有効射程距離25バ身   作:sabu

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6/12 第29回 G1宝塚記念

 

 日本ダービーが終わってから2週間。

 ダービーの表彰式は終わり、取材等も一旦の区切りを見せた。

 同時に発表される、シンボリエウロスの容態。

 

 オグリキャップは明らかに落ち込んでいた。

 

 日本ダービーでの混乱はひとまずの終着を見せ、今は次のレースに向けてトゥインクル・シリーズ全体が何とか動こうとしている最中。

 練習は真面目にこなす。話はちゃんと聞く。

 だが耳が、いつも力無く垂れ下がっていた。

 日本ダービー前のような熱意もない。

 

 ——最近のオグリちゃん、あまり食欲がないんですよ………。

 

 その心配さ加減から、六平トレーナーはベルノライトから直接打診を受けていた。

 

「オグリ。次のレースはどうする?」

「ちょ、ちょっと………!」

 

 部室に呼び出したオグリキャップに、早速次のレースの話を始める六平トレーナー。

 ベルノライトが眉を顰める。彼女は日本ダービーのトロフィーを見ては耳が地面と平行になっているオグリキャップの姿を知っている。

 あれだけダービーを目標にしていた筈のオグリキャップがだ。

 もう次のレースの話をするのは酷だ、とベルノライトは思っている。

 そしてそれは、友人としての気遣いだった。

 

「オグリ。お前はダービーに勝って、少し燃え尽きてしまったんじゃないか?」

 

 ——だからちょっと……!!

 ベルノライトが本気で咎めようという時、オグリキャップは深く頷く事で答える。

 

「………あぁ。その通りだと思う」

「オ、オグリちゃん………」

「日本ダービーを勝ったのに、嬉しくないんだ」

 

 目標だった。夢でもある。

 自分の為に、そして皆の為に定めた頂点の景色。

 そこには何もなかった。

 空の先は、無だった。

 

 あの時シンボリエウロスが転倒していなければ、結果は違ったのかもしれない。

 私が手にしているダービーのトロフィーは、エウロスのものだったのではないか。

 そんな疑心が、オグリキャップの心を占めている。

 

「(……だからと言って、あの転倒事故とオグリキャップの勝利は別物だと説き伏せる事に意味はない)」

 

 縮小したダービーウマ娘表彰式。

 あまりにも少ない、オグリキャップを讃美する言葉と応援。

 トレーナーとして思う事はある。だがそれを六平銀次郎は自分だけの胸に秘めた。オグリキャップが落ち込んでいる理由が、そこにはないからだ。

 

 もしも日本ダービーでシンボリエウロスが勝っていたのなら、オグリキャップは打倒シンボリエウロスを掲げていただろう。

 その逆でも、オグリキャップは迎え打たれる側としてモチベーションを維持出来た。

 だが結果として、シンボリエウロスは転倒事故による故障で離脱。

 オグリキャップに残ったのは最後の実力勝負の舞台で、最大の敵がいないまま勝ってしまったという、納得の行かない勝利のトロフィー。

 彼女には今、目標がない。

 

「アレが最後だったなんて、思いたくない」

「…………」

「早く元気になって欲しい」

「あぁ。心配だな」

 

 そう、あくまでもあの転倒事故とオグリキャップの勝利は別物。

 だから六平銀次郎は、一人のトレーナーとしてシンボリエウロスの故障を心配している。

 勝ち負けのみを考えるならシンボリエウロスは面倒極まりない存在ではあるが、別に嫌いな訳ではないし、学園に通う一生徒。

 教員職として、私情は持ち込まない。そもそもクラシック登録の件の恩義もある身だ。

 更にトゥインクル・シリーズに関わる者として発言するなら、時流に乗っていたあのウマ娘がこれで消えるのは損失があまりにも大きい。

 勝負の結実がこんな形で終了するのは収まりが悪いだろう。

 現状ですら、オグリキャップのように精神的に参っているウマ娘が多いと言うのに。

 

「(当の本人は、ゾッとするほどいつも通りだったがな)」

 

 あの事故から、オグリキャップ達はシンボリエウロスの見舞いに行っていた。

 六平銀次郎は主に樫本理子の方と話していて、シンボリエウロスに対しては軽く会釈するくらいだったが、横目で見ていて反応や態度くらいは分かる。

 

 一目見た瞬間からもう、彼女の佇まいには悪寒がした。

 

 右目、現在機能していない。

 右脚、ほぼ再起不能。

 その他重傷を身体中に負っていながら、彼女は普通。

 オグリキャップが彼女の怪我を軽傷なのだと勘違いするほどだ。

 むしろシンボリエウロスは、故障による容態を知って言葉に詰まったオグリキャップを見てようやく悲しんでいたくらいだ。

 本当に、申し訳なさそうに。

 自分の怪我にではなく、友人を心配させてしまった事に対して、悲しそうに。

 

「(………杞憂なら良いが)」

 

 シンボリエウロスは恐らく……いや間違いなく、誰とも悲壮感を共有していない。

 言葉に詰まったオグリキャップに向けていた、困ったような笑み。アレが酷く印象的だった。

 

「ろっぺい。私は菊花賞に出たい」

「………急だな」

「いや急じゃない。実は今まで悩んでいたけどようやく決心が付いた。私は菊花賞に出るよ」

 

 断定。そこにある意思が硬い事を感じ取りながら、六平トレーナーは真意を確かめる。

 

「一応、理由を聞こうか」

「クラシック登録の恩義を、エウロスから貰っているからだ」

 

 日本ダービーを終えたウマ娘が目指す路線は、凡そ二つに分かれる。

 

 1.菊花賞。

 京都レース場。クラシック最終戦。

 施行日は11月の第一日曜日か第二日曜日。

 距離3000m。

 

 2.天皇賞・秋。

 東京レース場。中距離最強決定戦。

 施行日は10月の第四日曜日か11月の第一日曜日。

 距離2000m。

 

 施行日に1週間しか間がないこの二つの競走は、規則的には可能であるというだけで両方出走する事はまずない。したウマ娘もいない。

 また菊花賞はクラシックレース。出走はクラシック級のウマ娘のみが出来る。

 対し天皇賞・秋はクラシック級とシニア級が入り乱れる現役ウマ娘達全ての中距離最強決定戦となる。

 

 この二つの路線を分ける最大の差は、距離。

 

 2000mと3000mは、ウマ娘によって得手不得手が全く異なる。

 求められている能力、距離適性、血統に保証される才能は全てが別物だ。

 皐月とダービーに出て、菊花賞に出ないウマ娘は多い。無論その逆も。

 

 もしもオグリキャップにクラシック出走権利がないままだったのなら、彼女の路線は『天皇賞・秋』一択だっただろう。

 だが彼女には『菊花賞』というもう一つの道が出来た。

 

「色んな人から応援されて、多く手を貸して貰って得た権利をここで終わらせたくない」

「…………」

「それにきっと、エウロスが復帰して来るなら必ず菊花賞に出る筈だ」

 

 三冠。

 その道は、既に絶たれている。

 だがそれでも、シンボリエウロスが戻って来るとしたら。

 

「(復帰、か)」

 

 六平銀次郎もシンボリエウロスの容態は聞いた。

 確かにアレは、長々と苦しむようなものでないとは思う。菊花賞にも出て来るかもしれない。

 当然、菊花賞までにリハビリが全て順調であれば可能性がある、という話だが。

 

 ——杞憂なら、良い。

 

 六平銀次郎は色んなウマ娘を見て来た。本当に色々なウマ娘だ。

 当然、故障して引退したウマ娘も沢山見て来た。

 シンボリエウロスの様子に、これといって変化は見受けられない。

 だが不気味だった。今は大丈夫でも、今後が不安だった。

 その理由に、ただ言語化が出来ないだけで。

 

「ろっぺい、頼む」

「……別に俺はお前を否定している訳じゃねぇよ」

「え………良いのか……!?」

「俺を何だと思ってる。良いぞ、『菊花賞』」

 

 シンボリエウロスが来るかどうかは分からないが、別に一つの路線としてオグリキャップが菊花賞を目指すのは構わないと思っている。

 そもそも、いきなり最初に次のレースはどうする? と厳しい言い方をした時点で、六平銀次郎はオグリキャップの口から出た要望はある程度聞く予定だった。

 オグリキャップの適性を考えるに3000mは長い気はするが、不安要素はそれくらいだ。

 

 1週間しか間がない菊花賞と天皇賞・秋の両方に出走しようとする………みたいな、明らかにおかしいローテーションを望んでいる訳でもない。

 オグリキャップなら3000mでも行けるんじゃないかと、そう思わせるだけのポテンシャルもある。

 本人がここまで熱意を持って菊花賞を望んでいるのならば、トレーナーとしてその道を舗装するだけだ。

 

「となると、菊花賞まではクラシック路線から無理に外れる理由もないな………」

 

 天皇賞・秋に向かわない以上、オグリキャップが争う相手は同年代のクラシック級となる。

 シニア級のウマ娘と争う必要はなく、菊花賞に専念するなら意識させる意味も特にない。むしろ不必要まであった。

 

「……………?」

「いや、何でもない」

 

 今日、とあるレースが執り行われる。

 上半期最後の締めくくり。グランプリ『宝塚記念』。

 グランプリの名の通り、最高位の大賞レースを意味する宝塚記念の出走ウマ娘は、通常とは違い観客のファン投票によって序列が決まる。

 要は、上半期の最強ウマ娘決定戦として位置付けられているのだ。

 

 このG1レースには、あのウマ娘がいる。

 いずれぶつかるであろう——しかし菊花賞を選んだ以上、冬を迎えるまでは競い合う事はない、弟子が担当している芦毛のウマ娘。

 もう一人の最強。

 もう一人の、追込。

 

「オグリ。菊花賞は長距離の3000mだ。菊花賞も本気で狙いに行くなら、今の内から長距離の練習をしないといけない。早速始めるぞ」

「あぁ」

 

 それは運命のすれ違い。

 オグリキャップは今日、宝塚記念を観なかった。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

「アキツテイオー、やっぱ1番人気か」

 

 中央トレセン学園。

 その学園内にある談話室内での集まりは、今でも定期的に行われている。

 サクラチヨノオー。ヤエノムテキ。メジロアルダン。そしてディクタストライカ。

 最近そこに、スーパークリークも集まるようになった。

 

 今日の集まりの主題は、宝塚記念である。

 

 上半期の締めくくり。重要な中距離G1のグランプリ戦。

 ファンによって選ばれたシニア級の強豪が争うこのレースは、クラシック級のウマ娘がいずれ競い合わなければならない怪物達の実力を測れる大事なレースだ。

 ディクタストライカが目を惹かれたウマ娘は、1番人気アキツテイオー。『マイルの帝王』と呼ばれる彼女は、短中距離の現役トップのウマ娘である。

 

 アキツテイオー。

 メイクデビューを大差勝ちして以降、中々2勝利目を挙げられず、2年前の皐月賞8着。更に日本ダービーを見据えたNHK杯8着の惨敗を経て、アキツテイオーは日本ダービーを諦める。

 以降、アキツテイオーは短距離マイル路線へと方針を変えた。

 ここまでは、何処にでもいるウマ娘の一人でしかなかっただろう。

 

 だが、そこからだ。『マイルの帝王』が目覚めたのは。

 

 前年度の『毎日王冠』を省けば、8着の惨敗を記したNHK杯から彼女は14連続連対中。その毎日王冠すら3着。

 つまりここ2年間、アキツテイオーは1着か2着しか取っていない。

 

 前年度のG1天皇賞・秋1着。G1マイルチャンピオンシップ1着。

 今年度のG1安田記念1着。

 

 中距離、マイルにて最重要視されるG1を3勝。

 更に前年度の安田記念、宝塚記念、前前年度のマイルCSで2着。

 他1400m〜2000mの重賞レースを複数勝利、または2着と優秀な成績を残して続けて来た。

 

 そんな彼女は、実はURA賞授賞式の会でも表彰されている。

 

『最優秀シニア級』

『最優秀スプリンター』

 

 その二つが、アキツテイオーが表彰された賞である。

 

 ジュニア級が、シンボリエウロス。

 クラシック級が、サクラスターオー。

 ならばシニア級は、アキツテイオー。

 

 宝塚記念で1番人気に挙げられた存在は、そういうウマ娘だった。

 

「お待たせ致しました」

「おー……あれ、オグリは?」

 

 遅れて談話室にやって来たのはメジロアルダン。

 談話室での集まりは、最近はオグリキャップにも広がっている。

 だがオグリキャップは未だに来ない。 

 聞き返すディクタストライカ。

 

「それが本日は、ゴールドシチーさんとの併走を組んでいたらしく……」

 

 ゴールドシチー。

 その名前に、談話室内のウマ娘達は瞠目した。

 

『100年に1人の美少女ウマ娘』

 

 尾花栗毛。非常に珍しいプラチナブロンドの毛並みを持つ彼女は、そんな二つ名を持つウマ娘として有名である。

 同性でも見惚れるほどの美貌を持つ彼女は、中央トレセン内のウマ娘達にもファンが多い。

 しかもトレセン学園に来る前からモデル業を務めていた彼女は今、国内に留まらない知名度と人気を持つ一流のモデルだ。

 

「あぁー、なるほど。シチー先輩か」

「ゴールドシチーさんと……?」

「多分、トレーナー経由。オグリのトレーナーは色んな人や場所にも顔が利くらしいからな」

 

 途中、驚いた様子のヤエノムテキに補足を入れつつ、ディクタストライカは納得する。

 

「(菊花賞だな)」

 

 彼女が見ているのは、ウマ娘としてのゴールドシチーの実力。

 ゴールドシチーは前年度の『阪神JF』の勝者なのだ。ディクタストライカが知らない訳がない。

 阪神JF以降ゴールドシチーは1着に恵まれてはいないが、彼女はクラシック三冠レースの全てに出走している。

 前年度の皐月賞と菊花賞は両方2着。ダービーが4着。

 

 そしてその皐月賞と菊花賞で1着を取ったウマ娘こそが『最優秀クラシック級』に表彰され、しかし秋に散ったサクラ軍団の王。つまりあのサクラスターオーである。

 サクラスターオーがいなかったらゴールドシチーが皐月賞と菊花賞ウマ娘だった、という単純な話ではないが、ゴールドシチーは2000mと3000mのG1レースの冠に値するポテンシャルを持っている事は確か。

 

 ゴールドシチーは、距離を選ばない。

 

 1600m。マイル距離の阪神JFを取っているのもそうだが、クラシックレース全出走だ。

 今年の春は、何と3200mの天皇賞・春にも出走している。

 しかもメイクデビュー当初はダートを走ったりと経験も豊富で、オグリキャップからすれば菊花賞に向けた併走相手として、これほどのウマ娘はいないだろう。

 

「こりゃオレ達も、気を引き締めないとな」

 

 ディクタストライカは菊花賞には行かない。

 生粋のマイラーである彼女に、3000mの距離は長いからだ。

 そうやって割り切っているが故の、心の余裕。

 同時にこの世代の風だったウマ娘が消えてしまったが故の、自覚。

 ディクタストライカは最近のレースに対し、特に燃えるような熱を感じていない。

 宝塚記念を前にしても、あまり。

 

『さぁ各ウマ娘、ゲートへ入ります!』

 

 それをおくびに出すほどディクタストライカは迂闊ではないし、腐ってもいない。

 だが多分、周りのウマ娘達もそうだろうなという感覚はあった。

 或いはこの世代のウマ娘達が、と称するべき共通の認識。

 日本ダービーが終わった、あの日から。

 私達は多分、風を失った。

 

『スタートしました!』

 

 ソファに深く腰を預けて、彼女は画面越しの宝塚記念を観る。

 会場の歓声とは裏腹に、談話室のウマ娘達は静かにレースの始まりを見守った。

 

『まず出て来たのはミスレディ! 内の方から各ウマ娘が出て来ました!』

 

 当然ながら、スタートを彩るのは逃げウマ娘。

 序盤の趨勢から中盤以降の展開を縁取るのは、ウマ娘レースの華である逃亡劇。

 

『アキツテイオー、内をついて上がったーっ!!』

 

 そして彼女が帝王足る所以もまた、逃げだった。

 6枠9番。1番人気。単枠指定。アキツテイオー。

 

 昨年の天皇賞・秋、マイルチャンピオンシップでは共に5バ身圧勝の逃げ切り。

 中距離2000mのG2函館記念では日本レコードを刻んだ。

 

 逃げという脚質は、理論上最も効率的だ。

 

 距離の最も短いインコースを常に突き進み、避ける・進路を変える等のロスや乱れもない。

 ウマ娘との接触や衝突、バ群に絡まれる等の消耗も最も少ない。

 一つの脚質を限界まで極めるとするなら、最も伸び代がある脚質は逃げの一択である。

 

『4コーナーを回り直線!! アキツテイオー躱したか!?』

 

 だとすればアキツテイオーは、現役世代の中で最も極まった逃げウマ娘だった。

 極まった逃げウマ娘は、レース展開を破壊する。

 スタートした瞬間にハナを奪い、1着を走り続け、ゴールするその瞬間まで持続させる。

 

 最初から最後まで先頭を走っていれば勝ち。

 

 単純極まりないこの理想論。

 レースに関わるあらゆる有利不利も展開も意に介さない、一つの極地。

 そして今日、この宝塚記念ではそうなった。

 最終直線に入るその瞬間までレース展開に語る妙などはなく、ましてや必要もなかった。

 

 アキツテイオーが最も強い。

 逃げウマ娘として、ひたすらに強い。

 ただそれだけの事で、序盤から終盤までの出来事が終わる。

 

「ハハッ、マジか」

 

 いっそ清々しいほどの逃げ切り。

 一つ世代。その代表の名に恥じない怪物の逃亡劇。

 ディクタストライカ達の世代は、まず逃げを潰す事からレースを始める追込ウマ娘のせいで、逆に逃げという脚質の造詣に深い。

 対処しなければ、この宝塚記念のようになるからだ。

 

「オレ達もいずれ、こんな奴等と走らなきゃならない訳か」

 

 しかしそれを踏まえたとしても、対処すれば問題ないと思えなかった。

 彼女達の世代に、アキツテイオーほどの逃げウマ娘がいないからだ。

 もしもアキツテイオーと彼女達が競い合う場合、普段の競走とは何から何までガラッと変わるだろう。

 一つ上。或いは二つ上のウマ娘達といずれ争うかもしれない日の事を、ディクタストライカは冷静に推し量っていた。

 

『アキツテイオー! 先頭!!』

 

 依然、先頭はアキツテイオー。

 ズッ……と姿勢を沈め、更にスパートを姿勢を取った彼女は加速する。

 アキツテイオーには未だ余力があり、ここで二の足を使ったのだ。

 

 本当に2200m逃げ切ってしまうのか。

 脅威的な伸びを見せるアキツテイオーに、誰かは勝ちを確信して最終直線の推移を見守る。

 

『な、な———』

 

 その横を。一瞬で。

 芦毛のウマ娘が抜き去った。

 

「——ゴォォーーーールッ!!」

 

 それは鋭さの象徴。切れ味の異名。

 芦毛。白い毛髪を棚びかせた——白き稲妻。

 

『宝塚記念を制したのは——」

 

 2枠2番。2番人気。単枠指定。

 追込。

 

『——タマモクロス!!これが天皇賞ウマ娘の貫禄だぁぁ!!』

「……マジか」

 

 宝塚記念の衝撃的な結末にディクタストライカは言葉を失う。

 主戦場を同じくマイルとする彼女は、アキツテイオーの強さを良く知っている。

 無論それは、シニア級の面々もそうだろう。

 

 シニア級とは、アキツテイオー。

 

 かつてジュニア級とはシンボリエウロスであったように、シニア級のウマ娘達世代では、ほぼアキツテイオーの独壇場であったのだ。

 何よりアキツテイオーは強かった。

 2年間に渡り17戦して、1着か2着しか取ってない。

 今日の宝塚記念でもそうだった。

 限りなく計算通りと言っていいレースをし、折り合いも完璧だった。

 このままアキツテイオーの1着で決まり……そういうレースをした。

 

 それを更に上から覆い被せ、叩き潰すように勝った追込ウマ娘。

 

 序盤から中盤まで、しばらく後方に位置。

 しかし向こう正面でアキツテイオーを視界に入れた5番手中群まで一気に上り、第3コーナーでアキツテイオーの追い抜き待機姿勢に入り外側へ移動する。

 最終コーナー、アキツテイオーが完全に抜け出したのを見て、白い稲妻は動いた。

 最終直線。残り200m。

 アキツテイオーを並ぶ間もなく交わし、2バ身半離して圧勝。

 

 そして忘れてはならない。

 宝塚記念の開催場所は京都レース場だ。

 つまりあそこには淀の坂と、スパイラルカーブがある。

 

 その淀の坂で、タマモクロスは外目に回っている。

 彼女は淀の坂で、捲り切って勝ったのだ。

 

 タマモクロス。

 長距離3200m。G1天皇賞・春の覇者。

 ファン投票1位に推されて宝塚記念に出走するも『マイルの帝王』アキツテイオーとの対決で、2200mという中距離での実戦が不利と取られ2番人気に収まる。

 

 だが、結果はこれだ。

 

 追込はレース展開に左右される。

 だがタマモクロスは、逃げウマ娘を自由にし、淀の坂で捲って勝った。

 シニア級とはアキツテイオー。そういうウマ娘を相手にして。

 

 勝ち方が強すぎる。

 

 こんな事が出来るウマ娘は。否、追込ウマ娘は——現役の中でタマモクロスしか存在しない。

 不利を不利なまま勝ち切る抜群のセンス。淀の坂を捲れるほどのスタミナとロングスパートの適性。末脚の驚異的な持続性と爆発力。

 語るまでもないだろう。今の中央で最強は、タマモクロスだ。

 

「——違う」

 

 画面の先の歓声と一つの脚質の極みに、ヤエノムテキはいつの間にか、拒絶するように言葉を発した。

 底から絞り出すような、低い声。

 受け入れてはならない。決してそれだけは。

 静かに憤る声が、談話室に響き渡る。

 

「ヤエノさん……」

「違う。シンボリエウロスの方が、強かった」

「…………」

「エウロスさんの方が、怖かった……!」

 

 仰ぎ見たあの空を、覚えている。

 己の全てを賭して手を伸ばしても尚すり抜けていくような、宙そのもの。

 翼の生えた、あの背中。

 

 私達は、それを何よりも知っている。

 私達が、ずっとずっと分かっている。

 

「今の中央で一番強いのは……彼女だ………!!」

 

 あぁ。その問いの答えが出る事はない。

 だってシンボリエウロスは今、走れないからだ。

 現役最強は、タマモクロスである。その事実は変わらない。

 覆せる日がいつになるのかは、分からない。

 

「…………」

 

 画面の先の歓声とは裏腹に、彼女達の世代は静けさを保つ。

 ディクタストライカはソファに背を投げ出して天を仰いだ。

 

 クラシック三冠。

 その三冠目、菊花賞までもう半年もない。

 

 ディクタストライカは菊花賞には行かない。

 そうやって割り切っているが故の心の余裕。そして自覚。

 ディクタストライカは最近のレースに対し、熱を感じていない。

 今日も、特に感じなかった。

 

 彼女達の世代の静寂は、まだ続いていた。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 日本ダービーを終えたウマ娘が目指す路線は、凡そ二つに分かれると言った。

 

 1.菊花賞。

 2.天皇賞・秋。

 

 両者共に施行時期は11月付近。

 冬が近づく秋頃であり、春の終わり頃に施行される日本ダービーからかなり間が空く。

 皐月賞と日本ダービーには一月ほどの間しかないにも関わらずだ。

 故にこの道中、夏に何か大きいレースがあったり、または他の路線はないのかと気になる人もいるだろう。

 

 結論から言うと、ない。

 

 夏競

 という古い漢字を使用するため現代では馴染みがないが、凡そ6月の終わりから9月の始まりのレース形態及び中央のシーズンを指す言葉である。

 

 この夏競のシーズンを具体的に表すと『URAが管理している10つの開催地の内、東京、中山、阪神、京都の主要競場でレースが開催されない期間』を指し、その期間は『宝塚記念の翌週土曜日』から『主要競場でレースが施工される前週の日曜日』までである。

 この時期中央では、上記の4つの主要競場ではレースは行われず、『札幌、函館、新潟、福島、中京、小倉』の6の競場でのみレースが行われる。

 

 理由は3つ。

 

 1. 主要競場の調整。

 各重賞レースを行って痛んだ芝やレース場全体のメンテナンスを取り行う。

 それが1年の半分が過ぎ去った6月半ば。夏シーズンに突入する直前のタイミングなのだ。

 

 2.梅雨の時期の開催を避ける為。

 これは上記の理由とも多少重なるが、夏の時期には梅雨があり、良く雨が降る。

 雨が降ればバ場は痛み、レースは荒れる。故にこの時期はレースが行われず、またメンテナンスを行う。

 

 3.ウマ娘達の身体的理由。

 今更だがウマ娘達は、人間以上の身体的能力に比例した代謝機能を有するため体温が高い。

 人間の平均体温が35〜37度とするなら、ウマ娘達の平均体温は36〜38度だ。

 それ故にウマ娘は人間よりも熱に弱く、夏の時期にレースを取り行うのは避けられる。

 

 夏のシーズンは、主要のレースが行われない。

 この時期に活性化するレースは札幌、函館、新潟、福島の避暑地で行われるレースであり、そのレースでも主にG3。

 G2は中京の『高松宮杯』と札幌の『札幌記念』のみ。G1は一つもない。

 

 更に、2ヶ月が経った。

 

 当然と言えば当然だ。

 この時期に主なレースがないからだ。

 地方のレースや先の避暑地開催のレース場なら多少話は違うが、彼女達の所属は中央で、しかもG1といった主要レースを路線とする身。

 出るレースが存在しない以上、この時期は休みとなる。

 世間的には夏シーズン。学園的には夏休み。合宿に行くウマ娘も多かった。

 とあるウマ娘の故障。そして戦線離脱も重なってトゥインクル・シリーズが一気に休眠化する中——当のシンボリエウロス本人は、変わらず病室で過ごしていた。

 

 日本ダービーの転倒事故から2ヶ月半。

 

 指先の怪我はほぼ治った。

 右肩の骨折も予定通りの快復を果たし、もうかなり普通に動く。

 更には筋断裂も完治していた。

 

 本来の予定より1ヶ月ほど早い左脚の回復。

 これを主治医はシンボリエウロスが持つ驚異的な靭帯の強度と、関節・筋肉の柔らかさが理由だと推察した。

 シンボリエウロスは、末脚が速すぎる。

 他のウマ娘が同じ速度を出せば、ほぼ間違いなく脚が壊れるだろう速さだ。

 しかし彼女は、末脚の速さが直接的な原因で骨折や靭帯の損傷はしていない。

 それを成し遂げている、鋼のようでいてゴムのような脚の柔らかさ、瞬間的な衝撃に対する強度が通常よりも早い回復に繋がった、と推測された。

 

 もっとも、重要な右脚の容態は変わらない。

 

 右目も運が良ければ1月ほどで光を感じると言われてはいた訳だが、現在視野機能は変わらずだ。

 取り敢えず退院は少し早くなったかな、といったところで彼女は、車イスから松葉杖で動けるようにする為の初期段階のリハビリがそろそろ始まる時期になっている。

 

 そんなシンボリエウロスは現在、自由に動くようになった両手で論文を書いていた。

 

 主にURAの法務委員会、広報委員会に見せる物である。

 何せやる事がない。動かせるのは自分の頭くらいなもので、ならばオグリキャップの件と自らの故障の件で色々と迷惑をかけたURAに向けて自分の出来る事をしている。

 

 主にクラシック追加登録の問題による擦り合わせが多い。

 制度自体に問題はない。が性急に過ぎるものであったのは確かで無理を利かせた分、他にガタが来ている。登録金関係はその筆頭だった。

 またクラシック登録制度と関連性が高いマル外の制度は急速な改訂が必要になったし、クラシックの権威には疑念が生まれた。

 URAが最も重きを置く公平性、その天秤の皿にオグリキャップを乗せてしまった以上、これは見えていた話である。

 

 ならば当事者としてURAに協力は惜しまない。

 たかが一人の小娘の癖に凄まじい発言力と世間への影響力もあるので、そこの力も使えるだろう。

 自分が故障してしまった事によって生まれた各種報道機関との調整、メディア対応等の話もURA側から噛んで来た辺り、双方の考えにそこまでの相違も感じなかった。

 最近は故障の余波に関する、トゥインクル・シリーズの興行関係の話にもシンボリエウロスは一枚噛み始めている。

 規則改訂に向けた企画書の作成、ついでに改訂に伴って予想される動きと影響等をひたすら纏め続けてはURAに送り付け、補足や質問等にも答え続けていたら、そちらの話も打診されるようになったのだ。

 何なら最近はダービー直前にアレだけ言い争ったのにも関わらず、諮問委員会の会長と定期的にやり取りを行っている。

 半分くらい中央諮問委員会直下公正審査委員会と同じ事をしつつ、URAが携わる業務形態の見識を広める日々をシンボリエウロスは過ごしていた。

 

「……………(ピク)」

 

 自らの病室でやる事と言えば、今はほとんどがURAと関わる事ばかり。

 見舞いも少しずつ落ち着いて来て、最近はあまり人が来ない。

 

 誰か来た。

 そういう音がした。

 一人分の足音だ。

 

 樫本理子とシンボリルドルフを除けば、見舞い人は大半が複数人で来る。

 しかしこの足音はトレーナーでも姉上でもない。

 論文作成に使っているPCを畳む。

 

「あー……えっと? こんにちは? いや初めまして、かな……」

 

 扉を開いてやって来たのは一人のウマ娘だった。

 中央の制服を着た黒鹿毛。

 

 彼女にはシンボリエウロスと特別な交友関係がある訳ではない。何なら会話した事すらない。一方的に知っているだけで視界に入った事すらないだろう。

 そういう自覚がある彼女は、部屋に入った瞬間からシンボリエウロスと視線が合った事に気まずさを覚え、目を逸らしながら喋る。

 

「……………」

 

 だが他ならぬシンボリエウロスには、そのウマ娘の顔に見覚えがあった。

 ない訳がなかった。

 

「ポートモガミ——……?」

 

 そう、それは。

 日本ダービー登録序列——元24番だったウマ娘。

 

 彼女の名前はポートモガミ。

 オグリキャップがクラシック追加登録を受けた事によって、日本ダービーから除外された、とあるウマ娘の名前である。

 

 




 
⚪︎Nippo Teio(アキツテイオー)
 マイルの帝王。昭和末期の名マイラー。元芝2000m日本レコードホルダー。シングレ版アキツテイオー。

⚪︎『アキツテイオー! 先頭!!』
 余談だが史実の1988年の第29回宝塚記念では『メジロフルマー』号が逃げを打ち、2番手で『ニッポテイオー』号が追従する形で逃げを打った。つまり先頭ではない。『ニッポテイオー』号が先頭に立ったのは、第4コーナー辺りで『メジロフルマー』号を交わしてから。

 しかしシンデレラグレイ第29R『最強』では『ニッポテイオー』号ことアキツテイオーが先頭を走っているような描写(アキツテイオーより前にウマ娘がいる場面が確認出来ない)があり、またサクラチヨノオーが「もうハナに立った!?」と驚いている。
 今更だが『ハナ』は競馬用語で先頭を意味する言葉で、2番手は指さない(筈)。
 シンデレラグレイでは読者への分かりやすさと印象の伝わりやすさを重視している(後馬名等の関係)故の改変と思われる。
 ここではシンデレラグレイでの描写を優先。

⚪︎それは日本ダービー登録序列——元24番だったウマ娘。

 次話。
 日本ダービーに出られなくなった、とある一人のウマ娘から見た、第55回東京優駿。
 
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