彼女はいつだって。
たった一手で全てを変える。
中山レース場。右回り。
主に有馬記念や皐月賞、スプリンターズステークス、また最も難易度の高い障害レースとして名高い中山大障害を開催する日本の主要四大レース場の一つ。
しかし今年は中山レース場のスタンド改修に伴い、多くのレースが他レース場の振り替え開催となった。
そんな中で開催された有馬記念。
中山レース場で走るのは今日が初めて、というウマ娘は多い。
シニア級のウマ娘達の中でも、中山レース場の経験は他世代より少ないだろう。
故に今年の有馬記念は、経験の足りない中で如何にこのコースに適応するかも求められる、やや厳しさを伴う開催となった。
考えなくてはならないポイントが更に増えたのである。
尚、肝心の中山レースがどういう開催場なのかを一言で言うと。
主要競馬場の中で最も小回りで、最もトリッキーである。
内回り。
一周距離1667.1m。最終直線310m。
一周の距離も最終直線も、非常に短い。
しかし起伏の高さはURAが管理する全レース場の中で最大。
高低差、5.3m。
二階建ての建造物に匹敵するこの高低差は日本のトゥインクル・シリーズ最大であり、コース全体には多様な勾配の上り坂と下り坂として存在する。
要所要所で必要とされるテクニックや相応しい展開がまるで違い、坂に慣れている者とそうでない者ではスタミナの崩れやすさが大きく異なる訳だ。
特に、ゴール手前180mから70mに備えられた2.2mの坂、最大勾配2.24%となる国内最大の角度を有する急勾配は、ウマ娘達に最後の試練となって立ちはだかる。
距離は短いなれど、極めて急な勾配。
あの有名な淀の坂は高低差4.3m。しかし距離は400m以上あった。
高さは半分だが、たった110mで駆け抜ける都合上、瞬間的な負荷は甚大。
京都では淀の坂が多くの優駿を呑み込んで来たように、中山ではこのゴール手前の急勾配が多くの傑物を凡走に引き込み敗北させて来た。
——これが、あくまでレース場としての特徴。
中山2500。
外回りの第3コーナー付近からスタートする影響故、何と常に緩やかな右カーブを描きながら、内回りの第3コーナーに合流し、第4コーナーを下りながら正面スタンド前の直線へ。
つまり何とこのレース、スタート時の直線が実質的に存在しない。
レースが始まった瞬間、そのまま走っているだけで内と外で距離ロスが生まれ、始まってすぐには本格的なカーブ。
当然内側が有利。
直角ではないため東京2000ほどの極端な展開にはならないが、仮にも東京2000mですらスタートしてから80mほどは直線がある事を考えると、中山2500は中々に展開争いが激しいレースと言えた。
序盤のコーナーを抜けると、正面スタンド前。
観客席を横切りながら走り、2.2mの急勾配を越えて最初のゴール板を通過。
そしてゴール板から第1コーナーにかけて上り坂。第2コーナーに入る辺りで高低差の頂上になり、ここが中山の最高到達地点となる。
再びそこから一気に下り坂に転じ、向こう正面に入ってもしばらくこの下り坂は続く。
再びの第3コーナー、第4コーナー。
坂のない平坦な道ながらも、小回りで急なカーブ。
そして最終直線310m。2回目となる観客席に見守られながら、最後のゴール手前180mから70m地点の急勾配、最後の試練を越える。
そしてゴール。
凡そカーブを走っている時間の方が多く、常々上り坂か下り坂を走っている本レースは、ただの直線を走っている時間がほぼない。
極めて複雑。
端的に言えばそれに尽きる。
東京2000があまりにも極端とするなら、中山2500は全うに順当な形で極めて難しい。
トリッキー故に、ウマ娘に求められている素質は多岐に渡っていた。
総合的には此方のレース場の方が難易度は上だろう。
まずスタート。
内枠が有利。
たとえ追込であっても外枠は避けたい。
また合計6回のコーナーを回る為、内側をロスなく進めるかも重要。
ここでも内枠有利の要素が重なる。
最終直線310m。
国内四大主要レース場では最短。
末脚が決まり難く、追込が圧倒的不利。
また小回りなレイアウトをした中山では当然カーブの角度がキツく、遠心力が強くかかる為コーナーでは抜き辛い。
故に順位の変動が起こり難く、後方一気も難しい。
ここでも内枠有利が重なる。
まずこのレース、圧倒的に逃げ・先行が有利だった。
最終直線の短さ的にも、内枠有利を如何に守るかを考えてもだ。
逃げを選ぶウマ娘そのものの不安定さも考えると、逃げと差しの勝率は大体同じになり、主に先行を軸にしたこの三種の脚質がどのようにレースを運ぶかが注目される。
有馬記念では、追込は完全に除外されていた。
勝率は5%ほどあれば良い。
20回開催してようやく勝つかもしれない程度の勝率が、その厳しさを物語っている。
やはり310mの短い最終直線と、小回り故に速度を出し難く順位変動が起こり難いコーナーの存在が、末脚勝負を厳しくしているのだ。
『スタートしました!!』
有馬記念は、2500mという絶妙ながらも長丁場なレースに反し、スタート直後のみはほぼ必ずと言って良いほど加速的なラップを刻む。
真っ直ぐではない直線からレースが始まる上で、すぐに小回りなコーナーがあり、内枠が極めて有利だからだ。
今後の展開も含めると序盤からの叩き合いは誰もが避ける傾向にある。
しかし主導権争いは熾烈。逃げ・先行。或いは瞬間的な切れ味を持つウマ娘が、枠番や脚質分布に左右されながら、刹那のやり取りを行う。
一気に抜けるか、潔くすぐに折り合いを付けるか。
注目の先行争い。
『最初に飛び出したのは——』
そのウマ娘は王。
マイルの帝王に次ぐ、と呼ばれようがそれでも彼女は、シニア級の逃げウマ娘の王。
『——やはりこの逃げウマ娘!! 秋天のリベンジに燃えるロードロイヤル!!』
5枠9番。7番人気。逃げ。
クラシック級のデビューを果たし、やや遅咲きであった彼女は現在シニア級の2年目。
現役を走れる余力はまだあり、むしろ幾度となく中山レース場を経験して来た実力は高く評価されている。
前年度の有馬記念では4着。
同じく中山2500mの『日経賞(G2)』の経験もあり、前走は東京レース場ながらも2500mの『アルゼンチン共和国杯(G2)』を1着で納め、距離のリサーチも済んでいる。
有馬記念は、前が有利。
有馬記念に於いて、低人気のウマ娘が掲示板に絡む展開、つまり大穴のウマ娘が勝つ展開とはほぼほぼ9割が前残りによるものだ。
タマモクロス。
オグリキャップ。
スーパークリーク。
シリウスシンボリ。
ディクタストライカ。
シンボリエウロス。
この6名が1番〜6番人気を占める熾烈な評価争いの中で、7番人気を得たロードロイヤルは、レースを大きく動かす側の、注目のウマ娘。
前を取るだけで幾らかの保証がされる本レースに於いて、もしも前残りが起こるならば、ロードロイヤルは一気に勝ちに近付く。
——天皇賞・秋では、最後の直線でタマモクロスにしてやられた……!
ならば同じ轍は踏まない。
2500mは前走でリハーサル済み。
更にここ中山2500を、ロードロイヤルは既に二度経験している。
振り替え開催により中山の経験が少ないウマ娘が多数の中で、これは確かな有利と言えた。
——ボクの計算では、第4コーナーの時点で3バ身の差を付けていれば勝てる!
今、緩やかなカーブを描きながら、明確に小回りとなる第3コーナーに入る。
その時、ロードロイヤル以外にも前へ飛び出したウマ娘がいた。
『——シンボリエウロス! シンボリエウロスも幸先の良いスタートです!』
2枠2番。6番人気。追込。
先行潰しの、暴風。
——あぁ……! あぁそうだね、キミがいるんだったよ。
本当に走れるのかを疑問視されていたシンボリエウロスが、幸先の良い走りを見せた事による盛大な歓声の中でも、ロードロイヤルは冷静だった。
彼女はシニア級のG1戦線を駆け抜けて来た強豪。
逃げという自分を倒す為に策を弄し、競い合って来たウマ娘は多かった。
自分をマークする。そういう相手とのやり取りを確かに成し遂げて来た側のウマ娘だった。
シンボリエウロス。後輩。逃げ・先行を潰す事を得意とするウマ娘の事は、当然彼女も把握している。
——いいよ。やってやろうじゃないか!!
そしてロードロイヤルにとっての敵とは、同じシニアのアキツテイオーとタマモクロス。
或いは単に、自分の脚に明確な自信を持っているのもある。
彼女は、シンボリエウロスの実力と逸話を知った上で、真っ向から迎え撃つ事を決めた。
——キミの世代にはボクのような逃げウマ娘がいなかった。それを教えてあげよう!
自信満々にロードロイヤルは内に攻め入り、上がって来たシンボリエウロスを睨み付ける。
さぁどう来る? もしも普段のように逃げウマ娘を掛からせに来るのなら、むしろ此方から競り合いをかけ、余力を奪ってやっても良い。
注目の瞬間。中山2500。そして有馬記念という舞台だからこそ起こる、刹那のやり取りが、今。
「………は?」
正に、行われようというその時。
シンボリエウロスは、ロードロイヤルを見てすらいなかった。
内に切り込んで来たのを横目で確認しただけで、それ以外が何もない。
逃げ潰しのシンボリエウロスが、何もして来ない。
なら、何故上がった?
いや……彼女は追込だが、必要とあらば序盤から前目に付けたレースをする事もある。特にあのスタートダッシュは強烈で、まだ警戒するべきだ。
いやそう、だから。何故上がった?
前目に付けて来たという事はつまり、何らかの必要があったという訳で。
何だ? 何をしている? もう何かしているのか?
単純にボクの覚悟をすかし、動揺させるだけ?
だとするならそれは、効果として弱すぎる。
いや。——いや。
『第3コーナーを通過!!』
ロードロイヤルの警戒。そして疑念と困惑の中、レースは進む。
既に、300mも進んだ。
もうすぐ最初の第4コーナーに入る。
序盤の位置取り争いも、もう終わるだろう。
というか、もう。
終わっている。
後方に3バ身離して、先頭ロードロイヤル。
その後ろ。2番手にシンボリエウロス。
困惑。
それは何も、ロードロイヤルだけではなかった。
段々と周りのウマ娘にも広がる、異質な違和感と疑念。
誰かが、気付く。
否。誰かが、というのは正しくない。誰もが、と称する方が相応しい。
気付くと呼ぶのも適していない。気付かざるを得ないと言わなくてはならない。
ただ。ただ極めて単純に。
今日のシンボリエウロスの立ち位置は。
「——先行………!!?」
誰もが、驚愕した。
このレースに参加している全員のウマ娘が。
当然オグリキャップも、タマモクロスも、スーパークリークも、ディクタストライカも。
そして彼女を良く知る、シリウスシンボリでさえも。
『シンボリエウロス——何と、何と2番手!!?』
彼女の二つ名は、暴風。
常にレース展開を自らの掌に収めていた、稀代のウマ娘。
彼女はいつだって、たった一手で全てを変える。
『最初のコーナーを回って、今ホームストレッチに向かいます!!』
スタートしてから600m。
有馬記念はその構成上、スタートして3Fほど経ってからようやく直線に入る為、スタート直後の展開が落ち着くのはこの辺りになる。
先頭は逃げウマ娘のロードロイヤル。
現在3バ身ほど離れて、2番手にシンボリエウロス。
ホームストレッチを回り、観客席から響く大きな声援の中でも、ウマ娘達の表情は硬かった。
「(えぇ……えぇそうでした……っ!)」
内心、歯噛みをして走っているのはスーパークリーク。現在3番手。
シンボリエウロスの後ろに控えたものの、未だ混乱の最中にいる彼女は、それでも混乱の最中で自らの失態を痛感していた。
何せ、この世代の中心であったあの『暴風』を軽視していた事に、今気付いたのだから。
シンボリエウロス。
皐月賞ではクビ差まで追い詰められ、日本ダービーでは競走中止となり敗北。
その両方は、辿れば彼女の不治の病に関わる。
シンボリエウロスが喘鳴症を患っている事を知る者は、まだ少ない。
だがシンボリエウロスに明確な弱点があるだろう事は、世間でも有名だ。
彼女は主に消耗戦や競り合いに弱く、安定した勝ちの印象はない。
かつての無敗三冠ウマ娘。『皇帝』シンボリルドルフと比べると、圧倒的な末脚の切れ味を誇るがどうしても弱点が目立つ。
やっぱり、明確な弱点などなかったシンボリルドルフの方が総合的に強かったのではないか。
別にそれが悪いという訳ではない。
運も絡むし、仕方がない部分もある。
世間の認識は、そういった評価になっていた。
だからこそ、そう。忘れていた。
あの、あまりにも隔絶した末脚の切れ味に、意識を割かれ過ぎていた。
彼女はそもそも、追込一辺倒ではない。
シンボリエウロスは先行も出来る。
「(こんな当たり前の事を、忘れていたなんて………!!)」
いや、先行も出来るという表現すら正しくない。
だってシンボリエウロスは、脚質を選ばないからだ。
彼女は、外野が分かりやすく区別する為に追込ウマ娘として分類されているだけ。
シンボリエウロスの本当の脚質は自在。
究極的な自己完結型。
シンボリエウロスは、残り600mからスパートに入る。
自らのペースを守り続ける。
ただそれだけが、変わらない。
しかしそれ以外は。
全てを自在に変えられる。
「(もう——私の策は全て通じない)」
スーパークリークは生粋のステイヤー。彼女は当然、消耗戦を得意とする。
スローペースで後方を抑えてロングスパートで突き放すといった王道の戦術は、スーパークリークにも出来た。
言葉を選ばなければ、皐月賞でメジロアルダンが行ったそれよりも優秀なタイムで、この2500mという長距離の舞台でも確実に。
——それで?
スローペースで、一体誰を抑える?
シンボリエウロスは、後ろにはいない。
この瞬間、スーパークリークの強み足る事前の策は全て無意味になった。
更には、ある程度の差異はあれ大半のウマ娘が考えていたであろうレース展開の予測も、シンボリエウロスへの対策も木っ端微塵になった。
「(……なるほど。これが『暴風』か……!!)」
苦笑いで後ろを睨むのは、このレースの要である逃げの王。ロードロイヤル。
彼女が最大限に警戒していたのは、あくまでシニア級のタマモクロス。
しかし当然、シンボリエウロスも警戒はしていた。
というか、タマモクロスへの警戒と策を、そのままシンボリエウロスにも使える筈だったのだから、どちらを優先的に警戒しようがさしたる影響はなかったのだ。
タマモクロスは後方、追込。
シンボリエウロスは後方、追込。
更にここに、末脚そのものに『弾丸シュート』という二つ名を持つディクタストライカもいる事を踏まえれば、スローペースで後ろを抑えるのは、極めて有効的な策と言えた。
1枠1番。最内。
本レースの内枠有利と、先行という脚質も噛み合い、前を取る事を選んだスーパークリークも同じ事を考えていた。
仮に。
仮にだ。シンボリエウロスの末脚は、全盛期から3秒劣化しているとする。
復帰が危ぶまれる故障を経て何とか有馬記念に来た事を考えると、これはあの『暴風』を非常に過小評価しているが、あり得ない話ではないだろう。
全盛期と今のシンボリエウロスが勝負したら、約20バ身ほどの差が生まれるのだ。
しかし、もしも横一線からヨーイドンの勝負をするなら。
その、あまりにも劣化した末脚でも。
シンボリエウロスは、この有馬記念のメンバーの中で最強だ。
タマモクロスもオグリキャップもディクタストライカも、ようやく勝ちの目が出て来る。
34秒台。多くの条件が噛み合い、そして限界を超えた末脚を使ってやっと、劣化した彼女の末脚と同等の世界に辿り着ける。
『1周目! 最初の中山の急坂に入ります!』
現在700mを通過。
先頭から最高方まで約10バ身。
凡そ、縦に二列となって進むウマ娘達は、未だ混乱の中にいる。
或いは、展開の立て直しが出来ていなかった。
「(待ってこれ、今どういう状況?)」
7枠11番。8番人気。逃げ。
メジロデュレン。シニア2年目。
一昨年の菊花賞ウマ娘であり、何より昨年の有馬記念の優勝者。
正にメジロ家足る彼女がしかし8番人気となっている辺りが、今年の有馬記念の尋常ではない熾烈さを物語っているが、話はそこではない。
今現在4番手を走るメジロデュレンは、枠番による距離の差で他のメンバーに前を譲りはしたが、彼女はメジロ家らしい王道の先行も出来るウマ娘だ。
つまり現在、彼女自身の立ち位置はそこまで問題ではない。
唯一にして最大の問題はシンボリエウロスが前にいる事。しかも2番手。
シンボリエウロスを相手に、末脚勝負では絶対に勝てない。
彼女は弁えている側のウマ娘だった。
瞬間的な速度に関してなら、タマモクロスやディクタストライカですら認めているだろう。
ヨーイドンの勝負では、絶対にシンボリエウロスには勝てない。
歴史上、最速。その称号を前に理由なく勝負を挑む者は、勝ち気な性格以上に愚かだ。
故に必ず、残り600mに入るまでには20バ身ほど前にいなくてはならない。
「(あの末脚が完全に戻ってないとするなら、10バ身以下でも済むかもしれないけど……)」
中山レース場はトリッキー。
その場面、瞬間的に求められている対処法が異なり、それ故に東京レース場とは違った総合力が試される。
東京レース場がステータスの総合力を試されるなら、中山レース場はスキルの総合力と表現するのが適切か。
今、一周目の中山の急坂を通過した。
残り1700m。
現在、ホームストレッチ。
観客席の声援を受けながら直線を走るが、考えが纏まらない。
この辺りは展開に一旦の落ち着きを見せるものの、上り坂が繰り返し長く続く場所だった。
後半の体力を考えた立ち回りをしなくてはならない為、緊張感は常に抜けない。
そもそも中山レース場は上り坂と下り坂の起伏が激しく、ストライドとピッチの間隔が小刻みに変わる為、ほぼ常時足元の起伏に意識が割かれる。
物事を考えられる余裕が少ない。
考えている間に、レースが進む。
「(あー……これもしかして、結構やばい?)」
有力なウマ娘を考えるに、スローペースが有効。
しかしシンボリエウロスが前におり、絶対に何処かのタイミングで抜かさないといけない。
残り600mで最低10バ身は欲しい。
その為に前に出る必要があり、加速する必要がある。
スローペースを維持出来ない。
いつ前に出る? いつから前に出ないと間に合わない?
そもそも後方のウマ娘を迎え打つ為にスローペースを維持するとシンボリエウロスに有力な展開を作る事になり、しかしシンボリエウロスにばかり構っているとタマモクロスを無視する事になり——
「(あぁぁぁ!! 意味わかんねぇぇぇーっ!!!)」
おかしい。
何故、こうなった。
この有馬記念は、どれだけ末脚が戻ったか分からないシンボリエウロスが、何とか勝つ為に展開を操作するレースになるのではなかったか。
どうして私達は、末脚が完全に劣化したと仮定する限りなく過小評価した『暴風』を相手に、今必死になって頭を回さないと勝てなくなっている。
全ての前提、レース展開の予測が意味を成さなくなっていた。
メジロデュレンは疎か、スーパークリークですら依然としてレース展開に復帰出来ていない。
事前の策の全てから逸脱したレース展開になっているのはある。
だがそれ以上に多くのウマ娘達が現状維持を貫いて走っているのは、考えられる限り全ての選択が悪手としか思えないからだ。
いつかは必ず、シンボリエウロスの前に出なくてはならない。
だがそうやってペースを上げる事そのものが、彼女の思惑だったとしたら?
ペースが上がって加速する展開は、今まであの『暴風』が好んで来た展開じゃないか。
しかし同時に警戒しすぎて残り600mまでのタイムリミットに間に合わなければ、過去の共同通信杯のようになる。
主にスーパークリークを焦らせているのが、これだ。
残り600mから動くのでは間に合わない。
残り600mの時点で、最低でも10バ身はシンボリエウロスの前に出なくてはならない。
無論、彼女の末脚を過小評価してこれ。
シンボリエウロスの末脚が、全盛期レベルまで戻っているなら20バ身以上必要になる。
だとするなら、もうこの場面から前に出てペースを上げなくてはならないのではないか。
どうすれば良い?
今から、何をする為に、どんな動き方をすれば良い?
それはレース展開の操作とは似て非なる素質が求められる、適応力の問題。
事前の策が一切通じなくなった状態で、即興で展開を立て直す。風の流れを読み取り、瞬間的に正解の選択肢を弾き出す。
これは——『暴風』が最も得意として来たことであり、しかし周りのウマ娘達には現在出来ないこと。
後出しで、最善手を行う。
今回このレースでは、シンボリエウロスではなく、他のウマ娘にそれが強要されている。
「(………やってんな、アイツ)」
後方、2番手。
最後方に近い位置を進むディクタストライカは、後方だからこそ落ち着き払ったレースをしていた。
無論、自分は不利である事に変わりはない。だが。
今の自分に出来る最善は行なっているという自覚が、彼女を冷静にさせている。
ディクタストライカはマイラー。
2500m。中長距離。距離の壁。
彼女にとって有馬記念の距離は、本来適性外。
だが中山は、カーブがキツく小回りのレース場だ。
どうしてもカーブでスピードを落とさざるを得ない。
故に有馬記念は通常がスローペースであり、またカーブ毎に息が入りやすい。
だからマイラーのオレでも充分勝負出来る。
スタミナ温存のため後方追走で、走る。
出遅れも事故もなく、後方へ控えたディクタストライカは現状、自らに適したレースが出来ていると言えた。
「(それがオレに出来て、アイツに出来ない訳がない)」
ではシンボリエウロスは、マイラーか?
違うだろう。仮にも三冠を視野に入れ、実際に菊花賞に出走し勝つ気だったウマ娘。
ディクタストライカは距離の挑戦を選んで後方からの追走を選んだが、シンボリエウロスは距離の挑戦を恐らく必要としない。
前目のレースをする。
その負担を、中山という小回りでペースが落ち着きやすいコース形態でカバーする。
——本当か?
『15人のウマ娘達が、今第1コーナーに入りました!!』
現在1000mを通過。
通過タイム62.9秒。
『全体的にゆったりとしたペースです!!』
疑念。
多くのウマ娘が覚える、何らかの違和感。だが。
その違和感の内容が分からない。何に違和感を覚えているのかも、また。
『先頭は依然ロードロイヤル! 2バ身のリードでレースを引っ張ります!!』
考えている内に、レースは進んで行く。
シンボリエウロスは動かない。既に動く必要がない、の間違いか。
或いは誰かが動けば、その展開に対して後手で最適解を弾き出して来るのかもしれない。
分かっている。そんな事。
シンボリエウロスより前に出る必要がある。
それは他ならぬ、シンボリエウロスが好む他者への消耗を強要する展開となる。
だがこのままシンボリエウロスの背中を見続けているなら、超スローペースで進んだ結果全てのウマ娘が彼女の射程圏内のままレースが進んだ、あの共同通信杯とほとんど同じ展開になる。
彼女の有効射程距離が不明な、この状態で。
絶対に、何処かで動かなくてはならない。
だがその方法、タイミングが全て不鮮明。
シンボリエウロス本人は、更に後手で動ける。
ウマ娘達の動きを硬直させる、変えられない事実。
『第2コーナーに入りました!!』
現在1200m地点を通過。
下り坂に入る。通過タイム75.5秒。
かなりのスローペース。
しかし実態は、全員が温存策を取っている訳ではない。
勝負所を牽制し合っている訳でもない。
ただ現状維持から動けていないだけ。
誰かが動けば、全員が動く。
だが誰も動けない。
シンボリエウロスは既にやるべき事は果たしたとでも言うように、2番手のままで静寂を貫く。
『向正面に入りました!』
まさか、だ。
序盤でレース展開の方向性が決まってから、実にレースの半分を過ぎ去っても膠着は変わらない。誰が最初の犠牲者になるのか。そんな思惑がウマ娘達には共有されていた。
現在1300m地点を通過。
残り1100m。
そろそろ、展開が動く。
動かさなくてはならない。
有馬記念は最終直線が約310mしかなく、また最終直線前のコーナーも小回りで遠心力が激しい為に、後方脚質が有利を取るには向こう正面付近から仕掛けなくてはならないからだ。
「凄いなぁ——嬢ちゃん」
だから、なのかもしれない。
否、だとしても。
向こう正面に入った瞬間——残り1100mもある場所から"それが"来るのは、誰も聞いていない。
「でもまさか、そんな消極的なやり方を最後まで続ける気ちゃうよな?」
"それは"——領域。
先頭から10バ身の最後方から響いて来た、白い稲妻。
荒々しく、鋭く、猛々しく。
まるで雷神の如き存在感はやはり、タマモクロスというウマ娘の本質そのもの。
「ウチ、ちゃんと言ったで?」
領域。
それはオカルト。
ウマソウルに由来する何か。
自分の真後ろすぐに落雷が轟いたような衝撃と圧力が迸る。
その圧倒的存在感を前に、あらゆるウマ娘が思わず振り向いた。
「そんなん——気に食わんって!」
天を貫く怒髪天。
白光と共に、今白き稲妻が天より轟く。
怒りと見間違うほどの気性の荒さを前に、現役最強が動いた。
「……………」
ただ一人。
唯一、シンボリエウロスだけが振り向かなかった。
一つ。
目を閉じる。
二つ。
瞳を開く。
そうして、見た。
広がる視界。自分にだけ視えている景色。
それは。その景色には——
——領域は時代を創るウマ娘にしか到達出来ません。
感慨深く、そして篤実な熱を込めた眼差しで。
ターフの上。真夜中の中央トレセン学園で。
以前、駿川たづなは言った。
——どうしてかは分かりません。でも多分、私は知っている気がするんです。
領域。
一種の超集中状態であるゾーンの名を持ちながら、しかしゾーン状態とは似て非なる趣きを持つ、ウマ娘に於ける最大のオカルト。
それを駿川たづなは、何か不思議な、魂が覚えているとでも言うような雰囲気で話し出した。
——だって時代は、いつだって独りで創れるものではありませんから。
——…………。
——知っていますか? ウマ娘は。
12月25日。
第33回有馬記念。
その日、観客の人々も、レースを走る彼女達も。
皆全てが、唐突に思い出した。
ウマ娘は。
想いを背負って走るのだと。