有効射程距離25バ身   作:sabu

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 記念で待ってる


9/11 機能快復トレーニング

 

 日本ダービーから約3ヶ月半。

 世間を揺るがした転倒事故から一時期シンボリエウロスの復学すら危ぶまれる中、今日から彼女は中央トレセン学園に戻って来た。

 

「退院おめでとうございますエウロスちゃん。えっと……怪我の容態は大丈夫ですか? 困っている事はありませんか……?」

 

 学園に戻って来たシンボリエウロスに話しかけるのは、やはりスーパークリーク。

 しかしそのスーパークリークも、以前のような牽制を秘めた口調と雰囲気はそこにない。

 彼女達は、距離感を測りかねている。

 スーパークリークだけではない。他のウマ娘達もそうだった。

 

 3ヶ月半。彼女達のクラスは、どうしてか雰囲気が悪かった。

 啀み合っている訳でもなく険悪な訳ではない。だが会話の量は格段に減っている。

 きっと誰かは、中心人物がいなくなったからだと言うだろう。

 風の巡りが消えた。シンボリエウロスは嵐だったが、周りを動かしていた風そのものだった。

 彼女の存在を疎ましく思っていたウマ娘はきっといるだろうし、独特の雰囲気から苦手に思っているウマ娘もいただろう。

 だが皆一様に、シンボリエウロスの復帰を望んでいた。

 そうして戻って来た。

 

 松葉杖と、頭を斜めに横断する包帯と一緒に。

 

 いや、それは良い。まだ良い。

 シンボリエウロスは大きな怪我をした。現役引退が危ぶまれるほどの故障だ。

 それが僅か3ヶ月半で完治する訳がないのは、考えれば当たり前の話。

 これで日本ダービー前のような日常に戻る……そんなものはまだ夢の話だ。

 でもそれは仕方ない。

 あのシンボリエウロスが、走る以前に歩くのに難儀しているという事実に、言いしれない衝撃を受けてしまっていたというだけで、まだ。

 

「長らく顔を見せられなくて申し訳ありません。復帰はまだ先ですが、今日付けで退院して来ました。迷惑をかけないようにしますが、またよろしくお願いします」

 

 ——何か、雰囲気が変わった気がした。

 

 その何かは分からない。

 選手生命を揺るがす怪我由来にしては、彼女はいつも通りの平静である。

 故障して引退を余儀なくされたウマ娘特有の翳りはない。

 松葉杖を突いて立った状態で、顔の4割近くを覆う包帯で右目を隠したままでも、尚。

 

 だが何か。

 何かが、おかしい。

 果たして彼女は……こんな事を言うだろうか?

 シンボリエウロスの発言は、何処か違和感がしてならなかった。

 

 その違和感が、分からない。 

 何故分からないのかも、分からない。

 シンボリエウロスは、いつも通りのように見えるのに。

 

「容態、ですか」

 

 そうして、先に戻る。

 自らの席に座ったシンボリエウロスは、スーパークリークの問いに苦笑いで答えた。

 

「私は大丈夫だと思っているのですが」

「……………」

「困っている事も、別に」

 

 そう答えるのはスーパークリークも予想していた事である。

 だけど何処かで納得を伴えない。彼女の発言に、シンボリエウロスならこんな答え方をしないという矛盾した感想を覚える。気味が悪かった。

 

「ちなみに、右脚と右目はどうなのですか?」

 

 口にしてから、これは配慮に欠ける尋ね方だったと思い至る。

 流石のスーパークリークも穏和な表情が崩れて、しまったという表情をした。

 焦っていた。気味の悪い何かを払拭する為に、無神経な聞き方をしていた。

 

「ほぼ予定通りの回復はしています」

 

 知ってか知らずか、シンボリエウロスはそれを咎めない。

 本当に気にしてなどいないのか、彼女は日常の延長線上のような口調で説明する。

 

 ダービーから3ヶ月半。

 両脚に負った筋断裂は、ディクタストライカが阪神JFでの故障から復帰するよりも早い快復を見せ、完治の域にある。

 左脚は、立つ分にはほぼ支障がない。

 

 右脚は、腓骨の螺旋骨折に巻き込まれた周囲部分の筋断裂は治った。

 打撲や裂傷といった他の細かい傷も同様だ。

 

 螺旋骨折による後遺症をどうしようもないものとするなら、初歩的な治癒が済んだ状態。

 無論、折れた骨の接合が済んだばかりで負荷に耐え得るものではなく、強い衝撃を加えればまた折れる。故に歩く分には松葉杖が必要とする。

 つまり、ここからが初期リハビリの始まりだ。

 少しずつ負荷を与えて、まずは松葉杖なしで歩けるようにするのが主な目標。

 仮に走力を取り戻せるとするなら、今から2ヶ月ほどで進退が決まる。

 ここまでは主治医が語った通りの快復である。

 

 右目だけは、一切の進展がなかった。

 

 角膜実質の欠損による感染症は角膜潰瘍を引き起こし、その治癒に半年から1年掛かるとしても、彼女の容態は悪かった。

 角膜上皮は復元し、角膜実質の欠損は8割方回復している。

 だが目に光は戻らない。

 

 見えてもおかしくはないが、見えていない。

 

 主治医はこれを、一時的ながら水晶体の機能を完全に失った事が原因で脳が視覚機能を正しく認識出来ていないのかもしれないと推論立てたが、詳しい理由は不明だった。

 角膜損傷から伴う心因性視覚障害か、或いは何らかの合併症を伴ったか。少なくとも現在、角膜実質の欠損を経て彼女の右目の色素は薄くなっている。

 網膜手術に入るか検討を重ねているものの、判断が難しい。

 

 兎も角として、シンボリエウロスは未だ目を覆うように包帯を巻いている。

 眼帯だけでは角膜を保護出来ないという判断であり、これが外れるのは角膜保護の点眼薬を使用する時のみ。退院はしたものの経過観察のため定期的に病院に通う必要がある。

 

「クリークさんは優しいですね。心配をお掛けしてすみません」

 

 配慮に欠けた、直球的な聞き方は見抜かれていた。

 自らの容態を語り終えたシンボリエウロスは、逆に申し訳なさそうな表情をしている。

 

「困っている事はありません。強いて言うならリハビリが進んだ後にどれだけ走力が戻るかが気掛かりですが、それは誰かに相談するものではありませんので」

「えぇと……」

「もしも何か困りごとがあれば、頼らせて貰います。クリークさん」

「それはもう……! ぜひ! 本当に……、……本当に甘えても構いませんからね」

 

 胸を張るスーパークリークの姿に微笑み返して、シンボリエウロスは学業の準備を始める。

 チャイムが鳴った。

 もう授業が始まりますよ、と着席を促されて。

 

「あの……」

 

 最後に、スーパークリークは尋ねた。

 

「本当に困っていないんですよね……? その怪我で」

 

 一瞬の間。

 シンボリエウロスが無意識の内に摩った手が、座学用の鞄に納められた論文作成用のPCに当たる。

 

「えぇ」

「…………」

 

 やはりまだ、違和感がした。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 その日の内から、リハビリは始まった。

 シンボリエウロスは関節や靭帯こそ無事なれど、ギプス固定等を経てこの3ヶ月半、一切脚を動かしていない。

 故に筋肉は萎縮し、関節は拘縮している。

 特に右脚はサビ付いた機械のように動きが悪くなっていた。

 当然、無理に動かせば故障する。

 動きが固い機械を強引に動かして、内外に亀裂が入るように。 

 

「歩行トレーニングは、まだ先です」

 

 樫本理子はまず、そのサビを落とす事から始めた。

 素足のシンボリエウロスを椅子に座らせて、精密機械に触れるような手付きで脚に触れる。

 体重も掛けさせない。負荷も掛けさせない。

 樫本理子は足首を、そして膝をゆっくり動かしては、シンボリエウロスに痛みや違和感があるかどうかを繰り返し聞く。

 跪くようなその姿勢は、まるでガラスの靴を履いたシンデレラと王子様のようであったが、この光景を傍から見る第三者がいるなら、誰もそんなメルヘンチックな感想など抱かないだろう。

 

 樫本理子の目の前にあるのは、ひび割れたガラスのようなモノ。

 このまま砕け散るかどうかは樫本理子の手にかかっている。

 彼女は今、細心の注意と尋常ではない集中力で、亀裂の入ったガラスからひびを消しているに等しい。

 額に汗を滲ませながらシンボリエウロスに向き合う彼女は、人の生き死にを直接左右する執刀医のような赴きであった。

 

 ある所で、シンボリエウロスが痛みを訴えた。

 そこを境界線とし、樫本理子はそれ以上を行わない。

 痛みを伴わない範囲でシンボリエウロスの脚を動かし、最低限の負荷を与える。

 もう片方の左脚も同じように、交互に動かす。

 松葉杖で歩けるからと左脚を疎かにすれば、片方に集中した負荷が左脚を壊すからだ。

 

 数時間を経て、ようやくこの一連の流れが終わった。

 

 この数時間の間、ひたすらに同じ事の繰り返し。

 退屈で辛くて地味な、集中力を途切れさせてはいけない作業。

 樫本理子はそれを、一心に引き受ける。

 最後にシンボリエウロスを横に寝かせ、筋肉を解す為のマッサージを経て、一日のリハビリが終わる。

 まずそれが何日も続いた。

 

「……………」

 

 来る翌日も、樫本理子はこれまでと同じように担当の脚を受け取ってから、ゆっくりと脚を動かし、関節を動作させる。

 

「……………ッ」

 

 痛みによる反射的な反応。

 シンボリエウロスが痛みや違和感を伝えるよりも早く、樫本理子は動きを止めた。

 

「……エウロス。ここから更に辛いリハビリが始まります」

 

 あくまで、今までのリハビリも辛いモノだった。

 そういう姿勢の樫本理子は続ける。

 

「痛みを伴わない。そして動かしやすい方向にだけ動かしていては、いつまでも萎縮は改善せず、痛い方に動かせないままです。ここから少しずつ関節の可動域を伸ばします。更に痛みは増す筈です。その上で、止めません。よろしいですね」

「………私が脚を動かさなくて良いんですか?」

「私が動かします。貴方は出来るだけ力を抜いてください」

「……………」

「不安なら」

 

 その沈黙が、樫本理子への不安に見えたらしい。

 樫本理子は担当の不安を和らげるような微笑みを浮かべて、シンボリエウロスの手を自らの肩に持って来させた。

 

「こうしてください。痛みに耐えられなくなったり、違和感が大きくなったらすぐに強く握り締めるように。言葉で伝えるよりも尚早い筈です」

「…………………」

 

 その発言に、シンボリエウロスは内心で酷く動揺した。

 

 トレーナーはまず、前提としてウマ娘との日常的な付き合い方を学ぶ。

 言葉を選ばなければ、種族単位の差を理解し、擦り合わせる努力をすると言って良い。

 何せウマ娘は人間よりも格段に力が強い。瞬間的な出力に於いては殊更だ。

 

 シンボリエウロスは見た目も相まって非力に見える。実際に非力な方ではあるが、それはあくまでもウマ娘としての範疇の上でだ。そして樫本理子は身体的に丈夫ではない。

 そんな関係でシンボリエウロスが思いっきり人の肩を握り締めれば、どうなるか。

 

 まず痣が出来る。打ち身で済めばマシ。

 樫本理子があり得ない事を言っているのは明白だった。

 

「ただし、払い退けたり蹴り上げるのはやめてください。反動で貴方の脚を捻ってしまう可能性があります。私も注意しますが、気を付けてください」

 

 担当の脚への懸念がなければ、別に払い退けられたり、蹴り上げられても構わないかのような言い方。

 

「しません」

「分かりました。それでは——」

「違います。トレーナーは傷付けません」

「…………エウロス」

 

 聞き分けの悪い子に、真摯に向き合って言葉を尽くす。

 そんな、大人としての口調。

 子供を注意する、先生のような表情。

 

「お願いします。貴方の脚の方がずっと大事です」

「…………………」

 

 脚を任せる事を不安に思った事はない。

 リハビリの計画と項目の全てを樫本理子に委ねている。

 だけどここまで気を張って、案じられて、そして。

 自分の脚なのに、自分よりもトレーナーの方が心配している。必死に治そうとしている。

 その覚悟と同等のモノがない。返せるモノがない。

 シンボリエウロスは未だ、深刻さも覚悟も、何も共有出来ていない。

 何処か致命的な、両者の齟齬があった。

 

「よろしく、お願いします」

 

 彼女の献身に値するモノを返す事は出来ず、かと言って樫本理子の覚悟を汚す事も出来ない。

 シンボリエウロスは頷いて、次の段階のリハビリが始まった。

 

 主にリハビリが辛いものだと認識されている段階の運動療法。

 痛みを伴い、しかし無理をすれば悪化する。

 その境目の見極めは怪我をした本人にすら難しい。当然外部の者からもそう。

 リハビリを始めてから当初の数日とは比べものにならない緊張と責任感が樫本理子を襲った。

 

 樫本理子がシンボリエウロスに自らの肩を預けさせたのは、ひとえに戒めであり、自分が出来る最大限の保険である。

 自らの担当に与えている痛みと同じものを、間接的に自らにも与える。

 そうしなければ私は、この我慢強い担当に胡座をかいて脚を壊す。

 樫本理子は本気でそう思っていた。

 

 足首。膝。更には股部分の関節の可動域を、一日でたった僅か数mmずつ改善させる。

 そして絶対に、各部位が痛みで熱を帯びる前に止めなければならない。

 成果が分からないランニングを続けさせられているような最中、だが樫本理子はトレーナーとして完璧な処置を続けた。

 指導者としてのみならず、栄養学、衛生学、理学療法等の様々な分野から知識が求められる……そんなトレーナーの説明が陳腐に思えるほど、樫本理子はトレーナーとして限りなく聡明で、そして完璧だった。

 

 比喩的な表現で、一歩だけ歩いては止まり、また一歩だけ歩いては止まる。

 そんな地道なリハビリがまた何日も続く。

 

 次にプール内でのリハビリが始まった。

 泳ぐ訳ではない。一種の歩行トレーニングだ。

 

 歩行時或いは走行時、最も衝撃が掛かるのは骨ではない。関節である。

 

 体重の負荷を最も受け止めている箇所と考えても良い。

 それが水中内では、水による浮力で10分の1ほどまで軽減する。

 同時に水の抵抗は空気のそれとは違うため、陸上よりも水中の方が身体を動かすのに力を要する。

 また水圧や水温による環境の差は脈拍機能の変化を有し、全身運動にも向く。

 足腰の負荷を和らげ、尚且つ全身の筋肉を使った運動療法として、水中ウォーキングのリハビリは適していた。

 

 流石のプール内では、樫本理子が出来る事は少ない。

 また何より、今までシンボリエウロス自身が脚を動かしていないので、筋肉面でのリハビリが進んでいなかった。

 ここからは彼女自身の力でリハビリを進めて貰う必要があった。

 

「違和感は?」

「……ありません。だいぶ歩けるようになって来たと、思います」

 

 すぐ隣には、万が一に備えている樫本理子がいる。

 彼女も同じく水着に着替えており、シンボリエウロスは彼女に手を引かれながら、水の中を歩いていた。

 

 今更、気恥ずかしさを覚えたりはしない。

 そもそもシンボリエウロスは泳げない。

 喘鳴症を患っている彼女は、如何なる運動であっても平時の呼吸と同じ規則で、ゆっくりと深く呼吸をする必要がある。

 それは、一気に空気を取り込む必要がある水泳の息継ぎと致命的に相性が悪かった。

 

 二日、三日と水中ウォーキングは続いた。

 平行して、取る時間は減ったが関節部位を動かすリハビリも行い、最後に必ずマッサージを行う。

 

 四日、五日と経てば、この辺りで松葉杖なしで立つ事が可能になった。

 それでもまだ、水中ウォーキングは続く。

 安易な判断で快復が良くなる試しはない。

 改善の兆しが見えたからこそ、着実に樫本理子はリハビリを進める。

 

 七日。十日。

 そして半月が経った。

 

「今日から、歩行トレーニングに入ります」

 

 日本ダービーの転倒事故から、凡そ4ヶ月強。

 ようやく、シンボリエウロスは芝の上に降り立つ事が出来た。

 松葉杖なしでの歩行。水中の浮力はない。樫本理子から手を握られ、すぐにでも支えられる状態。

 

 まだ歩かない。

 少しだけ身体を左右に揺らし、直立した時の感覚を整える。

 

「……………」

「違和感はありますか?」

「…………かなり」

「具体的には」

「右脚だけ靴を履いて、左脚には何も履いていない………或いは右脚だけ底の深い靴を履いているような、そんな感じです」

 

 今までの大半は松葉杖での歩行だったし、プールトレーニングでは浮力と水中特有の抵抗で違和感を感じなかった。

 リハビリの最中に感じた痛み混じりの違和感に紛れていたのもあるだろう。

 

 だがこうして、改めて立つと分かる。

 シンボリエウロスは右脚腓骨螺旋骨折の癒合を経て、骨折箇所が明確に変形した。

 より正確に言うならば『膨らんだ』。

 その分だけ右脚の骨が伸び、左脚との高さに相違が起きている。

 ほんの数㎜の誤差だ。まず見た目では分からず、精密検査をしても尚素人目では判断が付かない。

 だがその数㎜が、当人にしか分からない致命的な違和感になっていた。

 右脚の靴だけ高さがズレているような、そんな違和感。

 

「一度座りましょうか」

 

 持ち運んで来ていた椅子を開き、樫本理子はそこにシンボリエウロスを座らせる。

 彼女はシンボリエウロスの左脚の靴を外し、別の靴に変えた。

 

「靴底と蹄鉄を調整したものです。此方を履いてから、また立ってみてください」

 

 何を、調整したのか。

 短い言葉だけで、説明しなくとも担当には何を意味しているか伝わるとの判断なのだろう。

 事実シンボリエウロスには伝わっていた。

 伝わっているからこそ、驚愕していた。

 

 ——タイツも変えるべきですね。

 そう呟きながら、シンボリエウロスが両脚にそれぞれ巻いていた異なるサポートバンドとタイツを換えていく樫本理子の、その献身の深さを。

 

「………いつの間に測っていたんですか」

「リハビリの段階で、並行しながら計測していました」

 

 右脚と左脚の高さの相違。歪んだ骨格のズレ。

 それを修正するための、左脚の靴。勿論右脚の靴も変わった。

 靴底。蹄鉄。或いは着用するタイツもだろう。

 その全ての高さを、数㎜単位で調整している。当然角度も。

 

 シンボリエウロスは全く気付かなかった。

 いつの間にこれを実用まで持って来たのかも分からなかった。

 

「当然ですがこれは未完成です。貴方が復帰出来て、前と同じように走れて、そして普段使い出来るようになったものだけが完成した物と言えます」

 

 取り出した箱には同じ——ように見えて、しかし㎜単位で角度・深さ・高さが違うであろうものが何十足と並んでいる。隣に並ぶのは各種形状と設計が異なる蹄鉄。

 その全てがきっとオーダーメイドなのだろうことは、誰にでも分かった。

 

「改めて、今日からの歩行トレーニングは現在の違和感を故障前の感覚に戻す事から始めます。直立時、歩行時、そして軽く走ってみた時の感覚を調べ、貴方に合う両脚の靴を探し出します」

 

 説明しながら、樫本理子はシール型の機材が貼り付けられたタイツをシンボリエウロスに渡す。

 彼女は担当が感じる違和感のみならず、実際の姿勢から齟齬を測り、骨格が感じている電気信号の面からも違和感を修正するつもりである。

 いわゆる、モーションキャプチャ。

 実際に樫本理子は、シンボリエウロスが故障する以前の、歩行姿勢の3Dデータ、筋肉量と骨格の強度からなるあらゆるデータを持っている。

 

 今回からはより正確に、考えられる限り全ての手を尽くしているだけだ。

 

 樫本理子は、徹底した管理主義である。

 成長曲線を測り、ウマ娘の素質を軌道に乗せる。

 日々の生活によって生まれる見えないズレを修正し続ける。

 その事に対して、彼女以上のトレーナーは存在しない。

 

「エウロス。今日は歩くのがメインですが、ほんの軽く走ってもみようと思います。1Fを40秒以下で構いません。今の貴方なら出来る筈です」

「…………………」

「………無理そうですか?」

「いえ、何でもありません」

 

 首を振って、シンボリエウロスは樫本理子に従った。

 ただひたすらに、愚直に従った。

 

 立った時に違和感のない靴があった。

 だが歩くと、不自然に爪先が引っ掛かりそうになる靴だった。

 

 立っても歩いても、違和感のない靴があった。

 だが走ると、長靴を履いて走っているように安定性が無かった。

 

 走ってみて違和感のない靴があった。

 だが逆に、立った時に脚が外向してしまう靴だった。

 

 靴を変え、蹄鉄を変え、或いは単純に靴と蹄鉄の組み合わせだけを変え、時には蹄鉄を装着する時の角度だけを変える。

 いくつもの蹄鉄が使い潰される事なく消費され、数十もの靴が履き潰される事なく積み上がっていった。

 

 ようやく最も違和感のない靴を見つけて、ほんの少しだけ走る。

 

 1F40秒以下。

 100m換算で20秒。人間の走力から見ても限りなく遅い。

 このペースで数km以上を走り続けるとするなら人間の基準で速い方だが、あくまでシンボリエウロスはウマ娘。

 その上で、2F程度を走っては脚の違和感と調子を確かめて止まるを繰り返している環境では、あまりにも軽すぎる負荷と速度。

 その軽すぎる負荷と速度が、今のシンボリエウロスの限界だった。

 

「今日は、併せを行います」

 

 更に時間が経った。

 併せ、併走トレーニング。………誰が?

 果たして、今の自分と併走して誰が得をするのか。

 そんな疑問が顔に出ていたらしい。

 

「気にしなくて構いません。(れっき)とした交渉を行い、互いに公平だと納得出来た相手です。担当のウマ娘からもOKを貰っています」

 

 樫本理子の目線が横にズレる。

 その目線を追って、早速来ているらしい併走相手を見る。

 

 女性。裏葉色の頭髪が特徴的で、活発的な印象を受けるトレーナー。

 その横にいるのは、小柄な芦毛のウマ娘。

 

「おーう。今日はよろしくな?」

 

 彼女は『白き稲妻』として名高い、現役最強のウマ娘——タマモクロス。

 一つ上の先輩は、気さくに手を振りながら近付いて来た。

 

 それは——運命のすれ違い。

 オグリキャップは宝塚記念を観なかった。

 

 稲妻と暴風。

 最強と最強だったウマ娘の邂逅は『灰色の怪物』による運命のすれ違いから始まった。

 競い合いのレース場から、遠く外れたこの場所で。

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

「んじゃあトレーナーはトレーナー同士に任せて、ウチらは早速慣らしから入ろか」

 

 挨拶もほどほどに、タマモクロスはターフの上に立ってシンボリエウロスを促す。

 樫本理子トレーナーとタマモクロスを担当している小宮山トレーナーが特に何も言わない辺り、何も問題はないのだろう。

 

 後ろを付いていく。

 小柄な自分よりもう一回り小柄で——スタミナやパワーといった力比べでは絶対に敵わない事が確定している、追込の先輩に。

 

「あの、私は今リハビリ中で、私は私のリハビリしか出来ないのですが」

「ん? かまへんよ別に」

「えっと……」

「色々と事情は聞いとるよ。まぁ聞かんでも有名やけどね」

 

 タマモクロスは想像以上に友好的で、そして気軽だった。 

 これが単に、タマモクロスというウマ娘の特徴なのかどうかは分からない。

 しかしこれが彼女の特徴なのではなく、故障に由来する何かで気にかけられているだけだと考えるのは自然な事だった。

 何せシンボリエウロスとタマモクロスの間には、今までに友好的な関係があった訳ではない。

 

「お、これが嬢ちゃんの使っている蹄鉄に靴か。ほぉーん……?」

「あー……タマモクロスさん?」

「長いし、何か他人行儀みたいで嫌やなぁ。もうちょい気軽にし」

「では、タマモ先輩」

「おう。何?」

「事情を聞いているとして、先輩が私と併走する必要があるのですか? 迷惑しかかけられないのですが」

 

 その発言の何が面白かったのだろうか。

 タマモクロスは瞳を何回か瞬かせ、ニヤリと笑みを浮かべる。

 

「はっはーん。嬢ちゃん、やっぱしどぎつい気性難やな? 変に譲られて、下に見られてるようで気に食わんのやろ?」

「……………」

 

 それは——想像もしていなかった視点だった。

 或いは自覚していなかったと言うのかもしれない。

 自分は気性難だという自覚はあるが、そういうタイプの気性難だとは思っていなかった。

 だが反論すら浮かぶ事なく、自然とタマモクロスからの指摘がストンと胸に落ちる。

 シンボリエウロスは、下に見られる事が気に食わない。

 

「ウチもや」

 

 納得を浮かべたシンボリエウロスの表情に、タマモクロスは笑う。

 気の良い笑みであり、好戦的な笑みでもあった。

 

「思い通りにならなかったら腹立つし、無礼(なめ)られた態度取られたらむっちゃ頭に来るもんなぁ。分かるで、その気持ち」

 

 尤も、無礼(なめ)られていると分かった瞬間、所構わず相手に噛み付く訳ではない。

 明らかな格上からならば受け流して牙を研ぎ澄ませるし、格下からなら何か喚いているなと歯牙にもかけないで居られる。

 

 つまりシンボリエウロスは、タマモクロスを明確に意識している。

 いずれ競い合うであろう、対等なウマ娘として。

 そういう事にも気付いて、タマモクロスは笑っていた。

 

「でも受け取れる好意は受け取っとき。嬢ちゃんならまぁ、受け取らなアカン好意の見極めは付くやろうけどな」

「……………はい」

「ん……? あ、待ってタンマ。叱っとる訳ちゃうから。今のはウチのコトと違くて、嬢ちゃんのトレーナーの事や」

 

 タマモクロスの目線が、樫本理子の方に向く。

 何か思い至る事でもあったのか、シンボリエウロスは再び神妙な表情をしていた。

 

「……ちなみにウチ、昔これでめっちゃ怒られたコトあるねん」

 

 それに、自分で言い出した事ながら気不味さと責任感を覚えて、タマモクロスは口を開く。

 シンボリエウロスは、意外と素直に聞き返して来た。

 

「タマモ先輩が?」

「せや。川土手の下で一人寂しく見えたんかなぁ。チビがな? 何人かウチの手を引っ張って公園に連れてこうとすんねん。でもその手付きが馴れ馴れしく思えてなぁ……思いっきり噛み付いてしもうた!」

「物理的にですか?」

「え………いやちゃうけど………」

「そうですか………。それでどうなったんですか?」

「お……おう? まぁそれで、ウチのおっちゃんにな? お前は最低限の礼儀も弁えておらんって怒鳴られて、もうどえらい怖くて………」

 

 譲られたり譲歩される事そのものが、自分が下に見られる事ではない。

 遠回しながら実体験を笑い話にして、タマモクロスはそう伝えようとしている。

 ただそれはそれとして、上から目線な気遣いだったり無遠慮な慮りを受けたら、あ? オマエ何様のつもりやねん、と思う事に変わりはないだろう。

 タマモクロスは喧嘩っ早いウマ娘であった。

 

「おっと。話があさってに飛んでしもうたな。なんやったっけ」

「私は私のリハビリしか出来ません」

「それそれ。ホンマに気にせんでええよ。ウチらにも得がある事やし」

「具体的には」

「ハハハ。まっさかバカ正直に言うと思うとるん?」

「………なるほど」

「何がなるほどなんー?」

「言いません」

「ハッハッハ!! せや、それでええんよ」

 

 タマモクロスは別に、シンボリエウロスに譲ってなどいない。

 

 タマモクロスは言わなかったが、正直な話をするなら樫本理子が持っている育成論やデータを見せて貰うだけでも充分な対価になる。

 が、それだけならトレーナー同士の問題で、ウマ娘側にはあまり魅力的には映らない。

 

 小宮山トレーナーではなく、タマモクロスが今日の併走を受けた理由は、シンボリエウロスの脚質にも依るところが大きい。

 同じ追込だ。性質はあまりにも異なる訳だが、だからといって参考にならない訳ではなく、むしろ異なるからこそ参考になる部分は多いにある。

 

 そして、走法。

 

 シンボリエウロスは、極端に重心の低い姿勢で走る。

 似た走り方をするのは現役で——オグリキャップだけだ。

 

 強者が重心の低い姿勢で走る訳ではない。

 だが何故か、重心の低い姿勢で走るウマ娘の大半がレースで活躍する。

 理由は良く分かっていない。

 ただウマ娘の始祖であるエクリプスの走り方は、伝承によれば頭が地面と接触しそうなほど低く走る、とされているのに関係しているのではと言われている。

 

 そして、時間的都合。

 天皇賞・秋を目標としているタマモクロスは、日々トレーニングに明け暮れている。

 当然、身体も絞り上げて来た。

 そしてもう、これ以上絞り上げられる面がなくなって来た。

 

 タマモクロスはシニア級である。

 発展途上の時期は終えた。もうこれ以上は辛いだけ。調子も落ちる。

 はっきり言えば伸び悩んでいる。

 

 だからこそ、シンボリエウロスとの併走は願ったり叶ったりだった。

 

 何か新たな兆しになる可能性が高く、身体的にも息抜きになる。

 脅威の一人。敵を知るにも都合が良い。

 

「ちなみに、これからも時々ウチとの併走トレーニングがあると思うけど、よろしくな」

「………私のリハビリに付き合う形で、ですか?」

「おう」

 

 今この瞬間にも、様々な考えが渦を巻いているだろうシンボリエウロスにタマモクロスは笑みを浮かべている。

 早よしぃや、と促せば、シンボリエウロスは腑に落ちないような表情をしたものの、すぐに準備を始めた。

 

 違和感がもっとも少ない靴を選び、歩く。

 脚の調子を確かめ、そして軽く走る。

 

 同じようにタマモクロスも、彼女の横を軽く走る。

 シンボリエウロスの前の外側。

 

 気が散る位置だ。

 闘争本能を掻き立てられ、前を抜かそうと試みたくなるだろう。

 何より遅い自分に合わせられているという事実も、ウマ娘からすると中々に腹が立つ。

 野生の世界では、無礼(なめ)られたら終わり。

 人間であっても実利と礼節の裏側に存在する原始的な本能。

 当然、縄張り意識の強いウマ娘はこれが顕著である。

 

 だがシンボリエウロスは、自分のペースを崩さなかった。

 先程の腑に落ちない表情のまま走っていたのが、段々と消えて抜け落ちていく。

 嵐の前の静けさにも似た、風が逆向く印象があった。

 

「もしかして、誰かと併走した事あるん?」

「いえ」

 

 短い返答。意識の向き方から、本当に雰囲気が変わった事を悟る。

 併走に慣れている訳ではなく、ただ単に割り切ったのだろう。

 或いは彼女も彼女で、使えるものは全て使ってやるという精神か。

 

 ——いらんお世話やったかな。

 

 後輩に助言したのは事実で、しかし試したのも事実。

 もしも、その事に気付いたのが自分だったら相手をどつき回していた。

 それでもタマモクロスは、シンボリエウロスと色々と言葉を交えたかった。

 交えながら走って、色んな事を聞きたかった。

 

「にしても、その目で良く走れるなぁ。どうなん?」

「……慣れました。ただ」

 

 そう。シンボリエウロスは相も変わらず右目が見えていない。

 分厚い包帯はそのままであり、シンボリエウロスは片方の視野角を失った状態で走っている。

 両目がある場合と比べ、3割ほど視界は狭い。

 何よりも。

 

「距離感が掴めない」

 

 互いの位置取りを把握しながらやり取う行うレースに於いて、それが一番の課題だった。

 

「こうして誰かと走って気付きました。予想より支障が出そうです」

「……おーう」

「すぐに修正します」

「ハハハ。そかそか。凄いな嬢ちゃん。ウチには出来そうにない」

 

 それは、本心だった。心からの。

 時速60kmで転倒事故を起こして、身体中がバラバラになるような痛みを味わいながら走るのを続行した。

 あの瞬間を切り取っただけでも、タマモクロスはシンボリエウロスに一種の敬意を払っている。

 だからこそ言葉を交えたいと思っていた。

 

「それにこんな時によう集中出来るわ。何か秘訣とかあるならウチにも教えて欲しいくらいやで」

「……必要なんですか?」

「そりゃあもう! 実はウチ、レースが近付くと緊張してナーバスになってしまうんよ」

「へぇ………」

 

 自らの弱点、しかも中々に深刻な問題を告白するのは、近付いた仲の距離によるもの。

 タマモクロスは少しだけ自分の懐を見せた。転倒事故に関わるトラウマだからでもある。

 興味深そうにするシンボリエウロスは、別に何でもない事だったからか素直に話し始める。

 

「別に大したことはしてません。そもそも何もしていません。ただ私に出来る事は決まっていて、それをやるだけだと思っているので」

 

 一種の割り切り、と呼ぶにはそれはやや強引なものであろう。

 だがシンボリエウロス本人は、この考えに違和感を覚えた事はなかった。

 考える必要などない。どうでも良いから。

 悩む意味もない。やるべき事が変わらないから。

 ただ、積み上げる。自分に必要な事だけを。

 

「じゃあ……明日も大丈夫なん?」

「明日? 明日も私はリハビリなので、予定は空いていますが」

「いや、そうやなくて」

「………?」

 

 何故、そこで時間の話が出て来たのか。

 別に明日は特別な何かがある訳でもない。

 互いに考えている事の内容に齟齬を感じて、シンボリエウロスは眉を顰める。

 明日。明日に何か予定されているもので、関係するのは。

 

「毎日王冠ですか?」

「あー………」

 

 その発言に驚いた表情でシンボリエウロスの顔を見て、タマモクロスは止まった。

 

「いや、そうか………。嬢ちゃんも色々あったし、正直気にしている状況とも違うし、仕方ないんか」

 

 ——でも、これも余計なお世話になるんかなぁ……。

 頭を掻きながら呟くタマモクロスは、決心したように告げる。

 

「あのな、嬢ちゃん」

 

 それは今までのシンボリエウロスに、全くの別方向からの衝撃を与える一言だった。

 己の空白を、改めて思い至らせるような予想外の一言。

 故に、今までのシンボリエウロスなら絶対に。

 予想外として受け取ってはならなかった、一言。

 

 

「明日の毎日王冠。シリウスが復帰すんで」

 

 

 気付いてなかったん?

 続けられたその最後の言葉が、グルグルと頭の中で回り続けていた。

 




 
⚪︎女性。裏葉色の頭髪が特徴的で、活発的な印象を受けるトレーナー。
 今更だが小宮山トレーナーの髪色はまだ良く分かっていない。
 原作は白黒なので金髪のように見えるが、原作者が塗り直した(2022年1月10時点)カラーイラストでは緑がかった髪色だった。
 ちなみにこんな感じの色合いである。
 アニメが楽しみですね。

⚪︎もしも、その事に気付いたのが自分だったら相手をどつき回していた。
 オカン属性とツッコミ属性が発揮されない、素の気性難タマモクロス。
 更に史実寄りのシングレ時空タマモクロスなので、根本の気性がめっちゃくちゃ荒めタマモクロス。
 ここでのタマモクロスは、気が良いあんちゃんだけど普通にドスを持っている極道、くらいの緊張感で描写していきます。
 オグリと対面している時は普通(当社比)のシングレタマモクロスです。

⚪︎「嬢ちゃん」
 タマモクロスが他のウマ娘の名前を呼ぶ時の呼称は、アプリ版では例外なく『アンタ』か『〇〇(愛称の名前)』呼び。
 オグリキャップなら『オグリ』、スーパークリークなら『クリーク』、イナリワンなら『イナリ』。
 だが唯一の例外として、シンデレラグレイの第39R『今日この日の為に』で、一つ上のダイナムヒロインを『ヒロインちゃん』呼びする場面がある(一応、更に例外だが小宮山トレーナーを『コミちゃん』呼びしている)。

 タマモクロスがこの場面で『エウロス』呼びするとは到底思えず、かと言って『エウロスちゃん』呼びも正直違和感があるので『嬢ちゃん』呼びに。
 個人的にこの呼称がめちゃくちゃしっくり来ているので、今後も嬢ちゃん呼びは変わらないし、多分『エウロスの嬢ちゃん』とか言ったりすると思う。というか既に『1/14 並走トレーニング』で言わしている。
 ノリは『久瀬の兄貴』と同じ。
 尚本作ではまだ登場してないが、恐らくイナリワンも少し呼び方を捻ると思われる。
 
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