有効射程距離25バ身   作:sabu

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 その戦いは、私達を、熱く、熱く狂わせる


8/13 夢の残骸

 

 名前を呼ばれた。

 たったそれだけの事が、ポートモガミにとって驚愕だったらしい事は明白だった。

 

「………。……分かるんだ、私の事」

「分かります。少なくともこの世代のウマ娘全員の名前と顔は」

 

 複雑そうな笑みを浮かべて聞き返す彼女の顔が、シンボリエウロスの即答を経て引き攣る。

 信じられないものを見るような、或いは信じたくないものを見ているような、そんな表情だった。

 

「……なんで?」

「覚えないと、勝てないので」

「………勝てない、って? だから私も覚えてる? そんな訳がない」

「いや流石に、何も知らないままレースに勝つのは無理です」

 

 気性。得意とする脚質。主な戦術。予想される当日の調子。

 それらを記憶しているかしていないかで、シンボリエウロスが取れる有効的な戦術は激変する。即興で展開を立て直す対応力にも影響するだろう。

 

 シンボリエウロスが知る限り、記憶力に最も優れているのは姉である。

 

 シンボリルドルフは一度見た顔を忘れないという。

 そもそも実際に妹という立場から見て、誰かを忘れた場面を見た事がない。

 しかも姉のレーススタイルは常に理想的な展開構築の上にあった。

 その展開構築は無論、シンボリルドルフ本人の記憶力と思考能力に大きく由来する。

 必然的にそんな姉の姿を見て来たシンボリエウロスが、事前情報の重要性を軽視する訳がない。無から有は生み出せないのだ。

 

「それに貴方は私の所存で蹴落としたウマ娘です。知らない訳がありません」

「………嘘吐き」

「嘘ではありません。私を追い詰めるウマ娘の一人だった以上、貴方の脚質も戦績も知っていた」

「じゃあ言ってみなよ」

「7戦3勝。主な勝ち鞍は2勝クラスの君子蘭賞。脚質は先行だが、芝の速度に噛み合わない為か逃げを打った場合の方が成績が良い。3勝は全てダート」

 

 間違いなく気に障ったらしい。

 言葉を受けて、ポートモガミはシンボリエウロスをキッと睨み付ける。

 だがそれも長くは続かなかった。

 不意に何もかもが空虚に思えるような、そんな力の抜け方だった。

 

「そう……」

 

 何かに納得した彼女は、自嘲気味な笑みを浮かべて近くの椅子を手繰り寄せる。

 両手で椅子の縁を持ったままの、雑な姿勢でポートモガミは腰掛けた。

 俯いた姿勢のまま身体を揺らし、ガタガタと椅子が音を鳴らす。

 

「言うじゃん。トレーナーですら、私には芝のバ場が合ってない事を口にするのに躊躇うのに」

「弱点を把握しなければ、それは調べたとは言いません」

「………そうかもね」

「他にも貴方のレースの出走日を言いましょうか?」

「もういいよ。私のバカさ加減が増すだけ。私を追い詰めたいなら口にすれば良いんじゃない?」

 

 俯いたまま投げやり。

 既に、初対面の挨拶の時にあった体裁が剥がれ落ちていた。

 嫌われている。それも思い切りだ。

 しかしその理由は分かる。シンボリエウロスを心の底から嫌うに足る正当な資格もある。

 シンボリエウロスは、特に咎める気はなかった。

 

「……本当に分かるんだね。私の事」

「はい」

「……………」

「自分で言うのも何ですが私は世代のトップでした。全員が私を蹴落とす為に力をかけていた。私もその全員を知っていなければ張り合うのは難しかった」

「……そう」

 

 少なくともシンボリエウロスは、心の底からそれが事実だと思っている。

 シンボリエウロスはレース展開を握らなければ勝てない。

 喘鳴症を患う彼女には、理由なき勝利が許されていない。

 

「まぁもう、トップではなくなってしまいました」

「それ」

 

 ギロリと、ポートモガミが睨んだ。

 俯いた姿勢からようやく顔を上げてから口にした彼女の言葉には、ドロドロとした嫌悪感と怒りが滲んでいる。

 

「本当に、面白くない。心の底から笑えない」

 

 先程の投げやりな鬱憤すら霞むほどの、生々しく煮え滾る怒り。

 対面しているウマ娘を黙らせる、静かで鋭い怒気がポートモガミから溢れる。

 

「エウロスさんってやっぱりセンスないんだね。もう二度と冗談は口にしない方が良いよ」

 

 真正面からそう言われてシンボリエウロスは、初めて怯んだ。

 ここまでの怒りも辛辣な嫌悪感も浴びせられた事がなかったからだ。

 無論、彼女の怒りには正当性がある。

 本気で叱られている時に感じるような、抗いようのない正当性だった。

 

「………最悪」

「…………」

「嫌い」

 

 本当に、本当に心の底から嫌われている。

 今までまともな気不味さなど感じた事のなかったシンボリエウロスは、初めて気不味さを覚えた。何となく苦手意識すら感じた。

 ポートモガミが悪い訳ではない。

 自らに非を覚える故に苦手意識を感じる、自己中心的な気不味さだった。

 

「大っ嫌い……」

 

 そしてそれは恐らく、ポートモガミですらそうだった。

 節々から滲む自己嫌悪。こうやって言葉にして、そして怒りで自分を支えないと如何にかなってしまいそうな彼女は、それでもまだ、シンボリエウロスを見据えてそこにいる。

 

「私は、アンタの事が嫌い。オグリキャップよりもシンボリエウロスが嫌い。ファニーもナインも、アンタが現れてから表情を曇らせる事が増えた」

 

 ファニーとナイン。

 それはモガミファニーとモガミナインの事である。

 モガミの名を冠する彼女達はいわば親戚のような間柄で、同じチームに所属しているウマ娘だった。

 

「私も日本ダービーに出られなくなった」

 

 何より彼女は当事者だ。

 オグリキャップの追加登録が果たされた、果たされてしまった末の弊害。

 知らない訳がない。シンボリエウロスがそういう働きをしていた事も当然知っている。

 だから彼女はここにいる。

 オグリキャップではなく、シンボリエウロスを恨んでいる。

 

 ——私は当然ながら、その一人のウマ娘から本気で恨まれるでしょう。

 

 かつて彼女は、中央諮問委員会の会長にそう宣言した。

 故にこれは、至極当然の出来事である。

 オグリキャップの特別を許した代償。特別に塗り潰された普通。取り上げられた夢の末路は、決して案じた程度で済まされて良い問題ではない。

 廻り巡って、あの日の言葉は正しくシンボリエウロスに跳ね返って来た。

 

 シンボリエウロスは甘んじて、彼女の糾弾を受け入れる。

 思いっきり殴られたとしても仕方ないと思っていた。

 

「アンタがあそこまでオグリキャップのクラシック登録に拘った理由って、何? オグリキャップがそれだけお気に入りだから? それともまさか、私から日本ダービーの権利を奪う方が正しいからって?」

「……………」

「言えよ」

 

 一瞬言葉に悩んで、だけど言葉に悩んでいるという事すら不誠実なのだと気付いて、言う。

 正直に。さりとて一切の言葉を飾らせず、無慈悲に。

 

「私は、貴方よりもオグリキャップが日本ダービーに出る事の方が正しいと思っていました。オグリキャップは中央に移籍した時点で最初から権利がなかった。その権利を改めて彼女に与えた上で弾かれた個人は、最初からオグリキャップ以上の権利を手にしていれば問題なかった」

「…………それは、公平な事?」

「違うと思います」

 

 URAは言った。公平性に欠けると。

 事実その通りだろう。今なら本当にそう思う。

 あの日の話し合いで価値観が変わったのは、何も諮問委員会の会長だけではない。

 

「でも私はこの選択の方が、平等だとは思いました。弱かった貴方が悪い。私は今も本気でそう思っています。後悔もしていません」

「…………」

「それとオグリキャップが私のお気に入り、という事を私は否定出来ません。実際に私は彼女の境遇を気に掛けていました」

「何それ。何が言いたいの」

「私の言った事は好きに判断してください。貴方にはその権利があります」

 

 オグリキャップが気に入っているからその障害を全て取っ払った訳ではない。

 だが傍から見て、明らかにそうとしか見えないのも事実である。

 彼女に思う事があったのもまた事実である。

 

 全てを正直に言って、判断は任せる。弁明もしない。

 それがシンボリエウロスの、誠意の形だった。

 

 言い切って、あぁこれは殴られるなと確信する。

 或いは罵倒と共に、思いっきり頬を叩かれるかもしれない。

 全て仕方ない事だ。

 シンボリエウロスはそれだけの事をした。

 

「………ふーん」

 

 だが予想に反し、ポートモガミから返って来たのは力ない返事一つだけ。

 気不味い沈黙が流れる。

 

「そっか」

「…………」

「弱い私が悪い、か」

 

 力のない笑み。

 そこにはただ虚ろがあり、他には何もない。

 あって然る筈の怒りも。

 

 シンボリエウロスに後悔はない。

 きっと何度やり直しても同じ事を口にするし、改める事もないだろう。

 だけど、でも。ただ居心地が悪かった。

 今までの生涯で味わった事もないような気不味さだった。

 

「私さ」

 

 独白。

 別に相槌などは求めていなかったそれは、片方が何を言えるでもなかった事から、自然と次の言葉に続いていく。

 

「オグリキャップの事、さっぱり知らなかったんだよね。正直言って地方からやって来てチヤホヤされてるのが気に入らなかったし、強いって言っても地方の枠組みの中ではでしょ? って思ってた」

 

 オグリキャップの事が気に入らない。

 今でこそ彼女はスーパーアイドルだが、それはあくまで世間から見た印象の話である。

 オグリキャップに負の感情を持つウマ娘は案外多い。そもそも初対面の印象から良くない。

 中央のウマ娘として、地方からやって来た田舎娘に好き勝手されたくない、というプライドもある。

 

「認めたくなかった」

 

 中央のウマ娘が、地方のウマ娘に負けた。

 無情なレッテルを貼られ今も尚受け付けられないウマ娘は、当然存在する。 

 シンデレラにとってみれば、それは煌びやかな物語かもしれない。

 だけど一人の普通の娘からすれば、シンデレラは自分達の居場所を不当に奪った憎き相手でもあった。

 

「バカだよね。ダービーの前のレースで13着でさ。自分が大した事ないなんて分かってる癖してさ」

「………………」

「弱点を把握しなければ、それは調べたとは言わない……か。ホント言うじゃん。そう、そうだよ。バカなんだよ。だから私は弱いし、強い自分であろうとする気持ちもない。だから。……だからアンタも本気で恨んだ」

 

 日本ダービー。

 最も歴史と伝統、そして栄誉あるこのレースには。

 一生に一度しか出走が叶わない。 

 

 夢くらい見せてくれても、良かったのに。

 

 勝てるかどうかは、分からない。

 いや正直に言うなら、勝つのは厳しかっただろう。

 だけど彼女は、勝負する権利すら与えられなかった。目の前で奪われた。

 彼女にかけられる筈だった夢の魔法は一人の灰被りのウマ娘にかけられ、ほんの一瞬でも見られるなら良かった夢は、輪郭を伴う事すらなく虚空に消えていく。

 

 たとえ世論が特例出走を支持し、実際に特例出走が叶って喜ぶ者の方が多かったとしても、絶対に一人だけは失意に落とされるウマ娘がいる。

 その当事者である彼女は、恨んだ。

 オグリキャップよりも、特例出走を叶えたシンボリエウロスを恨み、呪った。

 史上最多動員数を記録し、誰しもが今年の日本ダービーに期待して注目する中、彼女だけは日本ダービーを呪い続けた。

 

「こんな日本ダービー台無しになれば良い。シンボリエウロスなんかもう、ここで終われば良い。ずっと、ずっとそう思いながらダービーを見ていた」

「……それは正当な権利で、気に病む必要はありません」

「ねえ」

 

 ポートモガミは既に、シンボリエウロスの言葉を気にしてはいない。

 彼女の瞳から流れ続けている涙が、頬を伝って床に落ちていた。

 

「——だから、こんな事になっちゃったの?」

 

 その時。

 自らが受けた衝撃が何だったのかを。

 シンボリエウロスは誰にも説明する事が出来ない。

 

「右目が見えなくなって、右脚には後遺症が残って。……ねぇ……………」

「——、————」

 

 目の前に、壊れそうになっているウマ娘がいる。

 自分ではない他人の故障で。誰よりも何よりも。

 今まで考えてもいなかった。一度足りとも見た事がなかった。

 喚く訳でもなく、ただ涙を流しているだけのあまりにも痛々しい表情はまるで、彼女の心という心が零れ落ちているような気配すらした。

 分からない。果たして私は、他人でしかない者の揺めきに、一体何を思ったのか。

 シンボリエウロスはそれを、どうしてか言語化する事が出来ない。

 何も言えなかった。何を言ってもポートモガミに届く事はなく、全てが芯のない空虚な発言になる気がした。

 

「………ごめん。別に、貴方が悪い訳じゃないのにね」

「いえ………」

 

 彼女は何も悪くない。

 悲しむ必要すらない。

 だけど彼女は、自分を見失うほどに悔いている。

 涙を拭う彼女に、何か気の利いた事は言えないのか。

 彼女の自己嫌悪を払拭し、何とかする事は出来ないのか。

 これまでにないほど考えに考え抜いて、その全てが言葉になる事なく、喉を滑り落ちていく。

 

 ポートモガミは既に、シンボリエウロスに何かを聞いているようで何も聞いていない。

 彼女はただ、自分の内側に抑え切れなくなった激情をこうして放出しているに過ぎない。

 それが分かった。察せてしまった。

 初めてシンボリエウロスは、心の底から察せなければ良かったのにと思った。

 

「………シンボリエウロスは私の憧れだった」

 

 言い知れない長い沈黙の後、ポートモガミがポツリと喋る。

 

「あんな事言っといて信じて貰えないかもしれないけど、本当だよ。嘘じゃない」

「……………」

「私もこんな風に走れたら良いなって、何度も思った」

 

 ウマ娘が抱いた、空への憧れ。

 空にまで走っていけたら良いのに。

 何処までも純粋で、何処までもひたむきな夢。

 かつてポートモガミも追いかけていた夢。

 

「本当に嫌になるくらい強くてさ。しかも全く後ろを振り向かないし、私達なんか気にせずに何処へまでも行っちゃいそうで…………」

 

 天翔るウマ娘。

 仰ぎ見た空、そのもの。

 

「………なのに、私の事を覚えていて」

 

 そのウマ娘は、翼を失って失墜した。

 

「なんなんだよ………」

 

 そこでようやく気付いた。

 シンボリエウロスですら、ただのウマ娘だった。

 同い年で、自分と同じ単なる普通の生き物で、失敗もすれば欠点もある。

 今更、そんな当たり前の事に気付いた。

 天翔るウマ娘は、私と同じウマ娘だった。

 私達の空は、私達と同じ地平にあった。

 

 立ち上がる。

 反動で蹴り飛ばされた椅子が、夕焼けに照らされた病室の中で、ガラガラと甲高い音を立てた。

 

「ふざけるな……戻れ。戻って来い……。責任を取れシンボリエウロス。そうじゃなきゃ、許さない。私が上を見た時、私達が頂点を見上げた時、そこにアンタがいなきゃ許せない」

 

 また、泣く。

 額を伝う涙を拭う事もせず、泣き腫らして赤くなった瞳でシンボリエウロスを睨み付ける。

 睨み付けた先にあったのは——

 

「…………ごめん」

 

 果たして彼女は、一体何から目を逸らしたのだろう。

 下唇を噛んで、悲痛な表情をして、そうして彼女は病室を去っていた。

 

 ——何故、私が謝罪を受けている。

 

 ポートモガミの後ろ姿を見送って、強く開け放たれた扉がゆっくりと自動的に閉まっていくのを眺めて。

 シンボリエウロスの中にあったのは、言いしれない衝撃だった。

 自分は一度足りとも、ポートモガミに謝っていない。

 弱い貴方が悪かったのだと口にして突き放してばかりの、夢を見る権利すら奪い去ったウマ娘が、何故か一方的に謝られている。

 

 その衝撃を、心の中を穿った何かを、シンボリエウロスは(つい)ぞ言語化する事が出来なかった。

 

 自らが放心している事にも気付かない。

 何に放心しているのかすら、分かっていない。

 彼女はしばらくの間、疾うに閉まり切った扉を眺め続けていた。

 そしていつの間にか再起し、だが慌てる訳でもなくただ無意識の内に、今自分に出来る事をしないとと急かされるようにPCを開く。

 

「………………」

 

 黒い画面。

 鏡写しの自分には、未だ回復の兆候すらない故障の痕がある。

 頭を横断するように斜めに巻かれた包帯だ。

 痛々しくて、きっと誰もが目を逸らしたくなるような現実だった。

 シンボリエウロスだけが、その深刻さを、悲壮感を。

 誰とも共有出来ていない。

 

 片目は未だ、何も見えていなかった。

 見えていても良い筈の瞳は、何も。

 

 シンボリエウロスは、未だ、何も見えていない。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 夏シーズンは主なレースがない。

 秋の大賞レース達に向けての休養期間。

 

 オグリキャップもまた、休養の最中だった。

 

 日本ダービーに出る為とはいえ、彼女は多少負荷が溜まるレース選択をしている。

 そして次の目標は菊花賞。天皇賞・秋には出ない。

 必然的に天皇賞・秋に向けた代表的な路線である、7月10日に施行されたG2『高松宮杯』にも出なかったし、G2『毎日王冠』に出走する予定もなかった。

 

 オグリキャップは現在、菊花賞に向けた前哨戦に備えている。

 菊花賞トライアル指定である、9月25日施行予定のG2『神戸新聞杯』か10月16日施行予定のG2『京都新聞杯』のどちらかを叩く予定だ。

 

「オグリちゃん! 電話だよ!」

「……………?」

 

 夏の一幕。

 トレーニング等の今日一日の予定を終えた、夜も更ける頃。

 オグリキャップに一本の電話が届く。彼女は今時のウマ娘にして珍しくガラケーすら持っていない為、身近な存在か中央トレセンを挟まないと連絡が取れない。

 

「もしもし?」

『久しぶりだな』

 

 ベルノライトからの連絡を受けて、寮住まいのウマ娘のほとんどが使っていないであろう、備え付けの固定電話機に向かう。

 受話器から聞こえて来た声は、聞き馴染みのある声だった。

 

『オグリ』

「——マーチ!!」

『ハハッ。案外元気そうだな』

 

 フジマサマーチ。

 かつてオグリキャップが地方に所属していた頃の親友であり、ライバル。

 

『そっちも、そろそろ落ち着いて来た頃かと思ってな』

 

 日本ダービーを終えてからの騒乱。

 世間的にも、オグリキャップを囲う環境もようやく平穏になって来た頃合いだ。

 心の整理も出来て来た頃合いだろうと、フジマサマーチはそう判断していた。

 

『お前の活躍は実際に見てたよ。お前と競っていたのが遠い昔のように感じる』

「あぁ………」

『遅れたけど、日本ダービーおめでとう。本当に凄いウマ娘になったな』

 

 オグリキャップは、素直に頷けなかった。

 自らの言葉尻とその一拍に、親友の胸中を感じ取ってフジマサマーチは声色を落とす。

 

『……なんだ? 元気そうだと思ったが、ちょっと違ったか?』

「いや……! 私は全然元気だ! 毎日ご飯も食べているし、トレーニングはちゃんとしているぞ!? むしろ最近の方が調子が良いくらいだ!」

『私は、か?』

 

 また口籠る。

 分かりやすい事この上なかった。

 オグリキャップの心はまだ、日本ダービーに取り残されている。

 

『まぁ、そんな事だろうとは思ってたよ。私達も実際応援しに行っていたしな』

「やっぱり、来ていたんだな」

『当たり前だろ? サプライズしにな。……まぁ、サプライズはやめる事にしたが』

「………なら、分かるだろう?」

 

 あぁ、分かる。

 日本ダービーで何が起きて、その後がどうなったかも。

 表彰式に立ってダービーのトロフィーを受け取ったオグリキャップの、苦しい表情も。

 きっとオグリキャップは分かってすらいない、驚くほど規模が小さかったあの表彰式の事も。

 

「嬉しく、なかったんだ」

『…………』

「ごめん。折角のダービーだったのに………」

『いや、良いんだ』

 

 オグリキャップは元より……言ってしまえばダービーなどを気にするウマ娘でない。

 権威とか名誉とか、そういうものには無頓着だった。

 日本ダービーを目指した理由も辿れば東海ダービーに出られないからであり、更に辿れば東海ダービーに出たかったのは、そこがフジマサマーチの最大の目標だったからである。

 今更、そこを突くような真似をフジマサマーチはしない。

 

『オグリが感じた事、思った事は大事にするべきだ。だから別に遠慮する必要なんてないし気にしなくて良い。嬉しくなかったと感じたのなら、偽るべきじゃないんだ』

「うん……」

『だからこれは、お前が気にしなくても良い事なんだが」

 

 あの日本ダービーで、オグリキャップの応援に来ていたカサマツの皆も衝撃を受けた。

 だけど時間が経って色んなものが落ち着いて来て、それでも彼らは、灰被りのウマ娘に祝福を届けた。

 

『……やっぱり誰が何と言おうと、お前は立派なダービーウマ娘だよ』

「……………」

『私は、お前が勝って嬉しかった』

 

 伝わらないかもしれない。

 伝わる日も来ないかもしれない。

 だけどこれは、きっと重荷にはならない。

 そう信じて、そしてあの日のレースがオグリキャップの中で呪いにはならないように、彼女達は言葉を届ける。

 

「でも、エウロスは………」

『うん』

「…………」

 

 萎んだ言葉尻。止まった言葉。

 続きを引き受けるように、フジマサマーチは口を開く。

 

『私も少し分かるよ。一応私だって世話になった。でも………お前が勝って嬉しかった事は変わらない。何たって、お前が中央でもやっていける凄い奴だと一番分かっていたのは私だからな』

 

 もしかしたら、結果は違っていたのかもしれない。

 あの表彰式で立っていたウマ娘は別だったかもしれないし、ここまで日本ダービーでの出来事は拗れなかった可能性もあったかもしれない。

 それが分かった上で、少なくともカサマツの皆は、オグリキャップがダービーに勝利した事を喜んだ。

 オグリキャップが勝利に値しないのだとは思わなかった。

 

『この気持ちは多分、お前とは共有出来ないのかもしれない。だけどオグリの事を応援して、オグリが勝ったのを喜んでくれた人は確かにいる。その事を何処かの片隅で覚えていてくれるなら私達は満足だ』

「マーチ………」

 

 オグリキャップは言葉に詰まった。

 地方に残して来た親友に、ここまで真摯に温かい言葉を貰って、それに値するものを返せている自信がなかった。

 

「私も………」

 

 ——この気持ちは多分、お前とは共有出来ないのかもしれない。

 

 違うだろう。

 オグリキャップは、カサマツの皆の為にここまで来た。

 勝ちたくて、自分ならもっと凄いところまで行けると応援されて、ここまで来た。

 だから。

 

「ダービーに勝てて………良かった」

『——オグリ………』

 

 1着も、求めた。

 オグリキャップは、勝つ為に日本ダービーに出た。

 

「すごく、出たかったレースだったんだ。東海ダービーに出られないから……代わりに日本ダービーの1着をキタハラにも、マーチにもプレゼントするぞって………」

『うん』

「勝てて……良かった。頑張ったんだ、私」

『見てたよ、全部』

「私だって、頑張ったんだ………」

『あぁ。皆、分かってるさ』

 

 受話器の先から少し鼻を啜るような声がして、マーチは柔らかく話しかける。

 

『オグリ、お前は喜んで良いんだ。だってお前は何も悪くないし、ダービーに勝てて良かったと思う事は罪じゃない』

「………うん」

『誰もお前を責める奴はいないよ」

 

 怪物。抗いようのない本物。

 フジマサマーチは、オグリキャップを自分とは違うウマ娘なのだと思った事がある。

 だが、それこそが違う。

 フジマサマーチは知っている。

 オグリキャップもまた、自分と同じ単なるウマ娘でしかない事を。

 甘えたがりで、少し寂しがりな部分もある、純朴なウマ娘だと。

 

「マーチ。………ごめん」

『何だ藪から棒に。むしろこっちがありがとうって言いたいくらいだ』

「違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。……私はマーチと学んだ事を、都合の良いように考えていた」

 

 ——貴様は何の為に走っている?

 ——何の為にレースに出る?

 ——頂上を決めなければ、山は登れない。

 

 レースに出られるなら別にそれで良い。他はどうでも良かった。

 そんなオグリキャップの価値観を大きく変えた、その問い。

 

 ——過ぎた目標は、ただの通過点。

 —— 一つの山を登り切ったら、また次の山を登れば良い。

 

 地方最後のレース。

 フジマサマーチと一緒に学んだ、一つの真意。

 

「でも違った。私は自分の登った山を忘れる為に、次の山をすぐ登ろうとしていた。日本ダービーをなかった事に……忘れる為に次のレースを目指していた」

『…………お前が感じた事自体は、間違ってない。それは悪い事じゃない』

「いいや、ダメなんだ。私は色んな人から応援されてダービーに出て、そして——多くの夢を破ってここに立っている。私はこの世代に一人しかいないダービーウマ娘だから、それじゃダメだ」

『……………』

 

 受話器越しの力強い宣言に、フジマサマーチは呆気に取られる。

 まさか、そんな事を言うのか。

 あの、オグリキャップが。

 田舎娘だった、オグリキャップが。

 いや……今はもう私の方が田舎娘なのか。

 

『フ、フフッ……。ハハ、アハハハ………ッ!!』

「え。マ……マーチ?」

 

 それが途端に面白くて、そして嬉しくフジマサマーチは笑った。

 

『いやまさかオグリ、だってお前が……そんな事言うなんてと思ってな』

「わ、私だって色々と考えている……!!」

『東海ダービーの代わりに、日本ダービーをなんて言う奴がなぁ』

「ぅ………でもそれはちゃんと、中央で教えて貰ったから!」

 

 教えて貰った、か。

 ここで学んだからではない辺りが、やっぱりオグリキャップなのだろう。

 そして教えて貰った相手も大体察しが付く。

 

『本当に変わった……んじゃなくて、成長したな、オグリ』

「………うん」

『目標はもう決まっているんだろ?』

 

 一つの山を登り切ったら、また次の山を登れば良い。

 オグリキャップ自身が言っていたのだ。彼女が既に何かを目指しているのは分かっていた。

 

「あぁ。菊花賞に行く。エウロスが復帰するなら、絶対にここに来る」

『だろうな。まぁ戻って来ない訳がない』

 

 少しだけ世話になった、その短い間ながら脳裏に焼き付いた強烈な印象。

 常に一瞬で差し切って来る。その隙を常に伺っている。

 シンボリエウロスはそういう、抜き身の刃のような刺々しさを纏っていたウマ娘だった。

 

「マーチ」

『ん?』

「ありがとう。元気を貰った」

『………あぁ』

「ダービーの1着を取った。だから次はダービーウマ娘の名に恥じないようにする。ちゃんとエウロスにも勝って、日本一のウマ娘になるよ」

『あぁ頑張れ』

 

 その後も2人は、何気ない会話を続けた。

 オグリキャップと電話をしているのを聞き付けたノルンエース達が突撃して来た後も、ずっとしばらく。

 

 

 夏が終わり、秋が近付いて来ている。

 更に、1ヶ月が経った。

 

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