ壊れる。

 ウマ娘のレースはそういう世界だ。ずっとずっと最初から。

 最近、それを改めて自覚した。

 

 東海ダービー。

 

 オグリキャップは言った。一緒に走ろうと。

 だが一緒に走っても、勝者は一人。

 二人の夢は、同時には叶わない。

 

 今日も、同じ。

 

「———と同じ1600mだ。前走での経験を活かし集団に巻き込まれても自らのペースを維持する事を意識して——」

 

 トレーナーの言葉が響く中、フジマサマーチは何処か達観した気持ちで自分を見ていた。

 本当だったら私は、あの日シンボリエウロスに向けた激昂をオグリキャップに向けていたのかもしれないと。

 

「………聞いているか」

「……………」

 

 ——どれだけトレーナーが優秀でも、トレーナーはレース中にウマ娘を操縦出来る訳ではありません。だから貴方が選んでください。

 

「柴崎トレーナー。今日は私に全てを任せてくれませんか」

「………何?」

 

 シンボリエウロスはウマ娘であって、トレーナーじゃない。

 だからフジマサマーチを担当している彼よりトレーナーとして優秀という事には繋がらない。

 ただ実は、シンボリエウロスは中央のトレーナーになるようシンボリ家に養育されていたとか言われてもフジマサマーチは驚かなかっただろうが、柴崎トレーナーとシンボリエウロスのどちらがトレーナーとして優秀か決めて、優秀な方の言う事を聞くという話ではなかった。

 

 シンボリエウロスはウマ娘だ。

 だから人間という括りの中で、ありとあらゆるトレーナーが彼女には絶対に敵わない事が一つだけある。

 それは常に刻々と変化する情勢を読み取り、その場で最適解を出し、レースで実行する事。

 フジマサマーチは、それを信じてみたくなった。

 中央で負けた事がないウマ娘の言葉を。

 

「お願いします」

「…………」

 

 頭を下げる。

 ウマ娘にどう走らせどう勝たせるかも技量の一つであるトレーナーに、何も指示するなと言っている非礼と、嘆願の意味が込められているそれへ、柴崎トレーナーは溜息を吐いた。

 

「初めてだ。お前が何かを頼むのはな……」

「…………」

「一つだけ約束してくれ。後悔しない走りをすると」

「——はい」

 

 無茶を言った。

 それを否定されなかった。

 また一つ、心が凪ぐ。

 波紋の立たない水面のように。

 

「……マーチ」

 

 そのフジマサマーチの心を騒つかせるのは、やはり一人だけだった。

 オグリキャップ。ゲート入場直前、立ち塞がるように奴はいる。

 芦毛と芦毛。

 雨に濡れた不良バ場の上で、彼女達は向かい合うように対面した。

 

「………」

「………」

 

 何を言えば良いのだろう。

 互いに同じ事を思って、二人は黙る。

 かと言って無視したままゲートに入るほどの軽い関係ではない。

 

 ——東海ダービーは?

 ——何も思わないのか?

 ——約束と夢は?

 ——私を止めないのか?

 

「オグリキャップ」

 

 互いに言いたい事は幾つか合った。

 だがフジマサマーチには、聞きたい事は一つもなかった。

 

「貴様には負けん」

「……………」

 

 返事を待つ事なく、フジマサマーチはゲートに入る。

 少し遅れて、オグリキャップもゲートに入る。

 

 笠松1600。フルゲート10名。

 外枠、それも先行する脚質が有利。

 

 6枠6番、オグリキャップ。1番人気。差し。

 8枠9番、フジマサマーチ。3番人気。逃げ。

 

 ——逃げウマ娘は枠番による有利不利を最も極端に受けます。要は運です。ここは祈ってください。

 

 速さ。強さ。そして運。

 決して運を軽視してはならない世界で、今日のフジマサマーチは限りなく運に恵まれた。

 フジマサマーチより外には一名しかいないのだ。脚質との相性も良い。

 ただしここには、運だとか有利不利だとか条件だとか関係なく、ずっと同じ戦法で全てを捩じ伏せ続けた怪物がいる。

 

 ——祈りが届かなかったとしても、貴方のやるべき事は決まってます。

 

 精神を研ぎ澄ませ、限界まで研ぎ澄ませ、その瞬間を待つ。

 自分がどう走れば良いかを全て知っている者が成せる、思考の単純化。

 意図的な感覚のシャットアウト。

 

 ——スタート200m。最初の第4コーナーまでに必ず先頭を取ってください。出来なければ貴方の負けです。

 

 ガコン、と鉄製の扉が開く音がした。

 

 

東海地区限定特別重賞競争

ゴールドジュニア

重賞・笠松・ダート・1600m

 

 

「(……少し肩をぶつけた)」

『ゲートが開いて今スタートしました! 誰が行くんでしょうか。注目の先行争い——』

 

 研ぎ澄ませ、レース場全てを覆うほどに広げた感覚は、ゲートの開閉音を明確に知覚した。

 反射的な行動。開き切る前のゲートに右肩を強打——出来るほどのスタートをした結果の鈍い痛みが、広げていた感覚を明敏に戻す。

 

 あのウマ娘は言った。

 後方からプレッシャーを与える事など考えるな。

 笠松にオグリキャップを後ろから差せるウマ娘は存在しない。

 つまり貴方はオグリキャップよりも後ろに回った瞬間に負ける、と。

 

 ——オグリキャップよりも前にいる、のではダメなのですか?

 ——ダメです。貴方は負けます。

 

 容赦がない。無慈悲で残酷に、お前は弱いのだと言ってくる。

 しかしシンボリエウロスは、弱い事を一言で終わらせない。

 

 ——オグリキャップだけを意識したいところですが、そうはいきません。他全てのウマ娘も同じ事を考えている。故に戦術と戦略は被る。特に貴方は逃げなので。

 

 理解している。強さではなく、弱さの方を良く。

 脚質分布の話ですよ、と追加で補足はしていたが、そう単純な話ではない。

 レース中のウマ娘がどういう心理で如何なる行動をするのかを、今のところ誰よりも強い筈のウマ娘は良く知っている。

 

 ——全ての逃げ・先行ウマ娘が貴方の邪魔になります。最初の第4コーナーカーブまでに最も有利を取ってください。絶対に妥協してもいけません。

 

『外の方から一気に10番アルタスウエー! アルタスウエーがハナに立とう……といったところで——同じく外から9番フジマサマーチ! 9番フジマサマーチ!』

 

 8枠10番、アルタスウエー。6番人気。逃げ。

 大外。脚質はフジマサマーチと同じ。故に考えている事はフジマサマーチと同じ。

 唯一違うのは、フジマサマーチには何の躊躇もない事。

 

 ——何がなんでも、第4コーナーまでにはハナを取ってください。後先など考えなくて構いません。

 

 後の有利を取る為、先頭を取る。

 先頭を取る為に後先考えなくて良い。

 たった一言で矛盾した言葉だが、笠松1600の特徴をオグリキャップの怪物性と共に聞いたフジマサマーチにはその意味が分かる。

 故に彼女はシンボリエウロスの組み立てた戦術に、何の躊躇いもなく心中出来た。

 それが、8枠10番のウマ娘との差を分けた。

 

『先頭——先頭はフジマサマーチ! 先頭に立っているのはフジマサマーチ!』

「……な!?」

 

 隣から驚愕する声が聞こえた。

 無理もないだろう。傍から見ればフジマサマーチは掛かっているほどに加速している。

 消耗もしている。

 無論フジマサマーチは掛かっていない。

 消耗はあるが、焦りは微塵もない。

 

 今のフジマサマーチは、彼女自分が驚くほど絶好調だった。

 

 例えるなら、あらゆる出来事が自分を中心に回っているような全能感。今自分が何をすれば良いかが全てが分かる高揚感。

 それは実際に、あのウマ娘からどう動けば良いのかを教えられているのもあるかもしれない。

 足の回転に自分のスピードが追い付かず、肉体が魂を置いてきぼりにして突き抜けてしまいそうな感覚さえした。

 

 フジマサマーチは、理想的な形で第4コーナーを通過し先頭を奪った。

 

 外枠の利点。速度を落とす事なくコーナーに切り込める。

 1枠1番と5枠5番のウマ娘も先行争いで前に出て来たが、速度を落とさずコーナーに突っ込んだ代償に外に膨らんだ。

 笠松レース場の特徴。スタート時内枠の不利である。

 

 直線に入った時、フジマサマーチは先頭内側。

 初手で先頭を取れなかったのは仕方がないと、オグリキャップを意識したアルタスウエーは 凡そ2バ身離れて2番手。

 外側に膨れた1枠1番と5枠5番のウマ娘達も同じく、3番手と4番手でオグリキャップを意識して控える。

 

 その隙を伺うように、5番手オグリキャップ。

 外に膨れる訳ではなく、素直に内を回る。

 不良バ場に足を取られる事はなく、ペース配分に乱れもない。

 

「(……上手いな)」

 

 抑えなくてはならないのは最初の第4コーナー。一周回った第4コーナー。

 それを知っているフジマサマーチは、素直に頷いた。

 

 今なら良く分かる。

 オグリキャップは必ず大きく不利を背負った走りをしているが、決して雑に走っている訳でも、適当に走っている訳でもない。

 何ならオグリキャップは笠松の誰よりも綺麗に、そして丁寧に走る事が出来るだろう。

 

 根本的に地方に合っていない。

 嫌悪感すら抱いていたその言葉は、今は納得になっていた。

 

「(……今日のマーチは、少し怖い)」

 

 対してオグリキャップは、久しく忘れていた緊張に肌を震わせていた。

 最近のフジマサマーチには、ジュニアクラウンの時のような圧力がなかった。

 調子が悪かったのだろう。逃げという脚質でありながら終始オグリキャップより後ろに位置していたレースが連続していたのもある。

 追う立場になった逃げウマ娘は、怖くない。

 

 でも今日は違う。

 

 オグリキャップが唯一負けた2戦。そしてジュニアクラウン。

 この3戦、フジマサマーチは必ずオグリキャップより前にいた。

 更に今日は先頭。5番手のオグリキャップとの距離、約6バ身。

 例の3戦の倍以上の距離。

 

 自分の末脚で間に合うか間に合わないかでいえば、間に合わない気がする。

 でも同時に、このままだとフジマサマーチは最後の最後でバテそうな気がする。

 

 オグリキャップには分からない。

 詰めるべきか、このまま耐えるべきか。

 純粋な経験不足。その果てにオグリキャップが選んだのは詰める事だった。

 

 バテるならそれで良い。

 だがバテずにフジマサマーチがレースを進めたら間に合わない。

 故に詰める。オグリキャップは冷静に、今の自分が出来る最善を選んだ。

 

 ——ここからは貴方が第4コーナーで先頭を取った前提で話します。

 

 観客が見守るスタンド正面の直線を抜けて、コーナーに入った。

 第1コーナー。第2コーナー。そして向こう正面へ。

 残り約800m。丁度半分。

 コーナーでは位置取り押し上げが難しい。

 故にオグリキャップは向こう正面で前へと詰めた。

 極めて実直なレースの進め方だ。

 

 ——向こう正面に入った瞬間、オグリキャップは必ず前に出ようとして来ます。

 

 それをチラリと横目で見たフジマサマーチ。

 乾いた笑みとは、こういう時に出すものなのだろう。

 言っている意味は分かる。理由も。

 ただその精度が未来予知していると思うほど高い。

 そして、今後の展開すらも。

 

『残り800を切って外からオグリキャップ! 外からオグリキャップ並んで——』

 

 来ない。

 順位に変動なし。

 オグリキャップ。5番手。

 

「(……ぐっ………今日は皆の圧力が——)」

 

 オグリキャップの前に立ちはだかったのは、4番手から2番手のウマ娘達。

 そう、このレースは決してオグリキャップとフジマサマーチの一騎討ちではない。

 オグリキャップは、敵を作りすぎた。

 

 ——が、第3コーナー付近まで絶対に展開は動きません。貴方は特に何もしなくて良い。

 ——……抑える必要もないと。

 ——はい。ありません。貴方とオグリキャップの間にいるウマ娘が勝手に抑えてくれます。

 

 それは、1番人気の宿命。

 突出した強さは必ず対策される。

 伏兵を簡単に見逃してくれるほど。

 

 距離を詰めようとするオグリキャップ。

 それを横一列の形になり、進路を防ぐウマ娘達。

 尤もこれは、フジマサマーチが先頭を取った事でより強固になった壁である。

 もしもフジマサマーチが同じく後方にいれば、オグリキャップは外に回されたが位置取り押し上げを可能としていた。

 

 ——私も抑えに回れば……。

 ——あぁ、いえ。訂正しましょう。貴方は抑えない方が良い。

 

 先頭。それはもっともペースに影響を与えられる場所。

 その位置を取れたのなら、オグリキャップを妨害しているウマ娘ごと自分が檻で囲うように抑えられるのではないかとフジマサマーチは考えていた。

 

 それは、自然の思考である。

 

 ウマ娘レースに於ける前提。

 ハイペースは逃げ・先行に不利。スローペースは差し・追込に不利。

 逃げウマ娘の勝ち筋は凡そ3つに分けられるが、大半の逃げウマ娘は後ろを抑える。

 基本の事を言うなら、おかしいのはシンボリエウロスである。

 ただ今、シンボリエウロスは基本の話をしていない。

 

 ——オグリキャップを削る事だけを考えるならむしろハイペースの方が良い。代わりに貴方の負担も増すのでミドルペースでも構わない。ただスローは無しです。

 ——何故ですか。

 ——貴方以外のペースをガタガタに出来るので。

 

 シンボリエウロスは順序の話をした。

 戦術と戦略は、被るのだ。

 

 オグリキャップの末脚を知らないウマ娘は笠松に居ない。

 2番手、3番手、4番手が出方を探る意味合いも込めてオグリキャップをスローペースに抑え込み、末脚を余らせようとするだろう。

 ただフジマサマーチはそんな事気にせず、自らのペースで走る。

 

 結果、間違いなく距離が開く。

 

 その差を埋めようとオグリキャップが更に詰め寄って窮屈な思いをしても良い。2番手、3番手、4番手が抑えないフジマサマーチに釣られ、位置修正に横一列のまま加速しても良い。

 どちらにしろオグリキャップは、加速→妨害されて減速→加速と速度のギアを小刻みに動かされる事になる。

 

 それが、ウマ娘にとってどれほどキツイ事か。

 

 そもそもウマ娘に限らず人間もそうだが、最も体力を消費するのは全速力を維持している時ではなく、実は加速する瞬間である。

 これは10分間電気を付けているのと、10分間電気を付けたり消したりを繰り返す時、後者の方が早く蛍光灯の寿命が切れるのと同じ理屈である。

 だからこそ、スパートを二段階で行っているオグリキャップは怪物としか表現出来ないのだ。

 

 ——そのスパートを、向こう正面で削ります。

 ——……ハイペースとミドルペース。私ならどちらの方が勝算が高いですか。

 ——レース中の貴方が選択してください。具体的に数字にするなら、2着に2バ身、オグリキャップに6バ身を付ける事を意識してください。 

 

 それはいわゆる、セーフティリード走法だという事はフジマサマーチにも理解出来た。

 二種類ある幻惑逃げの片方だとも。

 

 だからって言われた通りに出来るかよ。

 あのウマ娘は軽々しく言ってくれたが、チラチラと後ろを見て距離を確認しながら走ったら誘ってるのがバレバレだし、自分のペースが崩れたら元も子もない。

 それを、刹那刹那で状況が変わる全力疾走中にやれと言っている。

 

 逃げはただ前を走れば良い訳ではない。

 多くの事を考えながら走らねばならず、かといって頭ばかりを回していれば足元がお留守になる孤独な脚質。

 

「(クソ……脚が取られる)」

 

 不良バ場。

 ダートの上に水溜まりが浮かぶほどにぐちゃぐちゃとした土は、田んぼと揶揄されてもおかしくない。はっきり言って走るのには向いてなかった。

 木曽川のサラサラとした川砂を使っている笠松レース場では、砂と砂同士のくっつきが緩く、特に。

 

 だがフジマサマーチは、言われた事をなんとか守った。

 

 最初に飛ばして先頭を取り、その後も後ろとの距離を維持し続け、最後は根性で粘って勝つ逃げウマ娘らしいといえばらしい逃げ。

 これはオグリキャップを削ると同時に、フジマサマーチ自らの走りをする為の策だと彼女は気付いていた。

 

 無意識の内に、しかし確実に走り難さを感じたまま走らされているオグリキャップ。

 向こう正面の間2番手、3番手、4番手の壁は壊れず、また絶妙な距離感のフジマサマーチは釣り餌のように機能したまま、第3コーナー手前にまでレースは進んだ。

 

 もうすぐ残り600m。上がり3F。

 シンボリエウロスが言った、展開が動き始める第3コーナー。

 

 ——貴方がこの動きを守れば、オグリキャップはこう動きます。

 

 その時オグリキャップは二つの選択肢を迫られた。

 塞がれた前を回避する為、最大外に出て仕切り直すか、荒れた最内を突っ切るか。

 内の更に内は、ぐちゃぐちゃに荒れている。

 初めての不良バ場な上に、最後の末脚を荒れた方で仕掛けるのは避けたい。

 

 だから外。

 そう思って、疑問が過ぎる。

 いつもならそれで良かった。それで勝てた。

 

 だけど今日はいつもよりずっと遠い——6バ身も離れた場所にフジマサマーチがいる。

 

 捉えられない。

 外に回って、しかも笠松のカーブで前方のウマ娘を外から抜けば、この距離は更に膨らんでしまう。

 

『内に、内に切り込んで来たオグリキャップ! 内へと滑り込むように一瞬で6番オグリキャップ!!』

 

 ——オグリキャップは少し外に膨れた後、その利点を活かし荒れた最内に直角で切り込みます。

 

 来た。本当に来た。

 天気予報だの何だの言って今日は不良バ場になる事を予想し、荒れに荒れた最内、多くのウマ娘が回避して来た柵から約1mのデッドゾーンに、オグリキャップは本当に来た。

 

「……そこから!?」

 

 フジマサマーチだけは驚かなかった。

 だがそれ以外のウマ娘達、特にオグリキャップを抑えていた3人のウマ娘は、予想すら出来なかった。

 

 ダートの不良バ場は、速度が出ない上に滑り、脚が取られ易い。

 

 良。稍重。重。不良。

 含水率の上昇に変化する4つのバ場の内、良を平常時とした時、不良はその極端に位置する。

 ダートの場合サラサラとした良バ場より、稍重、重の方がタイムが縮む。

 クッションとなる土または砂が水によって固まって強固になり反発が強くなるから。そして地面を蹴り出す表面が動き難くなるからだ。

 だが不良バ場にまで達するとそれはほぼ逆転する。

 表面の砂が水によって浮き、土や砂の固まりは逆に解け易く、ズレやすくなるのだ。

 

 最内はその傾向がより顕著で、荒れていた。

 デコボコした表面に大きな水溜まりが出来ているほどに酷く。

 オグリキャップはほぼ、田んぼの上を走っているに近い。

 

『2番手にまで上がって来た6番オグリキャップ! 先頭は変わらず9番フジマサマーチ! 距離は約3バ身!』

 

 それが予測出来ない、というかそんなことすればスタミナを削られ、一歩ごとの歩幅も崩れてより負担が増す選択だからこそ、意表を突いたオグリキャップは2番手を奪い去った。

 最内オグリキャップ。内フジマサマーチ。

 第3コーナーを越えて、第4コーナー。距離は3バ身。

 だがその3バ身は、数字以上の距離がある。

 距離ロスがない筈の最内なのに。

 

「(脚が、重い……)」

 

 一度、少し外に出ないと。

 そう考えたオグリキャップを再度抑えに回る、2番手だったウマ娘達。

 後続のウマ娘が仕掛けたのに合わせて、先行していた彼女達も仕掛けていた。

 オグリキャップが外に出るのを防ぐように。

 

「(……ッなら前に出るしかない!)」

 

 最内。ウマ娘レースに於いて圧倒的に有利な位置は、しかし必ずしも有利という訳ではない。

 最内とは、外から来たウマ娘の集団に最も押し潰され易い位置である。

 

 ——笠松1600で抑えるべき場所は、最初の第4コーナーと一周回った第4コーナー。

 

 そして前に出るしか選択肢がなくなる、最も予想しやすい位置取り。

 

 ——貴方がこれら全てを守り切れば、第4コーナーを抜けて最終直線に入った時、オグリキャップの半バ身左前に貴方はいる。

 

 フジマサマーチ。

 オグリキャップに唯一土を付けたウマ娘が、最後に立ちはだかる。

 

 ——最終直線。再びオグリキャップを内側に叩き込んでください。彼女の末脚を全て終わらせます。

 

 ½バ身前。

 進路は、前しかない。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 最終直線。201m。

 最後の実力勝負は、根性で逃げ伸びるウマ娘と最悪の状態で直線を迎えた差しウマ娘という形相を呈していた。

 いつものオグリキャップなら最終直線に入った段階で先頭を取り、圧勝していた。

 そうじゃなくても距離は半バ身。

 直線の短い笠松といえど、その距離しかないのならオグリキャップは絶対に差し切っていた。

 

「(差が縮まらない)」

 

 しかし今日は違った。

 脚が重い。それだけじゃない。

 走るたびに酷く絡み付く荒れた最内の土と泥水の抵抗感は、足首に紐を引いてタイヤと繋げているのに近い。

 何よりオグリキャップは必ず外に回って仕掛けて来た。

 配分も感覚も全てが未知。

 今までのレースで、今日が1番辛いと断言出来る。

 

「(マーチ……)」

 

 隣を見れば、同じくらい必死の表情をしているフジマサマーチがいる。

 ハッ、ハッ……と荒い呼吸。もうすぐバテる。最初にオグリキャップが予想した通りに、彼女も無理をしているのだ。

 その上で、フジマサマーチは限界を越えようとしている。

 自分の全てをかけて、オグリキャップを削れるだけ削って、勝つ気なのだ。

 

 ——負けられない。負けてたまるか……!

 

 そんな気概とプレッシャーが、すぐ隣からする。

 ギシリと歯が砕けんばかりに噛み締め、彼女は走っていた。

 策を弄して、ようやくこの怪物と対等だと理解していた。

 だからフジマサマーチは、オグリキャップを見てない。

 前を向いていないのは、オグリキャップの方だった。

 

 ——勝ったら中央。負けたら地方。

 

 敢えて考えていなかったその言葉が、再び脳裏に浮かぶ。

 マーチと一緒に東海ダービーを走りたいし、東海ダービーをキタハラに上げたい。

 中央に行きたいか行きたくないかで言えば、はっきり言って行きたくはなかった。

 

 だけど……もしも中央に行けなかったら、きっと多くの人が後悔する。

 ふとした時、もしもオグリキャップが中央に行っていたらと、そう思わせる日々を過ごさせてしまう。

 彼女には、それを感じ取れるだけの機微があった。

 

 中央に行くべきか、どうか。

 地方に居て良いのか、ダメなのか。

 

 その為の今日。

 オグリキャップは色んなものを振り切れるか、振り切れないのか。

 フジマサマーチは引き留め切るか、引き留められないのか。

 トレーナーにも迷惑をかけて、多分中央の偉い人達にも迷惑をかけて用意して貰った舞台で、彼女は再び悩んでいる。

 

『フジマサマーチが先頭! 残り100mを切ってフジマサマーチが先頭! オグリキャップは厳しいか! オグリキャップは厳しいか!?』

 

 今日のフジマサマーチはずっと怖かった。

 容赦の無さ、戸惑いの無さ、少し配分を間違えば自分が崩れてしまうようなハイペースとレースの進め方。

 それは、何が何でもオグリキャップを引き留めようとしている姿に見えた。

 

 決して自分は油断してない。手加減もしてないし、腑抜けてもいない。

 だけど、それでもフジマサマーチは来た。

 完全に抑えられ、終始圧倒され続けた。

 ならば負けてしまっても、しょうがないんじゃないか。

 地方に残っても——。

 

 オグリキャップには分からない。

 人の夢。自分の夢。皆の夢。そして、もう取り戻せなくなる大事な夢。

 今の彼女は、そういうものを背負って責任を持つにはまだどうしようもなく幼くて、未熟だった。

 走れるならそれで良いとしか思っていなかった自分と地続きの、泣きそうになっているただの子供だった。

 

 だから彼女は、逃げるように大人を見た。

 

 北原 穣。

 一緒に天下を取らないかと言ったトレーナー。

 中央に行ったら、もう一緒には天下を取れなくなる大事な人。

 

 

「行け」

 

 

 観客席の1番前で、今までオグリキャップしか見てなかった彼は言う。

 帽子の鍔で、涙目の瞳を隠して。

 

「良いの……? そしたら私——」

「良いんだよ」

 

 オグリキャップの言葉は聞こえてない。聞こえる訳がない。

 でも今だけは、きっと彼には本当に聞こえていた。

 

「お前は誰よりも、キャップ(頂点)が似合うウマ娘なんだからよ」

 

 そっか。そうか……。

 じゃあ、うん。

 勝つよ。

 絶対に。

 

「っ……あぁあぁあああっ!!」

 

 体は沈み、重心は低く、前傾に。

 普通のウマ娘ではあり得ないほどの膝の柔らかさと、そこから広がる下半身全体の抜群の柔軟性。

 そしてその柔軟性から大地に打ち付けられる脚の脚力と推進力。

 

 不良バ場。

 表面の砂が水によって浮き、動き、滑り易くなる、最も大番狂わせが起こり易くなるバ場。

 だがそれすら——不良バ場に対する適性すらオグリキャップは持っている。

 彼女は滑り易くなった表面の更に下、下層のクッション砂を踏み抜き、更には路盤すらをも叩ける。

 

「(クソ……クソっまだマーチに——)」

 

 届かない。それでも尚、勝てない。

 泳ぐように足首を使う。蹄鉄を地面に叩き付け、地面を捲り上げる。

 その走り方は、北原トレーナーと一緒に学んで覚えた、彼女だけの走り方。

 オグリキャップにとっては不良バ場だろうが脚は滑らない。

 ただ単純に、緩くなった土によって反発力が薄くなり、推進力が低下するだけ。

 でも、たったそれだけが、絶望的にキツい。

 二度目のスパートはとっくに死んでる。

 末脚の切れ味は、今日も含めた12戦の中で最悪。

 後はもうフジマサマーチとオグリキャップの、積んでいるエンジンの勝負であった。

 燃料切れ寸前と、ズタボロにされた最高級のと。

 

「(勝つ。絶対に勝つ……! 私は、私は——)」

 

 だって、言われたから。

 行けと、背中を押された。

 

 オグリキャップはもう隣を見ていなかった。見る余裕がなかった。

 なんとか隣には並んだだろうか。

 いや明確に前にはいなくなっただけで、マーチの方がギリギリ先にいるかもしれない。

 

 分からない。

 だけど走る。

 もがくように、ただひたすらに前だけを見て。

 

「う——あぁぁあああっ!!」

 

 再びの咆哮。

 自分の全てを出し切るようにオグリキャップは叫ぶ。

 そして、ゴールを通過する瞬間。

 

 誰もが予想出来ず。

 何の予兆もなく。

 本当に、ただ唐突に。

 それは——オグリキャップがメイクデビュー戦で負けた理由と同じように。

 

 フジマサマーチの頭が、ガクンと下がった。

 

「………え」

 

 ウマ娘は。

 全速力を30〜40秒しか、維持出来ない。

  

 




 
⚪︎だからこそ、スパートを二段階で行っているオグリキャップは……
 逃げて差すという『異次元の逃亡者』の走り方が意味不明と呼ばれる理由でもあり、マルゼンスキーの日本短波賞が遊んで勝ったと呼ばれる理由でもある。

⚪︎だが不良バ場にまで達するとそれはほぼ逆転する。
 近年では不良バ場でもあまりレースタイムは掛からない傾向にありますが、作中的には近年ではないので、このように表記しました。
 
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