——眠りすぎた。
意識がはっきりするよりも尚早く、無意識的に自覚する。
日常の延長線上にあるような、極々普遍的な焦燥と倦怠感。
「…………」
ゆっくりと夢から醒めるように再起する。
瞳に映るのは、酷く懐かしい光景。
ベッドの上から動けない日々。見飽きるほどに見て来た白い天井。
良く覚えている。生まれてから数年間、私の目覚めは無機質な白だった。
だが自分の状況を把握するより早く脳裏を過ぎ去った懐かしさに、反射的な違和感を覚える。
瞳に映る光景は半分。右目が見えていない。覆われている感覚。
特に意識する訳でもなく瞼に触れようとすれば——右手が動かない。
ギプスで固定されている。折っているのだろう。腕ではなく肩。恐らく。
あの時の転倒姿勢から考えるに右半身のダメージが大きいか。
事実今、右脚は全く動かなかった。
代わりに左脚はギプスが巻かれているが多少動くし感覚はある。
左手はかなり自由に動くようだった。
持ち上げた左手は、指が包帯で巻かれていて丸くなっている。
爪が剥がれているのだろう。それは仕方ない。爪なら1〜2ヶ月で戻る。
眠っている間に処置は行われたのか、或いは痛み止めが効いているのか定かではないが痛みはなかった。苦しい事も特にない。
喘鳴症が酷かった過去と比べれば、苦痛がない分はマシ。
補助装置なしに呼吸が出来て、記憶も自分が把握出来る部分では何ともなく、意識もはっきりしている。
自分の身の凡そを自覚しながら、私は左手の掌で右目の部分を触れた。
そこにはやはり、幾重に巻かれた包帯の感覚があった。
改めると、何となく頭そのものに包帯が巻かれている感覚がある。
額と側頭部を怪我しているのだろう。現状、脳にダメージを負っている感覚がないので大した傷ではない。これも1〜2ヶ月で治る。右目は単純に巻かれた包帯で見えないだけか。
……いや、どうなのだろう?
何となく右目に違和感があった。
恐らく何らかの処置がされている。
ここまで分厚く、右目を覆い隠すように包帯を巻くのかという疑念もある。
取り敢えず、左目は支障はない。
問題は脚だ。
ギプスで固定され、吊り下げられている右脚。
容態が分からない。悪い事だけは分かる。果たして復帰出来るのかどうか。
他の全てより脚の容態の方が遥かに大事で、右目も右手も肩も、他は別にどうでも良かった。
取り敢えず身体を起こして周囲を確認し——身体を起こせるから胴体は無事。左手もそれなりに自由が利くし、今回の病院生活は年以内に回復の見込みがあるのでそこまで苦にはならなさそう、とまで考えながら、それを見つける。
「あぁ………」
いたんですね、そこに。
そう言おうとした口が、止まる。
樫本理子。
私のトレーナーは、気絶したようにベッドに身を投げた姿勢でそこにいた。
「あー………」
窶れ、憔悴している。
涙の跡もあった。
あぁ、また迷惑をかけた。
彼女を心配させた。
それだけは、嫌だったのに。
「トレーナー」
声を掛ける。起きない。
多分、すごく疲れている。
このまま寝かせてあげたいところだったけど、状況把握の為には起きて貰わないと困る。
後姿勢が悪い。休むなら、しっかり横になるべきだ。
「トレーナー」
唯一動く左手で、肩を揺する。
起きない。彼女は魘されている。
「……トレーナーさーん」
その後、声を掛けながら肩を揺するのを何度か繰り返して、樫本理子トレーナーはようやく起きた。
ゆっくりと目が開き、はっきりとしていない意識の中で身体を持ち上げる。
あぁ、本当に心配になるくらい疲れている。
周りの状況がまだ把握出来ていないトレーナーの瞳に理解が灯るのに、少し時間がかかった。
私が彼女の疲労を推し量るに足るほどの時間だった。
「エウ、ロス」
「はい」
「………………」
「大丈夫ですか? ご飯は食べていますか?」
自分が何日眠っていたかは分からない。
多分長くて2日くらいだと思うが、それでもその間ほとんど食べ物が喉を通っていないのだとしたら心配だ。
窶れている彼女は、後もう一歩でどうしようもなくなってしまいそうな危うさがあった。
「——どうして、貴方から…………」
トレーナーは言葉らしい言葉では返さなかった。
瞠目。目を見開いてから、顔を俯かせて口を噤む。
「私は………」
ちゃんと言葉が纏まっていない。
自分の内側に向いた感情が声として放出されているだけで、彼女は私に話しかけていない。
こういう時、何を言えばいいのか分からない。
私の頭は、何を言っても意味がないとだけ言っている。
「…………」
彼女が落ち着くまで少し待って、それでもまだトレーナーは俯いたまま私の目を見てくれなかった。
心を通わす訳ではない、ただの事実確認から会話を始める。
「今何日ですか?」
「………6月1日です」
一瞬此方を向いて、再び沈むように俯く。
——感情の伴わない事実の確認なら出来る。その分、心労が危うい。
——三日眠っていた。まぁまぁ昏睡している。頭を打ったからか。
平行して二つを同時に思うその中で、私の目を見て話してくれないトレーナーの姿が気掛かりだった。
「主治医の方を呼んで貰えますか?」
「………えぇ」
ひとまず自分自身の容態が把握出来なければ、色んな話が出来ない。
多分ニュースやらメディアも大騒ぎしているだろうし、目が覚めた以上さっさと対応は済ませるべきだろう。
すぐさま、主治医は来た。
かつて私が喘鳴症を患っている事を伝え、その後も現在進行形で私の担当医を務めている人間。つまりは信頼出来る人であり、変に誤魔化しをしない人である。
彼は隣の席に腰掛けて、私の記憶の有無を確かめた後、ゆっくりと説明を始めた。
「まず、右手小指以外の爪が剥がれている」
治る。どうでも良い。
「全身の至る所に打撲と裂傷。肘から腕にかけてを少し縫っている」
治る。どうでも良い。
「右肩の肩甲骨骨折」
「手術は?」
「手術が必要なほどは折れていないし、ズレていない」
「関節と靭帯は?」
「無事だ」
じゃあ治る。どうでも良い。
「次に前頭骨と側頭骨にヒビが入っているんだが、頭蓋自体は変形していないから自然治癒で治る。ただ額からの出血が酷く、12針縫った。………女の子である君にはあまり言いたくないが、髪で隠せる位置だけど傷が残る」
「特に気にしないので大丈夫です」
跡が残るだけで治るなら、どうでも良い。
「………本当に、相変わらずだね」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
そう言われても、本当にどうでも良いのだ。
数年経てば傷跡も目立たなくなるだろう。
その間も髪で隠せる位置なら存在しないとほとんど変わらない。
身嗜みを気を付ける必要性すらほとんど生まれてないのだから、何の関心も抱けなかった。
「そして……ここからが本題だ」
彼の表情は、過去の思い出に存在するものと同じ。
喘鳴症を伝えた時の顔。深刻な物事を口にする瞳と表情。
「まず右目。単刀直入に言うが、失明しかかっている」
しかかっている……あぁ、まだ失明していないんだ。
そう思う私は、私自身の事を何処か他人事のように捉えているのだろう。
主治医からの何処か緊張した説明を受けても、未だ私は、周囲の悲壮感を共有する事が出来なかった。
他の周りの人だけが深刻そうな顔をしている中、私だけ何処か他人事のような気持ちで、自分の容態を聞いている。
具体的な症状、重度の角膜上皮障害。及び角膜実質の欠損。
要は瞳を守る一番外側の膜が異常を来たし、傷付いている。
その損傷が、瞳を守りレンズの役目を果たす中層の壁、角膜の9割を占める角膜実質にまで及んでいるのが今の状況だった。
私は今、光を透過するレンズの部分が全く機能していない。
「治るんですか?」
「………難しい。角膜上皮障害は通常4週間ほどで治る。軽度なら3日もいらない。ただ君の場合、角膜上皮のほぼ全てが欠落し角膜実質まで傷が達していた。その影響で水晶体も機能していない。もしも傷口から何かに感染して更に合併症を患えば、もう君の右目が光を取り戻す事はないだろう」
「合併症を発症しなかったら?」
「………勿論、回復が順調に進めば1ヶ月で淡く光を感じる可能性はあるにはある。しかしこれは1年以上経ってからの出来事になる可能性だってある。それに淡く光を感じるだけに留まり、それ以上の回復は望めない可能性だってある。ただあくまでも、治らない可能性の方が高い」
回復の見込みが薄い失明、といったところか。
喘鳴症とは違い、治る可能性があるだけ十分だろう。
片目だけならまだダメージは軽く済む。
片目が見えないままでも、レースには出走出来るのだ。
更に言えば、ウマ娘レースの規則にはしっかりと失明や視野の問題を記した項目がある。
機会があれば、メジロラモーヌに聞いてみよう。
彼女はトゥインクル・シリーズに挑む前、しばらく右目が見えていなかった。
「それで脚はどうですか?」
「………そうだね、脚だね」
新たなもう一枚の症例報告書を取り出して、主治医は上から下まで目を通した。
内容など、既に把握している筈のそれを。
「まず事実から言おう。左脚はⅡ度の筋断裂と根骨骨折。今はほとんど動かないだろうけど、3〜4ヶ月ほどで治る。後遺症はまずない。靭帯、関節は無事だった」
筋断裂。ディクタストライカが阪神JFで受けた故障である。
彼女はそれに加え関節炎も発症したから、怪我の具合は同じと言えよう。
私は関節ではなく骨を故障したので、やや軽度と言えなくもない。
何より競走能力は消失していない。
「右脚は?」
「……………」
やはり、そこか。
押し黙った彼の姿勢は、症例報告書の一点で止まっていた。
「右脚は……治るかどうかは………」
言葉を選んでいるような間。
乾いた唇を歯噛みし、元に戻る。
彼が再び口を開くまでに、十数秒の間があった。
「………右脚だが、まず左脚と同じⅡ筋断裂。それと腓骨の螺旋骨折」
つまり、膝から足首にかけての軸の一つが折れている。
………螺旋?
「君は覚えているかい? 最初に転倒した後、即座に体勢を立て直し、右脚を軸に制動をかけたのを。それにその右脚を軸に外ラチを蹴り飛ばし、更にはあり得ない速さの末脚を使ってしまったのを」
普通なら加わらない方向からの衝撃を加え、更に許容外の力を与えた結果、捻れ曲がって折れたのだと彼は説明した。
「体勢を立て直すのは、良くない事でしたか?」
「良くもあり、悪くもある。ただレースに復帰して再度走り出したのは医者の視点から言うと完全に悪い」
「…………」
「話を戻すけど、君が体勢を立て直し右脚を軸にした事で、本来受ける筈のダメージはかなり分散した。爪が剥がれたりだとか指先がボロボロになっているとかはあるけど、特に肋骨が無事だったのが大きい。君が肋骨を折っていた場合、喘鳴症と合わさって深刻な呼吸器系統の問題が発生していた筈だ。そして何よりも両脚の関節と靭帯も無事だった」
私の場合は肋骨だが、ウマ娘が最も壊してはならないのはまず関節。次に靭帯。
何故その二つがダメなのかを一言で言うと、関節の故障はまず完治する事がなく、靭帯の故障は極めて再発しやすいからである。
骨折はまだ故障の部類としてマシな方なのだ。極論、骨は固定部で関節と靭帯は稼働部。どちらが壊してはならないかは明確だろう。
だが彼の本題は別だった。
「ダメージが分散した分、左脚の根骨骨折も比較的軽度ではある。螺旋骨折も脛骨ならもうダメだったが腓骨だ。骨折自体はね、4ヶ月もあれば接合が済み、早ければ半年ほどで立てるようになると思う。その頃には他の怪我も治っているだろう。ただし」
聞けば聞くほど軽傷としか思えない前起きを挟んで、彼は最後の本題を話した。
「骨折が治る過程で、絶対に後遺症が残る」
それが、彼がずっと言い淀んでいたモノの正体だった。
「これは君の右目と違って僅かな可能性もない。間違いなく骨折箇所から骨が変形し、その変形した分だけ君の歩法は歪む。そのままにしておけば慢性的な炎症も抱えるだろう」
例えば、片方の靴だけ靴底を1cm上げたらどうなるか。
その人間は歩き出しただけで、いとも簡単に転ぶだろう。
階段を上れば、意識的に不自然なほど足を上げなければ片足を引っ掛け、走れば驚く程速度が出ない。
当然足への負担は片足にのみ集中し、歪んだ負荷は不均等に靭帯を痛め、そして膝を割る。
「君の螺旋骨折は手術がいる。それを加味しても完全には治らない。日常生活の範囲内に於いては、左脚の靴底の高さを調整すると言った形で補えるが、膝と足首の可動範囲までは変えられない。……これがどういう事か分かるね?」
かつてシンボリエウロスの担当医であったという主治医は、一切の誤魔化しもなく真実を伝えた。
右目。
現在は一切機能しておらず、失明。
治る可能性の方は低く、仮に失明状態が治っても視力が元に戻るとは限らない。
回復は絶望的。
右脚。
早ければ半年もしない内に立ち上がれる代わりに、絶対に後遺症が残る。
日常生活の範囲内に於いて、補助がなければ支障が残る。
かつてと同じ走り方はもう出来ない。
真実を知った時、この子は何を思うのだろう。
樫本理子は、それが怖かった。
シンボリエウロスは、空を飛ぶ。
その姿に、見惚れていた。年甲斐もなく興奮もしていた。
私の夢だった。彼女と同じ夢を見たいとすら本気で思うようになっていた。
そのシンボリエウロスが、翼をなくした時。
もう、空を飛べないのだと知った時。
彼女の笑みが翳るのだとしたら。
彼女が、彼女自身の夢を見る事が出来なくなってしまったら。
樫本理子は、怖かった。
「………取り敢えず、どうしましょうか」
顔の半分近くを覆い隠す包帯。
彼女は左目だけで、外の景色を眺めている。
「ひとまずシンボリ家には連絡。面倒ですが次に報道関係とも色々話を付ける必要がありますね。URAとトレセン学園は——」
「エウロス、その…………」
唯一動く左手で指折り数えようとして、その指先の怪我に顔を顰めながら、しかし、さも平然と話している彼女。
その姿に樫本理子はどうしても聞かざるを得なかった。
「大丈夫、なのですか?」
此方を向いた片側だけの瞳が、理解を灯す。
シンボリエウロスは、その一言で凡そを察したらしい。
いつものように。
「別に大丈夫ですよ?」
——本当に、いつものように。
「片目が見えないままG1を勝利したウマ娘はいます。右目は治らなくてもそれは仕方ないと思っていたので、治る可能性があるだけ良かったと思います」
「…………」
「脚も後遺症は残ってしまいましたが、今までと同じように走る事が出来ないだけで、同じ結果を引き出せなくなった訳ではありません。組み替えるように走法を変え、今までと同じ戦法・戦術を使う事は出来ます。競走能力そのものが消失した訳でもありません。それに私の頭は無事ですから」
今までと同じ走り方ではもう末脚は使えない。走るのも難しい。
だから走り方を変えて、力の入れ方を変え、再び同じ末脚を使う。走ってみせる。
彼女の発言の意味は、そういう事だ。
レース展開の操作も別に、鈍る訳でもあるまいし、と。
「尤もその調整やリハビリをどうするか、本当に復帰出来るかはまだ分かりませんが、今それを思い詰めても仕方ないじゃありませんか。私達がやるべき事は変わらないのに」
だとしても。
だとしても——それはおかしい。
仕方ない事だからと、自らの境遇を当たり前のように受け入れるのだけは、絶対に違う。
「エウロス。それでも貴方の怪我は軽いものではありません。障害が残るほどに重いものです。……それを、仕方ない事だと受け入れないでください」
「………そうですね、ごめんなさい」
違う。こんな事を言いたかった訳じゃない。
彼女を困らせたかった訳じゃない。
「あー……トレーナー?」
どうして、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。
担当しているウマ娘は以前のあの子とは違って、何処までも気丈で、何も諦めていなくて、泣いてすらいないのに、どうしてこんなに哀しくなる。
どうして……私だけが泣いている。
抱き寄せた彼女の体躯は細く、冷たかった。
現実が見えていて、現実を把握した上で大丈夫だと言っているウマ娘は、驚くほどに小さかった。
「エウロス。貴方の怪我は」
それは、最初から決めていた。
彼女がどうあっても、たとえ復帰がどれだけ絶望的でも。
もう今度は目を逸らさない。
トレーナーとして、私のやるべき事は決まっている。
「………絶対に私が治す。貴方を必ず復帰させる。絶対に引退はさせません」
「はい。しばらく迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
だから樫本理子は今だけ、彼女と同じように考えない事にした。
それはきっと、樫本理子だけが気にしている事実。
シンボリエウロスは当たり前のように、仕方がないからと受け入れている、その事実。
シンボリエウロスは一度足りとも自分の無敗が終わった事を口にしなかった。
三冠が終わった事すら、嘆かなかった。