有効射程距離25バ身   作:sabu

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 1988年共同通信杯、何回見てもスタートダッシュのレベルが高すぎる。


2/14 第22回 G3共同通信杯 2/3

 

 東京1800mでは、枠順による有利不利がほぼない。

 が、それはそれとして注視しなくてはならないのが、内枠側に入ったウマ娘の脚質が先行型かどうかである。つまり逃げや先行か、という話。

 これは如何なるレースでも変わらない。

 脚質分布と序盤のレース展開に纏わる基本の基である。

 

『スタートしました! 後ろの方で若干、……サクラチヨノオーとオグリキャップが——』

「(——速い……レベルが違う!)」

 

 ゲートが開いたその瞬間オグリキャップは早速、中央の洗礼を浴びていた。

 正確には共同通信杯というレースのレベルの高さ。

 スタートの淀みの無さ。ゲートを飛び出してからミドルペースにまで加速して速度に乗る秒数。出走しているウマ娘の全てが、笠松とまるで違う。

 

 もしもオグリキャップの中央の初戦が共同通信杯でなかったら、恐らく彼女は驚かなかった。

 しかしここにいるウマ娘は、中央の中でも上澄みの上澄み。

 何でここに来た、距離適性に合っていないと微妙な評価を受けている8番人気のスーパークリークは疎か、このレースに於ける最下位14番人気のウマ娘ですら、中央に在籍するウマ娘の大半が敵わないレベルの実力を持つ。

 

 実際に若干出遅れたと実況に言われたサクラチヨノオーですら、笠松では出遅れを指摘されるどころか恐らく好スタートを切ったと言われる。

 ゲートを飛び出してから速度に乗るまでの時間も、具体的な数字に表せば1.0秒ほど早い。

 1秒差で5〜6バ身の差が出来るのは速度に乗り切ってからの話なので、サクラチヨノオーは地方の平均にスタートで6バ身差を叩き出せる、みたいな話にはならないが、2バ身ほど差を付ける事が出来るくらいには純粋な力に差がある。

 

『——立ち遅れた感じですが、それほど影響はありません!』

 

 距離で表すなら、約⅓バ身の出遅れ。

 それを確実に取り戻し、先行争いに入るサクラチヨノオー。

 オグリキャップは出遅れを取り戻さない。必要性が薄いと考え、距離的にも誤差の範疇だと割り切る。

 彼女は先行争いに入るよりも、立ち混みやすい序盤の立ち位置を冷静に測った。

 

『さぁゆっくりと左手にカーブを描きながら注目の先行争い!』

 

 東京1800m。

 序盤、第1コーナーと第2コーナー中間のコーナーポケットからスタート。

 100mもしない内に第2コーナーに入り250mほどのカーブを進むといった構成で始まる本レースだが、かなりの大回り且つ外目に第2コーナーへ切り込む都合上、これは外枠不利を示さない。

 これは向こう正面の長さ、最終直線の長さ故に後々でも挽回しやすいのが影響しており、また根本的に東京レース場のカーブは緩やかに作られているのが理由である。

 

 実質的に、レース開始に750m近く直線があると表現されるほどだ。

 

 故に枠順の有利不利はほぼなく、しかし同時に外枠から内枠に圧力をかけ易い——有り体に言えば、あのシンボリエウロスが先行勢を極めて潰しに来やすい構成をしている。

 

 が、今回で言えばそんな事は何もかも関係ないほど容易く先行争いは収まった。

 

 1枠1番ミュゲロワイヤル。逃げ。最内。

 序盤から本レースを引っ張るだろうと予想されていた彼女が、そのまま先頭に立つ。

 

『幸先の良いスタートを切りました1枠1番のミュゲロワイヤル! 続く形で3枠4番、2番人気のサクラチヨノオーは2番手! 3番手にはスーパークリークが陣取り——』

 

 前からミュゲロワイヤル、サクラチヨノオー、スーパークリーク。

 内枠を占めた先行勢が、綺麗に前を取った。

 

 脚質分布。内枠側に固まった、先行型の脚質。

 彼女達の強固なレース展開の構築は、教科書に貼り付けても構わないくらいに分かりやすい。

 

 ここに唯一を挙げるなら、7枠12番の外目に回された、3番人気の逃げウマ娘モガミナイン。

 彼女がどのように動くかが序盤の作りの見極めでもあったが、しかしモガミナインも向こう正面に入った段階で、外から順当に追い付いて来た。

 

 開始約300m。

 先行争いで語るべきレース展開の妙はなく、最終的に2人の逃げウマ娘がレースを引っ張り、サクラチヨノオーが3番手、スーパークリークが4番手の形で序盤は形作られた。

 

 ペースはややスローペース。

 

 誰も先行争いで熾烈な叩き合いはしていない。

 位置取り争いで1人が前へ出て、更にその1人を捕まえる為に前へ出て……といった形でレースが加速する事もない、ただただ普通のレース。

 

 ——あの『暴風』がいる上で?

 

『向こう正面、長い向こう正面に入って1番人気シンボリエウロスは、変わらずの最後方! 最後方14番手!』

 

 誤算。

 

『しかし今日は……今日はやはり少し調子が悪かったか!? スタートでシンボリエウロスが伸びない!』

 

 シンボリエウロスが、来ない。

 圧力すらかけて来ない。

 レースに出ている全員……強いて言うならオグリキャップを除く全員が、事前にイメージしていた動きと異なる行動をシンボリエウロスはしていた。

 

 細かい戦術は全て違えど、大筋は全て同じ。

 シンボリエウロスは必ず逃げを潰しに来る。

 レースを操作するタイプなら先行も潰すだろう。

 そのシンボリエウロスは、拍子抜けと感じるくらいに緩いレースをしていた。

 スタートダッシュすら普通。マーク戦法に振り切る事もなく、後方からラップタイムに波を作る事もしない。

 或いは、まだしてないだけなのか。

 

「………それも作戦の内、ですか?」

 

 スーパークリークは後方に目を向けて、呟いた。

 返事はない。聴こえていないのではなく、何も意識にないような、そんな雰囲気。

 

 ——恐らくだが、シンボリエウロスは喘鳴症を患っている。呼吸器疾患と呼んだ方が良いかな。

 

 奈瀬トレーナーは、事前にそう告げていた。

 喘鳴症。それが如何なる病気なのかをスーパークリークは知っている。

 というか、ウマ娘であれば間違いなく学園で習う。

 屈腱炎・繋靭帯炎に並ぶ死の病。

 発症すれば、普通は引退を免れない。

 仮に引退を免れなかったとしても、あまりに大きすぎるハンデ。

 

 ——………どうしてですか?

 ——これは……確定している話じゃない。無闇に公表して良い話題でもない。

 

 返された問いに複数の意味が紛れている事を察した奈瀬トレーナーは、前置きしてから告げた。

 

 ——ただ、シンボリエウロスが喘鳴症であるとした場合に辻褄が合う話が多すぎるんだ。

 

 シンボリルドルフに妹がいる事を長らくシンボリ家が隠していた事。

 担当トレーナー選びで若干の騒動を起こした事。

 そして最有力に、極端としか言いようがない追込の走法。

 

 ——たった一人だけいるんだ。シンボリエウロスと全く同じ走り方をしていたウマ娘が。

 

 国外。日本から遠く離れた米国で、そのウマ娘は現れた。

 次のレースから追い込んで来る、とすら呼ばれた異次元の戦法。

 約40バ身後方から捲り切る伝説。

 彼女の名前は——シルキーサリヴァン。『彗星』シルキーサリヴァン。

 米国に於いては、ともすればマンノウォーやセクレタリアトを凌駕しかねない人気を誇る、赤い箒星である。

 

 しかし米国の人気に反し、日本での知名度は決して高くない。

 彼女は既に亡くなっており、そもそも今から何十年も前に活躍したウマ娘である。

 六平トレーナーが、そうか……もうあのウマ娘の名前を知らない人の方が多いのか、と呟きかねないほどにシルキーサリヴァンは古いウマ娘だ。

 

 だが彼女の伝説は確かに残っている。

 

 ダート戦のラスト1F。

 当時、1Fは12秒台で高水準という世界で10.0秒、或いは10.0を切っていたなどという速さの末脚。

 今から何十年も前の、ダートでだ。

 米国のダートは各国のダートより速く時計を刻めるとしても、数十年という時代の差を加味すれば、もはや日本のダートで1F10.0を出したと言っても過言ではないかもしれない。

 

 道中、先頭ではなく集団の最下位にすら時に20バ身以上の後方でのろのろと走りながら、最後の最後で一気に覆す超極端な追込戦法で名を馳せた彼女は、後に喘鳴症とされる先天的な呼吸器疾患を患っていた。

 故に全力を出せる距離は、僅か数百mしかなく、それがシルキーサリヴァンの超極端の走法を生んだとされる。

 

 また、シルキーサリヴァンは非常に賢いウマ娘だったとされる。

 物心が付いた時にはもう、その極端な走法を完成させていた。

 自分がどのように走れば良いかを、全て理解していた。

 集団から孤立し、自分だけの世界を構築し、その世界で自らを成立させていた。

 

 似ている。

 あの極端な追込走法も、トレーナー要らずの領域に片足を突っ込んでいるあの頭脳も、自らの成立のさせ方も、シンボリエウロスはシルキーサリヴァンに瓜二つだった。

 最大の脅威は『彗星』にはあった脚の関節炎が『暴風』にはない事。

 或いは姉と同じように名門シンボリの血が覚醒して現れているのか『暴風』は、負けが込む事も多々あった『彗星』とは違い、極めて安定した戦績をしている。

 

 ——末脚勝負で勝つ、なんて事は考えない方が良い。アレはもうそういう存在だ。

 

 シンボリエウロスに末脚勝負で勝てるウマ娘は、地上に存在しない。

 今後未来、現れるとも思えない。

 対抗に追込の代名詞であるミスターシービーを並べたいところだが、そのミスターシービーよりも、シンボリエウロスは末脚に優れている。

 既に、この段階で。

 

 その為の、超極端な走法。

 多くのレースを最後方から進めたミスターシービーにすら、10バ身近く後ろからレースを進めるような存在が、彼女なのだ。

 兎も角として、奈瀬トレーナーはシンボリエウロスを『彗星』と呼ばれた追込ウマ娘と同種の存在だと想定した。

 

 つまり最悪、アレは1F10.0秒を叩き出す。

 

 ちなみにシルキーサリヴァンがその1F10.0秒以下を出したのが、何とクラシック期の2月中旬である。

 上がり3Fは最終的な走破タイムとは違い、ジュニア級でもシニア級でも大きく変わるものではないが、それでも速い。二重の意味で。

 

 つまり、今この瞬間のシンボリエウロスが1F10.0秒を出す可能性は決して0ではない。

 何なら10.6 10.5のラップタイムを刻んだ阪神JF以来、机上の空論でしかなかったそれは、現実味を帯びて来ていた。

 荒唐無稽だと茶化すトレーナーは、もういない。

 ラスト1Fで、12〜15バ身の差を覆して来るかもしれないウマ娘が、現役に存在する事を。

 

 ——ただこれは明確な特徴だ。

 

 しかしシルキーサリヴァンには弱点が多かった。

 同じく、シンボリエウロスにも出来ない事がある。

 

 ——シンボリエウロスの弱点は、最後の最後でしか全力で走れない事。彼女は競り合いや消耗戦に非常に弱く、掛かった時に支払う代償は他のウマ娘の何倍も重く、仕掛け所を間違えば必ずラストスパートで伸びを欠く。一度力尽きてから息を吹き返し、再加速する事も不可能。

 

 喘鳴症。

 故に生まれた超極端な走法は、あまりにも鋭利で、尖っていて、それ故に脆い。

 当の本人もそれを理解しているからこそ、序盤から積極的に戦術的勝負を仕掛けている。

 

 ——そして彼女はロングスパートが出来ない。絶対に。

 

 ロングスパート。

 即ち30〜40秒を超えたスパート。

 無酸素運動から、有酸素運動に切り替わる限界秒数。

 喉に致命的な弱点を持つシンボリエウロスは、有酸素運動の域に踏み入った瞬間、脚が止まる。

 止めないと、比喩でも何でもなく寿命が縮む。

 シンボリエウロスには、ロングスパートを行う才能だけは欠片もない。

 

 ——クリーク。生粋のステイヤーである君とは違ってだ。

 ——………、………。

 ——シンボリエウロスを倒すのは、他の誰でもない。君だ。

 

 スーパークリークが、もしもシンボリエウロスを自らの土俵に引き摺り込めたのなら。

 勝てる。必ず、勝てる。

 

 奈瀬文乃は確信していた。

 あのウマ娘に最初に土を付けるとしたら、スーパークリークなのだと。

 

 戦術を駆使する頭脳。レースを俯瞰する能力。

 それはシンボリエウロスと何ら遜色ない。

 そしてシンボリエウロスが絶対的に持ち合わせる事の出来ない、競り合いの強さ、消耗戦、ロングスパートを行う素質。

 その全てを持っているのが、他ならぬ彼女しかいない。

 天敵、と称するに相応しいのは、スーパークリークただ一人だ。

 

 そしてスーパークリークは、実際にレースではそのように動いた。

 

 シンボリエウロスの動きは既に阪神JFで織り込み済み。

 序盤、シンボリエウロスは必ず前に出る。

 バ群に呑み込まれる事、自分がハイペースになる事、全体がスローペースになる事、大きな距離ロスを負う事を極端に嫌う。

 

 故の、先行。

 

 立ち位置を測り、シンボリエウロスに競り合いを強制させる。

 レース展開を終始『暴風』に操作させない。

 前に立ち、後ろから来るシンボリエウロスを抑え込み、制御する。二択を強制させる。

 スーパークリークの考えていた対策は、極めて確実だった。

 

 故に——誤算。

 シンボリエウロスが、一切前に出て来ない。

 

「(本当に、厄介ですね)」

 

 未来予知。先読み。後出しジャンケン。

 そんな言葉が浮かんでは、溶けていく。

 

 相手は常に休みなく最適解を選択し続けた規格外。

 自分自身の弱点を最も理解しているだろうウマ娘。

 如何に対策したところで、絶対に終始円満に収まってはくれない。

 しかも、そもそもイメージ通りに動かないなら、それそのものが彼女の策なのかと、延々と思考を散らされる。

 どう動いても、厄介。

 

『向こう正面に入りペースが全体的に落ち着いて来た、といったところでしょうか!? ややスローペースと言った形で、第3コーナー手前の上り坂に入ります!』

 

 スーパークリークは思考の渦に入った。

 今後の自分の立ち位置。第3コーナー、第4コーナー、最終直線での動き。ロングスパートを仕掛けるタイミング。シンボリエウロスを此方の土俵に引き摺り込む方法。シンボリエウロスが、何を考えているのか。

 

 彼女は現在の状況から即座に考える。

 他のウマ娘はまだ動揺しているか、全体を気にしているかで動いていない。

 スーパークリークも、能動的とはいえまだ思考の渦にいる。

 

 そのウマ娘の集団の中で真っ先に動いたウマ娘。

 

 それはオグリキャップではない。

 スーパークリークでもない。

 レースを引っ張る逃げウマ娘二人でもない。

 

 ——サクラチヨノオー。

 

 3枠4番。2番人気。先行。

 彼女が、誰よりも早く動いた。

 

「(エウロスさん……良いんですか、それで!)」

 

 たった二人しかいないジュニア級王者。

 たった一人の、朝日杯FS勝者。

 しかし彼女は、対となる阪神JFの勝者であるシンボリエウロスと比べて、驚くほど評価されていない。

 

 その最大の理由は、ディクタストライカの存在だった。

 

 あの日シンボリエウロスは非常に強い勝ち方をした。上がり3F32.5秒だ。

 しかしその影に隠れているだけで、ディクタストライカの上がり3Fは35.7秒。

 上がり3Fの平均が36秒台の世界で36秒を切り、阪神JFでは2番目に速い上がり。

 決してスローペースではなく、また800mのロングスパートで、600mの末脚が2番目に速いのである。

 

 そして、クビ差。

 

 シンボリエウロスは、ジュニア級世界最速の末脚を出した。

 逆に言えば、世界最速の切れ味を引き出した上で彼女はクビ差しか差を付けられなかった。

 そこに至るまでのレース展開があったとはいえ、2着と3着にあった10バ身以上の大差が、明らかに彼女達だけが突出していた事を歴然と証明している。

 

 ではサクラチヨノオーはどうだっただろう。

 

 王道の先行。

 隙がないが、かと言って特別何かが強いとは言い難い。

 勝ち時計1:35.6。1着から3着がほぼ横一線となるクビ差の接戦で、彼女は朝日杯FSを勝利した。

 

 数字は全てではない。

 だが一つの指標にはなる。

 その数字を阪神JFに入れたら、サクラチヨノオーはシンボリエウロスとディクタストライカに9バ身ほど離されて沈んだ3着だった。

 

 サクラチヨノオーが朝日杯FSを勝てたのは、ディクタストライカとシンボリエウロスがいなかったから。

 故に評価は3番手。

 かと言って、彼女らと共に三強と呼ばれる訳でもなく、世間はディクタストライカとシンボリエウロスの二強。

 平凡。普通。プラスアルファがない。

 サクラチヨノオーは、そんな評価を受けている。

 

「(私は、普通だ)」

 

 他ならぬ当の本人が思っている。

 自分は普通なのだと。

 

 憧れの赤いウマ娘に近付きたい。

 その思いは彼女に、夢へ近付く喜びを与えた。

 小さい頃から走るのが好きだった。

 有名なクラブに入り1着だって何回も取って来た。

 だからトレセン学園に於ける最高峰に入学出来た時も、彼女は胸を張る事が出来た。

 しかし彼女に待ち受けていたのは、周囲との実力差。残酷な現実。

 中央ではサクラチヨノオーは普通でしかなかった。 

 

 尚、ここで結論から言おう。

 サクラチヨノオーは決して普通ではない。

 

 平均値から見ても、中央値から見てもサクラチヨノオーは最上位。

 世代に於いて彼女は明確な格上などまずいないレベルの強者である。

 

 だが彼女自身にとっては、普通だった。

 

 普通とは、相対評価である。

 重賞レースすら遠いウマ娘からすれば、サクラチヨノオーは遠い存在に違いない。

 だがサクラチヨノオーは、もっともっと遠い存在を見ている。

 

 マルゼンスキー。赤いスーパーカー。

 サクラチヨノオーは、上しか見てない。

 だからサクラチヨノオーは自分の事を普通だと言う。

 事実、正しい。

 マルゼンスキーに比べたら、並のG1ウマ娘と重賞が程遠いウマ娘両者が、全て等しく普通の位に均される。

 そしてサクラチヨノオーのすぐ近くには、普通に均されないウマ娘がいた。

 

 シンボリエウロス。

 憧れの赤いスーパーカーに最も近くて、何処までも遠いウマ娘。

 勝ち時計、1:34.2。

 サクラチヨノオーが辿り付けなかった35秒の壁を遥かに越え、更にはマルゼンスキーが持っていたジュニア級レコードを0.2秒更新したウマ娘。

 

 住んでいる世界が違う。

 

 中央に来てから、彼女はマルゼンスキーにそう思った。

 憧れは、想像以上に遠かった。

 同じ事を、シンボリエウロスにも思った。

 憧れに最も近くて、『皇帝』の妹で、幼少の頃からずっと強者しか周りにいなかったウマ娘は、文字通り住んでいる世界が違った。

 

「(このままじゃ勝てない。それどころか、私の憧れにも顔向け出来ない)」

 

 サクラチヨノオーは決して驕らない。慢心だってしない。

 彼女の頭にある幻影は、いつだって常に前を走っている。

 

「(私は、貴方がどんなレースをするか知っている!)」

 

 だから今日、その幻影を振り切る為に、サクラチヨノオーはここにいる。

 

「(エウロスさん、今日は勝たせて貰いますから!)」

 

 サクラチヨノオーは、意図的に抑えた。ペースを緩めた。

 スローペースは後方脚質に不利。それを彼女は知っているし、シンボリエウロスが如何なるレース展開を好むのかも理解している。

 

 シンボリエウロスがクビ差まで追い詰められた阪神JFでもそうだった。

 その後にじわじわと余裕を奪われ、彼女の手で後ろから押し上げられるように加速させられたとしても、スローペースは確実に効果があった。

 スローペースは、彼女が何とかしなくては負けに直結する展開だったのだ。

 

「(我慢比べなら、私は貴方にも負けない!)」

 

 そこが、サクラチヨノオーが見出した好機。

 得てして彼女はスーパークリークと同じ結論に至った訳だが、彼女自身は知らない。

 或いはまだ分かっていない。

 その適応力の早さ。一瞬の鮮明に自分を投資出来る覚悟。

 何より、多くのウマ娘が対応しても尚掛からせて来たレースをするシンボリエウロスを前にして——たった一人で相手にして、実際に掛かる事なく我慢比べが出来る能力を。

 

 根性、と一言で語るにはあまりにも軽率すぎるサクラチヨノオーの才能。

 

 サクラチヨノオーは、展開が荒れるほどに強い。

 それは荒れ狂う大海原に取り残されても自分を見失わない安定力。

 それは最後の最後まで、常に勝利の兆しを残し続ける視野の広さ。

 彼女の本当の素質に気付いている者は、何人いるだろう。

 

 サクラチヨノオー。4戦3勝。内2着1回。

 

 唯一負けたレースですら2着。

 初となる重バに脚を取られ、バ群に呑まれ、向いていない後方からの追込での。

 彼女は『朝日杯FS』の勝者。ジュニア級王者の一人。

 現時点に於ける、最大の脅威である。

 

『坂を越えて、もうすぐ第3コーナーに入ります! ペースは、スロー! 緩やかに確実に坂を登り切った彼女達の足並みは十分と言ったところでしょうか!』

「(これは……チヨちゃんの流れに乗るべきですね)」

 

 サクラチヨノオーは、シンボリエウロスと単独で我慢比べが出来る。

 その上で勝てるし、掛かる事もない。

 耐える。耐えて、耐えて、押し勝つ。

 どっしりと構えた横綱が綱引き勝負を持ち掛けるように、彼女はペースを抑え始めた。

 

 その並外れた力強さと素質は、スーパークリークにはない。少なくとも今は。

 

 ただ事前にどう動くかを決めていた彼女よりも早く、サクラチヨノオーは動いた。

 故にスーパークリークは乗った。

 サクラチヨノオーと同じく、意図的にペースを緩ませる。

 後に、向こう正面にある約2mの急勾配を迎える為にペースが緩んだ等推測される本レースだが、その登り坂はレース展開に大した影響を与えてはいない。

 

『向こう正面を抜けて第3コーナーに入ったところで、変わらず先頭はミュゲロワイヤル! 続くモガミナインが2番手! 3番手にサクラチヨノオーとスーパークリークが横並びと言ったところです!』

 

 ペースを作っていた先頭の逃げウマ娘もそれに気付く。

 緩やかな下り坂が続くコーナーで加速せず、ペースを抑えた。

 時折後方を確認する仕草は、誘っているのか、全体を俯瞰しているのか。

 どちらにしろ彼女達は後方を気にしている。

 

 シンボリエウロスは、未だ動かない。

 何もレース展開に影響を与えない。

 

『これは——』

 

 実況が気付く。

 一定間隔で建てられたハロン棒に内蔵されたセンサーから、実況席に送られて来る数字。

 

 800m通過タイム。50.2秒。

 

 この段階で、ミドルペースとなる48秒から2秒以上も遅い超スローペース。

 阪神JFの800m通過タイムと比べたら、凡そ3秒は遅い。

 距離で例えるなら、約18バ身差。

 

 つまりこのレースの逃げウマ娘達は、タイム場の上では阪神JFで最後方を進んだ追込ウマ娘よりも、遥かに遅く、ずっと後ろを走っている。

 

『何というスローペースでしょう! 全員が全員を警戒し、牽制し合っているのか! シンボリエウロスは変わらず最後方にて控えています!』

 

 傍から見て、窮屈。

 過度の交通渋滞が起きているような、非常に隊列が詰まった横長の陣形でウマ娘達は進む。

 その横長の陣形は明らかに、シンボリエウロスを警戒し、進路を防ぐ為のものだった。

 

 ——来ない。

 

 シンボリエウロスは、まだ動かない。

 終始沈黙を続けた彼女は、遅く引き延ばされた時間の中で悠然と脚を進める。

 ノロノロと、じれったいくらいの速度で。

 

『大欅を越えて、第3コーナーを越えても依然スローペースのままです!』

 

 コーナーに入った。

 仕掛け所の好機だ。

 実際にシンボリエウロスは、コーナーに入った段階で戦術的攻勢を仕掛ける傾向にある。

 

 彼女達は、警戒した。

 何が起こっても良いように、心構えを済ませる。

 

『ここで先頭が1000mを通過! タイムは……62.7!? 62.7秒です!』

 

 そして、何も起こらない。

 シンボリエウロスは何もしない。

 未だレース展開に語るべき妙はなく、1着から最後方の14着までの距離、凡そ8バ身となる深刻な渋滞を引き起こした隊列は進む。

 

 1000m通過タイム。62.7秒。

 

 それは近年どころか、史上類を見ないほどの超スローペースだった。

 3000m以上の長距離レースならまだしも、1800mのレースで。

 もしもここに、1000m57.4秒の超ハイペースで通過する逃亡者がいたのなら、タイム場の上では1着の逃げウマ娘と、2着の逃げウマ娘に33バ身近く距離が出来る事になる。

 最後方のシンボリエウロスと比べたら、約41バ身。それほどの異常。

 

 ——まだ、来ない。

 

 シンボリエウロスも分かっている筈。

 このペースはおかしいと。

 なのに、何をしている。何を考えている。

 分からない。何も分からない。

 何故、何もして来ない。

 

「(どういう、事ですかっ!)」

 

 サクラチヨノオーは再び後ろを見た。

 彼女には経験がない。もっと言えば、このレースに出ている全てのウマ娘にも経験がない。

 このあまりにも遅いペースと、シンボリエウロスがまるで無策のようにレースを進めている事への。

 

 サクラチヨノオーは構えていた。

 横綱のようにどっしりと、綱引きをする準備をしていた。

 前に出て来ず、勝負して来ないならそれでも良かったのだ。

 スローペースで抑え込めるから。

 

 だが今の状況を例えるなら、土俵に上がったサクラチヨノオーと、いつまで経っても土俵に上がらないシンボリエウロス。

 

 このままなら、勝てる。

 形式的に言えば不戦勝で。

 

 ——そんな訳がない。

 

 それは違和感。

 必死になって抑え込んでいた物の中身が、まるで空だったような。

 

「(ここから、私は——)」

 

 どうすれば良いのだろう。

 その答えを教えてくれる者は、誰もいなかった。

 そもそもこういう状況になった時の対応策はない、と言われたら疑いもなく信じてしまいそうになるほどの、どん詰まり。

 

 逃げなら、捉えられる。無理をすればとは付いても、競り合いに持ち込める。

 だけど彼女は追込。最後方。誰にも触れられない位置。

 

 スローペースで、抑えた。

 抑えて、抑えて——いつまで抑え続ける?

 その次は、何をするのが正解?

 いつ私達はこのスローペースを解いて、末脚を使えば良い?

 

 1000mを通過し、残り800m。

 

 東京レース場はその長い直線による末脚の重要性も()る事(なが)ら、緩やかなカーブによるロングスパートの仕掛けやすさ、長く良い脚を使えるかも重要である。

 どちらにしろ、最終直線入り口での位置の取り合いは頻発する傾向にあった。

 スローペースでなら特にだ。

 

 故に東京レース場は、大欅を越えた第3コーナー辺りから一気にレースが動く。

 

 つまりもう、いつレースが動いてもおかしくない。

 だが、それはいつか。誰がレースを動かすのか。

 サクラチヨノオーは分からない。

 否、恐らく誰も分かっていない。

 

 誰も、こんな低速な世界を知らなかった。

 

 それは後に異次元と呼称される、超ハイペースによって加速させられた世界とは真逆の世界。

 史上類を見ない超スローペース。

 限界まで引き延ばされた体感時間。

 スタミナは足りてる。パワーも有り余っている。

 全くと言って良いほど息は上がっておらず、脚は全然疲れていない。

 だけど、何も分からない。

 心が重く、思考が鈍る。

 距離も、時間も、タイミングも、仕掛け始める全ての指標がずれ込んでいく。

 

 その停滞した時間の中で最初に動いたのは、今度はスーパークリークだった。

 

『おっとここで——ここで4番のスーパークリークが動きました! ぐぅっと位置を押し上げて! 外から1番手を取りました!』

「(…………え?)」

 

 サクラチヨノオーは、驚いた。

 スーパークリークが動いた事に、ではない。

 彼女の横顔を見て、驚いたのだ。

 

 苦虫を噛み潰した、或いは唇を噛むような苦痛の表情。

 

 してやられた。全てを間違えた。

 取れる選択肢は、もうこれしかない。

 それを悟ったような表情で、スーパークリークは駆け出している。

 

「(どうして……)」

 

 少し、引き摺られる。

 他のウマ娘達も、スーパークリークが抜け出したのを見て少し前へと上がる。

 それは反射だった。周りに合わせて自分も適切な行動をしようという、あらゆる分野でありふれた反射。

 強い言葉を使うなら同調圧力。適切な言葉にするなら無意識的な集団意識。

 

 だけどまだ、誰も本格的には仕掛けていない。

 まだ、何も分かっていない。

 彼女達は未だ、滞留と低速の世界にいる。

 

 残り700m。

 

『ここでシンボリエウロス動きました! 弾かれるように外へ大きく出た!』

 

 ようやく初めて動きを見せたシンボリエウロス。

 横長で障害となった陣形すら関係なしに大きく、大きく外へ出る。

 

 加速してはいない。

 位置を修正しただけ。

 故に距離ロスを負い、集団から若干離される。

 しかし、初めて動いた。

 

 ——来た。

 

 他ウマ娘達は、ここが仕掛け所の好機だと見抜いた。

 ここで横長の陣形が加速した時の、後方からの追い抜きが厳しくなるからである。

 例えば停止した車両を追い抜く場合と、高速で走っている車両を追い抜く時、これは後者の方が、絶対的に追い抜く為に必要な距離が長くなる。

 

 つまり加速しているものを追い抜く方が距離ロスが延びる。

 彼女達は、その距離ロスを更にシンボリエウロスへ与えるべく動いた。

 

 残り680m。

 

 その中で、サクラチヨノオーはまだ疑問に囚われていた。

 私達や他ウマ娘と違い、スーパークリークが先んじて動き出したのは何故か。

 ステイヤーである彼女は末脚に優れていないから?

 それは理由の一つかもしれないが、全てではない気がした。

 末脚はあっても、速度に乗る為の滑走路がいるとかの話ではなく。

 

 残り660m。

 

 サクラチヨノオーは悩む。

 悩んで、悩んで、やはり末脚が頭に引っ掛かり続けた。

 何せ、あの末脚を警戒し続けたのだから。

 

 ——ぁ。

 

 そして彼女は、気付いた。

 レースが終わった後、何もかもが終了して、どうしようもなくなった後に気付けるような事に、彼女は今気付けた。

 サクラチヨノオーは事前にどう走るかを決めて、如何なる形で勝負するかを考えていたから。

 例えば、何故ペースによって有利不利が生まれるのかを。

 

 残り640m。

 

 ハイペースは逃げ・先行に不利。

 スローペースは差し・追込に不利。

 では、それは何故?

 

 ウマ娘が出せる全速力。それを維持出来る秒数は決まっているから。

 

 30〜40秒。

 その秒数を前半側に使う逃げ・先行型だと、ハイペースの場合30〜40秒を越えて長い時間、脚を使わなくてはいけないから。

 その秒数を後半側に使う差し・追込型だと、スローペースの場合30〜40秒で出さなくてはならない限界速度が増大するから。

 

 故に、ペースによる脚質の有利不利は絶対に変わらない。

 如何なる追込ウマ娘でも、スローペースは不利であり、後ろを抑えるのは確実に有効である。

 そして、その上で断言しよう。

 スローペースでは必ず、末脚勝負になる。

 

 スローペースに於ける展開は2つ。

 

 通称、右肩上がり型。後半頭から徐々にラップが加速していく。

 通称、ヨーイドン型。ラスト3Fから一気にラップが加速する。

 

 残り620m。

 

 史上類を見ない、超スローペース。

 彼女達はその引き伸ばされた時間で、間違いを犯した。

 正しい行いをした上で、しかしそのウマ娘の正しさだけには絶対に付き合ってはならない事を見誤った。

 

 残り——600m

 

 そのウマ娘は、如何なる展開でも、如何なるペースでも、仕掛ける距離だけは変わらない。

 そのウマ娘とは決して、末脚勝負をしてはならない。

 それでも尚、そのウマ娘とヨーイドンの末脚勝負をするなら、20バ身以上距離を取っていないとならない。

 

『——シンボリエウロスが来た!』

 

 現在14着。最後方

 先頭から、僅か13バ身後ろ

 シンボリエウロス、加速開始。

 

『やはり来た! ここでやはりシンボリエウロスが脚を使った! これが天翔るウマ娘だっ!!』

 

 シンボリエウロスは今から、32秒台の末脚を出す。

 そして今現在先頭のスーパークリークですら——たったの2秒分の距離しか離れていない。

 

 彼女達は『天翔るウマ娘』の世界に近付き過ぎた。

 今この瞬間から、最低でも34秒台の末脚を出さなくては勝ちの目すら存在しない世界に、自ら触れた。

 誰も、空なんて飛べないのに。

 

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