有効射程距離25バ身   作:sabu

56 / 77
4/17〜4/29 夢のレースへ

 

 

「ぁ……あ? ……勝った………?」

 

 気絶、していたという訳ではない。

 だが気絶に匹敵するほどの疲労と元来持つ病によって長らくダウンしていたシンボリエウロスが、ようやく落ち付いて発した言葉はそんな言葉だった。

 

 酷く深刻な立ち眩み。

 症状としてはそんなところだが、低酸素状態によって脳への血流が不足していた彼女は、一時的に視界が闇に包まれていた状態で横になっていたのだ。

 

 落ち着くのに何分経っていたのかは分からない。

 ただシンボリエウロスがようやく視界を取り戻し、のっそりとした動作で目撃した掲示板には、確かに自らが勝利した証が刻まれていた。

 

 1:59.9。上がり3F31.4。

 

 姉、シンボリルドルフの記録である2:01.1を一気に1.0秒以上更新した新レコード。初の2分切り。そして世界最速の末脚。

 

 未だ、何処か現実感がない。

 喘鳴症故の負け筋は、他ならぬ自分が知っている。

 アレは、負ける展開だった。

 正直負けたと、そう思っていた。

 だけど、それでも勝ったのは自分だった。

 

「……………」

 

 視線を逸らし、隣を見る。

 そこには俯き、堪えるように泣くガラスの少女。

 ほんの少し手を伸ばせば届くような距離に居ながら、その啜り泣く声は歓声に掻き消されて聞こえない。

 だが、泣いている。

 泣かせたのが誰なのかは、分かり切っている。

 

 自らを落ち着かせる為、息を吐いた。

 無情な競い合いの世界だが、この世界は無法ではない。

 勝者には求められている役目があり、立ち振る舞いがあり、それ故に勝者には勝者の責任がある。

 

 シンボリエウロスは、口に笑みを浮かべ、天高く指を一つ立てた。

 芝の上に倒れ伏したまま、しかし空に向けて指を指した。

 

『——シンボリエウロス! シンボリエウロスです! やっぱり妹も強かったっ!!』

 

 それは宣言。

 まずは一冠。

 残り二冠もこの手に収める、三冠宣言。

 

『激しい接戦の末、皐月賞——三冠への第一歩はシンボリエウロスが制しました!!』

 

 かつてシンボリルドルフが始めたそれは、妹の方にも求められていたものだったらしい。

 多くの思惑と共に上がる歓声を聞き遂げて、シンボリエウロスは力を抜き、再び大の字となって倒れ伏した。

 

 ——疲れた。

 

 このまま泥のように眠りたい。

 かつての姉と比べたら、三冠が危ぶまれるほどの余裕の無さである。

 勝ち方も、勝った後のパフォーマンスも。何よりハナ差まで追い詰められた。

 

 ——だけど、勝った。

 

 それでも胸に残るのは、確かな充足感。

 薄い微笑みが浮かぶ程度にはふわふわとしていた現実感が追い付き、心を満たしていく。

 ようやく自分が勝った事を自覚した彼女は身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がって。

 途端、足をもつれさせた。

 

「……エウロスさん?」

「……、………………」

 

 糸が切れた人形のような、或いは崩れ落ちるような、そんな転び方。右脚が震えている。

 刹那、隣のメジロアルダンが支えてくれなかったら、シンボリエウロスは不自然な形で膝を突いていただろう。

 

 ——もう泣き止んでいる。早い。しかも対戦相手を気にかける余裕もあって………いやそうではなくて。

 

「…………疲れているみたいです。思っていたよりも、かなり」

 

 思考が明後日の方向へ行くくらいには、頭も疲れている。

 他人事のように自覚して——これは脚をちょっと故障したかも、とすら他人事のように思っている自分がいる事に気付いて、面倒になる。

 

「後……その前に、あの、エウロスさん?」

 

 遅れて、シンボリエウロスは話しかけられている事に気付いた。

 歯切れが悪い聞き方である。脚の故障とか呼吸器の事を突っ込まれるのは嫌だなぁ、とどんどん勝手に弾む思考に意識を割かれながら、彼女はメジロアルダンの次の言葉を待った。

 

「口から血が………」

「………………」

 

 血。赤。違和感。

 半ば無意識に口元を拭えば、勝負服の手袋が赤く染まり、袖すら上塗りしていく。

 ここでシンボリエウロスは、ようやく口元からボタボタと出血している事に気付いた。

 

 負ける。

 そう思った。

 だから歯を食いしばった。

 八重歯で思いっきり。

 それはもう全力で。

 

 やばい。これは恐らく、すごく腫れるやつ。

 

「あの、痛くは……」

「やめてください」

「え………」

「あっ……ぁ、ぅぁ……段々痛くなって来ました。やばいです。意識した所為です。本当につらい」

 

 怪我を自覚したのもあるが、闘争本能と極度の興奮が齎す脳内麻薬……要はアドレナリンが切れて来ている。

 じわじわと広がっていく痛みは、とにかく鋭い。

 抉るような痛みでもなく、傷口に塩を塗るような痛みでもない。

 針を刺して深々と入れ込んでいるような、そんな純度の高い痛み。

 

 めっちゃ痛い。ものすっごく痛い。具体的には涙が出て来るくらい痛い。

 何ならもう、ちょっと耐えられないくらい痛い。

 これは恐らく、酷い口内炎になるやつ。

 

「退いてください! 急患です!」

 

 そんなシンボリエウロスの様子を見ている人達は、当然ながら普通にいる。

 特に緊急の場合に備えて待機しているスタッフの方々がそうだ。

 慌ただしくターフの上に入って来る人達は、明らかに医療班の人である。

 しかもその中にシンボリ家関係の人も交じっているだろうそれを確認して、シンボリエウロスは思わず、やばっ、やっちゃったと呟いた。

 

 出血しているのだ。しかも口からだ。とにかく見た目が仰々しい。

 彼女が喘鳴症を患っている事を知っているシンボリの関係者からすれば、気が気ではない。

 喘鳴症とはそういう病ではない事を知っていても、万が一は常にある。

 ウマ娘のレースは、怪我の具合の差が大きくなりやすい。

 

「あー………」

 

 視界の端に、彼女は自分のトレーナーを捉えた。

 蒼白の表情で、しかし今にも観客席から身を乗り出してターフの上に入ろうとしている、黒いスーツ姿の女性。樫本理子。

 ——危ないからやめて欲しい。本当に。本当にやめて欲しい。足を引っ掛けて顔から叩き付けられそう。自分じゃなくてトレーナーが救急で運ばれるのはイヤだ。

 

「あぁ、アルダンさん。ウイニングライブには出ます」

「え……。えぇ………?」

「多分、大丈夫なので。阪神JFでも辞退してまたは、少し。それに皐月賞なので」

 

 次の瞬間には樫本トレーナーこそが仰々しい出血をしそうだし、何より生まれた頃より世話になって来たシンボリ家の人達を心配させるのは本意ではない。

 シンボリエウロスは短くそれだけを残して、医療班の人達に手を引かれて行った。

 

「本当に……台風のような人ですね」

「………えぇ、本当に」

 

 残されたメジロアルダンに、ゆっくりとサクラチヨノオーが近付いて来る。

 1着と2着の二人に負けず劣らずの消耗をしている彼女も、やはり疲労が顔に浮かんでいた。

 話せるほどではあるものの、まだ彼女達は肩で息をしている。

 1着から8着までもが旧来のレコードタイムを貫いているのだから、当然も当然だった。

 

「………………」

「………本当に」

 

 ボソリと呟くメジロアルダンの横顔は、いつになく侘しく見えた。

 得る物はあった。少し持ち直した部分もサクラチヨノオーにはある。

 それでも負けた事実に変わりなく、また3番手である。

 今日はディクタストライカがメジロアルダンに変わり、一番上にはシンボリエウロスが君臨しているという構図は、未だずっと変わっていない。

 

「日本、ダービー」

 

 口に出して、それが虚勢だと自覚した。

 だけど、張れ。虚勢でも張れ。

 そうしないと置いて行かれる。

 一旦呼吸を置いて、サクラチヨノオーは口を開いた。

 

「そこで、アルダンさんを待っています」

「…………」

「分かりましたか!? 待ってますからね! 後一歩で勝てた筈なのにってウジウジしてたら、私がダービー勝っちゃいますから! 私知りませんからね!?」

 

 ——良いですか!?

 念を押すように口にしながら走り去っていくサクラチヨノオーに呆気に取られて、メジロアルダンは一瞬気付くのが遅れた。

 

 ——……明日、貴方を待っています。

 

 前夜、正に自分がサクラチヨノオーに言った事をそのまま言い返されていた。

 つまりは、励まされたのだと。

 

「ふふふ………。えぇ。置いて行かれますからね」

 

 思いの(ほか)、悩んでいるように見えていたらしい。

 噛み締めるように頷いて、メジロアルダンもウイニングライブの舞台にまで向かう。

 

 シンボリエウロスは……安定の圧縮言語だったが、要は皐月賞という思い入れのあるG1の舞台だからライブを拒否したくない、と言っていたのだ。多分。

 だから早めに、メジロアルダンもターフを去った。

 

「………………」

 

 それを一人、ライブへ向かう後ろ姿達を眺める百花繚乱の彼女は、4着である。

 ウイニングライブを踊る順位にはいない彼女は、三人と違ってゆっくりと控え室まで戻った。

 出来る事はやった。思うがままにやった。

 瞳に、未だ冷え切らぬ焔を残したまま。

 

 桜が弥生に咲く事はなく。

 八重桜は、皐月に咲く事はなかった。

 ガラスは早期に、身を削り出している。

 

 その事実は、小さく小さく堆積している。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 クラシック三冠。

 皐月賞・日本ダービー・菊花賞にのみ割り振られているウイニングライブの歌唱曲。

 魂を競い合い勝ち取る為の曲を、ターフ上からのハプニングもありつつ、口元にガーゼを巻きながら歌い切ったシンボリエウロスの、その後。

 

 突如、右脚をもつれさせて転んだシンボリエウロスのその後。

 

 骨は折れていなかった。

 靭帯や筋繊維も損傷していなかった。

 何より、ウマ娘が最も壊してはいけない関節も無事である。

 口内からの派手な出血というハプニングに見舞われたものの、その見た目に反して故障はなかった。

 だが。

 

「タイムが、落ち続けています」

「……………」

 

 樫本理子の視界の先で、シンボリエウロスは汗を拭いながら眉を寄せている。

 31.4秒。比喩でも何でもなく歴史上最も速い記録を出した彼女には、相応の消耗が蓄積されていた。

 

 疲労が抜け切っていない。

 

 G1級のハイレベルな舞台。厳しいレース展開。或いはレコードが更新されるような速い時計のレースを終えたウマ娘は、消耗する。

 至極当然にして、あらゆるウマ娘が背負うレースの常識。

 速度という現実を歪ませたシンボリエウロスは、しかしウマ娘としての常識からをも抜け出すような存在ではなかった。

 あの日、痙攣した筋肉と脚は、未だギリギリの悲鳴を上げ続けている。

 右脚の違和感はまだ消えていない。

 

「調子は?」

「悪いです」

 

 本人が言うのなら、やはりそうなのだろう。

 外部から見た樫本理子からの目でも、シンボリエウロスが普段より疲れているのが分かった。

 動きに切れがなく、表情も悪い。ふとした時に落ちる視線は、集中力を削られている証拠。

 具体的な話をするなら、彼女の上がり3Fのタイムは34秒台後半で落ち込んだまま戻っていない。

 

 現時点で、34秒台でも到達する事が出来ていないウマ娘達が大半な事を考えればエウロスの末脚は尚も破格ではある。

 しかし、この末脚の切れ味で皐月賞を勝利出来たかと問われれば否であり、条件が同じであれば、自分の最高潮に20バ身弱近い差を叩き付けられる事実にも変わりはない。

 皐月賞のシンボリエウロスが最高潮だと仮定するなら、現在はその最高地点から三段階ほど調子を落としているといった具合か。

 

「調整も少し難しそうですね」

「……………」

 

 深刻な状態でありながら、さも当然の事のように呟く担当の姿に、樫本理子は思案を続ける。

 ダービーに出走が出来るかで言えば、出来る。しかし万全の体調で出走出来るかで言えば微妙だ。

 何せタイミングが悪い。皐月賞からダービーまでには6週間ほどしか間がなく、疲れが完全に抜け切るにはかなり不安が残る。

 

 ただ、その事をウマ娘の方に言って不安にさせては意味がない。

 シンボリエウロスには、全部察されているだろうが。

 

「エウロス。今日はもう上がりなさい」

 

 コクリと頷く担当のその傍らで、樫本理子はダービーまでの調整の予定を組み変えていた。

 消耗をどうやって抜くか、落ちた調子を如何に戻すかはトレーナーの腕によるモノである。

 尤も皐月賞に出走したウマ娘達を担当するトレーナーの大体が似たような悩みを抱えているのだろうが、樫本理子はトレーナーとしては過不足なく働き続けていた。

 3Fの調整と追い切りは、少なくともダービー直前までやらせるべきではないだろう。最悪は更にここから怪我や故障に繋がる事態だ。リハビリ用のメニューを流用して、脚に負担の少ないプールトレーニングで徐々に様子を見るべきだろう。彼女が行う分の、他出走ウマ娘の情報や分析も今の内に始める。

 

「少なくとも今日から一週間は休養です。今週は肌寒い日が続きますから、お風呂で身体を良く温めてから早めに就寝するように」

「…………」

「良いですか」

 

 シンボリエウロスは頷かなかった。

 

「トレーナーは、良いんですか?」

 

 それは一体何を指した言葉だったのか。

 圧縮されている以前に抽象的過ぎる。良い? 何がだ。

 切り口の候補が幾つも浮かんでは消え、樫本理子が口を開くよりも早くシンボリエウロスは言う。

 

「分からないなら良いんです」

「………はい?」

「本当に良いんです」

 

 樫本理子は、変わった。

 叱らないのだ。全く。

 

 皐月賞。間違いなく故障一歩手前まで行った。

 出血するレベルで頬を噛みちぎったし、今もまだ傷は残っていてガーゼが外せない。疲労を押してまでウイニングライブにも出ている。

 だけど樫本理子は、あれから小言の一つも言わない。言っていない。

 担当契約を結んだ直後、デイリー杯当時なら多分叱られていただろう。というかデイリー杯ではちゃんと叱られていたから間違いない。

 

 でも今はどうだ。

 無茶をしないと勝てなかったのだから仕方ない。

 今日は本当に特別の日だからライブに出たがるのも仕方ない。

 そんな配慮なのか、シンボリエウロスは樫本理子からの注意を聞く事なく今日ここにいる。

 

 ダービーには、恐らく万全の状態では挑めない。

 

 それは分かっている。二人とも分かっている。

 にも関わらず、樫本理子にはダービーへの出走を取りやめる気がないのが見て取れた。

 以前であれば、厳しいだろうと判断しつつもトレーナーの意見として絶対に口にした筈。

 出走を取りやめた方が良いのではないかと。

 

 なのに、言わない。

 頭に(よぎ)っているのだろうが、絶対に口には出さない。

 それは、担当が三冠にかける想いを理解し、尊重しているから。

 

 樫本理子はきっと、想像以上の心労を背負いながらシンボリエウロスの担当をしている。

 

「(皐月賞ではちょっと……本当に見てられないくらい心配させちゃったからな………)」

 

 思い出すのは、皐月賞に勝った直後。

 出血するレベルで頬を噛んだのは、今になってみれば非常に良くなかった。

 見ていられないくらいに顔を悪くしていた。血の気が引いていた。そんな樫本理子の姿を、正確に絵に描き起こせるほどにまだ覚えている。

 シンボリ家に迷惑をかけたくない。心配をかけたくない。その枠の中にはもう樫本理子がいる。

 

「休養に入れば、マスコミや世間が騒ぎそうですね」

 

 それも、シンボリエウロスの本音の一つではあった。

 純粋な事実として、世間から最も視線を集めているウマ娘の動向だ。しかも三冠がかかっている。ダービー前の休養で彼らは三冠候補のウマ娘の不調を疑うだろう。

 その本音にひとまずの納得を得た樫本理子は、流れるように答える。

 

「ダービーまでは取材を断る予定です。私がメディア対応を行いますので、貴方は顔を出す必要はありません」

 

 あぁ、ここでも迷惑をかける。

 これはトレーナーの仕事の一つではあるが、シンボリエウロスは今、とある出来事の詰めの段階に入っていた。

 それで間違いなく、トレーナーに新たな心労を重ねるだろう。

 彼女——樫本理子はURA職員でもあるが故。

 

「………ダービーが終わったら、また別に休養を取りませんか? 二人で」

 

 シンボリエウロスからそんな事を言われるのが意外だったらしい。

 樫本理子は少し目を見開いた後、頷きながら答える。

 

「そうですね。温泉旅行にでも行きましょう」

「はい」

 

 そうして彼女は休養に入った。

 皐月賞での消耗が想定よりも重く、日本ダービーに向けて最善を尽くす為に。

 

【シンボリエウロス、日本ダービーを前に不調か!?】

 

 当然、新聞記者達はこぞって注目し、世間の反応はそこに集まる。

 ある事ない事を書かれる方が面倒だと、シンボリエウロス陣営はメディア露出の少なさの割に隠し事自体はしないので、その情報の伝播は非常に早かった。

 実際に事実だし、皐月賞でのシンボリエウロスの姿がより一層、その説得力を高めている。

 消耗がおかしくないだけの、異常な末脚。その対価。

 レース後、右脚から崩れるように倒れたあの姿。

 シンボリエウロスは、不調なのだと。

 

【荒れるクラシック戦線。日本ダービーには伏兵が潜むか?】

 

 かつての三冠ウマ娘の忘れ片見。

 再びの三冠が現実的に思えるだけの有力候補。

 それが揺らいでいた。

 絶対はかつての『絶対』ではない。

 

【シンボリエウロスは、三冠に至れるのか!?】

 

 シンボリエウロスの評価は極端だった。

 二極化しているというよりかは、錯綜している。

 

 ある者は、シンボリエウロスの三冠はそれでも揺らがないと言う。

 それほどの物を見た。現実感から遥かにかけ離れたあの末脚は、世界記録を一気に塗り替えた事も相まって国外からも注目が集まっているという。

 たとえ不調であっても負ける姿が想像出来ない。かつての『皇帝』の忘れ形見は、再びまた同じ偉業を成し遂げるだろうと。

 

 ある者は、シンボリエウロスの三冠は怪しいとも言う。

 事実、負けかけた。それを『皇帝』と同じくギリギリの消耗で抑えたと考える者もいるが、シンボリエウロスのあの、どう考えても負荷が大きい勝ち方の前でそれはイメージに合わない。

 皐月賞。メジロの血筋には注目すれど、本人そのものには然程注目が集まっていなかった伏兵、14番人気のメジロアルダンがシンボリエウロスに後一歩まで迫って来た姿もそれに拍車をかける。

 身体の丈夫さで語るなら、シンボリエウロスはかつての『皇帝』より優れていない。

 

 そしてある者は、それら全てをひっくるめて、それが良いと言う。

 

 シンボリエウロスが三冠を得るかどうかは、全く読めない。

 だが最初からそうだった筈だ。

 あのウマ娘は『絶対』に、勝つかどうか分からない位置から飛んで来る。

 それが本当に、ギリギリで飛び切るか、飛び切れないのかどうかを私達は見に来ている。

 

 もう一度、無敗の三冠が見たい。

 

 その気持ちは確かにあった。

 シンボリルドルフが残した功績を再び目撃出来るなど、一生に有るか無いかの世界だ。

 偉業が成し遂げられる瞬間は、いつだって美しい。

 

 しかし、もう既に一回見ているという思いもあった。

 姉が一度見せた偉業と全く同じ事を、妹がまたする。

 目新しさは薄れ、感動は減るだろう。どうしても。

 他のウマ娘の活躍も見たいと思う気持ちは、少なからず誰しもが持っていた。

 

 この二つの比率は、人それぞれである。

 新しくトゥインクル・シリーズに参入した若いファンや『皇帝』を追っていた当時からの熱狂的なファン。更にはトゥインクル・シリーズがトゥインクル・シリーズになる前の神の時代を過ごして来た者達。

 その全てが別々の期待を抱いてウマ娘レースを見ていた。

 

 勝って欲しい。勝って欲しくない。

 

 言葉にすればたったそれだけの事に、幾十もの想いが込められている。

 何十万、何百万の人の想いが寄せられている。

 それはトゥインクル・シリーズを中心として回る、一つの熱狂。

 全ての観客が思い思いの期待を抱いてトゥインクル・シリーズを見ながら、全ての観客が人知れず共有し始めた共通認識。

 後に、トゥインクル・シリーズが最も盛り上がっていた時代と呼ばれた理由の一つ。

 

 観客達はある種の、混沌を望んでいる。

 

 シンボリエウロスの埒外の末脚は、観客達の常識を過去のモノにした。

 だから裏切って欲しいのだ。想像を超えて欲しいのだ。

 私達の常識を、期待すらも。

 他のウマ娘達の挑戦と共に。

 

【オグリキャップ! 次走をダービートライアル、青葉賞へ】

 

 そしてその煽りを最も受けたのは、オグリキャップだった。

 シンボリエウロスと幾度競い合って来たウマ娘達ではなく、ましてや直近の皐月賞で『暴風』に風穴を空けた『ガラスの重戦車』でもなく。

 

 オグリキャップがシンボリエウロスと競ったのはたった一回。共同通信杯の一回。

 差は3バ身の2着。追い詰めたとは言い難い。

 

 だが彼女は、唯一シンボリエウロスの末脚に追い縋って来た。

 私達の常識を次の位相に引き上げていった、あの末脚に。

 

 超前傾視線。頭の位置が他のウマ娘の腰の位置ほどしかない、埒外の走法。

 残り200mから来る、二段階目のスパート。

 オグリキャップはその200mで、シンボリエウロスから1バ身も離されていない。

 

 無論、当時のシンボリエウロスの末脚はまだ完成されておらず、直近の皐月賞のような数字のラスト1Fではない。

 しかし観客達が見ているのは、たった1Fで最低5バ身を覆し、あまつさえそれを3F維持させて来たウマ娘の事実。

 たった1Fといえど、今までシンボリエウロスを相手に1バ身すら離されなかったウマ娘はオグリキャップしかいない。

 シンボリエウロスは皐月賞のラスト1Fで、12バ身を捩じ伏せた。

 しかしハナ差の辛勝。捩じ伏せた距離が11バ身だったのなら、彼女は負けている。

 

 ではオグリキャップが皐月賞に出走していたら——どうだったのだろう?

 

 意味のない仮定だ。

 オグリキャップほどの有力ウマ娘が皐月賞にいた場合、間違いなく前提条件が変わり、レースの展開も変わる。

 メジロアルダンと全く同じやり方で、オグリキャップはシンボリエウロスを追い詰められる訳でもない。

 

 しかし人は意味のない仮定なり考え、或いは意味がないからこそ好きに考えた。

 

 オグリキャップが皐月賞に出走していたら違ったのではないか。

 ラスト1F。最後の200mで驚異的な切れ味の末脚を持つ彼女だったのなら。

 皐月賞の2着は14番人気で期待薄だったメジロアルダン。3着は共同通信杯で6着、弥生賞で7着のサクラチヨノオー。4着は弥生賞で3着のヤエノムテキ。

 あの、と言葉が付く程度には超スローペースで荒れた共同通信杯で、サクラチヨノオーを抑えた上で2着を取ったオグリキャップの評価は高い。

 

【クラシック登録に間に合わず。オグリキャップ出走不可】

 

 出走していたら、の話を好き勝手に考えたのなら。

 次に至るのは当然、何故出走していなかったか。

 獲得賞金額も、そして実力も皐月賞に出走するに足りていた筈のオグリキャップは、事実として皐月賞にはいなかった。

 

 会長直々にスカウトされたらしいウマ娘。

 地方から来た怪物。カサマツの星、オグリキャップ。

 

 地方から来た灰被りの姫が、中央の猛者達を薙ぎ倒し、下剋上を果たす。

 その姿は地道な努力による這い上がりを好む国民性も相まって、シンボリエウロスとは全く異なる形で、元から注目されている人にはされていた。

 直近の第35回毎日杯でオグリキャップが圧勝し、中央のウマ娘を返り討ちにするような怪物である事は知れ渡っていた。

 しかも『芦毛』だ。走らないと言われている筈の。

 だから彼女の事情は、思っていた以上に早く世間に知れ渡った。

 

 オグリキャップはクラシック制度に阻まれ、クラシックレースに出走する事が出来ない。

 あれほどのウマ娘が。恐らく。きっと。いや間違いなく——シンボリエウロスさえいなければ、この世代で最も強いウマ娘であろう彼女が。

 

【求む——オグリキャップにクラシック特例出走を】

 

 人々は、口にする。

 オグリキャップは日本ダービーに出しても良い筈だと。

 

【オグリキャップが間に合わなかったクラシック登録は、最初の一回だけ?】

 

 ——それを決定的にした最初のきっかけは、ある新聞記者の青年が書いたタレコミからだった。

 

 オグリキャップがクラシック登録に間に合わなかったのは、10月の最初の登録。

 つまりは彼女が地方にいた頃に行われていた登録である。

 二回目。オグリキャップが中央に来てすぐの頃に行われた1月の登録は——何の不備もなく提出されている。

 ある名門のウマ娘——言葉を濁さずに言うのなら、シンボリエウロスが保証人の一人になり、最初の一回目の登録の分の署名と登録金も付随してある。

 彼女には斟酌の余地がある。早急に審議を開くべきだ、という署名をもシンボリ家名義で追加した上で。

 

 それは当然ながらURAには受理されなかった。

 

 だからこそ、更に続けたある青年記者の言葉が世論を一気に動かす。

 

 署名に不備はない。登録を行う期間の時間的余裕も間に合っており、オグリキャップがクラシックレースに出走する事は何の公平性を揺るがす事ではない。

 それでも尚、彼女の特例のクラシック登録がトゥインクル・シリーズの公平性を揺らがすと言うのなら、それはURAの怠慢であり組織的な欺瞞である、と。

 

 その発言はURAへの一切の忖度もなく非常に攻撃的で、かつ痛烈な批判であった。

 法そのものに異議を申し立てるのではなく、法の執行者足るURAが不完全であると糾弾したのである。

 その真偽はひとまず置いて、彼の記事は凄まじい発行部数と共に世間へと認知された。

 当然、彼の取材内容と実際の記事内容は、公平性の部分にまだまだ議論の余地がある。

 結論を急ぐ面があり、URAの怠慢の一言で言い切るには早い。

 トゥインクル・シリーズの法規制やURAの内情に詳しい者からすれば、一理はあるが……と唸り兼ねない。

 

 だが、一理はあった。あるのだ。

 

 何より事前の登録金と署名、及び二回目の登録の署名書。また——この事態を危惧していたであろうシンボリエウロスがURAに向けた『斟酌の余地あり、早急に審議を開くべき』の嘆願書には、ケチを付けるのが不可能なほどに不備がない。

 

 世論が、一気にオグリキャップ側へ傾いた。

 

 URAに攻撃的と言い換えても良い。

 目を凝らせば、URAに同情的な者もいたが少数だった。 

 巧妙、或いは悪質と言うべきだが、彼の記事には一切の嘘偽りがない。

 事実確認の裏付け自体は何処までも正しい。

 動こうと思えば動けた筈なのに、規則を優先してURAは動かなかったという構図が浮き上がっていた。

 

【再び——悪しき規則の犠牲者が生まれるのか?】

 

 ——そこに更なる燃料が投下されたのは、世論がURAへの疑念と不満に包まれていた後の事である。

 

 再び。二度目。

 人々はまだ忘れていない。

 かつて、大外枠でも良いから日本ダービーに出して欲しいと願い。

 そして全てが叶わなかったウマ娘の姿を。

 登録以前にクラシックレースへの出走権すら出生を理由に与えられず、適性ではないレースに出走した結果、レベルが違いすぎると対戦相手が出走を拒否し、ただのレースすら不成立になったウマ娘の名前を。

 

 彼女の名前は、マルゼンスキー。

 速さを競う世界で『スーパーカー』の二つ名で呼ばれた、赤いウマ娘。

 生涯無敗の、生きる伝説そのもの。

 

 多くの規則に縛られたマルゼンスキーの悲劇、更には彼女達の世代そのものの悲劇を忘れるには、まだ月日が浅すぎる。

 あの悲劇を生んだ規則達の法改正や認識の整備もまだまだ進んでいない中で、オグリキャップの現状はあまりにも、同情的な視線を集めた。

 またか。URAはまた取り零したのかと。

 

【オグリキャップ、日本ダービーの前哨戦『青葉賞』に出走!!】

 

 そんな中で、彼女のダービートライアルが始まる。

 日本ダービーに向けたとしか言いようのないオグリキャップの次のレースにして、ダービー前最後のレース。

 

『今日この青葉賞は、日本ダービーと全く同じ条件で施行されます!』

 

 世論の中で、今のオグリキャップに唯一足りていないものがあるとすれば、それはダービーウマ娘としての決定的な資格があるかどうかだけ。

 だから、人々は見ている。

 オグリキャップというウマ娘の強さを。

 オグリキャップの姿に、夢を見る事が出来るのかを。

 

『東京2400m、速さも体力も力強さも求められるタフなレースになりやすいこの舞台を制するのは誰か!』

 

 一介の地方ウマ娘。しかも走らないと呼ばれている芦毛。

 灰被りの彼女が、中央の歴史の中でもトップクラスに強いウマ娘を、日本一のレースで倒す。

 そんな夢に、本当に相応しいのかを。

 

『今スタートしました!! 注目の先行争い! 1番人気のオグリキャップは先段に控えました!』

 

 シンボリエウロスが勝って欲しいからオグリキャップはどうでも良いとか、シンボリエウロスの常勝は見飽きたからオグリキャップを日本ダービーに出させたいとか、もうそういう話じゃない。

 

『今1000mを通過! ペースは59.9秒! 雨の影響でぬかるんだ稍重バでこのタイムは中々のハイペースです! 本当に持つのでしょうか!?』

 

 ある者はシンボリエウロスの勝利を願い、ある者はオグリキャップの活躍を祈り、その上で観客達は示し合わせた訳でもなく、両者の対決を日本ダービーに望んでいる。

 

『最終直線に入りました!! ここで——ここでオグリキャップが抜けた! オグリキャップが抜け出した!! 先頭に立った!!』

 

 全ての観客が人知れず共有し始めた共通認識。

 観客達は混沌を望んでいる。

 それをたった一言にすれば、これに尽きるのだろう。

 

 私達は夢のレースが見たい、と。

 

『残り200m——ここで更にオグリキャップが走る! 更に後続を突き放す!! 』

 

 それはきっと、無神経な願望の押し付けであった。

 だがオグリキャップは、多くの期待と視線の中で自らの道を往き続けた。

 

『抜けた! 完全に抜け出しました! オグリキャップの独走状態のまま——』

 

 自らの立場を理解している。

 だから悠然と示し続けた。

 自分の価値と力を、証明し続けた。

 

『——今、ゴールッッ!!』

 

 人々はこぞって彼女の記録を見る。

 ダービーウマ娘だとしても何ら恥じらう事のない、決定的な資格の証明が確かにそこにある。

 

『記録が出ました! この記録は、オグリキャップの勝ち時計は——』

 

 オグリキャップの勝ち時計は。

 例年の日本ダービーの記録よりも2.0秒以上早かった。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 計、20万。

 後にトゥインクル・シリーズの歴史の中で最も大きな騒動になったこの事件の始まりを表す数字であるそれは、オグリキャップのクラシックレース特例出走に向けて集まった希望署名の数である。

 尚、希望者殺到による混乱を防ぐ為、規定数で署名書は打ち切られている。

 





 人々、ファンや観客による視点から見るクラシック登録問題。
 これは極めて一方に偏った正当性から見ている視点とも言えるでしょう。
 よって。

 次話。
 URA視点から見る、オグリキャップ特例出走問題。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。