それは夕焼け。
水の流れる河川敷。
何でもないような時間に、傾き切った夕陽を背にして。
自由の象徴だったウマ娘は言ったのだ。
——キミにとって
分からない。
今もそうだ。
私の、何が特別なのか。
けれど。
でも。
………シンボリエウロスは私の憧れだった。
私は。
誰かの特別だった。
それをずっと。
ずっと。
頭の中を掠めていた気がしていた。
シンボリエウロスは今まで泣いた事がない。
大きく負の方向に感情を昂らせた事がないのも理由の一つだが、それよりも前に何処かで冷静な心が虚しさを覚えるのだ。
泣く事に何の意味がある。やるべき事が決まっている以上、それは意味のない事だ、と。
無論、それを誰かに強要するような真似はしない。
ただ彼女は、あくまで涙を流すほどに感情を昂らせた事がなかった。
「ボクは……ボクは!」
だから彼女は、泣き喚いている子にどう接すれば良いかなんて分からなかった。
少女。冬の寒空の下に訪れた彼女は、赤いマフラーを首元に巻いて暖かい格好をしている。
そんな人との縁を感じさせる、目一杯の笑顔が似合うだろう子が、たった一人で泣いていた。
ギュッと両手で首元のマフラーを握り、自らの感情を抑えようと必死になって、それでも泣いている。
分かっている。少女のこの慟哭ですら、氷山の一角。
必死に堪えて、それでも尚溢れ出す感情の濁流が今、私が目にしているこの子の涙の一部。
泣いている理由は、まだ分からない。だけど。
この子をこんなに泣かせているのが誰かは、明白だった。
自分だ。私の何かが足りなくて、満足いかないからこの子は泣いているのだ。
「———…………。……あの、泣かないでください」
激しい衝動が胸を突き上げている。
一瞬、その衝撃に何も言葉が出なくて。
続いた言葉はほとんど無意識。意識外で身体が動いているだけ。
シンボリエウロスはまた、上手く言語化出来ないナニかに心を揺さぶられていた。
気付かない内に。そうして想像以上に。
「ボクは………」
そして相手もまた、ただの泣きじゃくる子供ではなかった。
本当にただの子供だったのなら、話は続かなかっただろう。
だけど彼女は天真爛漫で元気一杯で感情豊かな少女性の中に、理路整然とした視野の広さと際立った知識量に裏付けされた才能を持つ天才。
見た目通りながら、見た目以上に成熟したウマ娘。
抑え込みながらも溢れる感情の波の中で、少女は気付ける。
自分のせいで、相手を困らせている。
決して、困らせたかった訳じゃないのにだ。
話す。ゆっくりと。
自分が伝えたい事を。
「ボクはあの、エウロスさんがここで、何処かにいなくなっちゃうような気がして」
「………今日引退するのは、私ではなく姉貴の……シリウスシンボリの方ですよ」
「だけど、でも——!」
張り上げる声。見上げる表情。
その瞳の中に、危惧するような焦燥が渦巻いている。
「ここでまた、エウロスさんが負けたら……もうレースに戻って来ないような気がして」
「…………」
彼女が何を見ているのか、何を見たのかは分からない。
だけどそれは多分、悪い夢だったのだろう。
ジリジリと、けたたましく鳴り響く目覚まし時計の音で飛び起きるような。
そんな、悪い夢。
復帰したいと、思っている。
心の底からそうだ。
走りたい。ウマ娘になりたかった。
そして誰よりも速いウマ娘になりたかった。
風も音も光も置き去りにしてしまうような、そんな速さで。
あの日垣間見た光の向こう側の、更に向こう側にあった暗闇の中に。
原初の欲求。あの日と今は、まだ地続きで繋がっている。
だからシンボリエウロスは本当に、本当にレースの舞台に戻りたいと思っている。
その為に出来る最善を尽くした。考え得る全てを試した。
それでも復帰出来なかったら。
……あぁ、シンボリエウロスはもう戻って来ないだろう。
だってそれは、なるべくしてなった事だから。
最善を尽くした。出来る事はもうない。
だから戻って来ない。もう戻れない。
故にシンボリエウロスは、そこからは迷わなくなる。
出来ない事を諦めて、自分のやるべき事を果たす。
それは凱旋門賞という日本の呪い、世話になったシンボリ家の悲願。
シンボリエウロスはまた再びトレーナーを目指すだろう。
次のウマ娘達の誰かに道を託す為に、可能性を残す為に。
「それに今、URAの司法試験の勉強してるんでしょ!? そんなのもう……っ!」
「……………」
あぁ。
そうだ。その通りだ。
次は多分、トレーナーじゃなくてURAの方の道を開く。
シンボリエウロスという名前は幻に消えて、別の名前で生きていくのかもしれない。
そうだ。
シンボリエウロスにとっての凱旋門賞とは、それくらいだった。
ウマ娘になりたかった彼女にとって、意味も理由も全部後から付いて来た。
【
あの日。
喋る事すらまともに出来ず、ベッドの上でのみ呼吸をしていたあの時。
姉上が本当に言いたかったのだろう言葉が、脳裏を木霊する。
——走れなくても良い。それでも私は、お前を愛しているから。
シンボリエウロスはきっと走れなくなっても。
自分が自分である原初の想いが途中で途絶えても。
自分がやらなくてはならない事を、確かに成し遂げる。
「……ダメ、ですか?」
「——絶対にダメッッ!!」
半ば無意識に出た言葉。意味のない疑問。
泣いて、喚いて、怒りながら叫ぶ感情的な声色で返って来る。
「……どうして、ですか」
「だって貴方は」
そうやって。
長い長い、感情の交錯の末に。
彼女は一つの答えを出した。
「ボクの、憧れだったから」
………シンボリエウロスは私の憧れだった。
あの日の言葉を、思い出す。
翼を失い、失墜した自分自身を気にも留めていなかった日の出来事。
病室で、一人のウマ娘と相対したあの日は、誰かの憧れも一緒に堕ちた日だった。
「ボクの『絶対』だった」
「………………」
「シンボリルドルフが三冠を取って、引退して、それで今度は貴方が来て——」
言葉にしていて、また感情の抑えが利かなくなったのだろう。
溢れ出る涙に瞳を瞬かせ、グスっと鼻を啜って、途切れ途切れになりながら。
それでも少女は想いを言葉にする。
「凄かった。本当に凄かった。なのに、日本ダービーで——」
「……………」
「なんで——」
この天才が認めたウマ娘。
最初は気に食わなかった。気に入る訳がない。だって妹っていう立場だけで、自分の憧れの立ち位置を持っているのが憎たらしくて仕方なかったから。
でも。
凄かった。
本当に凄かったんだ。
選抜レースからずっと見続けて、皐月賞だって見て、日本ダービーだって見て。
そして少女の抱いていた『絶対』は、何の脈絡もなく絶対ではなくなった。
「ボクは、貴方が日本ダービーを取るのを見たかった。三冠を取って欲しかった……っ!」
その言葉が、シンボリエウロスのずっとずっと心の奥底の部分に、鋭い切先を立てる。
或いはようやく、初めて彼女の心に正しく残った言葉でもあった。
思えば今まで、誰もシンボリエウロスにそんな事は言わなかった。
樫本理子も、シンボリルドルフも、周りのウマ娘すらも。
彼女の故障とその容態を気遣って何も言わなかった。
何より当のシンボリエウロス本人ですら、悔やまなかった。
彼女は日本ダービーに負けた事も、無敗も三冠も終わった事も嘆かなかった。
だって、仕方のない事だから。
過去を惜しんで、悲しもうと思えば出来ただろう。
だが意味はない。ならば関係ない。考えるだけ無駄だ。
心など空に出来た。
要らない。どうでも良い。
深刻な病を背負う自分には煩わしいものが多すぎて、気にしたいとも思わなかった。
それがシンボリエウロスにとっての不要だった。
レースに負けて。栄光が終わって。夢が叶わなくて。
でもこの勝負の世界は、勝って負けてが当たり前の世界。
むしろ負けの方が多いだろう。
私達の世界は、一人が勝てば他全員が負けている。
だからしょうがない。また再び、走るしかない。
それだけだった。
走れるから、走る。
それだけは誰にも譲れないから、シンボリエウロスにはそれ以上がなかった。
意味も理由も、全部後から付いて来た。だからきっと。
——後から付いて来たものを、あの日のシンボリエウロスは裏切った。
周囲から寄せられた期待や夢。
何もそれは夢や希望だけではない。
無念。壊れた夢の残骸。届かなかった理想の残滓。
自分が出来なかった事、見たかった物。
その全て。
日本ダービー。
一生に一度。同世代のウマ娘全てが夢見て、焦がれ、憧れ。
たった一人以外全ての傑物が夢に敗れて来た最高峰のレース。
シンボリエウロスは、空だった。
あの日、私達が仰ぎ見た空そのもの。
あぁそれは。
何よりもきっと——『絶対』だったのだろう。
伸ばしても届かない。だけど必ず、決して揺るがないままそこにはある。
だから何処までも無慈悲で、それ故に綺麗だった。彼女の翼はきっと何よりも美しかった。
ポートモガミ。
自らの手で、日本ダービーを奪ったウマ娘。
彼女の慟哭が、痛々しい表情が、幾度となく浮かんでは消えていく。
オグリキャップの事、さっぱり知らなかったんだよね。
正直言って地方からやって来てチヤホヤされてるのが気に入らなかった。
認めたくなかった。
淡い輪郭が最初に像を結んだのは、ポートモガミの小さな独白だった。
苦味の伴う、自己嫌悪に塗れた声色。オグリキャップが気に入らないのだと彼女は言う。
それは、当たり前の話だろう。
だってポートモガミに取って——『絶対』はオグリキャップじゃないのだから。
……シンボリエウロスは私の憧れだった。
あんな事言っていて信じて貰えないかもしれないけど、本当だよ。嘘じゃない。
私もこんな風に走れたら良いなって、何度も思った。
次に像を結ぶのは、彼女が夢見て焦がれるような、憧れに手を伸ばすような声色だった。
ウマ娘達は夢見た。
空にまで走っていけたら良いのに、と。
だからポートモガミの、ポートモガミ達の『絶対』は、シンボリエウロスだった。
シンボリエウロスは色んな事が出来る。
周りのウマ娘が必死に頑張って、毎日努力をして、自分が勝つ為の方法や模索の仕方を、彼女は片手間で出来る。
故に強かった。無敗三冠に最も近かった。
きっと憎らしかっただろう。実力も才能も態度も全てが妬ましくて、ずっとずっと、羨ましかった。
だからこそ。
私達の空は綺麗で、無慈悲なほど美しくて、何があっても揺らがない『絶対』だった。
あの日、オグリキャップが地方のウマ娘達を背負っていたように。
シンボリエウロスは、中央のウマ娘達を背負わなくてはならなかった。
だから、勝たなくてはならなかった。
貴方達の『絶対』を壊してはならなかった。
「エウロス、さん——?」
「——、……………」
そう。だからお前は今、一人のウマ娘を泣かせたのだ。
光の先。地下バ道を抜けたターフを背に、シンボリエウロスは少女を見る。
目の前の小さな子。たとえシンボリエウロスが走れなくなったとしても、それでも自分が成し遂げなくてはならないモノとして可能性を託すだろう、未来の可能性。
この子は、自分を見上げている。
空を目指すように、上を見ている。
泣く時は、誰もが俯く。
だけどそれでも、この子は上を向き続けた強い子だった。
「ごめんなさい。私はきっと、貴方達の空じゃないといけなかった」
光を背にして、シンボリエウロスは俯く。
空を目指し続け、前に進み続けたウマ娘はここで、初めて後ろを向いた。
自分より小さなウマ娘の為に、下を向いた。
「この脚で何人もの夢を踏み越えて、ただ前に走り続けて。そしてあの日私が負けて、貴方達を俯かせるしかなくしてしまった」
私にとって
気にした事もなかった事。
今まで打ちのめされた事はなくて、自分の手に余る出来事もなかった。
だけど今、誰かを泣かせた。
それは、初めて手に余る事だった。
シンボリエウロスは泣いた事がない。負けても悲しくない。
だけどシンボリエウロスが負けると、誰かが泣く。誰かが必ず悲しむ。
目の前にいる、この子のように。
春のファン感謝祭の時に、この子は自分の話を聞いてくれた。
元気一般で、感情豊かで。そして広い視野と確かな自己を有する子だった。
あの日、そんな子から憧れなのだと言って貰えた。
思っていた以上に、嬉しかった。
ファンの方がいてもいなくても多分変わらない。
そうやって嘯く口で、本当は気付いていた癖に、今になってようやくだ。
私にとって
自分の手に余るモノ。
それは私ではない誰かの事。
誰かの特別であるという事実が、シンボリエウロスにとっての特別だった。
「名前」
「……え?」
「名前を、教えてくれますか」
今更になって気付く。
春のファン感謝祭にて出会った二人は、文字通り現役ウマ娘とそのファンでしかなかった。
だから少女は、自分を伝えていない。
天翔るウマ娘は、彼女の名前を知らない。
「ボクは……」
悩んで、少女——ある暮れの未来に於いて、最も輝かしい奇跡を体現するウマ娘はその名前を伝える。
「ト、トウカイテイオーです」
——そうか。君が。
「……………」
「あの……?」
「……、——テイオー君」
返される言葉には、力強い何かがあった。
小さな体躯のテイオーに合わせて屈み、目線を合わせるシンボリエウロスは、憑き物が晴れたような笑みを浮かべている。
それは笑み崩れた童女とは遥か遠い、先達者の笑みだった。
「また私が空を飛んだら。貴方は泣き止んでくれますか?」
「………うん」
「よかった。強い子ですね」
「ぴぇっ……ぇ、あの! もうボク頭を撫でられるような歳じゃないというか……!」
「ごめんなさい」
言葉では謝りながら、何故か頭を撫でるのを止めない。
うわぁーっ……! うわぁぁーーっっ……!! と声に出さず色んな意味で悶絶している中で、トウカイテイオーは為すがままにされていた。
「これは、貴方に渡します」
ひとしきりにトウカイテイオーの頭を撫でて満足した後、彼女は今まで手に持っていた物を次に託す。
それは、皇帝を模した赤いマント。
「私は皇帝を越える事は出来ませんでした。だから」
対となる二つの赤いマント。
壊れた留め具を外して、長い一つにして、赤いマフラーの上に被せるようにトウカイテイオーの首元に巻く。
「トウカイテイオー。貴方が皇帝を超えてください」
それは。
シンボリエウロスが出来なかった無敗三冠。
実の姉、皇帝シンボリルドルフを越えるという夢。
妹に求められた、三冠の更にその先を、それ以上を託されたという事だった。
「テイオー君が中央に来た時、私も力を貸します。だからあの日、私が取り零してしまった夢の続きを、貴方が形にしてくれますか?」
「———うん」
トウカイテイオーの返答に、彼女は満足したらしい。
最後にまた嬉しそうに、そして遠い未来を見ているような先達者の笑みで、シンボリエウロスは立ち上がって地下バ道を進む。
「あ、あの……!!」
もうすぐターフに踊り出る。
そんなシンボリエウロスの後ろ姿に、どうしても伝えたい事があって、最後にトウカイテイオーは話しかけた。
振り返る。その横顔が、トウカイテイオーの瞳をしっかり見ている。
「やっぱり、そこに、翼がないとイヤだ」
飛ぶように走る、天翔るウマ娘。
仰ぎ見た、空そのもの。
「あの、だから……!」
受け取った赤いマントの下のそれを脱いで、押し付けるように彼女へ手渡す。
「こ……これ!」
それは、寒空の下で着ていた赤いマフラー。
背丈の小さい自分にはちょっと長くて大きい、でもそれだけの防寒着。
そんな変哲のないマフラーだけど首元に巻いて余った部分を後ろに流せば、不恰好でも翼になる筈だとテイオーは思って、押し付けるように手渡す。
勝負服どうこうとか、レース直前に誰かから貰いものを受けるとかそういう規則的な話は、まだ良く分からない。
だけど、それでも彼女に翼がないのは耐えられない。
更に言えば、そもそも彼女が皇帝を越えるのを止めるのも納得出来ない。
皇帝を模したマントは自分が受け取ったけど、それでも今とは違う形で皇帝を目指し続けて欲しい。
だからテイオーは、何としてでも、代わりの何かを彼女が背中に付けて欲しかった。
背負って欲しかった。
ただのマフラー。
超が付くほどの名家生まれのシンボリエウロスからすれば、正直安物と大差はない物で、しかも結構やばい事をやっている自覚もある。
不意にテイオーは、自分の行動に自信がなくなって、おずおずと彼女の反応を伺った。
当のシンボリエウロスは、ただ何か特別な反応をするでもなく。
「そうですね。交換ですね」
ニコニコと嬉しそうに笑って、その赤いマフラーを受け取った。
すぐに首に巻いて、後ろに流す。
ヒラヒラと、二つの翼のように先が揺れた。
「じゃあ、行って来ます」
そして、本当にシンボリエウロスは先に向かっていった。
有馬記念。今年一年の全てが決まる、最後のレースへと。
「………………」
その姿を見送って、一人残されたトウカイテイオーは、託された赤いマントを眺める。
それは皇帝への憧れを模したものであり、翼でもあったもの。
軽やかなほどに軽く、今にも記憶のあの姿のように空にまで駆け抜けて行けそうな気がして、だけど込められた想いはきっと、何よりも重い。
「ボクが、あの日の夢の続きを」
皇帝を越える。
あの日の夢の、続きの為に。
小さな小さな未来の帝王は、今日一つ誓いを立てた。
故に彼女に一切の油断はなく、力を余す事もなく。
才能も素質も、頭の良さも。彼女はその全ての全身全霊を以ってクラシック戦線に臨む。
たったそれだけの事であり、しかしその一点だけが何よりも重い事実であった。
彼女の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない。
彼女の名前は、トウカイテイオー。
後の、クラシック———ウマ娘である。
『——さぁ遂にやって来ました。西陽に照らされて、最後のウマ娘が今ここに登場します』
シンボリエウロスには、静寂が似合っている。
それは厳かであり、儀式のようでもあり。
あの日曜日に、それは思い知れた。
『6番人気、シンボリエウロス』
日本ダービーから約7ヶ月。
あの日、あの瞬間。
悲鳴も絶叫も掻き消えた、あの静寂の日曜日から。
彼女は帰って来た。
『彼女はいつだって、ずっとずっと後ろから届かせて来ました』
祈る。祷る。
どうか、どうかまた。
飛んでくれと。
私達の期待を遥か上回るように。
飛び立ってくれと。
『今日は、貴方達の夢に届くのか』
幻だったのかもしれない。
だけど、それでも。
三冠ウマ娘だったのだと、証明してくれと。
『第33回有馬記念。もうすぐ、出走です』
「……………」
緊張の間。
ターフに、そしてゲートの前に彼女は現れた。
芦毛と芦毛。
その宿命の対決の裏で、シンボリとシンボリの対決も待たされている。
或いは最も速いウマ娘、最も運のあるウマ娘、最も強いウマ娘の戦いも。
しかしそれでも、彼女達の中心にいるのは台風の目のような彼女だった。
無くした翼。顔を覆う眼帯と包帯。
色も形も変わった両脚の靴に、右脚に巻いた白いテーピング。
失墜した痛々しい姿を思わせる彼女は、観客からも舞台のウマ達からも注目を集める中で、それでも前と同じように、芝の上に立った。
「何や……? そのマフラー」
しかし、唯一異なるのは首元のそれ。
12月25日。クリスマスの日故に似合うは似合うが、ただそれだけ。
勝負服のマントの代わりのように、口元までを覆うほどには大きな赤いマフラー。
迎え打つように芝に降り立っていたタマモクロスが疑問を胸に問いかける。
「これですか? これは……」
その時、風が吹いた。
揺らぐ。焔の陽炎のように。
棚引く。炎の切れ端のように。
風に攫われ、赤いマフラーの先が揺れる。
燃える赤い翼のように、空を舞う。
「私の、次の翼です」
「………ハハハ。何や自分、顔付きがまるで別人やんけ」
そうなのだろうか。
あぁ、そうなのかもしれない。
彼女の言葉を反芻して、不意に何となく、シンボリエウロスは空を見上げた。
予感。
現実感の伴わない、魂の鼓動が彼女を動かす。
「………、……———」
周りから集まる注目。
周囲のウマ娘達が、目を見開くような反応をシンボリエウロスに見せたのも無理はない。
シンボリエウロスは流れるような動作で何の躊躇いもなく、眼帯と包帯を外したのだ。
露わになる右目。
角膜、網膜のほぼ全てを損傷し視野機能を完全に喪失していた瞳は、色素を薄くしていた。
翡翠色はより透明に。
空のような、透明に。
「やっぱり」
——淡く、光を感じた。
「今なら見えるような気がしたんです」
「お前……」
「うん。もう見えている。私に見えていないものなんてない」
シリウスシンボリの言葉も気にせず、彼女は呟く。
それは在りし日の、圧倒的自己による傲慢であり——『絶対』でもあった。
——責任を取れシンボリエウロス。
淡い輪郭が、像を結ぶ。
——そうじゃなきゃ、許さない。
あの日見えていなかった、言葉にも出来なかった慟哭の行方。
——私が上を見た時、私達が頂点を見上げた時、そこにアンタがいなきゃ許せない。
「ごめんなさい、誰かが空を見上げた時、そこには私がいなきゃならないんです」
謝ったのは、あの日の一人のウマ娘にではない。
それは周囲。自分が迎え撃たなくてはならない全ての敵に向けたもの。
ターフのウマ娘達から注目を集める中、シンボリエウロスは全員に、聞こえるように微笑み返す。
「だから今日は私が勝ちますね」
そして。
「バックダンサーは、皆さんで頑張ってください」
この上ない煽り文句を吐いて、シンボリエウロスはさっさとゲートに進んでいった。
呆気に取られる周りの反応の中で、彼女はマイペースに突き進む。
「あぁこれ、もういらないので何処かで捨ててください」
「え……え、ちょ——」
「すみませんがよろしくお願いします」
ゲートの係員。
その一人に自分の眼帯共々を投げ渡して、返事の間もなくシンボリエウロスはゲートに入る。
自由奔放……否、周囲の全てを気に止めない暴風。
全てを呑み込み内包する、果ての空そのもの。
シリウスシンボリは、何処か遠いものを見るような目付きをしてからゲートに入った。
タマモクロスは、呆れた表情の裏で真剣な警戒をしながらゲートに入った。
ディクタストライカは、半年以上ぶりの熱に肌を震わせてゲートに入った。
スーパークリークは、頬に手を当てながらも本当に困り顔をしてゲートに入った。
オグリキャップは、何気に初めて見る気性難そのものの横暴さを振り撒くシンボリエウロスに困惑と緊張を残してゲートに入った。
12月25日。
中山レース場。
『有馬記念——』
これは後の世で。
トゥインクル・シリーズ史上最も荒れたクラシック戦線と呼ばれた一つの時代。
『——スタートしましたッ!!』
そのクラシック期最後のレースが始まる。