『外からオグリキャップ! 外からオグリキャップが来た! 後続を大きく突き放して、今ゴールインッッ!! 第35回 毎日杯! 勝ったのはオグリキャップだっ!!』
結論から言えば、オグリキャップはレコードを更新出来なかった。
ただ勝利をする事自体に何ら問題はなかった。
今を生きている彼女達からすれば関係のない話だが、今回の『毎日杯』にはヤエノムテキが出ていない。
ヤエノムテキは弥生賞にて3着を取り、1着から5着までに与えられる皐月賞の優先出走権を手にしている。
要は毎日杯に出る理由がないのだ。
春のクラシックレースを視野に、彼女は今現在保養と調整に充てていた。
ヤエノムテキがいない毎日杯は、オグリキャップにとっては楽勝だった。
笠松時代のような中位差し。
最終直線に立つ頃には先頭を奪い、そのまま押し切る。
着差は9バ身。勝ち時計は2:02.5。
「圧勝ですね」
道中、大きく外を回る事がなかったのが影響したのだろう、その数字。
「だけど、レコードじゃなかったんだ」
「…………なるほど」
レコードで勝て。
そう言われていたが、出来なかった。
ただ目標未達成かと言われると、実はそうではない。
連日続いた雨。開催時は晴れたが、当時重バ場だったのである。
ダートとは違い、芝は重バ場になればなるほど時計は掛かる。
その重バで、レースレコードに0.3秒迫るレースをした。
良バ場なら、間違いなくレコードを更新していたに違いない。
オグリキャップの評価はその一色である。
事実、後続を9バ身も突き放している訳だから、オグリキャップが突出している事に違いはない。
——エウロスなら、レコードだった。
しかし、言わば他者の評価で納得出来るかと言うとオグリキャップは違った。
相手の強さを同じレースで走って知った。弥生賞で傍から俯瞰して、その速さを見た。
このままでは勝てない。
オグリキャップは、それを確信していた。
何よりレコードを出した方が、日本ダービーに出られる可能性は確実に上がっていたであろう事も確かだった。
そしてそのオグリキャップが今何をしているかといえば、会話をしている。
誰かと言えば、当の本人、シンボリエウロスと。
場所はカフェテリア。
16時頃に毎日杯が終わり、そのまま中央トレセンに戻れば夕陽が傾き、空が淡く焼け始めてくる。
オグリキャップはその足で、夕食を取った。
今更だが中央トレセンでの朝夜の二食は、寮の担当職員が作ったものが提供され、食堂のカフェテリアとは別々になっているのだが、春のファン感謝祭が後3日と近付いている今、彼女達はカフェテリアで食事をしている。
「ただ9バ身差の圧勝という事実に変わりはありません。だからレコードではなくても——」
「でもキミは、レコードで四連勝しているだろう?」
エウロスならレコードを叩き出していた。
そう思うのはひとえに、彼女がレコードで勝ち続けているからが大きい。
シンボリエウロスは強い。ただその前提として、速い。
それは瞬間的な速度もあるが、最終的な走破タイムでもそうだ。
超後方からの追込。
あまりにも類を見ない走り方による対策の難しさ以前に、彼女は純粋にレコードタイムで勝ってくる。
その上で、彼女は自分以外のウマ娘の走破タイムを遅くするのに長けている。
簡単にレコードを出せるくらいの力量がなければ、恐らく話にすらならない。
「………」
と言われたら、確かに正しい事は正しい。
尚、今を生きている彼女達からすればまた関係のない話だが、仮にシンボリエウロスが存在しなかったとする。
その場合、シンボリエウロスが出場して来たレースはどうなるか。
阪神JFではディクタストライカがレコード勝ちをしていた。
共同通信杯ではミュゲロワイヤルがレコード勝ちしていた。
弥生賞ではサクラチヨノオーがレコード勝ちしていた。
更に関係ない話だが、皐月賞ではヤエノムテキが過去行われて来た東京の皐月賞の中で、最も速い時計で勝利する。
尚且つ、シンボリルドルフが保有している2:01.1のレコードに0.2と迫る時計を出す。
更に余談だが、弥生賞をレコード勝ちしたもしものサクラチヨノオーの勝ち時計は2:01.1である。
後に黄金世代と呼ばれるウマ娘達が現れるまで、満場一致で史上最強世代と言われたウマ娘達の片鱗は覗いていた。
げに恐ろしき魑魅魍魎が跋扈する修羅の世代である。
そんな彼女達に勝利する為には?
つまりはそう言う事で、シンボリエウロスは今レコード四連勝をしている。
元々速度への欲求が強いのもあるが、レコードを目標にしているのはそんな理由も大きかった。
「(芝2000、重バ場で2:02.5)」
そして目の前には、その修羅の筆頭。
2:02.5のタイムは、このまま皐月賞のタイムに入れても普通に勝ちを狙えるタイムだ。
この時代、クラシック級のウマ娘が2000mで2:00.0を切る事はほぼない。
壁の高さは、ジュニア級に於ける1:35.0の壁と凡そ同じ。
だがオグリキャップは、もしかしたら2:00.0を切っていた可能性がある。
勿論レース場が変わればタイムも変わるが、じゃあレース場を変えたからといってそんな極端にタイムが変動するという訳でもない。
何よりオグリキャップは、バ場もレース場も選ばない。
「(芝2400、2:22:2……世界レコード)」
未来、そのタイムを出す。
クラシック級ではないし、クビ差で負けはした。
だがどう足掻いたとしても素質はある。
後に幻の三冠馬と呼ばれた、そんなウマ娘。
「……私は、意識的にレコードを狙っている部分がありますから」
しかしシンボリエウロスは、曖昧に頷いた。
意見の相違は、己が認識している価値観の違いと立場に大きく影響される。
私は貴方が恐ろしいですよ、と懇切丁寧に説明する事に意味はなく、また何があろうとも自分が勝ちを取りに行く事に変わりはない。
そして勝った以上、運も含めて勝つ為に必要とされる総合力が、その時は自分が最も優れていたという事実にも変わりはない。
また、最近の彼女は忙しかった。
スプーンを手に取り、目の前のオムライスを一口掬う。
執事喫茶というと高級そうで紅茶やコーヒーのイメージがあるが、食べ盛りなウマ娘である以前に、やはり一学生の出し物である以上軽食は要る。
そして軽食というと、オムライスの印象がある。
極めるとなれば別だが、比較的簡単に作り易く味もほぼ常に保証されているこの料理は、軽食界隈に於いて一定の地位を獲得している筈だろう。
食堂の協力があるとはいえ学生のウマ娘が作る出し物としては、かなり良い線を行っている。
これなら不特定多数の人に出しても問題ない。
一応育ちが良い分類に入るシンボリエウロスは、次の出し物に手を付けて、残りを食べたそうにしているオグリキャップにあげた。
周りでも、他のウマ娘達が似たような事をしていた。
彼女達は今現在、3日後に控えている春のファン感謝祭に向けた、出し物の最終確認をしているのだ。
——私に足りていないものはなんだろう。
多くの料理を、カロリーの計算をしながら少しずつ食べて評価をするという器用な事をしているシンボリエウロスと、その横で普通に全部を食べ続けているオグリキャップ。
その間、オグリキャップは何となく考え続けていた。
何かを見た。
悩むのなんて後で良い。
そうして見た、開きかけた、あの感覚。
"アレ"を、シンボリエウロスは物にしている。弥生賞でそれを実感した。
だが共同通信杯では、"アレ"を使うどころか、開く気配すら見せなかった。
そしてオグリキャップは負けた。
あの感覚を物に出来るかは、きっと足切りラインに過ぎない。
或いは手段の一つでしかないというのか。
分からない。だがきっと力だけの問題だけじゃない。速ければ良いというものではない。
——それを考えるのが、私は苦手だ。
戦術。戦略。
勝利を得る為の手段。
頑張れば勝てる。考えれば負けた理由が分かる。
それで良かった地方とは世界が違う事を、オグリキャップは正確に理解し始めていた。
「…………?」
不意に気付く。
考え事に集中していたら、いつの間にか物音が消えていた。
周りのウマ娘は硬直して、此方を見ている。
ダンっ、と手の平を叩き付ける音。
「随分と、楽しそうにしているじゃねぇか」
オグリキャップの目の前には、二つの流星があった。
一つ目は、逆向く三日月。シンボリエウロス。
二つ目は、極大の一等星。
「三冠の冠を一つも被ってもいないのに、もう楽勝ムードか?」
シリウス。シリウスシンボリ。
国外から帰国した彼女は、座っているエウロスを上から覗き込み、挑発的に話しかけていた。
——ダービーウマ娘のトレーナーになるのは、一国の宰相になるより難しい。
日本ダービー。
一生に一度しか挑戦権はなく、数多の怪物がその夢に破れて来た最高峰のレースには、そんな言葉が残されている。
この言葉は一つの家門からしても同じ事が言えるだろう。
如何な名門といえど、ダービーを勝つのは決して容易いものではない。
それをシンボリ家は、二年連続で同門からダービーウマ娘を輩出した。
シンボリルドルフ。その翌年にシリウスシンボリ。
ダービーに勝った事で燃え尽きたウマ娘はいるが、二人は燃え尽きなかったし、その後の活躍と功績は今更語る必要はない。
シンボリ家。
日本で最も早く、最初に海外挑戦を行なったこの家の名を知らぬ者は、ウマ娘界にはいない。
少なくともこの時代では、絶対的に。
では、彼女達の関係がどんなものかは、あまり知られていない。
というか、分からないのだ。
寒門生まれは疎か、それなりの名家でも気が引けるほどの家。
感覚としては天上人が相対しているに近い。
事実、名家としては今、シンボリ家がトゥインクル・シリーズの頂点に君臨しているのだから間違いではない。
「……………」
姉と妹、という関係すら全くと言って良いほど見せないシンボリ家の令嬢。
絶頂期を迎え、その流れが消え止まぬまま現れた、次のダービーウマ娘候補。
或いは三冠筆頭のシンボリエウロス。
その彼女は、長らく顔を合わせていなかった同門のウマ娘と久しぶりの会話をするには、凡そ友好的とは言い難い言葉で口火を切った。
「なに?」
それがシンボリエウロスらしくない言葉だと気付いたものは多かった。
だが何故か、らしく感じる。
彼女の根っこの獰猛な部分、いわば本性はこれなのだと瞬間的に悟るだけの、強烈な雰囲気。
その雰囲気が、入学当初のそれと瓜二つだったのも理由に入るかもしれない。
——戻った。
最近、少し会話するようになって来た彼女の雰囲気が。
或いは戻るどころか振り切った。
端的に、簡素に、淡々と。
何人かが、迎え撃つような体勢に入ったシンボリエウロスの雰囲気に、ペタンと耳を畳む。
「何だ、気付いていないのか? 最近は随分と風がうるさくてな。これはどうにも調子に乗って息巻いているとしか思えない」
「そっか。まぁ月見が大好きな人が言うのならそうなのかもね。穴が開くくらい、良く見ている訳だ」
えらく反抗的で、直情的。
一目見た時、お世辞にも雰囲気が良いとは言えないシリウスのそれと何ら変わりがないレベルで、身に纏う雰囲気が刺々しい。
これに面を喰らったのはシリウスではなく、周りのウマ娘だった。
シンボリエウロスは基本、敬語で話す。というか敬語を崩す場面を見た事のあるウマ娘がまずいない。
底冷えするような視線。挑発的な言葉使い。
誰も見た事がない。
「……フン。まぁ良い。お前が腑抜けているように見えただけだ」
底冷えするような眼差しの何がお目に適ったか分からない。
シリウスは満足気に笑って頷いた後、エウロスから離れて手をヒラヒラと振る。
両手で、如何にも冗談ですよと言うかのように。
「そっか」
片方は、それを冗談だとは全く思っていなかった。
「それで、なに?」
端的に、簡素に、淡々と。
「私に用があるんでしょ? なら言いなよ」
「……………」
立ち上がり、近付く。
今度は逆に下から覗き込み、睨み上げるように。
剣呑。張り詰めた空気は、次の瞬間には破裂しそうだった。
「少しツラ貸せ。今すぐな」
「……分かった」
挑発的だった笑みが消え、シリウスは親指で上を指す。
次いで、ビリビリと肌を刺す感覚がやや霧散した。
「……あぁ、そうだった」
食堂を去っていくシリウスシンボリに付いていく直前、何かを思い出したようにシンボリエウロスが口を開き、一枚のメモをテーブルに残す。
「オグリキャップさん、これ、よろしくお願いします」
「ん……あぁ」
そのメモが、先程口にしていた食べ物と春のファン感謝祭に関係する物だという事は明らかだった。
よろしくお願いします、という事はこのメモをクラスメイトの皆に共有すれば良いのだろうか。
悩んでいる内に、シンボリの両名はざわ付くカフェテリアの事など気にせず居なくなっている。
「…………」
ビリビリと、肌を刺す感覚が残っていた。
多分、根っこの部分が出ていた。
レース中、彼女が本気になった時に流れるものと同じ。
普段の敬語や言葉遣いは、多分根っこの荒々しい本能を覆っているだけなのだろう。
ほんの僅かに瞳を瞑り、薄くゆっくりと瞼を開く。
シンボリエウロスはそれだけで、雰囲気が一変した。あの感覚をモノにしていた。
即ちそれだけ、彼女はあの感覚を自分に馴染ませており、理解しているという事。
「私も、自分に向き合ってみるべきなのか………」
と、オグリキャップが思い直している中、当の二人は中央トレセン学園の屋上に、勝手に侵入していた。
尚、当然の事だが、屋上に侵入するのはいけない事である。
時にちょっとした不良ウマ娘が屋上に侵入する事はあるが、今日はいない。
あのシンボリエウロスが何の躊躇いもなく堂々と校則違反を犯した事を考えれば、正確には二人いる訳だが。
「で、何メートル?」
「性急だな、お前は本当に」
「姉貴が迂遠なだけだよ」
——私と走りたいんでしょ?
「…………ハァ〜」
気が抜けた。
という訳ではないが、妹分のあまりにあんまりな態度に溜息を吐いて、シリウスシンボリは座り、屋上のフェンスに背を預ける。
「もういい。一旦座れ」
「うん」
ポスンと、スカートが捲れないよう隣に座った彼女の、先程の剣呑さは何処へやら。
食堂から続けてこの光景を見ている人がいれば、間違いなく困惑していたに違いないが、別に演技をしていたという訳でもない。
二人の関係は、何というか緩急があった。
そして今、緩急の緩の部分。
姉貴分が口を開くまで、妹分は静かに待っている。
「言っておくが、腑抜けているように見えたのは真実だからな」
「ふーん」
無慈悲。他人の心を折る事に何ら気遣いがない。
或いは気遣った上で遠慮なく踏み越え、根本から叩き折る。
そんな妹分が、温和な笑みで、周囲に染まっていた。
まるで姉——ルドルフの焼き増しのように。
気に食わない。
春のファン感謝祭だとかに力を入れているのも。
参加は半ば強制だから仕方ないとして。
そんな思いで仕掛けた挑発と、腹の探り合い。
しかしそれは、思いの他杞憂に終わった。
電話でのやり取りを除けば、実に二年……中央入学期間からの疎遠も含めたら凡そ四年振りとなるが、妹分の根っこは驚くほど獰猛なままだった。
「いや腑抜けたのに変わりはないか。お前、無駄な事にまで手を付けているみたいだな?」
「……ふーん?」
それは疑問ではなく。
だから何? とでも言いたげな返答だった。
無駄な事。
例えばクラシック制度に阻まれている、あるウマ娘を、あるレースに出す為に行っている事全て。
シリウスシンボリは、それを口にしなかった。
シンボリエウロスは、口にされずとも何を指しているのか分かっていた。
だから、何? と彼女は言外に言っている。
「マルゼンスキーの時もそうだった。私には私の見たい景色がある。その為に動いている。姉貴に何か関係がある?」
あぁいえばこういう、とでも言うのか。
もしもここで姉の方だったら、トゥインクル・シリーズの盛況がどうとか、自分は先達者になりたいだとかを理路整然と口にしていたに違いない。
しかし妹は、妹のままだった。
ゾッとするような冷たさ。
肌が栗立つほどに、静かな風。
黒い世界だった。
風も音も光もなく、何人にも侵入を許さない。
ない。ただ、何もない。
心に焼き付いた風景も、目指す未来も、果てに見る景色すらも。
ただ、速く走る。
その為だけの領域を、シリウスシンボリは誰よりも最初に見た。
アレ以来、妹の印象は決まった。
究極的な自己完結型。
何もいらない。
邪魔なものは邪魔だと言うし、背負い込む事もないだろう。
それを、全てのウマ娘に幸福をなんて言って背負い込むような奴よりは、よっぽど健全で良いとシリウスは思っている。
故に、そんな妹分が自発的に何かに手を伸ばした。
きっとそれは、何処かの誰かのような背負い込むものではなく、自分の事を疎かにして手を回らなくさせるようなものではない、ただの心の代謝。
己を変え、牙を抜き、過去を捨てるようなものじゃない。
事実、妹分は言っている。
何か関係あるの? と。
深掘りすれば、私の選択は私のものであって他人に指図されるものじゃない、くらいは反抗して来るかもしれない。
「関係は、ない。関係ないが」
だからシリウスシンボリは、また深い溜息を吐いた後、拗ねるように呟いた。
「………そういう事はルドルフに任せておけば良いんだよ」
二足の草鞋は気に入らない。
勝手に色々と決めるのも気に入らない。
だけど別に、その想いまでを否定した事もない。
姉の方——ルドルフはもう、引退した。
だが妹の方——エウロスはまだ現役だ。
これは、それだけの単純な話なのだ。
「……………」
「……んだよ、その顔は」
少し目を見開いて、此方をジッと見つめる瞳。
パチパチと、信じ難いものを見たような顔をして、呟く。
「本当に姉貴? 私の知る姉貴は、ルドルフに任せれば良いなんて言わない。引退しているとかどうとか、そんな事実も気にしない」
「お前……私の事を何だと思ってるんだ」
現役の癖に、裏方の仕事に手を回している自分の事は棚に上げてんのか。
ぐっと、その言葉を堪えて発した言葉。
その言葉に、シンボリエウロスは真顔で、当然のように返して来た。
それは彼女達に最も近く、そして妹分だからこそ許される発言だった。
「姉上の事が大好きな、私達の幼なじみ」
「——張っ倒すぞ」
シリウスシンボリは、手は出さなかった。
若干の青筋を立ててはいたが、決して力に訴えはしなかった。
尚横で、ふーん……否定しないんだぁ。
と、少し先の未来彼女達と特殊な縁を持つ事になる、恋はダービーとでも言うようなウマ娘と良く似た、イタズラ心のある含み笑いで、シンボリエウロスは笑っている。
「言いたい事は、分かるよ」
ニシシと笑っているシンボリエウロスと、目線を合わせずひたすらガン無視しているシリウスシンボリ。
しばらくの硬直が続いた後、エウロスは少し空を見上げて呟いた。
「でもやっぱり、姉貴がそんな風に言うのは意外だったな」
昔のシリウスシンボリならきっと、直接やめろと言った。
ふざけた真似しやがって。お前を認めない。それくらいの事を言った可能性もある。
どちらにしろ、これだけは言える。
シリウスは決して、ルドルフをダシにして止めさせようとして来る存在じゃない。
今確信になった。
一目見た時から感じていた違和感。
決して口にしなかった、齟齬。
——少し、痩せたね。
その言葉を、口には出さない。
出したくないし、聞かせたくもない。
シリウスシンボリはもっと我が強く、そして輝いていた。
今もそうだと聞かれたら戸惑いもなく頷く。
だけど二年の月日を経て帰って来たシリウスシンボリは、やっぱり少し痩せて、少し覇気が小さくなった。
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。
四人の内三人は疾うに現役を退き、残るシリウスシンボリは既に全盛期を過ぎ去り、衰退をどれだけ抑える事が出来るかという話になっている。
シリウスシンボリは少し落ち着いて、思慮を見せるようになった。
そこに、衰えを見出す自分を否定したかった。
直視しなければならない現実だと、知った上で。
「私も昔の姉上の方が好き。だけどそうじゃなくて、私はずっと前の、皆と一緒に走る事が出来たあの頃が一番好きだった」
全員が現役で、全員が全盛期だった頃。
代わりに自分一人だけが本格化すら始まっておらず、常に最後尾を走るしかなかった頃。
それでも、あの頃が最も楽しかった日々だった。
「難しいね、私達は」
ウマ娘の全盛期は短い。
故に変わる事もあるだろう。
根っこは同じでも、側が変われば大きく変わるものだ。
これは最初から、そういう話だったのかもしれない。
シリウスシンボリが、全てを遮断していた妹分に、姉と妹を重ねる変化を見たように。
シンボリエウロスが、姉貴分に衰えを見出したように。
「……………」
シリウスシンボリは、頬杖を突いた状態でそっぽを向き続けている。
吹き晒しの屋上に流れ続ける風と静寂は冷たかった。
しかし静寂の方は、長くは続かなかった。
「私はあまり姉上を頼りたくない。というかシンボリ家を頼りたくない」
反抗期、と呼ぶものではない。
ただ親愛している者に甘えたくない、自分の力で並びたいという欲求。
「立場が立場なのもあるけど……いやこれは、単純な私の我儘か………」
大きく息を吸い込んで、深く吐く。
シンボリエウロスはぎゅと身を寄せて丸まった後、小さく呟いた。
「…………頼るかぁ」
よいしょ、と言葉が聞こえてきそうなほど重い足取りで彼女は立ち上がった。
ようやく吹っ切れたか。
改めて向き直ったシリウスシンボリの先にある妹分の瞳は、もういつもの瞳に戻っている。
「路線は別に何でも良いけど、今年の有馬記念、完璧に調整して来てね」
——当たり前だろ。
舐めた状態で来たら許さない。
返事も聞かず早速生徒会長室に向かったであろう妹分が、自分と全く同じ事を思っている事実に、シリウスシンボリは満足そうに笑っていた。
シンボリルドルフは、妹が何をしているのかをほぼ正確に理解していた。
そもそも基本的に周りの全てがどうでも良い妹が、こうして自発的に周囲を変えようとする事は二度目なのだ。
だから、分かった。
何をしているのかも、何故動いているのかも。その全てを。
【求む! オグリキャップ。ダービー特例出走!】
とある記者が書いたらしいその新聞紙には、オグリキャップの現状が詳しく言及されている。
クラシック制度の成り立ち。地方の制度。同じく地方から来たハイセイコーとの違い。
そして最後に——日本ダービーに出走が出来なかったマルゼンスキー。
この一文で分かった。
論理と感情。
両方から攻め立てるこの記載は、妹の入れ知恵だなと。
「少し、対応を間違えたかな」
例の元気な転校生に期待した面は大いにある。
同時に、周りの友好関係に乏しい妹の刺激になれば良いな、と考えていた部分もあった。
——あなたの力で私を日本ダービーに出してくれ。
故に、そう言ったオグリキャップの事を妹に任せた。
今年の日本ダービーに於ける、最有力であろう妹へ。
だが今になって思えば。
後に妹が何を思い、何をするかは予測出来て然るべきだったかもしれないとも思う。
一人で何とかしようとする妹の行いに、もしも助力を請われたら、自分の裁量で肩代わり出来る部分は全て協力するのにと思いながら。
「あーら。また寂しんぼなのね」
「……別にそんなんじゃないさ」
「もう! 素直じゃないんだから!」
新聞紙を手折り、伏せて、小さく首を振るシンボリルドルフにマルゼンスキーは笑っている。
素直じゃない。妹と同じで。
——ダービーに出られなかった事、そこまで気にしなくて良いのに。
走ったレースに後悔はない。
自分に出来る事はやり尽くした。
たまに、もしも自分が日本ダービーに出ていたらと、そう思う事はある。
だけどあの時、この姉妹が何をしていたかを知っている。
当時本当に四人以外全てどうでも良かった妹が発案して。
当時かなり牙が剥き出しだった姉が同調して。
そして当のマルゼンスキーすら置き去りにする勢いでURAと刃を交えた、あの頃は本当に嬉しかった。
だから素直じゃないなと思って、笑うのだ。
今しがた新聞を隠して此方を気遣うルドルフにも、以前遠回しに言葉を選びながら協力して欲しいと頼み込んで来たエウロスにも。
「(フフ……お姉さん、ちょっと張り切っちゃおうかなー!)」
頼られたい姉と、頼りたくない妹。
凡そ向いている方向は同じで、考え方も似ている。
今回の出来事に関しては、ほぼ同じだと言っても良い。
なのに何処かすれ違いを見せるこの姉妹。
良くも悪くも、越権行為に繋がり兼ねない立場がそれを大きくしているのだろうが、解決の為の一歩を互いに踏み出せないこのいじらしい距離感は、何かきっかけがあれば一気に変わる。
少なくとも片方どちらかに、昔のような積極性があればもう解決していた。
ルドルフと対面し、エウロスから頼み事をされているマルゼンスキーはそれを良く知っていた。
ならば、マルゼンスキーが何をするかは決まっていた。
助けて欲しい。
妹側からそう言われて、姉側は寂しそうにしているのだから、この姉妹の関係を助けても何ら問題はない。
よし。ならばここは自分が一肌脱ごう。
そう思って立ち上がろうとした瞬間、生徒会室の前に誰かが近付いて来た足音が響く。
「この足音は」
溶け込むような独特の足音。気負いなく重厚な生徒会室の扉をノックするウマ娘。
ルドルフが顔を上げると同時に、そのウマ娘は誰何を求める事なく生徒会室に入室する。
「エウロス?」
先程の会話もあって、若干驚く。
その姉とは対照的に——いややはり似たもの同士なのか、妹は少し目を見開いてマルゼンスキーを見ていた。
「(——は! これは)」
刹那、マルゼンスキーに電流走る。
これはもしかして、今から大事な話が始まるのではないか。
元気な転校生の、即ちクラシック登録に関わる話をするつもりだから、自分がここにいると邪魔になるのではないか。
雰囲気に反し、と言うとものすごく失礼だが、慧眼に近い洞察能力で事態を察したマルゼンスキーはこの生徒会室から即座に退出する事を決めた。
「あ——あたし急用思い出しちゃったから戻るわね! バイビー!!」
輿馬風馳と風の如く。
速さを競い合う世界でスーパーカーと呼ばれたウマ娘は、未だその片鱗を残したままか、言葉も聞かず突風を残して生徒会室から去っていた。
しかもちゃんと扉を閉め、扉に耳をピトリと当てて盗み聞きに入るといった事もしない律儀さ。
「…………」
「…………」
無言と、無言。
片方があまり喋らないので今まで言葉を発しておらず、もう片方は喉に何かを患っている訳ではないが理知的でお喋りなタイプではない。
語る時は語るが、妹とは小さく、短く会話する事を好む。
残された二人は互いに向き合ったまま、暫くの静寂を挟む。
エウロスの方から、ゆっくりと口を開いた。
「……えっと」
別に喧嘩した訳ではない。
ただ頼りたくないなと思い、故に何となく距離を感じ、しかもそれを心から気を許している数少ない友人に気を使われた。
その事実に何となく気後れして、口から出たのはそんな言葉。
「オグリキャップの、クラシック登録の話があるんだけどさ」
「——あぁ」
シンボリルドルフは、待っていた。
トレーナー君とは違い、同じ視座に立っている訳ではない。
だが向いている方向は絶対に同じで、意見は対等に共有出来る。
その妹が、何を話すのかを。
「あの………」
少し俯いて、言い難そうにする。
二人には立場があった。
現役と引退済み。
生徒会長と一生徒。
もしかしたら姉は、自分には協力してくれないかもしれない。
いや恐らく真摯にはなってくれる。協力してもくれる。
だがやんわりと諭されるかもしれないし、出来ないと言われるかもしれない。
それでは、ダメだ。何が何でも協力して欲しいのだ。
だから頼るなら、"こういう"形になる。
その形にすれば、きっと姉はほぼ間違いなく協力するだろうという、若干の保身と打算——を軽く超えてくる気恥ずかしさ。
しかし、ここまで来てやっぱり何でもないと言うのはおかしな話で。そもそも姉の協力を得られたら自分も楽になる訳で。
——と、この時のシンボリエウロスは、有り体に言って迷いまくっていた。
或いは掛かっていた、とも言うのかもしれない。
普段からの装いからは一切の想像が付かないくらい。
それはつい先程、姉貴分との会話で感情が大きく揺れ動いたのも関係しているだろう。
——何処かすれ違いを見せるこの姉妹。
マルゼンスキーの考えは実に正しかった。
今この瞬間、彼女達姉妹は、主に妹の考えすぎによって凄まじい噛み合い方をした。
「今、私、少し忙しくて」
そうだ。これはオグリキャップの為だ。
自分がちょっと、そう本当にちょっとお願いをするだけで、オグリキャップの未来が切り拓かれる可能性が大きく変わる。
だから言うぞ。
あぁ、今から言うぞ。
本当に、本当に嫌だけど言うぞ。
「だから出来れば、私に協力して欲しい事があるんだけど、良いかな………」
心の中で何度もそう覚悟を決めて。
ようやく、妹はその一言を口にした。
「…………ルナお姉ちゃん」