一つ、例え話をしよう。
200mを24秒で走る事が出来る人間がいるとする。
その人間は最初の100mを12秒。次の100mを12秒で走り切る。
ではその人間が最初の100mを13秒で走った後、次の100mを11秒で走る事は可能か。
この問いは恐らく直感的に『可能』と答える人間の方が多い。
実際に、それは現実的にも可能な部類だからだ。
では最初の100mを14秒、次の100mを10秒で走る事は可能か。
ここで多くの人間が、直感的に答えを出せずに悩む。
人間が100mを10秒で走るのは、本当に選ばれた存在にしか出来ない事を知っているから。
そして逆に次の問いを投げかけられた場合、ほぼ全ての人間が直感的に『不可能』と答える。
最初の100mを15秒、次の100mを9秒で走る事は可能か。
答え、出来ない。
生命には出せる速度の限界がある事を、誰もが知っている。
人類は100mの徒競走で10.00秒は切る事が出来ても、9.00秒は出せない。
たとえどれだけ最初に軽く走ろうと、温存した力をそのまま後半の加速には使えない。
ではここで、また新たな例え話をしよう。
前半59秒のハイペースで、上がり3F36秒を出せるウマ娘がいる。
ではそのウマ娘は、前半62秒のスローペースで、上がり3F33秒を出す事は出来るか?
答え、出来ない。
そう、それは当たり前の話だ。
人間と同じく、ウマ娘には出せる速度の上限がある。
スローペースでは必ず末脚勝負になる。
しかし結果、末脚に優れた差し・追込ウマ娘が勝つ事はまずない。
余力を残した逃げ・先行が、差し・追込に近い末脚を出して勝つ、というのが最もありふれた展開となる。
スローペースは後方脚質に不利とは、例え話にするとこういう事だ。
その上で、今回のレースは後方脚質が有利になった。
スローペースの、更にその先。
超スローペース。圧縮された低速の世界。
前のウマ娘の余力が十分にあるどころか、後方のウマ娘を含めた全てのウマ娘が脚を余らせ、尚且つ後続の追い上げが届いてしまうほど過度な渋滞を引き起こした極端なバ群と隊列。
それはもはや末脚勝負と例えるよりも、各ウマ娘達が出せる限界速度の競い合いに等しいレベルに極端な勝負を引き起こした。
そしてこのレースにはいる。
才能や素質の枠組みを飛び越え、ウマ娘という生命そのものが出せる限界速度の話をしなくてはならないウマ娘が。
「——フゥゥーーッ……………」
長く、細く、鋭い呼吸音。
それは突進を間近に控えている闘牛が見せるような、相対すれば否応なく怖気を抱いてしまう、恐ろしいものだった。
シンボリエウロスの呼吸の仕方は独特だ。
普段は意識しないと聞こえないくらいに静かで、空気に溶け込むように呼吸をするのに、残り600mになる瞬間だけ違う。
まるで機械の排熱音のようだった。
壊れる寸前の機械が静かに機能を止めていくのではなく、自らの無駄な機能を停止させてまで稼働し、最低限の機能を持続させてまで動きを継続しているような、そんな精密さと恐ろしさ。
段々と上がる息を限界まで抑えながら、長く確実に息を吸い、そして——止める。
彼女はラストスパートで呼吸をしない。
無音。
雷霆のような脚音だけを現世に残して、彼女は一人、停滞と静寂だけの世界を軽やかに進む。
——ッッ………!
絶対に、間に合わない。
絶対に、差し切られる。
全員が全員、身を竦ませた。
比喩でも何でもなく、脚が大地を貫き、芝が捲れ上がる音が後方から響いたのだ。
『最終直線に入った! 全員がスパートに入りました!』
やはりと言うべきなのか。
シンボリエウロスが動いたその瞬間に、全員が完全に動き出す。
東京レース場の最終直線。504.2m。
恐らく今回に限り、最終直線を最悪の形で迎えるウマ娘は誰一人としていない。
超スローペース。全員スタミナは有り余っており、末脚は完璧に使える。
今日、全員が今までで最も成績の良い数字の末脚を使えるだろう。
そしてそれは、シンボリエウロスも同じ事。
第22回 G3共同通信杯。
本レースは異常としか答えようのないレース展開と、近年稀に見る超極端な末脚勝負で最終直線を迎える形となった。
史上最強ではないかもしれない。
しかし末脚に限れば、絶対的に史上最速であろうウマ娘を前にして。
「くっ——ぅぅぅう、ううう……っっ!!」
サクラチヨノオーは、声を押し殺すように叫んでいた。
この状況で出来る事はもう、全てを末脚にかけるしかない。
つまり、そのウマ娘が出せる全速力の競い合い。
サクラチヨノオーは普通ではない。
現在この世代に於ける最強をシンボリエウロスだとするなら、最優の評価を与えられるのはほぼ間違いなくサクラチヨノオーだ。
弱点の少なさ。完成度の高さ。特定のバ場や展開を選ばない適性の広さ。
彼女自身が自覚していないだけで、素質・才能の総力の観点でも彼女はトップクラスに秀でている。
しかし敢えてここで、サクラチヨノオーが持ち得ない素質を二つ挙げる。
例えばそれは——ディクタストライカのような、圧倒的なスパートの維持能力。
例えばそれは——シンボリエウロスのような、超驚異的な末脚の切れ味。
「…………ッ」
現在先頭のスーパークリークも、それは同様であった。
スーパークリークには、一瞬の切れ味がない。
スピードがない、なんて話ではない。むしろスーパークリークはスピードに優れている方だ。
彼女は後に、近代型ステイヤーの始祖と呼ばれる逸材である。
つまりスタミナとスピードの重複。或いは速度の上限値を引き上げた状態で、100%ではなく90%近くの速さを維持させる事により800〜1000mのロングスパートを可能とする、新時代のステイヤー。
中距離戦のようなラップタイムで長距離を駆け抜ける為の方法を開拓し、新たな可能性を切り開いたのはスーパークリークだ。
だがそれでも、スーパークリークには一瞬の切れ味がない。
末脚が速いかどうかではなく、最高速に乗る為には滑走路が必要なのだ。
スーパークリークだけではない。普通はそうなのだ。
程度の差はあれ、最高速に乗る為には時間と距離がいる。
速度のギアは0からいきなり100にはならない。
例えば1F12秒のミドルペースから、いきなり次のラップで1F11.0秒を刻む。
スーパークリークには、そんな急加速が出来ない。
もし彼女が同じような事をするには、1F12.0秒→1F11.7秒→1F11.4秒→1F11.0秒と、徐々に段階的な加速をする必要がある。
シンボリエウロスは、それを必要としない。
彼女には滑走路がいらない。
1F12.0秒から1F11.0秒………あまつさえ、歴史上で僅か二名のウマ娘しか辿り着いた事がない1F10.0の世界に触れかかる急加速。
そしてそもそも根本的に、スーパークリークは1F11.0秒を出せない。
今の時代1F11.0秒を出せるウマ娘が世界にほとんどいないのだ。
ただ恐らくスーパークリークなら、自らの脚を犠牲にするか、後先考える事を全て止めたら1F11.0秒は出せる可能性は大いにある。
そして代償に、そのたった1Fでスタミナが完全に切れる。
スーパークリークには、ロングスパートを正確に行える才能がある。
代わりに一瞬の切れ味にかけ、またロングスパート中に自らの最高速を出す事が出来ない。
全速力を維持出来るのは30〜40秒。
スーパークリークは、この生命の限界を破れない。
シンボリエウロスも、破れない。
唯一その壁を逸脱出来たのは、この世代に於いてディクタストライカただ一人。
「(分かってはいました。分かっては……いました)」
だけど。
「(——本当に、速さの段階が違う!)」
シンボリエウロスがスパートをかけてから、僅か200m。
凡そ12秒で、既に7バ身が覆されていた。
現在先頭。
1着。スーパークリーク。
先頭から2バ身後方。
3着。サクラチヨノオー。
先頭から6バ身後方。
8着。シンボリエウロス。
残り約400m。
このままでは、どうやっても間に合わない。
後方から追い抜かれるのを防ぐ為に加速すれば、結局最後に伸びを欠いて、負ける。
もっと、もっと早くからロングスパートを仕掛けていれば………いや、そうすればそもそもスローペースを作れなかった。
距離が、合っていない。
足りない。後……後1000mは欲しい。
スーパークリークが、少しずつ沈んでいく。
更には逃げウマ娘達も、先行勢のウマ娘達も、沈んでいく。
超スローペースによる代償。最終直線からの異常としか言いようがない超高速展開に、本来なら有利である筈の彼女達は乗り切れなかった。
このような速さの末脚を、この世界を、彼女達は知らない。知る事も出来ない。
この世界を駆けるには、翼がいる。
先頭が、サクラチヨノオーになった。
そのサクラチヨノオーもまた、確実に少しずつ、後方との差が縮まっていく。
シンボリエウロスだけではない。
末脚に優れていない先行勢が、この世界にまだ何とか対応出来ている後方勢に追い付かれ始めている。
「ぅ、うぅぅ………」
風が吹いた。
それは暴風。桜の花を容赦なく刈り取っていく、突発的な大災害。
超前傾。頭の位置が他のウマ娘の腰の位置ほどしかない、埒外の走法。
シンボリエウロス。彼女はサクラチヨノオーを交わして先頭へ踊り出る。
「ま、だぁぁああっっ………!!」
残り300m。
まだ1F以上残した段階で、シンボリエウロスが1着を奪い去った。
シンボリエウロスは今まで、ただの一度も後ろから差し切られた事がない。
実質的にラストスパートで彼女に抜き去られる事は、ほぼそのまま敗北を意味している。
『強い! 強いっ! これは圧勝ムードだ! 後ろを突き放してシンボリエウロスが独走っ!』
実況も、今までのレース振りを見てそれを知っている。
圧勝ムード。それは観客達の代弁でもあった。
これは勝ったな、と。
「……まだ、……まだっ…………」
それを認められない。
認めたくない。
——マルゼンスキーが行った! 遠慮会釈なくマルゼンスキーが行った!
——もうマルゼンスキーの勝利は間違いないっ!
——これは名勝負ではありません! 完全な横綱相撲です!
根本的な速度の上限値が違う。
速度のギアを0からいきなり100にする、スーパーカー。
認められる訳がない。
認めて良い、訳がない。
だって、その後ろ姿は。
「——うあぁぁぁああっっ!!」
サクラチヨノオーは、叫ぶ。
その慟哭に、しかし何かが起きるという事はない。
限界の先の先にある地平は、開く気配すら訪れない。
桜は芽吹かなかった。
また、一陣の風が吹く。
それは、桜の花を根こそぎ散らすような、突風。
「……………ぇ」
スローペースによる異常な前崩れ。超極端な末脚勝負。
ならばその風が——否、そのウマ娘が後方から突っ込んで来るのは、道理でしかない。
そのウマ娘は、地方から来た。
そのウマ娘は、まず以って地方では決まらない末脚で全ての勝負を決めた。
『——オ、オグリキャップ!?』
そのウマ娘の名前は、オグリキャップ。
5枠8番。6番人気。差し。
残り200m。
オグリキャップの意識は、何処か遠くにあった。
中央の初戦とか、レースの展開とか、交わされていたやり取りとか、今のオグリキャップには複雑過ぎて分からない事が多い。
今考えても、悩んでも、レース中に答えなんて出せない。
だからオグリキャップは、最低限の当たりを付けて全て割り切った。
——悩むのなんて、全部後で良い。
何が足りないのか。何が違うのか。どうすれば良かったのか。
きっと世界で一番速い。最高速に限れば、歴史上でも最も速い。
事実断言した。自分が一番速いと言っていた。
そんなウマ娘に、末脚で勝てるのか。
彼女は、それを考えない。
今はただ自分に出来る事を。
自分の末脚に全てを。
オグリキャップは、前を見る。
一瞬の閃きにかける土台はない。
きっと勝てる筈だと無条件に信じ切る自信はない。
だから今の彼女には、現在と未来がイメージ出来ない。
彼女にあるのは全て過去だった。
背中を押してくれた友人達と、今まで自分がどうやって走っていたかの経験であった。
重なった。
瞳に焼き付いている、その景色。
それは、笠松の、最終直線。
残り200m地点から視た。
ゴール板。
ピシッ……。
オグリキャップは確かに、何かにヒビが入る音を聞いた。
それが一体何を意味していたかは、分からない。
限界の先の、更にその先。
砕けた壁の向こう側にある世界を、オグリキャップはまだ知らない。
しかしそれでも、兆しは起きた。
故に起こったのは、純然たる事実。
『オグリキャップが来た!? ここでオグリキャップが来たっ!!』
残り200m。
オグリキャップ。
二段階目のスパート、開始。
——オグリキャップは今まで、一度足りとも後方から差し切られた事がない。
その事を知っている観客はほとんどいなかった。
関係者ならまだしも一般の人にとってのオグリキャップは、地方から来たウマ娘くらいの認識だった。
——シンボリエウロスは今まで、一度足りとも後方から差し切られた事がない。
しかしその事は知っている。
ラストスパート。上がり3Fからの末脚は遍く、シンボリエウロスの世界。
彼女と、それ以外。まるで自分以外全員止まっているような速度と加速力を彼女は生み出す。
『この速さは……』
止まっていた。
いつものように、周りがではない。
シンボリエウロスと、オグリキャップ。
二人の距離の差が、広がらない。
『この加速の仕方は———』
それは——超前傾姿勢。頭の位置が他のウマ娘の腰の位置ほどしかない、埒外の走法。
空を飛んでいるとは違うかもしれない。
しかし加速の仕方は同じだった。出している速度も同じだった。
いや……ほんの少しずつ、引き離されてはいる。
だけど、初めて。
その瞬間シンボリエウロスと、それ以外ではなくなっていた。
実況の声が、一瞬止まる。
反比例してざわめく観客の喧騒も、当のオグリキャップには意識にない。
彼女にあるのは目の前の景色であり、現実。
「(距離が、縮まらないっっ!!)」
先頭のシンボリエウロスとの距離、約2と⅓バ身。
今までで最高の末脚を使っている自覚がある。
今この瞬間なら、一緒に並走をしてくれたあのタマモクロスすら後ろから差し切れる自信がある。
なのに、追い付けない。
それどころか離されている。
相手は既に400m以上もこの速さを持続させている上で。
「—————」
それは唐突だった。
チラリと、此方を見た翡翠の瞳。揺れる流星。
シンボリエウロスが、横目で後方を見た。
表情は分からない。
驚いているような、納得しているような独特の表情。
『先頭シンボリエウロス! シンボリエウロスが逃げる! 凄まじい追い上げを見せるオグリキャップ! だが、やはりか!』
それは、ほんの僅か1秒すら続かなかった。
| 着順 | 枠番 | 馬番 | 名前 | タイム | 上り | 着差 |
| 1 | 6 | 9 | シンボリエウロス | 1:48.6 | 32.8 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | 5 | 8 | オグリキャップ | 1:49.1 | 34.4 | 3バ身 |
| 3 | 4 | 6 | モガミファニー | 1:49.7 | 34.8 | 3¾バ身 |
| 4 | 6 | 10 | カゲマル | 1:49.8 | 35.1 | ½バ身 |
| 5 | 4 | 5 | ツジノショウグン | 1:50.0 | 35.0 | 1バ身 |
『シンボリエウロスです! 1着はシンボリエウロス! クラシック級初戦も、鮮やかに末脚で決めた!!』
ゴール。
その時にはもう、シンボリエウロスは後ろを見ていない。
最高速でゴール板を駆け抜けた後、徐々に速度を落としながら止まっていく。
見る人が見れば、あんな速度を出していながら軽やかにと言われるくらい。
——これも、差なのか?
オグリキャップも、段々と脚を止める。
彼女は完全に停止した後、膝を突いて呼吸をしていた。
しかしシンボリエウロスは膝を突いていない。
少し天を仰ぎ、空に目線を向けながら、ゆっくりゆっくりと呼吸を再開する。
まるで音が戻って来たように、世界に色彩が戻って来たように呼吸をする。
「3バ身………」
シンボリエウロスと、オグリキャップの間に空いたその距離。
敗北だった。決して僅差ではない敗北だ。
オグリキャップは今まで、フジマサマーチにしか負けた事がない。回数は2回である。
しかしその2回は、クビ差とハナ差だった。
距離にすると約80cmと約20cm。
時間にすると、0.1秒と0.0秒……つまりは掲示板には表示されないほどの僅差。
しかし今日は3バ身。
約7.5m。0.5秒差。
ここまで大きな敗北を、オグリキャップは味わった事はない。
「エウロス」
「……………」
立ち上がる。
話しかけられた本人は未だ心此処に在らずの表情で、掲示板を眺めていた。
沈黙と静寂。似合っていると、何とはなしに思う。
だからか、普段なら絶対に思わないような事をオグリキャップは思った。
喧騒が、うるさいと。
惜しくも2着。凄い。頑張った。
そんな歓声を自然と頭が掻き消してしまうほど悔しい。
期待に応えられなかったと思う反面、慰めのような声は要らないと思う心がある。
身を焦がすほどの勝利への執着心が、今のオグリキャップを動かしている。
「次は、どのレースに出るんだ?」
「……私の希望では『弥生賞』を。しかし弥生賞を叩かないのならクラシック一冠目の『皐月賞』に出ます」
「そうか」
クラシックレースには出られない。
オグリキャップはその事をちゃんと覚えている。
もしもシンボリエウロスが『弥生賞』を叩かず、そしてオグリキャップがクラシックレースに出れないままなら、シンボリエウロスとオグリキャップはしばらく同じレースには出ない事になる。
「なら私はその『弥生賞』に出る。そこにキミがいなくても」
呟いて、オグリキャップは自らの控え室とトレーナー室に戻っていた。
返事は求めていなかった。
今の彼女が求めているのは他者からの反応ではなく、自らの折り合いである。
どんな折り合いかと問われたら、全て。
心。勝つ為の方法。活力。中央という世界。
「……………」
ただ取り敢えず、シンボリエウロスはそこに残された。
普段ならスタスタと、身も蓋もない言い方をすればさっさとターフの上から去る彼女は、まだ掲示板を眺めている。
その事にレースの感想などを話していた実況が触れようか、というところで、ようやくシンボリエウロスは控えに戻っていった。
「お疲れ様です。良くやりました」
「……………」
「しばらく待機時間がありましたが……大丈夫ですか?」
開口、心配よりも先にまずレースの結果を褒められる。
トレーナーからすれば、人によるが普通の事であるだろう。
ただそこに、何となく樫本理子という人間の人となりの変化を感じ取ったところで、尋ねる。
「オグリキャップの上がり3F、いくつでしたか?」
返事ではなく、己の疑問が先行している尋ね方を聞いて、樫本理子は思った。
——これはまず、彼女が落ち着くまで全てを待った方が良い。
観察眼と判断力。樫本理子が持つ素質。自らの内側で何かを纏めようとしている担当ウマ娘を前にして、樫本理子は適切に動いた。
「34.4、と記録されています」
「…………………」
凄まじい、と思う。
しかし樫本理子は、何も言わなかった。
レースから帰って来た直後の彼女に、人の機敏や主観の混ざった不確定であやふやなものを関与させたくなかった。
彼女自身が何かを口にするまで樫本理子は待つ。言葉を引き出す事もせず。
それを知ってか知らずか、シンボリエウロスはただ考え続けている。
「34.4………」
流石、上がり3Fが36秒台の時代で35秒台を平均とし、34秒台すら頻発させていたウマ娘。
超スローペース。故の末脚勝負。
ならこの時期に34.4秒を出せるのも何ら不可能ではない。
だが問題はそこではなく。
「私の上がり3Fのラップタイムと、オグリキャップの上がり3Fのラップタイムを、今すぐ出せますか?」
「………」
ほんの一瞬だけ間を置いて、樫本理子は応じた。
シンボリエウロスの上がり3F 32.8。
内ラップタイム、11.0 10.9 10.9。
最高速に乗ってからは一度も速度は落ちず、しかもそれを3F完璧に維持させている、芸術品じみたラップタイムであった。
今日のシンボリエウロスは32秒を出したが、恐らく一切の怪我をしていない。
疲労はあるが、消耗と言ったものでもない。
それは恐らく阪神JFとのラップタイムの違いが影響している。
阪神JFでのラスト2Fのラップタイムは、10.6 10.5だ。それが仇となった。
逆に今日の場合のような、11.0秒を切るくらいの速度を3F維持させる形での32秒台なら、普通に軽く使える事をシンボリエウロスは証明したのである。
このまま本格化が完成し全盛期を迎えた暁には、1F10.6を3F維持させる形での、上がり3F31.8秒を出し、現在ダンシングブレーヴが保有している世界最速の上がり3F31.9を更新するかもしれない。
場合によっては、31秒台前半……或いは30秒台などという前人未踏の世界にすらも手が届いてしまう可能性があるだろう。
しかしそれは重要な話ではなく、樫本理子も驚かざるを得ない事は別にある。
オグリキャップの上がり3F 34.4。
内ラップタイム11.9 11.5 そして——11.0。
「ハハハ」
この時代のウマ娘が、11.0の壁に触れた。このままなら破るだろう。
というか、恐らく破る。
今日のレースでは、本来サクラチヨノオーは4着である。
しかし結果は掲示板入りを逃した6着。
理由は過度なレース展開の変化と超スローペースによる末脚勝負の結果。
レース展開が異なれば、当然着順も変わる。
よって今後、本来のレース展開と着順という知識は大した意味を成さない。
そして恐らく、今後はスローペースが多くなる。
実際に、シンボリエウロスには有効だからだ。
今日のスローペースによって、上がり3Fの平均は35秒台を記録した。
レース全体から見れば総じて1.5秒ほどの速い上がりだ。
ウマ娘によっては、2.0秒近く短縮したウマ娘もいる。
その逆に1.0秒も短縮出来なかったウマ娘もいるが、それは適性と才能の方向性、或いは素質の差である。
でシンボリエウロスはどうかと言うと、0.0秒も変わってない。
前半59秒のハイペースで上がり3F36秒を出せるウマ娘は、前半62秒のスローペースで上がり3F33秒を出せない。
シンボリエウロスもそれは同じだ。
彼女はただ、最初から33秒台を出せるだけだ。
スローペースはシンボリエウロスに味方をしない。
今回のスローペースはあらゆるウマ娘に味方をしなかっただけで、今後も似たような展開が続くなら周りは必ず適応して来る。今日は誰もが見誤ったもう一つのスローペースの展開を見抜き、確実に追い詰めて来る。それが凄まじく厳しい。
このスローペースの恩恵を最大限に得るのが先行勢と、恐らくオグリキャップだからだ。
オグリキャップは分類では差しウマ娘だが、先行もこなせる。
先行しながら、差しに近い末脚を出す、という展開になったら最悪。
最後の200mからの末脚で、11.0秒を切るような——即ちシンボリエウロスと同じ速さの末脚を出してくるようになれば更に最悪。
仕掛けどころを間違えば、終わる。
残り200mになった時、オグリキャップよりも前に出ていない事は、即ち敗北を意味するのだから。
「怖いですね、ホントに」
オグリキャップ。
否……『オグリキャップ号』が残り200mから大きく仕掛ける事は知っていた。
故に収穫はあった。
やはり領域は、ウマソウル由来のものなのだと。
未だ完全に目覚めてはいないが、オグリキャップは必ず領域に目覚める。
そしてその条件は『200m』だ。
他にも細かい条件はあるのかもしれないが、オグリキャップの領域は残り200mから来る。
分かっていれば対処法はある。
問題は他にも対処しなければならない事が多すぎて、最終的に対処し切れなくなる可能性がある事。
「……ホントに、怖いなぁ」
確実に今後も総じてレース展開はスローペースになる。
実際に有効だし、少しずつ着実に対策が進められて来ているのも肌身で感じていた。
で、それを何とかするのは普通に難しいし、逆手に取る奇策も戦術も限りがある。
恐らくそれを、例の陣営にも悟られた。
「………ごめんなさい、全然歯が立ちませんでした」
そして例の陣営である彼女達は、まだターフの上に向かう地下通路にいた。
スーパークリーク。最終的な着順は9着。
1着のシンボリエウロスから10バ身以上離された大差負け。
明確な敗因を探し出すよりもまず、距離適性が合ってなかった、純粋な力がまだ足りていなかった、というような形でスーパークリークはレースを終えた。
「……どうだった?」
その事を奈瀬トレーナーは責めない。
スーパークリークの我儘を聞いた形で今日のレースに望んだのだから、責める筈もない。
これは両者が悩んだ末に、両者が納得して出した事なのだから。
彼女は、ただ尋ねた。
収穫はあったのかと。
「はい」
スーパークリークは、その事に大きく頷いた。
「エウロスちゃんが喘鳴症かどうかは、まだ分かりません。でも彼女には明確に出来ない事があると、確信しました。苦手ではなく出来ない事が」
そして、恐らく。
シンボリエウロスには——長距離の適性が足りていない。
理由はやはり、あの極端な走法の、根本的な限界。
「トレーナーさん。日本ダービーは、諦めます」
「——本当に良いのかい?」
「はい」
日本ダービーを諦める。
その意味は大きい。
当然スーパークリークも、日本ダービーは目指していた。
しかしそれは、決して後ろ向きな末の答えではない。
「菊花賞に、専念します」
それは、クラシック三冠目。
京都レース場。芝・3000m。長距離。
皐月とダービーには出走しても、菊花賞には来ないウマ娘は多い。
二冠ウマ娘になっても、菊花賞で勝てなかった為に三冠ウマ娘になれなかった存在も、いる。
それはクラシックレースに於ける、最後の壁。
中距離を土俵とするウマ娘が、今度は長距離レースにて、異なる土俵を有利とするウマ娘に勝たなくてはならない試練の場。
「エウロスちゃん。クラシック三冠の最後は、絶対に私が阻ませて貰います」
——菊花賞では、もうこんなレースはしませんからね?
本人に聞こえない場所で、静かにその宣言は成された。
それはオグリキャップが幻の三冠ウマ娘と大きく称されない、理由。
皐月賞と日本ダービーを取っていただろうが、菊花賞は分からないと呼ばれる、最大の理由。
菊花賞ウマ娘——スーパークリーク。
最も速くはない。最も運がある訳ではない。
だが彼女は、最も強いウマ娘だった。
⚪︎オグリキャップの上がり3F、いくつでしたか?
作中では表現と情報量からレースの最終結果として全ウマ娘の上がりも記載しているが、実際の競馬の電光掲示板に表示される上がり3Fは1着の3Fではなく、先頭だった馬が通過した時のタイムを勝ち時計から引いたものであり、要はレースのラップタイム。
尚作者は、1着の3Fの数字が記載されているものと勘違いしていました。
感想欄での情報提供ありがとうございます。