シリウスシンボリの復帰。
間違いなく、世間の注目の的になっていた。
右脚の剥離骨折。及び右中臀筋の断裂損傷。
シニア3年目のウマ娘が負って良い故障ではない。
怪我が治っても、全速力の負荷に耐えられるほどまでに戻る訳がない。
復帰に向けて努力していたのは知られていた。
彼女はまだ、自らの責務を果たしていない。
一つの時代の終わりと始まりを見届けていない。
だけど、もう無理だ。あの故障では復帰は出来ない。残念ながら引退だろう。
誰もが心の奥底ではそう思っていた。
だがシリウスシンボリは唐突に復帰を発表する。
次走、毎日王冠。
唐突だった。ほとんどのメディアが、シリウスシンボリの復帰を諦めていたからこそ、現在のシリウスシンボリの容態は知られていない。
また世間はシリウスシンボリの故障ではなく——別のウマ娘の故障と復帰を気にかけていたのもある。
多くの目がシリウスシンボリに向いた。
その全てを振り払い、周囲の驚愕も慌てる取材陣にも目もくれず、目的すら明かす事なく、彼女はその日を迎える。
10月9日。10月の第2日曜日。
毎日王冠。G2。東京芝1800m。
天皇賞・秋のみならず、マイルから中距離まで幅広い適性の一流が集い、G1戦線を占う前哨戦。
それは時に『スーパーG2』と呼ばれ、G1をも凌駕するレベルになる。
感覚としては、クラシックレース前の共同通信杯に近い。
しかし共同通信杯が『スーパーG3』とは呼ばれない以上、毎日王冠の規模は共同通信杯の上だ。
出走するウマ娘のほぼ全員がG1級。或いは実際にG1を制したウマ娘。
「戻って来たんだ」
その中で、最も一流のウマ娘であろうウマ娘は、シリウスシンボリではなく彼女だった。
ダイナムヒロイン。1番人気。
シニア2年目。メジロラモーヌ世代でティアラを競い合った強豪。
マイル路線の重賞レースにはほぼ必ず出走し、マイル路線のG2・G3を複数回優勝。今年の安田記念は2着。
その1着があのアキツテイオーの訳だが、最近のマイル路線はアキツテイオーと彼女の二強である。勝って負けてのほぼ同格。
もしもアキツテイオーがいなければ——或いはURA賞がクラシックとティアラで分かれているようなものだったのなら、ダイナムヒロインは賞を受け取っていたに違いない。
ダイナムヒロインは、マイル路線の女王である。
1:32.3。芝1600mの世界レコード保持者でもある。
「その脚で、まだ」
「…………」
「もう貴方の時代じゃないんだよ?」
無視。
シリウスシンボリは一瞬だけ目を寄越すのみで、反応をしない。
険を含んだ表情で前を見据えている。
「それとも……貴方が可愛がっていた"後輩"にカッコイイとこでも見せたかった? そんな想いで——」
「おい」
貫くような声だった。
海外から戻り、怪我を負い、全盛期を遥かに通り過ぎ、彼女は変わっている。
それでも尚、彼女の覇気は鋭かった。
削り出した刃のような切れ味だった。
「寂しかったなら分かりやすく言ってくれ。お前達の女王がいなくなったからって、所構わず尻尾を振られると私も困るんだよ」
「……………」
やれやれ、とでも言いたげな挑発的な表情で語られる、シリウスシンボリの言葉。
ダイナムヒロインはあのメジロラモーヌと同世代であり、尚且つティアラ路線のウマ娘である。
そして他ならぬメジロラモーヌは、史上初のティアラ三冠を得た覇者であり、既に引退したウマ娘である。
つまりは、そういう事だ。
「………あっそう」
シリウスシンボリは元から、こういうレース前の煽りを含めてアピールやパフォーマンスを欠かさないウマ娘だ。
ヒール的な役割に拒否反応を示す事もなく、むしろ積極的に演じていると言っても良い。
今の芝居がかった声色も、それを助長する。
だから別に哀しくもなければ、怒りも感じない。
何回も見て来た。何年と経っても、シリウスシンボリは弱味も弱音も見せない。
今もそう。
ただ、それだけの話。
「貴方はもうとっくに終わってる。今日ここで引導を渡してあげるから」
思いっきり言葉を吐き捨てて、ダイナムヒロインはゲートに入った。
彼女に与えられたのは6枠8番だった。
「……違うな。まだ私は終わっていない」
引導を渡されるのも、今日ここでじゃない。
一人ぽつりと呟いて、周囲から感じる視線の煩わしさにシリウスシンボリは目を閉じる。
彼女を見つめる瞳にあるのは、同情、困惑、警戒。
どれにも畏怖はなかった。シリウスシンボリの勝利を期待していないのだ。
観客席からも、チラリと覗く報道陣からもそれは同じ。
シリウスシンボリ。
4枠4番。10番人気。
11人立てとなった今日のレースで、10番人気。
その人気も、シリウスシンボリというウマ娘自体の人気から来る
実質的に彼女は、11人中11番人気でもおかしくない評価であった。
かつて海外のG1戦線を荒らし回り、このメンバー中で間違いなく一番の実績を持っているウマ娘にしては、あまりにも寂しい期待人気。
シリウスシンボリは、変わった。
彼女はもう、輝かしい全盛期を遥かに通り過ぎた。
怪我をして、故障もして、もう終わった側のウマ娘がそれでも意地で走っている。
本人ですら自覚している。
あぁ、らしくない事をしているな、と。
最近は自分は何の為に走るのか。何の為に走っていたのか。そういう事を考える機会が増えた。
誰よりも光り輝く一等星のように。
以前なら、そう答えた。
周りにいた化け物共、世界の頂に立つのが目に見えていた姉妹達。
そんな奴らよりも更に輝く為に、自らの光を証明する為に。
今は違う。自分では頂点に立てない。立てなかった。それを我武者羅に否定する若さはもうない。
代わりに彼女は、老練になった。
——何の為に、走るのか。
「ハッ。そんなもん、決まってる」
シリウスシンボリは、ゲートに向かう。
レースの始まりを促す歓声や実況の声は気にならない。
昔なら気にした。積極的に自らをアピールした。
ファンサービスも兼ねて、観客席に向かってウィンクでもしたりダンスでも披露した。
今はもう、どうでもいい。
そんな事を本気で思っている自分にすら、不思議と驚きも感じない。
瞳を閉じ、耳を閉じる。鉄のゲートの中は静かで、狭苦しい感覚も今日はしない。
周りのウマ娘の息遣いと緊張を感じ取りながら、シリウスシンボリはその瞬間を待つ。
『さぁ、いよいよ始まります。G2毎日王冠』
刹那、直前の雰囲気の変化。
ゲートが軋み、開くその瞬間が、彼女には分かった。
『スタートしました!』
秋節の始発点
東京1800。
東京レース場の芝1800mという条件は『共同通信杯』と全く同じ。つまりポイントも同じ。
【府中千八百展開要らず】
そのジンクスは既に破られた迷信であるが、迷信が生まれる程度にはそれらしい理由はある。
枠順による有利不利はほぼなく、また脚質による差もない。
強いて言うなら最終直線の長さ故の末脚勝負は重要であり、先行争いが激化しない為にゆったりとしたペースで流れた瞬発力勝負になりやすい事が特徴の本レース。
まず最初に動くのは、この世界に於ける必然。
始まりの脚質。
『パラパラとしたスタート……飛び出して来たのはロードロイヤル!』
逃げ。7枠9番。ロードロイヤル。
『メシアオブマイン! 5枠5番のメシアオブマインも上がって来て、先頭はロードロイヤル!』
同じく逃げウマ娘、メシアオブマインも上がる。
だが先手を取ったのは、ロードロイヤルだ。
純粋に、ロードロイヤルが逃げウマ娘として一歩上なのだ。
——アキツテイオー。アイツがいないなら、逃げはボクの独壇場!
そして更に、その上にアキツテイオーが君臨している。
今日はいない。故にレースを引っ張るのはロードロイヤル。
帝王なき今、王足る逃げがレースを支配する。
——完全に突き放しはしない。ボクの敵は、一人だけ。
その敵の名は、ダイナムヒロイン。
舞台の上の王女様。
去年の毎日王冠は、ダイナムヒロインが勝っている。
アキツテイオーすら破って彼女が勝った。
ダイナムヒロインの戦術は、逃げウマ娘達が混雑する中での優位先行。そして差し切り。
何よりダイナムヒロインは、芝1600mの世界レコード保持者である。
中距離ともなれば彼女は適性外となるが、1800mはまだまだダイナムヒロインの庭だ。
彼女の動きを警戒し、優位を維持したままこのペースで走る。
東京1800mは、東京2000mのようなスタートしてすぐにコーナーはない。
故に、積極的に前に出る必要がない。
メシアオブマインも積極的に競り合いを仕掛けず2着に収まるのは、前に出過ぎる事の警戒だろう。
また東京の1800mはコース設計上有利不利がほぼなく、枠順や脚質にもほとんど左右されない。
必然的にこのレースでは、ラップタイムによるペースくらいしか展開に影響しない。
ペースを握れる彼女が、今この競走を操っている。
——さぁ、どう来る?
まず最初のスタートを終えて、向こう直線に入る。
レースが400mほど進んだ段階で注目のダイナムヒロインは、ロードロイヤルを見ていなかった。
——………まさか、本当に出て来ただけ?
彼女は、シリウスシンボリを見ていた。
警戒はしている。相手が相手だからだ。シリウスシンボリは『皇帝』とはまた違う形で大言壮語の物言いを良くするが、嘘や方便を嫌う。つまり彼女の発言は全てが本気。
勝つ為にレースに出たのは真実だろう。
だが本当に、脅威には感じられない。
6番手、差し位置。
シリウスシンボリの位置は、悪くはない。良くもない。
もう一度言うが東京1800mは脚質や枠順による有利不利がないのだ。
故に脚質問わず速い上がりを求められる為、純粋な地力に劣る者は何らかの積極性を見せる必要がある。現在のペースに対する適切なアプローチも行わなくてはならない。
コースの特徴や有利不利がほとんどないという事は、それ即ち純粋な実力勝負の鉄火場。
シリウスシンボリは何らかの動きを見せない。
まさか、本当に実力勝負で勝つつもりだと?
——ありえない。
正直言って、シリウスシンボリからは猛るような気合いもなければ我武者羅な力も感じられなかった。
根本的な脚の伸びすら、以前とは全く違う。
「…………」
年老いて疾うに一線を引いた老人。
シリウスシンボリから受け取る印象は、何処までも寂しいものだった。
一縷の望みを託して、レースに出ているのか。
あのシリウスシンボリが。日本ダービーを取ったから充分だと言うように、海外制覇を目指してこの国を飛び出していったあのシリウスが。私達の、開拓者が。
「じゃあ、もういい……!!」
耳を逆立て、過去の面影を振り切るようにダイナムヒロインが動く。
1番人気。彼女が動けば、レースそのものも動いた。
第3コーナー直前、直線での追い比べをかけてウマ娘達が位置取りに動いた。
スローペースからの、横一線の勝負へ移行するウマ娘のバ群の固まり。
シリウスシンボリは動かない。動けないの間違いかもしれない。
少しずつウマ娘達に追い抜かれ、最終直線に入る頃には彼女は11番手に落ちる。
最後方。
『最終直線に入った! 横一線! 激しい追い比べだ!!』
塊となってスパートに入ったウマ娘達。
この瞬間、先頭から最後方までは僅か5バ身となった。
だがこの5バ身は、スローペースからの末脚勝負では重く響く。
余力がある状況での末脚勝負は、逃げから追込までが限界速度で走る為にほとんど末脚の差が出ないからだ。
シリウスシンボリに期待している人は、まずいなかった。
実況もレース中のウマ娘達も、シリウスシンボリを見ていなかった。
いてもいなくても、レース展開に全く影響しない。
そういう状況。
「——褒めてやるよ、レースの神様」
ただ一人シリウスシンボリだけは、その状況が既知にある。
——すり抜けた……トランポリノ、バ群の壁をすり抜けましたっ!
これは二度目。
凱旋門賞。苦しい敗北を記したあの日、シリウスシンボリは存在してもしていなくても変わらないウマ娘だった。
『ロードロイヤルは厳しいか!? ダイナムヒロインが一歩抜ける——』
後方の差し切りが届かない、横一線の勝負。
その壁をまるですり抜けるように貫いた追込ウマ娘。
レコード勝利を果たしたフランスのウマ娘が勝利した瞬間を、シリウスシンボリは確かに見ていた。
『——シリウスシンボリ……っ!!!』
「………なっ……!?」
『——シリウスシンボリが上がるっっ!!』
ラビット役の逃げウマ娘がいない日本。
先頭の動きは、彼女にとって分かりやすいものでしかない。
後ろのウマ娘が何を考えているかも、どう動くのかも。
逃げウマ娘を差し切るべく、横を避けるウマ娘。
一瞬の隙。一瞬の刹那。ウマ娘達がスパートを掛け始めるタイミングのズレがあると言えど、その隙間を貫くには中々無理がある。そもそも滑り込む隙もないかもしれない。
だがシリウスシンボリは賭けに勝った。
だって彼女は、最も運のあるダービーウマ娘。
シリウスシンボリはすり抜けるように、横一線のバ群を貫き、そして越える。
「っ……それが——!!」
——なんだって言うのか。
ダイナムヒロインは吠える。
なるほどシリウスシンボリは上手い事やったかもしれない。
逃げ続けていたロードロイヤルを避ける分の無駄な動きをシリウスシンボリはしなかった。
ついでに、直線的に末脚を使えている部分も多少は考慮に入れるべきかもしれない。
5バ身あった差を、意表を突いて4〜3バ身くらいに収めたのもまぁ良いだろう。
『激しい追い比べ!! 誰が一歩抜け出すのか!』
だが、最後の実力勝負はここから始まる。
最終直線を抜け出す為の実力。根本の力強さ。
そんなもの、今のシリウスシンボリにある訳がない。
『誰も譲らない! 誰も譲らない!!』
ある訳が、ない。
『——シリウスだ!! シリウスシンボリだ! シリウスシンボリが抜け出した!』
「ウソ……」
なのに。
だと言うのに。
何で。
「——私よりも……速い!?」
抜け出し、横に並ぶ。そして徐々に離れていく。
競り合いは一瞬だった。
先頭は今、シリウスシンボリだった。
後ろからそれを眺めるダイナムヒロインは、それを信じられなかった。
「何処にそんな体力が——」
いや、無い。
だからシリウスシンボリは、周囲に遅れる形でスパートに入っている。
大外をぶん回すほどの余力もない。
あるのは海外を渡り歩いた経験。重い洋芝を掻き分ける足腰のパワーが、衰えた今では瞬時の加速力として唯一の武器となっている。
シリウスシンボリは、賭けに勝った。
衰えた実力で、その範囲内だけでの勝負に彼女は成功した。
彼女が今G1戦線に唯一喰らい付けているのは、とある妹分とは二回りは劣る瞬間的な切れ味のみ。
『シリウスシンボリ、1着でゴールッッ!!』
それでも、彼女はレースに勝てる事を証明してみせる。
驚愕に満ちた歓声が、彼女を迎えた。
後方のウマ娘達は皆一様に、信じられない顔をしてシリウスシンボリを見ていた。
対照的に、必死の表情で走っていたシリウスシンボリは、ゴールを迎えてから苦しい表情をしている。
『何という事でしょう!!シリウスシンボリが勝ちました!! シリウスシンボリが戻って来た!! 復帰は絶望的と見られながら……っ、一等星はまた再び、今この東京レース場に輝き始めました!!』
天に顔を向けて、彼女はハァハァと荒く息をする。
3000mの長距離を走ったかのような疲労が、内外に彼女の衰えを実感させた。
だが決して彼女は膝は突かない。下を向かない。それはシリウスシンボリの意地だった。
「…………」
「……言ったろ。まだ私は終わってないんだよ」
差は半バ身。
物言いたげなダイナムヒロインに、シリウスシンボリは笑って答える。
その笑みにはかつてのような、強気で、野心家で、自信に溢れたカリスマはもうない。
だがそれが、
そのウマ娘の名は——スピードシンボリ。
二つ名は『老雄』。或いは『老兵』。
イギリス最高格競走『KGVI & QES』フランス最高格競走 『凱旋門賞』に日本ウマ娘として一番最初に挑戦し時代の先駆者となったスピードシンボリは、シニア4年目まで現役を貫いた。
全盛期を遥かに通り過ぎ、時には衰えによる限界論が出ながら、むしろ後年になるほど真骨頂を発揮したウマ娘。
有馬記念5年連続出走。
クラシック期、3着。
シニア1年目、4着。
シニア2年目、3着。
シニア3年目、1着。
シニア4年目、1着。
シニア3年目で有馬記念を勝ったウマ娘は他に、TTG世代のグリーングラスしかいない。
シニア4年目で言えば存在しない。
そもそも有馬記念を連覇しているウマ娘が、他にシンボリルドルフしかいない。
最も偉大な無事是名馬。
シンボリ家をトゥインクル・シリーズ最高格の名門にまで引き上げた第一人者。
シリウスシンボリは今、そのスピードシンボリと雰囲気が似ている。
「私に引導を渡す奴は、一人だけだ」
ずっと前から、そう決まっているんだ。
呟いてから、シリウスシンボリは観客席に顔を向けた。
報道陣のカメラ。その一つに向かって指を指す。
「——来いっ! シンボリエウロス!」
歓声が、一瞬だけ止む。
「私は戻って来た! 故障してもだ!』
それは宣言だった。
ただ一人に向けた宣言。
画面の向こう側にいる筈の、ただ一人に。
「だからお前も来い! お前が越えなければならない壁、お前が飛び越えなければいけない時代! それが有馬記念で待っている——私を超えなければ、お前が望む頂点には辿り付けやしないだろう!!」
シリウスシンボリはやった。それでも復帰して来た。
ならばシンボリエウロスは来る。きっと復帰して来る。出来ない訳がない。
だってあの——シンボリエウロスなのだから。
そうやって妹分を励まし、世間をも鼓舞し、シリウスシンボリは宣言した。
「私が、お前の敵だ! 有馬記念に来いシンボリエウロスっ!!」
画面の先。トレーナー寮の一室。
シンボリエウロスは黙ったまま、ジッとテレビを見つめていた。
レースが始まる前の予想から、レースが始まる瞬間も、レースの途中も。
シリウスシンボリがゴールした瞬間も、宣言した瞬間も、その後の歓声も拍手も。
実況と観客の興奮がしきりに響く中で、彼女は一言も発さず、そして今も何も口にせず、画面の先を見つめていた。
「………エウロス?」
樫本理子も同様に、シンボリエウロスと共に毎日王冠を眺めていた。
彼女の様子を見兼ねて声をかけると、シンボリエウロスは動揺したように小さく肩を揺らす。
視線が合った。
口を開いて、でもまた閉じて。
そして結局何も言わない。
その姿は
「えっと………」
一言だけ口にして、また閉じる。
目を逸らして、シンボリエウロスは何かに言い訳するように答えた。
「すみません少し、言葉が出なくて——」
一目で分かった。
シンボリエウロスは今、深い思考の渦にいる。それも悪い思考の渦だ。
「……いえ、謝る必要など」
「そうですよね……ごめんなさい、———」
口にしてから気付いたのだろう。
片方のみの、翡翠の瞳が揺れている。
自分自身が信じられないような引き攣った表情をして、シンボリエウロスは動揺していた。
樫本理子には、分からない。
心の底から寄り添いたいと思っている。
だが、分からない。
シリウスシンボリの勝利を見て、宣言を受けて、感動するでもなく奮起するでもなく、どうして動揺しているのか。
「あの、本当に言葉が出なくて」
この場に於いてすら彼女は、相手が何を思っているかの凡その輪郭を察してしまうらしい。
先んじて答える担当の姿に、樫本理子の伸ばした手が止まる。
「自分でもどうして、何がこんなに冷めているのか、心に穴が空いているのか言語化出来なくて」
「…………」
「少し一人にして貰えませんか。トレーナーに当たってしまいそうです」
耳をキュッと閉じるように絞り、シンボリエウロスは樫本理子から距離を取る。
身を引くような後退り方で、同時にそれは拒絶だった。
——今のシンボリエウロスを一人にしてはいけない。私の身などどうでも良い。
——これ以上シンボリエウロスの心身に詰め寄ってはならない。仮に今シンボリエウロスが他人を傷付けたら、別の傷を負う。
トレーナーとして警鐘が、全く異なる矛盾した直感を樫本理子に告げた。
運命の瀬戸際、絶対に間違えてはならない選択肢の上に、既に立っているのだという自覚と共に。
「ごめんなさい」
「……………」
寸前で止まった手を、シンボリエウロスは見つめている。
それが答えであった。
「……分かりました。今日は休んでください。それと私の事は、何も考えなくて構いません。私は私自身で何とか出来ます」
「……………」
言葉なく、力もなく頷いて、シンボリエウロスは自室に戻っていった。
その背中を見送って、樫本理子は無意識の内に唇を噛む、
何が正解だったのか。
もう自分は取り返しの付かない失敗をしているのではないか。
そんな不安に苛まれながら、樫本理子は彼女の姉のシンボリルドルフに分かる範囲での凡その現状を伝え、そしてそれがエウロス自身には伝わらないように説得してから次の日を迎えた。
翌日。
顔を合わせたシンボリエウロスは落ち付いていたが、平静を装いながらも元気がなかった。
以降も輪にかけてボーっとする機会が増えた。
違和感。もはや取り繕いようがないほど表面化した致命的な不調。
それでもシンボリエウロスは、どれほどの絶不調でも正確に、確かにやるべき事をこなしていた。
少しずつ確実に進んでいくリハビリ。
だが相反するように、彼女からは明確に、言語化出来ない何かが積み重なっていく。
右目は見えていない。
右目だけが一切、快復の兆しを見せない。
そして、更にある日。
シンボリエウロスから連絡が来た。
『ごめんなさい。今日は少し走れそうにありません』
初めて、シンボリエウロスは練習に来なかった。
⚪︎1:32.3。芝1600mの世界レコード保持者でもある。
シンデレラグレイでは日本レコードホルダーと描写されているが、正確には世界レコード。(更に正確に言うと世界に於ける1マイルとは約1609.344mであり、更にはタイム計測も各国で微妙に違うのでレコードタイムは国外と比べない方が多い)。
ちなみにこのレコードは、最近新ウマ娘発表で話題になったサクラチトセオーが、G3京王杯オータムHで1:32.1を出すまでの約7年間保持され続けました。
⚪︎
19戦7勝。獲得賞金額約3億1500万。最優秀主演女優。舞台上のお嬢様。芝1600m世界レコードホルダー。
史実ではシリウスシンボリと同じく天皇賞・秋を最後に引退している。
必然的にシンデレラグレイでは出番が少なく、また内心の描写が数コマあるだけで直接的な台詞はない。
ちなみにシンデレラグレイでは度々シリウスシンボリと一緒に登場したりする為か、第76R『おかえり』のとある場面で2人が仲良さげに会話をしているであろうコマが一箇所だけ存在する。
以降、ダイナムヒロインとシリウスシンボリの出番はないので二人の関係は分からないが、ほぼ間違いなく仲が良いであろう事だけは分かっている。
尚本作のシリウスシンボリは、幼少期からの色んな経緯があって性格がシングレ時空からアプリ時空になっているので、かなり別物。
身も蓋もない事を言うとシングレ時空のシリウスシンボリは幼さが目立つ性格をしており、かなり周りが見えていないので話の深掘りがしにくい。
⚪︎
22戦5勝。獲得賞金額約1億8000万。昭和末期を逃げ戦術で彩ったG1戦線の強豪。
史実の毎日王冠では機嫌を悪くした『シリウスシンボリ』号の回し蹴りを喰らって発出除外に。ついでに『
シングレでは、パドックでダンスを披露していたシリウスシンボリの手足がぶつかって、鼻から出血したため発送を除外する形に。
しかもシリウスシンボリは他人を怪我させた事に気付いていない。
史実の出来事なのでシングレでは仕方がなくギャグ混じりにさらっと流されたが、よくよく考えるとウマ娘世界のSNSで大炎上しそうな事をシリウスシンボリはやらかしている。