それは、なるべくしてなった。
その日は朝から、特別に静かだった。
チュンチュンと朝のひばりが飛び回り、昇り切っていない陽の日差しはまだ涼しい。
静寂の朝である。静けさに比例して、ジリジリと鳴る目覚まし時計の音が耳に残っている。
多くの人は不思議と似たように起きた。
早く起きすぎてしまったなと、普段なら自らの不幸に溜め息を吐くだろう。
だけど、違った。
あぁ、運が良い。
何せ今日は——日本ダービーなのだから。
『トゥインクル・シリーズを愛する皆々様! 遂にこの時がやって参りました!!』
やはり特別な日というものはある。
何かが大きく変わった日。歴史に名を残す日。
後になってみればやはり、その日には確かに予兆があった。
5月29日。15:25。
中央のレースは基本的に日曜日に行われるとはいえ、その日の日曜日は普段の休日とはまるで違った。
中山から東京に振り替えとなった皐月賞の流れもあったのだろう。
人々は示し合わせた訳でもなく、東京レース場に集まる。
東京レース場最多動員数を更新。
必然的に歴代最多の観客数となった21万人の人々はスタンドに溢れ返り、一部入場規制を受けた人々は外部の大スクリーンの前に貼り付いていた。
府中に行く事も叶わなかった者は、各々の端末で一つのレースに眼を向けている。
『本日のメインレース! ウマ娘達の祭典!! 日本ダービーです!!』
良バ場。
振り替えにより施行回数が嵩んだ東京レース場のターフだが、その分増加した芝の換装タイミングにより、今日この日の芝は整えられた直後であった。
晴。
雲一つない快晴だ。肌を刺すような風もなく、それどころかほぼ無風。
春の暖かな日差しの中、ウマ娘が走る上で完璧としか言いようがない日に、今日この日本ダービーは開始の合図が成された。
「………………」
「緊張してるの?」
レース開始まで残り凡そ10分程かといった場面。
観覧席上部のビュースタンド席から下方を見下ろすシンボリルドルフは、腕を組んだ姿勢で寂寥と日本ダービーの始まりを見守っていた。
物思いに耽る皇帝である。
厳粛を重んじ物々しい雰囲気を放つ彼女に向けて、声をかけようとする人物はまずいない。
たが数少ない例外、マルゼンスキーは平然と問いかける。
隣の親友が、いつになく意識を何処かにやっているからだ。
シンボリルドルフは下方の日本ダービーを見ているようで、別の何かを見ていた。
「まさか……」
反射的に口を開いたのは、皇帝としての顔。
そうして言葉を発してから、自らの舌が乾いている事に彼女は気付く。
フッ、と苦笑いと共にシンボリルドルフは頷いた。
「……あぁ、緊張している。思っていた以上に今日この日を待ち侘びていたようだ」
「もう。どうせルドルフが考えているのはエウロスちゃんの事ばかりなんでしょうけど」
「……………」
図星だったのか、黙り込む。
「………そうだな」
いやこれは多分違うらしい。
マルゼンスキーは明敏に、今日の親友はいつになく心を過去に向けている事を察知した。
故に暫く黙った。
彼女はシンボリ姉妹の間に溝を感じた事はない。
ただ病と名門による隔たりを感じた事はある。多分、今がそうなのだろう。
マルゼンスキーは少し離れた位置から、年下の不器用な姉妹達を見守る事が出来る、良く出来たお姉さんなのである。
事実、マルゼンスキーの予想は正しかった。
シンボリルドルフの胸中に飛来しているのは、妹に向けた侘しさだった。
その侘しさは親友達が紛らわせる事は出来ても、埋める事は出来ない。拭う事も同様に。
妹は、成長した。
現役を引退した自分では、もう敵わない。
日本ダービー当時の自分でも、全身全霊をかけて対等だ。
妹は、そういう存在にまでなった。いつか全盛期の『皇帝』をも置き去りにしてしまうのだろうという予感は、飛翔を続ける妹からひしひしと感じている。
それは、良い事だ。
自分を越える存在が現れ、尚且つそれが実の妹と来れば喜びしかない。
己の身に受けた不条理を理不尽と受け取る事なく跳ね返して、実の妹が日の目を浴びている。
家族なのだ。私の妹が報われて良かったと思えるくらいに、姉は妹を愛していた。
だから。
こんな時になって、また思い出した。
それは自らの胸中に一針だけ突き刺さったままの後悔。
ベッドの上でしかまともに生きる事が出来なかった、あの頃の妹に向けた慰めの言葉。
『
それを転じて、皆全てのウマ娘に同じ魅力と存在価値があると告げた言葉は、直接的に何かを指していた訳ではない。
だが聡い妹はきっと気付いている。
——走れなくても良い。それでも私は、お前を愛しているから。
走れるウマ娘が、走れないウマ娘に向けたその言葉。
あれは妹に如何なる影響を残したのか。
あの日、沈黙と静寂の後に出た妹の小さな頷きはどういう意味だったのか。
シンボリルドルフは、未だに聞けないでいる。
「(だからなのか? マルゼンスキーの件があったとしても、お前がオグリキャップにここまで拘る理由は——)」
その時、ガチャリと勢い良く後方の扉が開いた。
急ぎで訪れた事が察せられる、やや粗雑な音。
飛び込んで来た——そんな表現が似合う形で訪れた、一陣の風。
「……セーフ!! ギリギリ間に合ったぁ……!!」
「たづなさん……?」
駿川たづな。
緑を基調としたスーツに身を包んだ、中央トレセン理事長秘書がそこにいた。
彼女は途中で走って来た事によってずり落ちた帽子を整えて、気付いたように顔を赤くする。
「い、いえ今日は日本ダービーですから! やっぱり直に見たいと思いまして!」
「またまたー。たづなさんだって、エウロスちゃんを見に来たじゃないの〜?」
このこの〜! とツンツンと指で突つき、うぐっ……と駿川たづなは目を逸らす。
今度こそ、これは本当に図星らしい事を察してマルゼンスキーはニヤリと口角を上げた。
見守って来た友人の晴れ舞台。そしてかつての夢の行末を間近に、マルゼンスキーは少し舞い上がっている。
「……そうですね。なんだかんだ、私はエウロスさんを見に来たと思います。本当ですよ?」
尚もちょっかいをかけてくる赤いスーパーカーの人差し指を払って、観念したように駿川たづなは言った。
「一目見た時から何かを感じていたんです。何となく、あっ! きっとこの子は凄い事をするぞって!」
目で追いかけ、目が離せなくなる。
何か言葉では言い表せない運命的なモノを、初めて会った瞬間から感じていた。
今年の日本ダービーは、近年稀に見るほどにレベルが高い。
出場するウマ娘達のレベルは、ここ十数年の中で最高だろう。
それでも一人のウマ娘が気になって仕方なかった理由は、今は確信となったただの予感だったのだ。
9戦9勝無敗。内レコード6。
それがシンボリエウロスの今の戦績。
無敗二冠がかかっている現在、ここで更に日本ダービーもレコードで勝利すれば、彼女はとある幻の記録と並ぶ事になる。
尤もその数字と記録を気にしているのは、駿川たづなしかいないけれど。
でも予感があった。きっと今日は、特別な日になると。
『さぁ本バ場入場です! 一生に一度の晴れ舞台に挑むウマ娘達を紹介しましょう!』
風を浴びるように身を乗り出して、下方を見る。
暴風。荒々しい、風の化身。
「フフ………やっぱりルドルフさんと似ていますね」
そのウマ娘はやはり変わらず、静寂の佇まいでそこにいた。
シンボリエウロスは空を眺めた姿勢のまま、何処を見るでもなく、物思いに耽ける姿で。
トゥインクル・シリーズは、大いに荒れた。
クラシック登録問題によって世論も荒れた。
URAには、責任がある。
選んだ。それでも選択した。そういう責任だ。
諮問委員長は憂いを帯びた顔で一人。日本ダービーを見ていた。
『さぁ本バ場入場です! 一生に一度の晴れ舞台に挑むウマ娘達を紹介しましょう!』
画面越しの熱気が、ここまで伝わって来る。
トゥインクル・シリーズの調停者である以前に、URAは運営者である。
正確な数は現在まだ集計中だが、今年の日本ダービーの観客動員数の推定は歴代最多を優に更新していた。
URAとしては、嬉しい悲鳴でもある。
今年度のトゥインクル・シリーズの盛り上がりを作った立役者は、良くも悪くもシンボリエウロスだ。
世論と登録問題を巡って若干の確執はあれど、その一点に関してはURAの誰もが認めた。
その中で諮問委員長は、URA全体とはまた別の視点でシンボリエウロスを見ていた。
彼女がトゥインクル・シリーズに出て来てから、一気に様々な事が変わった。
常識が変わり、観客の目線が変わり、更にはレコードが一気に更新されてウマ娘達全体のレベルが引き上がる。
元よりシンボリエウロスに目をかけていた。次のトゥインクル・シリーズを引っ張るような存在だと予感していた。とはいえ最近のウマ娘レースは革命的な事が起こり過ぎている。
風が向いて来た。
きっと、そう呼ぶのが良いのかもしれない。
時代の節目とはいつの間にか当事者として立ってしまってから空気感で気付くものなのだなと、彼女は嘆息する。
だから、その風に流されてしまった。
あぁ。そう言われたら、諮問委員長は否定出来ない。
彼女は自分を公平だと思った事がない。
公平である事を最大限心掛けながらも、彼女自身は一人の人間だ。
人である以上、何処かで間違えている。
その"人である以上"とは、自分はウマ娘ではないという区別も含んでいた。
彼女は目を閉じて、思いを馳せる。
ほんの二週間前。14歳の小娘でしかないウマ娘と本気で意見をぶつけ合った、あの日の事を。
「それでもNOです」
一人のウマ娘から多くの事を請われ、多くの説得を受けた。
それでも尚、明確な言葉を以って委員長は断言した。
オグリキャップの出走は、叶わない。
当然の話だろう。
シンボリエウロスの想いも、オグリキャップの現状も分かった。
URAにも過失がある。勿論オグリキャップには情状酌量の余地があり、同情的な立場でもあるだろう。
だがURAは情などでは変わらない。
何せ既に、情で訴えかけられた要求を跳ね除けているのだ。
マルゼンスキー。
彼女にダービーは与えられなかった。
大きく声を荒げれば、URAは簡単に変えられるなんて実例を作って良い訳がない。
シンボリエウロスが如何に声を荒げようが、オグリキャップの現状をどれだけ情に訴えかけようが、彼女の願いが通る訳もなかった。
感情論による外圧で、組織を動かしてはいけないのだ。
「…………」
「しかし今回の世論と貴方達の意見は多いに尊重します。規則の改訂を約束しましょう」
譲歩、という訳ではない。
URAのトップである彼女もまた、彼女なりにウマ娘達の未来を思っている。
意見と立場の食い違いさえなければ、彼女はシンボリ姉妹を非常に好ましく思い、協力を惜しむ事もない。
「【ダービー出走にはクラシック登録が必要】。伝統とも言えるこの——」
「納得……出来ません」
俯いていたシンボリエウロスが思わずといった形で吐露した心情は、諮問委員長の言葉を遮り、思いの
諦観に近い声色の、それでも足掻く声。
だが彼女の元来の性質や性格を思えば、それは喚いているのと何も変わらなかった。
「エウロス君……これ以上は」
咎めるように応えたのは、隣の秘書だ。
ただでさえ彼女達は険呑であったのに、これ以上は一触即発となる事を悟ったのである。
「……………」
彼女本人も、それを自覚しているのか。
シンボリエウロスは堪えるように口を閉じていた。
しかし諮問委員長には、
レース中の、ゾッとするような冷静さ。
今この瞬間にも彼女は何かを考え、二の矢を立てている。
追込である彼女が、勝負が終わるその瞬間まで何も諦めないように。
「納得、出来ません」
「……貴方が納得出来るかどうかの問題ではないわ。これは——」
「訂正します。貴女方URAの選択が適切だと思いません」
先程までは有ったであろう諦観が、急速に溶け落ちていく気配がした。
刹那の趨勢の中で競い合うウマ娘は、瞬間的な反応と思考速度が求められる。
種族的な本能、根本の部分で、彼女達ウマ娘はそういうモノに優れている。
普段は何処かのほほんとした、草食動物のような穏やかさを持つ代わりに。
ウマ娘と人の差。
それを純粋な走力ではなく、もっと本能的な、種族間の価値観と感覚の差としてまざまざと見せられた気がした。
クラシック最終登録期日。
日本ダービーの二週間前。
出馬表はまだ、確定していない。
ここが正真正銘、オグリキャップが日本ダービーに出るか出ないかが変わる最後のタイミング。
「分かっています。クラシック登録の改正をダービー直前で行う事が、貴女方の重じる公平性に反する事は」
「…………」
「最初から、分かっていました」
「認めるというの?」
自らの言い分に、正当性がない事を。
シンボリエウロスの主張は常に一貫している。
オグリキャップは日本ダービーに出るに相応しい。資格も条件も。
その為に特例を認めるべきだ。民意によって規則を変えるべきだ、と彼女は言っている。
だが絶対に一人はいるのだ。
特例を認める事によって日本ダービーを奪われる、とあるウマ娘が。
そのウマ娘の存在こそが、声を荒げればURAは簡単に変えられる、という実例の直接的な被害者と言える。
公平性に欠く。URAが最も重きを置くフェアネスに反する。
URAがこの主張を撤回する事はない。
「難しい、問いですね」
言葉を選んでいる。
諦観を捨て去りながらも、苦味のある表情でシンボリエウロスは答えた。
「私は本気で自らの主張を信じています。………正直に言います。私はオグリキャップの特例を通す事で、一人のウマ娘からダービーを奪っても構わないと、本当に思っています」
それは弱い、貴方が悪いのだと。
「私達の競走は、登録の段階から蹴落とし合いが始まっている。だがオグリキャップはその最初の競走にも入れなかった。入れるタイミングは確かにあった筈なのに、入れなかった事にしてしまった。そしてオグリキャップがその最初の競走に改めて入れた結果蹴落とされた個人は、登録序列が23番なら弾かれる事はなかった。だから、今の今まで実績を築き上げる事が出来なかった……日本ダービーに出るに相応しい格が足りなかった貴方が悪い。私は、本気でそう口にする事が出来ます」
もしも。
もしもシンボリエウロスの登録序列が24番で、オグリキャップの特例を許した結果、自分が日本ダービーから弾かれた場合も、彼女は同じ事を言う。
残念に思いながらも、自分に足りないものがあったのだから仕方がないと、自らが日本ダービーに出走が叶わなくなる事を認める。
「そして……私は当然ながら、その一人のウマ娘から本気で恨まれるでしょう」
だがそれは、シンボリエウロスだから言える事だ。
現実として彼女の登録序列は圧倒的1位であり、彼女の発言は対岸の火事でしかない。
そもそも彼女には、登録序列下位だった為に出走登録から弾かれた経験もないし、夢を目の前で取り上げられた経験すらない。
実際にお前がその立場になった時、同じ言葉を吐けるのかと問い詰められれば、彼女は答えられない。それだけはどうやっても出来ない。
「それでも」
彼女は、言う。
「私はオグリキャップに特例を許す方が平等だと思っています。URAが重んじる公平性よりも、正式に登録していたウマ娘からダービーを奪わない事よりも、これは重要な事です」
「………………」
「これを破った時、私達の競走から、私達が最初にこの規則を作った時の意味と意義を失う。私は貴方達URAの選択が適切だと思えません」
競馬。
それはあらゆるウマ娘の中で、誰が一番速いのか、誰が一番強いのかを選定する為の競走。
マルゼンスキーの時とは似ているが、しかし異なる問題。
これは変えられない血の話ではなく、変えられる筈の資格の話なのだから。
しかし。たとえ世論が特例出走を支持し、実際に特例出走が叶って喜ぶ者の方が多かったとしても、絶対に一人だけは失意に落とされるウマ娘がいる。
そのウマ娘のトレーナー、家族、夢を重ねた観客、全ての関係者が慟哭する。
だがそれでも、シンボリエウロスは言う。
今まで、己の脚で踏み砕いて来た数多の夢と同じように。
弱かった、貴方が悪いと。
「………………」
諮問委員長は、悩んでいた。
悩んでいる中で気付いた。
——…………?
オグリキャップはダービーに出せない。NOと言った。
筈なのに今更、何を悩んでいる——?
「……そして結局、これは何処まで言っても私の意見でしかありません。私はURAの選択が適切ではないと思っているだけで、私が正しい訳ではない」
再度、シンボリエウロスが口を開く。
気付いたように、委員長は思案によって俯かせていた顔を上げた。
「私がどれほど自らの主張の正しさを証明しても、貴女方のURAの選択も正しい。そこには意味があり正当性もある。私は個人で貴女方は組織です。どちらを選んでも悔恨が残らない選択肢にはならない」
後から過去の選択を否定するのは簡単だ。
しかし彼女達は常に今を生き、その場で出来る最善を模索し続けている。
故に今から起こる選択は間違いだったのではなく、全てなるべくしてなった。
そういう意味でシンボリエウロスは今、URAの選択を受け入れていた。
運命の瀬戸際。ここからやはりオグリキャップの特例が認められなくても、彼女はもうURAに牙を剥かない。
URAの選択は間違いである訳がなく、またシンボリエウロスが求める選択が正しい訳などないのだから。
URAと彼女の主張は、常に平行線だった。
URAは、声を荒げれば規則を簡単に変えられる実例を作るべきではないと言う。
彼女は、どれだけ声を上げても手出し出来ない規則に意味はないと言う。
URAは、今ここで特例を通すのは公平ではないと言う。
彼女は、今ここで特例を通さないのは平等ではないと言う。
両方が自らの正しさを主張する事に、もう意味はない。
これは両者とも、ある一面で正しく、反対の面からでは正当性がなかった。
「だからこれは、貴女方を脅しているのではありませんが」
前置きして、彼女は言った。
「私達はきっと、オグリキャップの幻影を追い続ける」
「…………何を根拠に?」
「私が今此処に立って、貴女と会話しているからです」
それは妙な説得感があった。
——何故?
胸中を掠めた納得に理解が及ぶよりも、それは早かった。
「私が貴女方に目をかけられているのは、史上初となる無敗三冠ウマ娘の妹だからですか?」
ドキリと、胸が跳ねる。
違う。そういう言葉が咄嗟に出て来ない。
——あの時、日本は間違いなく世界に届いていた!!
誰かが言った、その言葉。
誰にも発言者が分からなくて、だからこそ誰もが思っていたであろうその言葉。
世間から、更には国外からすらもそう言わしめた『皇帝』は何の脈絡もなく海外遠征の初戦で故障して、その言葉は幻に消えた。
シンボリルドルフの引退理由は、敗北ではなく故障。
URAはあの日から、シンボリルドルフの幻影を見ている。
スピードシンボリから続く、日本の呪いに等しく。
「それにURAは私の事を英雄か何かのように特別視していますが、私はそう大層な者ではありません。私の記録はいつか必ず破られ、私を越える存在はすぐにやって来るでしょう。私はただ、早かっただけです」
以前、彼女はURA賞受賞式のあの日も同じ事を言っている。
あの日以来となる今日の邂逅でも、彼女とURAの距離感は変わらない。
「ですがオグリキャップは違う。彼女のような存在はもう生まれては来ない。彼女が始めた時代だけは、もう二度と戻って来ない。それに気付くのは彼女が走り去った後です」
「……………」
「予言しましょうか。彼女が生まれて、彼女が過ぎ去ってから世界は変わった。地方と中央の距離は格段に近くなり、地方交流重賞が一気に加速するでしょう」
必然的に中央の路線も増え、新たな興行に繋がり中央の規模は増す。
地方から中央に行く者が増えるだけなら人材の流出に繋がるが、何も関係は一方向になる訳でもない。中央から地方に行く、という者も増えるのだ。競走がより熾烈になるが故。
また同時に、熾烈になりながらも地方と中央の距離が近くなる為、絶対的な参入者が増えるだろう。根本の母数が増し、新たな参入者により興行が拡大する。
地方所属のまま、中央のレースに出走する。
いずれ、そういう事も可能になる。
東海ダービーや九州ダービー、高知ダービーといった地方の代表的なレースの優勝者に優先出走権を設け、中央の路線に地方所属の枠を作る。
中央移籍による多大な資金と嵩む労力は、常に大きな壁だ。それが緩和するのだ。
地方交流重賞。
主に中央で2番手として軽視されがちなダート路線の開拓の、飛躍的な加速。
その具体案を、シンボリエウロスは説明しようと思えば説明出来る。
「それに何もレース形態だけではない。人とウマ娘の距離も短くなる。トゥインクル・シリーズの転換点が出来る。世界に向けた壁を一枚取り払う事になります」
地方と中央が近付く事による、路線の開拓。競走の熾烈化。
当然それは国内ウマ娘の強化に繋がり——転じてマル外ウマ娘への出走緩和に繋がるだろう。
海外の血によって、国内のレースが荒れる事はないと証明するのに、一歩近付く故。
「これは、オグリキャップがクラシックレースに出ていたら、より早く実現した筈です」
——彼女は何を視ているのだろう。
時折、このウマ娘を見ていて思う。
それはトレーナーの視点であり、URAの視点だ。
だが彼女の姿形はウマ娘で、行動意識もウマ娘そのもの。
瞳に映る、冷たい炎のような冷静さと熱意は姉譲りだが………そう認識している時点で、私達はかつての『皇帝』の幻影を妹に見ているのだろう。
間違いなく世界と日本を近付けた、あのウマ娘と。
そう。
振り返れば彼女は、クラシック登録の規則を一度足りとも下らないものだと断じなかった。
それでも変えるべきなのだと言う。一人のウマ娘からダービーを奪う悪辣さを認めた上で。
あくまで、オグリキャップを出す事によって予測される興行の拡大とは関係なく。
此方の方が平等なのだと。
過去も、今も、未来も。
彼女はきっと、自らが叶う範囲内で全てを平等に視ようとしている。
そういう事に、何となく委員長は気付いた。
「………先程のオグリキャップ一人の為にルールを変えるべきだ、という私の発言を訂正させてください。オグリキャップ一人の為だけではない。彼女と彼女に続くウマ娘達、未来の全てのウマ娘の為にどうか、今ここでルールを変えてください。オグリキャップに続く者達を作って、その道を途絶えさせないでください。私が言えるのはもうそれだけです」
『続きまして本日の注目株! 人気上位のウマ娘達の登場です!』
パチリと、目を開く。
深く腰掛けていた執務椅子からは、軋んだ重い音がした。
もうすぐ始まるらしい。
たったの3分もしない内に運命が決定する、夢のレースが。
あぁ。どうしてウマ娘達は生き急ぐのだろう。
何故あんなにも速く走り、そして美しいのだろう。
年老いた身では、彼女達の走る姿が眩しすぎる。
ここ数日、大事にしていたモノの優先順位が幾度と変わる中で、ウマ娘達の走る姿だけは変わらない。
諮問委員長は画面越しに夢のレースの始まりを眺めながら、手元をさする。
そこには、シンボリエウロスが以前からずっとURAの法務委員会に提出を続けていた、改正案の企画書があった。
【1.——クラシック追加登録の制度案と、その登録資金について】
【2.——特例出走を許可した場合に起こるであろう、マル外制度の代替案について】
【3.——マル外ウマ娘の出走軽減策と、軽減策に移るまでの解決しなければならない案件。及び軽減の具体案】
仮に名家の生まれで、且つ元々そういう風に養育されていたとして、今からもう自らの席を譲り渡してもURAがそれなりに機能しそうなのは一体全体どういう訳なのか。
いっそのこともう、樫本理子越しに取り込み始めるか。
あの姉上様には悪いが、中央の生徒会長よりも、此方の席に縛り付けたい存在である。
「本当に」
諮問委員長は、フッと笑った。
「生意気」
本名——獅堂香和。
獅子が牙を見せるような笑みだった。
最多動員数によって強化された入場規制。施行時間が押している日本ダービー。
レースが始まる前から息を吐く暇もない。集まっていた報道陣は、見出しに飾るに相応しい画角とタイミングを狙ってカメラを構えている。
日本ダービーの舞台に揃っていたウマ娘達が、改めてパドックに上がった。
『朝日杯で咲いた桜! 今一度、ここで咲き誇れるか!?』
サクラチヨノオー。6番人気。7戦3勝。
主な戦績:G1朝日杯FS 1着。
不調の中でも致命的な大敗を残す事はなく、気勢を盛り返して来た彼女の、その力強い意志に励まされた観客は多い。
彼女は手を胸に、気丈な瞳で前を見据える。
『咲かせ! 八重桜! 燃える闘志で刻むは無敵の二文字!』
ヤエノムテキ。5番人気。4戦2勝。
主な戦績:G2弥生賞 3着。G1皐月賞 4着。
重賞未勝利ではあるが、最初の2戦を両方大差勝ち。また弥生賞と皐月賞にて見せた競り合いの圧力と、自らの不利すらものとしない末脚勝負の熱に惹かれた人々は数知れず。
両の拳を構え、彼女は気迫を溜めていた。
『ようやく、彼女が戻って来た!! 脅威の末脚と弾丸シュートで敵を蹴散らせ!』
ディクタストライカ。4番人気。4戦2勝。
主な戦績:G2函館ジュニアS 2着。G1阪神JF 2着。
かつて阪神JFでシンボリエウロスを追い詰めた、ジュニア級最大の敵。
阪神JFの故障より一線を引き、復帰レースもなくダービーに直接乗り込んで来た彼女は、しかし圧倒的期待を受けた4番人気にまで返り咲いた。
コイツは、やってくれる。
そんな期待を裏切りそうにない、不敵な笑みで彼女は堂々と立っていた。
『メジロ家の誇りはここにあり! ダービーの栄光をメジロ家に捧ぐ最初の存在は彼女になるか!?』
メジロアルダン。3番人気。3戦2勝。
主な戦績:G1皐月賞 2着。
かつての期待薄は一転、皐月賞で見せたレース操作と自らの制御。
更にその先にあった、儚い見た目とは裏腹の重戦車の如き力強いスパート。
やはり今期は『妹』という存在が一味違うのかも知れない。
ディクタストライカを抑え、3番人気となった彼女は、今までと変わらない微笑みで観客達に手を振った。
『そして、次のウマ娘は皆さんお待ちかね——』
騒めきが、止む。
『いえ……これは先に彼女が………。えぇ、えぇ! そうですね! 先に入って来た、彼女の紹介から始めましょう!』
緑の勝負服を纏った、人形のようなウマ娘。
彼女には静寂が似合っている。
『未だ敗北なし! 単枠指定! 史上最速の、最も速いウマ娘!!』
——シンボリエウロス。ギリギリの接戦となった1番人気。9戦9勝。
主な戦績: G1皐月賞 1着。G1阪神JF 1着。G2弥生賞 1着。他G2・G3多数。
上がり3F。末脚勝負という世界に於いて、歴史上全てのウマ娘を敵に回しても尚勝利する現時点の最強。この世代最大の壁。
彼女の胸中を占めているのは、一体何なのだろうか。
シンボリエウロスは、憂いを帯びた顔で空を眺めている。
『そして、最後に登場するのは——!!』
歓声が、復活した。
『"二人目"の単枠指定!! ギリギリ滑り込んだ、カサマツのシンデレラ!!』
彼女には、静寂は似合わない。
だって彼女は地方から這い上がって来たヒロインであり、不遇を乗り越えて来たヒーローであり、人々にいつまでも愛される——アイドルホースなのだから。
『オグリキャップッ!!!』
——オグリキャップ。人々の熱意に押され続け、1番人気になってもおかしくなかった2番人気。15戦12勝。(中央成績3戦2勝)
主な戦績:G3毎日杯 1着。G3共同通信杯 2着。他、地方重賞多数。
クラシック登録制度に阻まれていた、地方からの来訪者。
しかし人に夢を見せる力のあるウマ娘。期待に応え続けて来た、等身大の夢。
純粋無垢なスーパーホース。
彼女は、夢の扉を開いた。
G1でのみ着用が許される白銀のような白いセーラー服を身に纏い、鷹揚に、夢のレースへの一歩を進める。
URAは、こう主張した。
オグリキャップには、中央入りした時点でクラシック登録権が与えられていなかった。
これはハイセイコーの時代から法改正を進めていなかったURAの落ち度であり、また1月時点の第2回クラシック登録では彼女には何の不備も見当たらなかった為、オグリキャップに改めて出走権利を譲渡する。
URAは、オグリキャップが特別だからクラシック登録を許可したのではなく、規則上に不備があった為改めて平等に権利を与えただけであり、結果獲得賞金額による登録序列がダービー出走上位に入り、日本ダービーの出走権利を得た事とは関係がない。
あくまでも、オグリキャップが日本ダービーに出走出来たのは彼女の実力に拠るものだ、と。
やはり、特別な日というものはある。
何かが大きく変わった日。歴史に名を残す日。
その日には確かに予兆があった。
芝の上。
念願叶った日本ダービーの舞台の中で、オグリキャップは不思議と落ち着いていた。
自分は本当に、日本ダービーに出ているのだろうか。
ふわふわとした夢の中にいるような、そんな現実感の無さが何処かにある。
「エウロス」
緑色の勝負服。
白い勝負服を背負ったオグリキャップは、対等な立場にいる。
それが彼女に、少しの現実感を与えた。
「ダービー。色々動いてくれたと聞いた。本当にありがとう」
思うようにやっていたら、いつの間にか風が向いて来て、色んなモノが良い方向に向いて、ダービー出走にまで一気に漕ぎ着けてしまった。
話を聞いている限りでは、規則とか裏の手回しとかURAへの直談判とか、自分では到底分からないやり取りをエウロスは沢山していたらしい。
それは間違いなく、自分には出来なかった事だ。
「貴方のトレーナーは、何か仰っていましたか?」
感謝を告げるオグリキャップに、空を見上げていた翡翠の瞳がチラリと向く。
此方の話を聞いているんだか良く分からない、何処か一方的で簡素な返事。
疾うに慣れているオグリキャップは、思い出す。
「何というか……少し怒っていた」
喜んでもいたが。
——マジかよ……本当に特例を押し通しやがった………!
オグリキャップは、歓喜に震えている六平トレーナーを初めて見た。
それだけ彼の中でも不安があり、その分喜びも大きかったのだろう。
後に、特例出走の追加登録金が通常の5倍となる200万に決定した事と、世論の動きによって急増した報道陣や各所へと相談、URAのトップ? の人に呼び出されたりと、色々怒ってもいた。
——無闇に世論を煽ってんじゃねぇ!
——もう少し此方に相談しながら話を進めらんねぇのか!
——なんでURAに向かって全力で喧嘩売ってんだアイツはぁ!
とは、六平トレーナーの弁である。
喜びつつも、怒っていた。
書類整理の手伝いに引っ張られて行ったベルノライトの苦笑いも、記憶に新しい。
「それは良かった」
フフ、とエウロスにして珍しい、温かな微笑み交じりに返される。
皮肉だとオグリキャップは感じなかった。
しかし疑問ではあった。
「……良いのか? それは?」
「別に、恩を売りたかった訳ではありません」
「そうか。なら、良いのか」
——全然良くないよ………オグリちゃん…………。
ここに常識人ベルノライトがいたら絶対に突っ込みを入れていたが、生憎ベルノライトはここにはいない。
「少し恨まれているくらいが、私には丁度良いです」
一瞬の憂いが風に攫われていく。
何かの含みを感じ取れるくらいには、オグリキャップはシンボリエウロスに慣れていた。
深掘りするほどの関係性は、なかった。
有っても、オグリキャップは聞かないが。
「それで念願の日本ダービーの景色はどうですか?」
「まだ、何とも言えない。私は走り切っていない」
だけど。
噛み締めるように口にして、彼女は振り返る。
「少し、胸が熱くなった。私はこんなにも応援されていたんだな」
満席を遥かに通り越した観客席。
その中には確かに、オグリキャップに向けた横断幕がある。
カサマツの星、オグリキャップと。
きっと、私の友人達もいる。
笠松に残して来たクラスメイト達もだ。
そしてその中には、キタハラも——。
「でも私は日本ダービーに出る為に来た訳じゃない。私はダービーを勝つ為に来た」
「はい。私も貴方がいないダービーを勝っても、勝った気がしないと思っていました」
「……その為だけに、ここまで協力してくれたのか?」
「さぁ」
肩を竦めて、笑う。
その姿にオグリキャップは、吹き出すように笑ってから、再び見つめ合った。
シンボリエウロスはきっと、こういうウマ娘なんだ。
他人の機微を見分ける目の良さがあって、人となりを慮れる寛容さがあるオグリキャップは、何となくエウロスと仲が良くなった気がした。
「では」
「あぁ」
——3分もしない内に。
「また」
「また」
——ここで会おう。
きっと3分後には、どちらかが手にした夢を祝福している。
もしも、どちらも夢が手に入らないなんて時は、仕方ないから二人で笑い飛ばしてその一人を祝福しよう。
緑の芝を踏み締めて、ゲートへと向かう。
ほんの少し先の未来では、夢の結実がどうなったのかが決まっている。
サクラチヨノオーが、ヤエノムテキが、メジロアルダンが、ディクタストライカが。
そして各々がゲートに収まり、係員達はコースの隅に避けていった。
ファンファーレが鳴る。
彼女達ウマ娘の門出を祝福するような、ラッパ隊の音だった。
| 1 | 1 | モガミファニー | | 2 | バンダムテスコ | 3 | メジロアルダン | 2 | 4 | インターマニアート | 5 | ファンドリデクター | 6 | コスモアンバー | 3 | 7 | シンボリエウロス | 4 | 8 | モアフォワード | 9 | ガクエンツービート | 10 | マイネルロジック | 11 | ナカミリーゼント | 5 | 12 | オグリキャップ | 6 | 13 | ギャラントリーダー | 14 | コウエイスパート | 15 | ディクタアース | 16 | ヤエノムテキ | 7 | 17 | マイネルグラウベン | 18 | コクサイトリプル | 19 | ハワイアンコーラル | 20 | ディクタストライカ | 8 | 21 | モガミナイン | 22 | ブレンニューライフ | 23 | サクラチヨノオー | 24 | クリノテイオー | |
|---|
5月29日。15:35。
日本ダービー、施行。
丁度、それは3分前の事である。
賛否両論ある……というか作中の世界観内でも絶対的に賛否両論があるという設定なので当たり前ですが、ここでは、このような形でオグリキャップの特例出走が通った。
という設定で話が進みます。
これは、作者の解釈の限界とも言えるでしょう。
私にはこれ以上に綺麗な形で、そして誰もが納得する形で追加登録を通す為の回答が思い浮かばなかった。クラシック登録問題の解決方を思い付かなかった、と言えます。
特例を認めた事によって日本ダービーを奪われたとあるウマ娘は? と考える方は、もうしばらく心の片隅で考え続けてみてください。
ただそれでも、ここでは選択の一つとして、オグリキャップの方が選ばれました。
当然ながら、史実や原作のようにそれでもオグリキャップの出走が叶わなかったルートもあるでしょう。
ただ、なるべくしてなった。そういう話です。
運命というモノもまた、なるべくしてなった。きっとそういう話です。