かつて、とあるウマ娘の運命を決定付けたレースがある。
それは日本ダービー。かの『皇帝』の生涯の中で、最も苦しめられたであろうレース。
——先頭集団第4コーナーに差し掛かる! ルドルフ外を回っている! 流石の皇帝も厳しいか!?
最終直線前、第4コーナー。
シンボリルドルフは、いつもなら仕掛ける場所で一切の反応をしない。
前には3人。前方から4番手。
レース場が騒然となったあの瞬間を、そのとあるウマ娘——彼女は良く覚えている。
届くのか、届かないのか。
レースを見ていた観客の誰しもがシンボリルドルフの勝利を危ぶんだ、その瞬間だった。
雷霆が奔る。
いつの間にかシンボリルドルフは先頭を奪い、前を走る3名のウマ娘を差し切っていた。
それ以来だ。
シンボリルドルフには絶対があると言われ始めたのは。
それからだ。
彼女が、シンボリルドルフに憧れを抱いたのは。
旧家の令嬢。
育ちの良い天才。
しかして、ただただ天才でしかなかった彼女の世界に彩りが生まれた瞬間。
シンボリルドルフのようなウマ娘になる。
そう誓った。
それが夢になった。
——『皇帝』シンボリルドルフ、引退。
だから、見ていた。
全てを見ていた。
無敗三冠を達成した瞬間も、史上初天皇賞・春秋連覇達成の時も、秋シニア三冠達成の瞬間も、グランプリ連覇の時も。
シンボリルドルフが故障した、その瞬間も。
思えば当たり前の話だったのかもしれない。
あのシンボリルドルフですら、引退した。衰退もした。怪我とは無縁ではいられなかった。
シンボリルドルフは、永遠に走り続ける存在ではなかった。
だからその日、一つの夢が、泡沫の淡い輪郭のまま消えていく。
彼女と『皇帝』が一緒に走る。
そんな夢のレースは、この世界には存在しなかった。
かくして、彼女の憧れのウマ娘は現役を退き、夢の一つは形になる事なく終わりを迎える。
彼女は一つ成長をして、現実を知った。
しかし彼女の夢がなくなった訳ではない。
如何なる終わり方をしようが、彼女にとってシンボリルドルフはいつまでも憧れであり、自分が中央に入学する日をずっと心待ちにしている事にも変わりはない。
——シンボリエウロス。必ず、私を越えてくれるウマ娘です。
その途中、急に現れたウマ娘。
というかカイチョーに妹いたんだ………カイチョーの口からそんな発言が出るって……何?
端的に言えば、面白くない。
対抗心である。
皇帝を越えるのはボクだ、という強い対抗心。
後はあの皇帝が、まるで勝ちを譲るように誰かを持ち上げるのも、大変面白くない。
皇帝は、そう簡単に越えられて良い存在じゃない。
だから見定めてやった。
皇帝の強さを誰よりも知っているこのボクが。
ちなみに、これを具体的な言葉にするとこうなる。
——カイチョーの妹って言うなら仕方がないけど、それ相応の勝ち方はしてもらわないとねーっ!!!
という訳で迎えた、選抜レース。
例の妹の、ある意味では初戦。トレーナー選びが決まる最初の競走。
枠番の影響が大きい短距離。大外。不利。
開幕のスタートには驚かされた。
だが道中、先頭から大きく離された最後方を進む例の妹に、こう思った。
何? ここから勝てるの?
彼女は頭が良い。育ちの良い天才である彼女は、活発で子供っぽい印象とは裏腹に、天才と呼ばれるだけの知識と教養の土台がある。
シンボリルドルフの走り方はつまらない、全て同じ勝ち方しかしないと口にする存在に対し、あぁキミはカイチョーのことなーんにも分かってないんだね、と言えるだけの理解力がある。
彼女は、シンボリルドルフが走って来た全てのレースの展開の違い、シンボリルドルフが仕掛けた戦術勝負の推移の全てを、具体的な言葉に表して説明が出来る。
もっとも、やはり子供っぽいところがある彼女は、ムキッー!! と顔を赤くしてプンプン怒る程度に留まるが、皇帝の強さを誰よりも知っていると公言しても何ら否定出来ない地頭の良さと、見定めてやると上から目線の態度に相応しい素質がある事は確かだ。
天才。
身体の柔軟性や走力的な素質に留まらず、歴とした努力を積み重ね、それに裏打ちされた知識と頭脳の土台を持つ彼女は、例えるならそう——無敗三冠すら狙えるほどの天才だった。
天才が天才でなくなるトゥインクル・シリーズの世界でも尚、天才としか呼ばれないような存在が彼女だった。
だから、思った。
無理だろうなと。
拍子抜けですらある。
こんな差、覆せる訳ない。
あーぁ。カイチョーならこんな状況にすらさせなかったのにな。
仮にもあのシンボリルドルフの妹なのに、何をしているんだか。
そんな態度を隠しもせず、溜息を吐く。
頭を下げて、視線を切って、レースから目を離す。
雷霆。
それはかつて、彼女の運命を決定付けたレースでの感覚にも似ていた。
しかし似て非なるものだった。
大差勝ち。
どんなに少なく見積もっても10バ身以上の最後方から仕掛け、逆に10バ身以上の差を付けて、捲り切る。
そんな経験が、彼女にはない。
知識としても存在しない。
静寂。
きっと、彼女以外にも同じ事を思っている人は多かった。
勝てる訳がないと。
だから静まり返っていた。
そして間違いなく、あのウマ娘はこの静寂を愛していた。
胸に両手を当て、ゆっくりと吐息を吐き、レースの熱を鎮める。
瞳を閉じ、空を仰ぐ。
そして小さな吐息を残し、例の妹——シンボリエウロスはターフを去る。
何事をも意に介さない態度のまま。
この光景を見ていた、観客席の全ての存在など瞳に映す事なく。
果たして、その姿と勝ち方に何を口にしたのかを、彼女は覚えていない。
気付けば家に帰っていて、ご飯を食べていて、お風呂に入っていて、そして布団に包まっていた事だけを覚えている。
凄いものを、見た。
きっと、歴史上という枕言葉を付けなければならないほど、前例のない勝ち方を。
今後も見る。或いは今後、もっと凄まじい勝ち方を見る。
それが分かった。彼女は天才だったから。
そして天才である彼女ですら、あのウマ娘の走法と戦術は、全て未知の世界にあった。
——カイチョーの……妹…………。
エウロス。
シンボリエウロス。
似てない。
体付き。風貌。態度。戦術。
一目見た時から違うし、今も違う。
はっきり言ってあの妹は超が付くほどの気性難だし、獰猛で荒々しい部分が常に見え隠れしている。
別人だ。
似てない。
シンボリルドルフとはまるで違う。
彼女が憧れたカイチョーは、その慕う名の通り礼儀正しい生徒会長であった。
シンボリルドルフとて時折見せる感情の揺らぎはあれど、あんな冷たい態度を隠しもせず、周りに振り撒くような獅子ではなかった。
ではこの、胸の裏側がふつふつとする感覚は一体、何なんだ。
どうしてこんなに、心臓の音が鳴っているのか。
——………悔しいんだ、きっと。
分からない。
だから彼女は、そう言う事にした。
皇帝を越えるのはこのボクなのにと、そう思った。
のそのそと布団から起き上がって、カイチョーの妹の事を調べてみる。
自分と同じように、例の選抜レースを見た人の感想を、彼女は自分に取り込みたかった。
——速い。速すぎる。平均から4秒強も速い末脚。最後方からの追込。
そういう事が書いてあって。
——速さの基礎性能が違いすぎる。ズルすぎるでしょ。
そんな事しか書いてなくて。
——あんなの序盤軽く流しても勝てる。流石かの皇帝の妹。
と書いてある文も見て。
——ムキッー!! 末脚が速いだけで勝ったとか思ってるのそれ!!!
と顔を赤くして、彼女は寝た。
勘違いされるのが許されない、という名目でシンボリエウロスのファンクラブ(非公式)に入会もした。
仮にもファンクラブを名乗っている場所で、あの妹が今日行った勝つ為の手段を。
そうあの——自らのたった一つしか存在しない勝ち筋を活かす為だけのような戦術をなかった事にされるのが、許せなかった。
故に決して、他意はない。ないったらない。
ともかく、月日は流れた。
メイクデビュー。ダート戦。1000m。
芝じゃない。あぁ、幼い頃から負担の少ないダートで練習して来たから、初戦はダートにしたのかな。まぁ勝つでしょ。適性があるとかないとかそういう話じゃないし。
シンボリエウロス陣営の思惑と考えの凡そを正解に導きつつ、まぁ調整や試験的なレースだからそこまで凄い事にはならないかな、と思いながらレース場の最前列に座る。
『——シンボリエウロス独走したままゴールっ!』
レコード。19バ身差。
1着から2着までに空いた差が、2着から最下位のウマ娘までの差より広い。
思わずガタッ……と立ち上がって、レース場の縁に手を乗せて、類い稀なる膝関節の柔らかさからなる跳躍力でぴょんぴょんと跳ねて。
ハッ……となって静かに座る。
対抗心である。
べ、別に興奮なんかしてないんだけどっ……!! という。
その後の四戦。
G3札幌ジュニアステークス。
G3小倉ジュニアステークス。
G3函館ジュニアステークス。
レコードではないが6、6、5バ身と勝ち進み、ふーん……まぁ良いんじゃない……? と耳をぴょこぴょこさせながら呟き。
G2デイリー杯ジュニアステークスにて、再度の19バ身差の圧勝。
重賞レースに於ける最大記録更新という偉業を残したレースにて、観客と一緒に黄色い歓声を上げた後、ま……まぁカイチョーの妹だしこれくらいはやって貰わないとね!!! と後方腕組み姿勢を取り。
そして、ジュニア級最後のレース。
G1阪神ジュベナイルフィリーズ。
彼女は見ていた。
最初から、全てを見ていた。
『だが……だが厳しい! これは厳しい!』
外に弾き出され、後方から抑え付けられ、肝心なカーブで接触事故。
審議のランプは灯らない。
そんな。おかしいでしょ。
思わず声を張り上げて、熱くなる。
——これ……不味いんじゃ………。
そんな彼女の熱すら冷却した、圧倒的な波動。凄まじい威圧感。
栃栗毛、或いは尾花栗毛とも呼ぶウマ娘が先頭を抜け出し、しかも凄まじい末脚で駆け抜けている。
対するシンボリエウロス。
ゴールまで残り約350m地点で15バ身後方。
選抜レースでシンボリエウロスは、上がり3Fに於いて20バ身以上の差を付けた。
デイリー杯では、19バ身差で勝った。
だがそれらは残り600mの勝負だからだ。
戦術的攻勢によって得られた、展開の有利不利があったからだ。
彼女はそれを知っている。
きっと、憧れの生徒会長がどれくらい強いのかと同じくらい、良く知っている。
芝。残り2F以下。
この条件で15バ身差を覆したウマ娘は、歴史上に於いてたったの一例すら存在しない。
——このままだと……負けちゃうんじゃ………。
知っている。
追込とは、いつもこうやって負ける事を。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
負けて欲しくない。
このままずっと勝ち続けて欲しい。
本心だった。
彼女はシンボリエウロスが負ける姿だけは、心の底から見たくなかった。
それは、『絶対』と呼ばれるもの。
レースに絶対はない。しかし彼女には絶対がある。
かつてシンボリルドルフがそう呼ばれたように、シンボリルドルフに憧れた彼女は、その妹にも同じものを見ている。
圧倒的な強さを。如何なる逆境すら跳ね返す気高さを。あらゆる状況を支配し、己に従わせる君臨の如き知性を。
そんな『絶対』を覆されたくない。
目を、逸らした。
見たくなかった。
ギュッとレース場の縁を掴み、瞳も瞑り、頭を下げた。
ある四人と違って、彼女は信じきれなかった。
雷霆。
それはかつて——彼女の運命を決定付けたレースでの感覚と、同じものだった。
領域。後に彼女が中央に入学してから知る事になるその名を、彼女は再び見た。
ある日の四人が今までに見て来たものを、唯一彼女だけが、全く同じように知覚した。
『——シンボリエウロスです! シンボリエウロスが勝った! クビ差で勝った!』
シンボリエウロス以外、止まって見えた。
或いはシンボリエウロスしか目に入らなかったとも言う。
だって、それくらい速かったから。
ジュニア級世界最速の上がり3Fと上がり2F。
速さという一指標の世界では、比喩でも何でもなく過去あらゆる全てのウマ娘を敵に回しても尚一番である事を証明したシンボリエウロスは、堂々足る歓声の中で、姉に向かって指を指す。
どうだ、見ているか。
獰猛な笑み。牙を剥き出しにした挑発は、遂には姉のある一面すら表に出した。
それは獰猛な笑み。闘争心が喜悦となって現れた生徒会長のその表情は、翌日の新聞記事の一面を飾り、ついでにそれを生で見たテイオー(ファン会員登録名"ハマノテイオー"からの略)は、心此処に在らずで帰宅した。
彼女はそこから、どうやって家に帰ったかを覚えていない。
気付けばご飯を食べていて、お風呂に入っていて、そして布団に包まっていた事だけを覚えている。
——ハッ………!!
真夜中。切った照明の残滓をぼーっと眺めながら、彼女は正気を取り戻した。
まさか。そんな。違う。絶対に違う。いや、でも………。
そんな事を呟き、口をもごもごさせて、今までの自分を振り返って、彼女は遂にソレを口にした。
——ボク………シンボリエウロスのファンなのかもしれない………。
シンボリルドルフ。カイチョー。大好きなウマ娘。憧れのウマ娘。
もしかしたらそれと同じくらい、妹の方もカッコイイかもしれない。好きかもしれない。実はちょっと……憧れても、いるかもしれない。
——いや、いや………いやいやいや!!
飛び起きて、取り敢えず立ち上がって、頭を抱える。
そんな訳ない。ボクはカイチョー一筋だから。
何よりカイチョーの方がカッコイイし、カイチョーの方が礼儀正しいから。
——でも遥か後方から何十バ身も覆して勝つってすっごくカッコ良くない?
——それはボクもそう思う。
——ギラギラしたシンボリルドルフってすっごく良くない?
——それはボクもそう思う。
ぬ……ぐぐ、ぐぬぬぬぬっ……!
心の中のテイオーと頭の中のテイオーが満足気にうんうんと頷いている現状に、対抗心のテイオーが反発を続けていた。
その後しばらく、うーあーと言葉にならない呻き声を上げ、ベッドの上でグルグルして、足をバタバタさせて、ようやく落ち付く。
大の字になる。天井を仰ぐ。呼吸を整えて、少し吐息を吐く。
——ボク………シンボリエウロスが、好きなんだ。
遥か後方からやって来るあの走り方も。
静寂の中で佇む孤高の姿も。
威圧感と知性が表裏一体となった、あの振る舞いも。
恋はダービー。
恋のドキドキも、レースのドキドキもきっと同じ。
だから彼女の初恋は、シンボリルドルフの日本ダービーから。
そのドキドキを、胸がふつふつとする感覚を、今もまた感じている。
尤も彼女の好きは、敢えて身も蓋もない言い方をするなら、情緒が育ってないガキンチョの好きであって、断じて恋などではない。
ただ生まれも育ちも、そして実力すらも天才であった彼女は、胸をふつふつとさせた事が今までになかった。
彼女はあまりにも天才であるが故に、情緒が育つ機会に恵まれなかった。
だから彼女は、子供っぽいのだ。
ともかく、彼女は渋々ながら認めた。
自分は妹の方にも憧れているのだと。
ボクは、彼女達姉妹を推しているファンなのだと。
「こ、こんにちは……!」
「こんにちは」
という訳で、来た。
何処にと問われたら、春のファン感謝祭。
その企画の一つ、執事喫茶。
「御来店ありがとうございます、お嬢様」
目の前にはシンボリエウロス本人がいる。
しかも勝負服。
明らかに仕える側の服装ではないのと、周囲が執事服なのもあってインパクトが凄まじい。
「お、お嬢様……」
「ご注文は如何なさいますか」
庶民的な感覚を見せる言動や振る舞いとは裏腹に、実家にはじいやがいるレベルの令嬢であるテイオーでも、困惑するほどのインパクト。
また実に認め難いが、憧れているウマ娘から恭しくされるのに全く慣れない。
そんな挙動を右から左に流して普通に接客して来るシンボリエウロスに、慌ててテイオーはメニュー表に視線を向けた。
「(え、何これ)」
そこには、シンボリブランド特製はちみーなる文字。
シンボリとはちみー。この二つの組み合わせに、テイオーの興味が一気にそそられる。
「(え、もしかしてこれ本人が作るの)」
もしやとは思っていた。
注目度故もあってか、シンボリエウロスは明らかに接客業だけを担当しているのだと思いながらも。
だがテイオーからの注文を受けて、早速厨房の方に消えていったシンボリエウロス本人を見て確信となる。
このメニュー、あの人の手作りだ。
ふ、ふーん……? じゃあちょっと見極めさせて貰おうかな。ボク、はちみーにはちょっとうるさいからねーっ!!
と、耳をぴょこぴょこさせながら謎の対抗心を発揮し、厨房で動くシンボリエウロスの姿をそわそわと見守る。
ひらひらと流れる赤いマント。棚引くショートヘア。
時折表に出て来て揺れる、タイトスカート。そして必ず覗く、生脚。
「(細っ………)」
画面越しに見て来た以上に矮躯。何より脚が特に細い。
シンボリエウロスは、中央入学が近付いているテイオーとそう大差がない身体付きをしているが、脚に関しては既にテイオーよりも細かった。
なのに、どうしてあんな速さの末脚を出せるのか。
——メロンパフェをお一つ。
後さっきから、後ろの席ですっごい注文してる子、何なんだろう。
もう五回目なんだけど。
ボクより先にいた筈なのに、まだ食べてるんだけど。
「ご注文の品です」
「あ、どうも……」
思わず後ろを向きそうになって、しかしいつの間にかスッ……と近付いて来て、カタ……とテーブルに注文された品を置くシンボリエウロスにびっくりして、座り直す。
レースでの風貌に反し、普段の佇まいや物腰の挙措は非常に静かなのだから、本当にインパクトが凄いし、場もあって緊張する。
明らかに、高級そうな茶器に注がれたはちみー。
身を硬くしながら、テイオーは一口付ける。
美味しかった。
「(ぐっ……ぐぬぬぬぬっ………!)」
美味しい。
本当に美味しい。
テイオーは普段、硬め・濃いめ・多めのはちみーを愛飲しているウマ娘である。
要は、濃いめの味が好きなのである。
そんな彼女の前に運ばれて来た、シンボリブランド特製はちみー。
配合、超柔め・超薄め・普通+生姜トッピング。
薄めだ。あまり甘くはない。
えぇーっ!! 全然味がしないから美味しくないんだけどー!!
とは、言えなかった。
はちみつの舌触りの良さ。ほんのりと口の中に広がり、そして鼻から抜けていくこの甘さと後味の良さは、単体の飲み物としても既に成立している。
そして50℃前後に温められたこのはちみーは、呑みやすく、凄く喉に良いのが分かる。
これ、めちゃくちゃ品の良いはちみーだ。
しかも薄め・柔めで作る事を想定してる、厳選品の。
テイオー。特技・利き紅茶。
子供用のぶどうジュースが美味しいと思いつつも、数十年熟成のワインの美味しさも分かるソムリエのように、彼女にはこのはちみーの美味しさが分かってしまった。
——まぁ……これは。
——ふふ。驚きですよね。実はこれ、生徒会長が時折嗜むものと同じだと聞きました。
——そ、それなら是非私達の家でも試してみましょう! 紅茶とかがよろしいのでは……!
後なんか、ひたすらにパクパクしてた後ろの子が急に品の良さを出して来て、このはちみーの良さを分かっている風なのが解せなかった。
——特に拘りはないので好きに試して良いですよ。アルダンさんには後で特産地と配合のメモをお渡ししておきますね。
——あ、あの………! 恥ずかしながらお聞きしたいのですが、あの……太ったりはしないのでしょうか……?
——ん……あぁなるほど。痩せる効果があるので気にしなくて構わないと思いますよ。
——痩せるっ!?
——はい。私はこの白湯を日常的に口にしています。
更に、後ろの子がシンボリエウロスと仲良さげに話しているのも、なんか面白くない。
今は、ボクの時間だと思うんだけど。
「——っあの!!」
「はい」
声に応じてすぐに此方側へ振り向き、一歩引いて、立ち止まる。
なんでしょうか。
彼女の呟きと同時に、先程アルダンと呼ばれていたガラス色のウマ娘と、恐らく同門らしきなんか凄い感動してる芦毛のウマ娘との話し声が、急に別世界に感じられるほどに遠くなる。
「ぅ………」
面白いなこの子。
仏頂面の裏で、まさかそんな事を思われているなど露知らず、テイオーはどうしてか緊張しながら答えた。
「すごい……美味しかったです。本当に」
「それは、良かった」
一瞬間を置いて、微笑む。
その笑みに、ぐぬぬっ……! しつつ、テイオーは自分を客観視した。
何でこんなに緊張してんの、と。
もしもカイチョーだったら、こうはならなかった。
ぴょんぴょんと跳びながら抱き付いて、すぐに仲良くなれる自信があるし、そのイメージも出来る。
しかしその妹、シンボリエウロスとは自信がない。イメージが出来ない。
例えるならこれは、お父さんお母さんには甘えられるけど、おじさんおばさんには緊張して甘えられないアレと似ている。
いや……それも恐らく正しくはない。
シリウスシンボリ。憧れのカイチョーの幼なじみである彼女には、ガンガン甘えられる自信があった。何ならちょっかいをかけられるイメージすらテイオーにはある。
小柄。矮躯。無機質。
正直、今の自分とそう大差ない体付きのウマ娘。
似ていない。一見した印象は間違いなく。
シンボリルドルフとも、当然シリウスシンボリとも。
故なのか。
或いは、強い対抗心を抱いていたからか。
テイオーはどうしても、この妹には自分の子供っぽい部分を見せたくなかった。
「(うぅぅ……!! 折角の機会なのに……!!)」
今更だが、実はテイオーはシンボリルドルフと直接出会った事がない。
故に会話をした事がなく、夢を語った事もない。
——ぼくは……ぼくは、シンボリルドルフさんみたいな強くてカッコイイウマ娘になります!
かつての日本ダービー。
シンボリルドルフが憧れとなったあの日、関係者しか立ち入れない記者席にすら彼女は押し入って、直接そう言ったもしもがあったかもしれない。
しかしそれは、何処まで行っても、もしもの可能性である。
シンボリルドルフは彼女の存在を知らず、本名も知らず、一度見た顔は絶対に忘れないシンボリルドルフの記憶の中に、明朗快活な天才は存在しない。
何となくの、焦燥感。
なにか話さないと。
ここまで来て、気にも留められなかったウマ娘の一人になりたくないと感じたテイオーは会話の窓口を探す。
——えぇ。来年には私もトレセン学園に入学します。いずれアルダンさんとも共に走る日が来るかもしれません。
これだ……!
後ろの子が話していたものを聞き取り、告げる。
「あ——あのボク!」
「あ、少し待ってください」
勇気を振り絞って出した言葉を、指貫の白い手袋が遮った。
え……。自分で言うのもなんだけど、今から大事な事を言うんだろうなって子の発言を当たり前のように止める!?
やっぱりボク、シンボリエウロスのファンなんかじゃない!! と、顔をプクーっと膨らませている間に、当の本人は再び厨房から戻り、テイオーの席に戻っていた。
はちみー。恐らく先程自分が頼んだものと同じ、はちみつ白湯。
を、もう一つ席に乗せて。
「よいしょ」
座る。
何処に、と言われたら対面。
向き合うような形で、シンボリエウロスはテイオーの正面に座った。
「では、何でしょうか」
「ぇ……?」
「もう時間は過ぎているので、ゆっくり話して良いですよ」
自分のはちみー。
憧れ(仮)のウマ娘のはちみー。
憧れ(仮)のウマ娘の瞳。
テイオーのフリーズが解けたのは、それらを二往復してからだった。
「——うぇエ゛ェ゛ェ゛……っ!!??」
やっぱり面白いなこの子。
耳が跳ねたり沈んだりの、感情豊かな百面相。
自分がほぼ毎日常に愛飲しているはちみー(シンボリブレンド)で改めて喉を潤して、シンボリエウロスは目の前のウマ娘が先程言いかけた話の続きを待った。
「あの、え」
また一口、飲む。
音が聞こえないほど静かに。
「え………」
その間も、ちゃんと視線は合わせている。
話を聞く視線は取っている。
「ぅ……ぅう……」
縮こまっちゃった。
仕方ない、振るか。
「先程、何か私に言おうとしていませんでしたか?」
「いやそう……ですけどもっ!!」
「落ち着いてから、ゆっくり話して構いません。もう貴方が最後のお客様ですから」
うぇ……? と呟いた後、思わずすぐさま振り返る。
いない。誰も。当然テイオーの心を乱していたあの食いしん坊もおらず、周りの執事服達は片付けに入っていた。
「え、逆じゃないの」
思わずの素。テイオーの誰かに告げた訳ではない呟きに、彼女は反応した。
「いえ。もう時間だからと貴方をせっつくほど狭量ではありません」
また一口を付けて、安心させるように微笑む。
今日、幾度となく幼子達をあやして来たように。
「今日限りの特別です」
人差し指を立てて、秘密ですよ? とでも言いたげな姿に、テイオーは一周回って冷静になり、自覚した。
アレ……これなんかやばくない? と。
まず何がやばいと言われたら距離感がやばいし、多分ファンサービスもやばい。
憧れの現役のウマ娘と、1対1で話し合える事が出来ますなんて機会が、一体幾つあるのか。
現在トゥインクル・シリーズでもっとも注目されているウマ娘。そしてG1の時に着る勝負服の姿で、と条件を追加したら、一生に一度しかないレベルと言っても過言ではないだろう。
「あの、ボク」
こんな機会、無駄に出来ない。
それは、G1のような大舞台を前にして逆に平静を取り戻し、普段の力を最大限発揮するような形で、テイオーは話し始めた。
「シンボリ……エウロスさんに憧れてて」
「姉上のファンではないのですか?」
うぇぇ……見抜かれてる……。
一瞬詰まった言葉の先に、本来如何なる名前が続くのかを察されたのか、テイオーは居心地を悪くした。
ここで、シンボリルドルフさんに憧れているんですと妹の方に向かって口にするのは失礼だと思える協調性が彼女にはあった。
「貴方の憧れがシンボリルドルフであるなら、是非私にも教えてください」
尚、そんな協調性を面倒だからと日常的に無視しているのが、テイオーの目の前にいるウマ娘である。
「聞きたいです。貴方の輪郭のシンボリルドルフを」
「い、いやあの! ボクは本当にエウロス、さんも憧れ……なので」
思わず勢い良く口にして、次に戸惑って、次に萎む。
いっ、言っちゃった……!! と顔を赤くし、俯いたテイオーが恐る恐る顔を上げた時、そこには二回瞳をパチクリしたシンボリエウロスがいた。
「…………」
一口、飲む。
少し
何となくそれを会話のタイミングだと思ったテイオーは、続きを始めた。
「……それでボク、再来年にここに入学する予定なんです。そしてシンボリルドルフさんのような強くてカッコイイウマ娘になる。シンボリエウロスさんみたいな………凄い勝ち方でレースを魅せる。それが、夢なんです」
本心だ。
カイチョーみたいなウマ娘になる。それは変わらない。
変わらないまま、テイオーは更に欲深くなった。
止まって見えた。
シンボリエウロス以外の全てが。
だから、そんなレースをしてみたい。
自分しか目に入らないくらい、誰かをも凌駕するような勝負をして、誰にも勝ってみたい。
「……再来年」
幾許かの時間を置いて、一人のウマ娘の夢を聞いたシンボリエウロスはボソリと呟いた。
「貴方が中央に入学した時、私はシニア2年目になります。そして貴方がクラシック級になった時、私はシニア3年目になる」
「………?」
「貴方がもしも、クラシック級の時に有馬記念に出走するなら、そこには私がいるかもしれない」
それは、シニア3年目を迎えた有馬記念を引退レースとするシリウスシンボリと、今現在クラシック級のシンボリエウロスのように。
「え………」
あのシンボリルドルフですら、引退した。
レースを走らなくなった。
故に、
だから何だと言われたら、それだけの事ではある。
別に、シンボリエウロスはシンボリルドルフの代わりではない。
「少し、私の話を聞いてください」
だからシンボリエウロスは、この子の夢を拾う訳ではなく、自分の夢を話す事にした。
「私の憧れはシンボリルドルフです」
知っている。
ボクよりも近くで、その憧れを見て来た事を。
だからあまり認めたくないが、もしかしたらボクよりも強烈で、具体的で、そして熱心に憧れているかもしれない事を。
「だから私は無敗三冠に拘っています。シンボリ家としての悲願、凱旋門賞よりも強く」
「………うん」
何となく、分かる。
テイオーは、シンボリルドルフに憧れた。
だからテイオーの目標は、無敗の三冠だ。
しかし仮に、シンボリルドルフがティアラ三冠ウマ娘だったのなら、テイオーの目標はティアラ三冠だっただろう。
シンボリルドルフのようになる。
その為の三冠は、究極的には手段でしかない。
「ただ、それだけだったんです」
「…………」
「まぁ私は別に、その事は全く気にしていません。だから何だという話です」
「………んえ?」
ここは、アレではないのか。
自分自身の夢や目標がない、とか。憧れの道程をなぞっているだけ、とか。
そういう悩みを吐露する場面では。
テイオーにはなかった視点ではある。
ただ彼女には、他人の悩みを気遣い、想像して身構えられる優しさがあった。
「そうは思いませんか? 仮にお前は自分自身の夢や自分の核がないのかと言われても、憧れのようになりたいという想いを含めて自分な訳ですから」
「………うん。本当にそうだと思う」
少しの、親近感。
何となく一つの壁がなくなったような気がしたのは、テイオーのみならずシンボリエウロスもそうだったらしい。
少し——例えるなら先程までの幼子を安心させるような笑みではない、嬉しそうな笑みを浮かべて、シンボリエウロスは続けた。
「それにどんな夢や想いを抱いていようが、私達ウマ娘がやる事は未来永劫たった一つしかない。だから気にした事なんてありません」
「たった一つ、って?」
「レースに出る事。そして勝つ事」
「……もしも負けたら?」
「次のレースで勝つ。悩むのはレースの対策を考える時だけで良いです」
「…………夢が叶わなくても?」
「はい。それでも、私のやるべき事だけは変わりません」
「……………」
この時テイオーは珍しく純粋に、凄いなと思った。
圧倒された、と言い換えても良い。
ここまでの覚悟が、今のテイオーにはない。
もしかしたら、未来にもないかもしれない。
きっとテイオーは、一度どうしようもない挫折を経験してから、強くなる。
心の強さが、天才的な素質に追い付く。
「(なんで……)」
強いんだろう。この人は。
この時、恐らく初めてテイオーは疑問を抱いた。他者の強さにだ。
ただ何となく思う。
この人は天才的な素質が、ようやく心の強さに追い付いて来たのだと。
いらない。悩んでいる時間など。
いらない。恐れる心など。
多分この妹には、最初は精神的な覚悟しかなかった。
それも、無益な生を続けるなら、一瞬の閃光に全てをかけて朽ち果てる事を選ぶみたいな、酷く極端なものを。
「夢の話に戻るのですが、私が走る理由にしたのは姉ではありません」
「憧れなのに?」
「憧れは後からやって来ました」
憧れのウマ娘。その妹。
そんな彼女の身の上話には、力があった。
実感に裏打ちされた、強烈なイメージとして。
「私は、初めて大地を駆け抜けた日の感動が忘れられないんです。芝を叩き、風を裂き、音も忘れ、そして光すらも置き去りにしたような、あの感覚を」
それは、光すら届かない静寂の世界。
何もない空を駆け抜けているような感覚。
「私はただ、誰よりも速く走りたかった。あの感覚をずっと味わっていたかった。極端な話、私は走るのを邪魔されるのが好きじゃないんです」
「(………やっぱり)」
テイオーはこの妹の核が如何なる輪郭をしているのかの凡そを、ほぼ正確に理解した。
究極的な自己完結型。
いらない。全部どうでも良い。
走れるから、走る。
一つかけ違えば、夢も目標もなく、ただ無機質に走るだけの存在になる。
勝ちたい相手もなく、競い合いたい仲間もなく。
本来ならそういう意味になり兼ねないもので、彼女は自分の道を塗装している。
——Eclipse first, the rest nowhere.
シンボリルドルフはこれを、『唯一抜きん出て並ぶ者なし』と読む。
他の匹儔を許すな。我々の目指すべきは常に頂点だと、そう答える。
シンボリエウロスはこれを、『エクリプスが1着、2着はなし』と読む。
後ろなんてどうでも良い。誰にも邪魔をして欲しくない。ただ前へ、と答える。
「そういう意味では、私は自分に向けられた応援すらも、どうでも良いと思っているのときっと同じです。本当にそれだけなんです」
「あー………」
確かに、聞いている限りのシンボリエウロスの人物像は、そんな感じがした。
仮に応援されていなくとも、多分黙々と走り続けているだろうし、終始ずっと前しか見てないイメージがある。横も後ろも気にせず。
「でもボク、それでも全然良いと思うな」
シンボリエウロスは、常々姉と比較される。
姉のように三冠をと。姉が叶わなかった、そして日本の悲願でもある凱旋門をと。
ファン層も、そういう人が多い。
姉のレースを見ていた。
その姉が引退して、妹の方のレースを見るようになった。
そういう意味で言えば、女児人気が高いシンボリエウロスは目新しくないが故に、何もかもが目新しく見える幼い子達からの人気が高いと言える。
ここで、姉ではなく『自分』を見て貰う為。
その為に、姉の偉業を越える。
もしもそうなった場合、走る理由としては少し息苦しくなる訳だ。
自分に与えられた評価や視線に振り回されてしまうから。
なら別に良いじゃん。
テイオーは、そう思っている。
何も見ていないような、そんな瞳で走っているんだから。
空を飛ぶって、多分そういう意味なんだと思っているから。
何より別にファンの人に酷い事している訳じゃないし。
意外と結構、ファン対応はしっかりしてるし。
「憧れのようになりたいという想いを含めて、自分な訳なんでしょ? ボクも、同じ。だから良いと思……います」
いや………憧れのカイチョーの、その妹だから見始めたボクが言うべき事じゃないじゃん。
後なんか、普通に話しちゃってるじゃん……!!!??
その事で尻窄みになり、縮こまって俯く。
急に恥ずかしくなって、顔を赤くする。
「私は」
少しの静寂を挟んで、シンボリエウロスは言った。
「多分、ファンの方がいてもいなくても変わらないと思います。でも」
顔を上げる。
テイオーが顔を上げた先のシンボリエウロスは、また笑っていた。
満足そうな笑みだった。
「自分で思っていた以上に、嬉しかったです」
——姉と同じように憧れだと言われたのは。
噛み締めるようにそう告げて、シンボリエウロスは少し身を乗り出す。
テイオーの手を握る。
「貴方の夢を、応援しています。貴方が言ってくれた事に恥じないように、走り続けていこうと思います」
——アレ? もしかしてボク、もの凄いこと言われてない?
——一ファンとしてあり得ないくらいの事を告げられてない?
不意打ち。いや最初に、有馬記念で一緒に走れるかもしれないと告げていた事を考えたら、正面からの不意打ちというものを食らって、テイオーは混乱していた。
後今更ながら、シンボリエウロスは勝負服を着て言っているのだ。
「待っています。貴方と一緒に、走れるかもしれない日を」
「ヒョエ………」
至近距離。
両手を包み込み、祈りを込めるような握手。
恐らく姉がやれば失神する人が生まれそうなそれは、妹がやっても同等の破壊力を持っていた。
その日のテイオーも、気付けば家に帰っていた。
いつの間にかご飯を食べていて、お風呂に入っていて、そして布団に包まっていた。
しばらく眠れなかった。
シンボリエウロスには、もう一人のトレーナーがいる。
それは過去、最初に彼女からの契約を受けたトレーナー。
今では新たに担当となったURA職員のトレーナーの方が有名となり、いつしか元担当トレーナーの存在は記憶の片隅に残る程度になっている。
言われたら思い出すが、言われないと話に挙がらない。その程度。
「うぉあぁぁぁ…………」
だが、確かにいた。
そんなシンボリエウロスの元トレーナーである彼女は、今現在ファン感謝祭の喧騒から少し離れた校舎の外、座椅子の上で項垂れている。
疲れているのである。
春のファン感謝祭の事務仕事をしていたから。
シンボリエウロスと契約解除して以降、その風評が悪いものに働くかもしれない事を危惧した駿川たづな、生徒会長各位の手によって、彼女は中央トレセンの裏方業務やサブトレーナーのような事務仕事をするようになった。
その甲斐があったか、或いは別にそんな事をする必要がなかったかは分からないがともかく、シンボリエウロスの元担当トレーナーに付き纏う悪評はない。
同時に担当しているウマ娘も、シンボリエウロス以降いない。
故にそろそろ担当を持つか、そうではなくとも今後未来契約を結ぶ子は見つけないといけない訳だ。
もうすぐ新学期も始まるし、本人も特にそう思っている。
——担当の子、どうしようかな。
また再び、同じ事で悩んでいる。
元担当。既に別れた彼女はシンボリエウロスに、かつてこう言われた。
私を後悔させて欲しい。貴方を手放した事を悔やむほどに、凄いウマ娘を導いて欲しい、と。
これは彼女の発破である事は分かっているし、だからと言って選り好みする訳ではないが、何となく未だにこの言葉が引っかかっている。
勿論、ウマ娘側からおんぶに抱っこの関係で甘んじるつもりも、もうない。
空を仰ぐ。
空。天翔るウマ娘の世界。
果たして私は、一人のウマ娘を、天まで昇るような子に出来るのか。
「…………ん、取り敢えず動かないと」
悩んでいて、何かが好転する訳ではない。
その事を、彼女は元担当から学んでいた。
トレーナーとしてのやるべき事は、たった一つしかないのだ。
そして立ち上がろうとした時、気付く。
どうやら私は、思いの他長い時間、ボーってしていたらしい。
少し離れた座椅子には、見知らぬウマ娘がいつの間にか座っていた。
「まさか……このはちみつ白湯には痩せる効果があったなんて………!!」
なんか凄い一心不乱に、んく、んく……と何かを飲んでいるウマ娘が。
芦毛。明らかな食いしん坊。
この二つが並ぶと、最近有名になって来たオグリキャップのような気がするが、あの芦毛の子はオグリキャップではない。
特に毛並みが違う。
艶と光沢のある芦毛。
掬えば溢れるような、毛並みの一本一本がきめ細やかなそれは、明らかに品のある名家生まれである事が察せられる。
オグリキャップの芦毛が灰色だとするなら、あの面白そうな子の芦毛は銀色と言ったところだった。
字面から受け取る印象は後者の方が圧倒的に高貴なのに、今こうして実際に見ている印象には、高貴さの欠片もないが。
例えるなら、身長を伸ばす為、必死になって牛乳をがぶ飲みしているみたいな、そんな感じ。
「凄いな………」
ボソリと、呟く。
そんなトレーナーの声が、ウマ娘である芦毛の彼女にも聞こえていた。
ちょっとテンションが上がる。
芦毛の彼女は、トゥインクル・シリーズ最大級の名家生まれである。
しかし本家ではなく分家。今現在の注目度合いでは、やや同門の子達に劣る部分があった。
実力の面でも、まだ伸び悩んでいる箇所がある。
その事を、気にしていないと言えばウソになる。
——メジロ家。
必ずや、この光の一族に名誉と栄光を。
そんな気持ちが、芦毛の彼女にあった。
だから実際に、中央のトレーナー業に携わっているだろう人からの高評価を貰うと、普通に嬉しい。
そういう意味で彼女は名門生まれながら、感覚がとても庶民的だった。
尚全く以っての余談だが、彼女の趣味は野球観戦である。
かっとばせー!! という自分の寝言で起きることもある。
ちなみに起きない場合、かっとばせー!! ユ・タ・カッッ!!!! と続ける。
ともかく彼女は、小さな事にも一喜一憂出来る子だった。
耳がピコン! とトレーナーの方へ向いた後、ぴょこぴょこと跳ねる。
ニヤリ。どうやら自分の素質が悟られてしまったらしい。
ふふふと微笑んで、髪をサラっ……としてみたり、今しがた飲んでいたはちみつ白湯(お持ち帰り用の蓋付き紙コップ)を優雅に口元へ運んでみたりする。
——凄いな。
まさかその言葉に続きがあるなんて、彼女は思ってもいなかった。
「太れる才能があるんだ………」
——コフッ……。
その音が何かと問われたら、咽せた音である。
優雅に口付けていた姿勢のまま、勢い良く。
しかし彼女は、メジロ家のウマ娘。
こんなところで醜態を晒す訳にはいかない。
ダラダラと白湯を溢す訳にもいかない。
だから、耐えた。
渾身の力を以って、口を閉じた。
そして故に、一切の力の逃げ場を失った彼女は、まるで一撃KOを喰らったボクサーが如く倒れ込んだ。
「だ、大丈夫っ……!?」
今更なのに優雅な姿勢を取り、そしてその姿勢のままバタリと倒れて蹲った、恐らくめちゃくちゃぶっ飛んでいる芦毛のウマ娘に、思わず駆け込む。
咽せる。飲料が器官に入り込み、呼吸を崩す。
喉。呼吸器への負荷。
その危険性を、彼女はとある事情により熟知している。
「貴方……」
大丈夫だったらしい。色々な尊厳に目を瞑れば。
ゆっくりとおどろおどろしく、芦毛のウマ娘はトレーナーを睨んだ。
「なんなんですの……いきなり………」
芦毛のウマ娘は、仮にも乙女である。
こんな真正面から、そんなことを言われた経験は当然ながらない。
しかも同じ女性の人から言われた。
太れるんだ。凄いな、と。
もう、泣く。
見抜かれたショックと羞恥心と、普通にデリカシーの無さに対する怒りで。
尚トレーナーである彼女はとある事情により、太れるという事が如何にウマ娘にとって重要な素質と才能であるのかを正確に理解していた。
だから、続けた。
もしかして伝わらなかったかな、と。
「え、いや。太れる才能があるんだなって」
「本当になんなんですの!?」
「まず最初に、貴方が飲んでいたはちみーだけど」
「え……あっ、はい……」
突然、トレーナーとしての神妙な瞳が芦毛のウマ娘を貫いた。
いきなり雰囲気が変わり、そして真剣に説明を始めたトレーナーに、彼女は思わず身を正してしまう。
相手の事情を敢えてガン無視して会話を続ける、独特の圧縮言語に芦毛のウマ娘は慣れていない。
「それ、普通に太るよ」
「えぇっ……!? で、でもあの………シンボリエウロスさんが、痩せる効果があると仰っておりましたのに!!」
「あぁ……。それね」
一瞬の不意。
視線を遠くし、言葉を止める。
僅かな間を置いて、トレーナーは答える。
「シンボリエウロスだから、痩せるんだよ」
「な——」
絶望。
私、どれだけ食べても太らないんだよね、と口にする恐怖の存在を目の当たりにしたかのような圧倒的敗北感。
やはりシンボリエウロスとは、そこまでの存在なのか。
しかし彼女は、仮にもメジロ家のウマ娘だった。
初対面且つ失礼なトレーナーの言う事を真に受けるほど単純ではない。
「何故です!」
「はちみつ白湯が痩せるのは、血糖値を緩やかに上昇させるのと、成長ホルモンを分泌する効果があるから。脂肪を燃焼し、筋肉量を増やす働きがあるから」
トレーナーは、淡々と続けた。
要は10取ると20痩せるのが、シンボリエウロスが愛飲しているはちみーである。
尚150取っても、20しか痩せない。
当たり前だが、どんなものでも取りすぎるのは良くないのだ。
「他に口にしたものはある?」
「メ、メロンパフェを………」
「いくつ?」
「8つ………」
メロンパフェ。春のファン感謝祭規格、約250g。推定約500kcal。
それを8つ。合計約4000kcal。
まぁ正直、カロリーは良い。
ウマ娘は人間とは比べ物にならないエネルギー量を必要とする。
ただメロンパフェに含まれている、脂質・糖質・コレステロールの量は無視出来ない。
一つ食べるだけで、成人女性が一日で摂取して良いそれらの量の⅔を秘めているメロンパフェを8つ。
当然ながら、脂質・糖質・コレステロールは肥満に繋がる代表的な栄養素の一つである。
「それだけ?」
「……………はい」
「なるほどね」
「な、何がなるほどなんですの……!?」
「具体的には他に何を食べたの?」
『洞察力⚪︎』『切れ者』『気配り×』『愛嬌×』『圧縮言語』
とある事情によりこの一年で獲得した、恐らくそんな感じのコンディションを発揮しつつ、言葉によってトレーナーは詰め寄る。
芦毛のウマ娘が誤魔化しきれなくなるまでは早かった。
「……………桜餅と、あんみつと………どて煮を」
あぁ、もうダメだな。
正直はちみつ白湯など意味はない。
というか充分すぎるほど糖分は取っているし、血糖値的に見ると無駄どころかマイナスだ。
そういう事を理路整然としっかり伝えられた芦毛のウマ娘は、まるで家が火事で燃えたみたいな表情で、顔を青くした。
「——そ、そんな」
面白いなこの子。
トレーナーは、素直にそう思った。
明らかな名家の生まれだと分かるのに、とても感情豊かで、一喜一憂が激しい。
そして、こうやって話していて分かる。
咽せてから回復するまでの喉の強さ、類稀なる肺活量の潤沢さ。
そしてずれた呼吸が元に戻るまでの、心拍の強さ。
以前担当していた、あの子とはまるで正反対。
「私は、今からどうすれば……!?」
「まぁ……ある程度メニュー表は作れるけど………」
その言葉に、まるで縋り付くような希望を見せて、途端にキラキラと表情を明るくする芦毛のウマ娘。
太りやすい。コンプレックス。
だから痩せたい。痩せる効果が欲しい。
そんなところだろう。
「でもね、これだけは誤解しないで欲しいんだけど」
だがどうしても、トレーナーとしてこれだけは言っておかねばならなかった。
「太れるっていうのは歴とした才能だから。大丈夫、安心して。貴方は簡単に肥える」
「だから——!! なんで貴方はっ!! どうしてこうデリカシーがないんですの!!??」
何か一つずれている、素っ頓狂なこの二人。
だからきっと、互いに互いを完全に理解し合った『一心同体』のような関係になったら、彼女達は強くなる。手に負えなくなる。
そしてだからこそ、この光景を——後のトゥインクル・シリーズのファンに見せたら、間違いなく信じられない顔をした。
当の本人達に見せても、きっと苦笑いをする。
こんな出会いが、運命の出会いだったなんて、と。
——私を悔やませてください。シンボリエウロス生涯最大の天敵と呼ばれるようなウマ娘を担当して。
かつて、シンボリ家の最高傑作はそう言い残した。
元担当トレーナーである彼女に、そう告げて契約を解消した。
その言葉は奇しくも、一切の形も変わる事なく実現する。
——絶対の強さは時に人を退屈させる。そういう言葉は、最高の褒め言葉なんですよ。
かつて、シンボリ家の最高傑作はそう言い残した。
元担当トレーナーである彼女に、そう告げて契約を解消した。
その言葉すらも、一切が変わる事なく実現する。
絶対の強さは時に人を退屈させる。
その言葉は、彼女に与えられた。
絶対という言葉は、長いトゥインクル・シリーズの歴史に於いて、かの『皇帝』と彼女にしか与えられなかった。
彼女はあまりに強すぎて、ケチを付けるところが本当にないくらいに完璧で、捨て台詞のようにレースがつまらないとしか言われなかった。
相手が地の果てまで駆けるのなら、私は天へ昇る。
彼女は翼を持たざるのに、さも当然の如く空へ至れるウマ娘だった。
彼女には、空の果てが似合っていた。
「本当に、一体なんなんですの!? 貴方は!?」
彼女の名前はメジロマックイーン。
メジロ家の最高傑作。史上最強のステイヤー。
しかしそんな二つ名よりも大きく、そして当の本人からも畏怖されるように——後に『シンボリエウロス生涯最大の天敵』と呼ばれるウマ娘である。
⚪︎
絶対の強さは時に人を退屈にさせる。近代型ステイヤーの完成系。史上最強のステイヤー。メジロの最高傑作。天まで昇ったウマ娘。それはシングレ時空に於ける一つの可能性。若き日のメジロマックイーン。