有効射程距離25バ身   作:sabu

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 ガラスの靴。


4/17 第48回 皐月賞 3/4

 

 ——チヨノオーさん。陸上競技で最も苦しいとされる距離は何か知っていますか?

 

 何で、あんな事を言ったんだろう。

 それは昨日。時間換算にすれば24時間も経っていない皐月賞の前夜。

 メジロアルダンが口にしたその言葉を、サクラチヨノオーはしきりに繰り返し考えていた。

 

 ——400m。

 

 アレはきっと、遠回しな助言だった。

 メジロアルダンは決して、関係のない話で対戦者の一人を煙に巻くようなウマ娘じゃない。

 しかしサクラチヨノオーには、その真意がまだ分からなかった。

 人間で最も苦しいのは400mだとして、それが今、この場所では何を意味しているのか。

 

 ふと思う。

 思うところで止まってしまう。

 サクラチヨノオーにはひたすらに、時間と余裕がなかった。

 だが確かに、彼女は思うところまでは行った。

 

 ——ウマ娘にとって最も苦しい距離は、一体何mなのだろう。

 

 その答えを、彼女は皐月賞で知る。

 とあるウマ娘の極端な走法、その根本的な限界と共に。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 気迫に欠ける。今日のサクラチヨノオーは、いささか調子が悪い。

 見る人が見れば一目で分かってしまう不調状態でレースに臨んだサクラチヨノオーは、もうすぐ第3コーナーに入るというタイミングでもまだ、自らを持ち直すことが出来ていなかった。

 

「皆、凄いなぁ……」

 

 ボソリと呟く、気の抜けた声。

 或いは諦念の混じる、悲痛な声にも聞こえるだろう。

 彼女は何処か遠くを見ている。無論、悪い意味でだ。

 

 レースが始まってから今までに、息も吐かせぬ攻防があった。

 分かっているのはそれだけで、たった800m程度で勝敗を決してしまうような展開争いが一体幾つあったのかが、今のサクラチヨノオーには分からない。

 分かっているのは一つ。

 自分が今レースを有利に進められているのは、枠番に恵まれていたからでしかない。

 

 2枠4番。

 現在、先行3番手。

 レース序盤から一定の位置を取り、彼女は誰からも妨害を受ける事なく、そして与える事もなくここまで来た。

 サクラチヨノオーは、レース展開に一切関わっていない。

 居ても居なくても、特に変わらないと呼ばれても反論出来ないほどのレースだった。

 自分はもう、敵でも何でもないのか。

 あぁ正にその通りだ。私は誰の敵にもなれていない。そんな事、私が一番分かっている。

 枠番。運。そこに目を向けず、何を自意識過剰になっているんだバカ。

 自罰的な考えが自罰的な考えを呼んで、彼女は自分の心に雁字搦めになっていた。

 

 ——私は………普通だ。

 

 周りにいる普通じゃないウマ娘達なら、きっとこんな事では悩まない。

 彼女が思い浮かべている特別なウマ娘達は、常に前しか向いていない。

 

 ——私は………普通なんだ。

 

 自分に才能があると浮かれていたのは、もう過去の話。

 レースを積極的に掻き回すにはズブく、レースを支配するには自己の圧力が足りず、圧倒的末脚の切れ味や驚異的なスパートの持続力がない。

 レースの最中、常々変化する展開を読み取りその場で最適解を弾き出し続けるなんてのは以ての(ほか)

 土壇場で答えを見つけ、更なる力に目覚めるような底力は普段のトレーニングから今この瞬間に至るまでの努力でちゃんと精一杯使っている。

 

 ——だから………っ!!

 

 彼女は、普通のまま競い合う事を選んだ。

 

「——もう一度、根性比べだぁぁぁぁっ!!!」

 

 それは、後方を抑えるスローペース。

 かつてシンボリエウロスが負けかけた……否、負けに直結する筈だった展開。

 共同通信杯では結果的にサクラチヨノオーは負けた。

 だが、スローペース自体が間違いではない。

 阪神JFでは、そうだった。

 シンボリエウロスが無敵ではない事は、ディクタストライカが既に証明していたのだ。 

 

 耐える。

 耐えて、耐えて、耐え切って、粘り勝つ。

 私にはこれしか出来ない。だから我慢比べでは、絶対に負けない。

 

 第3コーナー手前の上り坂中腹。彼女はペースを緩め、そして脚を溜める。

 

 彼女には一度減速して次の瞬間には速度を戻すような、実質的な二段階のスパートを行う才能がない。だからある程度の距離、滑走路を必要とする。

 距離は、200m。

 彼女はその区間で少しずつペースを緩め、そして残り1000m〜800mの間で溜めた足を使ってロングスパートを行う。

 その被害、ペースを抑えられる影響を受けるのは当然後方。

 勿論、シンボリエウロスは後方にいる。

 

「———」

 

 刹那、サクラチヨノオーの一挙手一投足を読み取ったシンボリエウロスの意識がサクラチヨノオーに向いた。

 先程までメジロアルダンに向いていた疑念の警戒が、既にない。

 現実的なレース構築を行い、優先順位を再決定し続け、最速で最適解を弾き出し続ける。

 末脚の速さも()る事(なが)ら、彼女は風の流れを読み取る早さに於いても追随を許さない。

 

 次の瞬間にはもう、サクラチヨノオーの行動を対処して来る。

 彼女は吹き荒れる風だ。桜は無慈悲に刈り取れる。

 サクラチヨノオーだけでは、後一歩足りない。

 たった一つの桜では、儚さの象徴でしかない。

 ならば、二つあればどうか。

 

 結論から言おう。

 シンボリエウロスはここで一手、読み負けている。

 

『——ヤエノムテキ!ヤエノムテキです!』

 

 八重桜は、本来の桜より遅く咲く。

 シンボリエウロスはその事を、皮肉にも自らの手で意識外に追いやっていた。

 

『ヤエノムテキが後方から押し上げて来た!!』

 

 ヤエノムテキは向こう直線に入った段階で13番手であり、先頭から19バ身も離された。

 もう終わった。勝てる訳がない。

 そうやって潔く勝利を諦めるほど、ヤエノムテキは出来た性格をしていない。

 

「ようやく、追い付いた……っ!!」

「……………」

 

 息も絶え絶え。

 顔に浮かぶ汗から考えると、もう長くない。

 しかしシンボリエウロスは見誤っている。

 自らの気性難を棚に上げて、ヤエノムテキの気性難を軽視している。

 

 ヤエノムテキの、本質。

 性格。態度。王道の先行と差しを得意とするレーススタイル。

 良くも悪くも実直と評される彼女はその実、本来のヤエノムテキには実直さの欠片もない。

 血気盛ん。圧倒的な負けず嫌い。しかし同時に勝つ為の安全策など戸惑いもなく捨て去れる。

 思い通りにされるのだけは嫌という理由だけで、彼女は敵に噛み付けた。

 

「その位置は——絶対に渡すかっ!!」

 

 ごうっ、と一気に燃え上がるような闘志と執念が迸った。

 競り合いに持ち込み、順位の押し上げを図る。

 バ群をこじ開けながら前を奪い取るレースの進め方は、洗練とは言い難い。

 ただでさえ後ろに沈められて体力を削られた今、間違いなく悪手の部類である。

 

 だがヤエノムテキの強さが発揮されるのは、如何にも悪手で荒れた展開での場面。

 サクラチヨノオーとも似たその強さは、しかし受けではなく攻めを主体とした凌ぎ合い。

 急接近や接触を恐れず突き進む荒々しい走り方は、シンボリエウロスを確実に削って来る。

 強い接触を受けると一気に歩みのバランスが崩れるシンボリエウロスは、常に周りのウマ娘の立ち位置を警戒しなくてはならない。

 

「(でも、どうせ保たない)」

 

 しかしそれでも、当の本人は冷静だった。

 自らは競り合いに弱く、消耗戦の才能が一切ない事を自覚している上で、あくまでも彼女は大局を見ている。

 

「(このままなら、最終直線付近で脱落——)」

 

 だから、シンボリエウロスは読み負けた。

 

「(いや…………)」

 

 後方から続々と響く足音がした。

 太鼓を打ち鳴らすよりも尚重く、腹に響くような蹄鉄の音。

 彼女はようやく後ろを見た。

 近付いて来る、ウマ娘達のバ群がそこにあった。

 このタイミングで後方から這い上がって来たのは、ヤエノムテキ一人だけではなかった。

 

「(——引き連れて来た……!!)」

 

 ヤエノムテキは王道のレーススタイルを取る。

 だが勝ち方、勝利の捥ぎ取り方に関しては気性難そのもの。

 終盤、最後の末脚勝負ではどうしてもバ群が縮まり、密度が増す。

 その中で競り合い、道をこじ開け、最終盤で先団から抜け出し1着を奪い去る戦術が、ヤエノムテキが最も得意とする勝ち方。

 勝利が決する寸前での競り合い勝負こそが、ヤエノムテキの鉄火場。

 

 それを、今行った。

 ここでもう、シンボリエウロスと勝つか負けるかを無理矢理決めに来た、と言っても良い。

 他のウマ娘達も皆、同様に。

 

「……………」

 

 一瞬、シンボリエウロスは再度前を見た。

 サクラチヨノオー。此方を押さえ込みにかかる元最大の脅威。

 そして後ろ……否、隣に競り合って来たヤエノムテキ。

 後方にはヤエノムテキと同じく、ここで大博打を打ち勝負を決め打って来たウマ娘達。

 

 そして

 先頭には。

 

「……………っ」

 

 一瞬の、間。

 僅か刹那を挟んで、しかしシンボリエウロスは今出来る最善手で動き続ける。

 

『ここで——シンボリエウロスが少し外によれた!』

 

 当然ながら、シンボリエウロスはヤエノムテキとの勝負に乗らない。

 乗れば負ける。バ群の中での競り合いや、体格を活かした力勝負、消耗戦でシンボリエウロスが勝つ事だけは今後未来も含めて絶対に有り得ない。

 だから逃げた。彼女には競り合いを拒否する以外の選択肢がなかった。

 

『シンボリエウロスが外に振れたその隙に、前へと出るウマ娘達!』

 

 結果、外に逃げたシンボリエウロスは距離ロスによって後方へ。

 その空いた空間、圧力が消えた場所をウマ娘達は進む。

 

 ここで逃げたシンボリエウロスを追い、更に外へ押し出すような体当たりを選ぶウマ娘はいなかった。

 それはラビットの存在故にラフプレーが戦術として存在する国外でも、一発で審議のランプを喰らうレベルの危険行為である。

 自らの闘志を透かされた形になる中のヤエノムテキは、しかしここでも一番早く今自分が選ぶべき行いに気付く。

 ここは素直にシンボリエウロスを抜き去る事が最善手。

 シンボリエウロスはこの場面で、距離ロスを背負ってまで勝負から逃げ、バ群に呑まれるのを避けたのだ。

 

 ——ギリ………っ………。

 

 そしてただ一人、シンボリエウロスだけが対照的だった。

 シンボリエウロス。気難しい性質を内に潜め、あらゆる物事を自分を中心に回さなくては気が済まない気性難。全てが自己で完結しているが故——決して自分の縛りを破れないウマ娘。

 彼女はガラスの少女、メジロアルダンを睨みながら。

 

 歯軋りを、立てていた。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 人類の陸上競技に於いて、最も苦しい種目は400m走である。

 

 苦しみ、などという主観的な感覚によりこの定義には間違いなく諸説あるが、400m走が人類にとって、生物としての本能や生存戦略的観点から非常に危険な競走である事に変わりはない。

 400m走。

 300m走までは世界記録が100m当たり9秒台の競走でありながら、いきなり11秒台にまで落ち込む境目の陸上競技。

 長らく43秒台が記録されて来なかったこの競走は、世界選手権の舞台に於いてすらゴール後に嘔吐・呼吸困難による意識不明・気絶が定期的に起こる種目である。

 過去を辿れば身体障害の後遺症に繋がった例もある。

 

 何故、そこまで400m走が過酷なのか。理由は一つ。

 人類という哺乳類が最大出力での無酸素運動を維持出来るのが、30〜40秒だから。

 この壁を越えた場合、筋繊維が破断する確率が一気に増加し、また脳や肺を含む内臓組織に負荷をかける。故に境目。

 

 そしてそれは、ウマ娘も同じ。

 人類と比較して非常に優れた身体能力を持つウマ娘だが、この二つの種族は同じ哺乳類として括られ、最大出力を維持出来る限界秒数は全く同じである。

 

 つまりウマ娘にとって最も過酷な距離は、長距離の3000mや3200mではない。

 国外にある4000mでもない。

 僅かたったの、800m。

 最終直線で伸びを欠いて後方から差し切られるウマ娘のほぼ全てが、速度と体力の割り振りを間違えて無理なロングスパートを行ったウマ娘である。

 

 後の世で、この常識を真正面から踏み砕く特異点がいる。

 衝撃の名を冠した英雄。ディープインパクト。

 3200mの世界レコードを更新した上で、ラスト4Fのラップタイムが、800mの世界レコードを超越していたウマ娘。

 

 彼女の記録が狂っている事に変わりはない。

 だがそれでも敢えて重箱の隅をつつくのならば、ディープインパクトが800mの世界レコードを超越出来たのは、そもそも根本的に800mの世界レコードは遅れているからだ。

 

 後にディープインパクトが記録する、44.8という上がり4F。

 その記録より、彼女が貫いた800mの世界レコードは凡そ2.0秒弱も遅い。

 スタートの瞬間の有無、タイム計測の差はあれど、凡そ12バ身相当もの差が生まれるのは遅すぎる。

 

 この理由は先程と同じだ。

 800mの全力疾走は、人類の400m走と同等以上にウマ娘の競技人生を縮める故に、世界記録を残すような有力が出走して来ない。

 トレーナーから見ても、出走させたくない。

 言葉を選ばなければ、価値が低いのだ。

 故に800mの世界レコードは進まず、ロングスパートは非常に過酷な手段であり——スローペースによる展開の多くは残り600mからの末脚勝負になるのが常である。

 

 如何なる展開であってもロングスパートは難しい。

 それを決め手にするには、人類が想像している以上の素質がいる。

 例えるなら、名門の一族が血統と共に受け継ぎ、次代に継承し、才能として高めていくに足るほど。

 

 そう、だから——名門一族のメジロアルダンはこう口にする他なかった。

 

 枠番。運に恵まれたのはある。

 展開。運に恵まれたのもある。

 だけど。

 あぁ、やっぱり貴方は。

 

 ——第3コーナーから第4コーナーにかけて、何も出来ない。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

『ここで大欅を越えて——第3コーナーに入った!

 

 結果的にだが、サクラチヨノオーの押さえ込みは上手く行っていた。

 シンボリエウロスを妨害するという意味では 間違いなく成功していたのだ。

 

 一つ付け加えるとすれば、先頭のメジロアルダンにとってそれは後方の切り離しに働いた。

 

 先頭メジロアルダン。

 その4バ身ほど離れた3番手にサクラチヨノオー。

 削られているモガミファニーを敢えて除外すれば、メジロアルダンだけがスローペースに引き込まれる事なく自由に動けている。

 

『1000mを通過! 通過タイムは60.5秒!』

 

 先頭のメジロアルダンが刻んだタイム、60.5。

 対しシンボリエウロスの1000m通過タイムは、63.4。

 先頭から約18バ身後方。14番手。

 バ群から大きく逃げ、外側へ膨らんだ分のロスが彼女を後ろへ追いやっている。

 

『! ここでメジロアルダンが伸びる! レースが動きました!』

 

 大欅を通過し、カーブに入る。

 現在1000m地点で、メジロアルダンは脚を使い始めた。

 第3コーナーから第4コーナーにかけての、超ロングスパートだ。

 

『メジロアルダン、ここで仕掛けた!』

 

 800mを超えるロングスパートは、凄まじく難易度が高い。

 ロングスパートを行うには、自らを十二分に制御し限界一歩手前で走行し続ける化け物じみた賢さが必要であり、また土台となるスタミナとパワーがいる。

 頭の良さはともかく、メジロアルダンにそんな力強いロングスパートが出来るかと問われたら、多くの者は出来ないと答えるだろう。

 

『メジロアルダン、早々の早仕掛け! 後続のウマ娘達もそれに続きます!』

 

 だが恐らく、多くの者が忘れている。

 或いは病弱で繊細という印象に引き摺られ、気付いてない。

 

 ——メジロアルダンはステイヤーである。

 

『モガミファニーは伸びない! 3バ身後方2番手に、今サクラチヨノオーが来ました!』

 

 そうは見えないだろう。

 そんな印象もないだろう。

 だが本来、メジロアルダンは長距離で輝くウマ娘だった。

 

 彼女の素質。

 長距離という長い時間を走るレースの中、自らを見失わない冷静さと戦略眼。

 そして何より、積み重ねた誤差が大きくなる長距離で。

 

 ——彼女は綺麗に真っ直ぐ走れる。

 

 それは正に、理想的なコース取りが行える事の証明。

 長距離に於いて重なる距離ロスの負積を最低限に納め続ける必須の才能。

 彼女のバ体には無駄がない。特に脚の形が綺麗だ。

 あのマルゼンスキーですら、生まれ付きの脚の外向には悩まされていた。

 彼女の世代のスーパークリークすら、脚の外向による斜め走りが最大の課題だった。

 バ体やスタミナを後天的な努力で補強出来るとするなら、メジロアルダンはステイヤーとして限りない素質と共に生まれた、天才中の天才だった。

 

 メジロ家。

 天皇賞の盾を至宝とし、メジロとは長距離の一族であると証明し続けて来た彼女達の家系が紡いで来た血には、ステイヤーとしての素質が色濃く現れる。

 メジロアルダンこそが、その一人であった。

 筈だったのだ。

 しかしメジロアルダンは、生まれ付き身体が弱かった。

 

 彼女の、メジロの真骨頂とも言える長距離への適性。

 それを完全に包み隠す、脚と身体の弱さ。病弱。虚弱体質。

 長距離を走れない、ステイヤー。

 彼女は綺麗であり、脆かった。

 メジロアルダンの身体は、長距離に耐えられなかった。

 

『後続も伸びて来た! 5番手にヤエノムテキ! ヤエノムテキが一気に巻き返して来た! ここから彼女は持つのか!!?』

 

 だから彼女に残ったのは——ロングスパートという才能。

 ステイヤーの得意分野。しかもメジロの一族が紡いで来た、彼女達の最大の武器。

 彼女達一族はステイヤーとしての素質も()る事(なが)ら、長距離を走る為に必須なスタミナと冷静さを存分に活かした、ロングスパートを得意とする一族である。

 

 俗に言う戦法、"スタミナですり潰す"とは、具体的に言うとこうなる。

 

 1.先行策を維持し、終盤に差し掛かるタイミングで、自らだけ100%の力を出さず凡そ90%の限界一歩手前で800m以上のロングスパートを行う。

 2.後続のウマ娘に全速力で自らを追わなければ、抜き去る事が出来ない状況を強制させる。

 3.そして後続に100%の力を出させ——ウマ娘が維持出来る限界秒数を超えさせて、潰す。

 

 この択に乗らず、自らと同じように90〜95%の限界一歩手前のロングスパートをするならば、それでも良い。

 だが果たして、メジロ家のウマ娘を相手にそんな削り合いをして勝てるウマ娘がいるのか。

 限界一歩手前、越えてはならない壁の境目を敢えてフラフラとする、尋常ではない賢さの上で成り立つ精神力と体力の削り合いこそが、メジロ家が得意として来た世界。

 それが根性と努力でどうにか出来る世界だったのなら、彼女達一族がメジロ家と呼ばれる事はなかっただろう。

 

『——シンボリエウロス、最後方……っ!!』

 

 では、シンボリエウロスはどうだ。

 

『1200mを通過! 現在メジロアルダンが先頭!』

 

 スローペースに於ける展開は2つ。

 

 通称、右肩上がり型。後半頭から徐々にラップが加速していく。

 通称、ヨーイドン型。ラスト3Fから一気にラップが加速する。

 

 後者、末脚の切れ味勝負が決め手となる世界では、本来なら有利な筈の先行勢すら捩じ伏せるほどにシンボリエウロスは突出している。

 世界最強。或いは史上最強と呼んでも良いかもしれない。

 だが前者、スローペースによる温存からのロングスパートが決め手となる展開では、喘鳴症を患う彼女は完走する事すら怪しくなる。

 

 彼女には、ロングスパートを行う才能は欠片もない。

 競り合いは拒否する以外に選択肢がなく、消耗戦に対する適性すら存在しない。

 故にシンボリエウロスは——メジロ家の土俵では絶対に手も足も出ない。

 

『シンボリエウロスは、ここに来て最後方! 先頭のメジロアルダンから——23バ身離された!』

 

 先頭、メジロアルダンの1200m通過タイム、72.3。

 対し、シンボリエウロスの1200m通過タイム、76.2。

 

 タイム差、3.9秒。約23バ身。

 

 早仕掛けによるロングスパートを行ったメジロアルダン。

 他の集団を含めて唯一脚を使わず、1F辺り12秒台後半で追っているシンボリエウロス。

 常識的に考えればどう考えてもおかしいとしか言いようがない距離だ。

 しかしそれは、現実として広がっていった。

 シンボリエウロスはこの場面で、前を追えないからだ。

 

 ——後一歩、遅かった………っ!!

 

 その道中、サクラチヨノオーは嘆く。

 サクラチヨノオーとメジロアルダン、真っ向から競い合えば、ほぼ間違いなくサクラチヨノオーが勝つ。

 だがサクラチヨノオーは、メジロアルダンにステイヤーとしての土俵では勝つ事が出来ない。

 

 ——息が、続かないっ………。

 

 道中、ヤエノムテキは苦悶する。

 ヤエノムテキとメジロアルダン、真っ向から競い合えば、ほぼ間違いなくヤエノムテキが勝つ。

 だがヤエノムテキは、メジロアルダンにステイヤーとしての土俵では勝つ事が出来ない。

 

第4コーナーに入った!!

 

 そして当の本人であるメジロアルダンは今、薄く微笑んでいた。

 額に汗を流し、限界ギリギリの削り合いの渦中にいながら、彼女は笑う。

 

 横目で少し後ろを見た。

 カーブの遥か、後ろ。

 少し横目で見るだけで姿を確認出来るほどに後ろにいる、小さなウマ娘。

 小さな小さな、大災害。

 

「(やはりそうでした。私の脚は脆く、勝負所を間違う事は出来ない。だけどそれは貴方も同じ。いや貴方は、勝負所を選ぶ事すら出来ない)」

 

 ——そして貴方は……——喘鳴症ですよね?

 

 仄かに呟き、確信する。

 それはメジロアルダンだからこそ分かった弱点。

 何故あぁも極端な走法で勝負を仕掛けて来るのかを、あの極端な走法の根本的な限界と共に、メジロアルダンは理解していた。

 同じように名門の責務を背負い、生まれ付きの弱点を持ち、偉大な姉を持ち、全てに悩んで来た彼女だからこそ分かった。

 

「(えぇ、分かっています)」

 

 シンボリエウロスは、喘鳴症だ。

 

 だから『阪神JF』で負けかけた。

 ディクタストライカの、故障を厭わないロングスパートに追い詰められた。

 残り約800m強の時点で受けたメジロワースの衝突により、ディクタストライカを見逃すしかなかった。

 

 前走『弥生賞』でもそうだ。

 シンボリエウロスは一切レースを動かさず、先頭を進むサクラチヨノオーに対し、18バ身の差を維持し続けた。

 あれはきっと、更に前走の『共同通信杯』にて受けたスローペースの懸念点を解消する為の策であり、布石なのだろう。

 シンボリエウロスはスローペースに弱い。これは絶対に変わらない。

 

 だから18バ身。

 

 極論、如何なるペースでも展開でも、シンボリエウロスは常に周囲と比べて3.0秒は速い末脚が使える。

 だから、どんなに苦しい展開でも先頭のウマ娘が18バ身以内にいれば勝てる。

 化け物みたいな結論だ。常に先頭を走っていれば勝てる、なんて極論と対を成すもう一つの極地。その具現。あらゆる展開もペースも無為に消し飛ばす、正に暴風。

 故にシンボリエウロスは『弥生賞』で何もしなかった。今日の『皐月賞』での布石も踏まえ、試した。

 通常よりも多くレースに出走し、調整と情報収集を進めるシンボリエウロスらしいやり口。

 

「(全て、分かっています)」

 

 だがシンボリエウロスは、弥生賞にてその18バ身を完全には守れなかった。

 残り600m地点でサクラチヨノオーに付けられた差は、約21バ身。

 掛かったサクラチヨノオーが早めに仕掛けたとて、シンボリエウロスは前に距離を詰めて18バ身の差を守り切らねばならなかった筈。

 それをしなかった……否、出来なかったのは、あの場面で追えばロングスパートの域に踏み入ってしまう事を知っていたから。

 

 シンボリエウロスは、残り600mからしか勝負が出来ない。

 

 これを、更に細かく解体するとこうだ。

 

 1.シンボリエウロスは、残り1000m地点から残り600m地点の、仕掛け方を間違えば早仕掛けのロングスパートになってしまう距離の中では、僅かにも前に詰める事が出来ない。

 2.その区間内では自らの刻んでいるラップタイムを修正する事はほぼ出来ず、スパートが二段階の形になってしまえば末脚の切れ味が一気に鈍る。

 3.残り1000m地点から残り600m地点の付近にて背負った戦術的負積は取り返す事が出来ない。

 4.この段階で他ウマ娘との衝突、或いはレース展開で読み負けるなどすれば、道中完璧なレース運びをしていたとしても彼女には敗北の影が迫る。

 5.喘鳴症が完治しない限り、シンボリエウロスがこれらを克服する事はない。

 

『——1400mを通過!』

 

 追い詰められている。

 間違いなく今、シンボリエウロスは生涯で最も追い詰められている。

 

『第4コーナーを通過して、メジロアルダンが先頭!』

 

 1400mの通過タイム84.0。

 

『メジロアルダン粘る! 後続のウマ娘達も、一気に迫る!』

 

 その遥か後ろ。

 日本という国では誰も見た事がなく、実際の数字に置き換えられたら現実を疑いそうになるほどの後ろ。

 

『——1番人気シンボリエウロスは、最後方………っ!!」

 

 27バ身後方。

 シンボリエウロスは未だ、1400m地点を通過していない。

 

『ここまでの距離は見た事がないっ!』

 

 メジロアルダンは、今から36秒台の末脚を出す。

 1000m近いロングスパートの中ではある。

 だが、それでも逃げ切る。

 絶対に逃げ切る。

 トドメを刺すために、擦り潰す。

 

『届くのか!? ここから、本当に彼女は届かせるのか!?』

  

 対して27バ身後方——約4.5秒ほどの距離も離された後ろにいるシンボリエウロス。

 共同通信杯の展開とは、真逆になった。彼女は今この瞬間から、32秒台の末脚ですらまず勝ち目が存在しない勝負をしなくてはならなくなった。

 勝ち目を見出すには、手段は一つ。

 

 上がり3F31秒台を出す。

 

 31秒台の世界に到達したウマ娘は今現在、世界でたった一人。

 ダンシングブレーヴ。

 上がり3F31.9秒。世界レコード。歴史上最速。

 

 世界最強と名高いセクレタリアトも、ラスト1F10.0秒を記録したかの『彗星』シルキーサリヴァンも、31秒台の世界に踏み入った事はない。

 仮に31.9秒を今から出したとて、この状況下では勝てる見込みはほぼない。

 

 だから。

 塗り替えなくてはならない。

 旧来の記録を一気に超越するほど。

 越えなくてはならない。

 限界の壁を超えた先の、更にその先にある、前人未到の領域へと。

 

 

 ピシッ……。

 

 

 その時。

 メジロアルダンは確かに、何かにヒビが入ったような音を聞いた。

 

「えぇ……分かっています」

 

 それは、遥か後方から響いて来た。

 たった一瞬で、世界を自分色に塗り替える暴虐的な音。

 呼吸すら忘れるほどの黒い闇。

 落下するように逆向く静かな風が、肌を刺す。

 

 ビキッ……。

 

 肌が震える。

 第3コーナーに入った時点から仕掛け、未だ1000mの半分も終わっていないその事実に。

 ここから、あのウマ娘が全速力を出してくる残り600mを走り切らなくてはならない現実に。

 

 ——分かっていました。

 

 その上で、メジロアルダンはここまで来た。

 

 ——ここからがようやく貴方の世界だ、なんて。

 

 残り600m。

 その世界が来るまでの彼女の行いは、全てが前座。

 あの暴威に等しいレース制御も、支配に近い思考回路も、その全てがたったの3Fを完璧に走る為だけの調整。

 彼女は、獅子だ。

 智慧で牙を隠した獅子だ。

 今日彼女から、ようやくレース展開という智慧を完全に奪い去った。

 

 メジロアルダンは別に、勝利を確信してはいない。

 むしろ、恐れている。

 追い詰められた獣が見せる脅威性を、今日シンボリエウロスが見せる事を。

 シンボリエウロスが、ウマ娘の可能性を一歩進めるような存在である事を。

 

 ダンシングブレーヴ。上がり3F31.9秒。

 かつて世界を縮めた彼女の記録は、クラシック期の6月にて記録された。

 

 シルキーサリヴァン。上がり1F10.0秒。

 かつて常識を狂わせた彼女の記録は、クラシック期の2月にて記録された。

 

 そして今日。

 シンボリエウロス。クラシック期の4月。

 舞台は皐月賞。距離2000m。芝・良バ場。最終直線504.1m。洋芝と比べれば芝が重くない和芝。

 今日この瞬間、シンボリエウロスが世界を変えられない理由など、一体何処にある。

 

 知っている。

 信頼している。

 確信すらしている。

 あのウマ娘は今日、世界を縮めるのだろう。

 だけど——その上で私は逃げ切ってみせる。

 

『シンボリエウロスが今、1400m地点を通過!』

「さぁ、勝負です」

 

 彼女は、その為にここまで来た。

 彼女の二つ名は、ガラスの重戦車。

 余りにも相反する枕言葉が付くその呼び名を、自らの身を以って証明し得るメジロ家の才媛。

 ヒビが入れば簡単に砕ける、ガラス仕掛けのステイヤー。

 

『ぽつんと1人、最後方!!』

「今日ここで……このガラスの脚で」

 

 残り600m。現在先頭。1着。

 メジロアルダン。

 

『——シンボリエウロスが来たっ!』

「——貴方の無敗を止める!!」

 

 27バ身後方。最下位。18着。

 シンボリエウロス。

 彼女が今。

 

 芝を、蹴り砕いた。

 




 
⚪︎Mejiro Ardan(メジロアルダン)
 姉は初代ティアラ三冠。その素質は三強越え。伝説になれなかった天才。怪我に悩まされた半生。ガラスの脚。シングレ版メジロアルダン。

⚪︎30〜40秒。800mを越えるロングスパート。
 本作の主軸。喘鳴症を患う主人公の根幹。脚質の差からレース展開の成り立ちにまで関わるレースの基本の基は、デイリー杯からここまでの話を以って完全に描写が完了しました。
 つまりこれからは「皆さんご存知の通りウマ娘が全速力を維持出来るのは生物学的な観点から30〜40秒ほどですが……」という前提で話が進みます。

 ただしメジロマックイーンはまだ完全体になっていないものとします。
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