有効射程距離25バ身   作:sabu

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11/6 第49回 菊花賞

 

 京都3000。

 中央で施行される3000m以上のレース6種の内『菊花賞』と『万葉ステークス』がこの条件で行われる。

 万葉ステークスが、2年前に設立されたばかりの1400万以下の条件戦である事を考えると、京都3000とはつまり菊花賞であると考える人が大半だろう。

  

 京都レース場は、一言で表せば第3コーナーと第4コーナーに小丘があるレース場だ。

 

 向こう正面。上り坂のやや中腹辺りから始まり、すぐに『淀の坂』を構成する第3コーナー。

 次に下り坂の第4コーナーを経て、決勝線がある側の直線(ホームストレート)へ。

 ここで一度観客の歓声の中ゴール板を踏み、第1コーナー、第2コーナーへと向かう。

 そして再びの向こう直線。スタート地点を通り過ぎ二度目の第3コーナー、第4コーナー、『淀の坂』を越えて最終直線404mを走り切ってゴール。

 

 外回りを1周半し、合計6つのコーナーを通過する本レースは当たり前だが内が有利。

 が、これはレース展開の都合上ではなく極めて単純な話で、長距離故に積み重なる距離のロスを減らせるかが重要なのだ。

 そう言う意味で、内枠が有利なのではなくレース中に内側のインコースが走れるかが重要と言える。

 

 菊花賞。

 参加するウマ娘の全員が、3000mは未知の世界。

 ステイヤーであっても消耗して良い道理はなく、スタートから加速する事はほぼない。

 ポジション争いも激化する事は少ない。

 

 対して枠番による差は中々面白く、内枠でも外枠でもなく中枠がやや有利だった。

 

 スタートしてすぐ第3コーナーがあるため内枠が有利に見えるし、実際にある程度はそうである。

 だがこのレースでは、4枠周辺のウマ娘が好ポジションを得るためインに迫り、最内付近が窮屈なレースをされがちである。

 逆に6枠7枠とまで行くと、外側から迫るウマ娘が少ないので押さえ付けられる事はないが、そもそも距離差によって不利を背負いがちに。

 

 よって順当にレースを始めやすい中枠辺りが有利。

 次に、押し潰されるよりも前に抜け出せる場合が多い1枠が有利。

 不利は3枠辺りの中間と7枠8枠……という変則的な差がある。

 この辺りは脚質分布と、出遅れをせずにスタートを決められるかによって変化して来るが、誤差とも言い難い絶妙な差だ。

 

 脚質による有利不利は、ほぼない。

 

 これには意見があるだろうが、脚質による有利不利とは即ち、コース設計とレース展開によって生まれる差の問題と言い換えられる。

 菊花賞ではコース設計とレース展開の差が他のレースよりも少ない。

 まず前提が距離のロス。各ウマ娘がどれだけスタミナに富み総合的に勝るかの勝負。

 

 長距離故に逃げの成績は悪い。

 同様に、ある程度緩いペースで進むとはいえ3000mのレースでは脚を溜める余裕はほぼなく追込も決まらない。

 が、これは逃げウマ娘と追込ウマ娘は、大抵気性の問題で折り合いが付けられず、逃げか追込しか出来ないが故だ。

 

 場合によっては先行も問題ない逃げウマ娘が、折り合いを付けながら有利を維持し、後半で突き放す展開はある。

 前のウマ娘を壁にし、スリップストリーム内に潜伏し続けたウマ娘が『淀の坂』の禁忌を犯す事なく、一気に差し切る展開もある。

 

 展開が分かれるのは、ほとんど最後。

 

 京都レース場は『淀の坂』以外に起伏がなく、故に『淀の坂』以外で展開は中々動かない。

 そもそも動かしにくい。

 長距離もあって、激しい攻防が繰り返されるレース展開は忌避される傾向にあるのもそれを助長する。

 レースが動き出すのは2周目の向こう正面、ちょうどスタート地点を過ぎた辺り。

 距離的には残り1000mほどの『淀の坂』に入るやや手前。

 

 つまり菊花賞は、まず2000mほど走って全員が消耗した場面からが本番と言えた。

 

 総評。

 菊花賞は長距離。

 根本的なスタミナは当然ながら、長時間を走る事によって積み重ねる距離ロスを最低限に収める事が重要。

 それを成し遂げる為には、スタミナのペース配分から自らの気性に折り合いを付ける技量と精神力、即ち根性が不可欠である。

 レース展開はまず2000m走ってから。

 故に展開や枠番、脚質による差よりも自分がどれだけ冷静で居られるか。長時間走り続け疲労が溜まる中で、どれだけ普段と同じパフォーマンスを発揮出来るかが鍵。 

 長距離は総合力の世界。肉体と脳の持久戦。

 そしてそれは、メジロのウマ娘達の世界でもある。

 

『メジロ家足る者』

 

 自らが貴い身分である事を自覚し、己を律する彼女達一族が長距離のメジロと呼ばれる所以。

 常々維持され続ける普遍的な精神性。

 虚勢でもハッタリでも構わない。長距離とは消耗して追い詰められた状況から、どれだけ強く在れるかの勝負。

 

 そう。つまり。

 菊花賞は——最も強いウマ娘が勝つ。

 

『18人が一斉にゲートから飛び出し始めました!!』

 

 前夜から夜明けにかけて降った雨により、芝は少し湿っているが良判定。

 それよりも天候の変化により、晴れているのに風が強く11月の寒暖も合わさって肌寒いターフの上で、18名のウマ娘達が駆け抜けていた。

 

 まずは1枠2番ヤエノムテキ。

 ほぼほぼ最内と言える場所の枠番から、幸先の良いスタートを切った彼女は、2番手の位置を確保する。

 次に続くのは、ヤエノムテキの隣の枠番だった2枠3番のオグリキャップ。彼女は3番手に入った。

 

 主に有力なウマ娘が内側に配置されたのもあってか、スタートは淀みない。

 

 強いて言うなら、7枠13番から飛び出し先頭を握った逃げウマ娘カクツクシンの強襲により、インで割を食った先行ウマ娘が何名か居たが、菊花賞の展開としては有りふれた形となった。

 5枠8番からのスタートだったスーパークリークは、中段の8番手ほどを取る。

 

 ——道中のスピードが、まるで違う……。

 

 1周目の淀の坂。第3コーナーの頂点から下り坂の第4コーナーへ入りながら、オグリキャップは全体の様子を伺っていた。 

 長距離3000m。

 当然ながら、今までマイルや中距離を主戦場として来たオグリキャップからすれば、この距離は未知の世界。ペースは普段と大きく異なった。

 彼女は幸先の良いスタートを決めて普段と同じ感覚で位置取りをしていたら、いつもよりも前に出てしまった。

 

 だが奇しくも、彼女は一度だけこの低速の世界を味わった事がある。

 

 それはかつて『共同通信杯』で体験した超スローペース。

 あのレースの1000m通過タイムは62.7秒。1F辺り12.5秒の低速ラップ。

 しかしこの超スローペースは、菊花賞ではスローペースではない。

 1000m通過タイム62〜63秒台が当たり前の世界で、そのペースのまま走り切れたら普通に勝利が狙える。

 更にそこから普段と同じ末脚を使えたら、ぶっちぎりのレコード勝利だ。

 

 つまりこのまま走っていれば、オグリキャップは順当にバテるだろう。

 

 共同通信杯では、スローペースだからこそ末脚は思うように使えたが、ここでは似たようなラップタイムでもほぼミドルペース。

 先頭に振り回されてるのも、ちょっと嫌だ。

 

 ——少し下がるべきかな。

 

『正面スタンド前!!』

 

 一周目の淀の坂を抜けて、スタンド前の直線に入る。

 観客席から響く声援の中でも、実況の声は響いていた。

 

『注目のオグリキャップは、少し下がって6番手に!!』

 

 1番人気のオグリキャップが動く。

 何人かのウマ娘からは伺うような様子や息遣いを感じ取れた。

 下がるオグリキャップを順当に抜かすウマ娘も出て来る。

 

 だが本人は、周りを気にしない。

 別に抜かされてしまっても構わない。

 オグリキャップは外側へ逸れないように注意を払いながら、少しずつ脚を緩めた。

 

 その時、横目で後ろを振り返りオグリキャップを注視したウマ娘がいた。

 ヤエノムテキだった。

 

 ——………動きに躊躇いがない。

 

 ヤエノムテキが最も警戒しているのは、オグリキャップ。

 彼女は今まで、オグリキャップの事を過小評価していた。

 尤も、この世代のウマ娘達が全体がそういう傾向にあった以上それは責められない。

 だが日本ダービー最後の直線で、ヤエノムテキはオグリキャップに負けた。

 サクラチヨノオーも、メジロアルダンも負けた。

 純粋な実力勝負で中央の並み居る強豪……それも世代の頂点達が負けている。

 

 決定的な敗北。

 屈辱感と向き合いながら見返し続けた日本ダービーのレース映像を見て、ヤエノムテキは気付く。

 オグリキャップは、レースの流れを読むのが極めて上手い。

 

 レース展開。コースの設計。ウマ娘達が各々の読み合いをする中で複雑に絡み合う有利不利。

 そういうモノを、しれっと見分けて優位を獲得しているのがオグリキャップというウマ娘であった。

 

 普段の態度や物言いから勘違いしそうだが、オグリキャップは学業に於いて成績優秀なウマ娘である。

 彼女になかったのは、レース展開の仕組みを具体的に言語化する能力。

 しかしそれは単純に教養が足りていなかっただけの弊害であり、中央に来てからのオグリキャップはそれを克服しつつあった。

 

 或いは、もう。

 

「…………」

「………ッ」

 

 チラリと此方を向くオグリキャップの、流水の如き青い瞳。

 そこに何ごとにも揺れない『暴風』のような幻影を見て、ヤエノムテキの烈火が荒ぶる。

 

 ——違う。それは、それはあり得ない。

 

 オグリキャップの末脚を警戒して、ヤエノムテキは普段より前に出ていた。

 引っかかるようにオグリキャップが前に出て消耗するなら、更に良い。

 最終直線、叩き合いの消耗戦では次こそ勝つ。

 そんな思惑すら見透かしているような、深い目。

 

 ——違う……っ!

 

『第1コーナー!!』

 

 スタンド正面の直線を抜ける。

 現在凡そ1200m地点。タイムは73.9秒。

 ここでこのペースが遅いと思うか思わないかが、ステイヤーの素質を左右するのだろう。

 オグリキャップは、遅いと思う側のウマ娘だった。

 だが特段問題は感じていなかった。

 それよりも。

 

 ——思っていたより、レースが動かないな。

 

 細かい位置取りの修正はあれど、お互いの出方を伺いながらレースは進んでいる。

 ウマ娘同士の攻防はなく、未だレース展開に語るべき妙はない。

 これが、本来の普通なのか。

 オグリキャップがイメージしていたのは、常に誰かが読み合いとレース展開の駆け引きを行い続けている激しいレース。

 そしてそれは必ず『暴風』と呼ばれたウマ娘が存在するレースでもあった。

 台風の目のような存在がいないこの状況が、普通なのだろうか。

 或いは彼女がいても、長距離だから温存策を選んでいたか。

 

 ——いいや。彼女ならもう始めていた筈だ。

 

 そういう常識な判断を逆手に取り、皆を追い込んで来る。

 1着争いの勝負を、自らの思うがままに進める。

 自由と呼ぶには余りにも計算高いが、彼女は自由だった。

 彼女に合わせるかのように、レース展開はあった。

 考えるべきだ。

 最後の末脚に懸け過ぎるばかりでは、最初の競い合いで勝てない。

 レースはもう、始まっている。

 

 オグリキャップは6番手ほどの優位を維持し、向こう直線に入った段階でもレースに変化はない。

 1バ身も離れていない後ろにウマ娘達のバ群があり、全員がじっ……と機を伺っている状況。

 じんわりと汗が滲む。ようやく半分の1500mを抜けた。

 募る疲労と、まだまだレースの本番は始まっていないという緊張が、普段のんびり屋のオグリキャップを急かすように追い立てる。

 それでもオグリキャップは慌てない。

 このレースで狙いを定められているのは、恐らく自分であろうという自覚があるからだった。

 周囲からじんわりと圧力を感じる中で、彼女は隣を振り返る。

 

『……バ身程離れて7番手にスーパークリーク——』

 

 先頭から順番に位置取りと名前が実況されている傍らに、そのウマ娘の名前があった。

 スーパークリーク。オグリキャップが警戒しているウマ娘の一人。

 

 ——チッ。奈瀬の娘か………。

 

 菊花賞前。出走表が決まった段階で六平トレーナーがぼやいていた。

 ライバルではなく、敵と嫌悪するトレーナー。

 その一人娘が担当するウマ娘、スーパークリーク。

 彼女はギリギリで菊花賞に滑り込んだ登録序列下位のウマ娘ながら、4番人気を得たダークホースである。

 

 オグリキャップは、彼女に気味の悪い何かを感じていた。

 

 クラスメイトとして知る彼女とは、いつもと何かが違う。

 対面した時に感じる気迫もそうだが、レースの進め方もそうだ。

 スーパークリークは優秀且つ見本的なステイヤーであり、脚質は純粋な先行。

 そんな彼女が、現在オグリキャップの半バ身ほど被る位置取りでオグリキャップの隣にいる。

 主に中位差しの姿勢を取るオグリキャップよりも、先行の彼女が前に出ていない。

 

 ——仕掛けて来るとすれば、何処だ?

 

 スーパークリークには、計算高いウマ娘特有の含みがある。

 単純に今日は先行・差しの中間にいるだけだとか、枠番とか序盤の位置取りの問題だとか、そういう余地を省き、周りのウマ娘達の警戒をも通り越したオグリキャップの直感。

 何か始めて来るとしたら、多分クリークから。

 もしかしたら、既に。

 

 そんなスーパークリークは、オグリキャップの目配せに気付いたか薄く笑っている。

 

『向こう正面を通過し、今第3コーナーに入ります!!』

 

 丁度、スタート地点を通り過ぎた辺り。

 2000mを通過し、ここからが展開の本番。

 京都レース場で唯一起伏がある淀の坂。

 

 ゆっくり上って、ゆっくり下れ。

 

 それは鉄則。破ってはならない禁忌。

 ベルノライトから口酸っぱく聞かされ、六平トレーナーからも特に気を付けるべき掟として注意深く説明されたそれを守りながら、オグリキャップは淀の坂に入る。

 淀の坂。第4コーナーのスパイラルカーブ。

 1600m程度なら下り坂から加速しても速度が乗る事でなんとかなる事は多いが、3000mの菊花賞ではそれは禁忌。

 むしろ速度が乗るどころか、最後の直線で一気に伸びなくなる事が大半だ。

 だからこそ、レース展開が大きく着順を左右するような場合、菊花賞では淀の坂で行われる。

 

 ——……くっ………、キツイなこれは。

 

 1周目はほとんど気にならなかった淀の坂も、2000m近く走って消耗してからは別物となる。

 向こう正面から第3コーナーにかけて、4.3mの勾配を上るこの坂は実に400mほど続く。

 じんわりと長く続くこの坂が、中距離のレースほどの距離を走ってから続くのが苦しい。

 

 滲み出す汗に、溜まった疲労で大きく呼吸をしながらオグリキャップは走る。

 

 何かが起こるとすれば、淀の坂で起こる。

 スーパークリークが何か仕掛けるか、或いは周りか。

 しかし当のスーパークリークは、オグリキャップの後ろ。確認するのが難しい。

 何度も振り返っていては気にしているのがバレバレだし、そもそも走法が乱れる。

 こう考えると、追込というのは場の俯瞰に特化しているな。と思う程度には、オグリキャップはレースの流れを読むのに慣れ始めていて、発展途上であった。

 

 下り坂に入る。

 

 先頭から最後方まで、凡そ9バ身。

 1番手から6番手までの有力な先行集団が、3バ身ほどでじっと固まるバ群集団。

 いつ、何が来る。

 警戒を最高潮に、オグリキャップは走っていた。

 

「オグリちゃん」

 

 スーパークリークのみが、ある一点を見ていた。

 

「考えすぎ、ですよ」

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 ステイヤーというのは、いきなり長距離を走れる訳ではない。

 長距離に適しているとは、精神的な素養以上に身体的な成長がいる。

 そしてその素質に合わせた身体の成長とは、時間と共に備わるものである。

 

 ジュニア級では2000m以上の距離が存在しないのは、そういう理由だ。

 遥か昔、数マイルのヒートレースを走るのが当たり前だった時代、現役選手が今のシニア2〜3年目だったのもある程度そういう理由である。

 

 才能に合わせた身体的成長を遂げるには、時間がいる。

 

 忘れがちだが、当然の真理。

 長距離を走る適性は時間と共に完成する。

 故にステイヤーというのは、夏シーズンの空白を挟んでから一気に伸びる傾向にあった。

 いわゆる、夏の上りウマ娘と呼ぶ。

 3000mの菊花賞を走るのに完成された身体が備わるのは、もうすぐシニア期が間近に迫る、クラシック期の11月頃。

 スーパークリークもそうだった。

 彼女は最近になって。

 

 やっと本格化が終わった。

 

「また無理して走ったの?」

 

 今から1年以上前。

 周りのウマ娘が徐々に本格化を始めながら、スーパークリークには一切本格化の兆しが来なかった、ある日のグラウンド。

 夕焼けが東の空を染め上げ、閑古鳥が樹々の隙間で鳴いている。

 

 ステイヤーは完成するのが遅いのだとしても、ウマ娘達に与えられた時間は平等だった。

 風の噂では、たった一人のウマ娘がジュニア級重賞を荒らし回っている事からも、それは言えた。

 明確に差が生まれ始めたのを目の当たりにして、スーパークリークは焦っている。

 痛みに耐えながら練習を続けている。

 

 見咎めたのは、スーパークリークのトレーナー。

 凛々しい中性的な女性。世間で王子様と呼ばれる彼女は、名を奈瀬文乃と言う。

 トレーナー試験資格合格者の最年少を更新した奈瀬文乃は、何と齢18。

 トレセン学園に通う高等部3年のウマ娘と同年齢であり、当然成人もしていない。

 150cmほどの小柄である事も、よりその異質さを強調していた。

 

 そして本格化が来ていないスーパークリークは、少女と言っても差し支えないトレーナーよりも更に小さかった。

 風の便りに聞くウマ娘とほとんど大差がないくらいに、その頃のスーパークリークは小柄だった。

 

 診せて。

 担当の無茶を咎める事なく、奈瀬文乃は跪いてスーパークリークの脚を受け取った。

 

 軽い捻挫。ガラスのような脚。

 脚の外向もあってか、良く怪我をする。

 

「クリーク。僕を信じてくれ」

 

 丁寧に、脚に包帯を巻いて、彼女は目線を合わせる。

 

「君を主役(シンデレラ)にしてみせるよ」

 

 それは、今から1年以上も前の話。

 スーパークリークに未だ本格化は来ておらず、彼女がまだ一人の少女でしかなかった頃の話。

 

「だから今は、全力で走るのは止めよう」

 

 そして奈瀬文乃は、整えた靴をスーパークリークに履かせた。

 

「約束だよ」

 

 その日から今に至るまで。

 スーパークリークは全力で走った事がない。

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 レース展開は、動かなかった。

 

『——18人は第4コーナーに差し掛かる!!』

 

 細かい位置取りの駆け引きは、あるにはある。

 だがそれは、自分が如何に正しいパフォーマンスを発揮出来るかの話であって、読み合いではない。

 誰も他者に不利を与えるような攻勢は行わなかった。

 

『ヤエノムテキ! 直線にスパートをかけた!!』

 

 まず動くのはヤエノムテキ。

 4番手ほどの位置から、膨らんだ前方のウマ娘を避けてスパートの体勢に入る。

 

『オグリキャップも外へ!』

「(脱け出す道は……外しかない!)」

 

 続いて動くのは、オグリキャップ。

 内側のインコースを走り続けて来た彼女には、もう内側がない。

 すぐ隣には長々と続くラチがあるからだ。

 オグリキャップは、外に膨れた前方のヤエノムテキを更に外から差し切る体勢に入った。

 ここでオグリキャップは、丁寧に守っていたインコースから一気に外へ動く。

 

『さぁ直線コース!!』

 

 疲労は溜まっている。余力は、思っていた以上にない。

 だがそれでもオグリキャップは自らを奮い立てた。菊花賞は必ず私が取るのだと。

 自らが得た、クラシックの資格に報いる為。

 私はダービーウマ娘に相応しいのだと、皆に証明する為に。

 

『スーパークリーク内に入った——」

 

 そんな彼女の、ずっと横。

 何人ものウマ娘を挟んだ右側で、その影は通り過ぎていった。

 

「——スーパークリーク一気に伸びて来た!』

 

 オグリキャップ、5番手。そして。

 スーパークリークは1番手。先頭だった。

 

 ——な、に……!?

 

 衝撃。理解が及ばない。

 ほんの一瞬。僅かに目を離した隙に、スーパークリークが前にいる。

 

 オグリキャップと入れ替わる形で内に入り込んでいたのは、まだ良い。

 だがスーパークリークは前にいる。

 道中、彼女はほぼずっと自分の真後ろにいた。中群の真ん中にいた。

 どうやって、バ群をすり抜けた。

 内に隙間なんてなかった筈だ。

 

 ——そう来たか……!!

 

 外部から見ていた、六平銀次郎が気付いた。

 スーパークリークはバ群をすり抜けた訳ではない。

 無理矢理バ群をこじ開けた訳ではない。

 

 彼女は更に、内側へと進んで切り込んだだけ。

 

 内枠とラチに一切の隙間なんてない筈なのに、どうやって?

 これを説明するにはまず前提として、レースの外回りと内回りの話をしなくてはならない。

 京都レース場には、外回りと内回りの二つのコースがある。外円と内円のようなものだ。

 だがゴールは一つ。外円と内円は何処かで必ず合流しなくてはならない。

 つまり外回りと内回りのコースの合流地点はY字道路のような【ト】の形に近い接続部をしており、ラチがない。

 

 要は一瞬だけ、内柵が無くなる場所がある。

 

 場所は4コーナーと最終直線の間。距離にして僅か数十m。ウマ娘の走力で考えると5秒前後あれば良い短い期間。

 その期間だけ更に内を突き進むように走れば、ロスなくバ群を抜ける事が出来る。

 勿論、失敗すれば再び迫り来るラチとバ群に挟まれて揉まれるか、最悪大事故だ。

 それを成し遂げたスーパークリークの、異次元のコーナリング性。

 3000mの距離のゴール直前で正確に動く、脳と身体の驚異的なタフネス。

 

 スーパークリークはこの場面で一切外に振れる事なくスパートに入った。

 

 外に膨らんで斜めに先行したウマ娘達と、一切の距離ロスを支払う事なく抜け出したスーパークリークとの差は凡そ8m。約3バ身。

 その差が、オグリキャップとスーパークリークの位置順に現れている。

 

 ——だけど、まだここから……っ!

 

 しかしそれは、あくまで外野からの視点。

 オグリキャップには、何が起きたか分からない。

 分からないなりに、彼女は最後の末脚にかける。

 彼女自身、このメンバーで最も末脚の切れ味に自信を持っていた。

 オグリキャップにとって前の誰かを抜く為に全力を尽くすのは、普段通りの展開であり、いつも通りの事である。

 そう。いつも通り。

 

『スーパークリーク内を突いて先頭!!』

 

 ——オグリキャップには、弱点がある。

 

『スーパークリーク、更にスパートをかける!!』

 

 それは彼女本人も自覚していない、数少ない明確な弱点。

 彼女はコーナーを抜けた瞬間、外に振れる悪癖があった。

 

『3バ身! 4バ身! ……5バ身!!』

 

 特に左回りの場合が大きい。

 インから2〜3バ身ほど離れる事もザラにある話だ。

 では、右回りの菊花賞ならそこまで気にする必要はないのでは、と言いたくなるかもしれない。

 無論、それはある程度正しい。

 右回りが多かった笠松時代のレースに於いて、その弱点が彼女を追い詰めた事はない。

 

『あっという間に差を広げた!!』

 

 だがここは京都レース場。

 淀の坂の第4コーナーには、ある。

 淀の坂の禁忌を、禁忌足らしめるそれを。

 忘れてはならない。京都レース場の第4コーナーは。

 

 そう。スパイラルカーブである。

 

『——オグリキャップはどうか!!』

 

 伸びない。

 彼女は第4コーナーから最終直線に入った際、大きく外に振れた。

 外から差し切る事を加味しても彼女は必要以上に外へと回り、しかもその余波で未だ真っ直ぐ走れてない。

 オグリキャップは最終直線を、斜めに走っている。

 

『——オグリキャップはどうか!?』

「(なんで……っ!?)」

 

 彼女自身には、それが分かっていない。

 

 目の前にあるのは、全速力で走っているのに届かないという現実。

 それどころか、彼女は2番手争いにも負けていた。

 あるウマ娘からは後方から貫かれ、あるウマ娘は優位を維持されたまま抜き去る事が出来なかった。

 

『——伸びない! まだ伸びない!』

 

 普段なら分かっていた事が、分からない。

 いつもなら出来ていた事が、出来ない。

 

 理由はいくつかあるだろう。

 長距離3000m。遅いように見えてむしろ早かったラップタイム。

 自分が最も警戒されているという自覚。

 だが恐らく、それら全ての理由を含めてこの一言で足りた。

 

 オグリキャップは、ステイヤーではなかった。

 

 オグリキャップがじんわりと汗をかいて来た時、スーパークリークは汗一つかいていなかった。

 オグリキャップが明確な疲労を感じて来た時、スーパークリークはようやく汗をかいていた。

 オグリキャップは最終直線で余力を残せなかったが、スーパークリークには余力があった。

 

 菊花賞は、最も強いウマ娘が勝つ。

 

 どれだけ追い詰められても平静でいられるか。

 どれだけ消耗しても普段と同じ力を発揮出来るか。

 長距離は負債を残さず耐え忍び続け、弱くならないウマ娘達の世界。

 

 スーパークリークはステイヤーでありながら、速度に優れたウマ娘である。

 

 多くの者が気付いていなかった。

 或いは今日、この菊花賞で初めて知った。

 スーパークリークは今日初めて、全力で走ったのだから。

 彼女の脚は既に、ガラスじゃない。

 

 後の高速ステイヤー。時代を一つ進め分類を新たにする存在。その片鱗。

 驚きだろう。今日この菊花賞で最も優れた末脚を見せたのが、まさかオグリキャップではないなどと。

 

 

着順枠番名前タイム上り着差
1 5 8スーパークリーク  3:07.235.7  
2 4 6ガクエンツービート 3:08.135.95バ身
3 8 18メイショクボーイ  3:08.136.5ハナ
4 2 3オグリキャップ   3:08.236.41バ身
5 7 13カツトクシン    3:08.236.81バ身

 

 

 悠々と迎えた一人旅。

 迎えたゴールの決勝線をいち早く踏み抜く圧勝劇を飾ったのは、オグリキャップではなかった。

 トレーナー人気に押されたとはいえ、まさか期待薄だったウマ娘が最速の脚を使って優勝するとは誰が思っていたのだろう。

 

 それにタイムが優秀である。

 長距離3000m。上がり3Fは36秒台後半が当たり前で、展開によっては上位陣が37秒台が良くある。バ場も関われば38秒も定期的に観測される。

 その世界で35秒台。破格の数値。誰もスーパークリークの勝利がフロックだとは疑わない。

 何より後ろに広げたバ身差が大きい。

 

 故に、ただ単純に。オグリキャップは実力で負けた。

 

『スーパークリーク1着!! 何という波乱の展開……!! 今年のクラシック最後の栄冠を手にしたのはスーパークリーク! スーパークリークです!!』

 

 こうして、クラシック三冠を巡り争う彼女達の戦いは終わりを迎える。

 結果だけ見れば、極めて順当な結果とも言えた。

 彼女達は、それぞれの頂点を世代から選び出したのだから。

 

 最も速い皐月賞ウマ娘。

 最も運のあるダービーウマ娘。

 最も強い菊花賞ウマ娘。

 

 この世代に三冠ウマ娘はおらず、二冠を手にしたウマ娘もいない。

 しかして三者三様。三竦みの三つ巴に潜む一人一人がそのクラシックタイトルを持つ歴代ウマ娘の中でトップに食い込む化け物。

 

 彼女達三人の中で、今はまだスーパークリーク一人だけが、歓声の中で年相応の少女らしく笑っていた。

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

「そういえば今日は菊花賞だったけどさー」

 

 清流の流れる音の傍ら、傾いて来た夕日を背に一人のウマ娘が呟く。

 ミスターシービー。親友が一人で生徒会をやっているので時々手伝っているだけで別に生徒会の役員でもない彼女は、当然生徒会の仕事を優先する訳もなかった。

 彼女は自分に正直である事を何よりも優先する。

 

 場所は多摩川。

 中央トレセンの広大な敷地の外れに位置するとはいえ、ほとりには年季の入った木造平屋の部室があり、程よく塗装された土手際は早朝の朝練コースとして人気が高い。

 そんな場所を、彼女達は歩いていた。

 

「エウロスは見なくても良かったの?」

 

 頭の後ろに手を組み、歩くたびにガサガサと揺れるコンビニのポリ袋。

 振り返って背中のウマ娘に問いかけるミスターシービーの立ち振る舞いは、何げない日常の延長線上で、真剣さと深刻さからはかけ離れた——少なくともそのようには見えた。

 声色も、仄かに浮かべた笑顔も。

 彼女は自由の象徴。

 何かに囚われるなど、らしくない。

 

 舞台から身を引いた、最も運がある訳ではなく最も強い訳でもなかったウマ娘は、無言で首を縦に振った。

 

「そっか。まぁレース映像は後からいくらでも見れるしね」

 

 首を振る事で揺れる三日月のような流星に、ミスターシービーは納得の声色で前を向く。

 いずれ、ライバルの研究で何回も見直すのである。

 別に今直接見る理由がない。それだけの事であり、それ以上でもない。

 

「じゃあ、今日はこのまま散歩してよっか。何年振りだろうねー!」

 

 朗らかな笑みを浮かべて、ミスターシービーは再び川辺を歩いて行く。 

 喧騒から切り離されて、その背を追って、一人のウマ娘が無言で付いて行く。

 

 相も変わらず、風が荒れている日だった。

 




  
⚪︎中央で施行される3000m以上のレース6種の内
 3000m以上のレースは2021年に松籟ステークスと古都ステークスが新しく設立され、2025年現在は合計8レース。前者が4歳以上、後者が3歳以上の3勝クラス条件戦。
 余談だが万葉ステークスは1986年に3勝クラスの条件戦として設立され、1997年からOP級に格上げされている。

⚪︎外回りと内回りのコースの合流地点はY字道路のような【ト】の形に近い接続部をしており
 ここはシンデレラグレイ第47R『強くなります』でも描写されていますが、実際のレースを見ると更に分かりやすいです。
 どうかJRA公式YouTubeチャンネルの1988年菊花賞2:46〜2:50秒辺りを見てください。マジで一頭だけ凄い動き方をしている馬がいます。

︎⚪︎︎ギリギリで菊花賞に滑り込んだ登録序列下位のウマ娘ながら
 シンデレラグレイ及び史実のスーパークリークの登録序列は19番目で、一人のウマ娘が出走回避を行った結果奇跡的に菊花賞に出走出来た形になるが、本作ではシンボリエウロスがジュニア級重賞を荒らしまくり、クラシック戦線も荒らしていたので、登録序列はかなり変化している。
 更にはスーパークリークが共同通信杯に出走しているので彼女自身の路線も変化し獲得賞金額も微妙に異なる。
 オグリキャップが菊花賞にいる事を踏まえても登録序列は(恐らく)17番目。
 尚、作者が普通に間違えていて本当は目標未達成だった最悪の場合、作中で蛇足だと判断して描写を省いた『神戸新聞杯』『京都新聞杯』の着順を繰り上げる事で獲得賞金の問題を回避するので、結局話の展開は変わりません。

⚪︎オグリキャップは実力で負けた。
 もしもオグリキャップがダービーに出ていたら勝っていた。
 クラシックレースに出ていたら三冠を取っていた。
 一方でオグリキャップの適性距離は、ベストは1600mで2500mがギリギリ。
 或いは血統から見るに2500mは長いと感じる。
 と様々な憶測、意見、解釈があります。
 史実に於いて、オグリキャップが走った最長は有馬記念の2500mです。
 3000mを走った事はありません。

 そしてここから作者個人の解釈ですが、オグリキャップが菊花賞を取るのは難しいのではないか、と私は思っています。
 更にそれも、スーパークリークに次ぐ2着ではなく掲示板に入るか入らないかくらいの着順なんじゃないか、というのが私の考えです。
 尤も着順を考えると、当馬の適性以外にも周囲からのマーク、レース展開、当日の体調、騎手と調教師等の関係、更に菊花賞に出走する事になった場合の路線変更、による経験の差まで考えなければならない訳ですが、その一つのシミュレーションと解釈はウマ娘世界なりの解釈をした上で作中で描写した限りです(主人公という異物はいるけど)。

 ただこれはあくまで私個人の解釈であり、また私がオグリキャップに3000mは厳しいと考えている側の人間であるというだけです。
 この論争は永遠に決着が付かないと思いますし、付けるべきではないと思います。

 余談ですが私は、オグリキャップは2500mでも長いと考える側の人間でもあります。
 いやオグリキャップは有馬記念で勝利しているじゃん。というのは至極当然の意見だと思います。
 ただ私は有馬記念に勝っているから2500mも走れるという考えではなく、中山の2500mだから有馬記念を走れた、と思っている人間です。 
 これも作者個人の解釈ですが、少なくその理由は有馬記念でのレース展開で描写します。
 
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