有効射程距離25バ身   作:sabu

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 それは、なるべくしてなった。


5/29 第55回 東京優駿・日本ダービー 

 

 東京芝2400。

 クラシック二冠目のダービー、ティアラ二冠目のオークス。更に近年では国際G1のジャパンカップなどの主要レースが執り行われる日本最大の顔。

 競、と聞いて思い浮かべるレース場はほぼ東京の芝2400mだろう。

 実際に日本ダービー以外でも多くのレースがここ東京レース場で開催されており、大半のウマ娘は東京レース場に慣れている。

 

 まず意識すべきは、距離。

 

 2400m。

 大半のウマ娘は、このダービーが2000mを超えるレースの初挑戦となる。

 この2400という距離は、長い。分類としては2000mと同じ中距離に分類される事が多数なこの距離だが、2000mと2400mには明確な壁がある。

 

 1600mのマイルと、2000mの中距離に等しい壁だ。

 

 2000mを走れて、2400mを走れないウマ娘は多い。

 そうでなくても、スピードとスピードを維持する為のパワーを重視されて来た競走から、スタミナと冷静さが重視される競走になる境目は、恐らくここ。

 特にそれが顕著に表れるのは、東京芝2400に於けるゴール手前400mにある坂である。

 

 要は2000m地点に存在する勾配。2.1mの上り坂を約180mで登る大きな坂。

 

 この坂は今年の弥生賞や皐月賞の1600m地点にも存在した。

 だがそれらのレースでは、直線勝負の展開とスピード重視の距離によってレース展開には然程影響しなかった。

 少なくとも、シンボリエウロスには影響しなかった。

 

 が、あくまでそれは距離が短かったからの事。

 2400m、の2000m地点に存在する急勾配。

 日本ダービーに出走するウマ娘の大半は、今まで最長距離を2000mでしか走って来ていない。

 2000mの感覚が身体に深く残ったまま、スピードとパワー重視からスタミナと冷静さを重視される境目の競走を求められる。

 道中で一杯一杯になっているウマ娘は、この2000m地点で一気に脚が止まる。

 或いはこの坂で一杯一杯になって最終直線が伸びなくなってしまったウマ娘も多い。

 故に後半の急勾配とレース展開を見極める為の温存策、スローペースからの最終直線504.2mを迎えた末脚勝負が、東京芝2400mにてありふれた展開だ。

 

 そしてここまでが——多少はダービー特有の施行時期の問題が絡んだとはいえ、あくまで東京芝2400mの特徴。

 日本ダービーだからこそ求められているポイントと特徴はまた別。

 

【日本ダービーは最も運のあるウマ娘が勝つ】

 

 その言葉が使われるようになったのは、神の時代からほんの少し経った境目の時代。

 東京競場に悲鳴と絶叫が交錯した、第36回東京優駿の事である。

 

 フルゲート28名。

 通常のレースの2倍近い数のウマ娘達が、位置取りを巡って第1コーナーに殺到。

 揉み合うようにバ群が犇き合う、その時であった。

 当時1番人気のウマ娘、タカツバキ。

 彼女は内外から押されて、バ群から浮き上がる。

 結果、脚をもつれさせ、行き場を失い転倒。

 大怪我を負い、競走中止となってタカツバキの日本ダービーは終わった。

 

【ダービーに勝つためには1角を10番手以内で回らなければいけない】

 

 府中で最も有名な、日本ダービーのジンクス。

 通称ダービーポジション。その言葉が生まれたのもまた、第36回東京優駿から。

 転倒事故で全てが終わったタカツバキの悲劇は、大きな起点であった。

 

 30名近いウマ娘が走る日本ダービー。

 ある程度前に位置取りをしなければバ群を捌けず、中段では囲まれて動きが取れなくなる。

 また内柵から外ラチまで目一杯ウマ娘達が広がる事などざらにある日本ダービーでは、後方からの追い抜きも難しい。

 

 だからバ群に隙間が出来る事は、真に幸運であった。

 枠番による立ち位置の差でも勝敗が大きく左右された。

 

 日本ダービーは最も運のあるウマ娘が勝つ。

 第1コーナーを10番手以内に回らなければ、ダービーには勝てない。

 この二つのジンクスは、フルゲート24名である今現在も依然として存在する。

 

『横一線! 綺麗なスタートです!!』

 

 それを踏まえてまず最初に動くのは、やはり逃げウマ娘。

 

『最内から、モガミファニーが一気に上がったっ!!』

 

 1枠1番。7番人気、モガミファニー。

 弥生賞、皐月賞で序盤の展開を築いて来た彼女は、やはり日本ダービーの舞台でも逃げを打つ。

 

 彼女はやろうと思えば追込も出来るウマ娘だ。

 だが出走人数の多いダービーで20名以上のウマ娘を捌き切って勝てるのは、ミスターシービーのような例外だけ。

 そして今日、一人だけいる。1番人気。世界最速と相成った例外中の例外。

 

 ならば彼女の脚質に残された選択肢は、やはり逃げの一択。

 何より最内だ。逃げにとって最も有利なのは内側。

 モガミファニーにとってこれは、類稀なる幸運であった。

 

 ——まずは第1コーナーを先頭で駆け抜ける!

 

 自分が叶う全速力で、モガミファニーはまずハナを奪い去る。

 第1コーナーを10番手以内に回らなければ自らの勝ちの目を見出せない以上、なり振り構ってはいられない。

 それで、最後まで保つか——?

 

 ——いいや……考えるなっ!!

 

 不意に湧き上がる疑念に構ってはいられない。

 皐月賞で行った大逃げのように、モガミファニーはかつてと全く同じ理由で、全く同じ結論に達する。

 

 ——それは出来れば止めて欲しいのですが……。

 

 そして、かつての皐月賞のように。

 全く同じ理由で、モガミファニーが前に出る選択を嫌ったウマ娘がいた。

 メジロアルダンだった。

 

 ——エウロスさんを迎え撃つなら、やはり前提としてスローペースの展開に持っていかなければ。

 

 このままでは、突き進むモガミファニーに釣られてハイペースになる。

 それは前目のウマ娘にとっては不利だ。

 無論、モガミファニーの気持ちは良く分かる。

 現実的な判断の上に常識的な基礎を積み上げて勝負出来るのは、あくまで相手の実力が現実の直線上にいる場合のみ。

 

 まともにやれば勝てない。

 

 モガミファニーに戦意はある。覚悟もある。しかし同時に心が折れている。モガミファニーはシンボリエウロスの事を、同じウマ娘だと思っていない。

 ならば、たった1%しかないような博打に賭けたくなるのは普通の事だ。

 何よりモガミファニーにとって、本当にそれくらいしか勝ち目がないのも恐らく事実だ。

 

 だがメジロアルダンは、やはり無謀だと悟っていた。

 アレではゴールまで保たない。

 

【ダービーを逃げて勝つのは難しい】

 

 東京優駿を代表する3つ目のジンクスもまた、有名だ。

 2000mから2400mに距離が伸び、スタミナと冷静さが重視される境目の距離がダービー。

 しかも2000m地点に存在する急勾配。感覚が大きく異なり、序盤で飛ばして疲弊した状態で迎えられるほどこの坂は甘くない。

 

 坂というのは、後半にある場合は逃げ・先行に不利である。

 

 これはスパートを二段階で行う事の厳しさと理屈は同じだ。

 逃げ・先行はレースを前半と後半に分割した場合、前半側で力を使う。その前半側で力を使った状態で後半に坂を迎えると、再び力まねばならない。

 消耗を強要される箇所が二箇所、つまり二段階になるのだ。

 故に坂は後半にあると逃げ・先行に不利であり、逆に前半にあると差し・追込に不利となる。

 

 だが日本ダービーには、1角10番手以内のジンクスがある。

 このジンクスを守る為には、誰しもが積極的に前に出なくてはならず——しかしレースを左右する坂がある都合上、前目に付けるのはやや不利。正確には序盤で消耗するのは不利。

 この矛盾するレース展開上、日本ダービーの第1コーナーはウマ娘達が非常に殺気立ち、大抵の逃げは無謀な賭けに玉砕するか、中途半端になって終わる。

 ダービーを逃げて勝つのが難しいと言われる理由は、そういう事。

 何より消耗戦となるハイペースで最も不利なのは、ハイペースを仕掛ける逃げウマ自身。

 基礎的な身体能力の差が、例えば条件戦ウマ娘と重賞ウマ娘レベルの差でもない限り、この競走はレース展開と消耗の度合いで不利を背負った者から即座に脱落していく。

 

 それでもモガミファニーは、『狂気の逃げウマ娘』に成ろうとしている。

 

 この日本ダービーを逃げ切って勝った、逃げという脚質の最初の特異点。

 破滅逃げという言葉と戦術を生み出した、稀代の逃げウマ娘。カブラヤオー。

 モガミファニーは、狂気の叩き合いに全てを賭けている。

 

 ——さて、どうしましょうか………

 

 自らのレース展開ごと勝手に賭けられている身分としては、それは面白くない。

 メジロアルダンは1枠3番だ。1枠1番のモガミファニーを食い止めようと思えば出来るが、虚弱の体質を持つ上での序盤の叩き合いは正直避けたい。

 あくまでメジロアルダンは、真正面からの消耗戦ではサクラチヨノオー、ヤエノムテキ、ディクタストライカといった面々とは競り勝てないのだ。

 

 メジロアルダンは、一旦外を見た。

 場の確認。他の逃げウマ娘達、全体のスタートダッシュがどうなったのか確認する。

 

「…………——」

 

 視線が交わる。

 それはメジロアルダンが知る限り、一度足りとも揺れた事のない、翡翠の瞳。

 シンボリエウロスが、ジッ……と此方を見つめていた。

 

『モアフォワードも一気に上がる……が、中々前に取り付けないっ!!』

 

 まずい——メジロアルダンがそう思った瞬間には、シンボリエウロスが動いていた。

 

 3枠7番シンボリエウロス。

 彼女は4枠8番のモアフォワードの進出を、普段と同じ要領で阻害する。

 

 モアフォワードは、逃げウマ娘。

 それも24番人気と最下位の人気である彼女は、破滅逃げを選択する。

 

 脚質、戦術、気性、前走の特徴、当日の調子。

 その全てからモアフォワードの選択を読み切っていたシンボリエウロスの、いつもの逃げ潰しであった。

 

『外からサクラチヨノオーが行く! 中段からはヤエノムテキが上がって来て、シンボリエウロスは後ろに控えたっ!』

「(——やられた。読み負けた………っ!)」

『注目のディクタストライカは外目の中段に入り、オグリキャップは先行! 先頭、モガミファニーは後続を大きく引き離し、これは大逃げの態勢でありましょうか!?』

 

 メジロアルダンが悟る、ほんの刹那の間である。

 ガラガラと崖が崩れ去るように趨勢が一気に傾き、実況が序盤の位置取り争いを知らせた。

 

 これがまず、スタートしてから10秒にも満たない時間の出来事。

 

 シンボリエウロスは、モガミファニーの破滅逃げを悠々と見逃す。

 その為に、単騎逃げがやりやすいように同等の破滅逃げウマ娘を潰したのだ。

 単逃げは楽逃げ。序盤から二人の逃げウマ娘が叩き合いを続け、中盤から力を失って後方に沈み、終盤に加速したハイペースが結局元に戻るのは、彼女にとって旨味がない。

 

 ——これでメジロアルダンは怖くはない。

 

 生まれ付き身体的弱点を持つシンボリエウロスは、展開を崩されると弱い。

 全く同じ理由で、生まれ付き身体的弱点を持つメジロアルダンは、展開を崩されると弱い。

 

 メジロアルダンが最も輝くのは、皐月賞のようなスローペースからの徐々にラップを加速させる消耗戦。

 中距離でありながらステイヤーとしての力量が求められる、ロングスパートに振り切った末脚勝負。

 

 無論それが最も怖かったからこそ一番最初に対処を始めた訳だが、対処が成功した今、脅威度は大きく下がった。

 ハイペースで不利なのは、前目のウマ娘。

 前方先行型のメジロアルダンと、後方追込型のシンボリエウロスでは、ハイペースによる消耗の度合いが全く違う。

 自分の思い通りに動いてくれないウマ娘の存在にも気を散らされるだろう。

 

 ——まぁでも……どうせペースはすぐ戻る。

 

 だがシンボリエウロス本人は、レース展開が自分の掌にある事を他人事のように、無感情で受け止めていた。

 それは、メジロアルダンが再び展開を戻しにかかって来るという意味ではない。

 G1。日本ダービーだ。出走しているウマ娘達の各々が、コース形態の有利不利と予想されるレース展開くらい頭に入れている。

 というか、そういう予測と対処を考える為の教員職としてトレーナーは存在する。

 シンボリエウロスというウマ娘の対策が常に考えられている以上、このハイペースは長くは続かない。

 

『ここで第1コーナー! 先頭はモガミファニーが、後方を8バ身ほど突き放して大逃げを続けています!』

「(まぁ、ここまでは事前の予測通り)」

 

 ——貴方のことですので、私が考えている事は貴方も考えている筈ですが、日本ダービーではペースを加速しません。それを逆手に取って序盤から先行型のウマ娘を揺さぶるのが吉だと思います。

 

 モガミファニーの進出、メジロアルダンの削り、モアフォワードの潰し。他全ウマ娘及び外目のウマ娘への位置取り争いの強要。

 

 ——確かにやり遂げておきました、トレーナー。

 

 樫本理子の事を思い出している中、視線の先では殺気立つ位置取り争いを終えた事で、一旦周囲を把握するウマ娘達の様子が見て取れた。

 第1コーナーまで直線、約350m。

 2F相当を勢い良く飛ばしたウマ娘は、ここらで一旦足並みを緩めペースを落とす算段だろう。

 序盤の読み合いに勝てれば、こうなるだろう事は予測出来ていた。

 

『ウマ娘達は向こう直線を目指し、コーナーを駆け抜けて行きます! ここでサクラチヨノオーが4番手にまで上がって来ました!』

 

 ペースを握っているのは、先頭のモガミファニーではない。

 2番手から4番手の、先行策のウマ娘達だ。

 一気に加速する先頭に距離感とペースを惑わされながらのレースメイクとなる訳だが、メジロアルダンとサクラチヨノオーが筆頭にいる以上、集中力を削られてくれたら御の字くらいが関の山だろう。

 展開としては、序盤の2Fである約400mは既にハイペース。向こう直線に入る辺りでペースが落ち着き、1000m通過タイムは総合的にミドルペースかややスローペース、と言った具合か。

 

 ——シンボリエウロスは……まぁ、だろうとは思っていたけど………!

 

 日本ダービー特有の展開では本来この人数で後ろは論外ながら、容易く後ろに控えて進むシンボリエウロス。

 多くのウマ娘が警戒を続けながらレースメイクを整える中、その稼いだ時間でシンボリエウロスは後半の展開の組み立てを続けていた。

 

『向こう直線!』

 

 残り約1500m。

 

『先頭モガミファニーは、後方に8バ身ほど差を付けて進みます! 最後方にシンボリエウロスが控え、先頭から凡そ25バ身!』

 

 コーナーを抜けて直線に入り、広がる視界。

 

 各ウマ娘の立ち位置。

 1枠3番メジロアルダン。4番手。

 先頭が垂れて来るタイミングにどうしても意識を割かざるを得ない中、ペースを整え、今一度レースメイクを行なっている最中。

 そろそろ展開に復帰して来る。皐月賞と同じ事を同じ精度でされたら、この人数では負ける。

 至極単純に、人数が多いとバ群が横長になり、後ろから差し切る難易度が上がるため。

 

 8枠23番サクラチヨノオー。5番手。

 物理的な距離により、スタート直後は外目から前に着くので精一杯だった彼女はレース展開に交ざれなかった訳だが、現在ここまで持ち直した。

 序盤の消耗。スタート2Fはハイペース。本来なら展開はスローペースが有効で皐月賞と同じように長い脚を使いたい。その全てが合致し、後ろを押さえて脚を溜めて来るのがほぼ確定している。

 

 6枠16番ヤエノムテキ。8番手。

 サクラチヨノオーと同じく、外目に持ち上げる事を優先した彼女はスタートのレース展開に交ざって来なかったが、最内を獲得。

 やや囲まれているきらいはあるが、消耗が少なく先頭のペースにも振り回されていない。何をして来るか読めず、この中で一番不気味。

 

 7枠20番ディクタストライカ。15番手。

 いっそのこと割り切って、前に出ず外目に付けた。

 囲まれていないがバ群の中で最も外。自らの脚質を鈍らせない為の差し切り態勢。

 立ち位置、展開、故障からの叩きなしにダービー乗り込み等の不利な要素が多いが、終盤の爆発力はこの世代最強である事に変わりなし。

 潜在的な脅威度が高く、また終盤の末脚勝負で最も邪魔になるのが目に見えている。

 

 そして、最後に——

 

『——ここでオグリキャップが段々と追い上げて来た!』

 

 5枠12番オグリキャップ。今、サクラチヨノオーの後ろ手に付けた6番手。

 やや外から追走する彼女は、位置的には陣形の右翼最前列。

 外を気にせず内側を見れる、俯瞰に適した位置。

 出走しているウマ娘の中で数少ない2400mを体験し、尚且つそれが東京2400の彼女が最終直線の坂で一杯一杯になるとは思えない。

 

 ひたすら純粋に強く、総合的な観点ではこのメンバーで一番底力がある。

 そして現状、レース展開で最も不利が少ない。

 笠松時代のスタイルもそうだが、彼女の友人であるフジマサマーチから聞いた印象の通りだ。

 オグリキャップは確実に、そしていつの間にかレース展開に於いて一歩先行した位置にいる。

 弱点らしい弱点も特にない。

 

 このままでは、順当に負けかねない。

 

 脳裏に飛来するは、以前オグリキャップに抱いた自らの負け筋。

 最終直線、残り200m地点でオグリキャップを追い抜けず、且つオグリキャップが自分と同じ速度の末脚を使う事。

 各ウマ娘、一人一人との競走なら十二分に勝てる自信はあった。

 が、これはレース。メジロアルダン、サクラチヨノオー、ヤエノムテキと言った先行勢とレースメイクを巡って争い、そこからディクタストライカと言った優駿と末脚勝負を凌ぎ合い、本命に届かない——そんな予想図は簡単に描けた。

 

 今現在、シンボリエウロスもレース展開的には不利。

 

 根本的に、24名出走のダービーでは後方からの追込が不利なのだ。

 最後方からのごぼう抜きとなると、一例もない。

 シンボリエウロスはその例外な訳だが、例外は何も無敵な訳ではない。

 彼女は単に一般論からある程度超越しているだけであり、そのある程度の高さ分引き摺り落されたら、シンボリエウロスは常識の範囲内で捕らえられる。

 ミスターシービーだって、日本ダービーはあくまでも捲って勝った。

 第3コーナー時点で6番手ほどの位置にまで上がってだ。

 

 シンボリエウロスは、勝負を迫られていた。

 

 それでも尚、最終直線の末脚勝負にかけるか。

 或いは、喘鳴症の縛りがある状態で捲るのか。

 もしくはまだ、レースの流れを変え得る勝負に入るか。

 

 日本ダービー。

 出走人数が多い。根本的に追込が不利。

 シンボリエウロスそのものへ対策が取られ、魔の第3コーナーからのロングスパートになるのが見えている。

 有力な先行ウマ娘が多く、レース展開の要が強固。

 通常のフルゲート並みの人数の先にいる先行に影響を与えるのが難しい。

 前に位置取りをして、バ群に絡まれての衝突は避けなくてはならない。

 

 出走人数が多い。

 孤高を好み、周囲の雑音を嫌うウマ娘は、極めて単純な人数の増加により苦戦を強いられている。

 

『ここで1000mを通過! 先頭のタイムは58.4!!中々のハイペースです!! 後ろのウマ娘達を9バ身ほど離して、モガミファニーが突き進みます!!』

 

 全体的には、まだまだハイペース。

 思っていたより、メジロアルダンは苦戦していた。

 結果的に逃げる、という立場になった事がない弊害だろう。

 そういう意味では、弥生賞で誰も逃げを取らなかったがため結果的に逃げてペースを作ったサクラチヨノオーの方が圧倒的に落ち着いていた。

 

 ——ならやっぱり、展開が動くのは第3コーナーからだ。

 

 先導するのはサクラチヨノオー。

 残り1000〜800m地点、大欅を迎えた辺りからのロングスパート。

 それにメジロアルダンも乗るだろう。乗らない理由がない。

 ヤエノムテキも、多分乗って来るかもしれない。

 ここに阪神JFでのロングスパートを再現してくるディクタストライカが入ると最悪。

 

 このハイペースだ。

 大欅、凡そ第3コーナーを過ぎた辺りから先行ウマ娘がバテて下がる。

 一部の有力なウマ娘は息を入れ直して長い良い脚を使う。

 そして迎えて最終直線は、展開有利を勝ち取った者達による純粋な実力勝負。

 これはいつもの東京2400の展開とも噛み合っていた。

 疲弊した先行群と、沈んで来たウマ娘達に後方の追い切りが呑まれる、極々普遍的な日本ダービーだ。

 

 展開としては悪い。

 

 それは基本的にいつもの事で、如何に一手で有利不利を変えるかが重要な訳だが、ここで喘鳴症以前の、追込の根本的な弱点が露出して来た。

 追込はレース展開に最も左右される。しかも普通、レース展開に干渉出来る位置でもない。

 故にシンボリエウロスは序盤から一気に展開に関わり、且つその後の先行勢のレースメイクに対し後出しで最適解を弾き出し続ける事に力を入れて来た訳だが、普通に対策され始めている今、使える有効な手札が制限されつつあった。

 

 ——………負けそう。

 

 普通に。

 

 ——もう、自分の末脚に全てをかける………。

 

 例外中の例外。スピードの向こう側。31秒台。

 自らが持ち得る最大の切り札。

 確実ではないが、勝機は残せる。

 

 でもこれは、皐月賞からの不調はまだ尾を引いているため最終手段。

 

 結局あれから、末脚は33秒台前半までにしか戻らなかった。

 本番である今なら、他のウマ娘に引き摺られる形で好記録を残せるだろう感覚は何となくあるが、自分の絶好調——あの領域にまで到達出来る自信は少しない。

 展開有利をしっかり構築した上での末脚勝負を諦めるには早すぎる。

 

『——おおーっと!! ここでモガミファニーが一杯か!? 後続が段々と追い付いて来ます!』

 

 ここで、先頭がバテた。

 後続の先行達は、垂れて下がって来たモガミファニーに対して何らかのアクションを起こさざるを得ない。

 避けるか——同じくバテて来ている自分を見つめ、息を整え直すか。

 

 後者になるのは分かり切っている。

 思い描くレース展開の予想図が、より確実になる。

 

『第3コーナーを目掛けて、ウマ娘達は向こう正面を駆け抜けます! さぁ! ここから一体どうなるのでしょうか!』

 

 刻々と迫る、タイムリミット。

 自身の不利よりも、相手に大きい不利を与える為の一手。

 選択を迫られる中でシンボリエウロスは、恐らく誰もが思ってもいない行動に出た。

 

 ——………800m辺りで、少し仕掛けようか。

 

 それはメジロアルダンは疎か、ダービーに出走している全ウマ娘……更には観客達すらも想像してもいなかった事だった。

 シンボリエウロスは必ず600mから仕掛けて来る。

 更に詳しい者は、シンボリエウロスは600mからしか仕掛けられない事を知っている。

 それを超えた距離から全力で走ったら、彼女の末脚は急激に悪化してしまうのだと。

 

 メジロアルダンが立てた予測は全て正しい。

 しかしまだ誰も気付いていない……というより発想の逆転というべき妙なのだが。

 シンボリエウロスは残り1000〜800m地点で、彼女の根本的な限界の縛りに一切触れず、場に干渉出来る戦術がただ一つだけある。

 あまりにも当然の事過ぎて誰もが忘れていて、だからこそ間違いなく初見でしか通用しない、騙し討ちのような一手。

 

 ——勝負は。

 

 それはシンボリエウロスの声でもあり、全てのウマ娘の声でもあった。

 多くの、各々の思惑を内包したまま、ウマ娘達の勝負は後半戦へと移る。

 

 ——第3コーナー………!!

 

 視界の先で、東京レース場の大欅が近付いていた。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 その日は朝から、いやに静かだった。

 

 チュンチュンと飛び回る朝のひばりはまるで救急のサイレンのようで、昇り切っていない陽の日差しは、翳りのような印象を受ける。

 静寂の朝だった。ジリジリと鳴る目覚まし時計の音が、何度も何度も、頭の中でリフレインし続けていた。

 

「………何故、ここに」

「私の妹が、貴方の世話になっていますから」

 

 体調の悪さを、察しの良い担当に隠しながら見送った樫本理子は、観客達からレースの始まりを見守っていた。

 視線の先にいるのは、当然シンボリエウロス。

 自分が担当しているウマ娘を心配そうに見守る彼女に近付いて来たのは、上部のスタンドビュー席にいる筈のシンボリルドルフであった。

 

「最近の、妹の方の調子はどうですか?」

「良くは……ないですね。直前の追い切りも伸び悩み、日本ダービーには万全の調子で送り出す事が出来なかった」

 

 深刻そうな顔で話す樫本理子に、そちらの方ではないのですがとシンボリルドルフは苦笑いを浮かべる。

 

「妹は元々トレーナーになるよう養育されていました。それに私達の競技人生がずっと順風満帆ではなかった事も知っている。それくらい妹も分かっていますよ」

「ですが私は、シンボリエウロスのトレーナーです」

 

 慎始敬終。

 最初から最後まで。そして何処まで行っても彼女はトレーナーであるらしい。

 一人のウマ娘として樫本理子の人となりは切なく見え、同時に若いなとシンボリルドルフは思った。

 

「私にはあの子の可能性を一つとして取り溢さず守る義務があり、正しく成長するよう見守る役目がある。シンボリエウロスのトレーナーは自分でないといけないのだと、あの子に面と向かって言えるようになってもこれは譲れません」

「……妹のトレーナーは貴方でなければならなかったと、私はそう思いますよ」

 

 シンボリルドルフは自らの杖と樫本理子を見比べ、やはり妹には彼女のようなトレーナーこそが相応しかったと改めて思う。

 

 二人の視線の先では、シンボリエウロスが走っていた。

 ただ一人シンボリルドルフの目には、妹は昔とは比べものにならないくらい、楽しそうに走っているように見えた。

 

「私は妹が、何の障害もなく生きていける事が一番大事です」

 

 ウマ娘として走る事に、何にも遮る事がないよう。

 それは、姉が一回諦めた光景。

 走れない妹を愛そうとして、走れる妹を諦めたあの日の感傷。

 

 シンボリルドルフは、妹が今日ここで負けても、それは仕方ないと思っている。

 

 だが、妹はすぐに持ち直す。

 それどころか、敗北に落ち込む事すらないかもしれない。

 妹はアレで中々、対策を考えて次に活かすのが好きなのだ。

 じゃあ次のレースで勝てば良いか、なんて考えをしているのが目に浮かぶ。

 そういう意味で妹が生き生きとしているなら、敗北の味は糧だと姉は認識していた。

 姉は、妹の可能性が広がり続ける事が最も大事だと思っていた。

 

「ですがそんな心配性な貴方だったからこそ、妹は伸び伸びと生きていけるようになったのでしょう」

「……………」

「貴方はきっとエウロスの事をずっと疑い続ける。万全な状態にも満足せず、もしかしたら何か手はあった筈だと考え続ける。それで良いと思います。でも、貴方がいたからエウロスの今があるのだと、それだけは信じても良いのではありませんか? ほら——」

 

 今だって妹は、不利の中でもずっと最善を模索し続けている。

 そうやって二人して、改めて向き直した視線の先で。

 

 もしも。

 もしもその時ふと思えばそれを、何かに導かれていた、と感じる時が来るのかもしれない。

 後になって見ればそれを、なるべくしてなった、と思える日が来るのかもしれない。

 

 阪神JF。あの時、暴風に風穴が空いた。

 共同通信杯。第3コーナーからの進出が勝利の鍵だったのではと悟られた。

 弥生賞。後に皐月賞に繋がり、弱点を暴かれた。

 皐月賞。根本的な限界が完全に暴かれた。

 

 残り1000〜800m地点からのロングスパート。

 それはシンボリエウロスの病、喘鳴症に由来する根本的な弱点。

 即ち、第3コーナーからの進出。

 

 それを、必然だったと考える関係者は誰一人として存在しない。

 後にどれほどの時が流れても。あの日の事を考える者は皆全て、もしもの話を口にする。

 私達は未だに、シンボリエウロスの幻影を追っている。

 

 でも、現実としてそれは起きた。

 その日、全てが重なっていた。

 

 無敗を貫き全てのウマ娘を敵にした1番人気。

 振り替え開催で連続した東京。

 特徴的な走りにより必然、収束する展開。

 喘鳴症に由来する弱点。

 右脚の不調。

 駿川たづなが感じた、運命。

 

 今までの何もかもが、ただ、その一点を通っていた。

 日本ダービー。東京レース場の。

 魔の第3コーナーへと。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 東京レース場の大欅は、呪われている。

 

『来た!? 来た、来た来たっ!』

 

 府中の大欅。

 それは第3コーナー付近のコース内側に堂々と鎮座し、正面映像と観客席からレースを隠している大木の事を指す。

 その大木は東京レース場の前身である目黒レース場が設立される以前から存在し、根元には井田摂津守是政という人物の墓があった。

 井田摂津守是政は、戦国時代の武士。

 更には鎌倉時代の御家人まで遡ることの出来る一族の人間であり、彼は当時の幕府から府中の開拓を一任された人物であった。

 

 この大木と墓は本来、東京レース場の設立と共に撤去される予定だった。

 だが当時、府中に根差した井田摂津守是政の墓守一族の大きな抵抗にあい頓挫。

 更には長い時が流れた今現在でも、墓守一族の霊験による恩讐なのか、大木の撤去に関わった複数の人物が怪死を遂げており、いつしか撤去予定そのものが消失。

 この大欅は撤去されずに残り、年に一回関係者の供養を執り行う伝統が今も続いている。

 

『まさか、シンボリエウロスがここで来た! シンボリエウロスが追い上げて来ました!』

 

 この大欅は丁度、勝負を左右する境目に存在する。

 故にそこは、一つの禁忌として扱われていた。

 残り1000〜800m地点。魔の第3コーナー。

 東京レース場の大欅付近では、多くの事故が起きて来た。

 

 ハクエイホウ。大欅付近で転倒。競走中止。競走能力消失により引退。

 スイノオーザ。ハクエイホウの転倒に巻き込まれ、同じく転倒。競走中止。

 タマノホープ。第3コーナーを迎えた大欅で故障。競走中止。競走能力消失により引退。

 ハクホウショウ。大欅を越えて左膝蓋骨脱臼。競走中止。競走能力消失により引退。

 ジョセツ。大欅付近にて骨折。競走中止。競走能力消失により引退。

 ヒデノホマレ。第3コーナー直前にて骨折。競走中止。競走能力消失により引退。

 グロリークロス。大欅を抜けた先で故障。競走中止。競走能力消失により引退。

 

 ■■■■■■(樫本理子の元担当)。疲労骨折。第3コーナー直前にて転倒。競走能力消失により引退。

 

『第3コーナーを越えて!大欅を抜けて! 大きく外から回ってシンボリエウロスが——」

 

 東京レース場の大欅は、呪われている。

 その呪いは、後の『異次元の逃亡者』にすら襲い掛かり、大きな、大きな爪痕を残す。

 

 だから。

 後になってみれば。

 もしかしたらそれには、予兆があったのかもしれない。

 ずっとずっと、前から。

 彼女の話が始まった、最初から。

 

『シンボリエウロスが——』

 

 何となく、誰もが思っていた。

 

 マルゼンスキーには、夢のレースは与えられず、故障が悪化して引退したのに。

 ミスターシービーは、夢の先に至る事が出来ず、故障から復帰出来ないまま引退したのに。

 シリウスシンボリは、夢であった世界の頂点になれず、新たに怪我が判明したのに。

 シンボリルドルフは、夢の半ばで、何の予兆もなく、何の脈絡もなく、突然故障したのに。

 

 唯一、シンボリエウロスだけは違うと。

 そう思い込んでいた。

 

 

その戦いに勝てれば、

辞めてもいいというトレーナーがいる

 

 

 クラシックレースにはそれぞれ格言がある。

 

 

その戦いに勝ったことで、

燃え尽きてしまったウマ娘もいる

 

 

 皐月賞。最も速いウマ娘が勝つ。

 菊花賞。最も強いウマ娘が勝つ。

 

 

その戦いは、私達を、熱く、熱く狂わせる

 

 

 では、日本ダービーでは何と呼ばれているのだろう。

 

 

勝負と誇りの世界へようこそ

 

 

 日本一のレースと云われ、ウマ娘の誰もが夢見る最高峰。

 東京優駿・日本ダービー。

 

 

ダービーへようこそ

 

 

 しかし最も権威を持つそのレースで求められているのは、速さでも強さでもない。

 そう。かつて1番人気のウマ娘が転倒事故で終わった日から、宿命付けられていた筈だ。

 日本ダービーは——

 

 

最 も 運 の あ る ウ マ 娘 が 勝 つ

 

東京優駿・日本ダービー

 

G I ・ 東 京 ・ 芝 ・ 2 4 0 0 m

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『——っシンボリエウロス転倒!! シンボリエウロス転倒!!』

 

 

 

 シンボリエウロス。

 最も速いの称号を持つ、皐月賞ウマ娘。

 しかも史上最速でもあっただろう彼女には、運がなかった。

 それは、生まれ付きから分かっていた事の筈だった。

 

 

 




 
 最も歴史と伝統、そして栄誉あるこのレースには
 一生に一度しか出走が叶わない  
 
 次話 Èkleipsis(エクリプス)

 それが如何に残酷なことか
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