有効射程距離25バ身   作:sabu

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 最も速いウマ娘が勝つ皐月賞。
 最も運のあるウマ娘が勝つ日本ダービー。
 菊花賞は——


10/20 最も強かったウマ娘

 

 シンボリエウロスは問題児である。しかし彼女は優等生でもある。

 彼女は日々を規則正しく過ごしており、荒れた生活もしない。

 学業に於いては優秀そのもので、それはレースにも活かされていた。

 授業にもしっかり専念しているのがその証拠だ。

 

 だからこそ彼女は、問題児としての点を見逃されていたと言えるだろう。

 自分が正しいと判断した事は絶対に譲らず、クラシック登録の規則にはURAに反抗し、トレセン学園にも迷惑をかけた。

 授業に参加しつつも、明らかに授業内容とは全く別の科目の教科書を開いて勝手にノートを纏めている事もあれば、良く分からない海外の論文らしきものを見ている事もあるし、明らかにURAの司法試験の勉強をしている事もある。

 

 その日、シンボリエウロスは授業に参加しなかった。

 

 教員に見逃されているだけで授業を真面目に受けていない時間の方がどう考えても多いが、一応授業には参加している彼女にしては珍しい出来事。

 

 二日、三日経っても来なかった。

 

 レースや、予約がいるグラウンドでのトレーニング。他様々な予定に時間を有する中央トレセンのウマ娘達は、理由があれば授業参加は免除される。

 それを踏まえても、珍しいの範疇では済まない欠席日数。

 

 五日経った。彼女は来なかった。

 

 様子は普段と同じなのに、何か雰囲気が変わったシンボリエウロスは、遂にはその普段の様子すら変わり始めていた。

 

「……………」

 

 そして一週間経っても、彼女は教室に訪れすらしなかった。

 一日の授業が終わった教室内では、空白が目立つ後方の席に視線を巡らせながらヒソヒソと会話をするウマ娘達。

 曰く、最近のシンボリエウロスはグラウンドにも来ていないという。

 シンボリエウロスのリハビリの状況は、ある程度だが知られていた。

 そもそもリハビリは、中央トレセン内のグラウンドで行っているのだから他のウマ娘は見ようと思えば見れる。

 内側か外側の、別のトラックで練習しているウマ娘も時々いるし、レース場でのスクーニングを入れていなければ、凡その状況は知られるものだ。

 

 シンボリエウロスのリハビリは進んでいる。

 早くもないが遅くもない、予定通りの進行。

 しかしそれは順調という事でもあり、最近のシンボリエウロスはかつての面影が感じられる程度には走れるようになって来ていたのだ。

 そんなシンボリエウロスが、教室にもグラウンドにも見受けられない。

 一体何があったのか。良くない事を思い浮かべ、一様に不安がるウマ娘達。

 

 彼女は戻って来た。

 怪我をした。痛々しい故障の痕跡があった。

 それでもいつも通り授業には出て、リハビリも順調で。

 でも平穏は、何も戻って来ていない。

 

「何があったんだ……」

 

 一つ後ろの席。

 少し埃が積もり始めている空白の席を、オグリキャップは撫でる。

 

「私達には相談してくれないのか………」

 

 彼女が感じ取っていたのは、良く分からない違和感がシンボリエウロスにある事だけ。

 それは周囲のウマ娘達もそうだろう。

 何でも良い。ほんの少しでも悩みを打ち明けてくれたら、絶対に力になる。

 だけど彼女が何を抱えているのか分からなくて、クラスメイト達は何と言葉をかければ良いのか分からなかった。

 或いは、シンボリエウロス本人ですら分かっていないのかもしれない。

 自分の内に積み重なっている、ナニカに。

 

「……………」

 

 この問題は、いずれ時間が解決する類のものなのだと思う。

 だが彼女達ウマ娘は、常に時間に追われている。

 日本ダービーから凡そ5ヶ月。冬が近付き始めている、秋の終わり頃。

 菊花賞が近付いていた。

 

「樫本理子さん。私は貴方の事も心配しているんですよ」

 

 生徒会長室でも、持ち切りになっているのはシンボリエウロスと菊花賞の話である。

 生徒会長室だから、と表現する方が正しいかもしれない。

 しかし『姉』はあくまでも生徒会長として平静に、そして一人の理解者として樫本理子を心配していた。

 

「敢えてこのように表現しましょう。シンボリエウロスには貴方が絶対に必要だ。貴方が倒れては元も子もない」 

「…………」

 

 当然ながら、妹が大事にならないのなら樫本理子はどうでも良いという意味ではない。

 シンボリルドルフは樫本理子の事も案じていた。トレーナーという立場から来る心身両方の疲労は、さしものシンボリルドルフでも想像を絶する。

 だがこの容赦のない言葉は、樫本理子には必要だろうとシンボリルドルフは思っていた。

 

「………えぇ」

 

 言葉を受けて、樫本理子は実感している。

 シンボリルドルフの言葉は雄弁に正しい。

 一対一の担当契約を結んでいる以上、シンボリエウロスを直接的に指導し支える事の出来るトレーナーは樫本理子しかいない。

 自分の事を厭わない献身は、ただの逃避だ。

 樫本理子は、今だからこそ自らの身も大事にしなければならない。

 

「それでエウロスのリハビリは進んでいますか?」

 

 コト……と置かれたマグカップから香る白い湯気。

 シンボリエウロス共々、姉妹が愛飲しているはちみつ湯。

 受け取って、一口付けるまでもなく樫本理子は喋り出す。

 

「……あまり良くはありません。軽く走れるようになるまでは順調でしたが、そこからは進展していない」

「——驚いた。私の目には今も順調に見えているというのに」

 

 それは素直な感想であった。

 予定より早くもないが、遅くもない。

 だがあの重傷で、ここまで予定通りにウマ娘を快復させているのは並大抵の努力ではない。

 言ってしまえば悪化する可能性の方が高かった。

 シンボリルドルフは、そういう目線と評価で樫本理子を見ている。

 だが他ならぬ樫本理子が、遅いと言い放ったのだ。

 全く以って順調ですらないと。

 

「私は彼女を、菊花賞までに間に合わせるつもりでリハビリに挑んでいました」

 

 硬い口調で、樫本理子は言う。

 ギュッと握るマグカップの中で、はちみつ湯が揺れていた。

 

「今もです。彼女が菊花賞に出走するのは決して不可能ではない。彼女は本当に出来た子です」

「…………」

 

 他ならぬ自分は、そう信じなければならない。

 樫本理子の瞳の裏に、そういった後めたさから来る脅迫観念があるのかは、シンボリルドルフには判断が付かなかった。

 ただ樫本理子の意思は固く、その所以が過去にある事は彼女も知っている。

 

 窓辺からグラウンドのウマ娘に視線を移して、シンボリルドルフはマグカップに口を付ける。

 樫本理子。かつて担当を転倒事故で引退させたトレーナー。

 シンボリルドルフは勿論彼女の過去を知っている。

 だからと言って嫌悪している訳ではなく、そもそも彼女の経歴を危惧していたのなら妹のトレーナーになんてさせていない。

 

「貴方は、エウロスから何か連絡を受けたりしていないのですか」 

 

 物案じ顔をしていたルドルフは樫本理子の言葉を受け、改めて妹とのやり取りを思い出した。

 日本ダービーから今の今までに受けた、妹の本心らしきものと共に。

 

「………、……あまりやり取りはしていませんね。今ではもう、貴方の方が妹に詳しい」

「そうですか………」

「私も最近の妹が直面している悩みが、一体何なのかは分かりません」

 

 シンボリルドルフも、妹の見舞いには何度も行った。

 妹の体調も、実際の故障の様子も聞いたし、その後の復帰に向けたトレーニングに付いても聞き齧っている。

 だが分からない。姉であっても。

 彼女達は一様に、同じ場所にいた。

 

「…………」

 

 樫本理子はシンボリルドルフの言葉を呑み込み、僅かに項垂れる。

 ある程度、予測出来ていた事だ。姉君の介入だけでは、そう簡単には行かないだろう事を。

 シンボリエウロスの苦悩。彼女を取り巻く違和感。辿ればそれは日本ダービーでの故障に繋がる。それだけは分かっている。

 

「……分かりました。今日はありがとうございます。もしかしたら、また貴方に何か尋ねる事があるかも知れません」

 

 マグカップを一気に飲み干し、樫本理子は手短に退出の準備を始めた。

 生徒会長の時間を無闇矢鱈に奪って良い訳はなく、また樫本理子本人も時間に追われている。

 長話をする気も、余裕もなかった。

 

「樫本理子さん。日本ダービーでの件なのですが」

 

 腰掛けていた椅子から立ち上がり、扉に手をかけようという正にその時。

 ふと独り言を口にするような声色でシンボリルドルフは喋り出す。

 樫本理子は——息を呑んだ。

 振り返って見たシンボリルドルフの表情。

 目を伏せがちに語る、余りにも切ないその顔色に。

 

「"シンボリエウロスの故障は事故です。アレは誰かが悪かった訳ではない。アレには何らかの過失があった訳でもない"」

「……………………」

「"あの転倒はただ、なるべくしてなった。そういう話です。それ以上でもそれ以下でもないんです"」

「アレは——運命だと? 貴方はそう思っているのですか?」

「……はい。"日本ダービーでの出来事は全て、仕方がない事だった"」

 

 東京レース場への四連続出走。

 非常に特徴的な走りをするウマ娘への対応策の固定化、及びレース展開の収束。

 皐月賞から来る右脚の不調。

 1000m〜800m付近に存在する大欅、魔の第3コーナー。

 喘鳴症に由来する、シンボリエウロスの弱点。

 1000m〜800m近い距離のロングスパート。

 

 全てが、たった一箇所に重なっていた。

 あの事故は、なるようにしてなった。

 

「たった一つでも何かが掛け違えば、シンボリエウロスは怪我をしていなかった。今も彼女は苦しんでいない筈だった。そうは……思わないのですか」

 

 全てが、たった一箇所に重なっていた。

 ならば一つでも重なっていなければ——樫本理子がそう考えるのは極自然な事だろう。

 あらゆる原因も理由も分かっていて、もしもを考えなかった日が樫本理子にはない。

 樫本理子の険呑な視線がシンボリルドルフに向く。

 シンボリルドルフから、切なげな表情が消えた。

 

「えぇ——思いますよ」

 

 それは。

 思いも寄らない返答だった。

 呆気に取られて、樫本理子が口篭る。

 樫本理子が覚えたやり場の無さが、そっくりそのまま空回るような場の雰囲気。

 そしてそのやり場の無さは、かつてシンボリルドルフが妹にも覚えたものである事を樫本理子は知らない。

 

「思わない日なんてない。私は未だに、妹が無事に走り抜ける幻影を見ている」

「では、今のは……」

「今の言葉は全て一語一句、妹からの言葉です」

 

 シンボリエウロスが転倒し、復帰が危ぶまれるほどの故障をした非難は樫本理子に向いた。

 世間は樫本理子に責任を求め、糾弾した。

 その時、シンボリエウロスが世間に取り成したと同時にシンボリ家に向けた、彼女の本心。

 

 シンボリルドルフは樫本理子の事を責めている訳ではない。

 トレーナーとして疑いを持っている訳でもない。

 だがそれでも、あの日のもしもを考え続けている。

 きっと誰もが考え続けている。

 唯一、当の本人であるシンボリエウロスを除いて。

 

「最近……いや今になって、ようやく妹の言葉を受け入れられるようになりました」

 

 確かに何かが掛け違えば、あの転倒事故は起きなかったのかもしれない。

 最善を尽くしていれば、あの運命は変わっていたのかもしれない。

 

「けれど貴方達二人が、いつ手を抜いた事がありましたか?」

 

 じゃあ二人が。他ならぬ樫本理子がこれまで最善を尽くして来なかったかといえば、全くそんな事はなかった。

 あの時、あのタイミングで考え得る全てを考え、取れる手を全て取った上で、それでもあの転倒事故という結果になった。

 

 だからあれは、きっとそういう運命だったのだ。

 シンボリエウロスの故障は、なるべくしてなったという必然の域を出ない。

 それ以上でもそれ以下でもない。これ以上の話の展開はない。

 妹はそこで、日本ダービーの出来事を終わらせた。

 何も呪わず、それ以上を続けなかった。

 

「今回の件で責任を取って辞めるべきだ。………どうかそんな事を思わないでください、樫本理子さん」

「………………」

 

 かの皇帝が乞うように。切実に。

 そして真摯な表情で引き留めるその姿に、樫本理子の心の内から険が消える。

 

 きっと、心配されているのだろう。

 そしてシンボリルドルフからは、見えているのだ。

 私がシンボリエウロスのトレーナーでなければ。

 シンボリエウロスにはもっと相応しいトレーナーがいる筈だ。

 そんな自己嫌悪で一杯になっているように。

 

「………不思議ですね。私は貴方達姉妹から、心配されてばかりいる気がします」

 

 やはり彼女達姉妹は似ている。

 或いはただ単に、自分が頼り無さげに見えるのかもしれない。

 でも彼女達姉妹の心配は、きっと正しい。

 樫本理子には、実際に自己肯定感が低い自覚があった。

 シンボリエウロスの担当を始めたのは、(ひとえ)に後ろめたさと贖罪から来る後ろ向きなもの。

 もう一度担当を壊すような事があれば自分は絶対にウマ娘と関わってはならない存在なのだと自認していた筈だろう。

 今は少し違う。

 

「トレーナーとして、私がシンボリエウロスに相応しいと思った事は一度もありません」

 

 背を向け、扉に手をかける。

 小さく息を吐き、樫本理子は瞳を綻ばせた。

 

「ですが私より——あの子に相応しいと思えるトレーナーを見掛けた事は一度もありません」

 

 今度は、シンボリルドルフが息を呑む番であった。

 樫本理子という人間の輪郭から滲む、その覚悟に。

 天を仰ぐように、樫本理子は語る。

 

「何度考えても、どれだけ思い直しても、彼女には管理が必要です。あれほどの才能と尖った個性を、この寒空に向かって無責任に放任して良い訳がない」

 

 天才は縛られる事を嫌う。周りに合わせる事を嫌う。

 或いは自分を変える事が出来ないと表現するのが適切かもしれない。

 尖った個性。突出した才能。独特な世界観。過敏な感受性。

 何かを変えれば、どれかを受け入れれば、彼女達は自分を維持出来なくなるのだと本能的に察知しているのだろう。

 無論、それは各々の本人に聞かねば分からない。

 だがそうでなくとも、レースを走るウマ娘そのものは庇護を受けるべき少女だ。

 

 だから放任主義は無責任だと思っていた。

 管理主義こそが、トレーナーとしての責任だと思っていた。

 

 違った。

 放任主義も管理主義も。その他あらゆる全ての育成論理は、トレーナー側の都合。

 トレーナーとしての最低限の責任は、一つ。

 ウマ娘の心身にどれだけ寄り添えるかどうか。

 

 シンボリエウロスは天才だ。近年稀に見る、尖りに尖った天才。

 そしてそれは、患っている深刻な病に由来する才能。

 何かを変えれば、どれかを受け入れれば、自分を維持出来なくなるのだと完全に理解している。

 だから彼女は、多くのものを切り捨てて来た。

 いらない。どうでもいい、と無為にして来た。

 だから——彼女には、管理がいる。

 自らの才能で空の彼方へ霧散しかねない彼女が、道を踏み外す事なく、そして正しく成長出来る為の管理。守る為の、管理。

 

 彼女は少し、空に向かって飛び過ぎてしまった。

 

 シンボリエウロスの致命的な違和感。何処か地に足が付いていない雰囲気。

 それが樫本理子には少し分かる。彼女には未だ現実感が追い付いていない。

 だけど彼女は、ちゃんと物事を理解していて、何が起こったのかも把握している。

 その齟齬。周りと自ら自身の齟齬に、彼女は戸惑っている。

 解消の仕方だけが、樫本理子には分からない。

 

「日本ダービーでの転倒事故は、防げた筈だった」

「………言ったでしょう。アレは貴方達が最善を尽くした結果なのだと」

「関係ありません。あの事故は運命だったなどと、トレーナーとして認められない」

 

 強い否定。

 論理的でも何でもない、我儘のような断定がシンボリルドルフの口を塞ぐ。

 

「仮にあの日の出来事がなるべくしてなったものだと言うのなら、その運命は私が変えられる筈だった」

 

 管理だ。

 担当から信頼され、健康を預けられた。才能の行方すら任された。

 命を託されているも同然だろう。

 本当は縛られる事など嫌いで、周りのウマ娘の価値観や感覚に合わせるのは億劫で、他人の機微を測るは面倒。名誉とか栄誉とか何もかもがどうでも良くて、ただ自由に走れるのが楽しくて仕方がない。

 そんな子から任された。自らを管理してくれと説明を受け、全幅の信頼すら預けられている。

 シンボリエウロスの手綱を握っているのは、自分だ。

 それで、あの悲劇は運命だったなんて認められる訳がない。

 

 彼女は故障した。その責任を取る必要がある。

 

 トレーナーを辞める——そんな考えは無責任だ。

 それは故障の責任を負っているだけで、取るべき責任から逃げている。

 担当から、逃げている。

 自分よりシンボリエウロスの未来を守れるトレーナーが、いなかった。

 今後現れたとしても、彼女自身の口からトレーナーを降ろされるその瞬間まで辞めてはならない。辞めて良い権利はない。

 自分が、彼女の未来を守れるトレーナーにならなくてはいけない。

 近付く努力をしなければならない。

 それが彼女から運命を託され、彼女と運命を共にすると誓ったトレーナーの、責任。

 

「私はシンボリエウロスのトレーナーです」

 

 彼女は絶対に私が治す。必ず復帰させる。

 そしてまた、彼女が夢の中で走れる様にする。

 それが私の取れる最低限の責任。

 だから——

 

「私に心配はいりません」

 

 今度こそ樫本理子は、生徒会長室から退出していた。

 その後ろ姿には、以前はあった筈の壊れそうな危うさはない。

 暗に、貴方は妹の心配だけしてろと言われたシンボリルドルフは、段々と冷えて来たマグカップを手にしながら、寂しそうに目を伏せる。

 

「手厳しいな………。でも妹には本当に良いトレーナーが付いた。そう思わないかい? トレーナー君」

 

 一時期、妹のトレーナー候補として周囲から名を挙げられ、自らも候補の一人として推薦した皇帝の杖。

 そんな彼は、当時中央に来たばかりの新人だった。

 シンボリルドルフは、彼の成長を間近に見ていた。

 故に今になって思うのは、妹はきっと自分のトレーナーとは合わなかったのだろうな、という事。

 妹が一時期、仮契約していたトレーナーも、やはり何かが違ったのだろう。

 

 樫本理子は変わった。

 だがそれは悪化ではなく、成長だった。

 妹の故障を防げなかった事でトレーナーの方こそが壊れてしまうかと案じていたシンボリルドルフの言葉は、トレーナーとしての樫本理子を過小評価し過ぎだと嗜められるような形で逆に切り伏せられた。

 

 むしろ逆に、今は妹の方が——

 

「………なぁトレーナー君。あの時、私が故障をしてそのまま引退を選択したのは、間違いだったのかな」

 

 紫水晶の瞳に物悲しげな憂いを秘めて、シンボリルドルフは口ずさむ。

 

「私の妹が、このまま消えてしまいそうなんだ」

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 毎日王冠が終わってから何となく、タマモクロスは優しくなった。

 探りと牽制を秘めた瞳と態度は鳴りを顰め、接する態度は友人に対するそれに。

 特に併走トレーニング中、リハビリが進んでいるのを見て、毎日自分の事のように喜んでいたのが印象深い。

 またある日、タマモクロスはお好み焼きを作ってくれた。

 ちゃんとキャベツも入っとるで!! との事で、彼女が中央に来るまでの生活は慮るものがある。

 

 お好み焼きは、美味しかった。

 

 シンボリエウロスというウマ娘は間違いなく、後輩として可愛げがない。

 つまらない話をすれば、金銭的に奢られる立場ではない。

 だから実際にした。お代は払いますよと。私が奢りますとも言った。

 

 良いから良いから。そういうんじゃない。

 タマモクロスは何でもない事のように言い、それからも彼女は何かと私を気にかけていた。

 同じ釜の飯を食べたから、実質家族みたいなモン。いや釜は使ってへんけど、と冗談交じりに言った彼女の言葉が、何処まで本気なのかは分からない。

 

「そか……じゃあまた機会があったらなぁー」

 

 しばらく併走トレーニングは出来そうにない。

 今度の予定を考えるに、今年いっぱいはもう無理だろう。

 彼女達の陣営にそう告げれば、何らわだかまりを残す事なく受け入れる。

 

 彼女達が得にならないリハビリに付き合っていたのは仮想敵への対策以上に、今後シンボリエウロスが本格的に復帰して来た場合の、追込脚質としての調整に有用だから。

 決して、善意からリハビリに付き合ってくれた訳ではない。

 それを裏切られた形となる彼女達は、何も言わない。励ましの言葉は、言っていた。

 特にタマモクロスを担当している小宮山トレーナーは、何というか他人事には思えないからと連絡先まで貰い、いつでも私達の部室に来て良いからと発言する始末であった。

 

 そこまで、今の私は危ないように見えるのか。

 目を離した瞬間、何処かに消えていくように見えているのか。

 

 いや、見えるのだろう。

 色々と頭が回っていない自覚はある。

 今まで当たり前のように出来ていた事が出来なくなっているのも分かる。

 事実、彼女達の懸念は正しかった。

 

 実際に私は、消えた。

 

 授業には参加しなかった。周りの目が嫌だった。

 トレーニングにも行かなかった。周りの目が嫌だった。

 今の自分がどのように見られているのかを悟るのが嫌だった。

 

 一人にしてはならない。

 きっと多くの人がそう思っている中で、一人になろうとしている自分は何なのだろう。

 迷惑をかけている事だけは、分かる。

 

 だが、他が分からない。

 いつもなら分かっていた。

 今は、分からない。何故分からないのかが、分からない。

 

 どうして、私はこんなにも調子が悪いのだろう。

 

 何故、そんな事を気にしているのか。

 いつもなら気にも留めなかった。

 今は気にしている。ずっとずっと、頭の中で回っている。

 

 ——本当に、面白くない。心の底から笑えない。

 

 彼女の言葉が、ずっと。

 

 ——大っ嫌い……。

 

 ずっと。

 

 

「………うわ、マジすか。また続けるんすか」

 

 ……この一週間近く何をしているのかと言えば、走る事だ。

 それ以外にはない。私に求められている事は走る事であり、自分がやらなければならない事の全ては必ず走る事に帰結する。

 

 だが学園から姿を消した自分が走れる場所は少ない。 

 野良レース。或いはフリースタイルレースとも呼ばれる、学園に所属しないウマ娘達の走り場所。今は廃れた小さなレース場が最近の居場所であった。

 

 去年の凱旋門賞前。凡そ1年近く前の話になる。

 不良らしきウマ娘達にナワバリ云々で因縁を付けられ、共に走った。

 その関係は別に続いている訳ではなかった為、此方側から勝手に利用させて貰っている事になる。

 

「あのー……あの時は気付かなかった、というか知らなかったんすけどアンタってシンボリ——」

「話しかけないで」

「……ウス

 

 一週間近くここに入り浸っていれば、流石に素性はバレる。

 だが世間にはバレていない。それは私が口止めしているのもあるが、彼女達のコミュニティが小さく、そしてこの場で完結したものだからだ。

 

 ただ、この口止めが通用する事に多少の驚きはあった。

 

 今の私は、ここの不良ウマ娘達よりも弱い。

 昔は勝った。思いっきり勝った。だがそれは所詮過去の話で、トゥインクル・シリーズ以上に無礼(なめ)られたら終わりのこの世間で、弱者である私の言葉が通じる試しはない。

 なのに私の言葉が通っている以上、やはり彼女達ウマ娘は根本から優しい存在なのだろう。

 そこに私は付け入っている。

 私は学園から勝手に消えて迷惑をかけて、ここでも迷惑をかけている。

 

 ——ふざけるな……戻れ。戻って来い……

 

 ……持ち運んで来た幾十の靴と、幾十の蹄鉄が詰め込まれたカバンをその場に下ろし、一つだけ適した靴を選び出す。

 慣れてない靴で走るのは危ないからと何度も調整を行い、繰り返し最初からリハビリを進めて行って、やっと慣れた唯一の靴。

 だが私の片足が歪んでいる以上、この靴は今の最善であって完璧ではない。

 消耗し、擦り減るからだ。

 樫本理子トレーナーは、それすらも管理していた。

 感じる違和感。微妙な誤差。擦り減っていく蹄鉄の耐久性と交換タイミング。

 最終的な調整の時間とトレーニング強度すらも、彼女は測っていた。

 

 ——その管理から抜け出して、何をしているのだろう。

 

 頭の中で未だ、当たり前のように機能している自分が喋っている。

 もう樫本理子トレーナーの管理は自分で到達し得ない次元にある。

 私はトレーナーとして彼女と同じ水準の事が出来ない。

 その癖この一週間、トレーニング内容と身体への疲労を考えた管理を無駄にやっている。

 昔、自分自身でやっていたようなそれ。

 私のトレーナーの、酷い劣化。明らかな下位互換。

 

 ——私は何がしたいんだろう?

 

 分からない。

 だけど走る必要がある。

 ウマ娘である以上、どれほど悩んでいようが、どれだけ苦しんでいようが、結局は必ず走る事に繋がる。今の苦境を乗り越えて、走る必要がある。

 

 だからこれは正しい。

 

 トレーナーの庇護下にいない中で勝手に走っている。唯一それだけが正しくない。

 一人になりたい。その我儘以外に、悪い事など何処にある?

 ない筈だ。結局、私のやるべき事だけは変わらないのに。

 

 ——じゃあ、何で思い詰めている?

 

 分からない。

 どれほど追い詰められても、やらなくてはならない事だけは変わらない。

 だからレースに負けたとかで悩む事は無駄だ。苦しむ意味も必要もない。

 だと言うのに、私は何を悩んでいる。

 

 私は本当に——何に悩んでいる?

 

 分からない。

 何に悩んでいるのかが分からない。

 悩む意味などないと、分かっているのに、何が分かっていない?

 きっと周りのウマ娘も感じていたのだろう、違和感。致命的な不和。

 この自分自身を蝕む違和感を、私は未だ言語化する事が出来なかった。

 

 ——だから、こんな事になっちゃったの?

 

 ……気付けば私は、ゆっくりと歩き出していた。

 歪んだ骨格に適した靴を少しずつ慣らし、脚にも負荷をかけていく。

 何度も繰り返して来た調整。こんな時であっても、私の何かは未だ当たり前のように機能する。

 

 そうだ。

 それが正しい。

 それは何も悪くない。

 為さなくてはならない事は決まっているのだから、動くべきだ。

 幼い頃から、自分をそのように動けるようにして来た。

 深刻な病を背負う自分には、煩わしいものが多すぎる。

 必要なものを、必要な分だけ動かせば良い。

 

 分からない。

 何故、自分の体に心が追い付いていない。

 いつもなら追い付いている。

 私は常に、心の方が先にあった。

 才能も実力も身体的な強さも、全て後から付いて来た。

 

 今の私は、もっとちゃんと走る事が出来る筈なんだ。

 もっと早くリハビリが進んでいて、復帰は間近に迫っていなくてはならない。

 そんな自覚があった。何故かそれが出来ていなかった。

 

 樫本理子トレーナーは言った。

 菊花賞までに間に合わせると。

 

 あぁ、凄まじい人だ。

 全治約5〜6ヶ月。骨折の規模自体が小さかった為ある程度早めに治ったが、全治とは治癒が完了し、日常生活に支障が出なくなるまでの規模を指す。

 高負荷の運動を日常とする者以外はそれでも構わないだろう。

 だがウマ娘にとっては違う。全力で走った際と同様の負荷を受け止めるには、まだもう少し時間がいる。

 それでも彼女は、菊花賞までに間に合わせるつもりだった。

 

 いや、間に合わせていた。

 

 私には分かる。

 あの人に担当されているウマ娘だから、分かる。

 彼女のリハビリの計画は、私の手術を担当した主治医の上を行った。

 全治6ヶ月の故障を、本当に6ヶ月以内に完治させ、元に戻す。歪んだ骨格による後遺症をも、本人の意思と努力で修正出来る範囲まで持っていった。

 

 それが出来ていないのは、私のせいだ。

 

 何故、出来ない。

 身体はもう充分治っている筈だ。

 私のトレーナーの管理がある以上、治っていない訳がない。

 それが出来ない。心が追い付いていない。

 私は何に悩んでいる。

 私は、何が悪い?

 

 ——ごめん。別に、貴方が悪い訳じゃないのにね。

 

 ……ストップウォッチを右手に、歩く速度を少し上げる。

 一歩、二歩。それだけで助走には充分で、次の瞬間には全力で駆け出す。

 約600m。私に許された、たったそれだけの距離。自分の調子が測れる唯一の距離。

 

 ずっとずっと、頭の中で回っている。

 

 今思えば、何よりも私の事を表現していたあの子の言葉。

 私が突き落とした、夢の残骸。

 心に穴が空いた感覚があった。

 空洞の中で吹き荒ぶ風の音に紛れて、彼女の言葉が、己の内で空回り続けている。

 

 分からない。

 何故、あの子の言葉が離れない。

 どうしてこんなにも、ショックを受けている。

 何で——何で私よりも悲しそうだった彼女の表情が、頭から離れない。

 

 私は故障した。

 

 それは、仕方ない事だ。

 私もトレーナーも最善を尽くした。あの瞬間同じレースを走っていた全てのウマ娘もそう。

 その結果の転倒事故は、惜しむ事はあれど悩むものではない。

 

 私は日本ダービーに負けた。

 

 それも、仕方ない事だ。

 勝負事である以上、勝者と敗者がいる。

 その敗者側にシンボリエウロスというウマ娘がなっただけの話。

 負けて、無敗が終わった。ただそれだけの話。

 

 それが、悪い事なのか?

 それの何が、悪いんだ?

 

「………………」

 

 残り400m。

 驚くほどに脚が重い。

 自分が自分を動かしている感覚がない。

 

 勝ちたい気持ちはある。自分の中には確かに、何よりもある。

 こうして今、前のように走ろうとしているのが証拠だ。

 だけど——変わらない結果を恨んで何になる。

 何も、ならない。

 私は負けた。変わらない事実だ。

 私は故障した。現実として起きた事だ。

 だから何を悔めば良い。

 どうしようもない事はどうしようもない事だと受け入れ、ウマ娘として何処までも変わらない己のやるべき事をやって、何がいけない。

 

 ——右目が見えなくなって、右脚には後遺症が残って。……ねぇ……………。

 

 それの、何が悪い。

 どうでも良い事を、どうでも良いと思って何が悪い。

 私は悲しくなかった。打ちのめされるような事でもなく、己の手に余る出来事でもなかった。

 惜しむ心はある。それだけで充分。

 走る。ただそれだけ。

 やる事が決まっている以上、悩んでいる時間など何にもならない。

 

 ——じゃあ、何故私は悩んでいる?

 

「…………………」

 

 残り200m。

 心が追い付いていない。

 何故か心だけが、何も分かっていない。

 

 ずっとずっと、頭の中を回っている。

 何度も何度も、同じところに戻って来る。

 どうして私は、走れる筈なのに前のように走れない。

 

 本当は治っていないのか。

 違う、そんな訳がない。

 私のせいだ。

 私の何かが悪いからだ。

 

 自覚はある。

 私の考え方は普通ではない。

 周りのウマ娘なら、日本ダービーで負けた事に尋常ではないショックを受けるだろう。

 無敗は終わり、三冠の夢は途絶え、最低でも後遺症が残る怪我をした。

 心の奥深くまでを抉り抜く筈だ。

 

 私だけが、何も分かっていない。

 仕方ない事だ。だから悲しくも何ともなかった。心の奥を抉る事もなかった。

 では私は何に、心の穴が空いたような感覚を覚えているのか。

 

 私は、シリウスシンボリが復帰する事にすら気付いていなかった。

 

 あの日以前から、私は何かがおかしくなっている。

 それが分からない。何か致命的な事になっている事だけしか分からない。

 

 何とかシリウスシンボリの復帰を見た。

 驚くべき偉業だった。

 何故か私は、冷めていた。

 心の中の空洞がまた少し径を広げた感覚があった。

 

 周りは心配している。

 私は今、おかしくなっている。 

 皆、大丈夫かと聞く。

 大丈夫な筈だ。

 でも何故か、私は大丈夫ではない。

 

 分からない。

 いつもなら分かっていた事が、今は分からない。

 何故分からないのかも、分からない。

 

 何故、そんな事を気にしているのか。

 いつもなら気にも留めなかった事を、今は気にしている。

 何を気にしているのかが分からない。

 ずっとずっと、頭の中で回っている。

 ずっと。

 ずっと——。

 

 

 ——責任を取れシンボリエウロス。

 

 

 残り0。

 600mを通過した瞬間、自分の体は無意識にタイマーを押していた。

 これまでの日々に裏打ちされた経験が、心に反して勝手に動いている。

 段々と速度を落とし、止まって見たストップウォッチに表示されている数字。

 小さいレース場。カーブを含めた進出。後遺症による変化。

 それらを含めても尚その3Fは、かつての切れ味とは見る影もなく、錆び付いていた。

 

 ——39.7秒。

 

「………………」

 

 歯を食い縛って、天を仰ぐ。

 今の私は弱い。

 それは仕方ない。

 だから弱さを受け入れ、元に戻る必要がある。

 

 それが出来ない。

 何故、出来ない。

 私は何も悩んでいない。

 私は、私自身が故障した事実に落ち込んでいない。

 心の底から復帰したいと思っている。

 その方法も分かっている。

 実行している。

 なのに、心が元に戻らない。

 

 分からない。

 私を蝕むこの違和感が。

 

 周りは私を、心配している。

 だけど、もう良い。どうでも良い。

 だから、お願いだから、この渦を巻く私の中で本当の私を見つけて欲しい。

 誰かどうか、私に答えを教えて欲しい。

 

 

 ——私の、何が悪い?

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 真夜中の中央トレセン学園は、未だ明かりが付いていた。

 ウマ娘もそうだが、彼女達を担当するトレーナーも時間に追われている以上、時間は資本の塊であり恐ろしく価値が高い。

 大抵、中央トレセン学園から光が消える事はない。

 その大半は、トレーナーが使用している仕事部屋である。

 

 その日、夜遅くの時間には珍しい来訪者が樫本理子の一室を訪れた。

 

「………………」

「……、……エウロス」

 

 ノックもなく声掛けもなく扉を開いた彼女は、部屋の内情に瞳を巡らせた。

 最低限片付いていると言えるが、何もかも後回しにしていると言った散らかし具合。

 何故、生活を疎かにしているかは、分かる。

 

「まだ起きているんですね」

「……起きているから、私を訪ねに来たんでしょう」

「そう、ですね」

「ひとまず上がってください。廊下は、冷えます」

 

 促されて、シンボリエウロスは樫本理子の一室に入った。

 

「今、温かいものを淹れます」

 

 樫本理子は何も言わなかった。

 ウマ娘達はもう消灯時間だとか、こんな夜遅くにトレーナーを訪ねに来るのは対外的にいけない事だとか、どうやって守衛の人を説得したんだとか。

 

 この一週間、何をしていたんだ、とか。

 

 樫本理子は何も聞かなかった。

 トレーナーにすら連絡も入れず何処かに消えていたウマ娘を責める事もない。

 シンボリエウロスは文字通り、失踪していたのである。

 教員として、大人として、そして人として、ここは叱らなくてはおかしい。

 

「何か話したい事、話せる事はありますか? ないなら私から話し始めましょう」

「……………」

 

 無理に口を開かせる事はしない。

 此方から何か会話の有無を明かす事で、話さない事への緊張を覚えさせもしない。

 樫本理子の気の遣い方は、尋常ではなかった。

 それが分かった。何も分かっていない癖に、こういうところでは無駄に察しが良いのだ。

 

 きっと彼女は、どんなウマ娘を担当しても相手の心に寄り添い、支え続けていくのだろう。

 問題があるとすれば、そんな彼女に気遣われている事を察して勝手に気落ちしている担当側。

 何か話そうとすれば疲れ、沈黙には勝手に息が詰まり、両方を気遣われたら勝手に調子を落とす。

 自分がこんなにも弱っている事に驚きすらしない。

 

 樫本理子は、何も聞かない。

 

 樫本理子の中では、シンボリエウロスは未だ立派な優等生なのだろう。

 夢を見せてくれる偉大なウマ娘なのかもしれない。

 だがシンボリエウロスは何の夢も見ていない。

 今、気付いた。

 故障して、怪我をして、復帰するつもりではいて、でもいつ復帰するかを全く考えていない。

 周りのウマ娘や世間。それにトレーナーが菊花賞への出走を願い、目指している中でシンボリエウロスだけは菊花賞を見てすらいない。

 シンボリエウロスは夢の輪郭すら、未だ誰とも共有していないし、出来ていない。

 

「寮長から部屋に眠りには戻っていると連絡は来ていました。安否は確認出来ていましたし、この一週間、貴方なりに自らに必要な事をしていたのでしょう」

 

 理由を聞かない事から説明して、担当の負い目を和らげる。

 そういう話し方をしている。

 

「いつか話して良いタイミングがあれば、その時に話して貰えれば幸いです」

「……………」

 

 担当の沈黙を、話すには無理な事だと判断して話し出した樫本理子には、やはりシンボリエウロスが立派なウマ娘に見えていた。

 校則を破ったのも、学園から逃げ出したのも、全て必要な事だったから。

 自分なりに考えた結果だから。

 だから樫本理子は何も聞かない。叱らない。

 一人にすべきではないと思いつつ、その正しさで今のシンボリエウロスを押し潰してはならないと判断していた樫本理子の優しさ。

 

「トレーナー」

 

 そんな優しさに勝手に押し潰されるほど、彼女は何かが弱っていた。

 物事を理解し、気遣いの形を平然と把握している中で、彼女に降り積もった違和感は彼女を天翔るウマ娘から弱いウマ娘にまで引き摺り落としている。

 口を開く。氷のように凍て付いて止まっていたのに、それだけは簡単に言葉になる。

 

「菊花賞の件なのですが」

「………………」

 

 意を決したシンボリエウロスのその表情に——樫本理子の、息が止まる。

 目を伏せがちに語る、余りにも切ない顔。

 そこに姉の面影と、続く言葉の深刻性を悟って樫本理子は先んじて口を開いた。

 

「……不安があるのは分かります。ですがまだ間に合います」

「トレーナー」

「私を信じてくれませんか。貴方は本当に、菊花賞に間に合う筈なんです」

「トレーナー」

「私が思い描いていた復帰の予測が間違っていただけです……!まだ尽くせる最善を尽くした訳では——」

「樫本理子さん」

 

 言葉が止まる。

 声を荒げるでもなく、強い感情を込めるでもなく、切に語り掛けるような声色で樫本理子の言葉は遮られた。

 

「………違いますよ? 貴方をトレーナーと呼ばない事で何かの意思表示をしている訳ではありません。私は貴方のウマ娘で、トレーナーも辞めて欲しくないです」

 

 それだけは譲れなくて勘違いして欲しくなくて、でも片方しか見えていない瞳には消し去る事は出来ない愁嘆が刻まれていて。

 淡く、ひどく穏やかな笑みをシンボリエウロスは浮かべた。

 何かを心の奥底に封じて、そして諦めた者の笑みだった。

 

 続く言葉。

 それは今までのシンボリエウロスなら言う訳がなくて。

 そして、シンボリエウロスにしか言えない事だった。

 

 何かを諦めるのは必ず。

 トレーナー側からではなく——

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 時間は流れる。

 何処までも無情に。

 あらゆる全ての人の想いとは、一切無関係に。

 

『——大勢の観客が、この淀の坂に訪れました!!』

 

 11月6日。菊花賞、当日。

 京都レース場。第10R。晴・良バ場。

 晩秋から初冬にかけての季節頃となり、流れ込む寒気で特に朝方が冷え込む。

 15時を過ぎた頃合いでも、まだまだ肌を嘗める風に冷ややかなものを感じる中で、菊花賞の始まりのファンファーレは鳴った。

 レースの開始を待ち侘びる人々の熱気も、今日は何処か物々しい。

 

『クラシック最終戦、菊花賞!G1芝3000m! 今年の出走メンバー出場です!』

 

 実況を皮切りに、パドックに並んでいくウマ娘達。

 目を引くのはやはり、ダービーウマ娘のオグリキャップだろう。

 続くのは弥生賞からクラシックの駒を進め続けて来たヤエノムテキか。

 

 並ぶウマ娘達の顔触れは、やはり皐月賞やダービーとは中々異なる。

 3000m。距離が大きく違う菊花賞では、それも必然と言える。

 皐月賞、ダービーと続いて菊花賞に出るウマは少ない。

 夏シーズンの空白を挟む前と後では、トゥインクル・シリーズの主役達の顔触れは少し異なるものだ。

 

 だからこそ実況は、多くのウマ娘達に触れる。

 より詳しく、貴方達の為に解説を広げる。

 

 今までのクラシック戦線を盛り上げたウマ娘も、ここからトゥインクル・シリーズで輝き始めるウマ娘も、同じように。

 今日このウマ娘を見に来た人に、より詳しく知って貰うため。

 貴方の夢は、きっとここにもいるからと知って貰いたいから。

 

 オグリキャップがいた。

 ヤエノムテキがいた。

 G1初参加の、ここから始めるウマ娘がいた。

 長距離でこそ輝き、今日この日に狙いを定めた刺客がいた。

 

 誰かがいなくとも、彼女達はここにいた。

 

『今日、ここで決まります』

 

 パドックで御披露目が終わり、各ウマ娘達がターフに降り立つ。

 その最中、実況は声を少し落として、神妙に口を開いた。

 本来の予定にはない実況の独白に近い語りが、冬の寒空の下に集まった人々にしんみりと染み渡る。

 

『今年のクラシックレース。その全ての勝者が』

 

 皐月賞では、最も速いウマ娘が勝った。

 日本ダービーでは、最も運のあるウマ娘が勝った。

 そして今日、菊花賞では最も強いウマ娘が勝つ。

 

『だからこそ、ここにいるウマ娘達全てが主役。全員が本命』

 

 今日ここで彼女達世代の、クラシック三冠を競い合う戦いが終わる。

 彼女達の世代に、三冠ウマ娘はいない。

 そして、主役も本命も一人じゃない。

 

『もうすぐ始まります』

 

 一人一人が、ゲートに入った。

 誰かは敵となるライバルを睨み。

 知り合いは軽口を交わす。

 ある者は、普段とは様子の違うウマ娘を警戒する。

 

『大注目の菊花賞。今年のクラシック最後の栄冠に輝くのは誰なのか………!!!』

 

 誰一人、名前のないウマ娘はいない。

 最も強い資格を持つ彼女達が、確かにここにいた。

 運命というものは当たり前のように続き、ウマ娘達も当たり前のように存在し、緊張の眼差しでレースを眺める観客がいた。

 

『——今、スタートしました!!!』

 

 何があっても、どうあっても変わらない必然。

 菊花賞は当たり前のように始まり、当たり前のようにウマ娘達を受け入れ、運命というものは続いていく。

 

 11月6日 15:35。

 菊花賞、施行。

 

 

 

 

 

クラシックという名の王道

一つでも得る事が至難のクラシックタイトル

最後の一冠をつかむのは

 

 

 

本当に強いウマ娘は全てを克服出来る

 

最後に勝つ者が、勝者だ

 

 

 

 

最も強いウマ娘が勝つ

 

菊 花 賞

菊 花 賞

菊 花 賞

 

GⅠ・京都・芝・3000m

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 とあるウマ娘が、菊花賞にはいなかった。

 彼女は最も運のあるウマ娘ではなく、最も強いウマ娘でもなかった。

 それ以上でもそれ以下でもない、当たり前の話だった。

 

 誰も口にはしない。

 だけど誰もが言う権利がある。

 一人のウマ娘から、日本ダービーの資格を奪ったのと同じように。

 誰もが、オグリキャップの出走を日本ダービーに望んだのに等しく。

 

 弱いのが、悪いのだから。

 

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