ウイニング・ライブが終わって、今後の意気込みや次走の予定などを含めた取材も終わって、サクラチヨノオーはトボトボと、しばらく東京レース場を歩いていた。
「負けちゃったなぁ……」
G3ながら特別注目度が高く、それ故に盛り上がりも高かった。
今日のレースは終わり、陽が傾き始めた東京レース場は既に人がまばらになっている。
侘しい。こんな光景を見ていると本当にそう思う。
或いは今、意気消沈しているのもあるからか。
6着だ。
今まで負けても2着だったサクラチヨノオーからすれば惨敗とすら言って良い。
何がここまで大きな敗北に繋がったかは分かっている。
分かっているからといって、全てがどうにかなるほどウマ娘レースは甘い訳でもないのも分かっている。
観客席の一つに座り込んだサクラチヨノオーは、東京レース場を俯瞰的に見た。
3コーナーを越えた辺り。大欅周辺。
東京レース場には、コースの内側に大欅が生えている。
観客からすれば走るウマ娘達が陰になって見えなくなるから、どう考えても邪魔でしかないこの大木。
何故この大欅が撤去されないかと言えば、呪いと呼ばれるほどの曰く付きの過去と歴史があるのだが取り敢えずそれは一旦置いておき、大欅周辺は一気にレースが傾く重要なポイントだった。
先述の呪いと合わせて、東京レース場の第3コーナーは時に魔の第3コーナーとも呼ばれる事がある。
今日もそうだった。
第3コーナーから仕掛ければ、もしかしたら話は大きく違ったかもしれない。
600mからの末脚勝負になる前に。
本当に、今更の話だ。
「合わせる顔がないや…………」
今日の昼頃。
府中で行われる共同通信杯に向かうサクラチヨノオーが中央トレセンの校舎を出る時、多くの同級生から応援された。
そこにはヤエノムテキがいたし、メジロアルダンもいたが、やはり同じクラスメイトが多かった。
頑張れ。勝て。意地を見せて。
レース中の喧騒にも劣らない大きな声援。
もしかしたらそこには、シンボリエウロスなんかぶっ飛ばしちゃえー! という声や、オグリキャップに中央の恐さを分からせてしまえー! というまぁまぁ露骨なものもあったかもしれないが、ともかく応援は応援だった。
何となくそれを、大きく裏切ってしまった気がする。
もしかしたらそれはサクラチヨノオーの思い違いなのかもしれない。
しかし何となく、クラスメイトやトレーナー、更に憧れであるマルゼンスキーの顔を見るのが辛かった。
6着。それは思いのほかショックだったらしい事を、今更ながらサクラチヨノオーは実感していた。
「ん? あそこにおるんは……」
それを偶然、目撃していた人物。
藤井 泉助。トゥインクル・シリーズを中心とする新聞記者兼若干のパパラッチである。
「……これ取材してもいい奴かな」
丁度サクラチヨノオーが一人でいるし、という事で一歩近付いた彼だったが、傍から見てもサクラチヨノオーは落ち込んでいる。
話に応じる応じない以前の話である。何より取材許可は取っていない。
「まっ、遠くから一枚撮るだけにしとこか」
今後のトゥインクル・シリーズの展開によっては、軽く使うかもしれないし。
そういう心持ちで藤井泉助はカメラを手に取る。サクラチヨノオーを被写体に映す。
刹那、彼の身体が浮いた。
「こんにちは」
「…………!?」
「感心、しませんね」
ギョッとした彼が振り返った先には、モコモコと暖かい格好をしたシンボリエウロスがいた。
尚、未だに彼は浮いている。地面に足が付いていない。
177cmの成人男性が、146cmの学生に片手で首根っこを掴まれて持ち上げられている状態は、彼がカメラを仕舞うまで続いた。
「(こっわ……流石姉譲り。目が据わってるどころの話やないな。ついでに四年前にメディアがやらかしたせいで、ウチらみたいな者にも当たりが強い)」
別に、現役に入ったシンボリエウロスは取材に応じない訳じゃない。
ただやはり話す内容は短いし、己の内を明かす事も非常に少ない。
その癖、ウイニングライブやファン対応は結構積極的にこなしている辺りに、メディアとの確執があると言うべきか。
大体は彼女のトレーナーであるURA職員の人間が、取材やメディア対応を行っている。
今日も終始、シンボリエウロスは口を開かずトレーナーに対応を任せていた。
「ちなみに自分、今回のレースはどうやったか聞かせてくれたりしないんか?」
「……………」
これは、もしかしたらチャンスなのではないか?
サクラチヨノオーの元へ向かおうとするシンボリエウロスに話しかければ、彼女は振り返った。
鋭い目線。普段からそうだと言われればそうだが、あ? と内心で言ってそ〜……!と思いながら彼は続ける。
「あ、一応やけど今の自分は二人称の自分で」
「遅かったと思います」
「あー……ペースがか?」
今回のレースは非常に荒れた。
1番人気が順当に1着を取っている為、最終結果を見れば荒れていないような気もするが、2番人気サクラチヨノオーが掲示板を外し、更にはスローペースでありながら掲示板に入った1着から5着が全員が差し・追込である事を踏まえると、凄まじい荒れ具合である。
1着シンボリエウロスと、2着オグリキャップはまだ良い。問題はそれ以降。
3着。4枠6番。10番人気。モガミファニー。
本レースに於いて、シンボリエウロスを除けば唯一となる追込ウマ娘。
4着。6枠10番。4番人気。カゲマル。
朝日杯FS、サクラチヨノオーに1¼バ身離された3着。差しウマ娘。
5着。4枠5番。7番人気。ツジノショウグン。
朝日杯FS、サクラチヨノオーにクビ差まで迫った2着。差しウマ娘。
末脚。その総合力を上から数えた場合、本レースに於いてはこうなる。
そのような着順で共同通信杯は終了した。はっきり言って異常だった。
「……まぁ、そうですね」
あ、なんかはぐらかされたな、と彼は悟った。
多分会話の仕方をミスった。
焦って言葉を引き出すように話を進めてはならなかった、と。
関係のない話だが、シンボリエウロスが刻んだ勝ち時計1:48.6は、一応レコードである。
一昨年ダイナカリバーが刻んだ1:48.7を0.1秒更新したレースレコード。
コースレコードではない。東京1800のコースレコードはそのまま日本レコードであり、一昨年サクラユタカオーが『G2 毎日王冠』で出した1:46.0が日本に於ける最速の記録である。
そして更に余談なのだが本来この日、共同通信杯にて刻まれていたタイムは、1着ミュゲロワイヤルの1:47.9である。
つまり今日シンボリエウロスが刻んだタイムより0.7秒速い。バ身差で例えると約3½バ身。
レースの展開が変わればタイムも変わるのは当たり前だが、スローペースの影響は凄まじいな、と彼女は思っていた。
1600mの阪神JFで刻んだレコード1:34.2。
今日は1800m。故に1F当たりのミドルペース12秒を足すと、1:46.2。
レース場が違うからタイムは変わる筈だと言われたらそうだし、距離が伸びるほど1F当たりのミドルペースは12秒以上になっていくが、重く見積もったとしても1:47.0秒近くは出せる自信があった。
しかし実際の勝ち時計は1:48.6。
一応レースレコードではあるが、レース展開の操作によってかなり脅かされている。
勝てる勝てないは抜きにして、シンボリエウロスの走破タイムを遅くする事は比較的簡単に可能だという事が幾つかの陣営に悟られているかもしれない。
「しっかしまぁ、今日は荒れたなぁ。地方から来たオグリキャップなんてウマ娘も凄まじい執念を見せたし、実は自分も中々危なかったりするとちゃうん?」
「……………」
そういう事を少し言おうかな。
と思っていたが、急に面倒になって止めた。
更にはもう会話を切り上げようとした。
オグリキャップ。
その名前を出されて、また脚を止めるまで。
——食い付いたな。
明らかにそう思われているのを自覚した上で。
「そういえば貴方………『府中千八展開要らず』の、人ですか」
「お? それ知ってるん!? いや、ちょっと嬉しいなぁー!」
府中千八展開要らず。
ウマ娘レースに於ける格言、或いはジンクスの一つである。
東京レース場の1800mはコースの設計上、如何なる条件のウマ娘も不利を受ける事がほぼなく、故に紛れが起こる事が少ない。実力通りに収まる。
という意味の言葉である。
尚この格言を作り出したのが、他ならぬ藤井泉助であった。
彼は新聞記者ながら、時にウマ娘レース評論家も行うような手練れである。
「迷信ですよね、それ」
「はぁーーー!!?? 」
故に自分の作り出した……しかもそれなりに広まって来た格言をいきなり迷信呼ばわりされては、堪ったものではない。
仮にもウマ娘とはいえ、12〜13の子供が何をと言おうとしたところで、しかし相手の立場と素質を考えて一瞬、モゴモゴと口籠る。
その隙に、シンボリエウロスは畳み掛けた。
「如何なるウマ娘でも有利不利が少なく、故に実力通りに収まり易い。展開の比重は重くない。そういう意味でなら確かにそうですが、展開要らずだとは思いません。事実、先程そのジンクスは私が木っ端微塵にしたので」
「い、一応実力通りの収まりはした方やろ!」
「展開が荒れるのと、荒れた展開でも実力を発揮出来るのは別だと思います。当たらずとも遠からずかと」
——めっちゃくちゃに辛口っ!!
メディア対応に難ありとかそういう話ではなく、単にもう性格に難ありのレベルではないかと呼ぶほどの辛口だった。
容赦がない。丁寧に逃げ道を潰して否定して来る。
生意気の範疇、で収めるには理路整然と話して来る。
「つまり迷信です。『芦毛は走らない』なんて言葉と同じく」
「………急にエライぶっ込んで来るやん」
或いは、こういう部分か。
話し方を理解している権力者を相手にしているような気分になるのだ。
いつの間にか。
「なるほど」
何が、なるほどなのか。
ただ何となく食い付いたなと、そう思われた気がした。
先程己がシンボリエウロスに思ったのを、そのまま返された形で。
「藤井泉助さん、でしたっけ。名刺貰えます?」
「え、いや、この流れで名刺渡すの、なんか凄い嫌なんやけども」
「貴方からの取材なら受けても良いですよ」
「ぐっ……ぬぬぬ…………なんで中等部成り立てのウマ娘が、こんな力の使い方知っとんねん………!」
本音を言えば、名刺は渡したかった。
ここで渡す名刺は、もはや関係性の構築と同義である。
相手はあのシンボリエウロス。
現在の世間の中心人物以前に、シンボリ家の代表者。しかも本家直系筋。
場合によっては『皇帝』シンボリルドルフは疎か、シンボリ家そのものにお目通りが叶うかもしれない。更には芋蔓式でURAも釣れる可能性がある。
取り敢えず持っておきたいコネとして、これ以上の物はない。
これが自分で勝ち取ったものではなく、明らかに目を付けられた故の関係性でなかったのなら、藤井泉助は即決で名刺を渡していただろう。
「何してるんだろう………」
それを傍から見ていたサクラチヨノオー。
怪しい。というか傍から見なくても怪しい。
怪訝な顔をしながら近付く頃にはもう、何らかのやり取りは終わっていた。
メガネ記者は若干顔を引き攣らせながら帰って行く。
残ったシンボリエウロスは、手元で名刺を転がしながら先程のメガネ記者の後ろ姿を見て、僅かに微笑んでいる。非常に怪しい。
「何をしていたんですか………?」
「世論操作の布石です」
「え」
「冗談です。メディア対応が大変なので、一社に絞った方が楽になりやすいなと」
多分、どちらも本音な気がする……。
と、思いながら話は弾まなかった。
勇気がないとかの話ではなく、今のサクラチヨノオーの心境の問題だった。
「私達も学園に戻りましょう」
歩き出した彼女に、チヨノオーは付いていく。
何か返事をした方が良い気がしたが、言葉は出て来ない。
ただシンボリエウロスは、そんな事気にしない。ずんずんと進んでいく。
勝者が敗者にかける言葉はない。
遠慮と情けは敗者を傷付ける。
その逆もない。
敗者が勝者に向ける恨み辛みは全て、負け犬の遠吠えにしかならない。
ともすれば、シンボリエウロスのその態度は正しいのだろう。
シンボリエウロスは他人の気遣いをしない。
何より普段からそのような佇まいを貫いている。
故に、あんなレースの直後ですら普通に接して来ても何ら違和感がなく、明らかに言葉を選んでいるのが分かるとか、気を遣われているとか、そういうものを察して逆に惨めな気持ちになる余地がない。
ただただ、彼女は自然体だ。
「(心構えから、負けてるのかな……)」
だから、敗北感だけが残る。
多分、現役時代の『皇帝』もそう。
そして憧れの赤いウマ娘も、きっとそう。
彼女達には共通して、圧倒的な自己があった。
努力では負けていない。根性では負けていない。
入学当初は大きかったそんな声は、いつの間にかもう聞こえなくなった。
つまりは、そういう事なのだろう。
「(………私は、普通だ)」
日本ダービー。
サクラチヨノオーが全てをかけているレースまで、後三ヶ月。
桜の季節は、まだ遠い。
——シンボリエウロスです! 1着はシンボリエウロス!
7戦7勝。重賞レース6連勝。
そんなウマ娘を担当している、自分。
自分が優れたトレーナーだと思った事はなかった。
過去から、今もずっと。
ただ現実に即した事実を積み重ね、それ故にただ自分は一人のウマ娘を故障させたトレーナーである事だけは分かっている。
最初の担当。
元気と笑った顔が特徴だった彼女。
その彼女を壊した。
これからの全て、生涯と呼んでも差し支えないウマ娘の脚を壊した。
議論の余地などない。
その責任は全て、トレーナー側にある。
ウマ娘側に一切の非はない。
だってその怪我はレースが原因じゃない。
明確な予兆があって、適切な理由もあって、それを自分は見逃したから。
過度な疲労。オーバーワーク。
ここが正念場だから。
ここが頑張りどころだから。
過去の自分は、貴方の意志を尊重すると言って見逃した。
信用、信頼、情動的な判断。
そんな不明瞭なものに流された。
だからもう流されない。
流される余地も作らない。
現実に即した事実を積み重ねる。
オカルトも精神論も関係ない。
不明瞭で不確定で、情動的な感情の暴走など関与させない。
徹底管理主義。
恐らくそれは、贖罪だった。
自分のようなトレーナーが同じ間違いを犯さないように。
壊した彼女のような子を、もう二度と生まない為に。
そしてその贖罪は、恐ろしいほど早く、最も適切で、最も困難な形で訪れた。
シンボリエウロス。新たに担当を始めたウマ娘。
印象は尖った天才。尖りに尖り切って、何の予兆もなしに砕けてしまいそうだと思った。
彼女は有り体に言って壊れた機械だった。
壊れている筈の機械が、奇跡的な偶然によって稼働を続けていた。
当然、奇跡ではない。
樫本理子は奇跡を信じていない。
樫本理子は知っている。
あの奇跡は、生まれ付きの才能と驚異的な集中力と並外れた努力によって、人為的に引き落とされたものだと。
天才。その一言で片付けてはならないほどの、天才。
事実きっと、彼女のようなウマ娘はもう二度と現れない。
同じ事を米国に生まれた赤い彗星の時も呼ばれていたが、今度は更に訳が違う。
だから『皇帝』は、自分を超えると言った。
彼女からの信頼が、重い。
懐かれたなと思った。想像以上に。
それは子が母に向けるような好意で、無条件の信頼。
恐らく元々彼女が必要としていたモノの全てを自分が代行出来たから、懐かれたのだろうと思う。
幼少期のお節介も、きっと影響しているだろう。
だが彼女は知らない。
自分が過去、一人のウマ娘を故障させたトレーナーである事を。
自らの我儘で、全てを台無しにした過去がある事を。
彼女は知らない。
自分が心の何処で……彼女がこんなに才能がなければ良かったのにと思っている事を。
尖った天才。
自らの才能で、自らの寿命を縮めかねないほどの天才。
何度も、何度も夢を見た。
ジリジリと鳴る目覚まし時計の音で、何度も飛び起きた。
彼女がスパートをかける瞬間。彼女がスパートを維持している瞬間。彼女がゴールを迎えた瞬間。何の予兆もなく、彼女が故障してしまう夢を。
彼女が話している最中。彼女が食事をしている最中。彼女が歌っている最中。何の脈絡もなく、喉を壊す夢を。
だが、最近気付いた。
自分は一度だって、シンボリエウロスが負ける夢を見た事がない。
「トレーナー」
自らを呼ぶその声に、樫本理子は意識を改めた。
車庫に向かう廊下を二人は歩いている。
「何となく、掛かり気味だった状態が改善された気がします」
何故か、サクラチヨノオーを連れて来ていたシンボリエウロス。
一緒に帰りますか? と尋ねて、慌てて思いっきり首を横に振られて、少し耳が萎んでいた気がする彼女と軽い事務的なミーティングを済ませ、彼女は最後にそう締め括った。
「迷惑をかけてしまってすみません。明日から普段通りお願いします」
「いえ」
迷惑をかけられたとは思っていない。
樫本理子からすれば、自分が関与する間にシンボリエウロスが勝手に不調を治したようなものである。
普段通りといっても多少トレーニングメニューを組み替えたくらいで、シンボリエウロスは常に此方の指示に従っていた。
ただ、今までの経験から察してはいる。
シンボリエウロスは内心、縛られる事を嫌う。
不要なモノ。煩わしいモノ。うるさいモノ。
その全てを極端に嫌い、また自身が異端である事や、常識や普通から外れた評価を受ける事に一切の頓着もしない。
そんな筈の彼女が管理に従っているのは、夢があるから。
「エウロス、貴方は………」
夢の為なら、何でも堪えられる。
厳しいトレーニングにも、先天性の病にも、課せられた責任にも。
思えばその夢にかける想いを、樫本理子はちゃんと聞いた事がなかった。
「凱旋門賞に勝つ事と、姉の『皇帝』を超える事。貴方にとっては、どちらの方が大切ですか?」
シンボリエウロスは凱旋門賞を目標にしている。
それと同じくらいに、姉を超える事を、三冠を取ると公言している。
勿論その両方は矛盾しない。
しかし凱旋門賞に挑戦するなら、クラシック級から挑戦する道があるのだ。
凱旋門賞を優先するなら、クラシック級から挑戦した方が良いだろう。
凱旋門賞か、クラシック三冠か。
シンボリエウロスには、その二択がある。
「……良く分からないです」
シンボリエウロスは、ゆっくりと歩みを止めて呟いた。
しかし返答は早かった。
「でも多分、私は姉上の方が大切だと思います」
樫本理子は敢えて口にして来なかったが、そうだろうなとは思っていた。
三冠の後に、凱旋門賞に挑む。シンボリエウロスの口からはそのような路線しか聞いた事がない。
「凱旋門はシンボリ家の悲願です。だから私は、凱旋門賞を目指しています。今もそれは変わりません。だけど私はシンボリ家のウマ娘であると同時に、シンボリルドルフの妹です。だから私は、姉上を超えたいのだと思います」
私がシンボリの家の下に生まれたウマ娘だけであるなら、凱旋門賞の方が大切だったと思いますけど。
最後に一言告げて、シンボリエウロスは振り返る。
「トレーナーは、何か夢がありますか?」
「私には……」
ない。何もない。
いや、あるにはあった。過去の話だ。
一人のウマ娘の脚と一緒に自分自身で台無しにした、本当に細やかなモノ。
担当に勝って欲しい。担当に負けて欲しくない。
樫本理子に大きな夢や野望はない。
ただ樫本理子はウマ娘の想いを尊重し、その補佐をしたいと願っていたトレーナーだった。
ウマ娘側が望むのなら、たとえどんなに無謀な夢であっても一緒に駆け抜けて行ける想いと才能に溢れていただけの、普通のトレーナーだった。
「全てのウマ娘を幸福にしたい、だったりしませんか? もしそうなら全力で応援しますよ」
「…………」
気遣われているのか。やんわりと過去を探って来ているのか。
そんな事を考えた自分に一瞬嫌気が差して、でも思う。
確かに自分は、シンボリルドルフと同じ夢を見ているのかもしれない。
もう、誰にも故障して欲しくはないと。
だが、かの『皇帝』とは違い、それを大きく公言した事はない。
夢と呼ぶには、経緯も目標も後ろ向きだ。
私は『皇帝」と同じ夢を抱いている。
樫本理子は、堂々とそんな事を公言出来る自信がなかった。
目の前にいる、この妹にだけは。
「……『皇帝』は凄いですね」
「でしょう」
ムフー、と。
別にそう言った訳ではないが、例えるならそんな感じのシンボリエウロス。
「私だったら、そんな夢に挑戦する前に見切りを付けて諦めてしまいます。だから、無謀と諭されるだろう夢を本気で夢見て、その為に行動出来る姉上が私は好きです。人が出来ている姉と同じ夢をトレーナーが見ていたら、嬉しいです」
「……………」
「でも、見ていなくても非常に嬉しいです」
「……はい?」
「だって私と同じ夢を見られる訳じゃないですか」
何となしに言う。
事実シンボリエウロスは、どうということを言っている自覚はない。
それが樫本理子には分かる。
「担当を三冠ウマ娘にしたい。凱旋門賞ウマ娘にしたい。そんな観点から見るなら私はとても優良物件だと思います。私が貴方を三冠ウマ娘のトレーナーにも、日本最初となる凱旋門賞ウマ娘のトレーナーにします。逆にトレーナーも、私を三冠ウマ娘にも、凱旋門賞ウマ娘にもしてください」
眩しい。
発言の内容も、それを一切の躊躇もなく口に出せる剛胆さも。
常人なら恐らく身構える。人によっては目を逸らすかもしれない。
樫本理子もそうだった。
樫本理子は目を逸らす側の人間だった。
「———そう……ですね」
だけど、もしもの話をするのなら。
もしも樫本理子が、管理主義を掲げるようになったあの事故を経ることなくトレーナーを続けていたとするなら。
彼女は目を逸らす事は疎か、何の躊躇いもなく頷き、担当のウマ娘と同じ夢を見る事を選んだ。
樫本理子は、自らの全てをウマ娘にかけられる。
今もそれは変わらない。
そして樫本理子は、元々は管理主義に重きを置くトレーナーではなく、担当ウマ娘の自由を尊重し、その才能を最大限に伸ばし続けていたトレーナーだった。
その過去も、絶対に変わらない。
「私も、貴方と」
——同じ夢を、見たいです。
樫本理子は、笑った。
それは控えめだったかもしれない。遠慮がちでもあったかもしれない。
だけど、あの事故を経験して以来、樫本理子は初めて心の底から笑った。
その事を、己を客観視していない樫本理子は知らない。
ただ彼女が認識したのは、目の前のウマ娘の反応と、その様子。
薄く微笑むとも、控えめに頷く訳でもない。口元を隠して笑う瀟洒な笑みでもない。
ニッコリと勝ちを誇るような、実に年相応な破顔でシンボリエウロスは笑っている。
少し身を屈んで、彼女は樫本理子の反応を楽しんでいる。
——チームで戦うのって、どんな風なんでしょう!
——あの、私、今まであんまり友達がいなかったから楽しみです!
あの子。
元気と笑った顔が特徴だった彼女。
見たかった。
あの子が、レースで勝つ姿を。
仮に決定的な負けを経験しても、一緒に乗り越えて行きたかった。
——第3コーナー手前で転倒!? 転倒です!
それはもう叶わない。
だから樫本理子は、ウマ娘が故障する事を酷く恐れた。
新たに担当を持った今もそれは変わらない。
今度は何の予兆もなく、故障するのではないかと。
このウマ娘はいつまで、どうしようもない挫折を経験する事なく走れるのかと。
何度も夢に見た。
人物を入れ替えただけの夢だった。
最近気付いた。
自分は一度だって、シンボリエウロスが負ける夢を見た事がない。
それに気付いたのは、ある夢を見たから。
夢を、見た。
今まで一度だって夢に見なかった夢を。
——シンボリエウロスが、負ける夢を。
故障する夢じゃない。病気が悪化する夢でもない。
ただ彼女が色んな期待を台無しにして、今までの努力や積み上げて来たものも裏切って、負ける夢を見た。
何が起こったのか分からない顔で放心して、多くの期待を裏切った声と、その中に確かに混じる、ようやく『絶対』が終わった事に対する安堵を背にして彼女は戻って来て、謝る。
負けた事と期待を裏切った事を謝り、頭を下げる。
言葉が出なかった。
何を言えば良いのかも分からなかった。
ただ、何も出来なかった。
そして飛び起きた。
そういう夢だけ、嫌に鮮明に覚えている。
嫌だった。
あの翼で、たった一人だけ静寂の中を翔けるあの翼で、走れなくなった彼女を見るのが嫌だ。
あの何処も見ていない瞳と、狂気すら感じるほどに透き通った笑みが消えるのが嫌だ。
申し訳なさそうに負けた事を謝る彼女の姿を見るのが、嫌だ。
だから今日のレースで、樫本理子は初めて、シンボリエウロスに本気で走って来いと言った。
事実シンボリエウロスは勝った。
しかし自分が下手な指示を出していたら、もしも自分が抑えて走れと言っていたら。
彼女は負けていたかもしれない。
きっと、そうなのだ。
彼女には何もいらない。
静寂と停滞の世界をたった一人だけ駆け抜ける彼女の領域に、二人目はいらない。
戦術も、思考も、トレーナーの我儘も。
その世界に不要なモノが忍び込む余地があれば、シンボリエウロスはシンボリエウロスではなくなる。
何となく、思うのだ。
もしもシンボリエウロスが負ける日が来るとするなら、それはきっと、自分の我儘で負けるのだと。
故障して欲しくない。
最初の担当を自らの我儘で壊したトレーナーが、また自らの我儘で、担当を縛り付けている。
「エウロス」
「……………」
何かを感じ入ったのか、黙っていたシンボリエウロスは、じっと此方の様子を窺っている。
「これからも、よろしくお願いします」
短く告げる。
担当に影響されたような、ほんの僅かな言葉。
過去は何も伝えていない。心情も何も言っていない。
だけどシンボリエウロスは、何を思ってか、少し揶揄うように口を開いた。
「今日からは、私のトレーナーだと胸を張って言えますか?」
「……えぇ」
今まではきっと、言えなかった。
逆スカウトされ、心配で見放しておけないから彼女のトレーナーとなり、常にトレーナーを辞める準備は出来ていた。
もしも彼女を故障させたら、すぐにでも辞める。
空を飛べる天才に、怪我も故障も防げなかった自分が付き従って良い訳がない。
事実、前の担当の子の時は、そうした。
故障が原因であの子は走れなくなり、チームは解散し、あの子は中央トレセンを引退した。引退せざるを得なくなった。
その責任を取りトレーナーを辞めた。意識改革と規則変更の為、URAの道を開いた。
だけど、今になって思う。
トレーナーは、辞めるべきではなかった。
たとえ医者から復帰は絶望的だと言われていても。
たとえ自分が1人のウマ娘を故障させた度し難い愚鈍だとしても。
それでも。
故障したあの子の怪我を治す為に、全てをかけるべきだった。
責任を取って、自分がその怪我を治すべきだった。
あの子ともう一度、やり直すべきだった。
これからの全てを、生涯と呼んでも差し支えないウマ娘の脚を、壊した。
また壊すかもしれない。
それが怖い。何よりも怖い。
また自分のせいでウマ娘を走れなくしたら、もう耐えられない。
だけど、そこで終わっていた。
樫本理子は、もしも故障させてしまった後の、その次を考えられなくなっていた。
シンボリエウロスに怪我はさせない。
それは今も変わらない。
だけどもしも、シンボリエウロスが怪我をしたら。
その怪我は必ず私が治す。
そして彼女が、怪我を防げなかった自分を、まだトレーナーとして選んでくれるのなら。
彼女と同じ夢を、未来を見たい。
同じ景色を、空の果てを見たい。
だから。
だから——
「私はシンボリエウロスのトレーナーです」
少なくとも今、樫本理子はシンボリエウロスのトレーナーだった。
他の誰でもない、樫本理子ただ一人だけが。
「なら、良かった」
今度は、子の成長を見守るような微笑みで彼女は頷いた。
満足したのか歩みを再開する。
何処となく嬉しそうにステップを刻みながら歩く彼女は、どこからどう見ても深窓の令嬢ではなく、一人の女の子でしかない。
その後ろ姿。
年頃の少女の姿に、思う。
——あの子は、今の私を見て何を思うのだろう。
新たな担当を得た私の事を、恨むだろうか。
それとも、ようやく答えを見つけられた私を、赦してくれるのだろうか。
取り出した携帯端末の連絡帳にはまだ、あの子の名前と連絡先がある。
「………………」
ウマ娘は生涯で、たった一度しかトゥインクル・シリーズに挑めない。
だがトレーナーは何度だって挑める。担当を変えれば、その分だけ、何度だってやり直せる。
だから、恨まれて当然だ。
一人のウマ娘を故障させたトレーナーが、未だのうのうとトレーナーとして働いているのだ。
もう関わりたくないと、既に番号を変えられている可能性だってある。
だけどまだ、この番号が繋がっているなら。
あの日の間違いを、今度こそ謝れるのなら——
「————…………」
樫本理子は臍を噛みながら、静かに携帯を仕舞う。
自分が恨まれるのは、良い。
だけどあの子と同じように、未来を見たいと願った今の担当を否定される勇気は。
まだ、なかった。
⚪︎藤井泉助
誕生日 : 3月28日
身長177cm
記者。
明朗快活。
意外とスペックが高い。
シンデレラグレイより。
⚪︎府中千八展開要らず
"大橋 巨泉"氏が提言した格言。現代では否定論の方が多い迷信寄りのジンクス。
何故否定論が大きいかは、作中のシンボリエウロスの発言の通り。
⚪︎"大橋 巨泉"
競馬界に於いて最も影響力を持っていた屈指の評論家。日本のタレント・放送作家・司会者・競馬評論家など数々の仕事をこなしたマルチタレント。
現代のテレビ業界やテレビタレントという職業に非常に大きな影響を与えた人物の一人。
1988年当時『オグリキャップ』号のクラシック参戦不可に異を唱え、世論を動かし、そして結果JRAを動かした側の第一人者。
前述の【藤井 泉助】のモチーフと思われる人物。
余談だが、当時シンボリ牧場のオーナーであった和田共弘氏。騎手・調教師であった野平祐二氏と特に親交が深く『スピードシンボリ』号が海外遠征した際、両者と行動を共にした人物でもある。