有効射程距離25バ身   作:sabu

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12/25 第33回 有馬記念 4

 

 ——シンボリエウロスは最後まで保たない。何処かで絶対に落ちて来る。

 

 それが現在、後方3番手を走るシリウスシンボリが出した結論だった。

 ヨーイドンの勝負に於いて、歴史上全てのウマ娘の中でシンボリエウロスが最も強い。

 残り600mが来るまでに、距離を取っていなければならない。

 故に先行位置で走り、自分より後方のウマ娘に選択を強要させる。

 シンボリエウロスより前に出るか、どうか。

 だが前に出るにも、後ろに控えたまま走るのも悪手。

 動きたいのに、動けない。

 これはシンボリエウロスが、前目の位置で走るからこそ起こる展開の妙だ。

 

 だったら今まで、シンボリエウロスが全てのレースで先行脚質で走っていなければおかしい。

 

 普段、最後方の追込で走っているより、よっぽど有効でよっぽど的確に同レースのウマ娘達を削れる筈だ。

 レース展開を操作するなら、先行位置が極めてやり易い。

 自分の切り札として、今日の有記念までこの戦術を取って置いたというのは違うだろう。

 ずっとずっと昔から、それこそシンボリエウロスが走れなかった頃を知るシリウスシンボリだからこそ、すぐに分かった。

 

 シンボリエウロスは、喘鳴症故にロングスパートが出来ない。

 残り600mからしか仕掛けられない。

 もう一つ。彼女には弱点がある。それは。

 シンボリエウロスはハイペースで走れない。

 

 当然の話だろう。

 彼女は消耗戦をしてはならない体質を持つ。

 喉に負担を掛けず、如何に心拍数を抑えながら走るかが重要視されている。

 

 1F12秒。

 

 時速60km。

 ウマ娘達のミドルペース。

 無理のない範囲で、尚且つ最大の速さを出せる巡航速度。

 それが1F辺り、凡そ12秒なのだ。

 

 ではこの速度を維持したまま3000mを走れるか?

 

 答えは、出来ない。

 現在芝3000mの世界レコードは、3:02.5。

 もしも本当に1F12秒のペースで走り続けられるなら、40年近く破られていないこのレコードを一気に2.5秒も縮める事になる。

 更に言えば、このペースを持続させるなら2500mでも世界レコードであり、2400m、2000mでも限りなく優秀な記録である。

 距離が伸びるほど、1F12秒はミドルペースではなくなるのだ。

 

 有記念。

 芝2500m。小回りでカーブの遠心力がキツイ。

 また繰り返される上り坂と下り坂の起伏が激しく、ストライドとピッチの間隔に細やかな調整がいる。

 デコボコとした山道を急いで走ろうとしても、足元に注意を払わなくてはならないため速度が出ないのと同じ。

 坂道は、普段の等速では走れない。

 

 故に世間一般でスローペースとされているタイムも、中山2500を舞台とする有記念では普通のペースとなる。

 1200m通過タイム75.5秒。

 通常と比べ、凡そ3.5秒も遅いこの超スローペースは、有記念ではほんの少し遅い程度のミドルペースだ。

 その上で、先頭から僅か1〜2バ身程度の距離で走るシンボリエウロスが、普段と同じ末脚を使えるとは到底思えない。

 

 ——その上で、34秒台ほどの劣化した上がり3Fで決めて来る?

 

「いいや、それだけはあり得ない」

 

 シリウスシンボリは知っている。

 あのウマ娘が……速さという世界に於いて尋常ではない気性の荒さを前面に出すあの『暴風』が、自分の最高到達点から20バ身近く落ちる末脚で我慢出来る筈がない。

 

 絶対に、シンボリエウロスは飛ぶ。

 そしてやはり、何処かでシンボリエウロスは順位を下げて来る。

 誰よりも正確に、そしてただ一人だけ確信している今後のレース展開。

 シリウスシンボリは、機を測っていた。

 故にこそ。

 

「さぁ! ここからは正真正銘ウチらの末脚勝負や!!」

 

 シリウスシンボリにはそれ以外を推し量り、対処する余力などなかった。

 領域。限界まで研ぎ澄まされ、圧倒的な存在感と圧力を放つそれは、自らの周囲に白い光として落雷が発生しているに等しいほどの感覚を伴う。

 

「………ッ……、チッ」

 

 そんな状態で、誰が冷静に走れる。

 ジャパンカップで一度垣間見て、そして世界の強豪と渡り合ったシリウスシンボリでも背筋に走る悪寒が止まらない。

 有記念。ファン投票によって選ばれた、曲がりなりにも今年最強を代表するウマ娘が一人、また一人と怯えるように走る気力を奪われていく。

 それほどの力。それほどの威圧感。

 恐らく、タマモクロスというウマ娘の気性の荒さに由来するであろうその領域は、他のウマ娘を直接的に威圧するほどの存在感を放っていた。

 

『大外から!! 大外からタマモクロスの脚が迫る!! タマモクロスの凄い脚!! また一人! また一人と交わしていく!』

 

 残り1000m。

 向こう正面の中間地点。

 最後方だったタマモクロスは、現在既に3人ものウマ娘を追い抜いた。

 その中にはディクタストライカがおり、シリウスシンボリもいる。

 ここから一気に、1着争いの勝敗が決まっていく局面。

 タマモクロスが動かしたレース展開に乗るか乗れないかで、勝敗が決まる。

 

 そういう世界で真っ先に勝負を選べるのはやはり。

 彼女のようなウマ娘だった。

 

『——オグリキャップ!!』

 

 2枠3番。2番人気。単枠指定。

 先行・差し。オグリキャップ。

 

『オグリキャップも動きました! オグリキャップも外に出た! オグリキャップも、もうここから差し切り態勢か!!?』

「(ここだ……! ここしかないっ!)」

 

 タマモクロスとシンボリエウロスの追込ウマ娘達を警戒し、2枠3番という内側を得たオグリキャップは前目の先行策を取り、4〜5番手の位置を走っていた。

 その考えは、シンボリエウロスが2番手を選んだ事によりしばらく混乱の最中にあったが、あくまでもオグリキャップは平静を貫いた。

 

 自分が走り易い位置。

 自分が、ここだと直感した場所。

 自分に出来る最善を確かに行なっている自覚は、事前の展開を崩された事による動揺からは遠く、それ故に脆くもなかった。

 

 それは、一瞬一瞬の刹那足る末脚で勝負を決める彼女達の世界。

 オグリキャップは今この瞬間、スーパークリークの上を行った。

 いずれシンボリエウロスの前に出なければならない展開で、しかし無闇には動けない。

 その展開の切れ目。タマモクロスが動かし、同時にタマモクロスをも迎え撃つ為に動かなくてはならないタイミングは、今だと。

 

「ハハッ……そうやなオグリ!! 」

 

 迎え撃つように外に出たオグリキャップ。

 それは自分もすぐに脚を使える状態にする為の布石か、或いはタマモクロスに更に外へ回らなくては前を抜かせないようにする為の策か。

 きっと、理路整然と理屈を固めて考えた訳ではないのだろう。

 ただオグリキャップは、それが最善だと判断しただけ。

 彼女の動きを見て、タマモクロスのギアが上がる。

 

「でも関係あらへん……全員纏めてぶっちぎったる!!」

 

 気性の荒さが前面に押し出されている今、タマモクロスに下手な刺激は逆効果。

 ジャパンカップでオベイユアマスターが危惧していた事態である。

 こうなった彼女は、ウマ娘としての常識や限界を超えた脚を軽々しく使ってしまうほどの爆発力がある。

 

 タマモクロス、現在7番手。

 対しオグリキャップは3番手。

 先頭から最後方まで、凡そ8バ身。

 一気に展開が動き、残り800m地点を通過する。

 今、第3コーナーに入った。

 

 という、その時。

 

『シンボリエウロス! シンボリエウロスが下がる!!』

 

 ここで、暴風の足並みが緩む。

 足並みを徐々に加速させていたウマ娘達とは真逆に。

 

「……ッ、ここです!」

 

 先頭集団に振り回され、未だ展開に復帰出来ていなかったスーパークリークも、遂に動く。

 3番手だった彼女は、シンボリエウロスを交わして外に回り、今2番手へ。

 オグリキャップに比べ、一手遅れる形で外に回った形となる彼女の余力が、今後どうなるかは分からない。

 

 だがスーパークリークは、メジロのウマ娘とステイヤーの土俵で真っ向勝負出来るほどの逸材。時代の特異点。ここから彼女はロングスパートに入るだろう。

 更に、展開が動く。

 後方から追い上げに図るタマモクロスは、また少し厳しい展開となった。

 

 だが、タマモクロスの意識を引いたのはそこではなく。

 落ちる暴風の。

 

「……嬢ちゃん………」

 

 その、物悲しさ。

 第3コーナー。

 やはりそこが、運命だったのか。

 タマモクロスが長い間、転倒事故のトラウマに苦しんだように。

 シンボリエウロスも、もしかしたら。

 

 ——シンボリエウロスは最後まで保たない。何処かで絶対に落ちて来る。

 

 シリウスシンボリが立てた予測とある程度同じものを、タマモクロスも立てていた。

 それでもシンボリエウロスは、来るのではないか。最後まで保たせるのではないか、と。

 

 だが事実として、シンボリエウロスは落ちた。

 

 足並み、その趨勢は他のウマ娘達とは真逆。

 2番手を維持して来たシンボリエウロスは今、オグリキャップとスーパークリークに抜かされ4番手となった。

 何より、先頭から最後方まで凡そ8バ身程度のこのバ群の中で足並みが保たないのは致命的。

 展開は既に、現在の順位が激しく入れ替わる形相を呈している。

 シンボリエウロスの位置は、一気に下がっていく。

 

『ロードロイヤルが粘る! ロードロイヤルもまだ粘っている!! オグリキャップが今2番手に! その後ろにスーパークリーク!! タマモクロスが外から凄い脚だ!!』

 

 第3コーナーを駆け抜ける。

 先頭、ロードロイヤル。

 後方から迫り来る複数の圧力に汗を流しながらも、彼女はまだ粘っている。

 

 2番手。1バ身離れてオグリキャップ。

 先程までシンボリエウロスがいた位置に、今彼女はいた。

 カーブの遠心力に細心の注意を払いながら、少しずつ脚を使っている。

 

 3番手。スーパークリーク。

 オグリキャップの真後ろ。ロングスパートの態勢に入った彼女は、オグリキャップに一手遅れた故に、2番手を取れない。

 ロングスパートは、力強い見た目に反し繊細さが求められる。

 特にこの小回りのカーブで、前のオグリキャップを抜くだけのロスを支払うのは難しく、しかし前が邪魔で万全のロングスパートを使えない。

 僅かながら、足並みのバランスが崩れている。

 

 5番手。タマモクロス。

 外を回り、尚且つ遠心力のかかる中山のカーブで捲りを行っているにも関わらず、段々と順位を上げている。

 これでもしも、本当に最後まで末脚の伸びを落とす事なく走り抜けたとするなら、彼女は正真正銘の規格外。

 捲り。残り800m以上からの後方一気。追込脚質に於ける一種の極地としては、彼女の名前が何よりも相応しいに違いない。

 

 残り600m。

 シンボリエウロスが、来ない。

 

『シンボリエウロスが下がる! シンボリエウロスが来ません!』

 

 先行策は失敗だったのか?

 それともやはり、復帰は厳しかったのか。

 必ずと言って良いほどの場所から来る筈のシンボリエウロスが、普段とは相反するように下がって行くのを見て声を上げる観客の傍らで、レースは進んでいく。

 たとえ順位を下げたとしても、残り600mからは来る筈だと信じていた者達からも、一斉に声が上がる。

 

 残り約500m。

 第4コーナーに入った。

 

 残り800m地点、第3コーナーに入ったほどから下り続けていたシンボリエウロスは、既に13番手に。

 先頭から最後方までに然程距離の差がない状態で、順位の脱落は早かった。

 8バ身ほど下がるだけで、ここまで順位が変動していた。

 対して、当初最後方だったタマモクロスと近い位置にいたシリウスシンボリとディクタストライカの両名は8〜9番手ほど。

 確実に、そして段々と加速し熾烈になっていく位置取り争い。

 

『第4コーナーを回った! 最後の直線までもうすぐ!!』

 

 最終直線での勝負が近付いている。

 

『ロードロイヤルが粘る! まだロードロイヤルは粘っている!! しかしロードロイヤル苦しいか!!? オグリキャップがここで先頭に立つか!? 外からタマモクロスも迫っている!! すぐ後ろにはスーパークリークだ!!』

 

 先頭から4番手までに、ほとんど差がない接戦を演じて、今最終直線に入った。

 残り約310m。たったの310m。

 先頭から最後方……否、14番手までは凡そ9バ身ほどの距離。

 ここで後方が直線一気を決めるか、先行側が最終直線で伸びを欠いてしまうかで、まだ着順が変わり得る。

 

 シンボリエウロスは、最後方。

 14番手から更に何バ身も離れてシンボリエウロス。

 ぽつんと1人。

 彼女はまだ、最終直線に入っていない。

 

『内オグリキャップ! 外タマモクロス!!これは、これは二人の一騎打ちか!!』

 

 そうして。

 シンボリエウロスは何もかもに遅れる形で、ようやく最終直線に入った。

 

 瞬間。

 

 何か、音がした。

 大地の芝を、まるで薄氷のように踏み砕いたかのような音。

 しかし、耳ではなく魂で感じ取ったと表現するしかない衝撃だった。

 刹那、地面に広がる亀裂が芝に広がり、自分達を越えて、ゴール板を踏み越え——地平線の彼方まで広がっているような錯覚すら見えた。

 

 音が消える。

 今、確かに。

 その一歩で、世界が変わる。

 

 それは前兆。

 それは領域。

 それは彼女が手にした、もう一つの——

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

「シンボリエウロスは今後、右脚の後遺症と向き合ったレースをしなくてはならなくなった」

 

 とある暮れのトレセン学園。その一室。

 スーパークリークとそのトレーナーである奈瀬文乃は、有記念の対策を進めていた。

 議題の一つとして当然彼女の名前は上がる。常識的に考えてどれほどまで復帰が絶望的であろうとも、シンボリエウロスは世代最強のウマ娘だったのだから。

 本当に復帰を果たして来た時、全く予想していませんでしたと口にする者はトレーナーではない。

 

「たとえ復帰したとしても、今までと同じようには走れない。シンボリエウロスの脚がどれだけ戻っているかは不明だが、そこが有記念を左右する一因になる筈だ」

 

 そして奈瀬文乃は、同時に現実的な視点から話を進める人間でもあった。

 トレーナーとして全ての可能性を追うべきだが、しかし夢物語の可能性を追い過ぎて現実の足元がお留守になって元も子もない。

 故に彼女は、予想外ではなかったが、結果論的に判断を間違えた。

 凡そのレース展開を聞いていたスーパークリークも、序盤から大きく動きを鈍らせる事になった。

 限りなくシンボリエウロスの末脚が劣化したと断定した上で、スローペースによる後方を押し留める展開では絶対に負けるようなレースをされたのだから。

 

「これは本当に、もしもの話なんだが」

「はい……?」

 

 故にそれは、本当に仮定の話だった。

 奈瀬文乃にとって予想外ではなく、追える可能性を限りなく追って、それでも考えるだけ無駄だと判断せざるを得なかった、仮定の話。

 

「シンボリエウロスは日本ダービーの後遺症で、今までと同じ走り方は出来なくなった。それは間違いないと思う」

 

 少なくともまだ、今回の有記念では。

 そんな恐らくの話を敢えて話さず、奈瀬文乃は続ける。

 

「でもその後遺症は、ただやり方を変えただけに留まるかもしれない」

 

 劣化ではない。ただの変化。

 今までのやり方が通じないと理解しただけで、シンボリエウロス自体の脅威性が何ら損なっていないとするなら。

 或いは何らかの形で、変えなくてはならなくなった脚の使い方も、追い詰められた心も、その両方を完全に克服出来たとするなら。

 

「その時、シンボリエウロスは世界で最も恐ろしいウマ娘になる」

 

 だってそうだろう。

 あの日本ダービーで、彼女は何をした?

 転倒して、ボロボロになって、彼女は何を行った?

 そうだ。彼女はそれでも。

 末脚を使った。

 

「9.9秒、9.5秒」

 

 ボソリと呟いた、その単語。

 スーパークリークは、その秒数が何を意味しているかを知っている。

 

 それは世界で、今までの歴史で。

 シンボリエウロスというウマ娘のみが到達した、ウマ娘の可能性。

 シンボリエウロスしか知り得ない、スピードの向こう側。

 

 11.0秒の壁。

 

 この壁を越えて、戻れなくなったウマ娘は何人もいる。

 脚を砕き、現役から消えたウマ娘が大勢いる。

 

 シンボリエウロスはその壁を越えた。

 10.0秒の壁すら越えた。

 そして今、戻って来るのか、戻って来れないのかの行末が、有記念で見定められている。

 

 あるのはただの事実。

 シンボリエウロスはそれでも、有記念に来た。

 彼女は現役に、戻って来た。

 

 10.0秒未満。

 

 私達の誰もが知り得ない、未知の領域。

 唯一、シンボリエウロスだけが既知にある。

 彼女だけが、あの壁の越え方を知っている。

 

 もしも。

 後遺症で、シンボリエウロスは600m地点から仕掛けられなくなっても。

 走り方を変えて。あの2Fで。たった400mで。

 全てを変える可能性が、まだ残っている。

 

「これはもしもの話だ。考えなくて良い」

「どうして、ですか?」

「だって」

 

 あくまで、これは低い可能性の話。

 日本ダービーから僅か7ヶ月で、脚と心の両方を克服するのはあまりにも難しい。

 夢物語の可能性を追い過ぎて、現実の足元がお留守になってはいけない。

 そんな建前を省いて、彼女は答える。

 

「そうなったらもう、終わりだからね」

 

 それは理想論。それは机上の空論。故にただの夢物語。

 対処法なんて、出来るだけ距離を取るしかない。

 つまり結局、やる事は大して変わりない。

 

 それはあくまで可能性の話。

 もしもシンボリエウロスが、日本ダービーでの後遺症を完璧に克服し、脅威度を一切損なっていないものとする場合の話。

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 シンボリエウロスは、残り800mほどから足並みを持続出来ずに落ちた。

 ずっとずっと順位を下げ続け、最終直線310mでは最後方にポツンと一人取り残される。

 中山2500m。このレースでは、逃げや先行が圧倒的有利なのにも関わらず。

 

 シンボリエウロスは最後まで保たない。何処かで絶対に落ちて来る。

 

 故にその予想は確かに正しかったように見えて。

 しかし何処までも間違っている。

 

 ——かつて、皐月賞でメジロアルダンが立てた予測がある。

 

 シンボリエウロスは残り600mからしか仕掛けられない。

 残り1000m〜800地点で下手な攻勢をすれば、自分自身が多大な損害を被り、完走すら怪しくなる。

 その通りだ。確かに正しい。

 有記念に出走している全ウマ娘も、このレースを見ている観客すらも、凡そを把握しているシンボリエウロスの常識。

 故に知らない。

 

 シンボリエウロスは残り1000〜800m地点で、彼女の根本的な限界の縛りに一切触れず、場に干渉出来る戦術がただ一つだけある。

 

 あまりにも当然の事過ぎて誰もが忘れていて、だからこそ間違いなく初見でしか通用しない、騙し討ちのような一手。

 日本ダービーでやろうとして、しかし出来なかった事。

 ただ一つの場に干渉出来る戦術はただ、単純。

 シンボリエウロスは残り1000〜800m地点で僅かにも前へ詰められない。

 故に、彼女が取れる戦術は。

 

 ——後ろに下がる事。

 

 場の撹乱。

 自分がマークされている上での、周囲の脚を使うタイミングのずらし。

 また単純に、自分を追い抜かす為に外へ回るロスを後方に強要する事が出来る。

 特に、周囲の脚を使うタイミングをずらせるのが大きい。

 末脚のタイミングは、早くても遅くても大きく翳りを見せる。

 最終直線で伸びを欠く事もあれば、脚を余らせて末脚が間に合わなくなる事もあるからだ。

 

 ——でもまさか、そんな消極的なやり方を最後まで続ける気ちゃうよな?

 

 そう。

 しかしこの戦術は、あくまで消極的。

 敵のミスを誘う、弱い択である。

 事実今日の有記念では、全体のスパートのタイミングを左右したのはタマモクロスで、この選択肢は白い稲妻の手によってほとんど意味を無くした。

 何よりこの戦術は、下がる分の余裕がなければならない。

 

 最初から前目の位置取りをする。

 或いはあの日本ダービーのように、何処かのタイミングで前方のウマ娘達がペースを緩め、自分のみが同じペースを貫くような形で無理なく前へ出る必要がある。

 その上で、彼女はスパートを二段階の形に出来ない。

 速度を緩めるでも加速するでも、小刻みに行えば足並みが崩れる。

 シンボリエウロスの場合は負担が増してしまい、心拍数の増大に繋がり、呼吸のバランスが崩れる。

 

 彼女が残り1000m〜800mの場面で下がる事によって得られるメリットは、息を入れられる事。

 

 このメリットは、ほぼ意味がないと言えた。

 何せシンボリエウロスは喘鳴症。

 元から、残り600mが来るまで常に息を入れているようなもの。

 スローペースだと後方脚質の末脚勝負が不利になるように、彼女は既に全開で走っている。

 自分が不調で、末脚の切れ味に不安がある時に行えばそれなりに意味がある程度の話だ。

 ペースを下げ、再度息を入れ直しても、通常のウマ娘のように末脚の切れ味が増す訳ではない。

 

 今日、この瞬間までは。

 

 残り800mほどから位置を下げる。

 それによって得られた、カーブのキツイ中山で外目に交わさなくてはならなくなったウマ娘への距離ロスなど、所詮布石。

 

 シンボリエウロスは今、残り600mから仕掛けるのが難しくなった。

 

 800mから下がる。

 小刻みな加速による負荷を気にして長い間ゆっくりとペースを落とし、戻す必要がある。

 結果、スパートのタイミングが残り600mまでに戻らず後ろにずれ込んでも、関係ない。

 彼女は今日、上がり3Fで決める気がない。

 

 息を入れる意味がない。

 

 上がり3Fが彼女の最大にして最強の切り札であり、既に全開で走っている彼女にとって、今一度息を入れようが、もう末脚の切れ味が更に増す余地はない。

 しかし彼女は、あの日本ダービーで垣間見た。

 更に末脚の切れ味を増す意味、歴史上でシンボリエウロスにのみ許された余地を手に入れた。

 

 9.9秒。9.5秒。

 

 あの2Fを、もう一度出す。

 あの壁をまた越える。

 あのスピードの向こう側の感覚を、この世界でただ一人、私だけが知っている。

 故にシンボリエウロスは、あの世界に至る方法に相応しく、何よりも適した条件を付けた。

 

 それはルーティン。

 特定の条件。特定の動作。特定の縛り。

 こうなったら集中出来る。こうなったら——限界の先の先に行ける。

 

 シンボリエウロスは自らの内で、あの日の感覚を再定義した。

 

 残り800mほどからペースを緩め、息を入れ、脚を溜めて。

 残り400m。最後の2Fで一気に決める。

 今まで自分が開いていた領域とは——別の領域として。

 

『最終直線に入ったっ!!』

 

 斯くして——その領域は開いた。

 赤いマフラー。ただそれだけの。

 しかし想いの込められたそれが、不死鳥の翼のように揺らめく。

 

 空。それはいずれ、私達が辿り着く未知の象徴。

 故にその領域が、いずれここに至る誰かの領域を模したものだったのは必然だった。

 或いは彼女が、想いを背負った証だったのかもしれない。

 同じ夢を見て、同じ世界を共有して、彼女がそれを"継承"出来ない訳がない。

 

 Top of joyful(あの空の先へ)

 

 それは、青空。

 果てにまで続く蒼穹の世界に、"跳ぶ"ように手を伸ばす為の領域。

 

 Beyond the horizon(地平線の彼方へ)

 

 それは、燃え上がる炎。

 たとえ青空にいられなくなっても、不死鳥のように蘇る為の領域。

 

「………いや、いや」

「………本当か?」

 

 世界が変わる。

 世界が塗り変わる。

 その存在感に。

 その圧力に。

 タマモクロスが振り向く。

 オグリキャップが呟く。

 

「それは、おかしいやろ」

「キミは、そこから」

 

 心の何処で、やっぱり最後の最後まで警戒していた。

 エウロスのそれは、嵐の前の静けさにも似ていたから。

 

 でも。それでも二人は末脚自慢のウマ娘。

 ここから1F辺り、11秒台の脚を使う。

 11秒台前半の数字すら、出せる。

 

 その上で。

 普段の600mの半分程度しかない。

 残りたったの、310m程度で。

 

『本当に届かせる気か!?』

 

 シンボリエウロスは今、17バ身も離れた位置にいる。

 

 二人の声が重なった。

 その声は、今日出走しているウマ娘達の代弁でもあり、観客の代弁でもある。

 

 だがそれでも。

 シンボリエウロスは来た。

 今はまだ、誰しもが知り得ない未知の領域。スピードの向こう側から。

 彼女は翼を広げて、戻って来た。

 

『……シ、シンボリエウロスが……!!』

 

 青と赤。

 交じり合う二つの色は、空を飛ぶ不死鳥のように。

 無くした翼を炎で補って、彼女はまた。

 天を翔ける。

 

『——シンボリエウロスが来たッ!!』

 

 現在最終直線。

 残り310m。

 最後方。

 

 先頭まで、約17バ身。 

 




 
⚪︎Top of joyful
 トップ・オブ・ジョイフル。
 アプリゲーム版ウマ娘に於ける、トウカイテイオーの初期勝負服の名称。

⚪︎Beyond the horizon
 ビヨンド・ザ・ホライズン。
 アプリゲーム版ウマ娘に於ける、トウカイテイオーの新規二着目勝負服の名称。
 
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