有効射程距離25バ身   作:sabu

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12/25 第33回 有馬記念 5

 

 最終直線。残り310m。

 15名のウマ娘達の中で、凡その趨勢は既に決着していた。

 中山2500。小回りでカーブがキツく最終直線が短い故に、第4コーナーに入った時点での位置取りが大きく着順を左右する。

 

 現在先頭は僅かにオグリキャップ。

 しかし脚勢はタマモクロスが有利。

 

 この二人が争っている。

 有記念の勝利を競い合っている。

 

 そんな中で、一気に1着争いに入って来た例外。

 常識からもレースの展開からもかけ離れた、例外中の例外。

 最後方。シンボリエウロス。

 

 混沌とした最終局面。

 誰が1着に入るのか誰も分からないこの盤面で。

 尚も、更に動いたものがいた。

 

「……本当に、狂った時代だよ」

 

 白き稲妻は、想像以上であった。

 ダービーを制した灰色の怪物は、今や全てに優れたウマ娘に。

 そして、この世代の風は、それでも戻って来た。

 正直に言うなら、面を喰らったと言う他ない。

 それでも。

 

「——おかげで息は入った……!!」

 

 彼女の名前を忘れてはならない。

 彼女はディクタストライカ。

 現環境に於けるマイラー最強にして、彼女を語るには各時代の優駿達と比べなければならないほどの逸材。

 現在9番手。先頭から凡そ6バ身ほどに位置する彼女は、二つ名を付けられた末脚を使う。

 蹴脚。弾丸シュート。自らが確かに辿り着いた、領域と共に。

 

『外からディクタストライカ! 外から更にディクタストライカも来たぁぁ!!』

 

 二つ名を付けられるウマ娘は数あれど、彼女は末脚そのものに二つ名が付く。

 それほどに特徴的。或いは圧倒的。

 

 スローペースに於ける展開が二つに分かれているように、末脚の使い方は凡そ二つに分かれる。

 800m近い距離のロングスパートか、600mの上がり3Fで決めるか。

 後者は、最終直線の距離やカーブが小回りであるかどうかにも左右されて、距離は短くなる。

 長く良い脚を使う捲りか、短い距離を一瞬で詰める直線一気か、という形だ。

 

 そしてこの両者は、求められている適性と才能の方向性が真逆である。

 ステイヤーが、一瞬の切れ味に欠けるように。

 シンボリエウロスが、ロングスパートを行えば自滅するように。

 

 その上で、そんな常識を無視したウマ娘がディクタストライカだった。

 

 彼女はロングスパートのように末脚も使え、瞬間的な直線一気の末脚も使える。

 何より彼女は、一度だけ33秒台の世界に到達した事がある。

 今年の7月。夏シーズンを迎えトゥインクル・シリーズが一気に休眠する中で開催されたレース。芝1800。中京レース場。G3中日スポーツ杯。

 1800mのレースで、1000m通過タイムが62.1秒という超スローペースもあってか、ディクタストライカは上がり3F33.9秒という凄まじい記録を叩き出した。

 

 彼女は、気性難。

 ステイヤーの身体にスプリンターの魂とすら呼ばれるほどの、身体と精神がチグハグであったウマ娘。

 故にムラはある。戦績は安定していない。

 だがもしも、そのチグハグさが噛み合えば。

 彼女の爆発力が齎す末脚は、現役最強をも凌駕する。

 

「どいつもこいつも最高だよ!! もう出し惜しみはしねぇ! ここから最大火力だ!!」

 

 行ける。

 今なら34秒台を超えて。

 今日ここでも、あの33秒台の脚を。

 トリガーが引かれ、弾丸が飛んだ。

 バチバチと、弾ける火花のような領域が迸る。

 

『これはディクタストライカの末脚、弾丸シュートだぁぁっっ!!』

 

 タマモクロスとオグリキャップが先頭付近で競り合い続け、シンボリエウロスが一気にレースの趨勢に踏み入って来た。

 更にその領域に入るは、驚異的な末脚を誇るディクタストライカ。

 

 展開に絡む凡そ4人が、主に末脚勝負を決め手とするウマ娘達という凄まじい様相を示すこのレースに、観客の声が一気に沸き上がる。

 逆に、優勝を狙える位置と確かな脚を持っているにも関わらず、厳しいレースをしているのはスーパークリークだった。

 

 ——そんな……皆が、これほどだなんて……!!

 

 スーパークリークは、高速ステイヤー。

 本来、末脚の切れ味は鈍い事が多いステイヤーの中で、彼女は確かな速さの末脚を持つ。

 正に時代の特異点。ステイヤーという存在を一つ上に引き上げた側のウマ娘。

 あぁ。しかし彼女も、万能ではなかった。完璧ではなかった。

 あのオグリキャップにも弱点と適性の限界があり、シンボリエウロスにも弱点と適性の限界があるように、スーパークリークにもまた。

 彼女は、やはり何処まで行ってもステイヤー。気性の問題もある。

 スーパークリークは展開に乗り遅れた時、一気に巻き返せる気質に欠ける。

 道中、展開の切れ目に一手乗り遅れた余波が、未だ脚に響いている。

 彼女のロングスパートは既に限界一歩手前で、今から更に末脚を使う余力がない。

 今まで3番手付近を走っていたスーパークリークは、どうしてもここから、更に前へ順位を押し上げる事が出来ない。

 

 残り250m。

 

 ディクタストライカが7番手。先頭まで5バ身にまで上がる。

 そしてシンボリエウロスは、この刹那で一気に3バ身以上の距離を詰めて、先頭まで約14バ身の位置に迫る。

 

『シンボリエウロスが一気に迫る! 速い! 速い! これは分からない! ディクタストライカも来た! 外からディクタストライカも来た!』

 

 脚脚の趨勢は、凡そが決まり始めた。

 ロードロイヤルは既に4番手ほどにまで落ち、スーパークリークは更に順位の押し上げを図る事が出来ない。

 正面で競り合いを続ける芦毛の両名。

 後方からは末脚を以って迫り来るディクタストライカとシンボリエウロス。

 彼女達の中で、誰が来るかの勝負になった。

 

「————」

 

 そんな中で、勝敗から外れた位置に彼女はいた。

 彼女はそれでも目の前を見続け、それを受け取め続け、必死にもがいていた。

 シリウスシンボリ。11番手。先頭から凡そ8バ身。

 

 彼女は今まで、一度足りとも領域を開いた事がない。

 

 それはいつだって感じて来た。

 全て自分以外の周りから。

 マルゼンスキーに、ミスターシービー。そしてあの、シンボリの姉妹からもずっと。

 世界と渡り合い、国外でも幾度となく感じて来た。何度も見て来た。

 領域が開く。

 その感覚を、誰かが世界に風穴を空けるような感覚を、シリウスシンボリは知っている。

 自らで開いた感覚だけが、何もない。

 

 何故だ。どうして私だけが。

 あの世界に、届かない。

 

 彼女の目の前には、常に扉があった。

 皇帝が君臨する王座から離れ、王城を隔てる鉄の扉。

 その扉が、どうしても蹴破れない。

 硬く冷たい扉の先に、どうやっても彼女は行けない。

 

 一番近かったのは、凱旋門賞。

 

 残り800m。

 フォルスストレート。長い長い、偽りの最終直線に入ったあの瞬間。

 シリウスシンボリは確かに領域に触れた。近付いた。そして形になる事なく解けていった。

 

「………あぁ、そうかよ」

 

 思い出すのは前走。ジャパンカップ。

 あの時、たった一人のウマ娘が道化を演じてまで開いた、不完全で不恰好で、今にも消えかかっている灯火のような領域。

 

「私は、時代を創る側のウマ娘じゃなかった……」

 

 日本ダービーを勝って、海外へ飛び出して。

 そして本当なら、多分シリウスシンボリの栄光はそこが最高到達点だった。

 彼女は開拓者であっても、未だ海外G1の勝ち星がない日本の歴史に終止符を打つほどの開拓者ではなかった。

 彼女はきっと、時代を創る側ではなく、誰かに時代を託す側のウマ娘だった。

 だから彼女は、領域に至る事が出来なかった。

 

 いつだって目の前にあった、冷たく硬い鉄の扉。

 その先に、何よりも輝く一等星がある。

 ずっと、それを信じて進んで来た。

 今もまだ、その確信だけはある。

 

 今日で、シリウスシンボリは引退する。

 

 きっともう、走る事はないだろう。

 ここで最後なのだ。

 だから。

 

「一回だけで良い」

 

 その一等星を見られるのなら、二度と忘れない。

 

「もうここで終わっても良い」

 

 あの日の思い出を。あの時抱いた情景を。

 もう無下にはしない。

 斯くして。

 

「だから——開け」

 

 鉄の扉は——重い音を立てて開いた。

 彼女の想いは、魂に刻まれた運命すら捻じ曲げてみせた。

 それは今日この日。この瞬間。この場だけの限定。

 それはオベイユアマスターが開いた——時代を創る側ではないウマ娘が到達した、歪な領域。

 

 その領域は、玉座を中心とした世界。

 

 雷霆迸る玉座。

 偉大なる記録と記憶に塗れた王城。

 その城塞の扉を内側から蹴破り、一等星の輝きで塗り潰す。

 

 ——セイリオス(Σείριος)

 

 意味は、光り輝くもの。 

 海外を飛び回ってまでシリウスシンボリが探し続け、そして目指し続けた果ての空。

 今までずっと開かなかった鉄の扉の先には。確かにあった。

 空に煌々と輝く、燦然たる一等星が。

 

「—————、———」

 

 そして。

 その領域は幻のように、泡沫の夢のように、静かに消えて行った。

 自分の脚の骨から響いて来た、バキッという音と共に。

 

『ここでシリウスシンボリが伸びない! ここでシリウスシンボリが伸びないっ!! シリウスシンボリがバ群に呑まれる!』

 

 シリウスシンボリの首が、ガクっと下がる。

 その表情には苦い悲嘆と、しかし自らの運命を受け入れたような切ない笑顔が浮かんでいた。

 今まで保った方なのだろう。

 シニア3年目で、故障もして、そしてまだ走っていた。

 毎日王冠で奇跡の復活をしたあの時から、シリウスシンボリは限界の先の先にいた。

 

「渡さねぇよ。これは私のモンだ」

 

 空に輝いていた一等星。

 あの世界は、自分一人だけのモノ。

 たとえ誰であっても、何があっても、この輝きだけは渡さない。

 

「でも……扉は開いてやったんだ」

 

 だから。

 

「行け。お前はやっぱり……玉座に踏ん反り返っているのが似合っている」

 

 落ちるシリウスシンボリの横を。

 一陣の風が貫く。

 

 ——うん。

 

 雷霆の如く迸る、紫電と共に。

 

 ——分かった。

 

『シンボリエウロスが迫るっ!! シンボリエウロスが更に速度を上げて来た!』

 

 先頭が今、中山の急坂に入ろうとするその瞬間、シンボリエウロスは更に速度を上げる。

 周囲に放たれる暴威に等しき力は、奇しくも『白き稲妻』タマモクロスの領域に似ていた。

 多大なる圧力と存在感。一人、二人。そして三人。

 最終直線での勝負に乗れず、落ちて来たウマ娘達を貫くたびにその圧力は増していく。

 

 Lord of emperor(汝、皇帝の神威を見よ)

 

 それは天高き王城。

 雷霆迸る玉座。

 皇帝と呼ばれたウマ娘が支配していた、並ぶもの無き孤高の領域。

 

 残り200m。

 先頭まで約11バ身。

 シンボリエウロスが、更に迫る。

 

『先頭並んだ! 遂にタマモクロスがオグリキャップを捉えた!!』

 

 真正面では、遂にタマモクロスの脚がオグリキャップを上回ろうとしていた。

 或いは、ようやくとも言える。

 当初の最後方。タマモクロスは向こう正面から始め、第4コーナーからずっと追い抜くつもりで仕掛けているにも関わらず、まだオグリキャップは粘っている。

 タマモクロスも、限界に近かった。

 だがそれは全てのウマ娘に言える事で、オグリキャップだってもう限界な筈だった。

 

「これで終いや!! オグリキャップ!!」

 

 更には後方からは幾人の後輩。世代を代表する怪物達。

 タマモクロスの一つ下の世代は、凡そ考えられないほどの魑魅魍魎の集まりだった。

 だからこそ、ここでオグリキャップを越えて、他の全員も越えなくてはならない。

 日本一のウマ娘。その名を得るには決して避けられない壁の為に。

 

「まだだ……」

 

 そして、オグリキャップもまた。

 

「まだだ……っ!!」

 

 残り200m。

 彼女は来た。それは二段階のスパート。

 そして今、中山の急坂に入る。

 

『しかし、しかしオグリキャップ! まだオグリキャップも粘る。いや、いやタマモクロスから一歩抜けたか!!?』

「なんや……ここで………っ!?」

 

 ほんの一歩程度だった。

 それでもオグリキャップが、このタイミングで一歩前に抜けた。

 そうだ。二段階という形でスパートを使えるオグリキャップは、ストライドとピッチの調整に長けている。つまり坂を走るのが上手い。

 その僅かな差が、彼女を前に導いている。

 

「……何やねん、全く………大した奴やな」

 

 その姿に、タマモクロスは呟いた。

 思えば、最初からそうだった。

 それはきっと、タマモクロスだけの情景。

 最初は何処にでもいるウマ娘でしかなくて、重賞レースすら遠くて。

 それが変わった、きっかけ。

 

 地方で、オグリキャップのレースを見た。

 追い詰められ、限界を迎えた状態で。

 それでもその先を渇望する、オグリキャップの姿を。

 

 それから何となく思っていた。

 コイツとはきっと闘う事になる。

 いつかきっと、ウチの宿敵となる。

 

 あぁでも、そんな想いは少し、違ったのかもしれない。

 

 クラシック戦線に乗り遅れ、世代の中心だった同期のサクラの王は悲劇的な引退を遂げ、タマモクロスは同期というものにあまり恵まれなかった。

 だがしかし、オグリキャップはその生き様を以ってクラシック街道を突き進み、同世代のウマ娘達に恵まれた。同期の中心であった風は、今戻って来た。

 周りは後輩だらけ。

 今こうして走っている中で、レースの着位に関わるほどウマ娘が、ほとんどタマモクロスの一つ下の世代。

 だからこそオグリキャップは、タマモクロスと同じ街道を歩まなかった。

 

 それは運命のすれ違い。

 オグリキャップがクラシック街道を進んだからこそ、決定的には交わらず、互いに沿うように進んだ、芦毛と芦毛の運命。

 

 ——あぁ、悔しいなぁ。

 

 何にかは、分からない。

 きっと運命としか言いようのないモノの流れだ。

 そこにタマモクロスは、少しの憐憫を感じる。

 

 ——でもまだや……! まだ諦め切れへんっっ!!

 

 それでもまだレースは終わっていない。

 道はまだ、前に続いている。

 タマモクロスは、それでもゴールまで突き進んだ。

 

『オグリキャップが優勢!』

 

 ほんの僅かなクビ差程度の距離で2番手、タマモクロス。

 3番手にはスーパークリーク。1バ身程度の距離。

 だがその距離が、スーパークリークにはどうしても覆せない。

 

 更に外からは、シンボリエウロスが一気に迫る。

 あの日本ダービーでの2Fを思い出すかのような、異次元の末脚。

 最も速いウマ娘の、その称号に恥じない埒外のスピード。

 残り100m。

 先頭まで5バ身。

 

 そして。

 

 ——クソ……クソッ!! 後もう少し、後もう少しなんだっっ!!

 

 4番手。ディクタストライカ。

 スーパークリークとほとんど同じ位置を走る彼女は、自分の脚を限界以上に使っており、しかしそれでも前に上がっていけないままだった。

 少しずつ、近付いてはいる。

 だがそれだけだ。このままではオグリキャップやタマモクロスに追い付けない。

 33秒台の脚を使えていない。

 その理由はただ一つ。

 

 ここが、中山の2500mだからだ。

 

 中山競場。

 小回りでカーブがキツイ為、速度が落ちる。

 故にコーナーではペースが緩み、息が入る。

 だからマイラーのオレでも勝負出来る。

 ディクタストライカは、そう判断していた。

 

 それは少しだけ正しくて、他が全て違う。

 

 有記念は決して、マイラーの世界などではない。

 何より理由は、繰り返される起伏と小回りなコーナー。

 中山2500はそのコースの特性上、要所要所でストライドとピッチの調整が必要であり中々速度が出ないだけで、スローペースで息が入り易いという意味ではない。

 

 有記念は2500m。

 しかしこのトリッキーなコースでは、坂やカーブなどの要所要所で上手く脚運びを行う必要があり、それが出来ないウマ娘はむしろ3000mを走るレベルで体力が削られる。 

 故にそう。例えば——スパートを二段階で行えるような、そんな小刻みな加速が出来るウマ娘にとって、この有記念は真価を発揮出来るコースであった。

 

 ディクタストライカの言ったような、マイラーでも勝負出来る。

 

 それはスパートを小刻みに行えるような才能を持ち、ストライドとピッチの調整に長けたウマ娘に言える事。

 その才能を持たないウマ娘は、有記念は3000mの長距離に匹敵するほどに消耗し、しかし逆にスパートを二段階で行えるようなウマ娘は、本当にコーナー等で息を入れる事が出来る。

 最も調子を発揮出来るのが1600mのマイラーでも、確かに勝負が出来る。

 

 ——クソ……! チクショウ……っ!! 何故だ! 後、後もう少しで……!!

 

 それがディクタストライカとオグリキャップの、マイラーとしての差だった。

 あぁ悲しいかな。彼女はマイラーとしての世界なら、あのアキツテイオーを上回り、きっとオグリキャップすら上回っていた。

 もしかしたら史上最強マイラーの論争に名前すら上がるだろうほどのウマ娘だった。

 そして同時に、彼女はやはり何処までも気性難で、小刻みに脚を使って加速する才能だけがなかった。

 

 ステイヤーの身体に、スプリンターの魂。

 

 身体と気性がチグハグで、それ故に全てが噛み合った時の爆発力は現役最強を越えるほどで。

 彼女は一度火が付いたら、止まらない。

 最初から最後まで行ったきりで、二段階で末脚を使えない。使った事がない。

 ディクタストライカはただ、有記念という舞台では致命的に相性が悪かった。

 

『今坂を駆け登った!!』

 

 そして今日、このレースにはもう一人いる。

 右脚の後遺症故に、常に適した走法で走る理論上の極みに目覚めるしかなく——しかし本当に目覚め、間に合わせて来たウマ娘。

 

『——シンボリエウロスが来た!! シンボリエウロスが迫って来たっ!!』

 

 それは、等速ストライド。

 ストライドとピッチの完全なる調整。

 如何なる条件下であっても全力の脚を使う自在の脚。

 彼女の理論上の走り方は、常に右脚の歪みを考えなくてはならないウマ娘が至った物だ。

 もはやそれは、右脚に明確な後遺症があるウマ娘特有のもの。

 誰もが使えるものではなく、本来の形からはかけ離れている。

 何より等速ストライドで得られる利点のほぼ全てが、脚に残る後遺症と相殺している。

 

 それでも。

 シンボリエウロスは今、その走法の副産物として、確かに中山の適性を手にしていた。

 中山の急勾配を前にして、しかし一切の速度が翳る事なくシンボリエウロスが迫る。

 

『僅か3バ身! もう3バ身!!』

 

 中山の最後の試練。

 高低差2.2mの坂が終わる。

 残り70m。

 シンボリエウロスが今、最後まで粘り続けていたスーパークリークを貫く。

 

 実況の言葉はもう、間に合わない。

 その瞬間には既に、順位も距離も変わっていた。

 

 残り50m。

 後もう一歩で、芦毛の両名に届こうとしているディクタストライカを貫く。

 先頭まで残り、2バ身。

 

『届くか! 届くか! 前に届くか!! これは届くか届くのか!!』

 

 残り30m。

 重なる。今も尚、熾烈な競い合いを繰り広げるオグリキャップとタマモクロスの、その影に触れる。

 ほんの僅かに。頭一つ分だけオグリキャップが前。

 残り、1バ身。

 熾烈なデッドヒート。

 まだ、勝敗が分からない。

 

「——行けぇぇぇーーッッ!!!」

 

 その時、もうすぐという時。

 一人の小さなウマ娘の声が響き渡った。

 翼のような赤いマントを背負った、少女の声だった。

 

 それは条件。本当の条件。

 空の先の景色。その領域の輝きが更に増す。

 青空が広がる。跳ぶように伸ばしていた手が、蒼穹の果てにまで辿り着く。

 彼女にはやっぱり、空を飛んでいるのが似合っていた。

 

『これは——』

 

 そしてきっと。

 それが最後の一押しとなった。

 だってウマ娘は、想いを背負って走るのだから。

 今日、その事を。

 きっと誰も疑わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

着順枠番名前タイム上り着差
112シンボリエウロス   2:34.131.8  
2 23オグリキャップ    2:34.235.3 ½バ身
3 6 10タマモクロス     2:34.234.9アタマ
4 47ディクタストライカ  2:34.335.01バ身
511スーパークリーク   2:34.335.5 ½バ身

 

 

 

 シンボリエウロスは、確かに先頭を貫いた。

 オグリキャップを越えて、そして越えてから一歩も寄せ付けなかった。

 

 

 

×        ×         ×        ×

 

 

 

 ゴールを迎えた先で、一瞬の静寂を挟む。

 刹那、弾けるような歓声が中山レース場を揺らした。

 掲示板に叩き出されたその記録と着順が、何よりの証拠。

 天翔るウマ娘は、また空を飛んだのだ。

 

『——ッ、本当に届いた!! 本当に届きましたッ!!! シンボリエウロスが1着!! シンボリエウロスが1着ですッ!!!』

 

 掲示板には表示されていない彼女の上がり2Fは、9.9と9.5。

 そのあまりの異次元の速さに、3F目が12秒台にも関わらず上がり3Fのタイムが31秒台の域に到達しているという規格外の数字。

 その上で、今日は極めて激しい接戦だった。

 1着から5着までには、凡そ2バ身程度の差しかない。

 今までの歴史の中で、極めて群雄割拠の有様を誇ったこの有記念は、その最後の結果まで熾烈な争いを繰り広げ続けていたのだ。

 

『本当に………本当にッ………戻って来た! また空を飛んで、天翔るウマ娘が戻って来た! この有記念で、シンボリエウロスがまた空を飛んだ!!』

 

 また、あの壁を越えて。

 越えた上で、確かに戻って来た。

 段々と解けていく領域の残滓はまるで夢から現実に戻るようで、そしてシンボリエウロスは確かに、現実の脚でそこに立っている。

 折れる事なく、故障する事もなく、あの壁を越えた上で正しく現実に戻り、芝の上に立っていた。

 

 10.0の壁。

 

 この一つ手前の壁でも、多くのウマ娘が壁を越えては戻っては来なかった。

 そしてシンボリエウロスは、あの日本ダービーを経て、今日の有記念を越えて、10.0の壁から本当に現世に戻って来た、最初のウマ娘になった。

 

「……………」

 

 天を仰ぐ。

 聞こえて来る大歓声の中に、確かに自分が勝利したのだという自覚がある。

 そしてやっぱり。今日ここで自分が勝った事で、誰かの夢は叶わなくなっただろう。

 悲しんで、悔しく思う人もウマ娘も確かにいる

 その全てを仕方ない事だと思うのは、多分間違いではなかったけど、正しい事でもなかった。

 

 シンボリエウロスは天高く拳を突き上げ、二本指を立てた。

 

 それは勝利のVサインだったか、或いはクラシック期で自らが手にしたG1の数だったか。

 もしくはあの日、あの日本ダービーで掲げる事の出来なかった二本指だったか。

 

「トレーナー」

 

 足早に向かう。

 観客席の一つからこのレースを見ていた、自分のトレーナーの元に。

 

「勝って来ました」

「………はい」

「もう本当に、大丈夫だと思います」

「………は、い」

「やっぱり、これからもずっと私のトレーナーで居てくれますか?」

「………っはい——」

 

 きっと樫本理子トレーナーも、ずっと悩んで苦しんでいた。

 日本ダービーで負けて、それからずっと気にしていた。

 彼女はトレーナーだ。担当を勝利に導く為に全てをかけて、本当なら勝てる筈だったかもしれないと何度も思い詰めていた。

 そんな風にトレーナーに迷惑をかけて、これからもきっと色々な事で悩ませる。

 その上で絶対に、私のトレーナーを辞めないで欲しい。

 我儘で独占的な感情。

 それを偽るほど、シンボリエウロスは奥手なウマ娘でもなかった。

 

 そして。

 

「テイオー君」

 

 彼女も、すぐ隣にいた。

 多分あの後、樫本理子トレーナーに見つかって、しっかり怒られて、しかし首元に巻いた赤いマントに凡その理解を示して、ここまで連れて来られたのだろう。

 

「ちゃんと勝って来ましたよ」

「ぅ……ぅえぇぇぅ………」

 

 返事がない。

 彼女が泣いているからだ。

 

「……また私が空を飛んだら、泣き止んでくれると言っていたのに」

「う゛う゛う゛うぅぅ……た゛っ゛て゛え゛えぇぇぇ!」

「ほら。にこー」

「や゛め゛て゛ぇ゛ぇ゛!!」

 

 人差し指でグイっと口角を上げようとすると、普通に拒否された。

 かなりショックを受ける。

 そして同時に、今気付く。

 どうやら自分は、泣き落としに弱いらしい。

 悲しくて悔しくて泣いているのではなくて、感極まっているから泣いているのだと分かっていても、何というか、トウカイテイオーが泣いているのは凄い心に来る。動揺である。

 泣かないで欲しい。ずっとずっと、元気一杯に笑っていて欲しい。

 

「あの、トレーナー。どうしましょう。何とか出来ませんか。何とかしてください」

「それは……まぁ良いのですが」

 

 関係者以外立ち入り禁止……ではあるがもう、シンボリエウロスが明らかに懐に入れているし、勝負服の赤いマントを渡しているし、更には多分この少女の物らしきマフラーを着けているし、正直その辺りは何とかなる。

 

 ただ問題はそこではなく。

 

「あの、この子とは一体どんな関係が……?」

 

 ウマ娘だが、明らかに一般人。

 まだ中央トレセン学園に通ってはいない小学生だろう。

 そんな子がどうして、ここまでシンボリエウロスの懐を開く事に成功しているのか。

 謎が多かった。

 

「そうですね、この子は」

 

 泣き止まない少女の背中をさすりながら、何処か忙しなくおどおどとしていたシンボリエウロスが、不意に遠い目をして答える。

 

「トウカイテイオー。いつか必ず、私も姉上も越えてくれる子です」

 

 自信満々に。

 そして嬉しそうに笑って、シンボリエウロスは言った。

 

 晴れ渡る青空のような。

 そんな笑みだった。

 





 次話でクラシック編が終了し、連続投稿も止まります。
 もう一話お付き合いください。
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