60万文字使ってようやく皐月賞が始まる二次小説があるらしい。
東京芝2000。
弥生賞と全く同じ条件で行われる本レースは、当然ながら押さえなくてはならないポイントも弥生賞と同じである。
スタート直後、僅か数十m先にある第2コーナー。
角度は直角。コース設計から生じるレース展開の難易度はトゥインクル・シリーズの中で最高。転じて最悪でもあり、極端な話をするなら東京2000という舞台で行われるレースの展開はこの第2コーナーでの推移が半分以上を占める。
ここでの争いは、最終的な着順をも一気に左右するレベルで重い。
誰が逃げるか。誰が先行するか。
はたまた、差しが積極的に前に詰めて来る展開も予想される。
内枠側と外枠側にて、如何に有力な先行型のウマ娘が配置されているかの脚色分布も含めれば、東京2000のレース展開はあらゆる展開にも化け、予測は極めて困難。
前走の弥生賞ではその危険性を考慮した結果、逆に誰も仕掛けなかった。
手を出せば、一気に展開が荒れる。
先の分からない血みどろの争いをするしかなくなる。
それが分かっていた。戦場に於ける空白地帯にも似たある種の不可侵。
絶対に越えてはならない一線が、弥生賞にはあった。
『——4枠7番!!』
だが、今日は違う。
前走の弥生賞で驚くほど淡白なレース運びをした一人のウマ娘は今日、一切の躊躇もなく——ここで他のウマ娘を終わらせにかかった。
『唯一の単枠から飛び出して来た、青の7番ッッ!!』
それは先行潰しの二つ名を持つウマ娘。
彼女の名前はシンボリエウロス。
単枠指定。1番人気。追込。
最近のシンボリエウロスは、先行潰しのイメージがない。
阪神JFではディクタストライカとメジロワースに防がれた。
共同通信杯では先行勢の好きにさせ、逆に超スローペースからぶっちぎった。
弥生賞では、何故か何もして来なかった。
しかし本来、彼女は極端なほど攻撃的なレース構築をするウマ娘である。
最初から最後まで常にレースの展開を手中に収め、そして封殺する。
その極みが19バ身差で勝ったデイリー杯ジュニアステークスと言っても良い。
——シンボリエウロスを追込と表現するのはもうやめよう。彼女は彼女だ。それ以上でもそれ以下でもない。
あのウマ娘は逃げとか先行とか、そういうものに則ってレースをする存在ではない。
誰もが思い知った。だが変幻自在と呼ぶには彼女の勝ち方は決まり切っている。
——彼女は常に、決まった距離からスパートを始めるタイプのウマ娘だ。
それは、究極的な自己完結型。
脚質に縛られず、周囲のウマ娘達のペースにも縛られず、しかし自らに課した縛りにのみ適した動きをする完成形。
つまり彼女は、自分以外の全てをレース設計の指針にしない。
他のウマ娘がいるとかいないとかも、極論どうでも良い。
故に彼女が末脚を使うタイミングだけは絶対的に変わらない。
これと全く同じ事を、17名のウマ娘全員が事前にトレーナーから教えられていた。或いは自力で辿り着いていた。
知っている。
分かっている。
だから周囲のウマ達に驚きはあれど、予想外ではない。
分類としては追込ウマ娘になるシンボリエウロスが、序盤で前に詰めて来ても。
前走の弥生賞では、後ろに控えていても。
だが。
「くっ……本当に——」
予想の範疇ではあっても、対応が出来る訳ではない。
「——速さの次元が違うっ!!」
『何という突出具合! 一足先にシンボリエウロスが先頭へ抜け出しました!!』
瞬間的な加速による反動が鋼のゲートを軋み上げ、一人のウマ娘の叫びを掻き消した。
実況がやはり触れるのは、シンボリエウロスが持つある一点の突出性。
それは種族の生存戦略的な観点から見れば、間違いなく保有していてはならない速さ、に由来するであろうスタートダッシュ。
シンボリエウロス以外は、その速さを持っていない。
だからレース展開の攻防もなく、シンボリエウロスが先頭を奪った。
『シンボリエウロス先頭! 2バ身前!』
やはりまた、シンボリエウロスは2バ身の差をスタートで叩き付けた。
その後の展開は同じ。というか、先頭を取ったウマ娘がやる事はまず絶対的に同じ。
内に付けて、切り込む。
最終的な走路距離を短くする最効率は、綺麗にコース取りをする事だ。
『シンボリエウロス内側に——』
切り込むだろう。
刹那刹那で状況が変わるウマ娘レースを解説する……そんな生業を仕事に出来る実況の声が、一瞬止まった。
『——切り込まない!』
東京2000最大の問題点である直角カーブ。
対応を間違えばその時点で1着の可能性がなくなる極端なコース設計の上で『暴風』は自身の優位性を一切維持しなかった。
実況の予想を裏切った1番人気。
早速、複雑化していくレース展開にざわつく観客達をよそに、シンボリエウロスを先頭にしたウマ娘達は第2コーナーに入る。
シンボリエウロスが進んでいる進路は、いわば中枠。
ただ円に沿って進んでいるばかりで、直角に等しい第2コーナーのカーブでは外に振られ斜行しているのかと疑わんばかりの進路。
インを取らない。
緩やかにカーブを曲がりながら、自分より内側のウマ娘が安全且つ確実に内枠を取り、自分を追い抜こうとしていくのを彼女は見守っている。
2バ身の優位性を、彼女は早速もうここで消費し切っていた。
——コイツ……ッ!!
その被害をまず最初に受けたのは、シンボリエウロスの隣のウマ娘。
彼女の名前は、ブラッキーエール。
4枠8番。7番人気。差し。
かつてデイリー杯で完璧なレースをされた彼女は、再びここでもシンボリエウロスの手によって厳しい展開を強要された。
ブラッキーエールは内へと切り込みたい。
この直角カーブである第2コーナーを安全に迎えたい。
しかし隣にいるシンボリエウロスが内へと切り込まず、壁になって邪魔なのである。
ここでシンボリエウロスは最初2バ身も前にいたのだから、その後ろを通過し内へ切り込めば良い、と言いたくなるかもしれない。
だがその後ろにも壁がいた。
その壁となっているウマ娘の名は、メイブレーブ。
3枠6番。16番人気。先行。
——やりやがった……。
メイブレーブには強い想いがあった。
何が何でも前を取る。内側へ切り込み、インを取る。
16番人気。自分が劣っている自覚があった。
だからレース運びやレース展開の攻防でも劣れば絶対に勝てない。
彼女にとって、序盤で抜け出すのは絶対事項だった。
最悪——進路妨害で失格を貰ったとしても仕方がないと思うほどに、彼女は気が入っていた。
——こいつ………やりやがったッッ!!
それを、そっくりそのまま、シンボリエウロスにやられた。
進路妨害。開幕スタートと同時に半歩だけ左に切り込み、メイブレーブの前を塞ぐ。
シンボリエウロスはメイブレーブを後ろの壁にした。
尚この進路妨害が失格になるのかと言われると、ならない。
まずウマ娘レースに於いて、後続のウマ娘の進路を妨害するのは違反である。
降着措置を受ければその時点で1着の資格はなく、また悪質な場合は数ヶ月単位での長期間出走禁止も課せられる。
最悪は無期限の出走停止といった措置もあるなど、基本的に罰は重い。
しかしウマ娘レース中に立ち位置の攻防などで前が塞がる事は、当然ながらありふれた話だ。
後方からの追い上げが先行勢に防がれたり、スローペースや横長の陣形で差し・追込ウマ娘の末脚を押し込めるのは日常茶飯事で、それに違反が課される事はない。
では進路妨害と、それらのブロックの違いは何か。
これは分かりやすく極端に例えた場合、車両の通行問題と良く似ている。
妨害運転罪。俗称、煽り運転。これは違法となる。
ただ後方からの追い越し、追い抜き、車線変更等は別に違法ではない。
それら違いはどうしても主観的なものに左右されるが、具体的に明文化するなら、不用意に車線を斜めに走行して後続の車両の通行を妨げる行為や、それを意図的に繰り返す行為。また急停止による後続車両への急ブレーキ・急ハンドルの強要等などの差が、それらの違いに当たる。
要は急ブレーキや急ハンドルのような、後続のウマ娘に反射的な回避行動を行わせるのが違反となる進路妨害なのだ。
だからウマ娘レースの位置取り争いに於けるブロックでは、まず審議のランプが灯らない。
車両の通行問題で例えるなら、それはただの渋滞である。
「お前…………」
無論、たとえ意図的に計算されて作られた渋滞なのだとしても。
「お前…………っ!!」
メイブレーブは叫ぶ。
彼女は進路を失った。
シンボリエウロスが瞬間的に加速し、前を取り、そして速度を緩め、彼女から加速して前に出るという選択肢を消したからだ。
左右に避けようにもこの渋滞では道がなく、安全性もない。
直角カーブで、急な斜行をして前を避けろと言うのか。
この時点でメイブレーブの勝利はない、と言えかねないレベルでの妨害だった。
だが、審議のランプは灯らない。
反射的な咄嗟の判断は行わさせておらず、事前に予測出来るほど圧倒的に突き放していれば、それは進路妨害ではなく通常のブロックと同じ処理がされる。
シンボリエウロスは、2バ身前だ。
この状態で接触事故を起こした場合、審議のランプを貰う可能性が高いのは、事前に予測出来ていた筈なのに後方から衝突したメイブレーヴの方だった。
それは日本という国のレース形態では滅多に見られない——例えるならラビットの逃げウマ娘を初手で再起不能にさせるような、非常にクレバーな戦術。
かつての『皇帝』が、とても礼儀正しかったと思い直すほどの攻撃性。
無敗と三冠が両方かかっている中、一歩間違えば自らが違反を貰って1着が消される策に、彼女は戸惑いもなく心中している。レース設計の軸にすらしている。
「お前ぇぇぇっ!」
メイブレーブは、吠える。吠え続ける。
ふざけるなよ。16番人気だ。
どう考えても、潰すのはまずは私からではない筈だ。
しかし、シンボリエウロスにそれは届かない。
そして無情な事だが、シンボリエウロスは別に彼女を潰したかったから潰した訳ではない。あくまでこれはレース設計の軸。次手の布石に利用したかったから隣のウマ娘を利用しただけ。
「………………まさか」
その目論見を最初に看破したのは、6枠11番。ヤエノムテキ。
スタートしてからまだ10秒以下。
少し外から、この光景を見ていた彼女が一番先に気付いた。
そして気付いたからと言って、どうしようもない事がある。
6枠11番。
彼女はシンボリエウロスよりは外枠である。絶対的にだ。
その差、内枠と外枠の有利不利の相性が、東京芝2000の第2コーナーという場所でヤエノムテキに襲いかかる。
「ぐっ——……」
押される。外側へ。
それはコーナーでの遠心力による影響もあったが、もっと根本的な話。
彼女は内枠のウマ娘から肩を押されて、外に振られていた。
誰に押されたかと言われれば、6枠10番のウマ娘に。
そして6枠10番は5枠9番に押され、5枠9番は5枠8番のブラッキーエールに押され……そしてブラッキーエールは4枠7番のシンボリエウロスに押し込まれている。
競り合い、と言うものではない。
シンボリエウロスは基本的に競り合いでは勝てない。
ただ深刻なほどに、内円と外円による有利不利の差が大きかった。
ブラッキーエールは、シンボリエウロスに一歩間に合わない。
その一歩は、外に行けば行くほど深刻な差になる。
シンボリエウロスが意図的に起こした渋滞は、4枠7番から外のウマ娘達全員の足並みを完全に止めた。
『外から5枠8番ブラッキーエールが迫るが、やはり厳しいか!?』
直角に等しい第2コーナーが終わる。
最悪。そう表現しても構わないレース展開を迎えて。
『現在先頭は、内から突いて来た1枠1番のメジロアルダン! メジロアルダンが今ここで先頭に立ち、次いで1枠2番の逃げウマ娘モガミファニーが——』
揉み合いやぶつかり合いによる消耗を、既に大半のウマ娘が喰らった。
それを察知して後ろに控えて避けた代わりに、最後方へ沈められた逃げ・先行ウマ娘達もいる。
この時点で、自らの脚質に合ったレースが出来るウマ娘は半分もいない。
自らの脚質に合ったレースでないと一気に崩れるウマ娘は、もう1着争いから外れた。
設計上問題視されている東京芝2000のレース展開を、そのまま最大の形で現実に引き摺り下ろしたシンボリエウロスは、向こう直線に入った段階で順当に結果を見据える。
「(よし。これで大体のウマ娘は終わった)」
恐らく進路妨害を厭わないほどに前に出て来る3枠6番のメイブレーブ。
彼女を抑えつつ、同じく進路妨害による赤ランプを気にするくらいなら、一か八かで仕掛けて来る5枠9番のマイネルフリッセを、5枠8番のブラッキーエールごと潰した。
この直撃による被害を受け、6枠11番のヤエノムテキは13番手近い位置に。
そして8枠16番に収められたあのモガミナインを、凡そ15番手の位置に沈められたのも大きい。
また序盤のレース展開で負けた逃げ・先行ウマ娘は普段通りのパフォーマンスが出来なくなり、この序盤での負債を取り返すべく中盤で順位を上げても、10バ身相当を覆す分の消耗をしなくてはならなくなった。
並のレースなら、最下位になってもおかしくないレベルの消耗を大半のウマ娘に強要させたのである。
形としては最高の戦果と言って良い。
「(ヤエノムテキとモガミナインも終わりで良い)」
故に無情に、彼女は2人のウマ娘を意識から切った。
モガミナイン。もしもの皐月賞に於いて、運から見放された1番人気。
ヤエノムテキ。もしもの皐月賞を制し、見事皐月の季節に八重桜を咲かせた、最も速いウマ娘。
後者。特にヤエノムテキは本来の勝者なのだから最優先で警戒すべきだ。と言われた場合でも、シンボリエウロスは憂慮なく意識から切っただろう。
枠番。東京芝2000という運が絡む極端な設計。そしてレースの展開。
1枠1番であれば、運命というものを感じてヤエノムテキを恐れたかもしれない。
だが今日は違う。
ヤエノムテキは6枠11番で、18名立てとなった今日この皐月賞では中枠だが、13名立てだった前走の弥生賞からすれば、ほぼ大外に近いレベルの外側の枠に彼女は回された。
この有利不利を特に理由もなく覆して来るほどの運命を、シンボリエウロスは感じていない。
ヤエノムテキは、ヤエノムテキだ。
ヤエノムテキは今、決して皐月賞ウマ娘ではない。
故に、それ以上でも以下でもない。
オカルトに懐疑的な反応をする樫本理子をトレーナーとするシンボリエウロスは、同じくオカルトを重要視していなかった。
領域、というものにほぼ生まれ付き触れていた上で、彼女はまず現実的な視点からレースを構築する。
「(1枠1番………)」
故にシンボリエウロスが次に見据えるのは、この場面で有利なレースを進めている内枠のウマ娘達。
その中の一人、抽選で滑り込んで来た盤外のウマ娘。
本来はヤエノムテキに与えられる筈だった枠にいる、ガラス色の少女。メジロアルダン。
枠番を考えれば、最も警戒に相応しいウマ娘は彼女である。
しかし、それでも。
「(このままなら、普通に私は勝つ)」
既にもう、必要な仕込みは終わっている。
事前の布石は、特にまだ何もされていない。
シンボリエウロスは足並みを緩め、自分を抜き去っていった内枠のウマ達を視界に入れつつ、順位を少しずつ下げていった。
『序盤の趨勢が決まった、と言ったところでしょうか! 第3コーナーを先に控え、ウマ娘達は凡そ600mに及ぶ向こう正面を駆け抜けていきます!』
——注目のシンボリエウロスは、何と9番手! 今日は差しのつもりなのでしょうか! 先頭から13バ身ほど離れた場所で不気味に前を見据える!
そんな実況の声が終わって、本レースは凡そ500mを通過した。
残り1500m。現在向こう直線。
現在先頭は、1枠2番から抜け出したトリックスター。
2番人気の逃げウマ娘。モガミファニー。
その横、最内を守りながら¾バ身後ろ。
メジロアルダン。2番手。
サクラチヨノオーは、4番手。
先頭から5バ身離れた場所を進む。
ヤエノムテキは13番手。
何と先頭から19バ身離された後方に彼女は抑え付けられてしまった。
そしてモガミナインは完全に沈められ18番手。
先頭から28バ身も離された最後方である。
先頭から最後方まで、何と28バ身。超縦長の陣形。
シンボリエウロスによって大きく削られた外枠のウマ娘達は、直線で立て直しをするか否かの二択で追い詰められている。
——多分、大逃げなんだ。
その中、あくまで立て直しが必要ない有利性を獲得している、前方の集団の1人。
先頭のモガミファニー。
彼女は、トリックスターとしての自分を捨てた。
2番人気。
シンボリエウロスの次に勝つ可能性が高いと思われている彼女は、しかし自分自身を全く信じていない。
彼女は一度も掲示板を外した事がない。常に5着以内。安定している。
ただこれと矛盾せず且つ無慈悲に彼女の成績を表現すると、モガミファニーは1着の経験が少ないとも言える。
9戦2勝。
勝ち星はメイクデビューと、ジュニア級の頃に上げたOP級。
共同通信杯で、シンボリエウロスとオグリキャップの3着。弥生賞でシンボリエウロスの2着。だから評価されている。
信じられる訳がなかった。
トリックスターと表現される程度には自分は考える頭があると喜んで、そんな自分を、片手間で凌駕するウマ娘が彼女の敵だった。
事実今、片手間で7割のウマ娘を再起不能にした。
——シンボリエウロスのあの走り方。それと対になるのは、大逃げだけだ。
考えに考えた。
頑張りに、頑張った。
トレーナーを交えて議論して、同じチームの子から励まされて、祈願のおみくじで大吉を出して、皆で喜んで。
それで勝てない。
全く、勝てない。
寝る間も惜しんでようやく出した勝ちの目を、僅か十数秒の攻勢で潰して来る。
頭も、努力も、片手間で全て凌駕されて、才能で差し貫いて来る。
ずっとずっと、遥か彼方の後方から。
だから、捨てる。
捨てなきゃ、勝てない。
僅かな可能性で1着を取るか、無様に失敗して10着以下に沈むか。
失敗すればきっと後になって、何でそんなバカな事をしたのか、なんて指を差される大博打。
だけど冷静に考えれば、シンボリエウロスはそんな意味の分からない勝ち方しかしていない。
彼女が、それを当たり前にした。
世間では最強の戦術だとなんだと言われるほどに、あの指を差されるくらいにおかしなあの追込は、どう考えてもあり得ないレベルの博打を成功させ続けたものだ。
だから、あのふざけた追込と反対の事をする。
ハイペース。更にその先の、超ハイペース。
後続をあり得ないほど突き放した大逃げ。
スローペースで抑え込むとか、もう知らない。
自分が最後まで持つかとか、そんな事も知らない。
ただ、前に行く。
あの射程距離から外れるほど遠くへ。
どうやっても何も出来ないほど、遠くへ。
『ここで先頭のモガミファニーが後続を突き放しにかかる! 向こう直線の下り坂を使って、前へと進みます!』
その、鋼の覚悟を。
「ごめんなさい」
鋼よりも硬度を持つ——ガラスの少女が止めた。
「それは、やめて貰えますか?」
彼女の名前は、メジロアルダン。
14番人気。先行。
「——!?」
『しかしここで、メジロアルダンも来ましたっ! 内から進路をこじ開け、前に立ったっ!!』
順位が入れ替わる。
先頭がメジロアルダン。その半バ身後ろにモガミファニー。
モガミファニーは予想していなかった。
それは自分よりもまずシンボリエウロスがマークされているだろうという考えもあったし、"内から抜き去られた"のが大きい。
内から先頭を抜く。
内から前を交わす。
それが如何に難儀であるのかは、何らかの競走を経験していれば必ず分かる筈だ。
前の何かを抜くのは、普通は外から。
内には柵があって、外にはない。
しかしメジロアルダンは、確かに内から抜いた。
少し外に振れれば、衝突する。
少し内にずれたら、柵と接触する。
1枠1番。最内。
常にコーナーの柵ギリギリを守り続け、それ故にモガミファニーに対して確保出来ていた、ほんの僅かな膨らみを彼女は貫いたのだ。
メジロアルダンには、才能がある。
それは真っ直ぐ走れる、という才能。
極めて単純で、誰もが出来て至極当然だと思っていて、しかし大半のウマ娘は疎か人間にすらも出来ていない才能。
コース取りに関して、彼女は姉君のメジロラモーヌよりも綺麗で、そして巧い。
メジロ家全てのウマ娘の中で、最も巧い。
「(少し……腕を掠った。使いたくない場面で一歩分前に出てしまった)」
だけど——今はこれで良い。
そう考えるメジロアルダンの横で、モガミファニーは先程の勢いが止まっていた。
彼女は元より、競り合って来られる展開に弱かった。
怖いのである。特に想定外の事が起こると、びくっ……! と反応して驚いてしまい、身体が硬直するタイプだ。
だからこそ逃げの脚質を選び、想定外の事が起こらないようにレース展開を作るトリックスターへと彼女は相成った。
彼女の強さは、逃げで発揮される。
同時に彼女は、逃げだからこそ崩されやすい。
モガミファニーから加速が消える。
無意識の恐怖故、メジロアルダンから距離を取り、外に振れる。
そして目の前にあるのは、上り坂。
第3コーナー手前にて控える、凡そ100mで1.8mを上る勾配。
足裏から伝わる、上り坂に入った感覚が彼女を更なる焦りの渦へと叩き込む。
「(——あ、これ、やばいかも)」
上り坂にしろ下り坂にしろ、坂では脚に伝わる負荷が変わる。
またストライドの距離が変わり、故に走法が変わる。
彼女の脳裏に浮かんだのは、ここから自分が取らなくてはならない選択肢。
二段階のスパート。
それは——現在はオグリキャップくらいにしか許されていない、加速の仕方。
モガミファニーが再び先頭を取るには、足腰の使い方が変わる坂に入った段階で、再加速する必要がある。
出来ない。
出来る訳がない。
出来ても、やれば、勝てない。
ここに来てモガミファニーの聡明さが、彼女自身から根性を奪い去った。
自分を捨て、博打に近い破滅的な大逃げを挑む覚悟に亀裂が入る。
同時にモガミファニーから、1着の可能性が少しずつ消えていく。
『ここで800mを通過! 先頭はメジロアルダン、通過タイムは48.1秒!』
そうして多くのウマ娘の思惑を内包し、拗れに拗れたラップタイムの総合的なペースは平均、ほぼミドルペースとなった。
極めて縦長で進むウマ娘達の陣形の前で、その指針を普段通り使って良いのかは甚だ疑問だが、ここでウマ娘達の攻防はひとまずの膠着を挟む。
残り200mで第3コーナーに入る。
そこから第3コーナー、第4コーナーとかけて最終直線504.2m。
ゴールまでは残り1200m。
現在シンボリエウロスは、先頭から14バ身離れた位置にいる。
向こう正面では受けに回り、少しずつ順位を後方に落とした彼女は、ひたすらに先頭を注視していた。
「(……モガミファニーとメジロアルダンが勝手に争いを始めたのは良い。このままなら勝てる事に変わりはない。だけど、メジロアルダン——)」
——何を考えている?
無論、勝つ為の方法を考えている事は分かるが、その内容が分からない。
皇帝の二つ名を持つ姉が贔屓目無しに賛美し、片手間で他者の機微を察する能力を持つ然しもの彼女でも、限度はあった。
思考の、隙。
常に吹き荒れる暴風のような存在であった彼女の風が一瞬止まる。
恐らくそれは、レースの中ではほんの僅かな刹那なのだろう。
次の瞬間には、シンボリエウロスは動き出しておかしくない。
だが、確かに風が弱まった。
そんな隙を貫き、自らの強さを押し付け続ける"特別"を追い詰めるのはやはり——誰よりも自分の弱さに向き合って来た、普通のウマ娘だった。
『ここで——ここで、サクラチヨノオーが動いた!』
現在、第3コーナー直前。
残り1200m。
◯先頭から最後方まで28バ身。
そんなに縦長になる事ある? と思うかもしれないが、実はこれ1988年の皐月賞では本当の本当に起きた出来事。
本作のレース展開とほとんど似たような事が起こり、メイブレーブとマイネルフリッセが進路妨害による審議ランプを貰っている。
JRA公式が投稿しているレース映像の1988年皐月賞のレース映像30秒〜40秒辺りを見ると非常に分かりやすく、また逆説的に主人公が覆している物理的な距離も分かりやすいので、興味がある人は是非見て欲しい。